ゼロと底辺を結ぶ銀弦   作:ゆにお

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五話 忍び寄る影 その4

 学院長室を出た二人の足音が石畳の廊下にコツコツと響き渡る。

 

「安心したわ。何事かと思って行ってみれば何のお咎めもなしで」

 

 ルイズの表情は晴れやかだ。先ほどケイツが言ってくれた言葉が未だ胸に残っている。安堵よりも達成感が上回り、ただケイツが自分の使い魔であるということを再確認した程度のことでルイズの足は軽やかに廊下を叩く。その隣を歩くケイツの歩幅の長さから窺えるデリカシーの欠如も、今日だけは許してあげることに決めたのだった。

 

「咎めなど、あるはずもない。危険から逃げ続けてさえいれば不当な怒りを向けられはしないのだ」

 

 ケイツが紡ぎ出す含蓄深いその声は、間違いなく彼の経験談なのだろう。ルイズは心底かわいそうな表情を作ってケイツを見た。ここまで来るといっそ母性本能をくすぐられそうだった。

 

「……あんたやっぱり今日も”全開”で安心したわ」

 

 せっかく持ち上げたと思ったら、自分でどん底まで落ちていく天然の自爆っぷりに重いため息がルイズの胸から零れる。

 今まで溜まっていた陰鬱な悩みも吐き出したからであろうか、ふとルイズは足を止め、空を見上げた。

 

「綺麗ね」

 

 山の端に夕日が沈み、双月が顔を覗かせている茜空が、まだら雲を鈍く照らし、幾条もの朱を大空に引いていた。

 ここのところ変な使い魔に振り回されていたおかげでのんびり景色を楽しむ心境になれなかったこともあり、何度も見慣れているはずのその光景が、思わず胸を打つ。そしてせっかくの光景を自分の使い魔と共有しようとルイズが振り向いたのとケイツが声をかけてきたのはほぼ同時であった。

 

「ね――」

 

「――おい、何をしている。早くお前の部屋に行くぞ。いつどこで≪沈黙≫が襲い来るとも限らんのだ。早く」

 

「……」

 

 見えない恐怖に追われた臆病者は当然ながら美しい自然に思いを馳せる考えなど持ち得ていなかった。むしろ今のケイツにとって夕暮れは深闇の来訪を告げるもの以外の何物でもない。漆黒の闇夜が、姿の見えぬ≪沈黙≫を暗示しているようで、人工の灯火の元へと急かすのであった。

 そんなケイツを見て、夕焼け空に惹かれ、宙に漂うような心持ちに浸っていたルイズは一瞬で現実に引き戻された。

 

「なんかあんたって時々無性に苛めたくなるわ」

 

 ケイツに構っているとよくない何かに目覚めそうだ。

 そんなことを感じてしまう自分の変化が少し怖いとルイズは思った。

 

「何を言っている? 行くぞ、退路は既に確保してある。こっちに続け」

 

 この平和な魔法学院が一体どうしたらそのように過酷な戦場に見えるのだろうか。女子寮の中キョロキョロと視線を張り巡らせながら進むケイツに、通り過ぎる女生徒たちは怯える。怯えて恐怖に引き攣る女生徒の声にケイツもまた怯える。『似ている』と認識された銀色の魔力弦が女子寮中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた。

 そんな混沌の最中で、些細なことにいちいちビクついているケイツの背中に声をかけるという行為がルイズにはとても魅力的なもののように思えてくる。

 

「――きゃぁケイツあそこに影が」

 

 だから不意打ちで、平坦かつ一本調子の声で悪戯っぽくルイズは言った。

 

「ヒィッ! 何だ……驚かすな、ただの半裸女子ではないか」

 

「あんた、愉快ね」

 

 くだらないことでいちいち驚愕するケイツを見て、ルイズは胸の内がなんだか気持ちよくなってくる。じわじわと広がる炎に侵食される気がして、それは貞淑なトリステイン貴族としてあるまじきことだと、ルイズはかぶりを振ってその炎を鎮火しようと試みた。

 けれど、どういうわけかその燻りは依然と熱を帯びている。

 なんとなくその心境を誰かに打ち明けたくて、ちょうど自分の部屋から顔を覗かせていた半裸の女生徒にルイズは肩に手を置いて言った。

 

「私、あんたの言ってた『微熱』の片鱗を理解したかもしれないわ」

 

