魔導王陛下、御嫡子誕生物語 ~『術師』の復活~   作:空想病

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第一章 『術師』の復活
第1話


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セバスとツアレは、〈転移鏡(ミラー・オブ・ゲート)〉を抜けて、現在アインズが滞在し、直接統治している魔法都市の王城を(おとず)れた。至高の御方はナザリックの最高支配者として、己が治める外地領域すべてに御心を砕いている。シモベたちに一任し、外の人材を使って代行させることも可能な業務であっても、なるべく自分の手で確かめることで、民らの不安の萌芽や反抗の種子を摘んでいく意図がそこには垣間見えた。

 ――実際には、各都市を巡ることで様々な種族が共存できている様にほくそ笑み、自分の理想となる国を眺めていたいというのが、アインズの本心であるのだが。

 

「大丈夫ですか?」

「は、はい」

 

 大きくなったお腹を(いた)わるように、気遣(きづか)うように、二人は足を運ぶ。

 もうすでにいつ生まれてもおかしくないと告げられている。足取りは自然と慎重さを増すというものだが、今回に限って言えば、別の要因が二人の歩調を重く滞らせていた。

 アインズからの、直接招集。

 二人にとってそれは、断罪の場へ、処刑場の断頭台へと進む思いを抱かせるに相応しい主命であった。

 セバスは、己の不手際を嘆く。

 デミウルゴスに委細を任せたが、彼からの〈伝言(メッセージ)〉はなく、いきなりアインズの勅命を賜ったアルベドから〈伝言(メッセージ)〉で招かれた時は、己の命の灯が、今度こそ確実に尽きることをセバスは覚悟した。何しろ、セバスはツアレの不調を隠し、彼女に乞われるまま夜を共にし、アインズの許可もなく彼女と契り、デミウルゴスに乗せられる形になったとはいえ、世界級アイテム“ヒュギエイアの杯”の薬湯の効能を試したのだ。その罪はあまりにも重い。万の死をもってしても(あがな)い切れるものではないだろう。

 それでも、ツアレだけは助命していただけないかと、身重のツアレはエ・ランテルに残したいとアルベドに申し出たが、すげなく却下された。アインズの勅命は、セバスとツアレの二人に対して。どちらか一方が欠けることを決して許されるはずもなく、二人は王城に設けられた転移の間――〈転移鏡〉をいくつも置いた都市間転移を可能にした城の一室――に辿り着いたのだ。

 

「行きましょう」

「はい」

 

 三歩後ろを歩く女性は、大きくなったお腹をよたよたと持ち上げるように歩き出す。

 いつものように介添えをしてやりたいところだが、今はそのように振る舞うのは躊躇われる。

 そこには、まるで幻想の世界に迷い込んだような、煌くように荘厳な、部屋の外へ通じる扉があった。

 これから訪れるだろう終わりの時を、セバスはその扉の向こう側から感じ取る。感じ取ってしまう。

 しかし、もはや後戻りはできない。

 だから、もう一度だけ問いかける。

 

「……大丈夫ですか?」

「大丈夫です、セバス様」

 

 眼鏡をかけた彼女の表情は実に穏やかであり、たおやかだ。

 セバスの目から見ても、少女はとても強い女性になったものだ。

 母になったことが影響しているのだろうか。否、これが彼女本来の在り方に近いのかもしれない。

 

 ある日突然、領地を治める貴族に問答無用で拉致され、たった一人の家族である幼い妹と引き離され、暴力の(しとね)(はな)を散らされ、凌辱の限りを尽くされ、虐待の日々を耐え、飽きた途端に娼館へと売られ、さらに凌辱と虐待と拷問を受け、薬漬けにされ、床に散る残飯を食べ、人としての尊厳も矜持も何もかも打ち砕かれ、夢も希望もわずかの奇跡すら望むべくもないゴミのような半生を送り、そうしてあの娼館からゴミのように放り出された少女は、その心の芯を折られるどころか、完全に芯を喪失してしまうほどに、すべてに対して絶望していた。恐怖していた。憎悪すらしていた。自分をここまで追い詰めたすべてを憎み、自分をここまで磨り潰した何もかもを怨んだ。

