司令室の外に出ると、廊下伝いに下の階が妙に騒がしく感じられた。先ほどの演習組が戻ってきたのだ。漣は急いで階段から逆側の柱の陰に身を潜めた。この状況で秘書艦と顔を合わせる気にはとてもならなかったし、何よりもひとつ確認したい事があった。
「私が報告に行くから、皆は先に風呂に行っててくれ」
よく通る日向の声が、階段の下から響いてくる。その号令に倣って、ぞろぞろと大勢の足音が遠ざかっていく。その後で、ようやく一人分の足音が階段を上ってくるのが聞こえた。
やはり提督と顔合わせするのは旗艦だけだ。戦艦を基軸とした主力部隊ですらそうなのに、駆逐艦風情が提督と自由に顔合わせする事がどれだけ非常識な事なのか漣はあらためて理解した。
足音は一直線に漣のいる三階まで、いや提督のいる司令室までやってきた。漣は背伸びするように体を細め、柱の陰に小さく納まった。
足音が司令室の前で止まる。そして無作法に扉を叩いた。
「戻った」
ぶっきらぼうに一言。そして返事も待たずに日向は司令室の扉に手をかけた。 提督は漣の時と同じように、窓に向かったまま日向を迎えた。
日向は敬礼する事も無く、ごく自然な足取りでその背中に歩み寄った。一定の距離を取って立ち止まる。
「帰還した。旗艦日向その他5隻、負傷艦なし」
「了解」
提督の声はそっけなく、事務的だ。
「あちらの艦隊も大きな問題なく、無事演習終了だ」
「ご苦労だったな」
お互いに感情の無いやり取り。日向はそれを気にする様子も無く、自らの肩を押さえて首を鳴らした。
「疲れた」
その声は少し怒気を含んでいるようにも感じられたが、それにも提督は反応しない。日向は露骨に提督から視線を外して、不機嫌そうに頬を膨らませた。自分に向けられた背中へずかずかと歩み寄り、そこに自分の背中をくっつけて寄りかかる。密着した背中に押され、提督の体が僅かに傾く。
「ぐ…。おい、日向」
提督の体が重さに耐えかねてぐらりと揺れる。
「君のせいだからな」
日向は胸の前で腕を組み、軽く体重を預ける。
提督は肩越しに一瞬だけ日向へ振り返って、すぐさま窓に向き直った。
「悪かったよ」
いまいち誠意の感じられない提督の言葉に、日向は首を後ろにそらして、コツンと後頭部をぶつけた。
「君が寝坊したせいで、私が余計な訓練にまで付き合う羽目になってしまったんだ」
日向は不機嫌そうに唇を尖らせて、提督にもたれかかる。
窓から演習をずっと監視していた提督は、それで合点がいった。どうやら演習の終了時間が遅れたのを問い質す必要はなさそうであった。
自分の責任とは感じながらも、提督は一息つきながら窓から見ていた演習の様子を報告した。
「お前は楽しそうだった」
「そういう問題じゃない…」
日向がぐっと背中に体重をかけると、提督の体がますます傾く。 提督は正面の窓に手をついて、腕の力で日向を押し返した。
どうやら提督が思っていたより日向は気が立っているようだった。提督の一方的な責任ではあるものの、こちらにも事情ってものがあった。
「今朝の事なら、お前が私を起こしに来てくれれば万事解決だったんだ」
その言葉に日向は露骨に眉をひそめた。
「気を使ってやったんだ、初雪の方は非番だというからな…」
「げ…」
日向の言葉の意味に冷や汗があふれる。かかる体重が一気に重くなった気がした。
「別に、咎めるつもりもないし、私は気にしていない」
口では気にしていないと言う日向だが、その声の厳しさが先ほどとは色合いの違うものに変わったのは誰が聞いても明らかだった。
提督はますます気まずくなって、人差し指で自分の頬をひっかいた。
「あれは、不可抗力だったんだ」
なんとも意味を成さない反論。そのあからさまな動揺に日向は大きくため息をついた。
「気にしてないと言ってるだろう。だが、あんまりハメを外しすぎるなよ」
「肝に銘じておく…」
「うん」
日向は軽く頷くと、勢いをつけて提督の背中から体を起こした。急に背中が軽くなって、提督はあわてて後ろによろけそうになる。その様を見て日向は呆れたように笑った。
「汗を流したら、すぐに仕事にかかろう」
「ああ、おつかれさん」
日向の笑みはいつもと変わらぬ「それ」であり、提督は彼女の機嫌が直ったと思いほっと胸を撫で下ろした。
それが『秘書艦』として準備された笑顔であること、そして彼女の内に提督と艦娘の在り方に対する葛藤がある事など提督には知りようも無かった。