魔導王陛下、御嫡子誕生物語 ~『術師』の復活~   作:空想病

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第3話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ツアレの出産は、母子ともに命に別状もなく、初産(ういざん)の割にはあっさりと終わってしまった。

 まったくもって魔法の力とは偉大なり――ということもあるにはあったが、これはひとえに、出産に立ち会ったナザリックの宰相、純白の悪魔、女神のごとき微笑みを携えた元守護者統括の力添えが多分に影響を及ぼしていた。魔法で行ったことは、母子の健康状態を把握した程度。それ以外は自然分娩にこだわったのだ。

 出産を終え、もろもろの後始末を済ませた後、アインズたちはようやくツアレの私室に通され、母子との初めての対面を果たした。

 

「元気な女の子です」

 

 赤ん坊を取り上げた純白の悪魔は、聖母のような微笑みを浮かべ生まれてきた命を祝福した。

 ナザリック内での出産というのは予定になかったことであったが、万一に備えて準備を整えていたアルベドの手腕は、はじめてお産に立ち会ったとは思えないほどの熟練ぶりであったと、はじめて補佐を務めたペストーニャは証言している。彼女の創造主であるタブラ・スマラグディナの書いた設定文に、助産婦としての経験なんてものが盛り込まれていたのかもしれない。

 

「何はともあれ、無事の出産。おめでとう、セバス、そしてツアレ」

 

 至高の御身からの祝辞に、謹直に背筋を伸ばす執事と、寝台で体を起こす白無垢に着替えた女性が同時に感謝を言葉と態度に表す。

 

「アルベドたちも、大儀である」

 

 寝台の脇に立ち、慣れぬ母親に手ほどきをしていた純白の悪魔は、薔薇色の頬を輝かせて腰を折る。

 アインズはアルベドの左に立ち、からかい半分に、隣に立つ少女に語り掛けてみた。

 

「どうだ、ニニャ? 姪っ子が生まれた感想は?」

「いえ、何というか、いきなりすぎて……ちょっと実感が」

 

 さもありなん。

 数年後に蘇生して、いきなり姉が子を孕み出産に至るなど、どんな奇跡のタイミングだというのか。

 しかし、姉が心の底から愛おしそうに赤ん坊の背を柔らかく叩く姿を前にした妹は、その青い瞳を一杯に潤ませるほどの感情が漏れ出してしまうのを憚れない。はにかむように笑う姿は、かつてともに旅をした時にも見せた表情。その美しい容貌の変化ぶりは、四季のようにはっきりとした情動が感じ取れる。

 

「おめでとう、ねえさん」

 

 アインズは視線を左に立つニニャから、妹に微笑むツアレの腕の中に移す。

 

「まぁるい子だな」

 

 赤ん坊というのは初めて見るわけではない――それこそモモン時代に健康と力を授かれますようにと、街の母親が乳飲み子を連れて行列を作ったこともある――が、本当に生まれたての赤子というのは初めて見る。

 赤子というだけのことはあって、肌の色は湯だっているかのように赤く、頭も体も指先まで、何もかもが丸いのだ。純白の産着(うぶぎ)にくるまれ、母の腕の中であやされる、ただそれだけの存在。力も知恵も不満足で、体も精神も未発達な、しかし確固として、ここにある存在。

 

「へぇ、これが人間の赤ん坊でありんすかえ?」

「うわ、すっごい小っちゃくて、かわいい~!」

 

 アインズの前に躍り出たシャルティアやアウラが競うように赤ん坊の頬や指に触れ戯れ、可愛いもの()きなメイドたちが興味津々に代わる代わる遠巻きにして眺め、さらに彼女らの様子をマーレやコキュートスなどの守護者やメイド長などが見守っている。

 思わぬイベントの発生に、アインズは頬骨が緩む錯覚を覚える。

 

「この私が……不死者である私が、まさか生命の誕生に立ち会えるとは、どんな皮肉だ?」

「御不快、でしたか?」

「いいや。むしろ痛快だな。愉快ですらあるな!」

 

