ULTRAMAN・BORN IN DARK   作:サカマキまいまい

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常夜を照らせ、復活の光よ(上)

どん、どん、どん…………………。

世界の終わりを思わせる赤く燃える空が徐々に気味の悪い紫へと染まり、やがて総てを覆う闇に包まれていく中、不意に穴蔵の入口を塞ぐ、3メートルほどの錆びた鉄に囲まれた巨大な木の扉が叩かれた。

びくりと扉の両側に立ち、外界の監視をしていた門番達の顔が強張る。持っていた槍をその穂先を門に向けて構え直し、恐る恐る誰何(すいか)した。

「何者か?」

逢魔が時、何かの陰に隠れて微睡んでいた良くないモノが蠢き始める時に訪ねてくる者など禄でもないということを彼らはよく知っていた。だが身構えていた彼らの予想に反し、返答した声はか細く幼いものだった。

『あけて……ください』

しかもその声は掠れてこそすれ、聞き違う筈のない声。恐怖に歪められた彼らの顔が驚愕で固まった。己の耳を疑う。今聞こえたのは、もう二度と聞く事は無いと思っていたものだ。思わず互いの顔を見合わせた。

土に塗れ汚れた彼らの足元で影がざわめく。

『お願い、します。ここは、寒い……』

もう一度聞こえた弱々しい声に、二人はどちらからともなく、ごくりと唾を飲み、ぐっと赤く錆びた扉の両縁に手を掛けた。

「――開けてはならぬ」

土壁に埋められた松明の火が揺らめく。その明かりの元から(おもむろ)に一人の老婆が姿を見せた。

「長よ………」

音もなく現れた村の長に驚きながらも、彼女に縋るように目を向ける壮年の男達に、老婆は静かに首を横に振った。

「既に伝えたはずじゃ。ペグは死んだ。割れた杯に酒は戻らぬ。肉体との(えにし)を強引に絶ち切られた魂は、あの際限ない嘆きの平原をその身が擦切れるまで彷徨うだけじゃ。それはどんな人間にも例外はない。ペグとて同じじゃ」

「ならば、あの声は?」

「大地に還ることなく彷徨う悪霊の類か、はたまた気まぐれな精霊か何かが、我々を嘲けり嗤っておるのじゃろうて。何にせよ、扉を開けるなどとんでもない愚行じゃ」

『お願いです。開けて……』

再び掠れた弱々しい声が聞こえたが、老婆はその声に答えることなく、閉じかけた瞼から覗かせる鋭い眼差しで門番達を制した。

枯れかけたその身から溢れ出るその威厳に、門番たちは頭を垂れ、やがて穴蔵は平穏に戻る筈だった。

「長......?こんな所でいったい何を?」

「……なんと間の悪い」

だが、偶然お婆の後ろを通り過ぎようとしていた壮年の男が老婆の姿を見とがめ、立ち止まった。眠れぬ夜を何日も過ごしたのだろう。目の下には濃い隈が浮かび、雑草のように髭がぼうぼうと生えた頬はげっそりとこけていた。

「何か問題でもあったのですか?」

何かに惹かれるように門の傍までやって来てしまった壮年の男に、村長が声を掛けるよりも早く、門の向こう側で、誰かが叫んだ。

『お父さん?!』

「ペグ?! ペグなのか?!」

その声を聞いた途端に、ペグの父親の瞳に輝きが戻り、体に活力が漲る。それを見て、長はため息を吐き言った。

「待て、既に言ったはずじゃろう。ペグは死んだと。あれに耳を貸してはならぬ。心を鎮めるのじゃ」

しかしペグの父親はその瞳に激情を宿し、叫んだ。

「私の娘の声が聞こえないのですか長よ! 間違いない、あれはペグの声です!」

「そなたは今、周りが見えておらん。落ち着くのじゃ、ペグがここを出てから一体何日が過ぎたと思っておる。我らが何度、危険を顧みず彼女たちを探しに出かけたと?辛いのは皆同じじゃ」

男を刺激しないように言葉を投げかける長だったが、男は懐をまさぐりながら老婆に詰め寄った。

「お退きください! これ以上の問答は無用。日が沈む前に娘を入れてやらねば!」

懐から狩猟用のナイフを取り出したのを見て、いよいよ門番達の顔色が変わった。門番達が長を庇い、前に出ようとするのを諫め、男が落ち着くのを待つ。

殺気だった空気がぴりぴりと肌を刺すのを感じながらも、老婆は静かに佇み、男に説いた。

「万が一、あれがそなたの娘ではないとしたらどうするのじゃ?お前の浅慮の為に、ここで暮らす人々を危険に晒すことになるやもしれんのじゃぞ」

「それでも......私は娘を助けたい」

ナイフをぎゅっと握った男の、その揺るぎない瞳を見て、長は彼の心から他者を鑑みる余裕も、それをするだけの理性も消えている事を悟った。最早言葉は通じず、これ以上留めようとすれば無意味な血が流れることになるだろう。

(それは愚かしいことじゃ......。そうなればあの方に申し訳もつかん。仕方あるまいて)

「あい解った。なれば泉におる巫女どもにその旨を伝え、泉から水を運んでこさせよ。やっと戻ってこれたのじゃ、洗い清めてやらねばな」

それを聞いて男はぱっと顔を輝かせた。

「長よ、寛大なる処置に感謝致します」

そうして揚々(ようよう)と扉に駆け寄り、(かんぬき)を門番達と共に抜き、扉を開いた。

ぎぎいと軋みながらゆっくりと開かれた先に居たのが、ひどく汚れた痩せぎすの少女だけであったことにまずはほっとし、次にその顔がひどく汚れてはいるものの、確かにペグのものであることを知って歓喜した。

