ストライク・ザ・ブラッド 〜白銀の夜帝〜   作:ichizyo

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文字数が二万を超えるとは……。
長くなりました。今回も独自解釈があるかもしれません。

それでは、本編をどうぞ。


聖者の右腕 Ⅳ

 明夜(あけや) 優騎(ゆうき)の自宅があるのは、アイランド・サウスこと、住宅が多く集まる絃神島南地区。九階建てのマンションの七階、七○三号室だった。建築物の高さが厳しく制限された人工島(ギガフロート)内では、比較的背の高い、見晴らしのいい建物のひとつである。

 

「……眠い」

 

 欠伸をこぼし、眠そうに目を擦って優騎は声をもらした。マンションにある自室の扉を閉め、鍵をかける。

 

 夏休み最終日。

 長期にわたる休暇の最後の一日だ。

 一日遊んで暮らす、夏休みの課題に追われる、最終日だからと自室でクーラーをつけて快適にダラダラと過ごすなど。それぞれ全く違った過ごし方がある。

 そんな中、下の階に降りるためにエレベーターに乗り込んだ優騎はしかし、その例のどれにも当てはまらなかった。一日遊んで暮らせるほど太陽に強くはないし、課題は既に終えている。ダラダラと過ごすこともできるが、次の日から学校ということから考えてそれは遠慮した。

 

「自分から言ったとはいえ、朝一で呼び出しか……」

 

 そう。優騎が朝早くから、苦手な早起きまでして――凪沙に声をかけてもらったが――外出しているのは、偏に担任教師から連絡があったからだ。

 昨晩、突然家に舞い降りた国家攻魔官である"空隙の魔女"。彼女は事件の捜査を優騎に依頼した。『頼み事』という呼び名で依頼されたそれは、あくまで国家攻魔官としての彼女からの頼み。まあ簡単に言えば、攻魔官見習い、または攻魔官の助手として事件に関わることなったということだ。

 そんなことが決まった次の日――即ち今日。優騎は二学期前の最後の休日に学校へと駆り出されることになったのだった。

 

「……暑い」

 

 マンションを出ると激しい太陽光が照りつけ、優騎の肌を焼く。

 まだ早朝とは言わないまでも、結構早い時間のはずなのにこの暑さ。正直な話、優騎はあまり外に出たくはなかった。決して外出したくないわけではないのだが、先ほどから続く忌々しいまでの太陽光の猛攻に既に心が折れそうになっているのは事実。だからと言って、那月直伝の魔術を使えば、もれなく扇子という名の鈍器による殴打からの一時間説教という拷問が後付けされる。よって、学校には自力で行くしか方法がないのだ。

 

「? 明夜先輩?」

 

「ん? ああ、姫柊さん。おはよう」

 

「おはようございます」

 

 律儀に頭まで下げて、挨拶してくる後輩に思わず笑みが漏れる。

 

「明夜先輩もここに住んでいるんですか?」

 

「おう。古城から聞いてないか?」

 

 雪菜は首を横に振っている。

 どうやら古城は、優騎が隣に住んでることを雪菜に伝えてなかったらしい。どこか抜けてるというか何というか、優騎は友人の将来に少し不安を覚えた。

 

「というか、"も"ってことは姫柊さんもここに?」

 

「はい、監視役ですから」

 

 今は荷物が来るのを待っているんです、と付け足す雪菜は、この前話した時と同じ彩海(さいかい)学園中等部の制服に身を包んでいる。もちろん、その背中にはギターケースが存在していた。古城がいなくても、やはりそれは常備しているのか、と優騎は勝手に予想する。そしてもう一つ、優騎は推測した。

 

「ブレないなー。あっ、一つ聞いていいか?」

 

「何ですか?」

 

「もしかして、姫柊さんの部屋って七○五号室?」

 

 それを聞いて、雪菜は怪訝な視線を優騎に向ける。

 あっ、と声を上げたのは優騎だ。

 

「別に調べたとかじゃなくて、ただの予想だからな。丁度古城の部屋の隣、七○五号室が何故か先週空いたし、それに古城の監視役の姫柊さんが現れたんだから、何か関係あるのかと思っただけ」

 

「……すみません、少し疑いました。でも凄いですね、明夜先輩。先輩には隠し事できなさそうです」

 

「あはは、よく言われる」

 

「そうなんですか?」と首を傾げる雪菜に優騎は思わず笑みをこぼした。同時に彼女は素直だな、と思う。疑ったことも隠さなかったし、隠し事ができるタイプではなさそうだな、とも。ちなみに、優騎が隠し事できなさそうとよく言われるのは本当のことだ。主に倫やら浅葱やらからだが。

 

「何ですか? いきなり笑って」

 

「いやいや、姫柊さんは素直だなって。俺の友人とは真逆すぎて、ちょっと面白かったからさ」

 

 またしても、雪菜は首を傾げた。

 素直な雪菜を見て、ふと優騎の頭に浮かんだのは、未だ素直になれない友人の顔だった。派手な金髪を揺らして笑う彼女。

 ――不安。今の優騎の感情だ。もし、雪菜が古城を好きになってしまったら、という最悪の事態が来た時への不安。素直な雪菜と素直になれない浅葱。そんな正反対の二人がその状態で顔を合わせたら、どうなるのだろう、と。そしてもし、古城と雪菜が一緒にいるところを浅葱がみたら、どう思うのだろうか、と。おそらく二人は激突するだろう。二人の間に火花が散る様子を容易に想像できる。そして、その間に挟まれた古城が現実逃避するように空を見上げ、最後には自分を頼るんだろうな、とも。その時の状況まで目に浮かぶように予想できてしまう。

 優騎はこの先の展開を簡単に予想できる自分に戦慄した。まあ、同時にそんなことになったら、古城を犠牲にして逃げてしまおうとも考えたのだが。

 ただ、これは全て雪菜が古城のことを好きになる、というのが前提なので、全くもって何も根拠がない。それだけが唯一の救いだった。

 

「気にすんな。それより、引っ越し手伝おうか?」

 

「え? 手伝っていただけるんですか? それはありがたいんですけど、何か用事があるんじゃ……」

 

「……あ」

 

 用事を思い出し、動きを止める優騎に雪菜はクスッと笑って、

 

「お気持ちだけ頂いておきますね」

 

「ああ、ごめんな。何もなければ手伝うんだけど……」

 

「大丈夫ですよ。そんなに荷物多くないですし」

 

「そうなのか? それならいいけど……まあ大変そうだったら、代わりに古城をこき使っていいからさ」

 

 そうさせていただきます、と笑って言う彼女はなかなか冗談が通じる相手らしい。

 優騎はもう一度謝り、携帯を見る。午前七時すぎ。

 時刻は指定されていないが、遅すぎると扇子の一撃を喰らうことになるかもしれない。

 

「じゃあ、何か困ったことがあったら何でも言ってくれていいからな。できることなら、手伝うよ」

 

「ありがとうございます。その時はよろしくお願いしますね」

 

「おう! じゃあな」

 

