二日の休みを挟んだ後の登校日。体育祭が終わったのにも関わらず、誰に言われるでもなく体育館に集まったメンバーで恒例となっていた朝の自主練メニューをこなしていく。体育祭の影響で皆も通学中いろんな人に声を掛けられたりしたことと生憎の雨ということもあって、少々いつもよりも集合が遅くなってしまったが、久々の朝練なのでこれくらいの練習量でちょうど良いのだろう。
女性陣や中・遠距離組の基礎トレ組は巡理くんが、そろそろ疎かにしていた勉強が怪しい組は中間テストに向けて八百万くんが指導する中、副委員長である俺が取り仕切っているのはある程度基礎が出来ている近接格闘組、緑谷くん、砂藤くん、切島くん、尾白くんだ。一通り実践的な組手を行った後、今行っているのはシャトルラン、20メートルの幅を合図の音に合わせて段々速度を上げて往復していく種目、平たく言えば往復持久走だ。
現場を想定して体を慣らしていない状態での急激な戦闘、そして疲労後の逃走や追走を想定した合理的な理由でこの曜日のメニューは組み立てられている。
持久走は個性の関係上、圧倒的に有利な俺と緑谷くんは倍のペースを義務付けられている。俺は切り返しのスムーズさを、緑谷くんは個性の出力調整に重きを置いての練習だ。
「そろそろ時間だな。みんな後三往復で終わりにしよう!」
「おぅ!」
そろそろ皆限界に近いペースまで上がっているのにも関わらず、息を切らしながらも威勢の良い掛け声が帰って来る。そんな中、並走する緑谷くんが俺に声を掛けて来た。
「飯田くん、ラスト一往復は全力でやってくれない? フルカウルの性能、もっと確かめておきたいんだ」
彼が勝負ごとを持ちかけて来るなんて珍しい。きっと先日のことで気を使ってくれているのだろうな。
「勝負か? 勿論望むところだとも!」
「じゃあ、あの線でターンしてから――行くよっ!」
白線に触れたのは同時。だが小回りの効く、緑谷くんの方が切り返しが早い。二歩半、出遅れた。
「まだだっ!」
ギアを上げろっ!
腕の振りをよりコンパクトに、ストライドをより大きく!
弾けそうな心臓を、千切れそうな肺腑を気合で押さえつけろっ!
「――――すごっ?!」
彼の声を置き去りにしてゴールする。だが、この練習の真髄はここからっ!
全力で足を踏ん張り、反対方向にブレーキを掛ける。上体を捻り、さらに地面を踏みしめ――――
「約三メートルか」
静止するまで随分と無駄な距離を使ってしまった。まだまだ精進が足りないな。
「僕も最高出力も上がったんだけど、やっぱり飯田くんには敵わないね。でもまた勝負してもらってもいい?」
コンマの差でゴールしたであろう緑谷くんがゼェゼェと胸を抑えながらも、白い歯をしっかりと見せるようにして笑いかける。
「あぁ、何度でも受けて立とう」
掲げられた右手にハイタッチすると良い音が鳴った。あの入試以来随分と彼とも仲良くなったものだ。巡理くんと同じく、彼も俺のライバルであると言えよう。トーナメントでは当たることが出来なかったが、次の機会のためにお互い精進したいものだ。
そんな感慨にふけっていると通常ペースで走っていた砂藤くんたちも、ラストは全速力でゴールラインに駆け込んで来た。
「キレッキレじゃねぇか非常口。インゲニウムも無事回復傾向ってニュースであったみたいだし、心配事が減ったおかげか?」
「そうだな。色々と心配をかけたがもう大丈夫だ。砂藤くん、ありがとう。しばらく療養するみたいだが体に問題はほとんどないそうだ。晩御飯にこってりとした宅配ピザを頼もうとして事務所の人に怒られていたくらいだ」
「確かにその食欲なら心配なさそうだぜ」
「それにしても昨日はおかゆは嫌だとゴネる兄と、説教を止めない事務員さんの仲介に一時間も突き合わされて散々だった」
「そりゃあ怒るわな。でもそんな下らない愚痴が出るようで安心だ。なぁ尾白!」
砂藤くんの豪快な笑い声に皆の声が重なる。
「本当にそうだよ。でも二人が急に居なくなったからこっちも大変だったんだからね。特に芦戸さんと葉隠さんの騒ぎ方が、爆豪とは別の意味で凄くてさぁ」