「ああ、良かったペグ! ペグなんだな?!」

泥に塗れるのも構わず、己をぎゅっと抱きしめた父に、ペグも笑みを浮かべる。

「うん......。ありがとう、お父さん」

叶わぬと思っていた父と娘の再開に、強面の門番達も思わず微笑んだ。

「ペグ、よく戻って来た。そなたの帰還は儂としても望外の喜びじゃ。されどその身が汚れておっては、折角戻って来たのに安らげんじゃろう。巫女たちにそなたの身を清めさせるが故、暫し待て」

浮つく空気を諫めるようにペグにそう言った長に、ペグはその幼さからは驚くほど慇懃に頭を垂れた。

「ありがとうございます長。貴女に従います」

(邪な気配は感じぬ。体にも異常はない。この違和感がただの老人の思い過ごしであれば良いが……)

幼子の帰還の知らせは、暗く沈んでいた穴蔵を幾分明るくさせ、人々を勇気づけた。

ただ一人、村長の心に懸念を抱かせながら。

ーーーーーーーーーーーーー

ペグの帰還から三日後、彼女の傷がある程度癒えたのを見計らって、晩に彼女の無事を祝うささやかな宴会が穴蔵全体で開かれた。

剥き出しの地面を踏み固めただけの広間の中央に焚かれた火がゆらゆらと舞う。

闇にほのかに浮かぶ人々の顔は、前回よりは幾分和やかなものだった。

時折ぱちぱちと爆ぜる薪の音だけが響く中、村長がゆっくりと腰を上げ口を開いた。

「ペグの証言通り、穴蔵からそう遠くない場所でモリ―とアラネアの遺体を見つけた。彼女たちが生きて戻らなんだことは真に残念なことじゃ。されどその姿は比較的綺麗なものであった。ならば我らの手で弔ってやれば、彼女らの魂は嘆きの平原を越え、必ず永久(とわ)の安らぎの地へと至るじゃろう。そして何より、ペグが戻って来た。これほど喜ばしいことはない。今宵はその喜びを嚙み締めようぞ」

そう締めくくり長が掲げた杯を合図に、人々の輪で歓声が上がり宴が始まった。

大きな皿に盛られた大モグラの肉や、穴蔵の洞窟で釣れた魚の塩焼き、地上でしか採れない貴重な植物が盛られたサラダ。取れる素材を詰め込まれて作られたシチューなどが並べられた宴は、ささやかとは言っても、人々を浮かれさせるには十分だった。

酒に酔い、料理に舌鼓を打ち、人と語り合い、共に笑う。

ともすれば生きる価値すら見失いそうになる程に暗く苦しい生活の中で、人々は今この時だけはその幸せを噛み締めていた。

そんな賑やかな輪の一つの中にペグの姿を見つけ、カリンはそっと頬を緩めた。

「……このロリコン」

「ぶっ?!」

酒を注いだ杯を煽ったタイミングで不意に掛けられた一言に、思わず吹き出す。

「アズサ、テメエ喧嘩売ってんのか……?」

「えっ?えっ?」

カリンに顔を迫られ、赤くなったり青くなったりしながら、アズサはおろおろと戸惑った。

「だ、だってそう言ったらカリンが喜ぶから、耳元で囁いてあげなさいってお姉ちゃんが……」

「クレアぁ......」

流石に耳元で言うのは出来なかったけど、と俯きながら呟くアズサを見ないようにして辺りを見回したカリンは、にやりと酷薄な笑みを浮かべてカリン達を見つめていたクレアと目が合った。カリンが何か言う前に、びっと親指を立てて人混みに消えていく奔放な彼女に、カリンはため息を吐いた。

だがカリンの受難は終わらない。

「ね、ねえ、ろりこんってどういう意味なの?もしかしてえっちいことなのかな……?」

純朴そうな黒々とした瞳を潤ませ、白い頬を微かに上気させる幼馴染に、カリンは顔を引き攣らせる。

(言えない……。前に穴蔵を訪れたワタリガラスのおっさんがにやにやしながら押し付けてきた前時代のアレな本を必死に解読した言葉だなんて......。だが待て、なんでクレアはそんな言葉を知ってたんだ?)

そういえば最近、俺が居ない間に部屋に入り浸っていることが多いような......。

扉をノックもせずに入ってきて、俺が居たらがっかりしていたような......。

猛烈にクレアに会いたくなったカリンがそわそわとしていると、伸びてきた腕がカリンの服の裾をしっかりと掴んだ。

「……どこ行くの?」

「え?いや、ちょっとクレアに問い詰めたいことが……」

「やだ!」

がばっと顔を上げたアズサの据わった瞳がカリンを睨みつける。

「お、おいアズサ?」

「いっつもお姉ちゃんばっか見て! 胸か?! あのばいんばいんがええのんか?!」

(あのお淑やかなアズサが、ばいんばいんという日が来るとはっ! これはそそる......じゃなく、一体何が……)

まじまじとアズサを見つめたカリンと、ぼーとカリンを見ていたアズサの目が合った。

周りの音が消え、まるで二人だけの空間になったような錯覚に陥りながら、カリンはアズサを観察する。

カリンにしがみつくアズサの火照ったからだ。興奮しているかの様に赤くなった顔。カリンを見つめる潤んだ瞳。……そしてカリンの鼻にまで届くアズサの吐息。

これは……。

「お前、酔っぱらいか……」

こっそりカリンの酒を飲んで悪酔いしていたたアズサにその後も泣き付かれ、止む無く酔っぱらいの面倒を見ることに時間を費やす羽目になるのだった。

すやすやと眠りに落ちたアズサを何とか夫といちゃつく彼女の母親の元まで運び預けると、精神的な疲れで足を引き摺りながら、カリンは今回の宴の主演であるペグに会うことにした。