 アルベドの声に出した不安を、瞬時に掻き消す口調で答えた。

 本当に素晴らしい体験だ。そして、この子に宿る可能性は、あまりにも巨大に過ぎた。

 

「探査の魔法によると、この赤ん坊は紛れもなく竜人と人間の混血種(ハーフ)のようでございます」

 

 デミウルゴスの報告は一貫して、人間(ツアレ)が紛れもなく異形(セバス)の――NPCの――子を生したことを結論付けた。

 当然ながら、ユグドラシルには竜人と人間の混血という、中途半端な種族は存在しない。

 この子は紛れもなく、世界で初めて誕生しただろう、人と異形の合いの子であるわけだ。

 それほどの存在の誕生に巡り合えたことは、アインズの空っぽな胸中に晴れやかな思いを灯すに相応しい感動を与えてくれていた。

 

「――そういえば、この子の名前はどうするんだ? もう考えてあるのか?」

 

 当たり前なことを口の端にして、アインズは赤ん坊の父に問いかける。

 振り返った先にいるセバスは、恭しく頭を下げて言った。

 

「よろしければ、アインズ様に、名付け親になっていただきたく思います」

「……私が、か?」

 

 アインズは意外そうな表情を浮かべそうになるが、セバスの言葉は、シモベとしては当然のものであるらしく、守護者やメイドたち、ツアレも一様に納得の表情を浮かべていた。

 ナザリックのシモベが生んだ新たな命。

 その名を授ける存在がいるとしたら、至高の御身たるアインズ・ウール・ゴウンの他にいるはずがない。

 

「そうだな……」

 

 アインズは黙考に耽る。

 名づけにはあまり自信がないのだが、さすがに他の誰かに託してよい雰囲気ではない。

 何かまともな命名にしないと。名前とは、適当に済ませてよい贈り物では決してないのだから。しかし、いざ頼まれると本当に悩む。というか、名付け親になるなんて考えたこともなかった。

 ここは率直な感じ――インスピレーションを大事にすべきか?

 あまり長ったらしいのも呼ぶのが大変だろうし、親同様三文字くらいがいいかも知れない。

 この子は丸い子……だから……

 

「マルコ……この子の名前は、マルコとしよう」

 

 マタイやヨハネなどの聖人の名前――このナザリックのギミックに使用されているコードに、彼らの福音書の一節が使われている――を思い浮かべ、ちょうどアインズの感じた印象に近いものを選び取る。

 ホニョペニョコのような意味不明な単語や、ダークウォリアーのようなべた過ぎて恥ずかしい自分のセンスの無さに比べれば、聖人の名前というのは良い感じを受けるはず。

 アインズは、視線を両親たる二人と、次いでシモベたちに巡らせた。

 御身の命名に、反対意見などあるわけもない。

 

 セバスとツアレの生した、娘。

 

 命名は――マルコ・チャンということに――相成った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日が経った。

 ツアレは産後の肥立ちもよく順調に回復しており、赤ん坊の方も竜人との混血であるが故か、とても健やかで安らかな日々を送っている。そもそもにおいてナザリックに属するものなのだから、ちょっとやそっとの病気や事故など起こり得ない。二人にはペストーニャが付きっきりで世話に当たっているし、たとえ不幸にも死んでしまっても、この世界に最高位の蘇生魔法がある限り、寿命分はしっかりと生き続けることができるのだ。

 ニニャは再会を果たした姉と共に行動することが多い。家族水入らずといえば聞こえはいいが、実際には、ナザリック内には彼女たちと同じ純粋な人間はいないのだから当然か。しかし、ニニャの適応力であれば、存外にあっさりとナザリックの異形たちとも親交を深めることができるだろう。それはアンデッドであるアインズ本人の折り紙付きなのだから、当然の未来とも言えた。

 

「どうだ、ニニャ?」

「本当に……すごいところですね」

 

