ULTRAMAN・BORN IN DARK   作:サカマキまいまい

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常夜を照らせ、復活の光よ(下)

 ざーんと引いては寄せる波が何度もカリンの顔を打つその冷たさで、カリンは意識を取り戻した。

(ここは......! そうだ、行かないと。クレアを助けないとッ!!)

クレアの思いを踏みにじってでも、彼女を諦める訳にはいかなかった。

明るくなってきた周囲の遥か先に見える石の社に目を細めると、カリンは海から這い出て、邪神の待つ神殿へ向かった。

 限界に近い肉体と精神に鞭打ち、再び辿り着いたカリンを出迎えたのはカリンの予想よりもはるかに最悪の景色だった。

自分の目が信じられず、隠れていた柱から身を出してカリンが見たのは、獣どもの狂乱の宴。

 ここで、シアエガの話をしよう。シアエガとは闇の丘に封印されていた旧神の一柱だ。かつてシアエガを封印した人々は清らかな乙女を生贄にし、その清浄なる血を以て、荒ぶる神を讃えその怒りを鎮めていた。

自分たちの神が封じられ嘆き悲しんだカエル人間、ナガアエたちは考えた。

どうすればその封印は解けるのか、そしてこれが彼らが出したその答えだ。

守護者に仕えた由緒ある一族の血を引く優秀な巫女を徹底的に穢し、その尊厳を貶める。美しきもの程、汚された姿はより無残に映える。

巫女としての彼女を飾る総ては剥ぎ取られ、四肢をぶよぶよの触手に縛られたその白い裸体の上に獣のようなニンゲンが覆いかぶさって揺れていた。

それをカエルの鳴き声のようなだみ声ではやし立てながら、ナガアエ達が酒を楽しんでいる。

ぶちりとカリンという人間を縛り、維持する鎖が粉々に千切れたような音がした。

「お前らああああああああああああああアア!!!」

両手の平に渦を巻いて生じた紅蓮に燃える火球を、漸くカリンに気づき立ち竦むナガアエのガマのような口に放り込む。

くぐもった呻き声をあげて崩れ落ちるそれらには見向きもせず、今なお、贄が捧げられる壇に乗せられ犯されているクレアの下に向かう。

だがそれを黙って見過ごすほどナガアエ達は甘くない。仲間を殺されたことに怒りの声を上げて、その巨体に見合わぬ素早さで飛び掛かってきた。

それをちらりと見たカリンの傍で、龍の唸り声のような、重く低い轟きが響いた。それと共にカリンの周囲に風が渦巻き始め、主に害意を持つ敵を見定める。カリンを捕えようとしたナガアエは触れることすら能わず、四肢が不可視の刃に切り裂かれ、吹き飛んだ。

それを見たナガアエ達は慌ててカリンから距離をとり、クレアまでの道が開けた。

視界がざあざあと霞む。

(まだ持ってくれ。今たどり着けるなら、後はどうなったっていい――!)

あと少し、汚れた尻を盛んに振っていたゴルギスが漸くカリンに気づき、怯えたように顔を引き攣らせた。だが、クレアの頭はゴルギスの動きに合わせてかくかくと揺れるがまま、その表情は影になって見えない。

あと少し――。

全身が痙攣し足がよろめく。そこで遂に視界が途切れ、勢いよく地面に倒れた拍子に耳から脳髄が零れた。

世界を己の認識する型にはめ込む為のトリガーもなしに魔術を行使した代償だ。

「わ、あぐ……」

不明瞭な意味を成さない発音が零れる。わっと群がったナガアエ達が、カリンの頭を地面に打ち付け、胴に蹴りを入れた。だが、その痛みさえ正しく認識出来ない。

「殺セ! 俺の弟を焼きやがっタ!」

本来なら理解出来ない筈のナガアエ達の言葉がすんなりと頭に入ってくる。

「待ってクださい。主はその男を生かすことを望んでおられまス」

そして同族である筈のゴルギスの言葉は所々が不明瞭に。

それは、カリンが「魔」に近づいた証か。或いはゴルギスがヒトではなくなっていっているのか。若しくは、そのどちらもか。

「そうか。ならば、この男に見せつけよう。我らノ神が甦るその時を」

見るも無残な、それでいてその顔だけは彼女だと解る程度に原型を留めたクレアの裸体が、シアエガの末端達によって高く高く吊り下げられた。

そこで、ゴルギスが呆気に取られたかのように、ぽかんと口を開けた。

「えっ......?ちょっと」

やがて勢いよく印が刻まれた床に叩きつけられた。

ぐしゃり。

全身が粟立つような音とともにソレは弾けた。床に黒い液体がてらてらとぬめる臓器とともにぶちまけられる。

ずっと前にカリンは一度、草原に晒されていた大蛇の死体を見たことがあった。普段は人間すら喰らう捕食者の亡骸はまだ新しく、開かれた瞼の下で何も映さず虚ろに輝くその瞳だけがそれがただの肉塊であることを示していた。

それを見た時、カリンの心にふと魔が差した。光の当たらぬ蛇の腹がどうなっているのか無性に気になったのだ。

鱗で滑る蛇の腹に爪を立て、その身体をひっくり返し──。

「うっげえええええええ」

──あの時の光景が頭にフィードバックする。裂けた腹から、臓物が零れ、生きている間に喰らった様々な物がどろどろに腐敗し液状化したモノが流れ出す。バケツを勢いよくひっくり返したかのように地面に広がる黒い血の海を夥しい数の蛆虫が泳いでいた。