「そうそう。せっかくのリストバンドを有効活用しないままはもったいな――――もがぁっ!」
「ちょっ、緑谷、それはマズイって! いや、飯田なんでもねぇ。それにしてもピザか。しばらく食ってねぇな。そう言えば体育祭のおつかれ焼き肉パーティーとかB組やってたみたいだぜ。全員揃ったしピザパとか近い内にやんねぇか? たまには気を抜いて普通の高校生らしいこともやった方がいいと思わねぇ?」
何かを言おうとしていた緑谷くんの口を塞いだ切島くんが露骨な話題転換をする。
「確かに最近気を張ってばかりだったからな。息抜きも必要かもしれないな。しかしピザは決して安くないぞ。あんまり予算がかかると麗日くんや巡理くんなどは敬遠するかもしれん」
「うーん、あの二人金銭感覚結構厳しいもんね。ピザじゃなくてもお菓子とジュースとか持ち寄りでも良くない?」
「お菓子なら俺が作ろうか? 普通科の家庭科室を借りれたら場所代もかかんねぇし安く上がるよな……後で相澤先生に聞いてみるぜ」
緑谷くんの言う通り、持ち寄り形式の方が負担がないかもしれないな。俺はお詫びも兼ねて少々多めに持ってきてもいいだろう。
「そういや砂藤はお菓子づくり得意だったっけ。ピザとかこってりしたものより、甘い物の方が女子のみんなも喜ぶんじゃないかな」
「結構尾白って女子のことわかってるよな。せっかくだし女子に声掛けといてくれねぇか? 緑谷は他の男子に声掛けといてくれ、俺は爆豪とか轟とか面倒くさがりそうなのを引っ張ってくるからよ。飯田は砂藤のフォロー頼む!」
「え、俺が女子に――でも爆豪相手よりは楽か」
「適材適所というヤツだな。フォローは任された。先生への交渉は俺がやろう」
一番苦労するところを引き受けてくれる切島くんは偉い。だが確かに彼が一番爆豪くんとの距離が近いので任せることにする。俺は円滑に物事が回るように裏方に徹しよう。
「というかいつのまにか僕たちが幹事になってるよね。楽しいからいいんだけど」
「なんかワクワクするよな! なぁ砂藤!」
「短い時間でできるお菓子。材料費が安くて、食べやすさを考えると――――」
「おー珍しい。砂藤もガチモード入るんだな」
緑谷くんや巡理くんのような思考モードに入った砂藤くん。
「おーい、デクくんたちも教室に戻ろっー!」
「わかった! すぐに行くからー!」
基礎トレ組も撤収に入ったのか、麗日くんが遠くから声を掛けて来た。
「さぁ、これでお開きだ。俺たちも行くとしよう」
「じゃあこの件は昼休みにでも相談しようぜ」
「何話してんのー? 天哉たちも早く!」
× ×
「おはよう」
予鈴の音の直後に入室する相澤先生。そのルーティンワークに俺たちも慣れたものだ。着替えを済ませた体育祭後の周りの反応などについて会話を弾ませていたが、入室の瞬間にはきちんと皆が着席を済ませていた。
「今日は連絡が多いんだが、まず皆に――――」
「もったいぶらなくていいですよ。先生、俺たち知ってますから。ちゃんと用意して来ましたって!」
「私もー!」
瀬呂くんの言葉に同調する葉隠くんの伸びやかな声。
「ずいぶんと耳が早いじゃないか。なら説明は省くぞ。入って来い」
「……入って?」
首を傾げたのは瀬呂くんだけではなかった。教室の扉が開き、皆の視線が集中する。
「どうも」
そこに立っていたのは普通科はずの心操くんだった。
「予想外のヤツ来たぁ!?」
叫び声があちこちで飛び交う。俺も流石にこの展開は予想していなかった。心操くんの実力はよくわかっているが、いくら何でも性急すぎるというものだ。
「まぁ、知ったかぶりは良くないということだ。これで一つ学んだな。さて、おまえらも体育祭で面識はあるだろう、今日からの編入生だ」
「普通科から来た心操人使です。体育祭では色々あったけど、これからよろしく」
淡々と喋った後、彼は一礼して見せる。
「体育祭の活躍が認められての特例措置ってヤツだな。1ヶ月分はお前らのほうがヒーロー科としての先輩ではあるが、辛酸を舐めさせられたからわかっているな? 驕らずにお互いに切磋琢磨するように」
