王宮の廊下を戻るエレオノールの機嫌はいつにもまして悪かった。バーガンディ伯爵から婚約を解消されて以来、最悪ともいえた。
今にして思えば、太后陛下のお召しというのも変だった。王家と付き合いの深いヴァリエール家と言えども、当主の父や母ではなく、自分を呼び出す理由が思い当たらなかった。公爵家長女として、母に連れられて王宮でのお茶会に招かれたことは何度もあるが、それ以上でも以下でもない。結婚前から王女時代のマリアンヌさまと親しくしていただいた母とは違い、王家との個人的なえにしはほとんどなかったのだ。
太后陛下からの直接のお願いとは、貴族社会では命令にほかならない。「えええええっ」と声を上げてしまったのは少々はしたなかったかもしれないが、偽らざる気持ちでもあったのだ。いかに気の強いエレオノールでも「あなたにしか頼めぬのです」と懇願されたらあの場で断ることは不可能だった。
魔法学院を首席クラスで卒業し、王立魔法研究所の研究員として魔法の可能性を日々探っている自分へのお願いが「読み書きを教えてあげてほしい」。しかも、その相手はルイズが呼び出したあの平民だ。今はシュバリエとなって領地も拝領したらしいが、それでもエレオノールにとっては、妹の使い魔という存在でしかない。
「シュバリエサイトはアンリエッタにとって大切な殿方になる可能性のある方です。それにふさわしい教養を授けてほしいのです」とマリアンヌは言った。
このセリフもエレオノールにとっては不可解だった。あのサイトとかいう男は、ルイズを好ましく思っていたはず。両親は猛反対していたが、その使い魔から呼び捨てにされるルイズもまんざらではない様子だった。それなのに、女王陛下の大切な殿方とは、どういうことか。
エレオノールの不幸は、ここ数日、王都で話題になっていた女王の使い魔召喚の儀、王宮前広場などの大騒ぎをまったく知らなかったことだ。研究所でも周知の事実だったのだが、エレオノールがいるところでは話題に上ることはなかった。婚約解消事件以来、彼女の前で男女関係の話題はタブーになっており、その禁を破る勇気ある者は誰もいなかったのだ。
待たせていた馬車で王宮を去る時には、エレオノールの機嫌は地面を何メール掘っても間に合わないほど急低下を続けていた。
「と言うと、あの男はルイズと女王陛下の二股をかけていた、というわけね。ルイズとだって身分違いもはなはだしいのに女王陛下となんて。どういう神経しているのかしら」。本当は二股どころではないのだが、その誤解を解く人は馬車の中にはいなかった。
「あんな悪い虫は、父上、いえ母上にばっさりやっていただくべきだったわね」と怖いことを口にする。それなりに妹思いではある。
太后陛下から読み書きをその男に、しかもその男の邸宅で教えることを拝命してしまった。自分への手当ても支払われるという。しかも、王家からではなく、王政府から。サイト教育にはマザリーニ宰相ら政権中枢も関わっていると考えるしかない。問題なのは、その手当が毎月ということだ。オルニエールでの滞在が数か月、あるいは年単位ということさえありうる。頭を抱えたくなった。
しかし、頭脳明晰な彼女はそこからの脱出策も考えついていた。
「職責を投げ出すことは当家の恥。ここはできるだけ懇切丁寧に教えてやって、あの虫の方から『もう無理。勘弁してください』と仕向けるほかはなさそうね」。賢い長姉だが「もう無理」を男に言わせることへの反省はないようだった。
ヴァリエール家の王都別邸に帰りついてからもエレオノールの機嫌は悪いままだったが、侍女に「お茶を、バタークリームのビスケットを添えて」と命じたころには少々持ち直した。
「エレオノール様。シュバリエサイト殿がご挨拶にまいられてございます。どのようにいたしましょう」と、別邸の差配を任せている執事がエレオノールの部屋を訪れた。王家の下命を思いだすはめになった公爵家長女の機嫌は再び急低下した。
前触れもなく女性宅を訪問するとは礼儀知らずもはなはだしい。「気分が優れないため会えないと追い返しなさい」
正面入り口から復命した執事はサイトの伝言を伝えた。
「ご気分が悪いとは知らず無礼をいたしました。このたびは、先生役をお引き受けくださる由、かたじけなく思います。私は明後日に領地オルニエールに戻り、エレオノール様のお出でをお待ちすることにいたします。どうぞお体、大事になさってください」。
執事と交わしたサイトの言葉はため口だったが、気を利かせた執事が公爵家令嬢向けに翻訳したのだった。気分ではなく、機嫌が悪いのだが「誰のせいで気分が悪くなったと思っているのよ」と憤激したエレオノール。
だが、機嫌はだいぶいい方向に向かっていた。
それはサイトのあいさつによるものではなく、指導という名での、あの虫へのいびり方を考えてのことである。