 けれど、少女はゴミでしかなかった。

 復讐の刃を研ぐ(すべ)も知らず、憎悪をブチ撒ける言葉も紡げず、呪詛を繰り操る方法も解らず、少女という塵芥(ちりあくた)は、箒で払われれば消えてしまうほどに小さく、そして脆かった。あの頃のツアレとは、要するに何者でもなかった。人の形を何とか保っていただけの、握れば潰れ、打てば砕け、何の意思も意志も遺志すら持たない、生きる屍というより、屍のなり損ないでしかなかった。

 そんな少女がセバスに拾われるという奇跡と巡り合い、至高の御方という「死」の名の下に保護されたというのは、実に皮肉のきいた話ではないだろうか。

 

 少女はやがて女となり、女はやがて恋人となり、そして遂に母となっていた。

 そのまっすぐな視線には、恐れも怨みも迷いもない。

 ピンと伸ばした背筋には、メイドとしての教練で磨かれた技量以上に、圧倒的な誇りが窺い知れる。

 彼の隣に――セバスの傍に、いられる。

 それだけが、ツアレにとって生涯最高の奇跡であり、彼の子を授かれたことは望外の幸福に他ならなかった。

 確かに、彼を失うことは己の命が尽きることよりも恐ろしい。彼の子を孕む身体を砕かれるのは、これまで経験したすべての悲劇をかき集めても届かないほどに悲しく、そして切ない。

 それでも、ツアレはセバスと共に生きると誓った。

 この命が尽きる瞬間というのが、この城の奥に辿り着いた時なのだろうという、ただそれだけのことなのである。

 

「大丈夫です」

 

 愛する者の憂いを払うかのように、ツアレは彼に向って愛嬌のある微笑みを頷かせる。

 セバスは、そんな愛する者の覚悟に打たれ、しかし抱きしめてやることは絶対に出来ない。

 主人に会う直前に、死ぬ前に今一度、女のぬくもりを確かめるなどという無粋を働くなど、ナザリック地下大墳墓の執事にして、家令(ハウススチュワード)の仕事を担う者として相応しくない。

 ……もっとも、主への連絡を怠り、彼女を勝手に孕ませた身の上では、だいぶ今更な言い訳にしか過ぎないと自覚しているのだが。

 それでも、最後くらい、アインズに仕える者として相応しいシモベであり続けたい。

 それがセバスの抱いた、嘘偽りのない真情であり信条であった。

 

「では……行きましょう」

 

 覚悟と共に扉を開ける。

 廊下で待っていた複数の気配のうち一つが、現れた二人を迎え入れた。

 

「ようこそ、セバス。そして、ツアレ」

 

 二人を歓待した意外な人物の声と姿を前に、セバスは数瞬だけ呆気にとられる。

 身に着けたものは三つ揃えであり、しっかりと締められたネクタイが着用者の人格を物語るかのよう。顔立ちは東洋系で、漆黒の髪を後ろにすべて流した様は、幾多もの角が乱立するような印象さえ窺える。邪悪な雰囲気を醸し出す人好き――というよりも人で遊ぶのが好き――な微笑みを絶やすことのない眼鏡をかけた紳士のいで立ちの中で、銀色に輝く棘生えた尻尾が揺らめくように宙を漂う。

 

「デ、デミウルゴス様!」

 

 何故と(いぶか)しむ執事に対し、ナザリックにおいて最高位に位置する悪魔は多くを語らない。だが、その朗らかで恍惚とした微笑みの様子を見ると、自分がまたしても謀られた印象を抱くのは当然の道筋ですらあった。

 

「二人とも、随分と早かったね? ツアレの体調を考えると、少し遅れるのではないかと思っていたが」

「アインズ様の命です。遅れることなどあってはなりません」

「そうだね、セバス。では、行こう。アインズ様がお待ちだ」

 

 彼の態度はセバスたちを刑場へ引き立てるのを愉しむような気安さが透けて見えた。

 それが解せない。

 自分が最後に会った――セバスとツアレの事情を説明し、杯の機能について奏上しに赴いた時の――彼の様子からは、だいぶ、かなり、というかまったく完全に違ってしまっている。

 良く言えば、出頭する罪人のごとき従容とした態度。悪く言えば、親に叱られると判っている幼子の面貌。それこそが、セバスが最後に会合していた時の彼の姿であったはず。だというのに、今の彼はまるで憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした表情を浮かべ、至高の祝福を授けられた信徒のように朗々と言葉を紡いでいく。