騎馬戦でほとんどのメンバーが心操くんに手玉に取られた記憶があるため、相澤先生の言葉を受けて多くの者が青ざめた顔になる。
「でも、いくら何でも編入って早すぎじゃないですか? 流石に一ヶ月って聞いたことがないというか」
「芦戸、後で嫌という程事情は教えてやる。だから座ってろ」
「むーっ」
「先生!」
「なんだまだあるのか飯田?」
「クラスメイトが増えるのは大変喜ばしいのですが、ウチのクラスで良かったのですか? これではB組より2人も人数が多くなって不平等だと思うのですが」
彼の活躍が認められたことは素直に嬉しい。しかし、これではB組からの反発があるのではないかと思い、挙手して尋ねる。どうにも向こうのクラスには揚げ足を取るのが上手い者が居るから注意しろと、塩崎くんから聞いていたので少し気になったのだ。
「あぁ、確かに最初はその方針だったんだがな。俺も管理する人数は少ないほうが楽なわけだが、訓練で2人ペアのときが多くて、残った1人を持て余すことが度々あっただろう? 偶数で揃えたほうが合理的というわけでこうなった」
「成る程、確かに合理的ですね」
納得がいったので着席すると、巡理くんが次に挙手した。
「先生、心操くんの机と椅子を用意しないと。場所もどうします?」
「多少時間はかかりますが、私が」
「ヤオモモ駄目、ここで露出は駄目だってば!」
「なんでも個性で解決しようとするな、八百万。普通に廊下に持ってきてある。心操、持って来い。場所はとりあえず砂藤の後ろ――――初対面の名前じゃわかんねえか。麗日の隣でわかるか?」
「はい、チーム組んでたんで」
「君自身の他の荷物もあるだろう。机の方は手伝うぞ」
「悪りぃ、助かる」
「俺は副委員長だからな。これくらいの協力は当然のことだ」
席を少し詰めたりと心操くんの準備が整った後、先生は皆が期待していた本題に切り込む。
「さて、待たせたな。今日の“ヒーロー情報学”はちょっと特別だ。何人かは知ってるようだが、今回はコードネーム、ヒーロー名の考案だ」
「しゃあああっ!」
「胸膨らむヤツ来たぁあああ!」
「バッチリ考えてきたぜ!」
「その様子だと説明は簡略化するぞ。プロから来たドラフト指名の集計結果が出た。本来指名が本格化するのは即戦力になる2、3年だから今年の指名は将来性に対する興味だと考えておけ。で、その結果がこうだ」
轟:2914
爆豪:2564
猪地:1587
常闇:503
飯田:415
緑谷:361
麗日:210
八百万:181
心操:152
上鳴:123
切島:79
蛙吹:33
瀬呂:24
芦戸:15
尾白:7
障子:6
青山:2
集計ボードに目を通す。俺が約四百。クラスで五番目か。それにしても上の三人はダントツだな。巡理くんには負けてしまったか。三倍強、いやほぼ四倍差か。これが客観的に見た俺の評価ということか。
「クッソ、結局才能マンの総取りじゃねぇか」
「納得行かない☆」
「上鳴、アンタは結構来てるからいいでしょ。ウチなんてゼロなんだけど」
「俺が7票、嬉しいような悲しいような」
「でも尾白くんテレビでランキング三位でしょ。クラスで一番だったじゃん! 凄いって」
「葉隠さんそれは忘れさせて。お願い……」
「うぉおっ! 二百も来とる! トーナメントもうちょっと頑張ってたらもっと来たんかな。いや、欲を搔くのは良くない。うん」
「うーん、障子はトーナメント行ったからもうちょっと上でも良いよな」
「これが現実だ。少なくとも指名してくれたことに感謝しなければ」
「オイラの名前ねぇんだけど。ちゃんと見てたのかプロヒーローは?」
「――――見たのがこの結果だ」
結果に一喜一憂する面々に対し、先生が鋭い言葉を放つ。
「例年はもうちょいバラけるがまぁ上の奴らは頑張った結果だろう。それについては良しとしよう。だが下の方、特に票が一桁台、もしくはゼロの奴ら、俺が言いたいことはわかるな?」
「正直に言うと、普通科の心操ちゃんに負けてるって何だか自信失っちゃうわ。ケロ……」
