水面に映る月   作:金づち水兵

77 / 102
先週はご迷惑をおかけし、大変申し訳ありませんでした。既にすっかり体調も回復したため、先々週までと同様に投稿を行いたいと思います。

では、二週間ぶりとなりますが、どうぞ!


75話 忍び寄る影

横須賀鎮守府 工廠

 

 

 

西の空が色づき始めたものの、まだまだ太陽の強い影響圏下にある時間帯。時計の針が時を刻むごとに、迫ってくる課業終了の刻限。どう考えてもそれまでに終わりそうにない仕事を抱えている将兵たちは階級に関わらず、工場内で、道路上で、工作機械の前で、事務所の中で追い込みにかかっていた。

 

道路を疾走するトラックを横目で見ながらやってきた艤装工場。ここも他の区画に類を見ず、多忙を極めていた。

 

「あの・・・・すみませ~~~~ん! 先ほど連絡させていただいたみずづきですけど!」

 

開け放たれている巨大な鉄扉の隅から顔を覗かせ、声を張り上げる。視線の先には汗と油にまみれた将兵と妖精たちが徒競走でもしているのかとツッコミたくなるほど真剣な表情で走り回っていた。

 

「・・・・・・・・・・・」

「おい! 馬鹿野郎!! この報告書を総務に上げたやつはどこだ!? 数字がはなから違うぞ!」

「作業の進行状況は?」

「あと30分だそうです! 先日発生した鋼の湾曲も既に解決済みであります!」

「よし! お前の班は作業完結後、妖精たちは開発へ回してくれ。どうにも芳しくないようでな」

「おい! こら!! お前らどこにトラック置いてる! ここは道路だ! 道路!!!」

「うるせぇんだよ! 工廠長がいないからって調子に乗りやがって! お前らだって俺らの通り道に資材山積みにしてただろうが!!」

「いつの話を蒸し返すんだ!? 腐った女みたいに!」

 

みずづきの声はミサイル並みに大気中を飛翔し、着弾する怒号によって上昇中にあえなく迎撃されていた。

 

「全然聞こえてない・・・・・・。ん?」

 

「走るな! 危険! 漆原」と隅で書かれた張り紙があちこちに張ってある。もちろん、誰も一切順守していない。それほど忙しいのだろう。次期作戦の足音が日を追うごとに大きくなっている今日この頃。工廠も足音にせかされている代表的部署だった。しかし、これではこちらの存在に課業終了まで気付いてもらえないだろう。

 

大きく息を吸い込む、最大限肺に空気を貯蔵。そして、腹に力を入れ、横隔膜のさらなる収縮を誘発し、声帯を一気に臨界点へ昇華させる。

 

「すみませーーーーーーーーーん!!! みずづきですけどーーーーーーーーーー!!!!! ・・・・ゴホッ! げっほご!! ごほ・・ゴホッ!!」

 

生体器官に無理を強いた反動が、声を出し切った後に押し寄せてきた。喉に発生した違和感を体が条件反射的に解決しようと試みる。結果、咳が優先され声を出すまで少し時間がかかった。

 

「ゴホッ! ・・・・ん! はぁ~~。どう・・・これでさすがに気付いてもらえ・・・」

 

 

「これから残務処理かよ! 畜生!!!」

「黒髪ちゃんちょっと!!! は? 黒髪ちゃんは!」

「黒髪なら開発の方へ行ってますけど、どうされました曹長?」

「この子がこれの比率を知りたいそうだ」

「こりゃ・・・・・。我々では手に負えませんね・・・・」

「だろ?」

「だいだい、お前んところが一昨年に総務と財務に手を回して、仕様計画書をおしゃかにしたんだろうが!!!」

「だから、過去の話を蒸し返すな!」

「俺は事例を出して反論しているだけだ!! また、退廃的とか言って煙に巻く気だろうが!!」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・。マジ?」

 

思わず、天を仰ぐ。わずかなきらめきを得た儚い希望は目の前の戦場を前に、なすすべもなく打ち砕かれた。

(どうしよう・・・・・・・・)