 

「シクスス、フィース、ツアレの介添えを頼むよ」

「畏まりました」

 

 彼は傍に控えていた一般メイド二人に下知を与える。

 なるほど、主の下へ一刻も早く罪人を引き立てたいという思惑が見えてきたと、セバスはデミルゴスの行動から感じ取る。

 二人のメイドに付き添われながら、ツアレはよたよたと、しかしメイドとして歩行訓練を積みに積んだ脚力で、しっかりとした足取りで、先頭を行くデミウルゴスとセバスの後に続く。

 

「……これは一体、どういうことなのです?」

「何がだい、セバス?」

 

 あくまで紳士な彼は、とぼける姿勢を崩さない。

 

「何故、あなたが〈伝言(メッセージ)〉を寄こさなかったのです? アルベド様から〈伝言(メッセージ)〉を受けた際、私はてっきり、あなたが処断されてしまったのではと危惧(きぐ)しましたよ」

「心遣い痛み入るよ。だが、アインズ様の慈悲深さというのは、我々シモベの理解の底を遥かに超越するほどのものだということは、君もよく知っているだろう?」

 

 執事は悪魔の言に大きく頷いた。

 かつてセバスは、王都での潜伏任務中に救ったツアレを端緒とした「裏切り」の疑いを持たれた経歴の持ち主だ。しかしながら、至高の御身はセバスの真意を試し、彼の忠義に偽りなしと判断し、騒動の発端となった人間の少女共々、彼を許したことがある。御身から与えられた任務の遂行に弊害をもたらしかねない状況を執事自らが招き寄せたというのに、アインズはその慈悲の心でセバスたちを許し、さらなる忠勤に励むことを認めてくれた。それだけでなく、任務の遂行を果たしたセバスたちに褒賞まで与えるなど彼らの働きを労うまでしてくれたという事実は、ナザリックに属する全存在に、至高の御身の有する御心の深さ、度量の広さ、寛恕の大きさを、現在に至るまで物語ってくれている。

 一行はほどなくして、王城の最深部に位置する広間の大扉に至る。

 巨大な漆黒の鉱石を鋳固めて作られた扉は、現れたデミウルゴスたちを歓迎するかのように、自らの意思を持つかのごとくゆっくりとした動作で、左右に押し開かれていく。

 荘厳な空気が、一行を迎え入れた。

 広間は天井までの高さが十メートルにまで達するほどの吹き抜けがあり、謁見に訪れた者たちの度肝を抜く美麗なレリーフが所狭しと描きこまれている。吊り下げられたシャンデリアは数多の水晶の煌きを宿し謁見の間を隅まで明るくしているが、精霊を召喚するなどの罠は備えられていない。百人規模が入場しても尚余るほどに広大な面積は、総大理石の石畳。壁には至高の御身の忠実なシモベである死の騎士(デス・ナイト)のようなものが幾つも並び燭台を掲げているが、彼らは別に動像(ゴーレム)でもなければ普通の銅像でもない。アインズが生産している死の騎士(デス・ナイト)そのものだ。伝説のアンデッドたる死の騎士たちを、下男(げなん)警邏(けいら)どころか、燭台程度の用途に使い潰すほどの余剰戦力を顕著にした運用配置であり、それほどの大量の死――死の騎士(デス・ナイト)たちの核となる死体――を、魔導王が生み出したことを象徴する光景でもあった。

 ナザリックの神殿のごとき玉座に比べれば明らかに質は落ちるが、現地の存在に建立させたものとしては最高級の出来栄えである。造営にはドワーフたちの多くが関わり、彼ら職人の手によって築き上げられたものとしては当代最大規模の芸術的建造物のひとつに数えられるだろう。

 それもこれも、彼らを招致したアインズの偉業のなせるもの。

 そして、そのアインズ・ウール・ゴウンは、最奥の壁一面に魔導国の国旗(ギルドサイン)を掲げた紫水晶(アメジスト)の見事な――これも当然、ナザリックのものと比べてかなり簡素だが――玉座に、その骸骨の身を預け座している。