「というかちょい待って下さいよ。先生、そもそも普通科にスカウトが来るっておかしくないですか? 職場体験に行けないじゃないですか」
意外なことに上鳴くんがもっともなことを言う。だが先生は面倒くさそうに頭を掻きながら話を続ける。
「ヒーロー科以外で活躍した選手にスカウトが来たこと自体は全く前例がないわけじゃない。だがお前の言う通り、ヒーロー科じゃないから職場体験に行った試しは今までなかった。だがよく考えろ。事務所あたり二つしかない大事な票の内の一つを、無駄に使うんだぞ。それがどういうことかわかるか?」
「一票を潰してでも、その生徒にアピールしたいってことですよね。転入前から目をかけてくれた事務所なら特に印象が強く残るはず。後は学校へ転入させるべきだという圧力や、純粋にその生徒を応援したいって声の可視化、要するにヒーローを諦めるなといったメッセージ的な意味合い、そんなところでしょうか?」
相変わらずの名推理だ。激しく頷かざるを得ない。前者はともかく、後者の方には思い至らなかった。
「正解だ、猪地。良くも悪くも半分はお前らのせいだがな。騎馬戦での大博打が成功したってわけだ。雄英の歴史を変えるくらいにな。本来なら来年を待つところだが、どうせ編入確定なんだ。技術面、体力面での差が開かない今の内にやってしまおうという校長の判断が下った」
「そんなに凄いことやったんやね。いつもお世話になっとるけど改めて尊敬するわ。心操くん」
「麗日お茶子、そんな遠い目をされても困る。俺も現実味がないからな。なにせ昨日聞いたばっかりだし」
「そうなん? 準備とか大変やったね」
「全くだ。教科書はなんとか揃ったけど明日からしばらくは補修だらけみたいだな」
「ご、ご愁傷さま。でも夢に一歩近づいたんやから頑張ろうね! ノートとか貸すし!」
「……すまん」
事件後の心の治療で世話になった麗日くんにとって、心操くんは頭が上がらない存在だ。彼女を通して心操くんの付き合いの輪も広がっていけばいいと思う。
む? 付き合いと言えば、待て。そういえば今朝言っていたパーティを歓迎会にするのはどうだろうか――――いや、これは後で話し合うべき案件だ。思考を元に戻す。
「ウチのクラスでもトップ10に入っていらっしゃいますし、これだけの票は流石に無視できませんわね」
「ちょっと待て。俺、恐ろしいことに気づいたんだけど、無駄になる票だけでこの順位って、元々ヒーロー科だったらもっと上行ってたんじゃ」
「そういうことだ」
「うわぁーっ! それは聞きたくなかった現実」
「耳が、耳が痛い」
「いや、俺はそんな凄くないから……やりにくいから止めてくれ」
瀬呂くんの言葉によって真実に気づいてしまった面々。彼らの嘆きによって教室が阿鼻叫喚の地獄に変わる。
「そろそろ本題に入るぞ。この結果を踏まえ、職場体験に行ってもらうためにヒーロー名を決めるわけだが、その様子だと大体考えてきているみたいだからな。サクッと行こうか」
ゴソゴソと寝袋を準備する相澤先生に変わって、教室に入ってきたミッドナイトが壇上に立つ。
「できてる人から前に出て発表していってね。どんどん行くわよ! でも気をつけなさい。このときの名前がプロになってからも使われる人多いからね。その辺のセンスを私が査定していくわよ!」
× ×
皆の準備も良いこともあって発表はどんどん進んでいく。緑谷くんが蔑称であったはずの「デク」をヒーローネームにしたときは驚いたものだ。「爆殺王」などとんでもない名前を出してきた爆豪くんや、編入自体でドタバタの心操くんなどが再考になったが後は概ね順調と言っていい。
「天哉は名前のまんまでいいんだ」
「あぁ。昨日お見舞いのときに兄さんと藻部さんと考えてみたが、俺のはあまり良い名前が浮かばなかったんだ。インゲニウムに近い名前にしようとしたが、あんまり俺の後ろばかり追うなと兄さんに言われたのもあるし、いい名前をもらってるんだからそのままでもいいんじゃないかと藻部さんに言われてな。場合によっては世間の方が呼称をつける場合だってあると言うし、二人の勧め通り今は自然体で行こうと思っている」
