「はぁ…」
その日の午後。クレハはミナガルデの街の酒場でカウンターに身体を預け、組んだ腕の中に顔を埋めていた。
30分程はその状態のまま動いていないのだが、それにはある理由があった。
事はクレハがそのような状態になる直前に起きた。
クレハが現在、唯一のパーティメンバーであるジュンキと一緒に昼食を摂っていると、この酒場の給仕であるベッキーがクレハの耳元で小さく、しかしとんでもないことを言ったのだ。
ベッキーの言葉に動揺したクレハはその場で取り乱してしまい、ジュンキに心配を掛けてしまったのだ。
それからは正面に座っているジュンキの存在を強く意識してしまい、満足に食事が喉を通らなかった。
やがて昼食を終えると、クレハはジュンキと一緒に酒場を後にした。しかし、隣にジュンキがいると意識するだけで胸の鼓動が早まり、顔が赤くなってしまう。
そこでクレハは個人的な用事があるとジュンキに嘘を言い、再び酒場へと戻ってきて、今に至るのである。
コト、と軽い音が耳元で聞こえたので、顔を少しだけ上げて横を見ると、そこには水が入ったグラスが置かれていた。
「いつまでそうやっているつもりなの?」
頭の上から聞こえてくる声に身体を起こすと、呆れ顔のベッキーがそこに立っていた。
クレハは思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「誰のせいで私がこんな想いをしていると思って…」
「何か言った?」
騒々しい酒場の隅から隅までの客の注文を聞き取るベッキーの耳は、クレハの小さな愚痴を聞き逃さない。
「何も…」
ベッキーが用意してくれた水入りグラスを手に取り、一気に飲み干す。冷たい水が火照った身体を、焼けた思考回路を冷やしてくれる。
そんなクレハの様子を見たベッキーは不気味なくらいの笑顔を作り、カウンターから身を乗り出してクレハの耳元で呟いた。
「け・っ・こ・ん…。しないの?」
ベッキーの言葉に、クレハは危うくグラスを落としそうになった。
グラスをテーブルに置き、ベッキーを睨む。
「ベッキー!」
「ふふふ、ごめんなさい。だって見ちゃったんだもの。クレハちゃんとジュンキ君のキ―――」
「わあああああっ!!!」
クレハは顔を真っ赤にし、声を張り上げて立ち上がり、慌ててベッキーの口を両手で塞いだ。
ベッキーには以前、街中で白昼堂々ジュンキとキスしようとしていたところを目撃されているのだ。
ベッキーはカウンターの内側へと下がることで、クレハの口封じ攻撃から逃れる。
「まあ、冗談はさておき…。私は真剣なのよ?」
ベッキーの言葉にクレハは「どこが真剣なのよ…」と不信感を丸出しにしたが、結局は眉間に皺を寄せるだけに留め、椅子に座り直した。
「ハンターっていうのは職業上、死と常に隣り合わせ。早めに気持ちを伝えないと…。後は分かるわよね?」
ベッキーの言葉は腹立たしいくらいに真剣だった。確かにハンターは職業上、いつ不慮の事故で死んでしまうか分からない。
それについてはクレハも同感である。実際、クレハは大切な仲間をひとり失っているのだから。
クレハはため息をひとつ吐くと、ベッキーが改めて入れてくれた水を再び口に含んだ。
そこでふと昔のことを思い出し、周囲を見渡す。
(そういえば、初めてジュンキと出会ったのもここだっけ…)
初めて訪れたこの街に戸惑っていた時のことだ。
その時も酒場のカウンターで給仕をしていたベッキーは「この人からパーティとしての狩りを教えてもらうといいわ」と言って、わざわざ遠くの街からジュンキを呼び寄せてくれたのだ。
「…ねぇ、ベッキー」
「なぁに?」
「ベッキーが、ジュンキを紹介してくれたんだよね」
クレハの言葉にベッキーは「はて…?」と考える素振りを見せたが、すぐに思い出したようで、微笑みを浮かべた。
「確かにそうだったわね。あれから1年と半分…。随分と進展があったように思えるけど?」
ベッキーの言葉に、クレハはムッと睨み返す。