 手を振って、優騎は背を向ける。歩き出してチラリと後ろを振り返ると、視線に映ったのはお辞儀をしている雪菜の姿。

 別れの時まで、頭を下げる律儀な後輩に苦笑し、優騎は再び学校へと歩みを進めた。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

「遅い。何をしていた馬鹿者」

 

 ノックからの入室直後のこの罵倒である。

 もう見慣れたフリルのついた服装に幼げな容姿。豪華な椅子に腰をかける担任教師がそこにはいた。いつものようにカップを手に持ち、紅茶を一口。

 

「あの、いきなり酷すぎませんかね……?」

 

「いいから座れ。疲れただろう? 喉が渇いているなら、紅茶も飲んでいいぞ。自分で淹れるのが条件だが」

 

「少しでも優しいと思った俺が馬鹿だった」

 

 やっと馬鹿だと認めたか、と。

 担任教師の容赦ない言葉に優騎の心はすでにボロボロだ。しかし、やはり喉は渇いているので、高級そうなソファに座る前に紅茶を淹れに行く。その途中、那月が当然のように空になったカップを差し出してくるのだから、もはや何も言えなくなってしまった。

 

「それで、呼び出した理由だが」

 

「ああ、何かあったのか?」

 

 紅茶を飲み、一息ついた後。

 那月がそう切り出し、優騎はそんな彼女が出した資料に目を向ける。昨晩見た資料と似たような資料だった。しかし、今目の前にある資料は昨晩にはなかったものだ。ということは――

 

「昨日の晩、か」

 

「そうだ。襲われたのは獣人(イヌ)吸血鬼(コウモリ)。眷獣を使った形跡も残っていた。負傷の度合いも今までの事件と何ら変わりない。瀕死まで追い込んだ(やった)のは、ほぼ確実に同じ奴だろうな」

 

「一体何が目的なんだろうな。あとその手段も。獣人も吸血鬼も人間より遥かに丈夫なはずなんだけど……」

 

 優騎は眉を顰めながら、再び資料に目を落とす。

 写っているのはやはり重傷を負った二人の魔族の姿。どちらもその特性上、身体は人間と比べて遥かに硬いし、丈夫だ。そんな獣人と吸血鬼が揃いも揃って、瀕死の重傷を負っている。それも何件も、だ。明らかに異常だった。那月も何だかんだで尻尾を掴めてない。それも含めて『異常』だと優騎は思った。

 それと気になる点もある。それは――

 

「ここまでしといて、殺しも連れ去りもしていないっていうのが、さらに謎だよな。魔族だけ使って何かしようとしてるなら連れ去るだろうし、魔族自体に恨みがあるなら殺してるだろ?」

 

「……何か別に目的がある、か」

 

「ああ、その可能性が高そうだ。ま、調査してみればわかるだろうし、地道にやりますか」

 

 そうだな、と言って紅茶を一口。

 優騎も自分で淹れた紅茶を一口飲み、那月から資料を受け取った。

 調査開始だ。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

「……わからん」

 

 机に突っ伏しながら、優騎が疲れ気味に声を漏らした。

『地道にやれば、わかる』というのは、甘すぎたようだ。すでに結構な時間が経過しているが、何一つ進展という進展はない。如何せん情報が少なすぎるのだ。資料だけではとても追いつかない、というより同じようなことしかわからない。しかし、情報元は今手元にある資料しかない。完全に手詰まりだった。

 豪華な椅子に腰掛け、もはや何杯目かもわからなくなった紅茶を啜る那月も一向に進展しないからか、眉間にしわも寄せ、不機嫌オーラを出しまくっている。

 

「流石に情報が少ないな」

 

「現場でも行きます?」

 

「ふむ。一理あるが、おそらくもう何も残っていない。すでに処理された後だろうな」

 

 そうかぁ、と優騎は再び机に突っ伏した。

 

 すでに外からはカーテン越しでもわかるほどに太陽光が照りつけ、憎々しいほどに気温も上がっている。もう正午を回り、真っ昼間だ。今二人がいるこの部屋はクーラーがちゃんと機能しているので、暑さ、日光に弱い優騎も安心。正直クーラーがなければ、優騎はここにはいなかった。まあ那月には止められるだろうが、耐えられるわけがない。

 つまり何が言いたいかというと、午前中全てを使っても進展なしだ、ということだ。

 

「事件当夜の監視カメラの映像でも見れれば、何か違うんだろうけど……」

 

「ほう。まだ見てなかったのか? お前は一体何をやってたんだサボリ魔」

 

「サボリ魔言わないでくださいよ。そもそも資料だけしかないのに、進展とか望めるわけないと思うし、目的だって――ん? 何か聞こえてはいけない内容が聞こえたような……」

 

「何だ、聞こえなかったのか。仕方ない。もう一度だけ言ってやる。その出来の悪い耳を最大限活用して聞き取れ」

 

 くっ、と悔しそうに歯噛みする。否定すればさらに酷い返しが来るとわかっているので、優騎は何も言えないのだ。この担任教師、鬼である。

 

「――まだ監視カメラの映像を確認してなかったのか? ハッキングなり何なりしてな」

 

「……アンタ俺に刑務所に入って欲しいんですか?」

 

「バレなければ問題などないだろう」

 

 那月はそう言うと、『わかったら、早くしろ』とでも言うように一台だけあるパソコンを指差した。正確には指ではなく、扇子だったが。

 はぁ、とため息を一つ。

 この人の無茶振りは今に始まった事ではない、そう日常茶飯事だ、と自分に言い聞かせて、優騎はパソコンの正面にある椅子に腰掛ける。

 ハッキングのノウハウについては、一通り浅葱から習っている。理由としては、何かと役に立つと思ったからだ。決して浅葱と二人きりになりたかったわけではない。まあ、そのおかげで今回は解決への糸口を掴めるかもしれないのだから、と優騎は心の中で浅葱に感謝した。

 ハッキング先は、資料に書いてある住所。その付近の監視カメラだ。

 五ヶ所。昨晩の分を含めれば、六ヶ所。時間帯も資料にしっかりと記されている。優騎はそれを確認し、キーボードを打ち始めた。

 暫しカタカタという音だけが鳴り響き、その数分後。

 

「……出た」

 

 優騎のその声とともに、パソコンの画面には六つのデータが映る。

 人の少ないところ、路地裏や公園の隅などで行われているのに加え、真夜中という時間帯のせいで、ほとんど画面に何が映っているのかわからない。しかし、人が動くとわかるし、些細な声や音を細かく拾っているので、無いよりは遥かにマシだろう。

 那月が豪華な椅子から降り、長めの黒い髪を揺らしながら、優騎の側まで来て画面を覗き込んだ。優騎はそれに合わせて立ち上がり、那月に椅子を譲る。流れるような動作だった。

 

「じゃあ、まず一つ目」

 

 そのまま何事もなかったかのように優騎はそう言い、映像を再生。

 映っていたのは黒。そして、聞こえてきたのは男の悲鳴だった。あまりの絶叫に優騎の表情が歪む。しかし、手がかりは全くと言っていいほどに無い。

 

