「おかあさんはなーして、かえってこんとね?」
私は何度、その問答を繰り返しただろうか。
「巡理、日本にはどこにでも病院はあるけど、他の国にはお医者さんがいっちょん居らんとこもあっけんがね。お母さんが診察しに行っとらすとよ」
「きょうは、どこんくににおっと?」
「きょうはね、ボリビアって国に行っとらすとよ」
何故、どこに。毎日毎日、私は尋ねた。父は困った顔をしながらも、いつも違う国の名を口にした。
「ボリビアからかえってこらしたら、おかいものいける?」
「んーでも、次はチリに行かなんらしかけんが、まだお買い物は行けんとよ。小指のおじちゃんが明日にはきっと食べ物もって来らすけん、それまで我慢せなんばい」
我慢、我慢、我慢。我慢の日々だった。
「わたし、がまんはもうイヤ!」
家は燃えた。正しくは、燃やされた。
テントや段ボールハウスですら、何度も何度も何度も。執拗なまでに燃やされた。
母が助けてしまった
強い圧力によって、仕事はおろか、生活保護を受けることも、子供一人施設に入ることも、買い物さえもできない。
「おかあさんはいっちょんわるくなかもん!」
春は良かった。管理の甘い山に行けば筍が掘り放題だった。山菜や野イチゴを籠に集めるのが楽しくて仕方なかった。
「みんなばたすくっとは、よかこつっていっとったもん!」
夏はマシだった。辺鄙なスポットでもアジやイワシが沢山釣れた。それなりに果実も収穫できた。でも腐った物に中って苦しむことも何度かあった。
「みんながおかしかとよ!」
秋は厳しかった。小動物のようにドングリを集めても虫食いやアクに苦戦し、川に入るのも気温的に厳しくなっていった。
「もうよか。みんなにいじめらるっとなら、いいこにならんでよか!」
「巡理!」
そしてとうとう限界が来た。冬は採れるものは少ない。寒さで体力も落ちた私たち親子は歩き回る力も碌に残されてなく、夜中のゴミ箱漁りと公園での水汲みで飢えを凌いでいた。
私たち親子が徹底的に警察や市民団体からマークされている中、様々な妨害を潜り抜けて義理固い
哀れに思った一般人や、母の縁者、情け深い敵たちが、私を匿ってくれたこともあった。でもその度に役所や警察、最悪の時には買収されたらしき英雄崩れまでもが総掛かりで皆を捕まえた。ときには冤罪をでっち上げられてまで。何が誘拐だ。
「わたし“びらん”になるもん! こゆびのおじちゃんごたっ、よか“びらん”になるっ!」
「待たんね! こらっ、どこ行くとっ?! 巡理!!」
公園で満タンにした水タンクを担いだ父を置いて、私は人混みの中へと逃げた。
そしていつの間にか、平穏だった頃よく通っていたあの八百屋へと足を運んでいた。
生きるために。盗むために。私は物影から痩せ細った小さな手を怖怖と伸ばし、そして──────
「ごめんなさい!!」
自分の寝言で飛び起きる。今日はここで終わってくれたか。ロングラン上映はもううんざりだな。
睡眠をうまく制御できたら良いけれど、眠っている間は個性の制御ができないから諦めるしかない。寝込みを狙った襲撃への警戒で手一杯。睡眠薬を処方してもらったら本当は一番楽なんだけど、そんな無防備なことなどそれこそ夢のまた夢。
「……起きようかな」
寝汗でシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。気だるい上体を起こし、枕元のペンギィーは4:50分の時計を掲げているのを確認する。
「10分早いか……」
二度寝したところで碌なことはない。いつもより10分長くトレーニングした方がまだ有意義だ。
個性による自己管理で入院中に衰えた筋力を思っていたよりも随分早く戻すことができたが、まだ昔の方がもっと早く走れた。それは先日の相澤先生のテストでわかっている。もう少し早く走れるようになるまで、走り込みのお誘いはお預け。それをモチベーションに今日も頑張るとしよう。
