この世界、おばさんにはちょっとキツイです。   作:angle

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FILE.12 想い出補正は最強 ~カラオケボックス殺人事件~

 

 

5月6日(金)

 

 

早朝、私はいつもの朝風呂といつもの朝食のあと、工藤新一から買い取った一張羅を前に悩んでいました。

 

 

今日は夕方の6時に待ち合わせて、園子さんたちとカラオケに行く予定なんだけど、今までのパターンだとおそらく今日はカラオケボックス殺人事件が起こるはずで。

相手は芸能人とはいえロックバンドで、けっこうラフな格好で来るはずだから、別にGパンでもOKだとは思うんだけど。

……すでに2日着た一張羅、実はまだ洗濯を一度もしたことがないんだよね。

(2回目の時はスプレーしてごまかしてました。まあ、洗濯する時間もなかったんだけど)

今回も時間はないから、着るとなったら思いっきりスプレーしていくしかないんだけど、さすがに今回着たあとは諦めて洗濯するしかないんですよ。

 

 

おしゃれ着の洗濯なんて、とうぜんやったことはなかったりする。

私は通勤の車でいつもラジオを聞いてたから、聞きかじりでなんとなく洗濯の方法くらいは判るんだけど。

(確かたたんだ状態で押し洗いをして、脱水は1分以内、干すときも吊るさずにタオルの上で広げる、って感じだった気が……)

たぶん洗剤なんかも、いつもの粉のじゃなくて専用のを使わなきゃなんだろうな。

工藤新一、買い取るときだけじゃなく、買ったあとも思いっきり私を悩ませてくれます。

 

 

ともあれ今悩んでいても仕方がないので、着る服はこれに決めてスプレーしまくったあと、何十年ぶりかでお米のご飯を炊くことにした。

というのも、今までいちおう仏壇には、毎日とは言わないけれどご飯とお水を上げてたんだけど。

ご飯の方は、母が炊いたあと冷凍庫に小分けにしてあったのを電子レンジで解凍してたのが、とうとうなくなっちゃったんだ。

(うちの母も年だから、毎日ご飯を炊くなんてことはしてなかったんだよね。だから数日に一度炊飯器の限界まで炊いたのを小分けして冷凍庫に詰めまくってたんだ)

私も母に倣って、この方法で仏壇用のご飯を準備することにした。

 

 

お米はけっこう残ってたから、まずお米を計量カップで5カップ測って、炊飯器の内釜に入れて。

何度かといで水気を切ったあと、内釜のラインまで水を入れて、しばらくの間放置する。

待ち時間があるとつい煙草が吸いたくなるので、待ってる間近所をジョギングでもしようかと思ってふと気が付いたんだ。

いちおう体重計には毎朝お風呂上りに乗ってるんだけど、トリップ後の1か月で私、3キロくらい体重が減ってたんだってことに。

 

 

今45歳の私は27年前に高校を卒業して就職したんだけど。

部活をやめたのに加えて、ちょうどバブルの時代で飲み会や夕食付の会議や研修(そんなものがあったんだよ、あの頃は)が増えたこともあって、けっこう体重が増えてくれたんだよね。

それからは断続的なダイエットの日々で、増えたり減ったりしながら最近では10キロ増ぐらいで安定してた訳で。

今でも毎朝体重計に乗るのが習慣になっていて、減るのが嬉しいからトリップしてからのこの1か月は放置してたんだけど、さすがにハンガーノックまで起こしたとあっては食生活の見直しが必要だと思うようになったんだ。

 

 

トリップ前の私の食生活は、朝はカ○リーメ○ト(400キロカロリー)で、昼は職場に配達されるヘルシー弁当(500キロカロリー)、夜は母の手料理だから判らないけとたぶん700から800キロカロリーくらいだったと思う。

(これでも頑張って抑えてた方なんだよ。うちの母、私がダイエットしてようが構わずご飯を盛ってくれちゃうから。しかも毎日少しずつ知らない間に増やしていくという方法で)

この頃でトータル1600から1700キロカロリーくらいだった訳だけど、トリップしてからは ―― 阿笠さんと食べてた頃は除いて ―― 1食抜いたり朝晩カ○リーメ○トの時もあったから、前よりもむしろ減ってるくらいだったんだよね。

 

ただでさえ若返って筋肉の量が増えてるのに加えて、摂取カロリーが減ればとうぜん体重は減りますよ。

このままだと筋肉量も落ちて、以前の太りやすく痩せにくい体質に逆戻りは必至だという結論に至った訳です。

 

 

放置してから30分ほどたったので、炊飯器に火をつけて。

私は以前職場で買わされた料理本(全12巻)を開いてみた。

 

 

…………さすがはバブル時代に書かれた本だけあるな。

肝心の作り方よりも、テーブルをどう演出するかとか、贅沢方面に重点が置かれてるし。

今まで開いたことなかったけど、この本で料理を覚えられる人がいたら尊敬するわマジで。

(つか、これどう考えても上級者向けだよ。なんで料理しないのにこんな本買わされてるんだ20歳の自分)

 

 

まあ、過去の失敗は置いといて。

私は別に、料理ができない訳じゃないと思う。

ただ、致命的にめんどくさがりなので、料理する工程のめんどくささと食べた時の幸せ感と、比重がめんどくささにあるだけで。

 

 