人々の間を縫うようにして歩きながらペグを探すカリンだったが、ふとあることを思いつく。

(折角ならなんか持って行ってやるか。酒なんか飲めないから退屈してるだろうし)

そう思ったカリンは賑やかな広間を後に、カリンの家でもあるお婆の家に向かった。

広間を出た途端に体を覆う冷たい空気も、今は酒と熱気で火照った体に心地良かった。時折すれ違う人と挨拶を交わしながら微かな灯りに照らされたうねる道を歩いて家に戻り、

そして自室に入ったカリンは絶句した。

 

 カリンの(わら)を詰めた敷物に動物の毛皮を重ねただけの簡素な寝床に、黒髪が扇のように広がり、程よく肉付いた白く艶めかしい足がぶらぶらと揺れている。

「……あ、お帰りなさいカリン。少しお邪魔してますよ」

「ぶっ殺すぞテメーーーーーーーーーーーーーー!!」

年上だということも忘れ叫ぶカリンなどどこ吹く風とばかりに受け流し、クレアはカリンの寝床に寝転がって読んでいた鮮やかな色の書物を閉じるとふわっと欠伸した。

「まあまあ、落ち着きなさい。これには深い訳があるのです」

「俺が隠してたエロ本引っ張り出してきて男の寝床でオナるお前の考えと同じくらい浅いと思うんですけどねぇ!!」

カリンの言葉にクレアは少し頬を染める。

「……エロ本?オナる?……すみませんがそのような言葉は知りませんね」

「今更カマトトぶってもおせえよ。その本にばっちり書いてあるだろ」

クレアの動揺を悟り、落ち着いたカリンが冷静に突っ込むと、彼女は忌々しそうに舌打ちをした。

「チッ……。それで、何の用ですか?」

「そっくりそのままお返しするよ?ここ俺の家なんだけど......」

余りにも堂々と尋ねるその開き直りぶりにドン引きするカリンの前で、クレアはゆったりと体を起こした。流れるように床に広がっていた彼女の黒髪がふわりと靡き、梅の花のような匂いがカリンの鼻孔をくすぐる。

「私は少しばかり体を冷やしに来ただけです。ですが逆効果だったようですね」

(そりゃそうだろ……)

そうツッコミを入れようとした言葉は、生唾と共に呑みこまれた。

クレアが暑そうに胸元をつまんでぱたぱたと扇ぐ度に、少しばかり汗に濡れた豊かな胸の谷間が露になり、そこにカリンの目は吸い寄せられてしまう。

「……ふっ」

「はっ?!」

クレアが鼻で笑う声に我に返ったカリンは、気まずさを胡麻化す為に咳ばらいをすると話題を変えた。

「ってこんなことをしてる場合じゃねーんだ。ペグにジュースでも作ってやろうと思って戻ってきたんだった」

それを聞いてクレアも興味深そうに眉を上げた。

「ほう、ジュースですか。確かに喜ぶでしょうね。ですが果実はどれも時期ではありませんよ?」

それには答えずに、床の土をくり抜いて作った保管庫からあるものを取り出しクレアに投げた。

「冷たい?リンゴが凍っているのですか。なるほど、魔術が得意な貴方だからこそ出来ることですね」

きらきらと輝く果実をしげしげと眺め感心するクレアに、カリンは少し誇らしそうに胸を張った。

「まあな。後は、《シュクレ》!」

カリンが放った言葉に従って、宙に浮いたリンゴが次々に潰れて弾け、どろどろになっていく。やがて液体状になったものが棚から取り出した杯に吸い込まれるように底に溜まった。

「おおー、素晴らしい腕前です。精神にほとんど汚染を受けずに、これほどの魔術を使える人間はそうは居ませんよ」

掛け値なしの称賛を送られ、照れるカリンだったが、少し浮かれていたのか魔術のコントロールを誤り、圧縮された空気で己の腕を裂いてしまった。

音もなくぱっくりと表皮が裂け、血が溢れる。

「痛っ」

「カリン?!」

それを見て顔色を変えたのはカリンよりもむしろクレアだった。カリンの腕を、その細い腕からは考えられないほど強く掴みあげると、懐から真っ白な布を取り出しカリンの傷口に当てて縛り上げた。手際よく応急処置を終えたクレアに、カリンは戸惑ったような声を上げる。

「おい、この布って」

「どうでもいいことです。それよりしっかりしなさい! 力あるものはそれにふさわしき覚悟を持たねば。ましてや魔術とは旧き者どもがもたらした世界を歪める技。半端な覚悟で使うべきものではありません。……いえ、貴方の技量を見て感心するばかりだった私にも責はありましたね。すみません、言い過ぎました」

カリンの腕を掴んだまま頭を下げるクレアに、カリンは慌てて否定する。

「いや、自分のミスが自分に返ってきただけだ。手当してくれた礼こそすれ、謝る必要なんか…………」

気づけばクレアの端正な顔が目の前に来ていたことに、カリンは驚き言葉を失った。

クレアも顔を背けることはせず、そんなカリンを見つめた。

二人の間にむず痒いような空気が降り—―。

コケコッコー!!!