「ネガティブ禁止! 起きよっ」
まずは思いっきり蛇口を捻って水で顔を洗い始める。指先から溢れだす水の塊を顔中に叩きつける。繰り返すこと二、三度。水と空気のひんやりとした境界線が段々と思考を明瞭にしていく。
瞼の奥まで行き渡った清涼感を確かめるように私は目を見開いた。うん、まさに水も滴る良い女。怖い顔したままじゃ、駄目だもんね。
ふわふわなタオルに顔を埋める。柔らかなバラの香りが呼吸を通して体中に染み渡るようだ。昨日の帰りに茶子ちゃんと柔軟剤をまとめ買いして分け合いっこしたのは大正解だった。安物洗剤だけのときと仕上がりが全然違う。
そしてそのままフェイスタオルを頭に巻いて、いつものジャージをサッと羽織る。ウエストポーチに補給用のバナナと水道水を詰めたペットボトルを用意して準備完了だ。
「さて、と。それじゃあ行ってくるね。お父さん」
× ×
一番楽しみなヒーロー基礎学の授業の時間がとうとうやってきた。しかもその内容はと言うと……
「災害水難なんでもござれ
皆の反応は様々だ。大変そうだなと言う人たちも居たが、特に梅雨ちゃんなんかは私と同じくレスキューヒーロー志望だからいつもはクールな彼女も「水難なら独壇場ね」とかなり興奮しているみたいだ。ほら波形の密度がまた高まった。
でも私はそれ以上に興奮しているから人の事は言えないけどね。だって雄英におけるレスキュー訓練で適任の先生といえば間違いなく13号先生かリカバリーガールのどちらかだろうというのは容易に想像がつく。そのどちらも私の目標として相応しいヒーローたちだ。ついにこの時が来たかと思うと、興奮しすぎて言葉が出てこない。
「おいこら、おまえたちまだ途中だぞ」
騒ぎすぎたせいで相澤先生に怒られた。私は騒いでいないから無罪だ。いそいそとコスチュームに着替えて訓練場までのバスに向かう。勿論一番だった。でも私以上に空回っているのがここに一人いた。
「ドンマイ飯田」
「どんまい非常口~」
「ど、どんまい? 飯田くん」
ゾンビって言われるよりは非常口の方がいいのかな……どうなんだろう。訓練の移動にバスを使うということだったので、天哉は皆がスムーズに座れるように整列させた後に乗りこませたものの、想定していた座席のタイプと異なっていたようで彼の仕事は何の意味も為していなかった。
「こういうタイプだったか。くそう!」
天哉は脱力するようにバスの座席に付く。私も彼の対面に座り声をかける。
「くそうって、君にしては珍しい言葉だね天哉。そこまでしょげること?」
「はっ、俺とした事が汚い言葉をつい使ってしまった。気分を害した様ならすまなかった」
「たまにはガス抜きにいいんじゃないかしら? 爆豪ちゃんなら毎日言ってるもの」
「雄英生として、模範たるべき副委員長としてこれは恥ずべきことだ。気が抜けた時の言動にも気を使わなければ」
「梅雨ちゃんの言う通りだぜ、副委員長。爆豪なら一日百回ぐらい言ってるから気にすんなって」
「いや、二百回はあるだろ。クソを下水で煮込んだような性格だからな。仕方ねぇよ」
「
うわぁ、ひっどい言われ方。切島くんに追随する上鳴くんの評価はかなりえげつない。でもよく例えたものだなと私もつい頷いてしまった。
「んだとコラ?! この糞髪ども殺すぞ!」
そう騒ぎながら向かっていたのも束の間のことで……
「スペースヒーロー『13号』だ! 災害救助のスペシャリストで紳士的なヒーロー!」
「私好きなの13号!」
「茶子ちゃん、私もだよ!」
相澤先生とオールマイトと共に授業を受け持つ3人目の先生の予想は大当たりだった。本物の13号に教えてもらえるなんて夢みたい! 雄英に来て良かった!