「ふーん」
珍しく感情のこもっていない返事をする巡理くん。若干上の空だな。彼女はどうもボードにヒーローネームを書き終えているようだが、やはりあの名前を発表するのだろうか。
「大体一巡したし、私も行こうかな。先生! 次、私やります!」
「お、遂にイノッち行くか」
「カモン、バッチリ査定して上げるわよ!」
壇上の彼女が掲げたボードに書かれていた名前を見たミッドナイトがしばし沈黙する。そして諭すようにミッドナイトは言った。
「“レスキューワン”だなんて、いくら何でもそれはあんまりよ。考え直しなさい猪地さん。切島くんのようなリスペクトとは事情が違うわ」
あの体育祭で偶然聞いてしまった彼女の呟き。彼女の父親が殺傷したと言われているヒーローの名前、それが“レスキューワン”だ。
「言いたいことがありそうだな。猪地、言うだけ言ってみろ。ただし判定は俺たちがするぞ」
相澤先生が寝袋から這い出てきた。そちらを睨みつけるようにして巡理くんが言う。
「レスキューワンは――――私の命の恩人で、誰よりも尊敬するヒーローです。でも私が関わったことで殉職してしまった。それは事実です。だから彼の後を継いで彼が救うはずだった分の、いいえ、それ以上の命を救って見せる。その決意を込めて私は彼の名前を引き継ぎます。引き継がなきゃ、いけないんです」
悲壮な表情で覚悟を語る巡理くんに対し、誰も何も言葉を発せなかった。この前の独り言を聞いて、こうなることを半ば俺は予見できていたというのに。
生きている世界が、見ていた世界が違うのだと、彼女の紡ぐ言葉に改めてその格差を思い知らされる。そう感じているのは多分俺だけじゃない。
「あなたの言いたいことはわかったわ。生半可な決意じゃないこともわかる。でもね、それじゃ世間は、少なくともレスキューワンの遺族は納得しないわ。誰かの名前を引き継ぐなら、せめてお母さんの方の名前から取りなさい。ヒーローとしては困ったものだけれどもね、人としては私はあの人の一本筋の通った在り方をちょっと尊敬さえしているわ。日本はまだ規模は小さいけれども、昔よりもバックも大きくなって人々の理解も得やすくなっている。だから」
「誰があの人の名前なんかっ! お母さんは私を捨てた! でも
隣でなだめるように言うミッドナイトに、段々とヒートアップしていく巡理くん。急激な展開に先生たち以外の誰もがついて行けていない。ただ黙ってことの成り行きを眺めている。
「ねぇ、飯田くん。今のめぐりん、ちょっと不味いんちゃう?」
俺の二つ後ろの席である麗日くんが体を前に伸ばしてペンで俺の背中をつつきながら、ひっそりと声を掛けてくるので俺は振り返って答える。
「今のあの様子では、先生方に任せるしかあるまい。こうならないように準備はして来たつもりだったのだが歯がゆいな」
「本当にそれでいいの? この前あんだけしてもらっておきながら自分は歯がゆいって。いや、もうええわ。ねぇ、心操くん」
「何だ、俺に聞かれてもヒステリー起こしてることぐらいしか状況理解できてないぞ。おい――――は、マジでか?」
いつものどんぐり眼からは想像できない、あの鋭い目つき。麗日くん、本気で怒っていたな。今は何か心操くんと相談しているようだ。残念ながらあの場に俺の存在は求められては居ないのだろう。視界を教卓側へと戻す。
「だがな、猪地。レスキューワンはお前の父親が殺した。出回っている情報だけでは俺も世間もそう捉えるしかない。わかるな?」
「殺して、ません。私のお父さんが奪ったのは自分自身の命、それだけです」
「そうか。それは俺にとっては初耳だ。まぁ事件当時のお前の年齢や、エンドレスへの風評を考えれば、何らかの情報操作があったことだってゼロじゃないと想像がつく。だから、もしお前が公表されていない他の事実を知っているのなら、俺たちが後ろ盾になる。今この場じゃなくても、お前が決めたときに必ずだ。プロヒーロー、イレイザーヘッドの名に誓って」
強く、そう言い切る相澤先生。
「うわっ、今の先生カッコよくねぇ? こういうときにヒーロー名使うんだな」