寝ぼけた鶏の鳴き声で、二人は我に返った。

「あ、あー。取り敢えずありがとう。とにかくこれをペグに持っていくよ」

離れゆくカリンの腕を名残惜しそうに離し、クレアも頷いた。

「そ、そうですね。行ってらっしゃい。私はここでもう少し涼んでいきますから」

「おう! また後でな!……じゃねえよ!! お前も出るんだよ!」

離れかけた手が再び繋ぎ直されクレアは満更でもない様子でカリンに引きずられていく。

しかし、浮ついていた二人は気がつかなかった。カリンの傷から零れた血が数滴、ペグに渡すはずのジュースに滴り落ちたことに。

――その血が鍵になる。中にあらゆる厄災が詰め込まれたパンドラの箱を開ける鍵に。

宴は終わり、長い夜が始まろうとしていた。

賑やかに騒ぐ人々を盛り上げる様に激しく燃え続けていた広間の火も穏やかなものになり、うとうととし始めた酔っぱらい達をゆらゆらと優しく温めていた。

クレアを引き摺ったまま広間に戻ったカリンは、毛皮の敷物の上に座り込み、そんな広間を見守っていた村長と目が合う。孫に微笑む老婆のその曲がった腰や、しわくちゃの顔を見て、カリンはどこか切なさを感じながらも寝転がる人々の間を飛び越えて、ペグを探した。

傍で騒ぐ大人たちの横で一人、詰まらなさそうに肉を頬張っていたペグは、辺りをきょろきょろと見渡すカリンを見てすっと目を細めた後、無邪気に笑ってカリンに手を振った。

「お兄ちゃん! こっちだよ!」

「ペグ、久しぶりだな。暫く会えなかったけど、元気そうでよかった」

少女の天真爛漫な笑顔に釣られて笑顔になったカリンだったが、何のために来たのか思い出し、持っていた杯をペグに差し出した。

「おっとそうだった。ほら、リンゴのジュースだ。お前、好きだったろ?酒なんか飲めないだろうからちょうどいいと思ってさ」

「わ、ありがとう!」

冷たく冷えた金属の杯をおそるおそる受け取り、すんすんと臭いを嗅ぐペグに、カリンは思わず苦笑する。

「毒なんてねえよ」

「……えへへ、冗談だよ。じゃあ頂きまーす」

誤魔化す様に笑ったペグは杯を傾けると一気に飲み干した。

形の残っていたリンゴの欠片をシャリシャリと嚙み潰しながら、ペグは大きく頷いた。

「うん! 凄くおいし……ごっ?!」

その場に崩れ落ち、激しく噎せるペグにカリンは血相を変えた。

「ペグ?! 大丈夫か!」

四つん這いになったペグに駆け寄ったカリンは幼子の顔に浮かぶ狂相を見て凍り付く。

黒い涙をどろどろと流しながらペグが睨んだ。

「き、貴様、何を飲ませた……?泉の水ではない、一体何を?」

一つの生き物のように不規則にぐりぐりと動き回ったペグの目が、カリンの腕に巻かれた血に染まった布にぴたりと留まり、ペグは忌々しそうに顔を歪めた。

「血......?そうか適合者(デュナミスト)の血か……!ぐっ」

そう言って、黒いタールのような粘液を吐き出す少女を見て、カリンはいよいよ事態が尋常ではないことを悟った。

(コイツは、何だ? 俺たちは一体何を招き入れた?)

騒いでいた大人たちも、ペグが生臭い粘液をまき散らしながらのたうつのを見て、酔いから醒め、集まってきた。ただならぬ気配に眠りに付いていた人々も覚醒していく。

何より、胸騒ぎを覚え、カリンとペグの動向をずっと注視していたお婆が、声を発する。

「その者を捕えよ! そやつはペグではない!」

だがその総てが遅い。

何が起きているのかも分からず狼狽える住人たちを前に、見えない糸で引っ張られた操り人形のように、関節を不自然な方向に曲げながらペグが立ち上がった。

「皆の者、正気に返れ!」

お婆が指示するも、ペグは年相応の不安そうな表情を貼り付けて、実の父親の首に腕を回し、縋りついた。

「お父さんっ」

「ペグ……?」

「死んで♪」

喉元に顔を埋めたペグが、父親から離れた途端、そこから間欠泉のように血が噴き出し、呆然とする人々を赤く濡らした。

顔中を血まみれにしながらペグは哄笑する。

「さあ、行けお前たち! この巣穴のどこかにヤツを祭る祭殿がッ」

阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、女たちが泣き叫ぶ中、冷静さを取り戻した穴蔵の自警団の隊長である男がペグに肉薄し、ナニカが行動を起こす前に、剣でその首を斬り落とした。

毬玉ほどの大きさのそれはころころとカリンの足元まで転がり、その醜悪な死相を晒していた首が、にたりと笑った。

同時に遺された胴体が樽のように膨れ上がり、破裂する。

「ぎゃあああああ?!」

「ぐっ……。これは!」

辺りにばら撒かれる液体、あまりの臭いに人々はえずき、嘔吐した。

余りの悪臭に痛くなる頭を押さえ蹲ったカリンは気づく。

(そういや、あいつは殺される前に、誰に叫んでいたんだ? ……まさか?!)

「お婆様! モリーとアラネアの遺体は?」

カリンの言わんとすることを悟ったお婆が頷く。

「カリン、一刻を争う。あれらも恐らくコレの擬態した姿じゃろう。奴らを泉に立ち入らせてはならぬ」

「分かった!」

「皆の者! まずは落ち着かねばならん、取り乱す時間はないぞ。穴蔵はバケモノの侵攻を受けておる。体調が優れぬ者は優先して泉へ運べ。その後に続いて泉に避難するのじゃ!!」

 

 お婆の指示を背中で聞きながら、カリンは泉に向かって走り出した。

(ペグ......。いや、今はただ急げ、手遅れになる前に!!)

