「お兄ちゃんはサトリが怖くないの――?」
悲壮ささえも感じさせるその問いに、一瞬息を呑む。
「覚りは、心を読む妖怪。 その力は、妖怪にさえも忌避されるほど。
ましてや、人間なんて……。」
こいしちゃんは、そこで一度話を切り、軽く俯く。
「私は、一度だけ人里へ行ったことがある。
最初にこやかだった人も、私がサトリであるとわかった瞬間に、みんな怖い顔になって私を追い出そうとした。
仲良くなったと思っていた人も、周囲と一緒になって、簡単に私の敵になった。
みんなして私を囲い、危害を加えようとした。
…その時は、お姉ちゃんが助けてくれたんだけど…。」
彼女の独白は続く。
「それだけじゃない。地底に移り住んでから、百年なんて軽く超えている。その間に、地底に迷い込んできた人間を、見かねたお姉ちゃんが保護したことは何度もあった。
その人たちも、お姉ちゃんがサトリであると知ったとたん、それまで感謝していたことなんて忘れて、みんな怯えるように逃げて行ったわ。
お姉ちゃんは私を気遣ってか、そんなことがあっても、いつも笑顔でいたけど、心はいつも悲鳴を上げていた。部屋でひっそり泣いている時もあった。
私がこれまで見てきた人間というのは、皆そういうものだった……。」
そこまで一気にまくしたてると、こいしちゃんは顔を上げ、小さく息を吸う。
「――でも、お兄ちゃんは違った。
今日一日、私とずっと一緒にいても、怯える素振りすら見せなかったし、何より、話を聞く限りでは、もう結構な期間お姉ちゃんと一緒にいるはずなのに、平気な顔をしている。
お姉ちゃんがサトリであることなんてとっくに知っているはずなのに――。」
そこで一度言葉を切り、俺をしっかりと見つめるこいしちゃん。
その顔は、真剣そのもの。
「ねえ、教えて? お兄ちゃんは、サトリが怖くないの?」
縋るような目で問うてくるこいしちゃん。
彼女にとって、この問いは、物凄く勇気がいるものだったのだろう。
その身体は震えていて、拳はぐっと握りしめられている。
少しだけかがんで、こいしちゃんと目線を合わせる。
「…結論から言うと、俺はサトリが怖くない。 それどころか…好きだよ。」
それを聞いたこいしちゃんの身体がびくっと震える。
「…す、き……?」
「ああ。今朝さとりから聞いたと思うけど、俺は気づいたら地底にいた。記憶も失くしていて、行くあてなんてどこにもなかった。
そんな俺を、さとりは拾ってくれた。 ここに住まわせてくれた。
俺は、そのことに本当に感謝している。
…確かに、最初は、心を読まれると聞いて身構えたさ。
けど、さとりは、それをけっして悪用しようとはしなかったし、それどころか、その能力をいかにして相手のために使うかに尽力しているように見える。
そんな人を怖いと思うなんて、俺にはできない。
事情があって俺の心は読めなくなってしまったけれど、さとりに心を読まれるのは決して嫌ではなかった。
寧ろ、読まれなくなって寂しく思ったくらいだった。
こいしちゃんだってそう。
実際に会ってみてからまだ一日と経ってないけれど、君が心から姉の事を想っていることくらいは俺にだってはっきりと変わる。
そんな子に対して、恐怖の感情を持つ方が難しいよ。
…だから、俺はサトリを恐れない。」
あまり上手くは言えなかったけれど、ちゃんと伝わったのだろうか。
ずっと黙っていたこいしちゃんは、俺が言い終えると目を伏せる。
少しの間、お互いに沈黙が続く。
「…もっと早く……いたら。」
小さく呟いたこいしちゃんがその沈黙を破ったが、何を言ったかまでは聞き取れない。
「え?」
俺が聞き返すと、こいしちゃんはぱっと顔を上げ。俺と目線を合わせる。
「…うん。お兄ちゃんの想いは良くわかったよ。
私は瞳を閉じてしまったけど、今のお兄ちゃんの言葉が本当かくらいはわかる。」