ただあの時と違ったのは、蛆虫に犯され、その骸を晒していたのは、誰よりも守りたかったヒトで。

「ええええええええええええええええええええ?」

クレアの遺体に駆け寄り、辺りに散らばった臓物をかき集め、肉の山を築きながら、ゴルギスが叫ぶ。

「なんでですかっ?! 封印を解けば、私とクレアは助けて頂けるのでは? 私をシアエガの神官に、クレアを巫女にしてくれるとおっしゃっていたではないですか」

地面にへたり込み、そう叫んでいたゴルギスの周りに集まったナガアエ達が、口をぱくぱくと開きながら出っ張った眼球をぐるぐると回転させ、ゴルギスを見遣り、黙って首を刎ねた。

それをただ見つめることしか出来ないカリンの前で、地面に落ちて弾けたザクロのような穢されたクレアだった残骸から溢れた血が、床に刻まれた溝に流れ込んでいく。

それはカリンとクレアが必死になって刻み直した文様を穢していく。

封印を行う為に必要だったのは穢れなき血だった。それを上塗りするかのように用いられたのは白無垢の成れの果て、手折られ踏みにじられ、穢された百合が流す血。因果は逆転し、封印が解かれる。

床に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。精巧な文様が刻まれていた由緒ある床は単なる石の塊となり、吹き飛んだ。暗い穴の空いた底から増殖を繰り返す、不定形の黒い触手が海のように流れ出した。

「く、れぁ......」

黒い波は、一斉に(かしず)いていたナガアエ達の何匹かを連れ去り、邪神に捧げられた巫女を呑みこんでいった。

カリンは好きだった人の開かれた目がぼんやりと暗い空を見ながら溶けてゆくのを、震える手を中途半端に伸ばして見ていることしか出来なかった。彼女の姿が消えたのと同時に、自分の中の大切な何かが消えたのが分かった。これまでカリンを支え、そしてここまで導き、更に先へと進んでいくための力が。

力を失った手がだらりと地面に伸びた。

その腕の先で、湧き出す泉のように、幾つも泡を吐きながら、海が盛り上がっていく。

やがてこんもりと小さな山ほどにまで大きくなった黒い泥の中から浮かび上がった塊が宙に押し上げられ、遥か見上げる位置まで上がるとぱっくりと二つに裂け、中にあった赤い宝石が剥き出しになった。

ごろごろと宝石が回る度に、ぎらぎらと半壊した石の社が照らされる。

黒い膜の中でごろごろと動き回った宝石が、ちょうどカリンの正面に中央の黒い丸が来て止まると、カリンは自分よりもずっと高みに居るナニカが、己の心に触手をはい回らせ、隅々まで探り回っている感覚を覚えた。その感覚には既視感がある。

穴蔵で、スライムのような不定形のバケモノと対峙した時、カリンを知覚した存在。

漸くカリンはその宝石の正体に気づいた。

瞳だ。余りにも、余りにも巨大な。

《#$%’=!#&3346......。うン、これでa,ニンゲンの意c識に分かるように→なったカn?さア、ゆこうかキミの故郷へ》

その頭に直接語り掛けて来るような言葉と共に伸びてきた、石の柱よりも太い触手がカリンの足首に絡まり、ずた袋を持ち上げるように、無造作に宙へ運んだ。

世界が反転し、遠くなる。

何時もとは違う見え方だからだろうか?カリンの瞳に映る世界はどこか色あせて、歪んでいた。

悲鳴や呻き声一つ上げずに黙っているカリンを、自身の一つしかない目玉の前に持ってくると、邪神はその大きな目玉でカリンをねめつけた。

《?&%3?まさカ、コレで終わったと思っているんじャないだろうne?いやnいやnいや、いまィましい巨o人を信奉し、わたしォふうじこめたそのをかえしだ。まだfおわらなfいよ?じごくハこれからだ》

その眼光は、睨まれた者に、頭の裏側を貫くような感覚を与える筈だった。本来なら発狂しても不思議ではないにも関わらず、黙ってぶらぶらと揺れているカリンからつまらなそうに目を背けたシアエガは、森の木々を押し潰し、進む先にいた生き物を呑みこみながら、穴蔵へと向かい始めた。

水が広がるように、シアエガが大地を移動するおかげで、カリンにさほどの衝撃は無かった。なのに胃は激しく震え、何もかも吐き出したくなったから、カリンは口を開き、零れるがまま、遥か先の大地に向けて、昨日の宴で口にした、村の人々と交わした酒やシチューを総て吐いた。

吐しゃ物はあっという間に点となり、体のあちこちに傷を作りながら歩いてきた道のりが所々見える森に消えた。

見る間にシアエガは森を抜け、見覚えのある場所に辿り着いた。

毒々しい色をした草原に向かってぽつりとあるカリンの故郷は、余りにも寂しかった。

まるでアリの巣穴だ。凸凹の大地に、不器用に開けられた穴。そこから出てきた正気を失くしたのであろう村人が、シアエガに気づき叫んだ声は不明瞭で、キーキーと喚く猿の鳴き声のようだった。

《余りにも矮小だ。君もそう思うだろう?》

食事時の会話のような気安さで、カリンにそう言った邪神は立ち竦んでいた村人を一顧だにせず呑みこむと、無造作に下に人々が暮らす大地に触手をドリルのように突き立て、地面を剥ぎ取り、カリン達の村を晒した。

巣の上にある石がひっくり返された時のアリ達のように、わらわらと右往左往する人々がよく見えた。

聞こえてくる悲鳴が遠く聞こえる。

「はははははははははっはははっはははっはははっはっはっハハハハハハハッハハッはははあはっはっははあはっはははははhっはははははあはははははははははははははははははははっはあははっははははははははははははっははははははあはっはっははははははっはははあっはははははっは」

ぞっとするほど人間らしく、それでいて人間のあらゆる感情を剝ぎ取ったような笑い声が大地に響いた。

《見つけタ》

逃げ惑う人々には目もくれず、全身の触手を泉に次々と浸らせる。

泉の浄化の力によって触手は煙を上げて溶けていくが、それに構わず邪神が次々に新たな触手を生やしては鎮める度に、泉はより黒く濁り始め、遂にはどろどろの何かが浮かぶ沼に変わった。