胸の中で渦巻く悔恨に囚われそうになるも、太ももを殴りつけ、喝を入れた。暗がりの中を必死で走り、遂に泉の入り口が見えてくる。

集まっている人々は動揺しているようだったが、パニックにはなっておらず、内心ほっとしつつ、彼らに駆け寄った。

モリ―達を取り押さえていた衛兵がカリンに気づき、指示を仰いだ。

「カリン殿! モリー達が突然動き出したのです! これは一体?」

「ペグはバケモノだった。恐らくそいつらも仲間だ!」

「ッツ!!」

彼女達の異様さには気づいていたのだろう。

それを聞いた衛兵たちはソレらが行動を起こす前に、持っていた槍で躊躇なく脳天を貫いた。

やはりペグの時と同じように、彼らの胴体が膨れ上がる。

「皆、下がれ! 破裂するぞ、飛び散る液体には触れるな!」

それを聞いた男たちが慌てて死体から離れた瞬間、ぱんぱんに膨れ上がった皮が破れ、中に詰まっていた液体が飛び散る。

弾けた液体の腐った魚を晒したような臭いが辺りを漂い、鼻が曲がりそうな臭いに息が詰まりそうになりながらも、皆が一様にほっとした様子を見せる。

 

暫く現状についてのやり取りを交わし、お婆たちを待っていたカリン達だったが、不意に悲鳴が上がった。

 

「カリン殿、あれを!」

泉に籠っていたのであろう巫女が、地面に付着した粘液の塊を震える指で指し示した。

 

「これは……」

ただの液体と思っていたそれはぶるぶると揺れながら伸縮を繰り返し、蠢いていた。やがて突起の先端が膨れ上がると表面が部分的に剥け、真っ赤な石のようなものが露出した。

スライムのようなそれはのたうち回りながら赤い石が付いた突起をくねくねと動かし、カリンの前でぴたりと止まった。

舌で全身を舐めまわされているような気持ちの悪い感覚に、カリンの背にぞわりと悪寒が走る。

(見られている......! コイツの奥に居るナニカに俺の存在が知られた)

本能が隠れろと叫ぶ。今すぐ逃げろ、絶対に勝てない、ヒトの身では抗えぬカミに狙われてしまっては――。

けれど動けない。蛇に睨まれた蛙の様に、ゆっくりと迫りくる赤い輝きに何も出来ずに呑まれ......。

「カリン殿? お気を確かに。不気味なヤツでしたが、この程度であれば一刺しです」

髭を深く生やした男に肩を揺さぶられ、カリンは正気に返った。見れば彼の持つ槍の先に、先ほどのスライムのようなものが貫かれてぐったりとしていた。

「あ、ああ。ありがとう、もう大丈夫だ」

取り繕うカリンの心情を察してか、男は陽気に笑うとカリンから離れた。

「良かった。御身になにかあれば、長に示しがつきませんからな。......おや、噂をすればやって参りましたな」

見れば確かに、カリンの祖母が、屈強な男に背負われてやって来ていた。

だが、普段から気位が高く、自分の身の回りのことは決して誰かの助けを借りることを良しとしない老婆が、疲弊した様子で男に背負われているのを見て、カリンの胸に黒い靄が巣食う。その後ろに続く人々の不安そうな様子も、拍車をかけた。

「長よ、一体何が?貴女が連れている人々は泉に何の用で?」

泉を警備する衛兵たちも、その異様な空気を察知したのだろう。問い詰めるように長に尋ねた。

男の背から降りた老婆は暫く沈黙し、閉じていた瞼を開けるとため息と共に告げた。

「穴蔵は襲撃を受けた。連れ出せたのはこの一団のみじゃ。我らはこれより泉に籠り、現状の回復を図る」

痛いほどの沈黙が、ほのかに照らされた人々を包んだ。

壁に付けられた松明の火が、怯えるように一斉に揺らめいた。

ーーーーーーーーーーーーー

着の身着のままで泉に籠った人々は黙って、中央の台座で長と巫女が祈祷するのを見守った。少なくとも一夜はここで過ごさねばならない中、直前までご馳走を食べていたのはきっと幸運だったのだろう。少なくとも今は、衣食住が揃っているのだから。けれど考える時間を与えられてしまった人々は生き延びることに必死だった時には思い至らなかった、ついさっきまではあって、たったの数時間で失ってしまったものを思い、嘆いた。

そんな中で、カリンはアズサとクレアの共に、無事に再会できたことを静かに喜び合った。

「お前らが無事でよかった」

「うん。カリンも」

そう言ったアズサは微笑んだが、それは余りに儚いものだった。

「......辛いのか?」

「うん。皆の声が流れ込んでくるの......」

俯いて涙を流すアズサに、しかしカリンは掛ける言葉を見つけられない。

「おいでアズサ。私の心に集中しなさい。そうすれば少しは楽になるから」

横から伸びてきた白い腕がアズサを引っ張り、強引に横たわらせた。

太ももに妹の頭を載せ、彼女の髪を梳くクレアの青く透き通った瞳が責めるようにカリンを向いていた。

やがて聞こえてきた幼馴染の穏やかな寝息に、カリンはほっと息を吐くと、アズサを挟むようにしてクレアの向かい側に座った。

「全く、そんな調子ではまだまだ妹は渡せませんね」

微かに唇を歪め、そんなことを(うそぶ)くクレアに、カリンはがっくりとしながら言う。

「あのなあ、俺は――」

「気づいているでしょう? この子が本当の意味で心を開いているのは、私と貴方だけです。この子は余りにも、優しく、繊細すぎる。私はこの子が気がかりです」

カリンを遮るようにクレアが呟いた言葉が、カリンに重くのしかかる。

幼い頃には好きだと、たった一言で終わらせられた関係は、時間が歪に歪めてしまった。

カリンはまだその絡みあった糸の解き方を知らない。

そんな彼らを、水面は静かに映し、石像は沈黙を貫いたまま見守った。

カリン達だけではなく、総ての人々を。

現実を忘れように眠る者を。

家族と引き離され、独りで寂しそうに座り込む者を。

癒えぬ怪我の痛みに泣く者を。

幸運にも家族と共に逃れることができ、二度と離すまいと抱き合っている者を。

それは人々の心を落ち着かせ、泉に満ちる空気を小康状態に保っていた。

――漸く奇妙な響きの唄が終わり、舞を終えた巫女が下がると、お婆が見守っていた人々を向いた。

「祈祷の結果が出た」

「この騒動の原因はかつて我らの祖先が石の(やしろ)に封じた旧き神の一柱、シアエガ。ペグたちの正体は、彼女らの遺体から剥ぎ取った皮に潜り込んだシアエガの末端じゃった。泉の外、穴蔵内部を徘徊する人々は既に末端に寄生されるか、奴らの吐く瘴気に汚染された後じゃ。彼らを救い、穴蔵を取り戻す方法はただ一つじゃ。石の社に赴き本体であるシアエガを封印し直す」