 次、と呟き再生する。変化なし。

 次、そして次と。最初を含めて四つの映像は場所が変わっただけで、最初のものとほとんど変わらない。

 四度目の『次』が優騎の口から発せられる。五つ目の事件の映像だ。

 流れ出したのは、さっきとほぼ変わらない映像。映っているのはやはり黒。聞こえてくるのもやはり悲鳴。本当にさっきとまるで変化の無い映像だった。優騎、そして那月がまた同じかと、ため息を吐きかけた――

 

 ……いや待て。

 

「なんだ……今の?」

 

 何かに気づくように声を上げたのは、優騎だった。

 その手が忙しなく動き、再び五つ目の事件の映像を再生する。

 変わりない映像が流れていき――その終わる直前だ。

 

『何か』が影に消えるように蠢いていた。

 

 何と言っているかわからないが、微かに声のようなものも聞こえた。相も変わらず、犯人の姿は映っていないし、何が起きているのかもわからない。しかし、それは確実に手がかりだった。午前中を使っても、得られなかった犯人への手がかり。たとえ些細なものだとしても、それを得られたことに優騎は少し興奮気味に息を吐いた。

 

「ふむ。この程度じゃ何もわからんな。ほら次だ。まだ最後が残っている」

 

 そうだった、と那月の一言で我にかえる。

 残るは一つとなった映像。それは昨晩に起きた事件のものだ。念願の手がかりが一つ前の映像で得られたので、僅かながらに期待してしまうのも無理はないだろう。

 

 そして、映像は流れ出す。

 今度のは少しだけ他の映像よりも明るかった。照明の位置、またはカメラの位置の問題だろうか。しかしそれはそれで好都合だ、と優騎は視線を映像に固定する。

 流れ始めた六件目の映像の最初。

 

 

 ――私と遊んでくれませんか?

 

 

 声が聞こえた。

 小さかったが、たぶんそう言ったと思う。

 それは妙に機械的な声だった。声の質、高さから言っておそらく少女のもの。そして鈴の鳴るような、というにはあまりにも抑揚がなさ過ぎる声。まるで感情そのものが欠落しているような――いや違う。まるでそもそも感情の出し方を知らないような、そんな感じがした。先ほどの微かな声もおそらく彼女のものだろう。

 優騎は手がかりが増えたことの喜びなど御構い無しに、再び映像の音声に耳を傾ける。

 

 眷獣の咆哮。響く打撃音。男達の悲鳴。

 しばらくの間、それが続く。それらの音が鳴り響く間、少女は一言も口にしなかった。ただ淡々と作業をこなすように。無感情に。

 ――やがて音が消える。

 

 沈黙。

 

 直後、一瞬だけ光が横切った。

 街灯か、懐中電灯の光か、はたまたヘリの光か何かか。それはわからない。ただ、その光のおかげで"見えた"。

 その一瞬を優騎は見逃さない。

 映っていたのは、仄白く輝く透き通った虹のような色の巨大な腕だった。半透明で、少女の後ろから生えるようにして突き出ている。何かを殴りつけた後のようなモーションで停止し、佇む姿はどこか禍々しく不気味だ。人間の腕のような形をしているが、しかし人間のそれではなかった。

 

「……眷獣か?」

 

 優騎が驚愕と困惑が混じり合った声を上げる。その目は見開かれ、汗が頬をつたう。

 魔力の塊。破壊の権化。

 それは紛れもなく――吸血鬼の眷獣だったのだ。

 

「でも、この子……」

 

 今度は困惑の色が濃くなる。

 映像は光が横切った瞬間で一時停止され、その姿を鮮明に映し出していた。

 藍色の髪と薄水色の瞳。

 膝丈までのケープコートですっぽりとその小柄な身体を覆っており、足元は裸足。どう考えても、夜の街には似つかわしくない少女だ。無表情の顔は整っていて、どこか作り物めいた印象を見る人に与えている。物憂げに目を伏せ、男を見据えるその姿はとても辛そうにも見えた。

 そして、気になる点がある。優騎が少女を見て感じた違和感だ。

 

 それは――

 

「――本当に吸血鬼か?」

 

 優騎は眉を顰め、少女の姿を凝視する。

 眷獣は魔力の塊だ。そしてその眷獣は実体化する際に、凄まじい勢いで宿主の生命(いのち)を喰らう。だから、それを従えることができるのは、無限の"負"の生命力を持つ吸血鬼だけ。だから吸血鬼以外には眷獣を扱えないのだ。使ってしまうと待つのは『死』のみだから。

 さらに吸血鬼が眷獣を顕現する際、瞳が血のように紅く染まり、犬歯が鋭く伸び、剥き出しになる。しかし、その特徴が映像の内側にいる少女からは全く見られない。眷獣を顕現しているにもかかわらず、だ。優騎が感じた違和感の正体はそれだった。だから、疑問に思う。

 

 

 ――この少女は本当に吸血鬼なのか、と。

 

 

 しかし、吸血鬼以外に眷獣を扱えないのも事実。疑問は深まっていくばかりだった。

 

「自分の世界に入り込むのもいいが、まだ続きがある。考えるのは最後まで見てからにしろ」

 

 那月の呆れたような声が隣から聞こえた。

 見てみるとそこにあったのは不機嫌そうに眉を顰め、紅茶を啜る担任教師の姿。どうやら考え事に夢中になりすぎていたらしい。映像の方を見てみると、確かに残り五分の一ほど時間が残っていた。優騎はごめん、と両手を合わせて謝罪の意を示し、再び映像を再生する。

 

 暗闇でも目立つ、その仄白く輝く巨大な腕は少女の影に溶け込むようにして消えた。残るのは、その場で気を失っている重傷を負った男二人と、どこか悲しげにそれを見つめる少女だけ。ふと少女の顔が動く。

 

 ――目が合った。

 

 正確には少女が監視カメラを見たから、そのカメラの映像を見ている優騎と目が合ったように感じられただけだが。

 少女は数秒の間、監視カメラを見つめ、その後何かに呼ばれたように後ろを向いた。少女の小さく無感情な声が再び響く――

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 太陽が西の空へと傾き、空をオレンジ色に染め上げる夕暮れ時。

 カラスが夕暮れを知らせる音色を奏で、経った時間を感じさせる。下を見下ろせば、弱くなった日光を浴びるグラウンドにチラホラと生徒達が見えた。片付け中の部活動生達だ。夏休み最終日でありながら活動している部活も当然あり、今見えるだけでもテニス部、サッカー部、野球部。夏休み最終日なのによくやるなーと優騎は素直に尊敬した。ふと正門の方に視線を向けてみると、正門付近に見知った姿があった。古城の妹。(あかつき) 凪沙(なぎさ)だ。知り合って以来、何かと世話を焼いてくれている彼女はとても明るく、親しみやすく、面倒見がいい。休みの日でさえ起こしにくる彼女に、優騎は感謝してもし足りなかった。

 

「今度何かお礼でもしないとな」

 