昔、中学一年生の時、母が夜になっても帰ってこなかったことがあって。

(たぶん入院中の父のお見舞いで遅くなってたんだと思う)

おなかを空かせた当時小学3年生の妹と二人だけで、なんとか妹を食べさせなきゃという義務感から、冷蔵庫にあった食材でピーマンの肉詰めを作ったことがあるんだよね。

大人になってから、妹が調理師になったきっかけが、その時私が作ったピーマンの肉詰めだったと話してくれて。

(それがおいしかったからなのかまずかったからなのかは聞きそびれたんだけどね。きっとおいしかったんだろう)

まあ、その時の私は、無言で食べながら妹に「まずいって言うなよー」オーラを発信してたりしたんだが。

 

 

高校生の頃はなぜか2か月ばかり、自宅内で自分一人だけ自炊をしたことがあるので、カレーや野菜いため、焼き肉に唐揚げあたりが作れるのは確認済みだ。

(これは単にお小遣いを増やしたかったからだったりする。母に一人分の食費を算出してもらって、そのお金をもらって自炊したあと、残った分を小遣いに上乗せするという子供のつたない知恵だった。ちなみに小遣いの使い道はマンガだ)

この時は弁当も作ってたから、部活と両立がきつくてけっきょくやめたんだけどね。

そうか、お弁当に卵焼きやおひたしを入れたりもしたから、そのあたりもやろうと思えばたぶん作れるじゃん。

 

 

……自炊、するか?

冷蔵庫に残ってた食材は腐る前に捨てたけど、調味料類はかなり残ってるし、もちろん調理器具はあるからやろうと思えば始めるのは簡単だけど。

でも一人で自炊とか、ぜったい食材を無駄にしそうだよな。

だからといってコンビニやレトルトじゃあエンゲル係数がものすごいことになりそうだし。

 

 

自炊から逃げたくて言い訳をつらつら考えてるうちに炊飯器が止まって蒸らしに入る。

そろそろラップと秤としゃもじを用意しておくか。

私のご飯、45歳の時は一食80グラムでよかったんだけど。

(だんだん茶わん1杯のコメの量が増えていくから、ある時母にグラムを量るように言い渡したんだよね。母は毎晩のように「こんなにちょっとじゃ足りないでしょ」と文句を言ってたけど)

さて、16歳だと何グラムくらいになるんだろう?

 

 

だいたいさ、昔と今とでは、食材に含まれる糖分の割合が違うような気がするし。

(専門家じゃないからあくまで“気がする”だけだけど)

私が子供の頃はスイカに塩をかけて食べたけど、それはわずかな甘さを少しでも感じるためで、今のスイカは塩なんかかけなくたって十分甘かった。

果物だけじゃなくて、キャベツみたいな野菜とかもぜったい糖度が増してると思うんだよ。

だから、私が学生の頃と同じ調子で食べてたら、間違いなく太るような気がする。

 

 

いきなり食べる量を増やすのも怖いので、とりあえず今回は100グラムにして、10個ほどラップで包んだあと、仏壇用の40グラムを残りぜんぶで作っておいた。

作業が終わったのがちょうどお昼頃。

せっかく炊き立てのご飯があるから、レトルトのカレーでもあっためてカレーライスにしようか。

ご飯1つ分だけ冷凍庫へ入れずにレンジでカレーを温めたあと、お皿に盛って昼食にする。

 

 

……ご飯、ちょっと柔らかすぎたかな?

まあ、芯がないから良しとしよう。

 

 

夜はたぶんカラオケボックス殺人事件だから、お店で作ったサンドイッチやおにぎりなんかが出るだろう。

木村達也にはできれば死んでほしくないけど、事件が起こったあとはいくら大丈夫といってもテーブルの上のものを食べるのは怖いからね。

事件が起こる前にさっさとおなか一杯にしてしまうことにしよう。

 

 

そんなこんなで、レトルトカレーだけで昼食をとったあと、1枚だけ汚したお皿(昔パン屋の景品でもらった白いヤツ)とスプーン、しゃもじや炊飯器なんかを洗っていたところ。

部屋の方でケータイの着信音がしたから、手を拭いて見に行ったらなんと液晶画面に工藤新一の名前が……!

もちろんソッコー身支度を整えて正座で出ましたよ!

(見えないだろうけど)

 

 

「はい」

『……工藤新一だけど。今、大丈夫か?』

「はい」

 

 

なんか、前2回に比べると工藤新一のテンションが低い。

これはもしや工藤新一、探偵モードだったりするんだろうか。

そうなるとまたしても大量の状況証拠を提供することになりそうだ。

とにかく、私が江戸川コナンと工藤新一が同一人物だと知っている、ということだけはバレないようにしないとな。

 

 

『この間、悪かったな。けっきょく高い買い物させちまって』

 

 

探偵モードじゃなくて謝罪モードでした。

毛利探偵の時も思ったけど、名探偵が真剣に謝るのって、なんかすごく違和感があるな。

キャラクターとしての工藤新一はすごい自信家だったから、そのイメージが私の中に定着してるからなんだろうけれど。

もちろん現実に生きている工藤新一は間違うことだってあるし、人に謝ることだってあるんだろう。

 

 

「いえ、……別に怒ってませんので、気になさらないでください」

 

 

高い買い物だったけど、私も気に入ってるし、なんだかんだ役に立ってるからさ。

結果としてはそう悪くなかったと思ってるよ。

 

 

『そうか。ならいいんだけど。 ―― で、こっからが本題なんだけど、なんでオメー、病院抜け出して米花シネマまで行ったりしたんだよ! オレ前に言ったよな、自分を大事にしろって!』

 

 

うおおおお、なんだよ、いきなり叱られてるよ私!