まじないの結果に人々は呻く。

「封印? 仮にも神をですか」

老いた男が信じられないとばかりに言ったが、それが泉に居た大部分の人間の総意だった。

人の心の奥底にまで巣食う怪物、その名は恐怖。旧き者どもへの恐怖は最早形を持たないだけで確かに存在していた。

だが同じ程に年を食った男を、老婆は滲み出る威厳で以て、鼻で笑った。

「ふん、あのような醜悪なモノを儂は神とは思わなんだ。奴らは所詮、言葉を解さず人々を食い散らかし、星に悪意をばらまくだけの獣どもよ」

堂々とそう言い放って見せた長に、人々が敬意の籠った眼差しを送る。

「ですが、一体誰がその獣の元へ行くというのですか?」

尚も食い下がる老人に、長は鷹揚に頷いた。

「まずは石の社への道をよく知る者が必要じゃ。これは穴蔵周辺の遺跡を管理する役を負っている一族の者から選びたい」

逞しい手が上がった。

「ゴルギスか。ふむ、ならばそなたに任せよう」

鋭い視線を受けて、その男は黙って頭を下げた。

「次に必要なのは乙女の穢れなき血じゃ。それを祭壇に捧げ、シアエガの怒りを鎮めねばならん」

そのおどろおどろしい響きに、泉がざわめく。

「ちょっと待てよ! それは巫女を生贄にするってことか?」

いきりたつカリンを落ち着かせるように、老婆は声を張った。

「そうではない! 必要なのは文字通り血液だけじゃ。それも少量の、の。じゃが血は温かく新鮮でなければならない。つまり、選ばれた者は石の社まで行かねばならん」

巫女達がお互いに視線を交わし、俯いた。気まずい沈黙が降りかけた時、カリンの傍で声が上がった。

「私が行きましょう」

「クレアか。危険な旅になるぞ?」

その覚悟を問う長に、クレアははっきりと頷いた。

「ええ、問題ありません。元より、私たちは危機に晒されているのですから」

余りにも堂々とそう言い切ったクレアの瞳に宿っていたのは、先に待ち受ける困難や恐怖に対する覚悟ではなく、死ぬことになっても止む無しという覚悟。それに危うさを覚えたお婆が口を開こうとしたとき、少女の傍に少年が寄り添った。

「俺も行くよ」

「カリン?!」

驚いて目を見開くクレアに、カリンは不敵に笑う。

「俺は奴らの精神汚染に耐性があるし、魔術だって使える。頼りになるはずだぜ」

「そういう事を言っているのではありません。貴方にはお婆様の傍に居る義務があるでしょう?」

「いや、カリンを連れて行け。そなたの言う通り、シアエガの封印に失敗すればどのみち我らに明日はない。なればこそ、カリンはそなたの傍に居るべきじゃろう。剣を鞘に納めたまま杖の代わりにしても仕方あるまいて」

それはお婆がカリンに初めてはっきりと示した賛辞であり、信頼の証でもあった。

少したじろいだ孫に、にやりと笑って見せた後、老婆は咳ばらいをすると厳かに告げた。

「ゴルギス、クレア、カリンの三人は、夜明けとともに穴蔵を出て、石の社へ向かえ。シアエガが完全に甦る前に、奴を封印し直すのじゃ。それでよいな?」

渋々といった風に頷いたクレアだったが、お婆だけは見抜いていた。彼女の体からこわばりが解け、その表情に適度な緊張が生れたことを。

ーーーーーーーーーーーーー

夜が明けるのを待って、人々に見送られながら、泉から隠し通路を通って外に出たカリン達はゴルギスを先頭に、石の社のある山を登っていた。

まだ薄暗い森には、あちこちに旧きものどもの痕跡があり、彼らのおこぼれに預かろうと狙っている低俗な魔物どもの気配があった。

ゴルギスの持つ松明の灯りを頼りに道なき道を進む途中で、緊張をほぐそうとカリンが初対面であるゴルギスに尋ねた。

「ゴルギスさんはここら辺の遺跡総ての管理をしているんですか?」

そう尋ねたカリンに、寡黙な男は苦笑し、初めて口を開いた。

「大したことはしていない。私に出来るのは精々がこうして道を案内し、遺跡に関する資料を保管する位だ」

「それでも大切なことですよ。前時代からの知識の手がかりを保管するというのは。貴方のおかげで穴蔵を訪れたワタリガラス達はそこから知恵の欠片を見つけ、人々に伝わっていくのですから」