 そう呟き、買った缶コーヒーを一口。

 凪沙は友人達と楽しそうに話しながら学校を後にしていた。その後ろ姿を見て、優騎は思う。雪菜のことも甲斐甲斐しく世話を焼くんだろうな、と。凪沙のことだから歓迎会でも開くかもしれない。これから買い物にでも行くのかも、とそう思った時だった。携帯の着信音が鳴る。電話だ。携帯電話のディスプレイに表示されている名前は――藍羽(あいば)浅葱(あさぎ)

 

「もしもし」

 

『もしもし、優騎? アンタなんで黙ってたのよ』

 

 不機嫌そうな声が耳元に響く。

 そんな彼女の様子に優騎はまず困惑した。

 

「落ち着け。最初から説明」

 

『これが落ち着いていられるもんですかッ! ……んんっ。ごめん、取り乱した。実はさっきね――』

 

 落ち着くためか、咳払いをした浅葱は優騎に事の顛末を話し始めた。

 その内容は、古城と雪菜についてだった。さっき古城の家に頼まれてた世界史のレポートを届けに行ったら、モノレール乗り場で古城と雪菜が一緒にいるところを見たこと。手には買い物袋が下げられていて、いかにも仲良さげに会話していたこと。古城が凪沙から雪菜を紹介してもらったと言ったこと。誤魔化しはしたけど、雪菜のことを古城が綺麗だと言ったこと。そして、それに対する文句、不満、愚痴。主に古城に対するものだが。

 

(なんかまたややこしいことになってんな……)

 

 未だ続く愚痴に優騎はまずそう思った。

 しかし、雪菜が古城を買い物に付き合わせたのには心当たりがあった。それだけは自分のせいかもしれない。朝から『古城をこき使ってやれ』と雪菜に言ったのは紛れもなく優騎だ。仲良さげに会話していたというのも浅葱から見たら、という可能性もあるがあながち間違ってないだろう。しかし、一番意外だったのは古城が雪菜のことを『綺麗だ』と口にしたことだ。古城が相手の評価を言ったところを聞いたことがない優騎にとってはそれは素直に驚くべきことだった。

 

『その姫柊?って子は明夜先輩ならちゃんと説明してくれますので、とか言い出すし、もう何が何だかわからないわよ!』

 

 何だそれは。

 その多大なる信頼はどこから来るものなのか、と優騎は思う。

 

 ……いや

 

「……丸投げされたか」

 

 現実を突きつけられた優騎はガックリと首を垂れた。何だその面倒ごとは誰かに押し付けるというベルトコンベアー並みの流し方は。優騎は出会って間もない後輩に良いように使われたことに、小さくないショックを受けた。

 

『大体、何であんな綺麗な子が現れるのよ! 中学生にしてはなんか大人びてたし、可愛かったし、礼儀正しかったし……ああもう! 古城のバカァ――――ッ!!』

 

「ほら浅葱さーん、どうどう。落ち着けって。ほら、一旦深呼吸。はい吸ってー……吐いてー……落ち着いたか?」

 

 ふー、と携帯越しに浅葱が息を吐いた。

 どうやら話を聞くだけの冷静さは残っていたらしい。少しの間、深呼吸の息遣いだけが聞こえ、数秒後。

 

『……うん、落ち着いた。ごめん、ありがと』

 

「いや、まあいいよ。それで、姫柊さんのことだけど……これから古城と一緒に行動することが多くなると思う。凪沙はこっちに引っ越してきて、初めて知り合ったクラスメイトらしいし、家も近いし、頼りになるからな。でも、凪沙は放課後部活があるだろ?」

 

『チア部、よね?』

 

 そうそう、と優騎は頷き、浅葱が冷静に聞いているのを何度か間をおいて確かめながら、続ける。

 

「ああ。だから、その兄である古城に頼ることなったんだ」

 

『優騎じゃ、ダメなの?』

 

「俺はほら、那月ちゃんの『頼み事』で面倒見切れない時があるからさ。ごめんな」

 

 謝らなくていい、と電話越しに声を漏らす浅葱は落ち着きを取り戻し、声もいつも通りになっている。もう大丈夫だろう。

 それにしても、冷静になるのが早くなったと思う。最初の頃は今の三倍くらい時間がかかっていた。その後に矢瀬にも電話していると言っていたので、もっとだろう。それからすると、浅葱は本当に落ち着くのが早くなったと言える。

 

『はぁ……あたしまたグチグチ文句とか愚痴とか言いまくってたわね。こんなだから、古城にも振り向いてもらえないのよ。ホント自分が嫌になる……』

 

 そして、自己嫌悪に陥る。

 これが浅葱だ。憤り、愚痴や文句を全部言って、言い終われば自己嫌悪する。そして、そんな落ち込んで少ししおらしくなる彼女を可愛いと思ってしまうのだから、優騎は末期だと自分で思うのだ。

 

「まあまあ、溜め込むのはダメだよ。それなりに吐き出してスッキリしないと気が滅入るし、疲れるだろ。それに自分のこと悪く言うのもやめろよ。今度ゲーセンでも何でも付き合うから元気出せって」

 

『……うん、ありがと。じゃあ今度ね』

 

 ああ、と頷く。

 これで何とか古城と雪菜が一緒にいるということへの説明はついた。しかし、問題はそれ以外だ。全くと言って解決の方法がない。仲良さげに会話していたというのは浅葱の見解だから、何もすることができないし、古城が雪菜に『綺麗』と言ったことも訂正のしようがない。古城が凪沙に雪菜を紹介してもらったというのは、ほとんど嘘なのだが、それは自己責任だ。だから、優騎はその辺を放棄することにした。

 

「ああ、わかった。それでまあとりあえずだが、一つ言っておくと」

 

 それは、これからについて。

 浅葱にどうしても言っておかなければならないことがある。

 

『なによ?』

 

「浅葱も本格的に積極的になった方がいいと思う。姫柊さんに古城をとられたくないならな」

 

 優騎がそう言うと、携帯越しの声が止んだ。

 

「無理に、とは言わないけど少し頭に入れといた方がいいかな。あ、これ忠告とかじゃなくて、アドバイスな」

 

 俺自身経験はないけど、と心の中で付け足す。

 そもそも恋愛経験皆無な優騎にどういう対応をしろというのか。未だに解決しないその疑問を胸に持ちながらも、今まで何とかやってきたので、これからもまあ何とかなるだろう。そのことに関して無責任なのはわかっているが、同時に仕方ないとも感じている。

 

『うん、頑張ってみる』

 

「はいよ、応援してる」

 

 暫し静寂。

 優騎が今いるのは屋上だ。

 一陣の風が吹く。それは優騎の髪を揺らし、何事もなかったかのように吹き通って行った。

 

 ……ところでさ。

 

『前から聞きたかったことがあるんだけど』

 

「なんだ?」

 

 優騎はおずおずと話し始めた浅葱を疑問に思いながらも返答する。

 いったい今から彼女は自分に何を聞いてくるんだろうか。想像は――つかない。

 

『いつもあたしのことばっかり話してるけどさ。優騎はいないの? 好きな人とか』

 