これはあれか? あの時コナン君に説教したから、その復讐ってヤツなのか!?

 

 

「すみませんでした」

『謝って話を終わらせようとすんじゃねえよ! で? 理由は?』

「あ、はい。……あの日、蘭さんが工藤さんと待ち合わせてるのを知ってたので。その……工藤さんに会いに行ったんです」

『……へ……?』

 

 

なんだか工藤新一が電話の向こうで黙ってしまいました。

しばらく声が聞こえなかったので、私が続きを話し出すのを待ってるんだと思って、恐る恐る声を出す。

 

 

「……今まで、お仕事をいただきましたし、直接会ってお礼を言おうかと……」

『…………』

 

「……別に、デートの邪魔をするつもりはなかったんですが……」

『…………』

 

「……今思えば、完全にお邪魔虫でした。すみません……」

 

『……そんなことねえよ。蘭とは別に、そういうんじゃねーし』

 

 

なんか、声が暗いな。

もしかして怒らせたんだろうか?

いや、今の私の話だけなら、怒らせる要素はないと思うんだが。

 

 

『とにかく周りを心配させんな。博士にもちゃんと謝っておけよ』

「あ、はい。そうします」

 

 

そういえばあれからまだ阿笠さんに会ってないや。

電話が終わったらさっそく阿笠さんに会いに行こう。

 

 

『それと』

 

 

って、まだあるのかよ!

 

 

『……オメー、園子んちの別荘の事件、解いたんだってな』

「…………」

 

 

それについてはあまり追及していただきたくないんですけど。

 

 

『黙るなよ』

「あ、……はい」

 

『経緯はコナンのヤツに聞いた。……オメー、どの時点で気づいたんだ? 高橋って奴が犯人だ、って』

 

 

さすがにこんな質問に対する回答なんて用意してなかったよ!

嘘をついたりするの、この世界に来てからけっこう得意というか、慣れてきてはいたけど。

探偵の耳を全開にして聞いてる工藤新一をどこまで騙せるかなんてのはまったく自信ないし!

 

 

「……最初に違和感を持ったのは、高橋さんが屋根の修理をしていると聞いた時です。私、少し前に行って、別荘の掃除を手伝ったんですけど。雨が降りそうだったので、管理人の方に屋根のことを聞いたんです。そうしたら、屋根は毎年点検と、必要があれば修理をしていて、傷んでいるようなことはないとのことだったので」

 

『それ、まだ事件が起きる前だよな』

 

「はい。ですから、その時点では単なる違和感です。でも、いろいろ起こっていくうちに、犯人が高橋さんだと仮定したら、すごくうまくつながってしまったので。だから、夜中に襲われたときに、包帯男の前で高橋さんの名前を出してみました。もしかしたら反応するんじゃないかと思ったんです」

『それで? 反応したのか?』

 

「よく、判りませんでした」

『……は?』

 

「私、工藤さんのように観察眼が優れてないので、正直判りませんでした。でもそのあと、コナン君がいろいろ聞き込みをしていたので、情報をつなげたら何となくつながっちゃったので」

 

 

声、震えてるんじゃないだろうか?

その場でいろいろ組み立てながら話すのとか、かなり苦手な方ではあるんだけど。

でも私も必死だからね。

江戸川コナンが知らない情報として屋根のことを話せば、今回私が事件を解いたのが単なる偶然だったと思ってもらえるんじゃないかと考えたんだ。

 

 

『直感型、とでもいうのか?』

「はい?」

 

『オメーみてえなタイプの探偵もいるんだ。最初から犯人を特定しておいて、反応を見ながら証拠を集める、みたいな』

「私、探偵じゃないんですけど」

『あそこまで推理できりゃあ立派な探偵だろ。……コナンのヤツに聞いたんだけどな、あいつの推理を引き継いだって』

 

「……工藤さんは、コナン君の才能のこと」

『……ああ、知ってる。毛利のおっちゃんの実績はぜんぶあいつのものだ』

 

 

「あの、あの時は、私は、仕方なくコナン君の推理を引き継いだだけで、……本来の私は、探偵なんて向いてなくて」

 

『ああ、そうだろうな。オメーは内気で人見知りだから、自分の推理を人に話すのなんか、今回のようなことでもなきゃ、とうていしねえだろうな』

「あ、はい」

 

『でもな、オメーがそうやって口をつぐんでることで、新しい犯罪が生まれることもあるんだよ』

 

 

工藤新一の口調と言葉にドキッとした。

そうか、工藤新一が怒ってるのは、私が犯人を判ってて、それなのに自分から推理ショーをしようとしなかったことなんだ。

工藤新一だって、犯人が罪を認めるまで、自分の推理が本当に正しいのか、ぜったいの自信なんかない。

それでも推理ショーをするのは、これ以上犯罪に巻き込まれる人をできるだけ減らすためなんだ。

 

 

『オメー、森谷教授のことはいつから疑ってたんだ?』

「……」

『黙るな』

 

「は、はい。……違和感なら、ガーデンパーティーの時です」

『はあ!? ど、どういうことだよ! ちゃんと話せ!』

 

「……あの時、私たち以外にパーティーにいた人たち、全員なにかの実績がある人でした。……同伴者が、いませんでした」

 

『……それで?』

「テレビで、東都環状線が通ってる橋が、森谷教授のギャラリーにあった写真と同じだったので。……黒川さんの家と同じく、壊したいのかな、って」

 

 

まあ、黒川邸放火のニュース自体は私は見てないんだが。

(今朝お風呂を溜めてる間に数日分の新聞を読み返してて初めて知りました)

ていうか私、なんだかどんどん自白させられてるんだけど……!