仕上げとばかりに、泉から触手を引き上げ、人々の目の前で中央に鎮座していた石像を押した。

たったそれだけで、ヒトが縋り、祈ってきた「神」は斃れ、沼に呑まれる。

ずぶずぶと沼に沈んでゆく石像を見て、人々が絶望の呻き声を上げた。

《ふむ。詰まらんほどに呆気なかったな。まあいいか。ここで君の役目は終わりだ。果てでご先祖と共に沈むがいい》

カリンを縛っていた触手が糸を引いて離れた。たった一人空に放り出され、一瞬の浮遊感の後に残酷なまでに厳格なこの世の法則に従い、沼に落ちていった。

見る間に、黒く淀みきった泉が迫る。

最期にちらりと見えたのは、カリンに気づいた人々の悲痛な顔。けれどなぜか、同じような表情を浮かべている筈の幼馴染の顔がやけに印象的だった。

(......あれ?俺、誰かに何かを託されていたような......)

だが、カリンがそのことについて考える前に、彼の体はカリンを待ちわびていた沼に呑まれた。

沼の水は溶けた飴のように粘性が高く、反射的にもがくカリンに絡みつき、彼を執拗に水底に誘った。目から、鼻から、口から、毛穴から、尿道口から、肛門から、体の穴という穴から入り込んでくる粘液がカリンという人間の存在を辱めた。

 

邪神の声がカリンの脳を焼き、シアエガに喰われた人々の声なき怨嗟は、カリンの全身を犯した。

カリンという存在がばらばらに、ぐちゃぐちゃに壊されていく。

 

 (......あ――)

 

やがてカリンの魂が、個を失い、邪神の外法に囚われかけた時、邪神の手から、地の底から噴出した奔流がカリンを浚った。

 

 

 

 

 

「ここは……?」

気が付けば、カリンは霧の立ち込める密林の中にいた。といっても、そこはカリンの良く知る、魑魅魍魎どもがじっと息を潜めているような不気味な気配の漂う空間ではなく、この世ではないような神秘的な静寂を保つ場所だった。

無性に心細くなったカリンは、ふと何かに呼ばれた気がして森の奥に歩き始めた。

自分が真裸であることに途中で気づいたが、やがてそれも気にならなくなった。

地面を踏むたびに、そこを覆う落ち葉はふわふわとカリンの足を柔らかく押し返したから、靴は必要なかったし、カリンを見ている者は居なかったから、着飾る必要なんてなかった。

身を守る武器は自分にはもう必要ないと、カリンは既に悟っていた。

やがて視界の先で木々が無くなっているのに気付いたカリンは歩を進める速度を上げて森を抜け、その先に広がった景色を見てため息をついた。

「きれいだ......」

シアエガと同じくらい大きな建造物が見える。石で出来た幾つものパーツが組み合わさってできているように見えるが、誰が造ったものなのだろう? 今の時代の建築物よりははるかに精巧であるとは言え、鉄などの金属で出来ていることが多い前時代の遺跡にしては異質だった。その建物もカリンの目を十分に惹くものだったが、カリンを何よりも惹きつけたのは、その遥か先でゆっくりと地平線の彼方に沈んでいく、熟した柿のような色をした輝く大きな半円だった。

それが放つなにかが、カリンを照らし、冷えた体を温めた。

「温かい......」

なぜかとめどなく流れる涙をそのままに、じっと沈みゆく円を見ているとどこからか声が聞こえてきた。

『あれの名は太陽』

突然聞こえてきた感傷的な色を帯びた声に、カリンは飛び上がって驚いた。

「誰だ?」

『今の私に相応しい名は無い。だが君が分かるように言えば、私は君と共に沼に沈んだ石像に宿っていた意識だ』

「それって......!」

かっとカリンの頭に血が上った。

「じゃあ、お前は全部見ていたのか! 毎日欠かさず巫女達が祈りを捧げている時も、誰かが死んで家族が泣きながら祈った時も、昨日皆が眠れぬ夜を過ごした時も、ついさっき村がシアエガに襲われた時も全部!!」

『......ああ』

怒りに我を忘れそうになるカリンに、あくまで冷静に返事をする声の主に、カリンはますます怒りが増した。

「じゃあなんで助けてくれなかったんだよ!! お前は神様なんだろう?! みんなの守り神じゃないのかよ?! なんで、なんでクレアを助けてくれなかったんだよ!!」

感情が昂ったカリンが、先ほど流した涙とは別の涙を零す。

『済まない』

ただそれだけを言って黙った声に返す言葉が分からず、カリンはただ泣き続けた。

(皆が石像に祈ってるのを馬鹿にしていたけど、結局俺も同じだったな......)

やがて涙が止まるとそう自嘲したカリンは声の主に、ずっと聞きたかったことを聞くことにした。

「なあ、ここは何処なんだ?死後の世界とか?」

『いや、君の肉体は今もまだ、沼の底へ沈んでいっている。シアエガの吐く粘液に君の心が壊される前に、私が自分の意識の中に君の精神を取り込んだのだ』

「え、でも俺はもう何時間もここに居ると思うけど」

『君が体感する時間は私の意識の中でのものだ。例えば会話に言葉が必要ないとすれば、人との会話はずっと短く終わらせられるだろう? 君は私の心の中を目まぐるしく流れるイメージを直接受け取っているんだよ』

「それってつまり、まだ穴蔵は襲われているのか?!」

(そうだが、私たちにはどうすることも出来ない。せめて君だけでも助けてやりたかったが……。元より抜け殻であるこの身が、光届かぬ沼の底に沈んだ以上、最早それも叶わぬ)

「そんな......」

俯くカリンを照らすものがあった。ふと顔を上げた先に見えるのはあの半円の輝き。

(タイヨウ。何故だろう、俺はこの光を知っている気がする)

ぼんやりとカリンがそう思った時、辺りの景色が歪んだ。

『これは心象風景の逆流現象(オーバーフロー)......』

空間が捻じれながら、白く染まってゆく。辺りにあったものは総て片づけられ、白い砂が一面に散りばめられただけになった。

 

どこか遠いところで、自分の名前が呼ばれた気がした。

(カリン......)