 聞いてみれば、そんな質問だった。

 しかし、それは優騎を盛大に迷わせることになる。さて、何と答えようか。優騎は自分でもどう答えていいのかわからず、少しの間考え込んだ。『浅葱だよ』と直接言ってしまうのは難しいだろう。というか言える気がしない。だからと言って、『いない』と答えるのもどうかと思うのだ。実際好きな人はいるわけだし。

 そう考えて、決めた。

 

「いるよ。好きな人」

 

『えっ、いるの!? 誰々!? あたしの知ってる人?』

 

 予想以上の食いつきである。

 女子は色恋に興味津々だと凪沙に聞いたが本当だったらしい。だから世の中には女子会なるものがあるのか、と何故か一人で納得。

 

「そんなに食いつくことか?」

 

『そりゃあね。気にならないわけないじゃん。で、誰なのよ?』

 

 うわぁ、携帯越しでもニヤニヤしてるのがわかるわー……。

 優騎はすでに話したくない気持ちに駆られるが、何とか抑え話し出す。

 

「誰かは言わないけど、性格とかだけなら」

 

『うーん、まあそれでいいわ。早く早く!』

 

 意を決する。

 

 俺の好きな人は――

 

「素直じゃなくて、嫉妬深くて、奥手すぎて相手に気づいてもらえないような、そんな女の子だ」

 

 古城に勉強教える時には見返りを求めてしまい、古城が他の女子と仲良くしていると嫉妬し、本人は攻めているつもりだが、まるで進展がなく、古城にも未だに気づいてもらえない。そんな女の子(浅葱)

 

『なによそれ、ダメダメじゃない。それにその子、好きな人がいるんだ。……優騎も大変な子、好きになっちゃったわねー』

 

 ニヤニヤとしているのが目に浮かぶ。

 今は気付かれなくてもいい。気づいてくれればラッキーかなくらいに思ってたから。そう思いながら、優騎は自分のこととも知らずにその人のことを『大変な子』という浅葱(想い人)に思わず笑いを漏らした。

 

「浅葱にだけは言われたくはない」

 

 それもそうね、と浅葱が呟き、二人で笑い合う。

 

『それで、他には?』

 

「まだ聞くのか……」

 

 当たり前じゃない、と返す浅葱はまたしても相当"良い笑顔"をしていることだろうと予想する。さっきまで嫉妬して怒って、そんな自分を嫌悪していた人とは思えないほどの変わり様だ。思わず苦笑いが漏れてしまうのは仕方のないことだろう。

 

 はぁ、と息を吐く。

 

「面倒見は良いな。それとなんだかんだ言いながらも優しくて、友達は大事にする。からかうとちょっとムキになって反抗してくるのが可愛くて――そういうところがまた好きだなー、ってな」

 

『こんなに想われてるのに……その子馬鹿ね。ちょっとドキドキしちゃったじゃん。……よし決めた! あたしは優騎を応援してあげる。だから頑張りなさいよ』

 

「ああ、頑張るよ。でも、応援はなー」

 

『なによ? あたしに応援されたくないわけ?』

 

 いや、と返答が歯切れ悪くなる。

 だって、浅葱が応援するということは優騎の想いを受け入れるということだから。優騎はどう返答しようか迷った結果。

 

「いんや、別に。ありがとな」

 

 誤魔化すようにお礼を言った。

 

『どーいたしまして。これであたし達は同類ね。改めてこれからよろしく!』

 

 やけに『同類』という単語を強調していたのは気になるが。

 

「ああ、よろしくな」

 

 うん、と元気良さげに返事をする浅葱に思わず頬が緩むのがわかる。

 ここが誰もいない屋上で良かった、と優騎はホッと息を吐いた。この顔を誰かに見られたら確実に気持ち悪がられるだろう。そんな確信があった。

 

『いきなり電話して悪かったわね』

 

「いやいいよ。てか、いつでもどうぞ。何かあれば遠慮なく連絡してくれ。最近は何かと物騒だし、一応注意喚起ってことで」

 

『りょーかい。まったく優騎は心配性ねェ。まあ何かあったら、アンタが守ってくれるんでしょ?』

 

 冗談交じりに悪戯っ子のごとくそういう浅葱。

 しかし、それとは打って変わって優騎は大真面目だった。

 

 ……もちろん。

 

「そのつもりだ。少なくとも手がとどく範囲――家族と友達くらいは絶対に守るよ」

 

『カッコいいじゃん。頼りにしてるわよ? じゃ、また明日学校で』

 

 おう、また明日と言って電話を切る。

 

「げっ、通話時間一時間超えるってどんだけ不満溜まってたんだよ。那月ちゃんに怒られる……」

 

 携帯の画面には、六十一分と表示されていた。

 三十分くらいで戻ると言って那月の部屋を出てきた手前、怒られるのは確実だ。重苦しい足を無理矢理動かし、那月の部屋に向かう。

 

 その最中。

 思い返すのは、先程の浅葱との会話だ。

 

『守る』

 

 言うだけなら簡単なことだ。しかし実行するとなれば話は違ってくる。何の力もなければ、それはただの理想でしかないし、全てを守るなんて理想を掲げたところで、手が届かなければ何の意味もない。そもそも知らないところで起こったことに対して、自分のせいだと勝手に解釈するのは自惚れでしかないのだ。だから、優騎はせめて手の届く範囲――家族と友達だけは守りたいと思うし、絶対に守ると決めた。それが優騎の信念。さっき浅葱に言ったのも決意表明みたいなものだ。

 

 ――あの藍色の髪の少女のことも。

 

 そう思ってしまったのだ。

 監視カメラの映像に映っていた藍色の髪に薄い水色の瞳をもつ少女を見て。物憂げに目を伏せ、最後監視カメラの方を向いた彼女の目は、助けを求める者の目だった。

 もう関わってしまった。ならばこれも手の届く範囲だ。家族でも友達でもなく、今は――敵。だが、彼女は確かに苦しみ、悲しみ、助けを求めていた。それならば。

 

 ――手を差し伸べるしかないだろ。

 

 義務感ではない。正義感でもない。――己の信念のために。

 実際には、あの少女はそんなこと望んでいないかもしれない。しかしもう関わった。放っておくなんてことは無理だ。たとえそれが唯の自己満足だと笑われてもいい。迷惑がられても構わない。それでも――と。

 

 優騎は気合いを入れる。

 情報はやはり少ないが、手がかりは得た。吸血鬼かどうかすらも怪しい少女、その眷獣。そして、その子を操っているだろう誰かがいる。

 

「アクセプト――命令を受け入れる。……命令受諾、か」

 

 少女は映像の最後。

 彼女は後方に向け、そう言った。それなら確実に少女に命令を下している奴が必ずいる。それが誰かはまだわからない。隠しカメラにも手がかりはなかった。しかし、それでも。

 

 ――あの子を助けられるなら。

 

 いつの間にか着いていたのか、目の前には那月の部屋への入り口がある。学校なのに、どうして彼女個人の教室――部屋があるのかはわからないが、もう慣れた。

 優騎は扉を開き、足を踏み入れる。

 直後飛んできたのは、分厚い本だった。それを回避し、正面を向く――が。

 刹那、額に凄まじいまでの衝撃が。

 