 まるで宗教画の世界に飛び込んでしまったかのような壮麗さが、遍く訪問者に対して死の顕現の偉大さを思い知らせて敬服させる威を、その空間は見事存分に発露していた。

 デミウルゴスとセバスは敬愛する主人への敬意をさらに深めるように、一歩、また一歩を踏みしめ歩く。ツアレとメイドたちもそのあとに続く。

 謁見するに十分な距離まで近づいた一行を、魔導王は黙したまま睥睨している。傍らには守護者統括の任から放免され、現在は新たに設けられた「宰相」の地位に(ほう)じられた純白の悪魔・アルベドが付き従っている。

 あまりにも堂に入った王者の貫禄を前に、謁見者たちは誰からともなく膝を折った。

 

「アインズ様、セバス並びにツアレの両名、ただいま馳せ参じてございます」

「うむ。案内ご苦労だった、デミウルゴス」

 

 もったいないお言葉と呟きつつ、主人の賛辞を受け入れた参謀から、さっそくアインズは今回の主賓たるシモベ二人に視線を移す。

 

「久しいな、セバス。そして――ツアレ」

「はっ!」

 

 主の前で謹直に膝を折る二人に声をかけたアインズだったが、

 

「ツアレよ、膝をつく姿勢はつらくないか? 何だったら椅子を用意させ、ここでの着席を許すが」

 

 その第一声の意外さに、呼びかけられた女性は純粋な驚愕を表情と声に滲ませる。

 

「も、もったいないお言葉です、アインズ様。――ですが、私はこのままで」

 

 主人の前で席に着くなど、あまりにも畏れ多い光景だ。ツアレはナザリックのNPCほどではないが、アインズに対する敬服と臣従の姿勢は大きく、何が主への不忠不敬な姿勢になるのかぐらいの教養は積んできている。でなければ、エ・ランテルの屋敷で人間たちの主席メイド長として働くことはできなかっただろう。

 

「そうか? だが、無理はするなよ? つらくなったら何時でも発言することを許可する」

「あ、ありがとう、ございます……」

 

 萎縮してしまう人間のメイド長から、アインズはナザリックの執事長にして家令たるNPCに視線を移す。

 

「さて、セバスよ」

 

 謹直に身を硬くしているのとは種類の違う硬直から、セバスは抜け出ることができていない。

 ツアレに対して慈悲深いまでの気遣いに感動すら覚えながら、御方の紡ぐ言葉を聞き漏らすことがないよう、全神経を聴覚に集約させていかねばならないのだ。

 

「おまえたちは、この私に対していうべきことがあるはずだな?」

「はっ! 真に申し訳ございません、アインズ様! 此度の責任のすべては、この私一人が負うべきもの! ツアレにはまったく罪科(つみとが)のない」

「――待て、セバス」

 

 謝罪を述べる執事に対し、主人は即座にその口を噤ませた。

 そして、問う。

 

「何を、言っているんだ?」

「……と、申しますと?」

「いや、その……ツアレは、その、おまえの子を身籠ったんだよ、な?」

「はっ! その件につきましてはデミウルゴス様から説明されたことと存じますが」

「いや、だから、な?」

 

 アインズは要領を得ない会話に僅かだがじれったさを感じる。

 なので、率直に訊ねていた。

 

「結婚したんだよな、おまえたち?」

「……は?」

 

 意外なことを質問されたことで、さすがのセバスも二の句が継げない。

 彼は完全に、アインズから叱責され罰を下されるものと思考していた。確信していたといってもいい。

 だが、セバスの主人は僅かだが混乱したように言葉を紡いでいく。

 

「いや、子を作るというのは、その、夫婦になったもの同士で行うべきことで」

「し、失礼ながら、アインズ様」

 

 主から語られる内容をセバスなりに理解し、その齟齬を認めて、セバスは自分の保有する情報との不一致を確認する必要に迫られた。主の言を一時的に遮ってでも、これは確認しておかなければならない。

 

「我々、ナザリックのシモベたちは『婚姻を結んでも良い』という達しを受けてはおりません。故に、結婚するというのは現状不可能な状況であるはずですが……どこか、私の認識に誤り、が?」

「……あ、……ああ……」

 