「カリン……。カリン......」

 

 

その声の方を見ると、幼子が砂を弄って遊んでいる。それを微笑んで見守っていた男が、ふと子供の名を呼んだ。

 

『自分の名前が嫌いか、カリン?』

男がそう尋ねると、幼子は拗ねたようにぷいとそっぽを向いた。

『嫌いだよ、女っぽいし』

気がつけばカリンは苦笑した父親に頭を撫でられていた。子ども扱いされて怒るカリンをあやしながら白い砂で覆われた床に、父親が指で何かを書いた。

――火輪

 

 

『これ何?』

白い砂に刻まれた奇妙な模様をしげしげと見つめるカリンに男が言う。

『これはな、ずっと昔に人々が使っていた文字の一つ、漢字という文字なんだ。ホノオを表す【火】とワッカを表す【輪】。この二つを組み合わせて火輪(カリン)。それがお前の名前だ。私たちがお前に託した想いだ』

 

 

見慣れない小難しい文字を、何故だかカリンは一目で気に入った。とってもかっこいいとそう思ったのだ。

 

目を輝かせる息子を見て、男は少しだけ口角を上げると話を続けた。

 

『今は厚く消えない天蓋に一面覆われた空だが、かつては青い空の向こうには真っ赤に燃える星が輝いていた。それが太陽、又の名を火輪』

――カリン………。

口の中で、丸くつるつるとした小石を転がすように、その言葉を味わった。そして、空を見上げる。そこは見渡す限り、雲が覆っていて、ホシなんてどこにもなかったけれど、彼はその穢れを知らない瞳で、厚い雲の向こうで輝く光を幻視した。

『そんな人間になりなさい。この暗い世界で、自らが輝き、周りの人々を照らす。そんな人間に――』

そこで景色は途切れ、世界は再び歪む。

暗転、そして目を開けば、そこはもう、白く穏やかな世界などではなく、暗く深い沼の底で。これがきっと今まさに石像が見ている風景なのだと悟った。

(カリン......)

やがてカリンはその景色に向かって歩き出す。一歩歩くごとに、体は水を被ったように冷えていく。頭はがんがんと痛み始め、視界は霞んでいく。

それでも歩みを止めようとはしないカリンに後ろから声が掛けられた。

『どこへ行く?君の肉体は既に沼の底だ。戻った所で彼らの体液の混じった水に溺れ、君の精神は崩壊するだろう。ならばせめて、肉体が朽ちるまで私と共に居た方がいい』

「どうせ死ぬなら穏やかな方をってか」

『そうだ』

「それでも、俺は行くよ。忘れてた。まだやり残したことがあったんだ。まだ体は動く。心は燃えている。なのに今何もしなかったらそれは死んでいるのと同じだから。俺は生きる。誰かに願いを託された、この命が果てるまで」

そう言ってぎゅっと腕に巻かれた布を握りしめたカリンの瞳にはもう、迷いなど無かった。

(あの昏い世界へどうやって戻るつもりだ。道は険しく、己の足先すら判然としないのに)

尚も問い掛ける声に、カリンは笑って答えた。

「この世界が暗くて、照らすものが何もないなら、俺が道を照らす光になるよ。たぶん、それだけでいいんだ」

そして目を開けたカリンは余りの苦しさに肺に残っていた空気を総て吐きだしてしまった。沼の水は、まるで悪意を持つ生き物であるかのように、カリンの体に纏わりつき、深淵へ運ぼうとする。それでも必死に手を伸ばし、限界まで伸ばし、もがき、足掻く。

(届け! 守れるかは分からない。愛した人さえ守れずに、目の前で死なせてしまった。自分が憎い、アイツが憎い、世界が憎い。悲しくて、苦しくて堪らない。でも今は、そんなことよりも、何よりも! アズサ! ただ君だけを守りたいッ)

求めるように開いた手のひらは、何も掴めず。けれど、ほんの微かに光が宿った。

(――ああ。永い間、忘れていたな。光という狭い概念に縛られすぎていた。この身はとうに石であったというのに)

そこが限界だったのか、ゆったりと沈み始めたカリンを、小さな光に誘われるように底から浮かび上がってきた大きなナニカが呑みこみ、泡立ち粘る水面を突き抜け天に昇った。

 

 

 

 

 

大地を覆う黒い海のような触手がある1点を中心に消えていく。

シアエガの気味の悪い嗤い声も、泣き叫ぶ人々の悲鳴も、黒い泉を割り、天に昇る(いかずち)の轟きが搔き消した。

 

「何だト......」

 

巣を壊されたアリのようにわらわらと逃げ惑っていた人々は、突然の轟音に思わず足を止め、黒い水面を突き抜けてゆったりと昇っていく球を見上げた。

《馬鹿ナ......》

シアエガすら叫ぶことを忘れ佇む中、空に浮かんでいた球は上下に伸び、四肢を生やした。

変化が終わったそれがずんと大地を揺らしながら降り立ち、もうもうと立ち上る砂煙が晴れた時、人々は息を呑んだ。

何故なら、砂のカーテンが開かれたその先で、ゆっくりと立ち上がったその姿は、彼らがよく知るものだったから。

 

ずっと目にしていた。大切な誰かを失った時や大切なものを失った時、或いは日々の鬱屈とした生活の中で心の底に溜まった澱を吐き出す代わりに祈る時に。

 

ずっと、ずっと救ってほしいと祈っていたのだ。

 

だからその姿を見間違える筈が無かった。

 