 

 

『その時点ではまだ森谷教授に恨みを持つ人間の犯行だとふつうは思うんだけどな。……で? 病院を抜け出した本当の理由は?』

 

 

……ああ、やっぱり嘘だってバレてるし。

 

 

「……蘭さんを、助けに行きました」

『なるほど。それであんな無茶をしたってことか。やっとつながったぜ。……それくらいの理由がなきゃ、オメーが阿笠博士の電話を放置してまであんなことする訳ねえからな』

 

 

うん、まあ、そうだよね、普通に考えて。

私は阿笠さんにはお世話になってるし、そんな理由でもなかったら心配かけようだなんて思わないだろう。

 

 

『それで、籏本一郎はいつから疑ってたんだ?』

 

 

おい、この調子で私が巻き込まれた事件ぜんぶ尋問する気か工藤新一!?

 

 

「一郎様は疑ってません」

『そうなのか?』

「はい。トイレで刺された時が最初の違和感でした。だからなにも」

 

『あれはさすがに違和感がありすぎたからな。疑うのはふつうか』

 

 

と、まるで見てきたことのように言う。

……まあ、見てきたんだけど。

ここで、工藤新一は少し口調を変えて。

 

 

『……なあ』

「はい」

 

『これからも、コナンのヤツのこと、助けてやってくんねえかな』

 

 

え? それはもしかして、私にこれからも眠りの小五郎をやれってことですか?

いやいや、それはさすがに無理です。

私には探偵に必要なぜったいの自信とか、目立ちたがり精神とか、そういうのが欠如してますし。

 

 

『黙るなよ。別に毎回推理しろとか言ってる訳じゃねーから。ただ、オメーが持ってる直感の違和感とか、そういうのをコナンのヤツに教えてやってくれ。それだけで、あいつはどうにでもするだろうから』

 

 

……いや、私が持ってるのは直感でもなんでもなくて、原作知識なんですけど。

あなたが言ってるのはつまり、私に犯人を名指ししろってのと同じことなんです。

 

 

「……私、正直、もう事件とかは……」

 

『ああ、そうだったな。……ワリイ、今のは忘れてくれ』

「はい」

 

『その代わり、ときどきこうしてオレと話してくれねえか? その……事件のこととか、話せるヤツって、あんまいねーんだ』

 

「……」

 

『ここで黙るのかよ』

「……すみません」

 

 

いや別に、話をするのが嫌な訳じゃないよ。

むしろ声だけだから、昔あった“リ○ちゃん電話”みたいで、あんまり現実感がない分ちょくせつ会うより緊張感が少ないし。

 

ただ ――

 

 

私は工藤新一を、現実の人間だと思いたくないんだと思う。

ずっとマンガの中の、アニメの中の、映画の中の人物だと思っていたい。

私とは違う世界に住む人で、憧れの人で、ぜったいに手が届かない人、そう思っていたい。

 

彼を、私がいる場所まで連れてくる……引きずり下ろすようなことはしたくない。

 

 

―― 彼を現実の男だと、私にも手が届くんじゃないかと、そう思ってしまうのが怖いんだ。

 

 

 

『まあいいや。勝手に電話すっから。着信拒否だけはできればしないでくれ。……傷つくから』

「……はい」

 

『じゃあな』

 

 

私の返事を待たずに、ケータイが沈黙して。

液晶表示を見たらなんと13分も工藤新一と話していた……らしい。

 

 

 

 

 

大きくため息をついたあと、改めて工藤新一との会話を思い出す。

私がこれまでの事件に関して、ある程度の推理力を働かせていたことは、バレた。

じっさいは推理力なんかじゃなくて、私が原作を知ってるが故の不自然な行動だった訳だけど、それは私の直感力なんだと勝手に解釈してくれたらしい。

それならばもしもこの先に不自然な行動があったとして、彼はきっと私の直感なんだと思ってくれることだろう。

 

 

……まあ、悪くはない、かな。

問題があるとすれば、江戸川コナンや工藤新一がこれからも私に絡んでくる確率が、飛躍的に増大したってことだけで。

 

 

いやいやそれがいちばん問題だろ自分!

うっかり流されるんじゃねえよ!

コナンの世界で事件に関わるって、つまり死亡フラグまっしぐらってことなんだから!!

 

 

まあいいや、放置だ放置!

