4月16日(土)
土曜日。
3日間を工藤邸の掃除に費やした私は、今日1日だけ休みをもらって、自分の洗濯とできれば“私”の捜索に当てようと思っていた。
ほんとは工藤邸の方もあとわずかだし、連続してやっちゃいたかったんだけどね。
(いや、マジで下着のストックが切れる寸前だったんよ)
しかし、お金をもらえない仕事となると、どうして私はこんなに身が入らないんだろう?
ともあれ、トリップしてきたのが先週金曜日だから、もう1週間以上たったことになるのか。
この8日間、すさまじく密度が濃かったような気がするよね。
まあ、もともと私はそんなに密度が濃い生活をしてた訳じゃないから、よけいにそう感じるのかもしれないけど。
でもこの8日間の事件の頻度は、確実に原作のときよりも上がってると思う。
『 ―― 10億円強奪事件から今日で6日目になりますが、未だに犯人逮捕のめどは立っていません ―― 』
……はい!?
つけっぱなしのテレビから流れるニュースに思わず固まる。
オイオイ、いつの間に起こったんだ10億円強奪事件!
今日で6日ってことは事件が起きたのは月曜日ってことで……ああ、私がヨーさんとホテルで1泊した翌日、お昼頃まで惰眠をむさぼっていたあの日、ってことですか。
(あー、確かにあの日の午後に阿笠さんに翌日の自宅の掃除を頼まれて、翌々日からも工藤邸の掃除でカンヅメになってたから、テレビも新聞もほとんど見てなかった、かも)
展開が早すぎて全く考えてなかったけど。
宮野明美、助けるのは不可能、だよね。
私はトリップ前にいろいろなサイトでコナン夢小説を読んできたから、確かに彼女を助けるストーリーを見たこともあるけど、ほとんどの場合主人公(オリキャラ含む)が“特殊”だった。
もちろん平凡主人公が奮闘する話もあったけど、宮野明美は妹を助けるために自分から危険を承知でジンに会いに行くのだし、あの場面で殺しの専門家であるジンが宮野明美に致命傷を与えない訳がない。
彼女の説得は不可能、たとえそのとき彼女を引きとめられたとしても、妹を助けるために彼女は必ずジンに会うだろうから殺されるのが少し先に延びるだけだ。
そして、この平凡な私が埠頭に先回りできたとしても、その場でジンに殺されて終わりだろう。
じゃあもっと前、あの大男の方を助けてジンと対決させる?
ううん、私はあの男が泊まってるホテルを知らないし(確か原作でも文字が隠れてて見えなかった)、もし見つけられたとしても信じてもらえるとは思えないし、やっぱり私が殺されて終わりだ。
……うまく出来てるなぁこの原作。
こうして破綻を探そうとするとつくづくそう思うよ。
事件が起こったのが月曜日だとして、その日から毛利探偵は3日間、根岸さんを尾行していた。
だから宮野明美(広田雅美)がすでに毛利探偵に相談に来てたとしたら、早くても木曜日ってことになる。
それから実際に毛利探偵が広田さんを見つけるのは確か1週間後、ってことになってるんだけど……。
私が知ってる原作よりもこの世界は物語の展開が早いから、競馬場で広田さんが見つかるのは、東京競馬場が開いてるこの土日がいちばん怪しい、よね?