 セバスの語尾が消え入る理由を、アインズはようやくながら理解した。

 そういえば、そうだ。

 いくらこの世界に転移してから数年が経過しているにしても、NPCが結婚するなんて状況をまったく想定していなかった自分にようやく気付く。

 セバスの疑問はまさにそれだ。婚姻なんて結べないはずのNPCに婚姻の報告を期待するなど、考えてみればありえないことではないか。

 

「あー……いや、すまない。これは私の落ち度だったな。許せ、セバス」

「な、何を仰るのです、アインズ様!」

 

 (あるじ)如何(いか)ような落ち度があるものかと抗弁する部下の言を、アインズは手を振って制止する。

 

「良い、セバス。私は事実を言ったまでのこと。婚姻を結ぶこと自体を許可していないのに、婚姻を結んだか否かと問うのは、あまりにも破綻した論理だった。そうだな……そのあたりの調整、法整備も必要か? 婚姻制度、結婚、入籍……」

 

 何か深く考え込み、思考の深淵に揺蕩う主人は、その場にいる一同の視線が集約しつつある事実を察し、ひとつ咳払い――の真似事――をして、場の空気を一新する。

 

「いや、本当にすまなかった。気にすることはないぞ、セバス」

「し、しかし、アインズ様」

 

 セバスは食い下がらない。

 謝罪に赴き、断罪を覚悟していた彼の身に注がれたのは、御身の叱責でもなければ懲罰でもない。

 まさか謝辞を頂くことになろうとは、さすがのセバスであっても混乱を覚える事態であった。

 

「私どもが此の度、御身に対して行った不忠を思えば」

「んん? セバス――まさか、聞いていないのか?」

 

 アインズは微笑みさえ浮かべながらも、二人が身体を強張らせ、緊張と罪悪感に身を縮みこませている理由に気付く。

 

「私は今回の件について、おまえを、ツアレを、デミウルゴスたちを責めるつもりなどない」

 

 むしろ感謝すらしていると語って聞かせると、二人は目を丸くして、横に控えて忍び笑いを漏らす悪魔を見やる。相変わらずだなとアインズは思う。こいつらの仲の悪さは一貫している。だからこそ、かつてのギルメンたちの面影が覗き見られて苦笑を禁じ得ない。

 

「私はお前たちのすべてを許そう。セバス・チャン。ツアレニーニャ・ベイロン。

 おまえたちの働きにより、私ですら知悉していなかった世界級(ワールド)アイテム“ヒュギエイアの杯”の機能が判明したのだ。これを称賛しない理由が私には判らないな。おまえたちはこの私のために、働いてくれたのだろう? ならば、おまえたちを責め立てる理由など何処に存在する?」

「ア……アインズ、様」

「そして、此度のツアレ懐妊について、私から祝福を贈らせてほしい。望みがあれば叶えよう」

 

 あまりの急展開で、セバスは周囲を見やった。デミウルゴスは相変わらず笑みを噛み殺し、アインズの傍に控えるアルベドは、〈伝言(メッセージ)〉で聞かされた鋼の音色が何だったのか問いたいくらいに柔らかな微笑みを浮かべ、女神のごとく二人に祝福――と羨望――の眼差しを向けていた。一般メイド二人に関しては、振り返るまでもないだろう。

 自分は完全に、守護者二人に謀られたわけだと理解し、セバスは安堵感で肩を落としかけてしまう。

 

「さぁ、二人とも。何か私に願うことはあるか?」

 

 もちろん、主人であるアインズの目には、セバスは鋼鉄のように謹直な姿勢を崩すことはなかった。

 骨の掌を差し向け、アインズは二人の言葉を――望み願うものを、待つ。

 セバスはツアレの方をちらりと窺う。

 

「では――此度の私たちの怠慢を、連絡を怠り、至高の御身に多大なご迷惑とご心配をおかけしたことを、謝罪させてください」

「ふふ……まったく。相変わらずおまえは、欲のない男だ。どうせだったら、ツアレとの婚姻の許可でも願ったらどうだ?」

 

 無論、そんなこと願われるまでもなく認めるのだが。

「請け合おう」とアインズは堂々と宣した。

 セバスは感動に身を震わせながら、より一層ほど頭を低く沈める。

 陳謝と感謝の言葉を捧げる執事から、アインズは残る人間のメイドに向き直る。

 

「さぁ、ツアレよ。何か望みはあるか?」

 