誰の声か判別はつかないが微かな言葉が俺の耳に届く。
「言えない。言えません。絶対に言わないって約束したから。でも、なかったことにはしたくないから私はっ!!」
「猪地巡理、よく聞けっ!」
「何ねっ、アンタなんかに何がわかっとね!」
最後尾の席から心操くんの声が飛ぶ。条件反射的に叫んだ巡理くんだったが、それが彼の狙いだったのだろう。
『ゆっくり寝ておけっ!』
その一言で大人しくなり、崩れ落ちる巡理くんの体をミッドナイトが倒れないように支える。
「編入早々ファインプレーね心操くん。ナイス判断よ」
「勝手に使ったこと、怒らないんですか?」
「疑い深いわね。ナイス判断って言ってるじゃない」
「褒めるなら麗日に言って下さい。俺は頼まれてやっただけです」
「麗日さん、良い判断だったわ。あと、ついでに猪地さんを保健室に連れて行ってくれる?」
麗日くんにじっと睨まれる。行って来いと、そういうことだろう。言われなくてもわかっているとも。
「先生、ここは副委員長である俺に任せて下さい」
「うーん、女の子が良いかと思ったけれど、まぁ君なら間違いはなさそうね」
「間違いってなんですか」
「説明して欲しい?」
「いいえ。結構です」
「じゃあ、早く連れて行って上げなさい。次の授業の先生には私から言っておくわ。二人とも欠席かもしれないってね。起きて来たときあの調子で混乱してるといけないし、しばらくついていてあげて」
そう促されて俺は巡理くんの体をミッドナイトから託され、保健室へと向かった。
× ×
「見事にぐっすり寝ているねぇ。これをあの子がやったってのかい」
「えぇ、心操くんが個性を使って上手いこと落ち着けました」
巡理くんをベッドに寝かしつけた後、俺はリカバリーガールから緑茶とグミを頂きながら、
「『敵が怖くて熟睡ができない』って生存本能レベルでの睡眠障害にずっと悩んでいた子が、薬に頼らずこうもグッスリ眠れるなんて大したもんさね」
「睡眠障害、ですか?」
「前に相談されたことがあってね。仲の良いアンタは境遇を大体知っていると思うが、きっと思っているよりも何倍も過酷な日常を送って来ただろうさ。いつ襲ってくるかわからない敵の襲撃から生き残るためにね、体が仮眠しか受け付けなくなってるんだ。自分で体調を整える力と植物から生命力を蓄える力がなかったら、とっくに過労やストレス性の心不全なんかで死んでいてもおかしくない。そんなレベルの話さね」
絶句するしかなかった。小さい頃敵の襲撃から逃げていたという話は軽く聞いたことはあったが、リカバリーガールの口ぶりだとまるで日常茶飯事のようじゃないか。そんな次元の話は彼女の口から一度も聞いたことはなかった。
「それにあの子の個性の知覚能力、違和感を感じたことはなかったかい?」
「まるで個性を二つ持っているかのように便利だなとか、知覚範囲が広いなとかは出会った当初から感じていましたが」
「私もそう感じたよ。エンドレスと何度か出会って個性を使う場面に遭遇したこともあったけれど、基本的には私と似たようなもんさね。即時性は私の方が上だったり、あちらは病気にも対処できて万能性が高かったり、それから生命力の出処の差なんかの違いは幾つかあったようだけど、基本的には生命力を利用して体を治す。私が見る限りではそんな個性だったはずだよ。おまけにあの子の父親は無個性らしいじゃないか。それなのに、今のあの子の個性の使い方はどうだい? きっと個性の本質は大きく母親と変わらないはずなんだ。素質が劣っているということも、まずない。ただただ異常なのは、あの子の成長方向そのものだよ」
広い生命探知範囲、よく見知った人間に限れば特定も可能な精度、近接格闘にも活かせるレベルでの動きの読み取り。探知能力そのものが一つの独立した個性かのように錯覚するレベルである理由、体調を整える程度の事しかできずエンドレスの劣化版だと自嘲する彼女がそのような事態に陥った本当の理由は――――
「本来の方向性である治療の習熟を投げ捨ててでも、逃げ続けるために知覚能力に特化した方向性で伸ばさざるを得なかった。そういうことですか?」