 ありえない事を聞いたと言わんばかりに目を丸くするその女生徒にたいして、ルイズは勝ち誇った笑みを浮かべて自室へと足を踏み入る。

 鍵をかけたドアの外から、詳しく、詳しく、という声とともにドンドンと扉を叩く音がしばらく続いたが、最後に彼女はとうとう杖を持ち出してアンロックの魔法をかけてきたので、丁重にお帰りいただいたのは言うまでも無い。

 

 

 

 夕方の黄昏時も終わり、夕食の刻限になった。春を迎えたばかりの茜空は既に眠りにつき、今ではすっかり二つの月が星達と共に夜空に輝いている。

 ルイズを食堂へと送り届けたケイツは今、厨房へと足早に向かっているところであった。

 

「ケイツさん?」

 

 ケイツを呼び止める声が背後からかかり、一瞬だけケイツは身をすくませたが、それが耳覚えのある声だと気付きすぐさま平静を取り戻した。

 

「……メイドの少女か。丁度今から厨房へと向かうところだった。一緒に行こう」

 

「はい」

 

 密やかに胸をなでおろすケイツに、シエスタは微笑で答えた。

 暗い広場に茂った芝を二人が踏みしめているとき、シエスタは言った。

 

「――あの、ケイツさん」

 

「何だ?」

 

 自分の足音しか聞こえなくなり、背に掛かる声に振り向く。シエスタは神妙な顔で立ち止まっていた。

 

「その、ありがとうございます」

 

 掛け値なしの感謝を込めて、シエスタはお辞儀する。

 

「いきなりなんだ?」

 

 当然当惑するケイツにシエスタは恥ずかしそうに頬をかいた。

 

「貴族に立ち向かったり、仕事仲間のみんなに優しくしてくれるし、魔法が使えても驕らないし、そんなケイツさんにたくさん勇気を頂きました」

 

「……」

 

 ケイツは絶句した。ケイツは自分の情けなさをある程度自覚している。魔法に関しても同様だ。そんな自分が感謝を向けられる理由を探そうとしたが、今シエスタが列挙したような局面をとうとう思い描けなかった。

 

「お前が何を言っているのか、分からん。あまり私を褒めないでくれ。私は、まだ、そんなに大した人間ではない」

 

 自分で言っていて悲しくなってくるが、それでもそうすることが誠意だとケイツは考える。

 

「ですが、友達のローラちゃんの怪我を治してくれました。ケイツさんには大したことじゃないかもしれないですが……彼女すごい助かってました。ローラちゃんは私の先輩で、私が魔法学院に勤めることになったとき、よく世話をしてもらって、いろいろ助けてもらったんです」

 

「だが、それは――」

 

 それこそ当然の事をしたまでだと、ケイツは考える。しかし、シエスタの微笑はそれを遮る。

 

「トリステイン魔法学院は、選ばれた貴族の方々が入ってくるのと同様に、それにお仕えする平民達の選考も厳しいんです。読み書きや礼法、骨董品の扱いから何から何まで勉強して、身元のしっかりした者の推薦が無いと入れなかったりしますし……。それでも栄えある魔法学院に勤めることに憧れる人は多くて――」

 

 そういってシエスタは儚げにはにかみ、一息つく。

 

「――ですから、代わりたいって人はたくさんいるんです。誠心誠意お仕えしていても理不尽なことでクビになることだってあります。だからローラちゃんだって、指の怪我が原因で仕事のミスをしたりでもしたらどうなるか……。ケイツさんは些細な施しをしたつもりでも、私達から見れば感謝して当然のことなんですよ?」

 

 シエスタの表情はケイツへの謝意で満ちていた。無垢な瞳に射抜かれ言いようの無い不安がケイツの胸を焦がしていく。

 ケイツは分からなかった。このメイドは一体『誰』に感謝しているのか。

 それ以上考えたくはなかった。だからケイツは乾燥しきった枯葉のような薄い唇を吊り上げぎこちなく笑う。

 

「そう、か。ならばその感謝を受け取っておこう。それと、もし私に出来ることがあれば、また言え。そのぐらいのことなら構わんぞ」

 

 湧き上がる不安を打ち消したくて、つい善行を重ねるようなことを言ってしまう。まるでそうすることで不安を覆い隠すように。

 夜でよかったと思った。慣れぬ事をしたケイツの頬は赤い。いい年してそんなところを見られたくはなかった。

 

「行くぞ」

 