 そんなアインズは、復活した少女を伴い、ナザリックを第一階層から順に案内をしている真っ最中である。地表部の墳墓にあった金銀財宝よりも、少女は地下世界に眠る神話のありさまにこそ目を輝かせた。

 ニニャはもう何度目とも知れぬ感嘆を唇からこぼしながら、第三階層の地下聖堂を眺めている。その態度にはもはや、強大に過ぎるアンデッドの気配に(おのの)く気配は微塵も残っていない。普通に慣れ親しんだ知人に対するような感覚で、少女は骸骨姿の恩人に接することができていた。

 ちなみに、二人きりというわけではない。二人の他に、不可視化を行っている毎度おなじみな八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)が幾人もついてきているが、ニニャは勿論そんなこと露ほども感知していない。

 アインズもまた、彼女が見上げるものを見る。ゲーム時代は演出としてそのように造られていただけの、不気味に朽ち果てた聖堂の佇まいは、見る者を畏怖させるというよりも、かつてそこにあったのだろう典雅さと荘厳さを想起させるものとなっており、実際こうして見上げている少女の胸には、栄光の残滓と巡り合えたことへの感動が渦巻いてしまっていた。

 

「本当にすごい……何度も聞いてしまって申し訳ないですけど……これが、本当に地下なんですか? 魔法か、何かの幻ということは?」

「ふふはは! 直接、触れて確かめてみるといいぞ?」

 

 言われたニニャは、おずおずと割れ砕けたステンドグラスに手を伸ばし、その硬さと脆さが危うい均衡で成り立っている様を肌に感じる。

 そして、つい力をこめすぎてしまったわけでもなく、朽ちた硝子の先端がポキリと折れてしまう。

 

「あ! ご、ごめんなさい!」

 

 思わず謝ってしまったニニャだが、もともとが壊れている設定の建物だ。それに何より、アインズは別の意味で気にすることはないと宣言してみせる。

 

「この程度の損傷であれば……ほら、もう直ったぞ?」

「え? あれ? ええ?」

 

 見れば、時が巻き戻ったかのようにステンドグラスの残骸は、ニニャが折る前の状態に直っていた。それ以上の状態――ステンドグラスの全容が判る形状には戻ることはなかったが、逆に言えば、そうするだけの何か重要な意味や意図があるのではとニニャは推察してしまう。

 ギルド拠点内部の建造物や備品は、侵入者に破壊されても、相応のユグドラシル金貨=ギルド運営経費で容易に修繕が可能だ。比較的侵入されやすい第一から第三までの階層は割と安価に修繕が可能なため、今ニニャが触っただけで折れた程度の損傷など、被害の内にも入らないレベルで元に戻ってしまう。

 

「こんなもの、魔法でも聞いたことがありません……すごいなぁ、どういう仕組みなんです?」

 

 魔法に造詣(ぞうけい)の深い少女だからこそ、魔法すら超越したようなギルド拠点の現象に驚きを禁じ得ない。そんな純粋なニニャの反応が、アインズにはたまらなかった。

 かつて、人間の幼い少女――ネムを第九階層内限定で案内した時と同等の、否、今回は第一から第十までの全階層を案内しているのだから、あの時以上の充足感をアインズは胸の内に抱いていた。子供にはおどろおどろしい情景であろうとも、ニニャほどの年齢にもなれば、その良さや奥深さというものは認識できる(無論、“死者の井戸”や“黒棺”、“真実の部屋”や“蟲毒の大穴”などのグロテスクなところは閉鎖または迂回している。ニニャがどれほどのグロ耐性があるかどうか判ってから、その時に改めて案内すればいい)。だからこそ、アインズは彼女が復活を果たしたナザリック地下大墳墓という素晴らしい場所を案内してやろうと思い立ったのだ。

 それも、自分自身で。

 

「この聖堂の中にある〈転移門〉で、次の第四階層に行こう」

「えと、次は地底湖、でしたっけ?」

「そうだ。あそこは素晴らしいぞ。今回は特別に、光エフェクトを起動した上、ガルガンチュアも起動させておいた」

 