「いつまで休憩して(サボって)いた? サボリ魔」

 

 そこには眉間にしわを寄せ、扇子を振り抜いた状態で優騎を睨んでいる那月の姿が。

 

 ――体罰、反対……。

 

 優騎の小さな叫びは誰にも届くことなく、虚空へと消えた。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 陽射しは未だ強いが、夜の涼しさが混ざり始める夕方。

 右手に部活の荷物を詰めたスポーツバッグ、左手に大量に食材を詰め込んだ買い物袋を提げて、マンションのエントランスをくぐる少女がいる。暁 古城の妹、暁 凪沙だ。

 

「……ちょっと買いすぎちゃったかも」

 

 凪沙は左手にある、パンパンになった買い物袋を見て苦笑いを浮かべた。今日は隣に引っ越してきた転校生の歓迎会をするつもりらしい。

 

 ……まあでも四人だし、食べきれるよね。

 

 四人というのは凪沙、古城、転校生の雪菜、そして雪菜とは反対側の隣に住む優騎だ。男子高校生が二人もいるから、きっと食べきれるだろうと凪沙は考えたのだ。

 

 それにしても――

 

「……重い」

 

 エレベーターのボタンを押しながら、買い物袋を持ち直す。予想以上に重くなってしまった。やはり兄か隣人を呼ぶべきだったか。凪沙は自分一人で買い物に行ったことを少しだけ後悔した。

 やがてエレベーターの扉が開き、一刻も早く家に帰るため凪沙は少し小走りでエレベーターに乗り込む。そして、ボタンを押したところで気づいた。自分と同じように買い物袋を持つ制服姿の男子高校生と女子中学生がマンションに駆け込んできたことに。片方は見慣れた人物だった。

 

「――あれ、古城君たちも今帰り? 遅かったね」

 

 じきにエレベーターの扉が閉まるので、早く早くと手招きをする。

 

「凪沙か。なんだ、その荷物?」

 

 エレベーターに乗り込んだ兄、古城は妹の姿を見て眉を寄せた。

 スポーツバッグに加え、いかにも重そうな買い物袋を持っているということと、その中身が食材でいっぱいなことに。しかも、その買い物袋の中身は大量の肉や刺身。普段の暁家とは縁遠い高級食材ばかりだった。

 

「なにって、歓迎会だよ。転校生ちゃんの」

 

 凪沙は驚いている古城に、呆れたように言う。

 

「歓迎会?」

 

「そだよ。だって引っ越してきたばっかりで、今日はご飯の支度なんてできないでしょ」

 

 そうだな、と素直に頷く古城。

 何か思い当たる節でもあったのだろうか。しかし、すぐにその表情が怪訝なものになって、

 

「凪沙。おまえ、姫柊が隣に引っ越して来るって知ってたのか?」

 

 なにを言われるかと思えば、そんなことだった。

 そういえばこの兄、今朝は爆睡していた気がする。凪沙はそんなだらしない自分の兄に一つため息を吐いた。

 

「うん。だって今朝、挨拶に来てくれたし。古城君は寝てたけど」

 

 咎めるように言ったのが伝わったのか、古城は少し青い顔をする。さらに一睨みして、ふと思った。

 

「あ、そうだ。優騎君にも挨拶したのかな?」

 

 はい、と雪菜は頷き、

 

「今朝荷物を待っている時に会って、その時に。明夜先輩もこのマンションに住んでいるんですね。今朝初めて知りました」

 

 今度は雪菜が。

 咎めるように古城を見た。それによりさらに顔を青くする古城に凪沙は笑って、その脇腹を突く。そしてそれを見て、雪菜が口元を緩める。

 

「それで、あの……いいんですか、 歓迎会なんて」

 

「いいのいいの。お肉もう買っちゃったし。私と古城君だけじゃ食べきれないよ」

 

 凪沙が人懐っこい表情で言った。確かに、と古城も苦笑する。

 両親が四年前に離婚したせいで、暁家は現在、3人家族だ。しかも市内の企業で研究主任を務めている母親は、仕事の都合で週に一、二回しか自宅に戻らない。

 子どもたちの方から会いに行けばいつでも会えるので、それを寂しいと思うことはないが、実質的に古城と凪沙は兄妹二人で暮らしているようなものだった。まあ、隣には一人暮らしをしている少年もいるわけだが。だから、とてもじゃないが、凪沙が抱えているお徳用特選牛肉一・五キログラムは食べきれないのだ。

 

 ……それに雪菜ちゃんともっと仲良くなりたいしね。

 

 そう心の中で付け足して、凪沙は雪菜に再度笑顔を向けた。

 

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」

 

 雪菜は少し考えてそう言った。

 結構悩んでいたようだが、結果的には来てくれるので良しとしよう。やはり嬉しいものは嬉しいしね、と凪沙はパァと花が咲いたように明るい笑顔を浮かべた。

 

「よかった。じゃあ、荷物置いたらうちに来てね。あ、寄せ鍋だけど大丈夫? 雪菜ちゃん、食べられないものとかないかなあ。やっぱり真夏に冷房をガンガンに効かせて食べるお鍋は、贅沢な感じがしていいよねえ。そうそう、雪菜ちゃんは味噌味と醤油味どっちがいいかな。優騎君は絶対醤油が良いって言うと思うけど、今日は雪菜ちゃんの歓迎会だし、雪菜ちゃんが決めて良いよ。私はどっちでもいいし、古城君に文句は言わせないから。優騎君が文句言ったら――いや、優騎君は文句なんて言わないかな。まあなんにせよ、今日は腕によりをかけて作るから楽しみに――」

 

「その辺にしとけ、凪沙。姫柊が固まってる」

 

 早口でマシンガンのように言葉を並べる妹の後頭部を、古城が軽く叩いて黙らせる。あ痛、と涙目になった凪沙が恨みがましく古城を見た。しかし、いやでも今回は私が悪いような、と思い直したようで、すぐに申し訳無さそうに目を伏せたが。

 

「あの、わたしも手伝いましょうか? 鍋物の下ごしらえくらいなら……」

 

「いやいや。雪菜ちゃんは今日はお客様だからね。のんびりくつろいでていいよ。遠くからやってきたばかりで、疲れたでしょ。ほら、古城君も雪菜ちゃんをもてなして」

 

「そういう思いつきだけで適当なこと言うな。俺は自分の部屋で宿題の残りをやる」

 

 沈みかけた夕陽を眺めて古城は薄く溜息を洩らす。ふと気づけば、夏休みの残り時間はごく業になっていた。すでに手遅れという気もするが、やはり焦りは隠せないらしい。

 

 ……ていうか

 

「古城君、まだ宿題終わってなかったんだ。今朝、優騎君起こしに行った時机の上見たけど、全部終わってたよ。しかも、結構前に終わったって言ってたし……もう、しっかりしてよね」

 