これ以上、大きな声を出せば、確実に何か大事なものを失う。かといって勝手に工場内に入れば、殺気だっている将兵たちを見るとお説教は確定。

(ここに置いていこうかな・・。いやいや、連絡して伺いますって言っちゃったから顔出さないとまずいし・・・)

右手に握っている中身の膨れた2つの紙袋を持ち上げる。買った者の1人として贈り主が喜ぶ顔を見たい。

 

「あれ? みずづきさんじゃないですか? こんなところでどうしたんですか?」

 

飛び交っている怒号とは次元が異なるその声に現状打破の気配を察知し、首の筋肉が悲鳴すらあげられないほどの速さで声が聞こえた方向を向く。

 

「うわぁ! はやっ!! って、本当にどうされたんですか? 汗、びしょびしょですよ!」

 

声をかけてくれた女性はいつも来ている白衣をはためかせながら、わたわたという擬音がぴったりな動きで様々な視点から心配そうにこちらを覗う。

 

「椿さん・・・・・。良かった・・・良かった・・」

「ん? みずづきさん? あの・・・・大丈夫ですか?」

 

みずづきの様子にただならぬ気配を感じた椿澄子海軍中尉はますます眉を下げるのであった。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

「コーヒーと紅茶、どっちにしますか?」

「ではコーヒーで」

「分かりました」

 

艤装工場の2階にある応接室。7畳ほどの空間に座卓とソファーが一組と小さなテーブルが一つ。椿が張り付いているそこには各種インスタント飲料と給湯室から取って来たやかんが置かれている。壁には表彰状や工廠の過去を映したものと思われる白黒写真が飾られている。百石がいる執務室、ましてや軍令部の応接室とは比較にならないが、油の匂いが充満し、一日で出たゴミがあちこちにまとめられている1階からは想像できない清潔さが保たれている。

 

「すみません。お忙しいところ、お手間を取らせてしまって・・・」

「いえいえ、大丈夫ですよ。私もちょうど一服つきたいと思っていたところですから」

 

やかんのお湯をコップに注ぎながら、肩越しに椿は笑顔を見せてくれる。煙たく思っている様子はなかった。

 

「はい、どうぞ。お待せしました」

「ありがとうございます・・・」

 

椿から熱々のコーヒーが入ったカップを受け取る。椿が席に着き、コーヒーを口に含んだことを確認し、口をつける。口内にコーヒー特有の香ばしい苦みが広がった。

 

「ふふふ・・・・お気に召したようでなによりです。それで今日はどのようなご用件で」

「あ・・・・えっとですね・・・漆原工廠長は?」

「リーダーは航空基地の方に出向いています。なんでも急な打ち合わせが入ったとのことで」

「そうですか」

 

椿が両手でカップを持ちつつ答える。事前に工廠へは連絡を、正確には漆原へ伺う旨を伝えていたのだが留守の可能性も告げられていた。その際は工廠関係者に渡しておいてくれと言われていたため、椿に渡しても問題はないだろう。

 

「実はですね・・・・・・・」

 

足元に置いた紙袋から中身を取り出し、椿の前に差し出す。椿は興味津々の様子で差し出された箱を凝視する。

 

「これは・・・・?」

「これは先日、東京で出向いた際に買ってきたものです。工場の皆さんには日ごろからお世話になっているので、せめてものお礼として」

「え!?」

「粗品ですがお納めください」

「え・・・・そんな」

 

苦笑気味に胸の前で手を振る椿を無視して、2つの紙袋に入っていたお土産の箱を座卓の上に並べていく。彼女の動揺は箱を並べるごとに大きくなっていった。

 

「こんなにたくさん・・・・・・」

「すみません。あらかじめ艤装工場と開発工場の将兵さんたちに合わせて用意したんですが、もしかしたら数が・・・」

「いえいえ、そこまで心配して頂かなくても十分です! みなさん、きっとお喜びになると思いますよ」

 

椿は満面の笑みを咲かせる。

 

「みなさん、艦娘さんたちのお土産と言ったら飛び跳ねますよ。私も和菓子は大好きなので嬉しいです!」

「それは良かったです」

 