 二人は談笑し、朽ちた天井から漏れる疑似太陽光の影を踏みながら、礼拝堂内の埃に塗れた壊れ果てた信徒席を通り抜け、門となっている祭壇にまで並んで歩いて行った。

 

「そういえば、アインズ……様」

「ニニャ……私はさん付けで構わないぞ?」

「すいません、でも姉さんが“アインズ様”って呼んでいるのに、自分だけさん付けするのは」

 

 まぁ、そうだろうな。

 この数日で、ニニャはアインズの魔導王としての社会的な立場――国どころか大陸内の頂点に位置する事実を、姉やセバスなどから聞かされて知っている。言うなれば、ニニャは国家元首に命を救われ、その住居を案内されているという状況に立たされているわけだ。これで慣れ慣れしく「さん付け」なんてするのは不敬なことだと遠慮するのも、仕方がないことなのかもしれない。

 ニニャは改めて質問を試みる。

 

「姉さんから聞いたんですけど、姉さんとセバスさんは、まだ結婚していないんですよね?」

「うむ。そのことについては、その、私の手違いというか……セバスをはじめ、私は部下たちが結婚することを考えたことがなくてな。それで、セバスは結婚することができない状況にあったわけだ」

 

 本当にすまないことをしたものだ。

 ツアレは未婚のまま、子の出産を果たしてしまったわけである。アインズとしては、もっとバックアップを整えてからと思っていたが、今回はそれが裏目に出てしまったようだ。

 

「安心していい。近日中に、セバスとツアレの婚姻は正式に認可される。アルベドとデミウルゴスにそのための法案作成や体制拡充などを任せている。ツアレたちの想いが本物であることは疑う余地もない上、私としても、二人には大いなる可能性を教えられたことから、その関係を祝福するのは(やぶさ)かではない」

「それを聞いて安心しました」

「しかし……何故、このタイミングでその話題が出たんだ?」

「ここって教会みたいですよね? もしかしたらここで、結婚式を挙げた人たちがいたんじゃないかなって思ったら、二人のことが頭に浮かんで」

 

 アインズは納得の首肯をニニャに向ける。

 

「なるほどな。だが生憎(あいにく)ここは、そういった祝い事で使われたことはないな」

「そうなんですか? すごく大きな聖堂なのに」

 

 もったいなさそうに周囲を見やるニニャに、アインズは思わず相好を崩してしまう。このナザリックの歴史を知るものにとってここは、紛うことなき戦場であり、侵入者迎撃のための装置でしかない。かつての仲間たちも、この地下聖堂が挙式に使われるなんてことは想像したこともないだろう。

 

「あの二人の結婚式は、私の名の下に盛大に祝ってやるつもりだ」

 

 無論、その時はニニャも出席させることも告げると、少女は青い瞳を輝かせて頷いてみせた。

 

「ありがとうございます、アインズ様」

 

 まるで自分自身が祝福されたかのように、少女は姉の式を夢想しながら、最前列の壊れていない長椅子の一つに腰掛ける。アインズはローブに埃が付着することも気にせず、その隣に座ってみた。ニニャの伏せた瞳には、ありありと、真っ赤な絨毯の上を歩む姉と執事の姿が見えているようだった。

 

「どうだ、二人の様子は?」

「すごく、幸せそうです」

 

 彼女は未来を見ていた。

 その未来はきっと、現実のものとなるだろう。

 

「アインズ様、もうひとつ質問してもいいですか?」

 

 断る理由もない。アインズは勿論という意味で頷いて見せた。

 

「どうして、あの子は“マルコ”なんです?」

「……ぇ?」

 

 思わず声が漏れかける。

 

「何か特別な意味でもあるんですか?」

「ああ……」

 

 まるい子だから――マルコ。

 なんて説明できるものではない。

 アインズは数日前の名づけの時に、脳裏を(よぎ)った聖人たちの、その詳細を光の速さで思い出す。

 

「わ……我がナザリックのギミックに使われている言葉でな。――人、その友のため命を捨てること、これより大いなる愛はない――この言葉を遺した人物の名が、マルコというそうだ」

「友のために……命を……」

 

 その言葉を受け止めたニニャは、胸を穿たれたような衝撃を表情に浮かべる。

 

「つまり、あの子にはこれから、大いなる愛に恵まれてほしいという、そういう希望を込めて、ということなのだが……ニニャ?」

「いえ、とても素晴らしい名前です」

 

 あれ?

