萃儀達を見送ってから暫くして。
さとりは、今日も書斎で書類の山と戦っていた。
地底を統括する立場にいる以上、さとりの下へ届く書類は後を立たない。
今日も、ずっと処理をしていたものの、まだ幾らか残っている。
「…ふう。そろそろ一息入れましょうか…。」
そう呟いて、さとりは席を立つ。
ずっと座っていたことで凝り固まっている身体をほぐし、ふうと息をつく。
…そういえば、萃儀さんとこいしは上手くやっているのかしら?
時刻をみると、時刻は既に夕方になろうとしている。
…あの二人なら、もう終わらせていてしまってもおかしくはないのだけれど…。
休憩がてら、様子を見に行ってみましょうか。
そう決めて、さとりは部屋を出る。
しかし、彼らの仕事場には、運搬を終えた木材が綺麗に積み重ねられているだけで、二人の姿は何処にもない。
…もう終わってしまったみたいね。2人ともどこへ行ったのかしら…?
このまま二人に会えないというのも嫌だったので、さとりは軽く館内を歩いて回ることにする。
「…そういえば、もう彼が来て結構な日が経ったのね…。」
館内を歩きながら、さとりは想いを馳せる。
彼が来てからというもの、仕事の負担が減ったうえに、日々が明るくなったような気がする。
彼と話すのは凄く楽しいし、心が軽くなる。
今では、彼がいない生活なんて考えられない。
出来るならば、このまま一緒に暮らし続けたいのだけれど…。
そういうわけにもいかないだろう。
もし、彼の記憶が戻ったならば。他に住むべき場所が出来たならば。
彼はここを出て行ってしまうのだろうか。
「出て行って…しまうのでしょうね……。」
推測を口に出しただけなのに、胸がキリキリと締め付けられる。
その痛みが、彼から離れたくないという想いを明確に表していて。
…それでも、現実は非情なもの。
彼は、優しいから。
優しいからこそ、私が出て行ってほしくないと言えば、あの人は、ここに留まってくれるだろう。
でも、そんなことをすれば、彼を縛り付けてしまうことになる。
ありとあらゆる人妖から忌避される覚りが、一人の人間を求めるなんてあってはならないこと…。
だから、その時が来たら、私はそれを受け止めなければならない。
その結論にたどり着き、胸が苦しくなる。
それにしても、人間が一人、館から出ていくだけなのに、何故こんなにも辛いのか。
来るかもわからないことを想像しているだけなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのか。
…理由はわかりきっている。
ただ、自分には過ぎた思いだと思って、目を背けていただけ。
でも、もう抑え込むことは出来ない…!
決して叶わない。いや、そもそも想うこと自体が許されないことだけど。
一度だけ、一度だけなら口に出しても良いかな。
その場に立ち止まり、胸元の目に両手を添える。
「萃儀さん……、私は、貴方のことを好きになってしまったみたいです…。」
口に出してみると、温かいもので身体中が充たされていくような気がした。
叶わなくても良い。伝えられなくても良い。
私は、こうして貴方を想うだけで幸せだから――。
どうしても萃儀に会いたくなったさとりは、微笑を浮かべながら、また歩き出す。
館内はあらかた見たから、残すは中庭のみ。外に出ていたらそこにも居ないことになるけれど。
さとりには、中庭には彼がいるという、確信に近いものがあった。
彼女は、中庭へ歩みを進める。
禁じられた想いを胸に秘めながら。
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そして、少しばかり歩いて。
中庭に出ると、確かに、庭の中心付近にこいしと萃儀の姿を確認できた。
ここにいたのか、と近づきながら声をかけようとして、二人の纏う雰囲気に足を止める。
二人は物凄く深刻な空気を纏っていて、間に入るのは
とはいえ、この状態の二人を置いて立ち去るわけにもいかず、さとりは戸の近くの柱に身を潜める。
…ごめんね。盗み聞きはいけないとはわかっているのだけど……。
この場を見てしまった以上、このまま去るというのは出来なかった。
「お兄ちゃんは、サトリが怖くないの?」
――っ!?
こいしの声に、思わず息を呑む。
聞きたくない。聞いてはいけない。今すぐこの場を去るべきだ。
そのはずなのに、さとりの足は動かない。
まるで、金縛りにあったかのように、彼女はその場を動かず、二人の会話に耳を傾けていた。
…彼が、普段から嘘を言わない、隠し事をしない性格なのはわかっている。
それでも、彼の本音を知るまたとない機会。
正直怖いけれど、これを逃すわけにはいかなかった。
さとりが黙って聞き続ける中、こいしの独白は続く。
…こいしには、全てお見通しだったわけね…。
助けたはずの人間に、怯え逃げだされた時、やせ我慢で気丈に振る舞っていたことも。その後、部屋で泣いたことも。
――そして、こいしの話は佳境に差し掛かる。
「…もう結構な期間お姉ちゃんと一緒にいるはずなのに、平気な顔をしている。
お姉ちゃんがサトリであることなんてとっくに知っているはずなのに――」
…そう、彼は、私と生活する間、一度も嫌な顔を見せなかった。
そればかりか、私の思い違いじゃなければ、彼は、私と話すとき、凄く楽しそうにしてくれる。
だから、私は彼と話すのが…ううん、それだけじゃなくて、彼の事が……
「…好きですよ。」
――っ!?
完全に不意打ちで、しかも完璧なタイミングで聞こえてきた言葉に息を呑む。
その『好き』は、自分の求める『好き』とは違うものだということは明確だったものの、それでも胸の高鳴りは収まらない。
はやる心を抑え、さとりはじっと萃儀の言葉に耳を傾ける。
恐らく自分から聞くことは絶対にできないだろう彼の想い。
決して一言も聞き漏らさぬよう、さとりは耳に全神経を集中させた。
「…ああ。今朝さとりから聞いたと思うけど、俺は気づいたら地底にいた。記憶も失くしていて、行くあてなんてどこにもなかった。
そんな俺を、さとりは拾ってくれた。 ここに住まわせてくれた。
俺は、そのことに本当に感謝している。
…確かに、最初は、心を読まれると聞いて身構えたさ。
けど、さとりは、それをけっして悪用しようとはしなかったし、それどころか、その能力をいかにして相手のために使うかに尽力しているように見える。
そんな人を怖いと思うなんて、俺にはできない。
事情があって俺の心は読めなくなってしまったけれど、さとりに心を読まれるのは決して嫌ではなかった。
寧ろ、読まれなくなって寂しく思ったくらいだった……」
――だから、俺はサトリを恐れない。
決して嘘ではない、彼の心からの言葉。
それは、離れたところにいたさとりの胸にもしっかりと届いていた。
物陰で密かに聞いていた彼女の足元に、ポトリと雫が落ちる。
最初の一滴が落ちた後は、落ちる雫は加速的に増していき、いつしかとめどなく地面を濡らしていた。
暫く声を殺して肩を震わせていたさとりは、少し落ち着いたところで顔を上げる。
その目は赤くなっていた。
――萃儀さん。
館内へ向けて歩き出しながら、さとりは心の内で呼びかける。
――素直で、純粋で、嘘を言えない。
――他人の事を本気で心配できる。
そして、
――嫌われ者の私を受け入れてくれた。
――好きと言ってくれた。
――そんな貴方のことが、私は…、私は……!
決して言えない想いを胸に抱き、さとりは書斎へと戻っていく。
切なそうで、それでいて幸せそうな表情を浮かべながら。