嫌な空模様だ。
もくもくと集結し始める暗雲は、太陽の光を遮りながら反射する海の色を灰色に濁らせている。
軽巡寮の廊下の真ん中で、北上は掲げられた掲示板を憎々しげに見上げていた。
そこに張り出されているのは「鎮守府の友」。重巡洋艦「青葉」が週刊で発行している、鎮守府内新聞であった。その内容は、他愛も無いゴシップから、深海棲艦の進行度合いや作戦召集まで多岐にわたる。
今週のトピックスは『駆逐艦の待遇改善と意識調査』であった。
「昨今の新規駆逐艦の増加と、作戦重要度の増加に合わせて鎮守府内での待遇改善と、意識調査を実施。提督と駆逐艦の1on1も検討中…」
北上は今日何度も読み返した内容を頭に思い浮かべ、よろよろと後ずさるように掲示板から離れた。壁を背にして寄りかかり、外気に冷やされた窓に後頭部を押し付けた。頭の後ろで雨の音が聞こえ始めたが、北上の思考を埋めるのはこの新聞が意味する所だけであった。
(駆逐艦の待遇改善はかつて漣達と会議してたものと内容と合致する。だけど駆逐艦と提督の意識共有とワンオン?先日霞を送り込んだのはあたしだと提督も気づいてるはず、でもそれから特に音沙汰も無い。ストーリーがあたしの思惑からどんどん外れていく…)
打ち付けるような雨音が窓越しに伝わってくる。嫌でも頭に刷り込まれるその雑音に、北上は耳障りな歯ぎしりの音を重ね合わせた。
顔全体が怒りと苛立ちでみるみる歪んでいく。
(あたしはいつまでこの糞くだらない仕事を続ければいい?)
どん、と寄り掛かった壁に拳をぶつける。何もかもが腹立たしく、不愉快だ。
見苦しい駆逐艦ども、同情したように笑う日向も、あたしを支配した気でいる提督も。何もかもがあたしを苛立たせた。
「目障りなんだよ」
「そうですか…はい、北上さんの珈琲」
北上は差し出された紙コップを手に取りながら、隣立つ大井の顔をにらみつけた。
「大井っちもだよ」
「北上さんは雨の日は機嫌悪いですね」
「関係ないっての」
窓の外に目を向けながら、北上は受け取った珈琲をすする。いつの間には外は土砂降りで、海どころかすぐ外の様子さえまともに見えなくなっていた。窓越しに外の寒さが伝わってくる。
熱い珈琲を口にしながら、いつもの自分ならアイスが良かったと愚痴をこぼすであろうことを想像した。もちろんそれを大井が知らないはずもない。
(どこまで気が利くんだか、この娘は)
「ホットでよかったでしょう?」
心の中を読まれたような発言にドキリとして大井に目を向けた。彼女は何も言わずに窓の外を眺めている。そして、「あっ」と声を上げて窓の外を指さした。
北上もつられて外を見る。少女のような影が雨の中に消えていった気がした。
「北上さん、大変です」
「何がさ」
「あの子、風邪をひいてしまいます」
「いや、帰ってくるでしょ」
おたおたと動揺を見せる大井を他所に、北上は冷静に言い放った。
海沿いに出ていて降られたのだろう。この大雨じゃ方向を見失ってもおかしくない。かといって遭難するような広さじゃないし、雨宿りする場所なら山ほどある。
「はい、北上さん」
北上は大井を見て、ぎょっと顔をひきつらせた。どこから取り出したのか、一本の傘を持ってそれを自分の方へ差し出している。北上は一歩後ずさりながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「いや、無いっしょ」
「頑張って、北上嚮導艦!」
無理やり傘を押し付けられる。手に持っていた紙コップは素早く没収され、ぐびぐびと中身を飲み干された。空のカップを窓際へ置き、大井は素早く北上の背中を押した。
「お仕事しましょ!嚮導艦殿!」
ものすごい力で背中を押され、玄関まで押し出される。ドアを開けると、耳を打ち付けるようにけたたましい雨音が周囲にこだました。半ば無理やり開かれた傘は予想に反してとても大きく、軽巡二人くらいなら余裕で雨を防げそうではある。しかし、問題はそんな事じゃない。
「いや~、こういうのは管轄外っていうか、そもそもおかしくない?」
「何言ってるんですか、駆逐艦の面倒見ないで…北上さん、他に、お仕事、ないでしょ!」
「大井っち何気にひどって、うわ!」
雨の中に放り出され北上は慌てて傘を差した。背後で閉まる扉の隙間から、大井が手を振っているのが見えた。
「なんであたしがこんな事…」
傘ごしに伝わるくぐもった雨音と、冷え切った空気が辺りを包み込む。こころなしか吐いた息が白く煙っているようにすら感じた。
遠くに消えた駆逐艦の影。海に沿って寮とは反対側、あちら側は建物が少なく、確かにこの雨の中ではしんどいかもしれない。いや、なに素直に心配してる。自分の心配しろ、下手すれば風邪ひくのはあたしの方だ。
「これだからさぁ…」
北上は身震いを押さえながら、手に持った傘を強く握り直した。
「駆逐艦(コドモ)は、大っキライなんだっ!」
大声をあげながら、濡れるのも忘れて雨の中を走り出した。