 こんな説明でよかったの?

 

「本当に、姉さんは幸せものです。セバスさんのような人に巡り合えて、アインズ様にこうして守られて、本当に良かったです」

 

 はにかむ少女は、何か遠い出来事を思い出しているかのように、朽ち壊れた天井を眺め見る。

 

「なんだか今でも、まるで夢のような気分です」

 

 蘇生され、姉と再会し、その姉は家族をもって、幸せな日々を過ごしている。夢や幻だとしたら、とんでもなく素晴らしすぎる光景だろう。彼女の呟く声には、夢心地な響きがこもり始めた。

 

「今あるこれは、本当に現実なのでしょうか? 幻術とか、そういう類の精神系魔法とか……?」

 

 それはそれで凄いことだと呟くニニャに、アインズは鷹揚に頷いて答える。

 そうしなければならないという、どこか切迫したような思いを抱きながら。

 

「私の名において宣言しよう。

 君が見ている光景のすべては、紛れもない現実であることを」

 

 真摯に、真剣に、真実味を帯びた声の深さを耳にしながら、少女は微笑みを浮かべ頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

 少女の柔らかな微笑みは、まるですべてを包み込むかのよう。

 アインズは、その微笑みに骨の掌を伸ばし、少女は彼の手を握り応えた。

 二人は立ち上がり、心優しい岩の巨兵が待つ第四階層への門へと向かう。

 彼らのナザリック巡りは、まだ三分の一も終わっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 至高の御身であり魔導国国主、大陸世界全土に覇を唱える至高帝、ナザリック地下大墳墓の最高支配者その人によるナザリック全階層案内という、ナザリックに属するものなら誰もが羨むような措置を、ただ復活させられただけの少女が被ることができたのは、当面の間、少女が暮らすことになる場所の説明は必須であるからというわけでは、ない。

 食客程度の扱いであれば、第九階層の宮殿の中だけでもてなすだけで済む話だし、何より、ナザリック地下大墳墓は普通の人間が暮らす上ではとんでもなく不向きな場所が数多く存在する。第一~第三階層の墳墓はデストラップやアンデッド軍団などの脅威が犇めき、第四階層は特別な事情でもない限り常時暗黒の世界に包まれ、第五階層は吐く息も凍てつく極寒世界、逆に第七階層は体中の水分すべてが蒸発しかねないほどの灼熱地獄であり、未だ前人未到の第八階層については、ほとんど封鎖された状態のまま放置されたままとなっている。広大なナザリック内で人間が安全に暮らせるだろう領域は、第六階層ジャングルに新たに設けられ拡充を続ける村――今ではほとんど街である――と、第九階層以下の宮殿、神の居城たる絶対的な神域のみである。少女の生活のために案内が必要になるとしたら、たった三階層程度で済む話のはずだ。

 では、何故アインズは、わざわざ外の世界の現地住人でしかないニニャに対して、これほどの厚遇をもたらしたのか?

 シモベたちの意見としては、アインズ・ウール・ゴウンの威を示すため、愚かしい人間にわかりやすくナザリックの偉大さを知らしめるため、姉のツアレが騙されているなどといった疑念や猜疑を打ち払うため、などなど物議を醸したものだが、実際のところは単純な話に過ぎない。

 

 第九階層のメイドたちの居住エリアの一室に、ニニャは帰還した。

 

「おかえりなさい」

「ただいま、姉さん。マルコも、ただいま」

 