それより阿笠さんにちゃんと謝りに行こう。

昼ごはんの片づけを最後まで終わらせて、歯磨きをしたあと、私は阿笠さんの家を訪ねた。

 

 

 

阿笠さんの家に行くと、そこには阿笠さんのほか、コナン君がいたり。

……そっか、コナン君が新一声で電話するのに一番都合がいいのって、阿笠さんの家だもんね。

なぜそこに気付かなかったんだ自分。

 

 

「いらっしゃい、愛夏君」

「こんにちわ、愛夏姉ちゃん」

「お二人とも、遅くなりましたが、先日の病院ではご心配をかけてすみませんでした」

 

 

ソファに座る前に頭を下げる。

阿笠さんに優しくお許しの言葉をいただいたあと、私はソファの空いてる場所に落ち着いた。

 

 

「愛夏君にとっては散々の連休だったようじゃのォ」

「はい。でも、悪いことばかりではなかったです。蘭さんの友人の鈴木園子さんや、お姉さんの綾子さんとも知り合えましたし」

「確か鈴木財閥のお嬢さんだったかの?」

「そうなんですか。どうりで動作やしゃべり方が洗練されていると思いました。一般庶民の私とはやっぱり一味違いますね」

 

 

コナン君、その微妙な表情はやめなさい。

園子さん、確かに性格はちょっとアレな感じだけど、よく見れば必死に庶民的な演技をしてるのが判るじゃないですか。

……よく見ないと判らないけど。

 

 

「愛夏君に友人が増えるのはワシも大歓迎じゃ。仕事を探すのも大切かもしれんが、友人との時間も大切にしなさい」

「はい、ありがとうございます」

 

「大丈夫だよ博士。愛夏姉ちゃん、今日蘭姉ちゃんと園子姉ちゃんと一緒にカラオケに行くんだ。ぼくも一緒だよ」

「ほう、それは楽しみじゃな。わしもぜひ愛夏君の歌を聞いてみたいもんじゃ」

「うん、ぼくすごく楽しみにしてるの。愛夏姉ちゃん、ぼくと一緒に歌おうね」

「あ、はい、ぜひ」

 

 

ええっと、コナン君の歌って、確かものすごく斬新な音づかいで有名だったはずで。

(しかも何気に絶対音感の持ち主だとかいう設定があったりなかったり)

 

ていうか、私この一か月で気づいたんだけど、この世界に私が知ってる歌ってないような気がするんだ。

この間行ったテレビ局でも、歌ってた歌手もその歌もぜんぜん判らなかったし。

たぶん、七つの子が作中に出てるから、有名どころの唱歌ならあると思うけどさ。

その中にカラオケで歌えるような曲が入ってることに期待しよう。

 

 

歌うことはね、嫌いじゃないんだ。

カラオケボックスなんてものが巷にでき始めたのが、確か私が高校生くらいの頃で。

その前は自宅でカラオケセット(高級品)か飲み屋で歌うのがほとんどだった時代。

学生はみんな、お気に入りのレコードかカセットテープをかけながら、流行の歌を歌手と一緒に歌っていた。

 

 

そんな時代を過ごしていたから、カラオケボックスってほんと、画期的だったんだ。

まだまだお小遣いで通えるような値段じゃないし、今みたいに曲数も多くないから、歌いたい歌がなくて泣くことも多かったんだけど。

でも入ってる曲はみんなが知ってる流行歌だったから、判らない歌なんてものもあまりなくて、一体感みたいなものは昔の方がずっとあったように思う。

年にほんの数回、特別な時に集まって歌うのが、すごく楽しい時代だったんだ。

 

 

まあ、これも想い出補正ってヤツなんだと思うけどね。

今の若者は若者なりに、たくさんある曲を自由に選んで、友達が歌う知らない歌を楽しむなんてこともできたりするんだろう。

 

 

「愛夏姉ちゃんはどんな歌が好きなの?」

「私はあまり流行歌が判らないので、学校で習うような歌がいいです」

「じゃあぼくが選んでもいい?」

「はい、お願いします」

 

「愛夏君も、すっかりコナン君に打ち解けたようじゃのォ。いいことじゃ、うんうん」

 

 

感慨深げな阿笠さんの言葉に、私はちょっとばかり照れてしまう。

まあ、私も最初の頃は、こんなに話せるようになるとは思わなかったよ。

たぶん、コナン君が秘密の一部を打ち明けてくれたことで、お互いに変な緊張が減ったことがあるんだと思う。

名探偵も今日は以前の探るような視線を向けてくるようなことはなかったし。

 

 

 

阿笠さんとコナン君と談笑して、時間を見計らって私は家へと戻ってきた。

待ち合わせまでの時間はまだあるけど、事件のことをぜんぜん考えてなかったからね。

今回の事件、被害者はもちろん気の毒なんだけど、加害者も事件後に真実を知ってものすごく後悔していた。

だから誰にとっても悲しい事件で、できれば未然に防いだあと、誤解も解いてしまいたいと思うんだ。

 

 

でも、どうしたら誤解は解けるんだろう。

あの、被害者が持ってた写真、裏側に書いてあった新曲を加害者に見せることができれば、誤解はたぶん解けると思うんだけど。

あの写真、確か被害者のロッカーから見つかるもので、事件現場にあったものじゃないんだよな。

だとしたら、事件前に被害者に歌を披露してもらうくらいしかないんだけど……。

 

 

新曲の話は確か本人からされたはずだから、その時に新曲が聴きたいとかねだってみるか?

……この年になって、16歳の女の子っぽく男におねだりするとか……!