反応は上々だ。立ち寄った和菓子屋でおススメされた白あんの饅頭を買ったのだが、選択は間違っていなかったようだ。緊張の糸が切れて、安堵のため息が漏れる。

 

「ふふふ・・・・・」

「ん? どうしたんですか?」

 

いきなり上品にも口元に手を置いて笑い出した椿。その理由が全く分からなかった。

 

「いえ、こういう作法というか仕草は日本も全然変わらないな、と思いまして」

「ああ~~~~」

 

彼女が笑い出した理由に納得する。土産物を渡す作法も国によって、また地域ごとに様々だ。

 

「また1つ、並行世界のことを知ることができました。みずづきさんからお土産を受け取れて良かったです!」

 

嬉しそうにガッツポーズを決める椿。白衣のかわりにスポーツウェアを着ていたならば、スポーツ選手に見える仕草だ。

(本当に日本のことを知りたいんだろうな~~)

 

椿とはこれまで何度もこのように話してきたが、彼女は新しい知識を得るたびに子供のように喜んでいる。日本が絡む話はいつも興味津々。例えば現在のように夕張が好む武器関連以外の話でも彼女は常に耳を立てている。最初は強襲されたこともあり警戒心を抱いていたが、彼女はそうそう肉食獣に変貌することもない普通の女性士官。今では警戒心はすっかり薄れ、気軽に話ができるまでになっていた。

(私ももう少し人を見る目を養わなきゃね。・・・・・って)

心の中で微笑みながら何気なしに椿の胸元を見た瞬間、目が釘付けとなる。その変化に築いた椿は首をかしげながら問いかけてきた。

 

「どうしたんですか? みずづきさん。胸にゴミでも・・・・・」

「あ!? えっと、その・・・・・・」

 

自身がしていた行動の意味に気付き、慌てて視線を逸らす。おそらく耳は真っ赤に染まっているだろう。もしこれと同じことを陽炎や黒潮にした場合「なに?」と理不尽な世界に対する怒りを受けることは確実。瑞鶴なら、下手をすると爆撃を受けかねない。

 

だが、椿はみずづきが耳を赤くしている理由が分からないようで、首をしきりにひねっている。彼女の天然ぶりには感謝だ。邪念を振り払い、胸を凝視した本当の理由を復活させる。

 

「いえ、その・・・・椿さんのお名前・・」

「ああ。これですか?」

 

合点がいったと言わんばかりに、首から下げられ胸の膨らみで若干浮いている名札。日本では一般的な写真やバーコードの類が付与されたネームプレートより遥かに簡素だったが、名札としての役割は十分に果たしている。

 

そこには椿の名前が、漢字で書かれていた。

 

「お名前は知っていましたが、澄子(すみこ)ってこう書くんですね・・・・・・」

「はい。この名前は気に入っているんですが、この澄って字は同時にきよいとも読みますから、時々きよこって間違えられるんですよね」

 

「澄」を「きよい」と読む。日本人の中には知らない人間もそれなりにいるだろうがそれはみずづきにとって、幼い頃、まだ学校で「澄」を習う前から知っていた自身の常識だ。

 

なぜなら、「澄」と言う字は・・・・・・・・。

 

「みずづきさん? 私の名前、日本じゃ珍しいんですかね?」

 

椿はみずづきが自分の名前に注目した理由をそう解釈した。当然、その問いにみずづきは首を横に振る。

 

「いえ、私の身近な人にも“澄”と言う字が含まれている人はいましたよ」

「そうですか・・・・。なんだか、嬉しいです!」

 

嬉しさを目一杯たたえた、見ている者さえ笑顔にしてしまうほどの眩しい笑顔。よほどうれしいのか、みずづきの神妙な声色に彼女は気付いていないようだ。

 

自分と同じ字を名前に使っていることを知ったためか、この時ばかりは笑顔を爆発させている彼女が全くの他人とは思えなかった。

 

 

 

 

 

 

道路や歩行者の足元を優しく照らす街灯。鎮守府全体がまどろみに沈み始める時間帯にもかかわらず、電力を消費し続けている建物内から漏出した弱々しい光。

 