 妹を迎え入れたツアレの腕の中にいる赤ん坊は、幸せそうに寝息を立てている。父親譲りの白い髪は、触れると絹のようにさらさらしていて心地よい。

 姉は帰ってきたニニャのために軽いティータイムを提案すると、ニニャは自分も手伝うことを条件にそれを受け入れた。時刻は既に夜半過ぎだが、二人とも夕食は済ませている。ちなみに、ここはメイドの私室であるが、各部屋はほぼ均一で1LK。風呂トイレも別となっており、備え付けの家具一式まで最高品質のものが取り揃えられているスイートルーム仕様となっている。

 マルコは新たに室内に置かれたベビーベッドに運ばれ、二人は姉妹らしく並んでキッチンに立ち、会話を楽しみ始める。

 当初こそ、会うのは総合して十年ぶりほどになるので多少ぎこちない遣り取りが続いた姉妹だったが、一日ほど共同生活を送り、小さな家族の世話にかかりきりになっていたら、自然とかつてのような仲睦まじい関係に立ち返ることができた。

 

「アインズ様に案内されて、どうだった?」

「本当にすごかった……世界にはこんな場所があったなんて、本当にびっくりしたよ」

 

 ニニャは姉から伝え聞いていた以上のものと、今日一日だけで三桁ほど出会った気分だ。

 表層の美しく整えられた墳墓、数えきれない金銀財宝、深い沈黙に包まれる迷路、深淵にかかる桟橋、自己修復する建造物、壮麗な地下鍾乳洞と湖、木漏れ日の輝きを灯す巨大ゴーレム、白銀に染まる氷河、御伽噺に登場する館、種々様々な魔獣の群れ、巨大な樹に住まうエルフのメイド、地下世界に囲われた街並み、そこで暮らす人間や亜人、知性をもって接してくる異形たち、溶岩が噴き出し流れる炎獄、そして神が住まう白亜の宮殿――今、こうして陶磁器に注がれた紅茶や、“しょーとけーき”と呼ばれるお茶菓子にしても、驚嘆に値する。

 自分は今、王族や貴族などよりも充実した生活を嗜んでいる。

 

「本当にすごかったなぁ」

 

 凄すぎてまるで理解が追いつけない状況だ。

 それでも、かろうじて理解できたことを述べるとすれば、自分はとんでもない人(?)に救われたのだなという、確かな事実だけであった。

 ナザリック地下大墳墓においての神、至高の四十一人のまとめ役を務めた超越者(オーバーロード)

 アインズ・ウール・ゴウン魔導王。

 彼は宰相と参謀に作成を任せていた新たな体制の発布に関する最終調整の執務のため、ニニャとは第十階層で別れたきりだ。自分が蘇生を果たした際にはまるで気づかなかったのだが、あの玉座の間はこのナザリックの最奥と呼ばれるだけあって、言葉にできないほどに美しかった。

 すでにニニャは、ナザリック内の存在に悉く存在を認知されており、その身は姉のツアレと同様に、御方の名の下に守護することが厳命されている。ナザリック巡りのおかげで、第十階層から第九階層へ上がることも苦労はしなかったが、通りすがりに屈強そうなアンデッドや直立歩行する蟲戦士などと行き会った時は、一瞬だが焦ってしまった。どう考えても、自分では太刀打ちできそうにないモンスターばかりで、かつて冒険者だった経験から無意識のうちに逃げ出そうとする癖がついていたせいだ。

 

「うん。本当に、すごかったぁ」

「――そうしてると、なんだか小さい頃みたい」

「え、そう?」

「あなたってば、私が読み聞かせた十三英雄の話を聞いた時とか」

「うあーうあー、恥ずかしいから、その話題やめて?」

 

 相も変わらず可愛らしい反応に、しかし年相応の成長が見て取れたツアレは柔らかく微笑む。

 姉妹はくつくつと笑い合う。そうして、二人分の紅茶とお茶菓子を用意し、マルコの眠るベビーベッド脇のテーブルでささやかなお茶会を始めると、二人は明日の予定について語り始めた。

 

「明日だっけ。姉さんとセバスさんがエ・ランテルに戻るのは?」

「ええ。本当はあなたが蘇生した日に戻る予定だったんだけど」

 