コナン君の苦悩と葛藤の日々が今本当に判ったような気がする。

 

 

 

考えているうちにそろそろ支度をする時間が近づいてきて。

気持ちを切り替えて、私は一度台所の湯沸かし器のお湯で髪のムースを落とした。

 

 

最初にあの服を着た時、髪は美容院でセットしてもらったストレートっぽいボブだった。

次の時はうしろで縛ってバレッタをつけた。

だから今回は、もともとの髪の癖を活かした感じにしようと思ったんだ。

私は濡らした髪の水気を取って、少しだけドライヤーを当てたあと、髪全体にムースをなじませて毛先を握ってくるくる丸まるように固めてみた。

 

 

……うん、いいんじゃないか?

若返ってから癖が少なくなってたから、落ちかけのパーマみたいでアレだけど、それなりに雰囲気は出てる気がする。

前髪は内巻きにして、眉毛が出るくらいの長さにしたら、いつものイメージとはだいぶ変わってくれたんじゃないかと思う。

 

 

かばんはいつもの大きいのだけど(たぶん家の中を探せば何か出てくるとは思うけど)、まあそこはご愛敬ってことで。

一張羅にサンダルで待ち合わせの毛利探偵事務所へ行くと、蘭さんが笑顔で迎えてくれた。

 

 

「わあ、愛夏ちゃん今日は髪下ろしてるんだ! パーマかけたの?」

「ううん、私もともとくせっ毛だから。ストレートの蘭さんがうらやましいよ」

「そうなの? 私はこういうのが手軽にできるならくせっ毛もいいと思うけど」

「まあ、隣の芝生だね。蘭さんは今日もかわいい」

 

「ありがと。……コナン君、愛夏ちゃんこういうのも似合うよね」

「……うん。愛夏姉ちゃん、見るたんびにきれいになるね」

「……ありがとう」

 

 

なんか前回と似たような反応だ。

もしかしたら工藤家では、女性をほめるよう教育でもしてたりするんだろうか。

(まあ、あの工藤有希子さんならそれもありそうな気がする)

 

園子さんが来るのを待って、毛利探偵はいなかったので事務所を留守番電話へと切り替えたあと、私たち4人は駅前のカラオケボックスへと向かった。

 

 

「いよいよ達也に会えるのね! 私なに話そうかしら!?」

「楽しみよねー! ねえ、もしかしたら一緒に歌ったりできるかな!?」

「だったらやっぱりヒット作の“血まみれの女神(ブラッディビーナス)”よね! でも振り付けも間近で見たいし。ねえどうしよう蘭!?」

 

 

前で盛り上がっている二人のうしろを、コナン君と並んでついていく。

……やっぱり事件は起こしたくないよな。

でも、確かこの被害者、けっこう最初から機嫌が悪くて、周りに当たり散らしてるんだよね。

だからたとえ蘭さんたちが頼んでも、新曲歌ってくれるかどうか微妙なところかも。

 

 

「私はどちらかというと、新曲の方が聴きたいかな」

 

 

うしろから二人の会話に口をはさんでみた。

 

 

「え? 愛夏ちゃん、新曲って?」

「判らないけど、そろそろ用意されててもおかしくないかな、って」

「うん、どうなんだろ。でももしできてるなら聴きたいよね。ちょっと訊いてみる?」

「そうね。それで歌ってもらえたら、私たちがいちばん早く聞かせてもらったファンになるってことだもの! いいわ、愛夏のそれ採用!」

 

 

とりあえず種だけは撒いておく。

これで新曲の話が出れば、二人は歌ってほしいとねだるはずだ。

かわいい女の子が二人でおねだりしたら、きっと彼も無下にはできないだろう。

 

 

 

受付で園子さんが名前を言うと、すでに話は通っていたようで。

案内された部屋に入るとレックスのメンバーはすでに来ていたようだった。

 

 

「あ、遅れてすみません! 私、鈴木園子といいます! 今日はよろしくお願いします!」

 

「大丈夫よ、遅れてないから。私はマネージャーの寺原真理。ヴォーカルの木村達也は知ってるわよね。あとドラムが山田克己で、ギターの芝崎美江子よ。今日はよろしくね」

「はい!」

 

 

こちらも自己紹介をして、空いている席に座らせてもらう。

私とコナン君は隣同士だ。

 

まずは飲み物を頼んで、メンバーたちはビールで乾杯。

もちろん未成年の私達はジュースだ。

 

 

「サイコーだったね今日のライブ!! 客のノリもよかったし!!」

「ああ、みんな達也のヴォーカルのおかげだよ!!」

「サイコーね ―― ああっ! 思い出した! あの時の客だ、ミュージックタウンの時の!!」

 

 

そう言ってとつぜん木村達也が私を指さしたんだ!