 あまりの展開にまったく頭の中で状況が整理できていないツアレは、瞳をまん丸の形にしながら、何を言うべきなのか迷子になっている。

 セバスの方を見やるが、公認の伴侶ともいうべき竜人の背は何も語らない。

 アインズの言葉は、ツアレ個人に対して褒章を与えようという意思の表れ。

 それを反故にするつもりなどセバスには毛頭なかったし、自分の望みは既に叶えられている。彼女の代わりに何かを願い出るほど、彼は恥知らずなシモベではないのだ。

 故にこそ、ツアレは迷い、さらに迷い、もっともっと迷った末に、ひとつの決意を口にした。

 

「……妹」

 

 ここにいる一同が――アインズは別の感慨を込めて――押し黙るほどに細く、しかしはっきりとしたツアレの主張が、静謐な空間に響き渡る。

 

「妹に、会いたいです。会って、今の私が、とても幸せだということを――伝えたい、です」

 

 アインズは何かを思い出すように首を傾がせながら、人間のメイド長に訊ねた。

 

「過去を思い出すのは、つらいのではなかったか?」

 

 アインズはセバスからそれとなく、彼女が過去に対して忌避感を抱いていることを聞いて知っていた。

 彼女が受けた汚辱の過去を思えば、これは当然のことだと思われる。常人であれば精神に不調をきたしても余りあるほどの凌辱と拷問と虐待の日々。その発端とも言うべき貴族の手による拉致と、それに伴う妹との別離は、ゴミから人間への再生を果たしてから数年が経過した今でも、彼女の心の深層に暗く苦い記憶となって、刻み込まれたままとなっている。

 

「正直なところを申し上げると、やっぱりつらいです。それに、怖くもあります」

「……怖い?」

「妹はきっと、とても苦労したはずです。あんな幼い子が、たった一人で生きていくには、私の故郷はとてもいい場所とは言えませんでした……だから、あの子が背負った苦労や困難を思うと、どうしても怖いのです」

「……妹が、姉のおまえを恨みに思っていると?」

「そう思われても仕方ありません。いくら領主の貴族に無理やりに連れていかれたからとはいえ、あの子を置いて行ってしまったことには変わりありませんから」

 

 ツアレは想う。

 あの幼い女の子は、今どうしているのだろう。きっとかわいくいい子に育っているはずだ。

 故郷に留まっているのだろうか。家の畑を耕しているのだろうか。誰か良い人に巡り合えただろうか。幸せな生活を送れているだろうか。

 過去のことを思い出すのは、ひどく気持ちが悪い。あの最悪にして最低の記憶の底にしか見つけられないほどに、妹の記憶はひどく曖昧なものに成り下がっていた。

 

「でも、だからこそ、私は妹を探したい。あの子が苦労しているのなら、その苦労を和らげてあげたい。あの子が困難に陥っているのなら、その困難から救い出してあげたい。こんなことで、罪滅ぼしになんてならないことは判っているつもりですが、もう私は、自分の過去から、たった一人の家族から、目を背けて生きていくことはしたくありません。これから生まれてくる、この子のためにも――」

 

 家族に目を背けるものが、新たな家族に、自分の胎に抱く者に対して抱く情愛とはいかなるものか。

 アンデッドに成り果て、精神が変容してしまったアインズでも、その程度を理解するのは早かった。

 

「わかった。お前の妹は、私が責任をもって探し出し、必ずおまえに会わせてやるとも」

 

 ツアレは微笑みの朱色を、音もなく目からこぼれた雫で輝かせる。

 魔導王は決意を込めて、その母たる女の笑みに対し頷いてみせる。

 

 たとえ妹が、彼女が死んでいたとしても、死より蘇らせてでも、その願いを聞き届けよう。

 アインズは心の内で、彼女たちに誓うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セバスとツアレが謁見を終え、広間より一旦退出させた後、アインズは残ったアルベドに声をかけた。

 

「宝物殿のパンドラズ・アクターに連絡を」

 

 委細承知した様子で頷くアルベドは、主人が宝物殿に向かう意図を汲み取る。

 それでもアインズは、自らの宰相に、明確な命令を下すことを躊躇わない。

 

「保管しているニニャの棺を、奴に準備させておけ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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