 出産によって予定が少し狂ってしまった。屋敷の方はセバスとツアレの部下たちが上手くやってくれているはずだが、それでも、残してきた雑務を片づけない内に育児休暇など送れるはずがない。至高の御身はそれすらもお許しになって下さったのだが、セバスはそれに甘えることをよしとせず、ツアレもまた夫のそういう謹直さに従う姿勢を貫いた。今では彼女も、ナザリックに仕えるメイド長の一人に列せられる存在。御方に仕える者としての自覚は、この世界の人間種においてはトップクラスといっても過言にはならない。

 

「マルコも、健康面では問題ないというお墨付きを頂いたし、とりあえずは戻って、仕事を片付けないと」

 

 育児に専念するのはそれからだと、ツアレは誇りに満ちた表情と声音で宣していた。

 

「大変なんだねぇ、メイドさんって」

 

 姉の部屋のクローゼットには魔法のメイド服がずらりと並んでおり、それ一着だけで水薬(ポーション)数個分の金額になるだろう。その背筋の伸びた姿勢やカップを口に運ぶ所作に至るまで、すべてが(とうと)い者に仕える存在として完璧なものになっていた。長年、冒険者として魔法の修練にばかり時間を費やしてきた自分ではこうはいかない。自分がかつて着ていたものは冒険や戦闘に最低限必要な粗末なもので、男として生活してきたことから言動も野卑でぶっきらぼうな印象を拭いきれない。今でこそ、昔は袖を通したこともないような絹の肌触りを感じ取り、しかしかつての自分が着ていた衣服に似た服装に身を包んでいるが、結局のところ馬子にも衣裳な状態でしかない。

 正直なところ、アインズが国の最高君主と聞かされて、どうにか無礼にならぬよう改善を試みてはいる(そのひとつが「様付け」なのだ)が、やはり一朝一夕で体得できるようなものではなかった。

 何だか、自分だけ置いてけぼりをくらったような、そんな暗い思いが胸の中でわだかまってしまう。

 

「心配することなんてないわ」

 

 妹を案じる姉の言葉に、ニニャは伏せがちになっていた顔を上げる。

 金髪と眼鏡の奥にある表情は、かつて生き別れた時以上に輝く微笑み。

 

「アインズ様は、あなたにもきっと、私と同じ慈悲を与えてくださるから」

「……そうだと、いいけど」

 

 ニニャは、漠然とした不安感を抱いていた。

 死んで生き返ったことは、途方もなく幸運なことであることは疑う余地がない。蘇った瞬間に、長年に渡り探し求めていた姉と再会を果たすなど、ありえないような奇跡だ。こうして姉のいとし子の寝顔を眺め、暖かな香気を掌に収めていられる事実を、慈悲と呼ばずに何と呼ぶ。

 しかし、

 だからこそ、

 こんな幸福が続くものなのかという不安が、若い魔法詠唱者の奥で燻っていた。

 幼い頃の自分は、自分以上の幸せ者などいないと錯覚していた。父と母が死んでも、自分には大好きな姉がいてくれた。守ってくれるものが傍にいた。しかし、幸せは唐突に引き裂かれ、自分は村から追放され、復讐の道へと駆け出しはじめた。

 あの時と同じように、自分のこの幸せも、唐突に、当然に、終わりを迎える日が来るのではないか。

 そんなうすら寒い予感が、自分の背中に冷たい氷柱となって、幾つも突き立てられていく。こんな思い、アインズと会って、彼にナザリックを案内されていた時はついぞ感じたことはないのに。

 明日のニニャは、魔導王が統治する魔法都市などの案内を予定されている。

 一抹の不安を掻き消してくれる姉と赤子の表情を見つめながら、少女は暖かな紅茶を口に含む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





いいか? セバスとツアレの娘の名前の前に……“ちび”とか、付けちゃあダメだからな?

絶対だぞ?
絶対言うなよ?
絶対つけるなよ!?


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