 

 

「なんだよ達也とつぜん」

「あんときも言っただろ!? ひな壇のいちばん上の客が、ノリはワリィし拍手もおざなり。な、ぜ、か、オレたちの時だけぼーっと見てたって!」

「ああ、確かそんなこと言ってたな……」

 

「え? 愛夏ちゃんが?」

「そのお客だったって言うんですか?」

「それ、人違いじゃ……」

 

 

あー、すみません蘭さん、たぶんそれ人違いじゃないです。

にしても木村達也、よくあんな暗いところで私の顔なんか覚えてたな。

 

 

「覚えててくださったんですね。感激です」

「なにが感激だよ!! てめえ、オレのファンなんかじゃねえだろ!」

「ファンですよ。私、好きな人が前にいると固まる質なんです。困った性格ですみません」

「……ぜってー違う」

 

 

それで興味を失ったようで、木村達也は元の席に戻っていった。

……あーびっくりした。

男の人に怒鳴られるとか、もともと超苦手だからな。

でも自動装着の45歳仮面が発動してくれたので、なんとか最小限の騒ぎで収まってくれて助かったよ。

 

 

しかし、この分だと私のおねだりは聞いてもらえそうにないな。

(いや、もともとおねだりとか無理だけど)

蘭さんと園子さんの二人に期待しよう。

 

 

「愛夏姉ちゃん、ミュージックタウンって、歌番組だよね。観に行ったの?」

「あ、はい。ヨーさんが招待してくれたんです」

「そこで、このお兄さんが歌ってるところを観たの?」

「はい、そうです。でもまさか、ノリが悪い客だから覚えられてるとは思いませんでしたけど」

 

 

コナン君と話していると、マネージャーさんに話しかけられた蘭さんと園子さんは、さっそく木村達也に質問していた。

私も聞こえたからそちらに注目する。

 

 

「あの、達也さん、次の新曲はもう決まってるんですか?」

「あ? ああ、まあな」

「もし、よかったらなんですけど、私たちにも聞かせてもらえませんか?」

 

「あー、それはちょっと無理かな。いろいろ版権とかあるみてえだし」

「そうですか。すっごく残念です! でもCD出たらぜったい買いますから!!」

「ああ! よろしくな!」

 

 

うーん、おねだり作戦失敗、か。

早くもピンチだ。

 

 

「愛夏姉ちゃん、ぼくたちも選ぼう?」

「あ、はい、そうですね」

 

 

コナン君が広げてくれた本を覗き込む。

そこはどうやら子供向けの歌が集まってるページのようで……!

―― 見つけてしまったのだ!!

私の永遠の恋人、ド○えもんの歌を!!

 

 

「あ、あの、コナン君。すみませんけど、先に1曲入れてもいいですか?」

「うん、いいよ」

「ありがとうございます!」

 

 

すごい、映画の挿入歌まですべて網羅されてる!!

このラインナップならこの曲で決まりだな。

でもなんで私忘れてたんだろ。

このカラオケボックス殺人事件で、いやがらせに見せかけた発奮材料としてド○えもんの曲が流されたことは知ってたはずなのに。

 

 

その時、蘭さんたちが私の判らない曲でデュエットを始めて。

二人の歌声はなかなかのもので、さすがカラオケ慣れしてる世代といった感じだった。

その曲が終わったあと、すぐに流れ始めたのがドラ○もんのオープニング曲。

私は思わずその場で立ち上がってしまった。

 

 

「あれ? 次愛夏ちゃん?」

「ドラ○もん歌うの? あんた」

「あ、えっと、私が入れたんじゃないんですけど、歌ってもいいですか? たぶん違う曲のつもりで間違えたんじゃないかと」

 

「いいんじゃない? 誰も歌わないみたいだし」

 

 

たぶん私にタイミングを外されたんだろう、木村達也は何も言わなかったから。

私は思いっきり、ドラえ○んのオープニングを歌い始めた。

 

 

私は昔からドラえ○んが好きだったんだけど、たぶん子供の頃よりも、大人になってからの方がより好きだったと思う。

確か高校卒業してまだ間がない頃だったと思うんだけど、当時ちょうどレンタルビデオ店があちこちにでき始めてた頃で、職場の先輩にお下がりでもらったビデオデッキでド○えもんの映画を観まくったことがあったんだよね。

その時、その頃だったからなんだと思う。

子供の頃には判らなかった、ド○えもんの物語の深さ、伏線の見事さなんかに感動して、毎年のように映画を観に行くようになったんだ。

 

 

最後に観たのは去年の春で、その時はたまたま職場のなんとかフェアでサクラが必要になって。

午前中に母を連れてサクラをしたあと、午後から一緒に映画を観たんだ。

でも、母は映画の間中、ほとんど眠っていて。

私は怒って、そのあとは帰りの車の中でも、ずっと言い合いばかりになっちゃったんだ。

 

 

映画を観たのはあれが最後で、けっきょく、あれが母と観た最後の映画になった。

 

 

……あれ? なんか、声が詰まってうまく歌えない。

涙が出て画面がよく見えない。

……なんで私、ドラ○もんを歌いながら泣いてるんだろう……?

 

 

「愛夏ちゃん!」

「愛夏姉ちゃん、どうしたの?」

 

 

私はマイクを置いて、木村達也のそばにあったリモコンの演奏解除ボタンを押して、コナン君の隣のソファに戻った。

 

 

「愛夏姉ちゃん?」

「……すみません。ちょっと、思い出しちゃって」

 

 

カラオケが次の曲を流し始める。

って、これ、さっき私が入れた曲じゃん!

なんで私、よりによって武○鉄矢の少○期なんて入れたんだよ!!

こんな曲、よけいに涙を誘われるだけなんだけど!?

 

 

「う……っ!」

「愛夏姉ちゃん!」

「すみません。……母と観た最後の映画が、ドラ○もんで……」

「愛夏ちゃん……」

 

「お母さん、映画の間寝ちゃって。……私、素直じゃないから、ものすごく怒って……。お母さん、午前中に仕事で行ったフェアで、疲れてたのに」

 

 

なんでこんなに感情が高ぶってるんだ?