「私も同じ結論にすぐ辿り着いたさ。回復系の個性を何人も見てきたけど、この子ほど才能を使い潰している子はそう居ない。苦労して来たんだろうね、本当に可愛そうな子だよ」
彼女の前髪をかき上げるように、頭を優しく撫でるリカバリーガール。
「本当にこの子が医者を、医療系のヒーローを目指しているんなら、私の後継者にでもしたいくらいさ。でも――――」
「違うんでしょうね。俺もそう思います。今日彼女が一種の強迫観念でヒーローにならなくちゃいけないのだと主張したとき、改めてそう感じました」
一口緑茶をすすると「お飲み」とリカバリガールがお茶のおかわりを入れてくれる。「頂きます」とありがたく頂戴した。舌が焼け付きそうなほど熱い茶を、俺は味わうことなくグッと喉の奥に流し込んだ。
「彼女は俺に依存心を抱いている。まるで幼児のように家族愛を求めている。誰かに必要とされたい、それが巡理くんの行動原理かと思っていました。普段の聡明な彼女が見せるそのアンバランスさに危機感を抱く場面が多々あったのですが、この話を聞いていると生きたいだとか、捕まりたくないだとか。欲求以前の切実な状況にこれまでは追いやられてたんですね」
「ある意味進歩ではあるのだろうけど、難しいねぇ」
「えぇ。難しい、ですね」
「すぐに解決する問題ではないさ。時間がある程度は解決してくれるだろうけれどもね。そうだ、今度職業体験が終わったら心操と一緒にこの子を連れて保健室に来なさい。多少の荒療治も悪くないかもしれないさ」
「麗日くんのときのように、ですか?」
「専門の知り合いに聞いてみて、もっと上手いやり方をこちらで考えてみる。アンタはいつも通りにしてあげな。それが一番さ。さて、そろそろ二限も終わるさね。この子は今日一日、私の権限で寝かせとくよ。職員室には私から連絡しておくから、放課後にまた迎えに来て上げなさい」
「はい、ありがとうございます。わかりました」
穏やかな表情の眠り姫を残し、俺は保健室を退出した何か俺にできることはないだろうか。そう思案しながら廊下を歩いているとき、朝の出来事をふと思い出す。
「そうだ!」
他の教室は授業中だというのに大きな声が出てしまって、人目がなくとも申し訳ない気持ちになる。だが割と悪くない案のはずだ。皆の協力を仰がなければ。
× ×
そして放課後、巡理くんを迎えに行くと、彼女はベッドで背中を丸め壁の方を向くようにして寝転んでいた。
「嫌いに、なった?」
背中を向けたまま彼女は言う。
「なるものか。あまり他人を試すようなことを口にするんじゃない。大体、君が気難しい性格なのは前から承知の上だ」
「天哉は手厳しいね。それから授業をメチャクチャにしてごめんね。みんな怒ってなかった?」
「心配はしていたが、怒ってなどないさ」
なんて言葉をかけて上げれば良いのだろう。表面的で無難なやり取りをしながら俺はそう悩む。
『ヒーローじゃなくても、医者じゃなくてもいい、やらなくちゃいけないことじゃなくてあなた自身の幸せを探して、あなた自身になりなさい』
先日のエンドレスからの伝言をここで伝えるべきかどうか、俺は判断に迷う。まさにこの日のためのようなメッセージではあるが、その言葉を受け取ったあの出来事を追求されたらまた取り乱すかもしれない。
「今日みたいになるから、あの時天哉は私を止めようとしてくれたんだよね。先生を説得してみせる、って色々考えていたんだけど、いざ話してみたら自分で自分がわかんないぐらいにグチャグチャになっちゃって、見事に玉砕しちゃった。私、これからどうしたらいいのかな」
「前々から思っていたんだが、君は少しゆっくり歩いてもいいんじゃないのか、君自身がどうしたいか見つめ直す時間があってもいいと思うぞ」
「そんなのわかんないよ……」
「それからヒーローネームの方なら、一つ提案があるぞ。授業中はタイミングを逃してしまったのだが。それにあくまで案でしかないのだが、もし新しいアイディアの一助になればとな。実はな昨日兄さんと藻部さんと相談して、一緒に考えてみたんだ」