そう思ってテレビのチャンネルを競馬中継に変えたその時。
『 ―― ぶっちぎりだー!! ゴーカイテイオー、G1五連勝ーっ!!』
その音声が飛び込んできて、私は頭を抱えたくなった。
それからけっこう考えて、頭の中で何度も何度もシミュレーションしてみたけど。
宮野明美を救うことはやっぱりできなかった。
洗濯が終わってお昼頃、私は大箱でストックしてある○ロ○ーメ○ト(買ってまだ間もないので段ボール4つで100食分以上ある)をかじりながら、パソコンの前にいた。
電源はずっと入ったままで、スリープを解除すると読みかけのブ○ーチ夢小説が現われる。
私はたくさん開いたままのブラウザをぜんぶ最小化していった。
その先に現われたデスクトップのアイコンを1つ1つ見ていくと、カラフルなアイコンの中にぽつんと“無題.txt”というファイルを見つけた。
ここでちょっと昔話。
今45歳の私が初めてパソコンを買ったのは、2000年問題が世界的に騒がれていたアラサーの頃だったりする。
世間的にもちょっと遅いと思うんだけど、実はその前にワープロを3台使ってたんだよね。
最初に小型のワープロを買ったのは高校1年の時で、当時はまだフロッピディスクすら出始めで搭載されてなかったんだけど。
(なので記録媒体はカセットテープでした。今の若者には想像もつかないんだろうなぁ)
で、その頃私は、生まれて初めて遺書的なものをそのワープロで書いた。
別に当時自殺がしたかったとかじゃなく、内容は財産分与(マンガとか自転車とか?)の話に終始していた訳なんだけど。
その頃私がすでに自分のパソコンを持ってたとしたら、おそらくそのパソコンで書いてたと思う訳ですよ、遺書を。
もし、以前この部屋に住んでいた“私”が本当に存在していたのなら、私と似た性格の彼女がなにかをする時には私と似た行動を取るはず。
このパソコンがもし、私の部屋からトリップしてきたものじゃない、もともとこの部屋にあったものだとするならば、このパソコンの中には彼女の痕跡が必ず残っているはず。
無題、と名付けられたテキストファイル。
さほど期待せずにダブルクリックして私が見つけたのは、どうやら彼女の手記らしきものだった。
内容は、私が想像してた以上に重いものだった。
父親が死んだとき、彼女は元の私と同じ15歳だった訳だけれど、私と違ってそのわずか2カ月後に母親が死んだ。
ちょうど中学の卒業を間近に控えていて、葬式やらなにやらでごたごたしているうちにあっけなく卒業してしまって。
両親ともに1人っ子で、祖父母も既にいなかった彼女は、本来なら施設にでも入るところだったのだろうけれど、このままこの家に住み続けることを選択したらしい。
というのも、高校生で独り暮らしするのは世間的にもさほどおかしなことじゃなかったし、相続財産や両親の保険金は成人までの生活費としては十分な額があったからだ。
(これは私も通帳で確認している。私の貯蓄額とほぼ同じくらいだった)
ただ、これから通う予定だった高校は私立で、通い始めればあっという間にお金を食いつぶしてしまうだろう。
両親をいっぺんに失った彼女は精神的にもかなりショックを受けていたし、性格的にめんどくさがりでもあったので、既に入学金を払い込んであった高校に休学の届けを出したあと、いとも簡単に引きこもってしまったのだ。
ファイルのプロパティによると、テキストの作成日は去年の6月、最終更新日は私がトリップしてくる2日前だった。
おそらく前半部分を書いたのが6月で、後半を書いたのが今年の4月だったんだろう。
前半とは違い、後半は起こった出来事のようなものはまったくなく、彼女のネガティブな感情が吐露されていた。
周りに誰もいない、友達も家族もなく、人と話をすることもなく、ただ食べて寝るだけの生活。
誰にも必要とされず、なにをする気力もなく、生きていても仕方がない。
書き散らした文章は稚拙で、前後の脈絡もなく、したがって説得力もまるでなかったけれど。
それが16歳の私なのだというフィルターを通せば、彼女の感情は手に取るように判った。
判りすぎて逆に怒りというか、憤りみたいなものを感じたけど。
要するに、もしも私が父親を亡くしたとき、母親も亡くして、妹も親戚もいなかったとしたら、おそらく同じものになっていただろうということだ。
甘えたがりで、人見知りで、めんどくさがりで、がんばることが嫌い。
強要されなければ動かないくせに反抗的で、人に優しくされたいくせに自分からは優しくできない。
彼女は私と同じで、でも私と違っていたのは、引き留める人間がいなかったということだ。
自分が責任を負うべき人、この世の未練、そういうものが彼女にはなかったんだ。
もうちょっとだけ生きて、社会人になって、視野が広がって、自分が判れば。
生きることも、少しだけ楽しくなったのにね。
楽しく、というより、楽になった。
私は今でも人付き合いが苦手で、元の世界で友達と呼べるような人はぜんぜんいなかったけど、でも学生の頃よりはずっと楽だった。
友達なんかいなくても生きていけることが判ったし、それが人間として社会人として致命的な欠陥じゃないことも判った。
本当の自分を誰かに知ってもらう必要なんかないし、とりあえず普通の人間に見えるように振る舞う術も身につけることができた。
誰にも理解されないことはさびしいことなんかじゃなく、当たり前のことなんだって、判った。
高久喜愛夏、さん。
私はきっと、あなたが理想とする大人にはなれなかったと思うけど。
でも、あなたが遺したこの世界で、私はあなたの代わりに生きていくよ。
4月17日(日)
過去の自分とか、醜い部分とか、いろいろ見せられて、考えさせられて。
気がつくと日曜日の朝になっていた。
工藤邸は、初日に共用部分、2日目に書斎、3日目に使ってない部屋の掃除をほぼ終えていた。
あとはソファやクッションのカバー、カーテン、シーツなんかを洗濯して、もう1回仕上げに掃除機をかけて、もし時間が余ったら庭の芝刈りでもすれば完了といっていいと思う。
まあ、やろうと思えばいくらでもやることはあるのだけど。
「いちおう今日で終わりの予定です」
「そうか。じゃあ、また昼に誘いに行ってもいいかのォ」
「はい。ではお待ちしてます」
朝のうちに阿笠さんとそんな会話を交わして、けっきょく昼過ぎまでかけて屋敷中に掃除機を巡らせたあと、誘ってくださった阿笠さんと一緒に再びポアロ前までやってきた。
と、その時。
落ちてきたのだ、ポアロの2階、正確には毛利探偵事務所の窓から、ミニスカートをはためかせ見事な生足をさらした蘭さんが!