そうい言って微笑むクレアに、ゴルギスは赤くなってその笑顔から顔を背けた。

「他に選択肢が無かっただけさ。魔術の才能などないしな。一度覚えようと魔導書に触れてみたんだが、そのまま意識を失って終わりだった」

そのまま発狂しなくて幸運だったと自嘲したゴルギスは、カリンに探るような目を向けた。

「君は魔術が得意らしいな」

「俺の唯一の長所かな」

そうおどけたカリンを試す様にゴルギスが言う。

「ならば一つここで見せてはくれまいか?」

その時、カリン達を囲むように集まって来ていた子鬼の群れに気づいたカリンは頷き、世界の理を歪めた。

《トーカ》

ゴルギスのもつ松明の火が激しく揺らめくと、蛇が巣穴から這い出す様にその背を伸ばし、カリン達を守るように藪を燃やしながらとぐろを巻いた。

突然隠れていた草むらごと燃やされた子鬼たちは悲鳴をあげて散り散りに逃げていく。

鎌首をもたげて他の獲物を探した炎を大蛇は、主を狙う敵がもういないのを確認して元の火に戻った。

「......驚いたな。これほどの魔術を行使しながら平気なのか?」

「ええ。まあ、少し頭が痛みますし、他にもダメージを受けたかもしれませんけど、俺は副作用が少ないように魔導書の魔術をアレンジしていますから。奴らの概念で世界を把握し、理を弄るから精神が汚染されるんです。一度歪め方さえ理解すれば、後は自分の概念で魔術を行使すればいい」

そう言い切ったカリンに、ゴルギスは隠しきれない嫉妬を言葉の隅に滲ませながら言った。

「成程。君は確固たる自分の概念を持っているのか。羨ましいな。それは強者の生き方だ。私のような人間は、縋るしかないんだよ。より強い存在にね。たとえそれが何者であっても」

突然よそよそしくなったゴルギスの態度に虚を突かれ、黙ったカリンに背を向けてゴルギスは言った。

「......すまない。少し休憩を挟もう。君たちはそこで休んでいてくれ。近くに目印となるものがある筈だから、私はそれを見てこよう」

一応は通れるように配慮されているのだろう。木が伐採された後の切り株にそれぞれ腰かけたカリンとクレアだったが、二人の間に塞がる沈黙は終わらない。

穴蔵を出てからずっとカリンに視線すら合わせないクレアの感情は理解している。それでもカリンは譲るつもりは無かった。

沈黙に耐えかねたのかとうとうクレアがぽつりと零した。

「こうして穴蔵の外をカリンと歩くのも久しぶりですね」

少し泥で汚れた自分の足先を見つめるクレアに、カリンも答える。

「そうだな……。クレアも巫女の鍛錬で忙しそうだったし、俺もお婆様の手伝いがあったから」

「そうですね。もう、子供ではありませんから。......でも、こうしていると昔のことを思い出します」

くすりと笑ったクレアに釣られてカリンは苦笑する。

「俺はあんまり思い出したくないなあ」

「そうですか? ほら、カリンがおねえちゃーんって私の後ろをついて回っていた頃ですよ」

「思い出させなくていいから......」

歯切れ悪くツッコミを入れたカリンに、クレアは目を合わせた。

「……本当は、カリンが付いてきてくれるって言ってくれて嬉しかったんです。皆の手前、ああ言いましたけど。でも、アズサを看ていて欲しかったのも本当で。ああ、やっぱり私は中途半端だなあ」

そうため息を吐いたクレアを抱き寄せ、カリンは囁いた。

「大丈夫だ。お前は俺が守るし、アズサを独りで取り残したりはしない。約束するよ」

驚き硬直していたクレアの体から、ゆっくりと力が抜け、おずおずとカリンの背に腕が回された。

「カリン、今でも思いだすんですよ? 怖がりで、私の後ろに居たカリンが、前に飛び出していって私たちを守ってくれた時のことを。やっぱり私はカリン、貴方のことを—―」

クレアの鼓動を感じながら、その言葉を聞いていたカリンは奇妙な動物の鳴き声を聞き取り、ぱっとクレアから離れ、辺りの様子を窺った。

「カリン?! 何かいるのですか?」

木々の奥、闇の中に目を凝らしカリンは(かぶり)を振った。

「分からない。でも、しわがれたカエルのような声がしたんだ。......それに、誰かに見られている気がする」

クレアがはっと息を呑んだのを背中で聞きながら辺りを警戒しているとゴルギスが戻ってきた。

「待たせたな。あとはもう一本道のようだ。......どうかしたのか?」

妙に黒々と輝くゴルギスの目に違和感を抱きつつも、カリンは答えた。

「辺りをうろつく気配がする。それにカエルの鳴き声みたいな声が聞こえたんだ。旧きものどもを信仰する蛮族がいるのかもしれない」

「......そうか。ならばそいつらに邪魔される前に、一刻も早く儀式を遂げなければな」

「そうですね、急ぎましょう」

「そうだな......」

二人は頷いてゴルギスの後に続いた。彼から微かに漂う生臭い臭いに違和感を覚えながら。

ーーーーーーーーーーーーー

やがて妙に綺麗に手入れされた参道を抜け、落ち葉一つない石段に辿り着いた。

誰かが絶えず出入りしているかのようなその石段を迷いなく進むゴルギスの後に続くカリンの鼻をますます強くなってくる生臭い臭いが刺激する。

「ゴルギス、この臭いは?」

「臭い?......ああ、シアエガの封印が弱まっているからだろう。先を急ぐぞ」

余りの悪臭に苦しむ二人を、とりわけクレアを気にしながらも、せかされたように上へと登っていくゴルギスの後を必死に追い、三人は漸く石の社に至った。

「さあ、着いたぞ」

苔むした古い石段を登り終えたカリン達の視界が開ける。

「ここが、石の神殿……」

その名の通り、そこは、石棺のような祭壇がぽつりと置かれた円形の広間が巨大な石柱で囲われ、床に印が刻まれただけの簡素なものだった。

ひび割れた石畳からうねうねとヒルが湧き出すのを見て、カリンは顔を顰めた。

「気味が悪いな。早く儀式を済ませよう」

「同感だな」

「……ゴルギス。これは一体どういうつもりですか?」

咄嗟に振り向いたカリンの瞳に、目を疑う光景が映し出されていた。

寡黙な青年という顔を捨て、狂気を感じさせる笑みを浮かべたゴルギスが、クレアの白い首筋に錆びたナイフを押し当て、彼女を抱きしめている。

 