以前と違ったのは、そのガラスの様に透明な瞳と、胸に飾られた宝石だった。

 

 

 

人々に背を向け、遥か高みを見上げた石像の前で、山のように高く、大きく群がった触手たちが嗤う。

《......フフフフフフ。まさか底から甦ってくるとワ。久しぶりだナ、光の巨人。だが貴様、随分とみすぼらしくなったジャないか。それではまるで石のゴーレムだぞ》

その言葉と共に殺到した触手が津波のようにうねりながら石像を浚い、人々の前で、彼らが狩りをする時に訪れていた緑の山に叩きつけた。

 

《hhhhhhっはああああああああ!!!!! 貴様に味合わされた屈辱! この300年の間に、一瞬たりとも忘れたことは無かったぞ! そら踊れ、私を楽しませて見せろ》

シアエガの哄笑に大地が揺れる。空気がびりびりと震え、人々の耳からは血が吹き出た。

 

耳を抑えて蹲る人々の前で、砂に塗れた石像がふらふらと立ち上がった。その姿のなんと頼りないことか。確かにヒトよりはずっと大きい。大人10人ほどの高さはあるだろう。

だがシアエガを見よ! 

首が痛くなるほど見上げてもなお高く、頂きで一つだけ鎮座する赤い瞳が小さくひ弱な生き物たちを睥睨していた。そして内側から更に多くの触手が生まれ、その巨体をますます盛り上げていく。その姿はまるで、こんこんと怨念を吐き出し続ける黒い泉のようだった。

 

それと比べれば、神だと信じ、崇め続けた存在は余りに小さかった。

 

《見ろニンゲンども。これがお前たちの「神」だ。この哀れな姿を見ても尚、お前たちは儚い■■■に縋るのか?》

 

誰も、何も言えなかった。それこそが答えだった。

 

「......みんな駄目だよ。カリンとお姉ちゃんが命がけで戦ったのに、諦めるなんて」

 

震える声が、息が詰まりそうな沈黙を破った。

 

《ほう?》

 

邪神の瞳が少女を射抜いた。たったそれだけでアズサは倒れ嘔吐した。

 

《......お前、いい匂いがするな。その血、その純潔、その魂。我に捧げよ》

 

凍り付いていた人々の間で動揺が走る。

 

《......もちろん、ただでとは言わない。代わりに、我が加護を授けよう。私の眷属となり、お前たちは力を手にすのだ。もう、暗闇に怯えることはなくなる。欲望を抑え、誰かの顔色を窺う必要もない》

 

人々が応えるべき答えなど決まっていた。だから、言わねばならない。だから、誰か言ってくれ。

 

言わなければ、「人間の誇り」の為に、地を這い、泥を啜ってきたこれまでの日々には、一体何の意味があったのだろう。それを抱いて散っていった者たちの無念は、何処に流せばよいのだろう。

 

けれど、誰もが皆、じっと俯くばかりだった。ただ時が過ぎ去るのを待つばかり、自分から何かを為すことは無く。

 

その時、ずずと地面が揺れた。

 

ウジの様に(たか)る触手に絡まれながら、それでも地面を這いながら進む石像の音だった。

 

 

氷漬けになったかのように動かない人々から目を外し、シアエガは小馬鹿にするように赤い目を細めた。

 

やがてふらふらと立ち上がった石像を睥睨し、シアエガが言った。

《どこまでも哀れで、愚かな存在よ。今まで通り、期を待っていればまだ勝機があったものを。そんなにニンゲンが大事か?余りにも矮小で、愚かな生き物。ならば、そら守って見せろ?》

今まで石像にのみ的を絞っていた触手の一団は、シアエガの要求によって差し出されようとしていたアズサの方を向いた。

彼女の泣き腫らした顔がはっきりと見えた。

助け出すことは間に合わない――――。

ずんと大地が揺れた。

 

ーーーーーーーーーーーーー

(あれ?ここは……?)

気が付けば、私は暗くて、頭がくらくらする生臭い空間にいた。

(なんで、私、こんな所に…………ッ!!)

手探りで様子を探っているうちに記憶が戻ってくる。

(そうだった。お姉ちゃんが生贄にされて、シアエガが蘇って、村を襲ったんだ。巨人像が沈んで、カリンが私の目の前で汚れた泉に落ちていって。私、なんにもできなくて)

ずずと重いナニカが這う音に怯えながらも、アズサは現状を理解していく。

(それで邪神が私を見て、『いいにおいがする』って。私を差し出せば他のみんなは見逃してくれるって。......だったら仕方ないよ。皆死ぬのはこわいもん。でも私にはもう、お姉ちゃんもカリンもいないから)

辺りは真っ暗で、群れた魚が岸辺に打ち上げられ、何日も日に晒され続けたような、生臭い臭いがしていた。落ち着こうと呼吸を整えてみても、息をする程に吐き気がこみ上げる。

(それでも、やっぱり怖くて何度もカリンの名前を呼んだ。何時かみたいに、助けてくれないかなって......。そしたら、泉からあの石像が飛び出してきて。助かるかもって思った自分が少し浅ましく感じた。でも、結局は助からなかったけど)

そこでふと疑問に思う。

(あれ?でもなんでまだ生きているんだろう?)

これが現実であることは不気味な音や、頭がおかしくなりそうな臭い、そして体の痛みが証明していた。

けれど息をするたびに、恐怖や悲しみといった負の感情が作る渦巻きがどんどん大きくなり、私という意識を飲み込んで、暗く暗い海の底に引き摺り込んでいってしまいそうだった。

とうとう頭を抱え、目を覆う。どうせ、こんな暗闇では何も見えないと分かっていたけれど。それでも何も見たくなくて、自分から世界を隠した。

ピコン......。

そんな私の耳に、不思議な音が聞こえてきた。

ピコン、ピコン、ピコン……。

――また何か、怖いことが起きるのだろうか?

