序章 穏やかな日常 01
瞼に朝の光が当たったことで、暗く深く、だがとても心地よい空間から引きずり出されてしまう。
眩しい。
まだ覚醒したくない。
小鳥は元気に歌っている。多くの村人達も既に起きて、それぞれの作業を始めただろう。
でもそんなことはどうでもいい。鳥や他人を気にしてどうする。
布団の中という、まるで東方宗教の中に出てくる極楽浄土のような空間から、どうして出ないといけないのか。
出ない。絶対に出ないぞ。何があっても出ないぞ。そう心に決め、布団の中へ頭を沈める。
「ジュンキ、起きて。今朝の小鉢が冷めちゃうよ」
布団を揺らしてくる妻。どんなに愛おしくても、今だけは邪魔だとつい思ってしまう。それ程までに、朝の布団の中は心地よい。
「…仕方ないなぁ」
布団の脇に立つ妻は諦めたのか、布団から手を放したようだ。これでもう少し眠っていられる…はずもなかった。
「起きろーっ!」
「だああっ!?」
布団を「剥すこと」を諦めた我が妻は、容赦なくベッドのシーツを引っ張り抜いた。竜の血が流れている影響か、半端ない力で引き抜かれたシーツによって、俺は石畳の上に腰から落ちてしまった。
「痛っつ~!朝から何するんだよ、クレハ!」
「ジュンキが起きないからでしょ?」
ジュンキは腰を右手で擦りながら涙目で睨んだが、クレハはいらずらな笑みを崩さなかった。
「さ、今朝も作ってみたから、食べて食べて」
「もう少し起こし方ってものがあるだろ…」
ジュンキは薄い茶色の髪を掻きながら立ち上がり、隣のキッチンへと歩き出す。
「起きなかったら叩き起こしてって言ったのはジュンキだよ?」
「それはそうだけど…」
クレハの言葉に上手く言い返せないジュンキは、苦い顔をしたまま小さなテーブルに着く。そこには料理が一品だけ置かれていた。
クレハもジュンキと向かい合うように座る。
「さあ、どうぞ…!」
ここでクレハの顔が引き締まる。今朝もクレハは私服が汚れないように簡素なエプロンを身に着け、長い青色の髪が邪魔にならないようポニーテルにまとめて三角巾を巻いた料理人姿だ。
そう、このテーブルに置かれている一品を作ったのはクレハなのだ。
「じゃあ、いただきます」
テーブルの上に置かれた小鉢の中身は見た目こそ何の変哲もないベーコンエッグだが、ジュンキは知っている。クレハは料理がお世辞にも上手とは言えないことを。
だがクレハはそれでも料理を作りたいらしく、こうして毎朝ジュンキに一品作ってくれている。
「今朝はどう…?」
ジュンキが卵焼きと焼きベーコンを口に含むと、クレハは自信無さそうに尋ねた。
ジュンキはすぐに答えず、よく噛んで味わい、飲み込んでからハッキリ言う。
「…駄目だね」
ジュンキの感想に、クレハはテーブルに突っ伏してしまう。そこから顔だけを上げて唇を尖らせた。
「今日も駄目だったかぁ…」
「まあ、最初の頃よりは格段に美味しくなっているよ」
ジュンキの言葉に、クレハは頬を膨らませる。
「はあ…。料理、上手になりたいなぁ…」
「練習あるのみだよ。俺ならいくらでも試食するから、頑張れ」
ジュンキはそう言うと立ち上がり、空になった皿を流し台へ置く。クレハもエプロンと三角巾を脱ぎ、ポニーテルを解いた。
「それじゃあ朝食に行こうか」
「うん!」
ジュンキとクレハは手を繋いで家を出る。ジュンキやクレハは料理が苦手なので、1日3回の食事はいつも村の集会場なのだ。
1日の始まりにクレハの料理練習に付き合う。それがジュンキの日課だった。
竜の王ミラルーツの画策した人間駆逐計画を阻止してから半年。
結婚した2人は活動拠点をジュンキの育ったココット村に移し、穏やかな毎日を過ごしている。
朝食を済ます為に集会場へと向かったジュンキとクレハは、集会場の前でのんびり煙草を吸っている村長を見つけた。
「おはようございます、村長」
「おはよう、村長さん」
ジュンキとクレハの朝の挨拶に村長は笑みを浮かべ、そしてまるで太陽を直視しているかのように目を細めた。
「んん、おはよう…。オヌシ達は相変わらず仲睦まじいのぉ~」
「えへへ~」
村長の言葉にジュンキは微笑み、クレハは顔を赤くして嬉しそうに笑った。
集会場の中は朝早いということもあってか、客は誰もいなかった。
2人は適当なテーブルに着くと、注文を取りに来た給仕に日替わり朝食セットを頼む。
「今日はどうしよっか」
クレハはグラスに注がれた水を一口飲み、今日のこれからについてジュンキに尋ねた。
「ん~、そうだな…」
クレハの問い掛けに、ジュンキは腕を組んで考える。
「…クレハは何をしたい?」
しかしジュンキは何も思いつかなかったので、クレハに聞き返してみることにした。
すると、クレハも腕を組んで考え込んでしまう。
「…何も思いつかないよ」
「…だな」
ジュンキはクレハの言葉に頷くと、クレハは組んだ腕をテーブルに乗せ、その上に自分の顎を置いた。
「毎日を穏やかに過ごしたい。だからココット村に来たのに…」
「穏やかすぎて暇だな」
ジュンキの言葉に、クレハは苦笑いしつつも無言で頷いた。
ミラルーツとの戦いを終えて、肉体的にも精神的にも疲弊したジュンキとクレハ。穏やかな日々を願い、いざそれを手に入れると、今度は以前のような忙しくて騒がしかった毎日が懐かしく思えてしまう。なんて身勝手なことだろうか。
「俺たちハンターに、緊張感の無い生活は似合わないな」「そうだね。生きるためにモンスターを狩っていた、あの頃が懐かしいよ…」とは、昨夜の会話である。
「ねえ、ジュンキ…」
「ん…?」
「人と竜の争いって終わったの…?まだ終わってないよね…?」
「…」
クレハの言葉に、ジュンキは視線を落とす。
「ミラルーツは、竜の世界を守るために人の世界を滅ぼそうとしたんだよね。私たちは人の世界を守るために、ミラルーツを倒した。でも、全てが解決したわけじゃないよね…?」
「…ああ。まだシュレイド王国軍の件が残っている」
シュレイド王国軍。忘れるはずもない。
今まで竜人であるジュンキやクレハ、ショウヘイにチヅルを執拗に追い駆け、捕えようとしてきた国家組織。ジュンキ達が暮らすシュレイド大陸を治めているシュレイド王国の軍隊だ。
そのシュレイド王国軍が竜人を捕えようとし、またこの世界から竜を滅ぼすことを目的に動いている。
一体なぜ?目的は?
ここでクレハは何かに気付いたようで、突然身体を起こした。
「ザラムレッドやセイフレムのところに行ってみない?何か知ってるかも」
「…そうだな。そうするか」
「うん!そのためにも、まずは腹ごしらえだね」
クレハは料理が運び込まれる様子を見てそう言い、まだテーブルに置かれていないのにフォークとナイフを手に取った。