ちょっとお小言も混じっていたけれど、先生は素晴らしい演説をしてくれた。『人を傷つけるためにあるのではない。助けるためにあるのだと心得て帰って下さいな』という締めの言葉にみんな湧いていた。天哉に至っては誰よりも盛大な拍手と共にブラボーと連呼し褒め称えている。
人を助けるために、か。そのために私の力はあるんだ。そのため
ストーカーが部屋に侵入してきたときのような、肌を爪の先でチクリと刺す程度の波形の乱れを急に感じ取る。いや、これは乱れじゃない。
何か不味い──────
人だ。全開にしても薄くしか感じ取れないけれど、間違いなく人の反応だ。でも何もないところからなんで突然生命反応が湧いてきたのか。授業のギミックなら良いけれど、そうじゃないと私のこれまでの経験が告げていた。これは襲撃だと。
「増えてる! 50m左下、噴水!!」
とっさに出てきたのはこんな単語だけ。でも相澤先生には届いた。
「ひとかたまりになって動くな!!!」
「は?」
「13号生徒は任せた!」
「はい!」
それが
「なんだぁ、あれ?」
「授業のドッキリか?」
「いや、そんな訳ねーだろありゃどうみたってヤベえって!」
チャンネルを全開にせずとも、既に目視で確認できるようになっていた。20や30なんてものじゃない数の敵たちが次々に黒い霧がかった空間から這い出してくる。
彼らの容貌の問題なんかじゃない、滲み出している悪意とでも表現すべき鉄錆色の臭いは、私にとっては毎日のように嗅ぎ慣れたものだった。断言できる。あれは────
「動くな、あれは
────
「オールマイトが見当たりませんね。先日頂いたカリキュラムでは、オールマイトがここに来るはずだったのですが……」
おそらく転移能力者であろう黒い靄がかった敵が、いきなり聞き逃せないことを喋り出した。
『頂いた』ってどういうことだ。『誰かに』頂いたのか、『勝手に』頂いたのか。それ次第じゃ私の独立計画が破算になる。どうにかしてカマを掛けて聞き出さないと。
「チッ、先日のアレはクソ共の仕業だったか」
ちょっと、その決め打ちは良くないって。あーあ、これでもう捕まえでもしない限り、この件から情報を得にくくなってしまった。私の方が舌打ちしたいよ相澤先生。
「どこで何しているんだよオールマイトは。せっかく大衆引き連れて歓迎しに来たっていうのにさ……まったく」
複数の手を体中に付けた男、センターに陣取っていることからしておそらくリーダー核らしき人物が口を開く。
「んーそうだなぁ。子供を殺せばくるのかな?」
しかもオールマイト狙いを豪語するだけあって実力はかなり高そう。個性を使うまでもなく、私のこれまでの経験と本能がそう告げている。オールマイトをアイツが倒せるとは思わないけれども、少なくとも私たちに生徒には荷が重いのは間違いなさそうだ。
「待って下さい。彼女はもしや?!」
「あぁ、アレがエンドレスの娘か。アイツの個性はオールマイトを殺すのに邪魔だなぁ。アイツも殺していいよ、いや絶対に殺せ」
そして完全に目があった。指の隙間から覗く血走った瞳と歪につり上がった口角。こりゃ中々にキマってる感じだ。まさかとは思っていたけど純粋に殺しに来るのか。誘拐未遂は数あれど、これ程露骨なピンチは久々かもしれない。
「それでは手土産にするという話は?」
「オールマイトが優先だ。それに、娘の死体でもぶら下げとけば、エンドレスも釣れるかもなぁ」
完全に私にヘイトが集まっている。非常に不味い事態になった。対人戦闘はそれなりに心得があるとは言え、まだリハビリ中で筋力も入院前と比べたら戻りきっていない。これだけ敵の数が揃っていれば相性上、いつか必ず詰みの場面が来るだろう。
私の個性は多少応用の幅が広いけれども、本来『生かし続けること』に特化した能力だ。自分の命の心配もだけど、私が生き残っていないと皆の生存率が大幅に変わる。だから死ぬことも、治療不能に陥ることもどっちもダメだ。入試の二の舞いをするわけにもいかない。
全滅が勿論論外として、二番目に最悪だとしてもクラスメイトだけは生存させる。とっくに私はヒーロー失格だなんてこと、自分自身が一番良く知っている。だからもし退学になってしまったときはしょうがない。別の道を行くまでだ。
でも。もし、もしもの話だ。みんなと生き残れて雄英に通い続けられることが叶うならそれが一番に決まっている。正攻法以外でこの個性を使うなら勝算は多分低くない。しかしそのためには先生たちの目が――――邪魔だ。そんなことを考えていたときだった。
「猪地くん、君さえ生きていれば皆が助かる可能性が上がる。だから君は無理をせず下がっていてくれ」
天哉が私の右肩を力強く叩く。「もうあの時みたいなのは御免だ」と彼は呟いた。マスクを被り、私の前に立つ。ありがとうね、ヒーロー。
「眼鏡の言うとおりだ。デカ女、てめぇは後ろでお得意の罠でも作ってろ」
「そうだぜ猪地! 体を張るのは俺達に任せとけって。お前と八百万ならできないことなんてないだろう」
爆豪と切島くんが戦意に溢れた声を発する。すごい戦力差なんだけど逞しくて良いね。そして────
「やりましょう、脱出作戦。作戦立案は私たちの得意分野でしょう?」
「百ちゃん」
最後の一押しは最高の相棒からだった。そうだ個性を使わずとも私にはこの場の誰よりも襲撃を受け慣れているという点で優位性がある。
冷静に考えれば私が無茶しなくてもかなりの手を打てる。
天哉が居る。百ちゃんが居る。茶子ちゃんに緑谷くん、透ちゃんに青山くん、上鳴くんに口田くんが居る。
他のみんなの個性の上手い使い方は百ちゃんとならきっと思いつくだろう。
私の個性は極限まで温存しよう。本当にどうしようもなくなるそのときまで。