「え? 蘭君……?」
「どこ、なの? 雅美さん、どこに連れてったのよ!?」
蘭さんの視線はサングラスをかけた大柄の男に固定されていて、阿笠さんの呼びかけにも気付いていないみたいだった。
すぐに踵を返した男を追いかけていく。
近くに停めてあった車に男が乗り込み、ドアを閉めた瞬間に追いついた蘭さんが運転席の窓ガラスに跳び蹴りを喰らわせて。
砕け散ったガラスを浴びて放心状態の男を車から引きずり出したんだ。
月並みだけどまるでアクション映画のワンシーンみたいだった。
蘭さん、私のことを運動神経がいいって言ってたけど、私は凡人であなたは超人だと思います。
「捕まえたわよ、お父さん!!」
「おーし、でかした!!」
いやいや、その人確か雅美さんの失踪とは無関係でしょ。
でもこの派手なアクションのおかげで判ったよ。
今が、原作で広田さんが殺されたことが判った直後なんだ、ってことが。
「博士! ……愛夏姉ちゃん」
「おお、コナン君」
「え? 愛夏ちゃん? やだ、恥ずかしいとこ見られちゃった?」
「いえ、……はい」
どっちなんだよ、と自分でもつっこみたくなったし。
いちおう念のため、恥ずかしいとこが“いえ”で、見ちゃったのが“はい”の方です。
「そ、それで、2人はうちになにか用だったの?」
「いやいや、ワシらはポアロに用での。遅い昼食を食べに来たんじゃよ」
「へえ、博士と愛夏ちゃん、そんなに仲が良かったんだ。知らなかった」
「最近じゃよ。愛夏君がワシや新一君の家の掃除をしてくれての ―― 」
「蘭! 行くぞ!」
「はーい。じゃ、2人ともまたね」
男を連行していく毛利探偵に呼ばれて、蘭さんとコナン君は事務所に戻っていった。
私と阿笠さんも無事ポアロに落ち着いたけど……。
あの探偵の人に大男の情報を聞いたのなら、この事件が終わるのはもうすぐだ。
コナン君の眼鏡で雅美さんの時計についた発信機を追跡して、男の死体を見つけて、ジンに会いに行った彼女を埠頭まで追いかけて ――
「愛夏君、元気がないようじゃが」
「え? いえ、そんなことないですよ。ちょっと寝不足ですけど」
「また仕事の心配かね?」
「あ、はい、それもありました」
そういえば工藤邸の仕事も今日でおしまいだもんね。
また新しい仕事を探さないと。
注文を済ませてしばらくした時、なぜかポアロにコナン君が慌てた様子で飛び込んできたんだ。
「博士! お願い! すぐに帰ろう!?」
「どうしたんじゃし……コナン君」
「急いでるの。早くおうちに帰って」
「いや、ワシらはこれから食事をじゃな」
……いや、駄々をこねるコナン君は、傍から見ると可愛い憎たらしいガキです。
でもこれ、たぶん私がいるから歪んでるシーンだ。
ほんとだったらこの時間、阿笠博士は自分の家にいて、コナンの追跡メガネを充電してくれてるはずだから。
「阿笠さん、私、テイクアウトできないか訊いてみます。だからコナン君と一緒に帰ってあげてください」
「愛夏君……」
「私のことはどうか気になさらず。食事はあとでお届けしますので」
「そうか、すまんのォ」
コナン君のただならない様子と私の言葉に、阿笠さんもなにやら感じ取ってくれたらしい。
ポアロを飛び出し、コナン君に手をひかれながら、阿笠さんもかけ足で帰っていった。
私はすぐに店員さんに、急に帰らなければならなくなったから、もう作り始めてしまったようなら持ち帰れないかと相談してみた。
多少待たされはしたがどうやら持って帰れるようだったので、私は容器に詰めてもらった2人分の食事を持って阿笠邸を訪ねていた。