 

もう、嫌だった。苦しいことも、悲しいことも。生きることがこんなにも苦しいと分かっていたなら、私はきっと生まれてはこなかった。いつ終わるとも知れない狂気に塗れた世界で足掻くことがヒトの定めならば、人間になんか生れたくなかった。

 

殺すなら、さっさと殺してくれ。

 

ピコン......。ピコン......。ピコン......。

 

投げやりな気持ちで俯いたままの私を終わらせるものは無く、ただ鳴り続ける無機質な音が、何かを伝えようとしている気がした。

 

現実を見るのは怖い。もし振り向いたその先にあるのが、恐ろしいナニカだったら?

 

でも変わらず鳴り続ける音は、どこか必死そうで。

 

その頑張りに勇気づけられて、そっと顔を上げた。

 

「......あ」

 

 

黒い天蓋を背中で支えた石像が私をじっと見つめていた。石像の胸の宝石が点滅する度に発する赤い光が、くっきりと石像の姿を顕わにする。

 

石像の体に圧し掛かっている天蓋の正体は、夥しい量の触手だった。触手が石像の体をはいずり回り、体を縛り上げていく。

 

触手が這った場所は黒く穢され、締め付けられた拍子に、石像はひび割れた。

 

《......!!》

 

石の顔に変化は無かったけれど、石像の声なき悲鳴が聞こえた気がした。

 

首を他の触手よりも一際大きく太い触手で締め上げられ、吐き出される黒い粘液を浴びた時、とうとう石像は一瞬頭をのけぞらせ、項垂れた。

 

がくんと石像の膝が折れた。

 

「あ――」

 

終わる。そう思った私の前で、崩れ落ちかけた石の体が静止する。

 

いや、小刻みに震えていた。重みに耐える石像の足がぶるぶると震えていた。

 

その振動は地面にまで伝わり、しゃがんでいた私をぐらぐらと揺さぶった。

 

揺さぶられながら思う。

 

なんでこの石像はこんなに必死なんだろう。

 

きっと苦しい筈だ。巨人が全身に絡まる触手を振りほどこうともがく姿は、蜘蛛の糸に絡めとられた哀れな虫のようだった。

 

さっきからなっている不思議な音は、きっと声を上げられぬ石像の悲鳴なのだ。

 

それなのにどうして、石像は耐えているのだろう。そうぼんやりと考えていた私の前で、俯いていた石像の頭が持ち上がった。

 

透明な瞳が私を見た。

 

石像は邪神に犯されながら、私を案じていた。

 

「あっ――」

 

――私を守るためだ。今もこうして、触手が与える苦しみから逃れようとしないのは、自分が倒れてしまえば、私も死んでしまうから。

 

奇怪な音はそんな彼の胸元でずっと鳴り続けていた。

それは本当に苦しみに悶える悲鳴なのだろうか?

 

捕食者に牙を突き立てられた獲物の断末魔だろうか?

 

違う、そうじゃない。この音が止まないのは、彼がまだ足掻いているからだ。

この音は生命の音だ。心臓が足掻いている音。生きたいと、叫ぶ音。ピンチの時でも諦めずに踏ん張っている証。

その姿をどこかで見た気がした。ずっと見ていた彼の姿と石像がぴたりと一致した。

「カリン……?」

ーーーーーーーーーーーーー

(私は、誰だ?)

目の前に居座る奇怪な生物が操る触手に打ちのめされながら考える。

(私は、何のために存在する?)

大地を転がり、それでも何かに突き動かされるように立ち上がる。

(何故、私はこの怪物に挑んでいるのだろう?)

目の前で何かを喚く生物に興味は無かった。いや、持てなかったと言った方が正しいか。

何もかもが分からないのだから、理解のしようが無い。

それでも、目の前で殺されそうになっている少女を見過ごすことは出来なかった。

彼女に覆いかぶさるようにして、黒い触手の海を背で受けた。

圧し掛かってくるそれらの余りの重みに屈しそうになったが、眼下で震える少女を見て、踏ん張る。戦う理由など、どうでもよくなっていた。

 

それでも限界は訪れ、胸の宝石が赤く輝きながら、何やら奇怪な音を出し始めた。

 

《ふふふ。もう限界か?》

 

邪神の嘲るような声が、頭に直接響いてきた。その声を無視し、体から抜け行く力を振り絞った。

やがて恐る恐るこちらを見上げた少女と目が合う。少女の瞳が丸く見開かれ、そして少女は言った。

「カリン......?」

『......!!』

――そうだ。俺の名はカリン、父さんたちから託された名前。君はアズサ。俺が立ち上がる理由。

『君は、俺が守る』

濁ったガラスのような瞳が青い輝きを灯した。

石の体の亀裂が広がり、修復不可能なほど石像の体が深く抉れる。だが恐れることなくぐんぐんと巨大化し、やがてシアエガよりも頭一つ大きくなった石像が内側から輝いた。

ばらばらと石が剥がれ落ち、巨人の滑らかな肌が明らかになる。

だが変化はそれのみで終わらない。胸に青く輝く宝石、カラータイマーを基点に発された紫と赤の輝きが時に混ざり、時に別れ、うねりながら全身を走り、巨人の姿に彩りを加えていく。

黒い繭を散り散りに引き裂き溢れた余りの輝きに、怯えながら見守っていた人々が目を閉じ、そして再び目を開いた時、黒い繭が覆われていた場所に堂々と立っていたのは鮮やかな色をした巨人だった。

人々がこれまで見てきた、知性を持たぬ欲望のままに生きる獣とは違うことを、巨人から溢れ、漂う輝きの粒が証明していた。

その一粒一粒を、先ほどまで泣いていた幼子が見て笑う。

「わあ。炎でいっぱい!」

「いや、炎ではない」

「えー?だってくらやみと全然違うよ?お祭りの時の村よりもっともっと明るいよ?」

幼子を抱きしめていた老婆が共に巨人を見上げながら語る。

 