 ぐっ、と何故かショックを受ける古城にジトッとした視線を送る。隣の雪菜すら呆れた表情をしていた。しかし、そこで古城は何かに気づいたようにハッと顔を上げ、

 

「凪沙。……まさかとは思うが、いつも優騎のこと起こしに行ってるのか?」

 

「そうだよ? さすがに休みの日はあたしも部活があったりで行ってないけど、平日とか土曜日に学校がある時なんかは毎日ね」

 

「なっ!?」

 

 知らんかった、と。

 そして、何故か不機嫌そうに眉を顰める。

 

「優騎のヤツ……俺黙ってそんなことを。凪沙、悪いことは言わないから、今後はやめとけ。男は狼なんだぞ? 寝ぼけた頭でいつの間にか手ェ出してたなんてことになる前に――」

 

 イラッ。

 次に眉をひそめたのは、好き勝手言われた凪沙の方だった。怒りむき出しに、古城を睨みつけて、

 

「優騎君はそんなことしないよ! ていうか、なんで古城君にそんなこと言われなきゃいけないの? 過保護にもほどがあるよ。第一、もう四年くらい続けてて、その間優騎君は何もしてないんだから大丈夫に決まってるでしょ! それにあたしも朝から優騎君と話すの楽しいし、嫌じゃないもん! それをやめろって言うなんて……古城君のバカ! もう知らない!」

 

 重い荷物なんて知らないとばかりに走り、先に自宅に入る。後ろから何か聞こえるが、そんなのは無視だ。バタン、と扉を閉める。

 

「……凪沙に嫌われたかもしれない」

 

「先輩ってシス……妹さんのこと本当に大事にしてるんですね。……ちょっと行き過ぎてるとも思いますが。ほら大丈夫ですって。謝ったら許してくれますよ」

 

 後には、女子中学生に慰められる情けない男子高校生だけが残っていた。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 自宅に入るなり、冷蔵庫の前に買い物袋を置いて、自室に向かい、机の上に荷物を下ろす。

 そのままベットに倒れこみ、枕に顔をポフッと埋めた。

 

 ――あー、怒鳴っちゃったなあ。雪菜ちゃんもいたのに。

 

 部屋に戻って頭が冷えた途端、申し訳なさがのしかかってくる。

 でも、今回ばかりは自分は悪くないと凪沙は思う。優騎のことを悪く言った古城が悪いのだ、と。それに、今更だった。もう絃神島に来て、出会って、起きるのが苦手と知ってからずっと。凪沙は朝から優騎を起こしに行っている。一人暮らしの彼は起きられないかもしれない、と。もうそれは日課と呼べるまでになっているのだ。それに今頃気づいて、やめろと言うなんて凪沙が怒るのも無理はなかった。

 

 ……それにしても

 

「――何であたしあんなに怒っちゃったのかな」

 

 凪沙は眉を顰めて考える。

 分からなかった。どうしてあんなに怒りが芽生えたのか。いつもならば『古城君には関係ないでしょ』の一言で終わっていたはずだ。それなのに今回は歯止めがきかなかったというか、何というか。

 考えてもわからず、さらに眉間のシワが深くなったが、ふと。

 

「あっ、歓迎会するって優騎君にも伝えないと」

 

 思い立ったが吉日。

 いやこの場合は少し違うか。凪沙はスポーツバッグの中から携帯電話を取り出し、『優騎君』という登録名の部分をタッチする。

 プルルル、と何度目かの呼び出し音が聞こえた後、聞き慣れた声が耳に届いた。

 

『もしもし』

 

「もしもし、凪沙だよ。今大丈夫かな?」

 

『ああ、今なら何とか』

 

 どこか疲れたような声。実際には疲れているのではなく、担任教師による体罰の痛みに苦しめられているだけなのだが、そんな優騎の声に大丈夫なのだろうか、と凪沙は少し心配になる。

 

「よかった。それでね、今日雪菜ちゃんの歓迎会しようと思ってるんだけど、優騎君来れそう? お肉とかも買い過ぎちゃったし、凪沙は来てほしいなーなんて」

 

『うーん、行きたいのは山々なんだけど……』

 

 何故か歯切れの悪い返答に凪沙の心配は大きくなる。

 

『今日この後もまだやらないといけないことがあってさ。だから悪い。今夜は行けそうにない』

 

 ――残念。でも、忙しいなら仕方ないよね。

 

「ううん、大丈夫だよ。こっちもいきなりだったし、ごめんね」

 

『いやいや。俺の方こそごめんな。どうしても、やらないといけないことがあるんだ。ほんとにごめん。姫柊さんにはよろしく伝えておいてほしい』

 

「うん、わかったよ。それじゃあ、明日も朝から起こしに行くからね」

 

『おう、助かる。本当いつも迷惑かけて悪い――いや、この場合はありがとうか。凪沙には感謝してもしきれないよ』

 

 歓迎会に来てもらえないのはちょっと残念だけど、そう言われて悪い気はしないかな、と凪沙は緩む頬に手を添えた。電話なので顔は見えないが、今優騎がどんな顔をしているかはなんとなくわかる気がする。きっと優しく笑ってるんだろうな、と。

 

「えへへ……いいよ、そんなの。凪沙も優騎君には感謝してるし、お互い様だよ」

 

『そうか? ……おっと悪い。そろそろ戻らないと。それじゃあな、歓迎会楽しめよー』

 

「うん、バイバイ。また明日ね」

 

 ピッ、と通話終了の文字が画面に映し出され、通話が切れた。

 結果的には残念だったが、電話してなんとなく元気が出た凪沙はベットから降り、両手で頬をパシッと叩く。

 

「……痛い」

 

 ……少し加減をミスしたようだが凪沙はよし、と気合いを入れた。優騎は来ないが、腕によりをかけて作ると雪菜に言った手前、中途半端はできない。というか絶対しない。なんせ今日は雪菜ちゃんの歓迎会なんだから、と。完全に頭が冷え、むしろ元気が増した凪沙は部屋を出る。目的地はキッチンだ。早く下ごしらえを始めないと遅くなってしまう。

 

「凪沙、悪かった」

 

 リビングに出ると、兄である古城が気まずそうに頬を掻きながら謝ってきた。

 

「いいよ、今回だけは許したげる。ただ後でアイス買ってきてよね! それだけでいいから!」

 

「あ、ああ。わかった」

 

 古城は突然の凪沙の変わり様に困惑し、雪菜も古城と顔を見合わせて首を傾げている。しかし、盛大に機嫌がよろしい凪沙にはそんな二人は目にも入らない。ステップを踏んで踊るようにしてキッチンへと入った。ふんふん、と鼻歌らしきものが無意識に奏でられる。それによってか、下ごしらえの手際もどこかスムーズに見えた。

 

「凪沙ちゃん、突然どうしたんでしょう」

 

「さあな。ま、なんにせよ、許してもらえたんだからラッキーだった」

 

 雪菜が古城に冷たい視線を送る。

 

「古城君、宿題するんじゃないの?」

 

「あっ、そうだった」

 