「お前、自分が何をやってるのか分かっているのか?!」

 

クレアを人質に取られ、怒鳴ることしか出来ないカリンをゴルギスが嘲笑う。

 

「勿論、分かっているとも。君こそ現実が分かっているのか?」

その後ろからぽたぽたと粘液を垂らしながら、カエル顔をした二足歩行の生物がぞろぞろと階段を上ってやって来ていた。

 

「私は大いなる神、シアエガ様に認められた。あのお方は私の苦悩を理解し、赦して下された。故に私はあのお方の神官となり、かつてシアエガを封印した忌々しい人間どもを滅ぼす!」

 

大きく開けた口の端からだらだらと涎を零しながらそう叫ぶゴルギスを、クレアは鼻で笑った。

 

「愚かな。旧きものが、人間を理解する筈がありません」

 

 感情が抜けたような、人形めいた作り笑顔を浮かべて、ゴルギスがクレアの耳に顔を寄せ、囁いた。

 

「心配しなくていい、愛しいクレア。君もシアエガの巫女となり、共にシアエガに仕えるんだ。二人で幸せになろう」

 

 そう言ってクレアの髪に顔を埋め匂いを嗅ぎ、胸元に手を入れ乱暴に彼女の乳房を揉みしだくゴルギスの眼中に、既にカリンはない。

 

ナイフを白い首筋に押し当てられ、嫌悪と狂った獣の犯されることへの恐怖に歪むクレアの顔を見て、カリンは世界が真っ赤に見えるほどの怒りを覚えた。

 

「ぎぎ、あきゅとぐん。ぼあ」

「える。ごりぎりしええが」

 

 だが、カリン達を遠巻きに眺める魚人たちの耳障りな声が、カリンを正気に戻した。

 

(落ち着け。俺が何とかしないと......。でも、魔術を使うより、アイツがクレアを殺す方が早い。一体どうすれば)

 

 

 

 

クレアを人質に取られ動けないカリンの前で、彼女は動いた。

素早くゴルギスの鳩尾に肘鉄を入れると怯む男の中から抜け出し、距離を取ろうとする。

だがその前に振り下ろされたナイフが鈍く輝き、避けられぬと悟ったクレアの左頬肉を抉り、頬骨に深く突き刺さった。

「ぐっ......。あう」

悲鳴を押し殺しカリンの元まで走り出したクレアが呆然とするカリンの腕を掴み、祭壇に向かう。

「クレア!!」

「づあいじょうぶ。かりん、あとはこのちをささげどうだけでじゅ」

しゃべる度に痛みで顔を歪めながらも、クレアは血でぬらぬらと光る美しい顔にナイフの取っ手を生やしたまま、とめどなく流れる血を掬ってカリンに見せた。

謝罪の言葉を呑み込んでカリンはクレアと共に走る。

だがその背にカエル人間たちの怒声が響き渡った。

怒りに駆られたカリンが呪文を唱える前に、握っていた手から、そっと柔らかな手が引き抜かれた。

凛々しい声が響く。

「ガキテシュフー」

クレアを起点に生じた白銀のオーラが宙を漂い、蜘蛛の巣のようにもがくナガアエ達を絡めとった。

そして自分の頬に突き刺さったナイフの柄に手を掛けると引き抜いた。

噴き出す血が辺りを濡らす中、ぱっくりと空いた傷口を晒しながらクレアは叫んだ。

「いって!」

叫びと共に渡された血で濡れたナイフを握りしめたカリンはその強い眼差しに頷き、振り返らずに走った。

 

 

辿り着いた祭壇の上に置かれた鈍く輝く杯は黒ずんでおり、それが幾度となく乙女の血を呑んできたことが察せられた。

カリンがクレアの血をそこに注ぐと、石の祭壇がぐらぐらと激しく揺れた。

床の下に潜むナニカの怒声が辺りに響く。

カエル人間やゴルギスが許しを請い叫ぶ中、地面に描かれた文様の溝に血が流れ込み、文様を深く刻み直すと、ぴたりとその怨嗟の声は止んだ。

「よしっ! ここから逃げよう、クレア!」

達成感に笑みを浮かべながらそう言ったカリンに対し、クレアはただ静かに首を横に振った。

「ごめんなさい。私はいけないわ」

「なっ?!」

信じられないと首を振るカリンにクレアは尚も告げる。

「……行きなさい」

「何を言ってるんだ、クレア、お前とじゃなきゃ意味がない!」

「この魔術は術者を基点に展開されるの。私はもう、動けない」

「そんな......!」

先ほどまではクレアを守る頼もしい糸だと思っていた思っていた、クレアの手首から伸び、カエル人間達を絡めとるそれが、彼女を捕えて離さない鎖に見えた。

今なら、ペグを失くした彼女の父の思いが分かる。

理屈をこねる理性などどこかに吹き飛んでいた。頭が現実の理解を拒む。ただ認めたくなくて、俯いたまま尚も何かを言い募ろうとしたカリンの名を、クレアが叫んだ。

「カリン……!!」

「……ッツ!」

その声に思わず顔を上げたカリンを、青く澄んだ瞳が射抜いた。それは諦めた者の瞳だ。あらゆる雑念を捨て、たった一つの願いだけを抱く覚悟を決めた者の瞳だった。その目を前に、叫ぼうとしていた言葉は口の中で溶けて消えた。阿呆のように口を呆然と開いたまま、

「アズサを頼んだわ」

とん、と優しく突き飛ばされたその行為の意味は、明白な拒絶で。

不思議な力によって強められたその突きは、カリンを容易に石の社の端へと飛ばした。

バランスを崩したカリンは崖のように切り立った祭壇の端から暗い海へ、真っ逆さまに転がり落ちていった。


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