……ああ、判った、生理が近いんだ。

それにしても若い頃の生理って、ここまで強力だったのかよ!

 

 

「お母さん、私に文句ばっかり言って。でも、ずっと私のこと、心配しててくれて」

「……愛夏ちゃん……」

 

「……なんでいないんだろう。……私、もっとずっとケンカしてたかった。これからもずっと、たくさんケンカしたかったよ……!」

 

 

BGMで少○期が流れている間、私はずっと泣き続けていて。

蘭さんが他の人に「彼女、去年ご両親を相次いで亡くされて」なんて説明しているのを遠くに聞いていた。

ていうか、だれかこのBGMを止めてくれよ!

木村さん、目の前にリモコンあるんだから、この辛気臭い空気をなんとかしてほしいんですけど!!

 

 

ようやく少○期の演奏が終わって。

静まり返った室内に、やがて軽快な音楽と鈴の音が流れ始めた。

ああ、これ、赤鼻のトナカイだ。

たぶん木村達也が入れたヤツだろう。

 

 

でも木村さんは、すぐにその曲の演奏を解除してしまった。

 

 

「ワリイ、ちょっと、オレに先に歌わせてくれねえかな」

 

 

空気を変えたかったのだろう、真っ先に園子さんが明るい声で賛同する。

 

 

「はい、もちろんです! ぜひ聴かせてください!」

「サンキュー。……伴奏ねえから、アカペラでワリイけど。とりあえず入ってる曲ぜんぶ消すな」

 

 

そうして木村さんは何曲かのイントロをすべて演奏解除していって。

静かになったところで、マイクを持ってステージに立った。

 

 

「さっき、リクエストされたときは、歌わねえって言ったけど。……今じゃなきゃいけねえ気がするから歌うな。 ―― 新曲『素顔の君に伝えたい』 ―― 聴いてくれ!」

 

 

始まったのは、しっとりとしたバラードで。

私にはごくふつうの愛の歌のように聞こえた。

 

でもたぶん、たった一人だけ、あの人には違うものが伝わったんじゃないかと思う。

歌詞の中に散らばる小さなエピソードは、過去の二人が積み重ねてきた想い出が、宝石のように輝いていたんじゃないかと思う。

 

 

歌い終えた木村さんの前には、いつしかマネージャーの寺原さんが立っていた。

目に涙をあふれさせながら。

 

 

「……達也……」

「……オレが素直じゃねえのは、知ってるだろ?」

「……」

 

「てめえには、オレが外見しか見ねえような男に見えたのかよ」

 

 

泣きながら寺原さんが首を振る。

そんな寺原さんを、木村さんが優しく抱き寄せた。

 

 

「待ってるのも、悪くはねえんだけどさ。考えてみたら、人間、明日なにがあるか判らねえもんな。……あのノリの悪い姉ちゃんに教えられたわ」

 

「……達也」

 

 

寺原さんは、木村さんの上着をぎゅっと握ったあと。

なにかを決心したように、顔を上げて言った。

 

 

「達也、臭い!」

「……はあ!?」

「これからトーク番組の収録だって言ったでしょう!? そんな臭い身体で行かせる訳にはいかないわ! 時間までにシャワー借りて浴びるわよ!」

「え? ちょっ、なんだよ急に! いまそういう雰囲気じゃ ―― 」

 

「いいから来なさい!」

 

 

文句を言いながらマネージャーさんに引きずられていく木村さんを、私たちは茫然と見送っていた。

 

 

……あの、もしかして、フラグ、折れた……?

 

 

「えーっと、つまり達也が好きなのは、あのマネージャーだった、ってこと?」

「そしてマネージャーさんも、達也さんのことが好きで」

「両想い、ってことは」

「私たちの達也があの人のものになっちゃったってことよ!」

 

 

蘭さんと園子さんが手を取り合って嘆いているのを尻目に。

静かに泣いている芝崎美江子さんを、山田克己さんが肩に手を置いて慰めていた。

 

 

……本当に、フラグは折れたんだ。

シャワーに行ったのはたぶん、木村さんの衣服に付いた青酸カリを落とすためだろうし。

心が通じ合った今、彼女が彼を殺そうとするようなことは二度とないだろう。

 

 

「愛夏姉ちゃん?」

「はい?」

「どうしたの? なんだかすごくうれしそうだよ」

「うれしいですよ。だって、あの二人、心が通じ合ったんですから」

 

 

まあ、その陰で悲しい思いをした人がいなかった訳じゃないけど。

それはもうどうしようもないめぐりあわせというか運命というやつだし。

諦めて新しい恋を見つけてくださいと言うしかありません。

 

 

「ねえ、せっかくだから歌おう」

「そうですね。コナン君、選んでくれました?」

「うん。ぼく入れるね」

 

 

そうしてコナン君と初めてのデュエットとしゃれこんだんですが……。

 

 

コナン君の歌声は、思ってた以上に破壊的で壊滅的だったということは付け加えておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

被害者の命を救った、細くて困難な一本の道。

掴んだ今でも、私にはまだちゃんと判っていなかったけれど。

 

 

でも、この小さな一歩は、私にとってはけっして忘れられない、大きな一歩になった。

 

 

 


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