「おお、愛夏君、すまなかったのォ」
「いいえ。それで、コナン君の急用は終わったんですか?」
「ああ、いましがたな。どうやらゲーム機の電池が切れてしまったようで、さっきまで充電してやってたんじゃ」
「そうでしたか。あのくらいの年頃の子供にとっては最優先の急用でしたね」
「ハハハ……」
阿笠さんが乾いた笑いでごまかす。
この会話、工藤新一が知ったらそうとう機嫌を損ねるんだろうな。
阿笠さんとの食事のあと、再び工藤邸に戻って仕事を続けて。
私はどうやら、無事に工藤邸の掃除を終えることができたようです。
まあ、カーテンの洗濯に手間取って、庭までは手が回らなかったんだけどね。
でもどうにか片付いてよかったよ。
夜8時、戸締りをして、工藤邸の鍵を阿笠さんに返しに行くと、阿笠さんが変なことを言っていて。
意味が判らないままとりあえずうなずいて、帰ってきてからもずっとそのことが頭から離れなくて。
夜、11時くらいだったと思う。
めったに鳴らない私のケータイが着信を告げたのは。
「……もしもし」
『あ、……高久喜愛夏、か?』
一気に心拍数が上がる。
だって、電話越しでも誰の声かはっきり判ったから。
―― 確かに帰り際に阿笠さんが言ってた。
工藤新一に私のケータイ番号を教えてもいいか、って。
「は、い」
『あの、オレ、工藤新一。……今日は、ありがとな。その、家の掃除頼んじまって』
ええっと、女を口説くなら左側から、っていったいなんで聞いたんだっけ?
女性の右脳には男性の低い声に反応する何かがあって、だから左耳から入る声の方がより効果的だとか何だとか。
って、こんなこと考えてる時点でそうとうパニクってるよ自分!!
「いえ……こちらこそ、お仕事ありがとうございました」
冷静に、なんとか冷静になるんだ。
「カーテンは洗ったんですけど、庭の掃除まで手が回らなくて。時期的にまだ雑草が生い茂るような季節じゃないので、私でよければまたその頃にでもお伺いします」
『あ、ああ、サンキューな。……って、また頼んでもいいってことか!?』
「はい。とりあえずお時間がある時にでも出来栄えを見ていただいて、私でよろしければまたいつでも声をかけてください」
みっともなく上ずった声で対応するのはこの年になるとさすがにプライドが邪魔して、できるだけ低い声で話していたからちょっと愛想に欠けてるかもしれないけど。
正直仕事自体は割りがいいから、ぜひまた頼んで欲しいと思う。
……できれば阿笠博士を通して。
『あ、あの、さ!』
「……はい」
『また、電話してもいいか!?』
……?
今、私言わなかったっけ?
いつでも声をかけて欲しい、って。
「はい」
『……っ! そ、そんじゃ、また電話する。今日はほんとにサンキュ!』
この頃になってようやく私は気がついた。
工藤新一の声に、私が知る彼の冷静さのようなものがかけらもない、ってことに。
……そうか、彼は今夜 ――
「あの」
『えっ!?』
「……いろいろ、たいへんだと思いますけど……。これからも、お仕事がんばってください」
『お、おう! ……じゃ』
これだけで伝わったとは思えないし、ありきたりの言葉で励ましにも何にもならなかったかもしれないけれど。
事件のこと、目の前で死んだ人のこと、できるだけ引きずらないでほしいって思う。
こんなの、なにもできなかった私に言えることじゃないんだけど。
つらいこと、これからもたくさんあると思うけど。
できるだけ彼には幸せでいて欲しいと願うよ。