そこまで静かに言ったこいしちゃんは、その顔に笑みを浮かべ、続ける。
「ありがとう。…出来る事なら、お兄ちゃんみたいな人にもっと早く出会いたかった。
もっと早く出会えていたなら……。」
――私は眼を閉じなかったのかな。
さまざまな想いが入り混じったその呟きは、誰に聞かれるともなく空へ溶けていく。
笑みこそ浮かべているものの、こいしの視界は滲んでいた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
――そして、少し時が経って。
こいしちゃんは、建物内へと続く扉のほうを見つめると、小さく頷く。
「何か、あった?」
そう問うてみるものの、彼女は首を降る。
「ううん。何もないよ。」
――そんなことより。
そう言って、こちらの顔を覗き込むこいしちゃん。
その顔は、先程と打って変わってキラキラと輝いている。
「お兄ちゃん、もう一つ聞いて良いかな?」
…なんだろう、凄く良い笑顔な時点で嫌な予感しかしないんだが。
「…なに?」
とはいえ、断るわけにも行かないので、続きを促す。
こいしちゃんは、目を輝かせて言った。
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんのこと好きなの?」
――は?
流石に予想の斜め上を行く問いに、思考が停止する。
硬直する俺に、笑みを深めるこいしちゃん。
「えっと、図星かな?」
「いやいやいや、待って待って。どうして急にそんな話に?」
どうにか言葉を捻り出し、質問の意味を問う。
「えーっと、なんとなく、かな?
さっきだって、お姉ちゃんのことをあんなに熱く語ってくれたし…。」
それは、こいしちゃんが、サトリをどう思うかについて聞いてきたからであって…!
「それに、今日話してて思ったんだけど、お兄ちゃんって、お姉ちゃんのこと話す時、凄く楽しそうな顔してるよ?」
…そう、なのか…?
確かに、さとりのことを考えるだけで心が弾むような想いにはなるが…。
「で、どうなの?好きなの?お姉ちゃんのこと。」
身を乗り出して聞いてくるこいしちゃんに圧倒されながらも、思考を巡らせる。
俺が、さとりを、好き…?
カチリ、と、頭の中で何かのピースが嵌るような音がした。
もっとさとりを見たい。
もっとさとりと話したい。
もっとさとりを知りたい。
さとりの支えになりたい。
これまで、脈絡もなく浮かんでは、頭の中を渦巻いていた想い。
これらの想いの出どころは……
ーーそうか。俺は、いつの間にかさとりのことが……。
にこにこと俺の答えを待つこいしちゃん。
俺は、たった今、初めて辿り着いた結論を伝える。
「俺は…いつの間にか、さとりのことが好きになっていたみたいだ…。」
言葉にしてみると、それはすんなりと胸に入ってきた。
そして、胸には、新しい…いや、これまで気づかなかった想いが沸き起こる。
「ふふー。やっばりそうなんだー。」
当てることが出来て嬉しいのか、上機嫌なこいしちゃん。
彼女は、さも今思いついたかの様子で手を打つ。
「あ!そういえば、すっかり話し込んじゃったけど、まだ仕事終わりの報告してないや!
でも、私まだここにいたいから、悪いけどお兄ちゃんが報告に行ってきてくれないかな?」
物凄くわざとらしい気遣いに苦笑する。
しかし、今はその気遣いがありがたい。
「…じゃあ、俺が報告に行ってくるよ。」
「ありがとう!悪いけど、宜しくねー!」
ぱたぱたと手を振るこいしちゃんに見送られて、中庭を後にする。
向かう先は、さとりの書斎。
この時間なら、彼女は書斎にいるだろう。
こいしちゃんのお陰で気付くことが出来たこの想い。
1度気付いてしまったが最後、それは収まる様子をみせなくて。
誰もいない廊下を、足速に駆けぬける。
この分相応な想いを伝えるつもりは全くないけれど。
今はただ、少しでも早くさとりに会いたかった。