「......そうじゃったのう。もう二度とこの言葉が使われることはないと思っておった。これはのう光と、そう呼んでおったのじゃ」

 

「ヒカリ......じゃああの巨人は」

《光の巨人ッ......!!》

吹き飛ばされた触手を根元から再生しながら、シアエガが中央の目玉に、びきびきと赤い血管を幾つも浮かび上がらせ、光の巨人に尋ねる。

《一体どうやって復活を果たせた?光を失い、ただの石の塊だったお前に、そんなエネルギーはどこにも残っていなかった筈だッ?!》

怒り狂う邪神を静かに睨み据え、巨人は伝えた。

『お前は人間の力を軽んじすぎている』

《あのデュナミストか! だがやはりおかしい。あれはその輝きを失っていた筈ッ》

(それでも、立ち上がると決めた。愛した人を守れず、目の前で殺されて、死にたくなっても。あの子の為に。あの子に、泣いていて欲しくなかったから)

『強大な闇に立ち向かえる力など無くても、たった一つの愛が、立ち向かう理由になる。立ち上がる力になる。お前たちになく、私が忘れていた力。それがお前が下らぬと蔑んだ人の持つ力だ』

押し黙るシアエガを前に、気づけば周りを光の膜で包まれていたカリンが、傍に居る気配に尋ねる。

 

 

 

(ところで俺は、一体どうなっている? なんで俺がシアエガを見下ろしているんだ?)

『それは君が私と一つになったからだ。君は今私の目を通じて世界を見、私の足で大地に立っている』

信仰していた神と一つになったことに、目を白黒させるカリンだったが、巨人の意識が鋭い声を上げた。

『来るぞ!!』

(ぐっ......!!)

鞭のようにしなる触手の束に打ち据えられ、巨人は膝をついた。

(なんでだ?体が異様に重い......)

『元々、私は地上でそれほど長くは活動出来なかった。その上、星が食い荒らされ、天からの光も届かない今、巨人として戦うことが出来るのは最高で3分だ』

何も知らされていなかったカリンはその事実に呻く。

慣れない体を必死に動かし、向かってくる触手の何本かを引きちぎった所で、全体の数からすれば焼け石に水だった。

(やっと、誰かを守れる力を手に入れることが出来たのに、このままじゃ......)

必死に立ち上がりながらもそう呻くカリンに、黙っていた石像の意志が声を掛けた。

『やはり……。この世界で私の力を発揮することは難しいようだ』

「それでも、頼む!助けたい人が、目の前にいる。諦めたくないんだッ」

『いいのか?私が死ねば、同化している君も運命を共にすることになるんだぞ?』

「そんな未来のことはどうでもいい!ただ今は、あの子だけは守りたい!」

『......そうか。そんな君なら、託すことが出来る』

試す様にカリンに問い掛けていた石像の意志は最後に安心したようにそう言った。

カリンを包んでいた壁から泡がぽこぽこと湧き出し、光となって消えていく。

「これは、どうなっている?」

『心配するな、君に害はない。光の集合体としての私を分解し、純粋なエネルギーに変えているだけだ』

「それって......」

カリンを遮り、「光」は願った。

 

『君の守りたかったものを守ってやれなくて済まない。君に過酷な運命を背負わせてしまうことを申し訳なく思う。それでも君の今日は必ず守る。だから、恥を承知で頼もう。どうかこの光を受け取ってはくれまいか』

皆まで聞く必要もなかった。コレは逝こうとしている。悠久の時を過ごし、恐らくはこの世界の有り様まで深く理解している大いなる時代の、英知の残り火は。聞きたいことは山ほどあった。何故古代の民は滅んだのか。この力の意味。これからどうすればいいのか。

だが、その役目を果たし、解放されようとしている先達に、その終わりに掛ける言葉は、そんなものではないと解っていたから。

「ああ。だったら俺達の明日は俺が守る。貴方がこれまで受け継いできた光、確かに受け取った」

「......ありがとう、カリン。私の最後の友よ」

カリンを包んでいた、深い森のような意識が、その存在が光となって解けてゆく。

そっと目を閉じ、その光を受け入れる。カリンを覆い、守っていた膜は剥がれ、剥き出しになったカリンの意識が光の泡に呑まれていく。

(一時は憎んですらいた石像から礼を言われ、あまつさえ友とまで呼ばれるなんてな)

奇妙な感じだったが、それでもカリンは笑った。ほんの少しとはいえ、共に戦った友の魂が安らげるように祈りを込めて。そして、これからの決意を胸に。

シアエガから伸びた無数の触手が巨人に迫る。だが彼はただ前に歩を進めるだけだった。黒い海に呑まれるように、姿が消えた。

《ハハハ、あっははははははは......は?》

 

夥しい量の触手で巨人を呑みこみ、己のものにしようとしたシアエガは、その光景に呆気にとられた。

 

黒い海が割れる。その威光に畏れたように、黒い波は道を譲り、そして塵へと還っていく。

 