 古城はガックリと首を垂れ、項垂れるようにしてリビングを出た。それに雪菜もついていく。

 その場には上機嫌に鼻歌を歌い、踊るように料理をする凪沙だけが残された。

 

 

 

 

 その後、高校の宿題を女子中学生に手伝ってもらい、普段の何倍も早くそれが終わったことにショックを受ける男子高校生の姿があったが、それは完全な余談である。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 夜。

 月明かりに照らされる人工島――絃神島は、未だ活気付いている。そこには昼とはまた違う騒がしさがあった。酒の匂いやタバコの匂い。そんな子供が介入できないその空間は、完全に大人だけの空間だ。高校生など、すでに補導の対象ともなる時間なのだ。故にこの場に子供の姿はない――はずだった。

 

「……やっぱり夜は楽だ」

 

 どこか安心したような表情を浮かべ、優騎はうんうん、と頷いた。

 

 アイランド・イースト。

 人工島(ギガフロート)である絃神島の東に位置するその場所に、彩海学園高等部一年、明夜優騎はいた。すでに深夜の時間帯。そんな時間に高校生である優騎は街中を歩く。仕事帰りのサラリーマンや夜の仕事をしているであろう女性、酒に酔っているのか、上機嫌にスキップしながら街中を進む中年男性などなど、様々な人の姿。昼では見られないそんな光景の中を歩く優騎はやはり少し浮いていた。しかも本人はそれを気にした様子がない。というかそもそも、なぜ高校生である優騎が堂々と深夜の街中を歩いているのか。その理由はもちろん、見回りだった。

 

「にしても、手がかりを得られたのは不幸中の幸いだったな。ハッキングしたのも無駄にならなかったってことだし」

 

 優騎はホッと胸を撫で下ろし、思考を巡らせる。

 朝から夕方にかけて調査をしてみたが、やはり得られたのは資料の中身が正確だったということと、監視カメラの映像だけだった。

 あの後何度も六件目の監視カメラの映像を確認した優騎だが、やはり少女だけしか映っていないという結論に至った。そしてもう一つ。何度見ても、あの少女が吸血鬼だとは優騎には思えなかったのだ。確かに眷獣を使役していたが、瞳にも犬歯にも変化はなかったし、眷獣を呼び出す際に身体の一部から血液が噴出し、そこから眷獣が出てくるのだが、そんな様子もまるでなかった。どういうことだろうか。やはり疑問は尽きない。

 それとさらにもう一つ。監視カメラの映像を見た時は待ち望んだ手がかりを得られて気づかなかったが、おそらくこのことを警察は気づいている、と優騎は思う。そもそも監視カメラの映像にあの子が映っている時点で気づくべきだった。しかし、それによくよく考えれば最初に那月に伝えられた時も『捕まっていない』とは言っていたが『分かっていない』とは言っていなかった。那月が何故犯人が分かっているのに、それを優騎に言わなかったのかはわからない。

 しかし、恐らく――

 

「素性まではわかってないんだろうな」

 

 そこから考えると、俺から情報が流れることを危惧したのかな、と。

 最近、優騎の近くに獅子王機関の剣巫が現れたことが原因だろう。もしも相手が他国から来ているのなら、今回の事件は立派な国際魔導犯罪ということになる。そしてその場合は那月の商売敵、獅子王機関の管轄だ。となると、雪菜に素性がバレたら、雪菜は積極的に動くだろう。彼女も第四真祖の監視役とはいえ、獅子王機関の人間だ。しかも真面目で正義感の強そうな性格。最悪、監視対象の古城を放って、事件解決に動く可能性もなきにしもあらずだ。

 

 ……まあ

 

「全部俺の想像だから、合ってる保証はないし、むしろ間違っている可能性のほうが高いんだけどな。それに」

 

 ――那月ちゃんのことは信頼してるし。

 

 きっと何か考えがあってのことだろう、と。

 ふと携帯を見て時間を確認すると、あらかじめ言われていた連絡の時間になっていた。慌てて、今手分けして見回りをしている担任教師、南宮那月に電話をかける。

 

「もしもし、那月ちゃん。優騎だけど、定時連絡」

 

『うむ。時間通りだな。何かあったか?』

 

 とりあえず、ホッと息を吐き、

 

「いや、こっちは異常なしだ。そっちは?」

 

『ああ、こっちも異常はな――ほう』

 

 あっ、今の声何か企んでる時の声だ、と咄嗟に優騎は苦い顔をした。

 

「……なにかあったのか?」

 

『ふむ。こんな時間に街を彷徨く不真面目な高校生と中学生がいたんでな。それもそれがバカ真祖と獅子王機関の剣巫ときた。夜遊びしている不良生徒を見たら、教師として放っておくわけにはいかんだろう。それ相応に指導してやらんとな』

 

 古城……それに姫柊さんまで……。

 

「ねえ、俺の勘違いならいいんだけど……那月ちゃん、なんか楽しんでないか?」

 

『ん? 気のせいだろう。こんなおもしろ――指導が必要なことを私が見過ごせると思うか?』

 

 教師の鑑的なことを言ってあるようだが、まるで本音が隠せていない。優騎は小さくため息を吐いた。この担任教師の悪いところだ。優騎は生徒虐めがそんなに楽しいのかと、小一時間ほど問いただしたい気分だった。

 

『わかったら、見回りに戻れ。何かあったらまた連絡しろ』

 

「ああ、お手柔らかにな?」

 

 ブチッと電話が切れ、優騎はズボンのポケットに携帯を放り込んだ。そしてこれからの二人の運命に合掌し、無事を祈る。側から見たら、大丈夫かと心配されるような行動だが、生憎と夜の街にそんな気遣いのできる輩などいない。

 優騎が那月の言いつけを守り、再び見回りを再開しようとした――その瞬間。

 

 ズン、と鈍い振動が人工島全体を揺るがした。一瞬遅れて、爆発音が響く。

 

 優騎は咄嗟に辺りを見渡した。近かったのだ。発生源が。一際大きな振動。そして、耳を割くほどの爆発音。そして、見えたのは空に向かって上がる煙。

 

 本当に近かった。場所はアイランド・イースト。その中の無人の工業地区――倉庫街。

 次いで新たな衝撃が。

 

「この魔力……まさか"旧き世代"か!?」

 

 それはつい先日感じたもの。しかし、それより遥かに強大なもの。

 圧倒的なまでに強大な、意志を持ち荒れ狂う魔力の塊。破壊の権化。

 そして今の明夜優騎に、限りなく近しい存在であるもの――

 

 吸血鬼の眷獣だった。

 

 再度ズン、と。

 明らかに先ほどよりも大きくなっている。

 

 大きな振動が、響く爆発音が、そして強大なまでの魔力の波動が――

 

 絃神島を揺るがした。

 

 夜の街に圧倒的なまでの厄災が降りかかる――

 

 

 

 

 

 

 

 

 




おや、凪沙の様子が……。
そして、浅葱の勘違い。
さて、これからどうしよう。

意見、アドバイスなどあれば、よろしくお願いします!

読んでいただきありがとうございました!
感想、評価待ってます。
それでは、また次回。

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