 そして、ケイツは歩き出す。シエスタはそんなケイツの背中に頭を下げ続けた。

 嬉しいと思う気持ちと寂しいと思う気持ちが、同時にシエスタの胸の中で渦を巻いている。

 ケイツは、”もし私に出来ることがあれば、また言え”と言った。でもその機会は来ないようにシエスタは感じた。

 いつまでも頭を下げ続けるシエスタが着いて来ていない事に気付いたのか、ぶっきらぼうにケイツは呼びかける。シエスタは悲しげに笑い、後を追った。闇夜の中、芝の上につたり落ちた一滴の涙は誰にも見られなかった。

 

 そしてケイツが厨房に入るとみんなの歓声が沸き上がった。きっとケイツは未だに馴染めぬと戸惑ったように顔を引き攣らせてるに違いないとシエスタは笑う。

 

「……うん、私も頑張らなくちゃ」

 

 シエスタは厨房の戸口から聞こえてくる喧騒を前に一呼吸し、表情を引き締めてシエスタは厨房の喧騒へと身を投じた。

 

「さて、ケイツさん。今日はいい牛肉が手に入ったんですよ。マルトーさんが腕によりをかけて料理してくれたんです」

 

 こんなお祭りみたいな日が続けばいいのにと、シエスタはその思いを胸に秘める。目の前の光景を目に焼き付けるようにいつまでも見つめていた。

 

 

 

 同時刻アルヴィーズの食堂にて。

 

「ねぇ、ルイズ、詳しく話しなさいよ。『微熱』の片鱗を理解しただなんてずいぶんな事を言うじゃないの。まさかミスタ・アサリと何かあったんじゃないでしょうね」

 

 ルイズとキュルケが食後のお茶を楽しんでいた。もちろん話題は、夕方のルイズの問題発言の真意である。夕方は門前払いされたがキュルケはもう好奇心が抑えきれなかった。

 

「そんなんじゃないわ。ただケイツを見ると、こう胸の内側からもやもやとしたものがわきあがって来るの」

 

「へぇ、もしかして、好きになっちゃったとか?」

 

 自分の得意分野にルイズの方から乗ってきたとキュルケの艶やかな口元が緩い曲線を描く。お堅いルイズに到来した春の予感を『微熱』のキュルケは感じ取ったのだ。これはキュルケにとっても大きな問題であった。何せ、ヴァリエールのもの(男)はツェルプストーのもの(男)を家訓としている彼女にとって、ようやくライバルが舞台にあがって来てくれたかもしれないのだから。

 

「馬鹿言わないで、そんなんじゃないの」

 

 ルイズはつんとすまして否定した。それがますますキュルケの愉悦を刺激する。「好きなの?」と問われて「はいそうです」などと答える人はいないのだ。むしろ大抵の場合、そんなベタな応答が、その裏に隠されている真意を際立たせるのだから。

 

「ねぇ、彼のどんなとこが気になるの? ほら、この『微熱』のキュルケに言ってみなさいな」

 

 ルイズは、両手を頬にあて顔を半分隠している。隠しきれてない頬は赤く上気している。もうこれは確定だわ、とキュルケはどうやって探り出そうかを考えているときに、ルイズはおずおずと神に告白するように口を動かした。

 

「……なんていうのかしら、みっともないケイツや情けないケイツを見てると胸の内側からじわりじわりと熱くてくすぐったくなるような何かが、顔の方まで上がってきて、蕩けるような心地になるの」

 

「うんうん、それで?」

 

 キュルケの声が期待に弾む。

 

「それを見ていると無償に杖とか鞭を持ちたくなるんだけど……」

 

「……ル、ルイズ?」

 

 キュルケが戸惑った。なんだか雲行きが怪しくなってきた。

 

「私って、猫に似てるって言われたことあるわ。きっとケイツがネズミみたいに思えるのがいけないのかもしれないわね。ねぇキュルケこの想いは一体なんなのかしら」

 

 呆気に取られていたキュルケが、そこで真顔になった。コホン、と咳払い一つし、言った。

 

「それはただの病気よ」

 

「え?」

 

「その道は上級者しか許されない茨の道よ。悪い事は言わないから引き返しなさい」

 

「……で、でも」

 

「いいこと? 確かにヴァリエールは敵だけど、今回だけは塩を送るわ。これは『微熱』としての忠告だからね。すぐ引き返すの。分かった?」

 

「う、うん……」

 

 ルイズはキュルケの剣幕に思わず頷いた。だが、性癖を自らの意志で矯正できるのならば世に性犯罪者なぞ生まれないのだ。

 ルイズの胸に芽生えたつぼみはきっといつか必ず開花するに違いなかった。


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