それは初めてジュンキと出会った時に、ベッキーが「夫婦みたい」と冗談を飛ばしたのだ。
その理由としては、ジュンキがリオレウスの防具を装備し、クレハがリオレイアの防具を装備しているという、ただそれだけのことだった。
「まさか冗談のつもりが、ここまで発展するとはねぇ~…」
「もう…」
これ以上この場にいるとベッキーの言葉に耐えられそうにないので、クレハは酒場を出ることにした。椅子から立ち上がり、ベッキーに「ごちそうさま…」とだけ言い、酒場を出る。
背後から「ジュンキ君にもよろしく言っといてね~」とベッキーに声を掛けられ、クレハは元気無く右手を上げたのだった。
「はぁ…」
酒場を出た後もクレハはジュンキに会うのが恥ずかしく、ただ街中を行く当てもなく歩き続けた。
やがて陽は傾き、空が茜色に変わり始めた頃…。クレハは偶然にも噴水広場に出た。
「あ…」
重い足取りで、つい先日にジュンキと並んで街の外を見下ろした時と同じ場所に立つ。
街の外―――シュンガオレンの侵攻によって荒れてしまった森から吹きつける風が、クレハの長い青色の髪をなびかせる。
「…ジュンキ」
気づけば、クレハは無意識のうちにジュンキの名前を呼んでしまっていた。
一体いつからジュンキの事を気に掛けるようになってしまったのだろうか。
初めて会ったとき?初めて狩りに出たとき? 初めて信頼してもらった時?
(ううん、違う。きっと…あの時…)
そう、あの時…。
チヅルちゃんが…死んだ時…?
「…クレハ」
「うわあっ!」
背中から突然声を掛けられ、クレハは飛び上がるくらいに驚いてしまった。
慌てて声の主を探したが、案の上でジュンキだった。
「ずいぶん探したぞ。…何かあったのか?」
「え…う、ううん…」
ジュンキの目を見ていられず、思わず目を逸らしてしまうクレハ。
「…いろいろ話したいことがあるけど、まずは食事にしようと思うんだ。いいか?」
「うん…。私も、お腹空いたし…」
つい先程に昼食を食べたものと思っていたが、気が付けばもうこんな時間である。
クレハは逸らしていた目線を上げ、ジュンキと並んで歩き出す。
酒場の入り口は目の前に見えているのに、なぜか遠く感じる。
「ジュンキ、その…」
「ん?」
「その…て、手を…」
「手?あ…でも、もう着いたから…」
クレハが「手を繋ごう?」と言い切る前に、2人は酒場の入り口へと達してしまう。
ジュンキが先に酒場の中へと入ったのに、クレハはすぐに足を踏み出せなかった。
「…」
まただ。
今回も、ジュンキは手を繋いでくれなかった。
ここ最近、ジュンキはクレハに対して少し冷たい感じがする。
私はジュンキに何か悪いことをしてしまったのだろうか。クレハは何度も考えてみたものの、特に何も思い当たらない。
そしてクレハが思うに、ジュンキはクレハ自身を避けようとしている感じでもない。
ジュンキとしてもクレハに近寄りたい。仲良くしたい。けれど近寄れない。…そんな感じがするのだ。
(どうして…?悩んでいるなら話してよ…)
ジュンキは決して口数が少ない方ではない。しかし今回ばかりはいつまで待っても話してくれそうになかった。
しかし、本心を伝えきれないのは自分も同じではないだろうか。
なぜ?どうして?でも自分も同じ…。
そうこう思い悩んでいると、クレハが酒場へ入って来ない為にジュンキが酒場の中から出てきてしまった。
「クレハ、大丈夫か?」
「えっ…?ううん、何でもないよ…」
クレハはジュンキの不可解な行動を、単に照れ隠しと考えている。
ジュンキは恋愛に関しては疎い訳ではないだろうが、上手ともいえない男だから、彼なりにいろいろ悩んでいるのだろう。クレハはそう思っている。
そう思うことで、ジュンキへの不信を誤魔化している。
「そうそう、またベッキーにからかわれたんだよ?」
「ベッキーも懲りないな…」
いつものように、他愛のない会話をしながら空いている席に、向かい合うようにしてクレハとジュンキは座る。
するとベッキーが意味深な笑みを浮かべたまま、注文を取りに来るのだった。