窓にぶつかってくる雨粒の音はますます勢いを増し、静寂に包まれた廊下に足音を残し続ける。降り注ぐ雨の隙間に遠雷の響きが混ざり始めた頃、それらすべての音を聞き消すようにカツンと細いハイヒールが鳴った。
雷巡、いや『練習用艦』大井は窓の外へ視線を向けながら、白い手袋に包まれた手の平をぱんと打ち合わせた。寮の廊下はしんと静まり返り、大井の足元に座り込んだ二人はそろってびくりと肩を震わせた。
「これは、すべて私の責任です」
大井がゆっくりと話を切り出す。
彼女の足元には重く目を伏せた二人の艦娘。仲良く膝をそろえて、地べたに座らされている。その外装はぐっしょりと雨に濡れ、髪の先からぽたぽたとしずくが滴っては、床に水たまりを作っていた。
「これは、責任感が強くて人一倍仲間思いの北上さんが、こんな豪雨の中で駆逐艦と取っ組み合いをするなんて事はありえないだろうと高をくくっていた私の責任です。嚮導艦という立場でありながら!」
「返す言葉もございません…」
肩をすぼめて縮こまる北上を一瞥し、大井はその隣で我関せずとそっぽを向いている不知火にギロリと視線を移動させた。
「そして、本来入渠中の駆逐艦がベッドを離れて雨の中放浪してるなんて事は無いだろうと信じ切っていた私の責任です。おや、指が腫れていますね不知火さん」
「いえ、これはスーパーファミコンのやりすぎで…」
不知火は指先を膝の上で組むように隠し、すばやく頭をスライドさせて大井から逃れるように視線を外した。
頬を突き出すようにそっぽを向く不知火に対し、大井は大きなため息をついた。
「兎に、角」
大井はこめかみを抑えて、ずぶ濡れの二人を見下ろす。ぶるぶると身を震わせた北上が、小さく鼻を鳴らした。
「二人はまずお風呂です。雨天演習組の為に速吸ちゃんが沸かしたものですが、彼女達に交じって肩身の狭い思いをして来なさい」
「不知火ちゃん」
船渠に向かって歩き出す不知火の背中に、大井が声をかけた。振り返った不知火は不機嫌そうにそれに答える。
「なにか?」
不知火は傷ついた指を握りこむように隠す。
そのしぐさを確認して、大井は改まったように不知火に向かい合った。
「明石さんから聞いていますよ。高速修復材を悪用しているそうですね」
不知火はいら立ちを隠すこともせず眉をひそめ、鋭い目つきで大井を睨み付けた。
「悪用とは?隊を守るため戦うのは悪ですか」
「駆逐艦(こども)が死線を逝く理由となる薬など、害悪以外の何物でもありません」
ぴしゃりと言い放つ大井の瞳には一切の迷いもない。
「……」
不知火は大井のこういう性格が苦手であった。優等生に輪をかけたような「大人の対応」。よくできた女。完璧なほど綺麗に出来上がった「大井」という女性像は、不知火にはゆらめく陽炎のように曖昧で歪んで見える。
「今私の悪口を言おうとしたでしょう」
「……」
カンもいい。それとも、自分が顔に出やすいのか。
大井は不機嫌な不知火を余所に、躊躇なくそのスカートに手を突っ込んだ。ふとももに固定した注射器を指の間に挟んでするりと抜き取る。
「これは没収します。薬は用法用量を守って何とやら、です。特に駆逐艦のあなたには負担が大きいでしょう」
そう言いながら、大井はもう片方の手でスカートのお尻から小さな紙包みを取り出した。不知火と手の平を重ねるように、そっとそれを手の中に握らせる。
「これは生傷の絶えない駆逐艦の為に私が常備している修復材です。安全性は明石さんのお墨付きをもらっています。あなたの望むような即時効果は見込めませんが、撤退の為の応急処置なら十分な代物です。無理せず撤退してください。だれも、不知火ちゃんを責めたりしません」
不知火は手の中の包みをつまらなそうに見下ろしながらつぶやいた。
「不知火は戦争兵器です。戦わなければ意味はありません」
「提督さんがそう言ったのかしら?」
大井は少し困ったように眉を下げる。
「はい」
不知火の答えに、大井はやれやれと小さくため息をついた。
彼が悪い人ではない事は大井も承知の事だ。しかし悪い冗談が好きで、しばしば駆逐艦たちを怖がらせるのは考え物だ。しかも素直に怖がってくれるならいい方で、中には彼女の様に素直さが裏目に出てしまうケースだって少なくない。
大井はどう諭すのが良いのか思案したものの、結局得意の口説き文句が自然と口から洩れてしまうのであった。
「そうね…。でも、男性の言い分をいちいち真に受けてたら女は身が持ちませんよ。男の戯言なんて、話半分に聞いてるのがちょうどいいんです」
「しかし…」
「しかしじゃありません。戦争兵器でも、あなたは女の子。そこに異論はないでしょう?なら、年上の言う事は「はい」と素直に聞いておくものですよ」
「…はい」
「いい子ね」
大井は不知火の素直な様子に満足したように微笑むと、不知火の肩を180度回転させてその背中を押した。振り返った視線の先には、うんざりしたように肩をすくめる北上の姿がある。その辟易とした表情は向かい合った大井にも見えているはずだが、彼女は大して気にしていないようであった。
軽く肩を押されて歩き出すと、北上も不知火の横に並んで船渠へと歩を進めた。
「大井っち、すごいでしょ」
大して歩かないうちに、北上がぼそりと呟く。
不知火は背後からの視線を気にして何も答えなかったが、気にした様子もなく北上は続けた。
「あれに「毒され」たら、悪事なんて働く気も起きなくなるっつの」
やれやれと首を振る北上に対し、不知火はこらえきれずに小さく呟いた。
「貴女を見ていると、そうは思えなわね…」