布団をよけ、上体を起こした巡理くんがやっとこちらを向いた。
「私の、ヒーローネームを?」
巡理くんの意地の張り方を考えたら、容易な説得ではあの名前を名乗ることを諦めてはくれないだろうと考え、何か別のもっと良い名前を出せたら良いのではないかと三人で話し合っていたのだ。
ただしそれと痴話喧嘩に時間を割きすぎたせいで、俺のヒーローネームが名前のまんまでいいかという結論に落ち着いたのは内緒の話である。
「オラシオン、というのはどうだろうか?」
「初めて聞くね。綺麗な響き。語尾の感じ的に地中海とかあっち辺の言葉?」
言葉そのものを知らずとも当たってるのは流石だな。名回答に思わず拍手をしてしまう。
「よく分かるな」
「ただの勘だよ。それでどんな意味なの?」
「スペイン語で祈りという意味らしい。最初は君の名前を短くして“イノリ”はどうかと俺は考えたんだが、兄さんと藻部さんが少し捻ってくれた」
「どうして天哉は“イノリ”にしようと思ったの? 天哉ならもっと色々考えそうな気がしたからなんか意外かも」
「君の名前は、君のお父さんとお母さんがつけてくれたものだろう。なんというか、君にご両親が愛を込めてその名前をつけてくれたことを忘れてほしくなかったからだ」
母親のことに対して反発してくるかと半ば身構えていたが、彼女は何も言わず、俺の言葉の続きを待つ。
「後は純粋にそうだな。俺が君に人々の祈り、願いを叶えるようなそんなヒーローになって欲しいと思った」
「オラシオンか、いい名前だね。これにする」
「あくまで案にすぎないのだが、本当にいいのか?」
「うん、これがいい!」
うつむきながらも僅かに口元を綻ばせた彼女はそう答える。無理は――――していないな。
「でも、あくまで仮だからな。もっと良いのがあれば変えて良いんだぞ」
「しつこい! オラシオンにするの! もう決めたの! はい、この話はお終いっ!」
「そうだな。さぁ、そろそろ時間だし俺たちも行こうか」
「へ、行くってどこへ?」
「普通科の家庭科室だ。ちょっと遠いから急ぐぞ」
「ごめん、いきなりすぎて全然話が見えてこないんだけど」
ベッドから抜け出し、室内履きを履きながら彼女は戸惑いがちに答える。
「スマン、ちゃんと説明をしていなかったな。心操くんの歓迎会を兼ねた体育祭の打ち上げだ。昼休みに砂藤くんが特製のシフォンケーキを焼いてくれたらしいぞ。八百万くんもとっておきの紅茶を用意してくれるらしい」
「嘘っ、手作りケーキ! それに百ちゃんの紅茶付きって凄くセレブっぽい。早く行かなきゃ!」
「あぁ、皆が待っている。切島くんたちのおかげであの爆豪くんも参加するらしいぞ。実情を聞く限りは拉致みたいだがな」
「爆豪にもちゃんと優勝祝いしてあげなくっちゃね」
「そうだな」
足取りは軽く。先行する彼女の後を追って家庭科に向かう。
砂藤くんのシフォンケーキも、八百万くんが用意してくれたゴールドティップスインペリアルという特上の紅茶も絶品だった。爆豪くんも礼を言うくらいに素晴らしいものだった。心操くんもクラスに少し馴染めたようだし、概ね企画は大成功だったと言えよう。
トラブルと言えば、優勝祝いと詫びいうことであの巡理くんが自ら爆豪くんに自身のケーキを泣く泣く半分ほど差し出していたことで場が荒れたこと。まぁこれは切島くんと瀬呂くんが無理やり拒絶する爆豪くんの口にケーキを詰め込み、俺が半分を巡理くんに渡したことでどうにか収めた。それから紅茶の名前を検索した麗日くんと巡理くんが、その値段を見て気絶したこと位だろう。
家庭科室を片付けながら、またお茶会しようねと皆が口々に言う。こんな穏やかな日々が続けばいいと俺は切に願った。
第二十話「君の名前」は正直ちょっとグダグダだった気がしていたのですが、どうしてもこの保健室でのやり取りをしたかったのでようやくフラグ回収できました。
そしてキーパーソン心操くんのA組編入です。
P.S 投稿した二週後に原作で再登場してきた件。
嬉しくもあり、想定外でもあり、内心大慌てです。