海の真ん中から堂々と姿を見せた巨人の体は燦然と光り輝いていた。

再び姿を現した光の巨人に驚き、怯んだシアエガをひたと睨み据えて、再び巨人が歩き出した。

その一歩で山を越え、大地をずんと揺らし、堂々と歩く様は正しく神だった。

怒りを戦意に変え、再び触手を駆り立て、今度は巨人の四肢を縛って動きを止めようとしたシアエガだったが、巨人に触れた途端、触手は溶けて消えていく。

旧きものの中では比較的下位に位置する復讐に狂う神とはいえ、触れた先から浄化させるとは尋常ではない。しかも光の消えた世界で。

驚愕の叫びを上げるシアエガ。

《バカな………?!貴様にそれ程の力は無かった筈》

【そうだ。俺に大した力はない。これは託された力だ。これが、これまで紡がれてきた光なんだ】

触手に巻き付かれたまま、巨人は歩を進める。呆気なく触手はボロボロと崩れ落ちた。

ぞくりと、シアエガが震えた。今まで一方的に、人々を狩り、喰らい続けていた強者が初めて、恐怖を知った。

自身が畏れを巨人に抱いたことを否定するために、シアエガは最後の手段に出る。

触手の根の中心にあるシアエガの目が大きく膨らんだ。びきびきと血管が赤く浮き出る。

《この世界は最早、我らの物だ!消えろ光の巨人!》

伸ばしていた触手の総てを地面に突き刺し、自身の巨体を支えると、体に流れる血を圧縮し、瞳から勢いよく吐き出した。

それを見て、巨人もまた構えた。

真っ直ぐ前に出した両手をクロスさせ、開く。

【集え、光よ。私は常夜を照らす者】

霧のように淡い光が巨人の胸の中心で輝く青い石に集まった。

L字に構えた右手から光が無数の矢のように放たれ、シアエガの出した血をシガエアごと呑み込み、貫いていく。

【愚かな……。闇の眷属は既に蔓延っているというのに。貴様を待っているのは果て無き闇よ。終わらぬ苦しみの中で自らを呪い続るがいい......】

後に残されたのは、静かに暗い空を見上げる巨人と、彼を呆然と見上げる人々だけだった。

やがて人々が我に帰り、こみ上げる畏怖の念に駆られ、膝を折ろうとした時、静かに巨人が彼らを見下ろした。

乳白色の、静かな瞳が彼らを見詰めた。

その時、人々の心に残っていたあらゆる負の感情は癒され、深い安らぎを覚えた。

涙を流す人々にゆっくりと頷くと、巨人は大地を蹴り、空に消えていった。

それを見送ってから巫女の一人が長に尋ねた。

「御婆様、あの巨人もまた、古き者どもの1柱なのでしょうか……?」

空を仰いでいた老婆はほう、とため息を吐くと尋ね返した。

「お主はどう思った?」

「偉大でした。我々の矮小さが恥ずかしくなるほどに。まさしく神、けれど、古き者には無い深い優しさがあるようにも……」

「......遥かなる昔、人類が生まれて間もない頃。地球に飛来したバケモノから人々を守った巨人が居たという。あの巨人は、その巨人の生まれ変わりなのかもしれん」

大いなる守護者に出会った人々は次々に大破した穴蔵を飛び出し、巨人が去っていった方角を見てはしゃいでいた。

そんな彼らを横目に、カリンはそっと穴蔵の門をくぐった。

ふと胸に圧迫感を覚え、胸元を探ると冷たい感触に触れた。掴んだ手のひらをを広げたそこにあったのは、カリンの手よりも少しだけ大きいステッキのような道具。

それが何かは分からなかったが、何を意味するのかは分かっていた。

(ああ。分かっている、俺は確かに受け継いだ。これから俺は、シアエガのような化け物達と戦っていかなければならないんだ。でも今は、少しでいいから眠りたい......)

自分が人々を守ってやったんだという誇りなど無かった。

ましてや今まで自分たちを虐げてきた邪神を殺した達成感など。

失くしたものは余りにも大きく、背負わなければならないものは余りに重い。

ふらつく足で踏みだした一歩が限界だったのだろう。そのまま地面に倒れていくカリン。

その体を柔らかな感触が覆った。

「おかえり、カリン......」

ただ、カリンの頬を濡らす誰かの暖かな涙が。

衣服越しに伝わる確かな胸の鼓動が。

鼻が埋まった収穫前の小麦畑のような色の柔らかな髪の匂いが。

カリンが確かに守れたものを教えていた。

「......ああ、ただいまアズサ」

寒々としていた若者の心に新たな火を宿して。

ーーーーーーーーーーーーー

【適合者《デュナミスト》の発現を感知】

黒いツタに覆われた天まで届く塔の中で、その光を見ていた少女が持っていたぼろぼろの書物のページが開かれた。

『獣が跋扈し、世に嘆きが満ちる時、空より舞い降りし光、巨人となりて、常夜を照らす』

小鳥が囁くように、少女はそこにある一節を歌う。

「永い時間を待ちました。さあ、世界を取り戻す物語を始めましょう」

壁一面に張られたガラスに映る、ヒトが様々な獣に蹂躙される悲劇を背に、少女は笑う。

「どうか私の元へおいで下さいませ。光の巨人、或いは――」

とある宇宙の中心で、白痴の創造主に代わり、世界を治めていた形のない肉塊は、かの巨人の復活を察知し、嗤った。

───TIGA……。

 




Tips

 ワタリガラス:前時代の遺跡を巡り旅する者たちのこと。無知な人々に過去の英知のかけらを授けるが、時に盗賊まがいの盗掘や、遺跡の破壊を行うため、嫌う民族も多い。

 シアエガ:かつてティガに敗れ、彼を信仰する人々の手で封印された旧き神々の一柱。封印されている間、その意識は明瞭であり、彼を戒める床の下で、延々と呪詛を叫び続けていた。この神が封印されている間も、その末端や、ナガアエ達が封印を解くべく暗躍していた。

 ナガアエ:シアエガを信仰する悪しき知性を授けられた邪悪なカエルの一族。シアエガの加護が失われたことにより、彼らは単なる獣に戻りゆくことに怯えながら、森を抜け嘆きの平原へと身を隠した。


 次回予告

 ティガの復活の光は星を駆け巡り、旧き者どもの影に怯える人々を照らした。ティガの伝説を求めて穴蔵に絶えず訪れるワタリガラスに、穴蔵は活気を取り戻していく。
 そんな中、そこへ訪れた巡礼者の一団はティガを紛い物だと叫び、彼らの信仰する神に仕えるよう村長に迫る――。
 次回、「傲慢なる救済」

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