月と星々を隠しつくした雲によって、灯たちの勢力圏外は一寸先も分からない黒の世界となり果てていた。

 

「話し込んでたらこんな時間になっちゃった・・・・。ごめんね、忙しいのに長々と突き合わせちゃって・・・・・」

「いえいえ、とんでもないです!!」

「あんた、もう少し堂々としなさいよ! 悪くもないのに謝る必要なんてないのよ、本来は。まったく、あんたたちは・・・・・。鬼神っていう二つ名が聞いてあきれるわ」

「やめて! 恥ずかしいから! 二つ名とか言わないで!!!」

 

みずづきの常軌を逸した反応に、茶髪の妖精といい黒髪の妖精といい、見送りに立ち会ってくれた妖精たちが爆笑の渦を巻き起こす。朝から今まで工廠内で職務に従事していたにもかかわらず、まだまだ元気と体力は有り余っているようだ。瞳は今起きたばかりというように神々しい輝きを放っている。何度もあくびをかみ殺してきた自分とは対照的である。

 

「もう! 私の名前はみずづきだからね! 二つ名とかない、みずづき! それじゃあ! お休み! 漆原工廠長にもよろしくね」

「分かったわ。長であるこの私に任せない!」

「おやすみなさい、みずづきさん!」

 

足元で手を振ってくる妖精たちと遠くで作業しながら軽い会釈をしてくる将兵たちに見送られて、みずづきは艤装工場を後にする。すっかり夜も深くなり、来るときはまだまだ太陽の支配下にあった世界もすっかり闇に沈み、怒号や罵声が飛び交っていた工廠は眠り支度を始めていた。昼間は汗や油でまみれた将兵たちや素人目には理解不能の機械や部品を積んだトラックが縦横無尽に駆け回っていた道路も静まり返っている。建物には明かりが灯り、人の気配が完全に途絶えた訳ではなかったがここには自分1人しかいないようだった。

 

時刻は21時半すぎ、あと1時間半もすれば消灯という時間では当然の光景だった。

 

点々と孤独に設置されている街灯の明かりに沿って、艦娘寮へ歩いて行く。その足取りは周囲の雰囲気、そして体を覆い尽くす倦怠感に対して軽やかだった。

 

「すっかり遅くなっちゃった。報告書は明日かな・・・。でも、久しぶりに椿さんや妖精たちと話せたし、いいか」

 

今日みずづきは第一機動艦隊と共に日が昇る前から起床・出港し、夜明け前及び夜明け直後の天候条件を想定した訓練を行っていた。さすがに時間帯が時間帯なだけに盛大な騒音を発生させる実弾や演習弾を用いた訓練ではなかったものの、艦隊運動・敵情の伝達、赤城・翔鶴航空隊の発着艦訓練を行っていた。

 

いつもなら睡魔で刺激された脳内から愚痴の1つや2つが沸き上がってくるものだが、課業開始が早かった分、課業終了が繰り上げられ、比較的早い時間に工廠を訪れることができた。その結果、椿からお土産の送り主としてこれ以上ない反応を見ることができた。彼女はあの後残務処理のために退出したが、入れ替わりでやって来た漆原、そして妖精たちと久しぶりに話し込むことも実現した。忙しすぎて関わりを持つ人たちが固定化されていた身としては嬉しい限りである。

 

「早起きは三文の得、か・・・・。初めてことわざの意味を理解したかも」

 

今日は早起きによって三文以上の、貨幣では換算できないほどの得をした。

 

「毎日は勘弁だけど、たまには早起きするのも・・・・いいかな?」

 

今朝、自身が抱いていた気持ちとは対照的な感慨に苦笑を浮かべる。その時だった。

 

「・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・!」

 

眠りにつきかけていた軍人の五感が、おぞましい意志を宿した“何か”を捉えた。それは幻でも妄想でもなく、確実に自身の後方に存在していた。建物の影に隠れ、こちらをじっと観察している。意識を背中に張り付け、視線は前方へ向いたまま今まで通りの歩みで、足を進める。

 

「・・・・・・・・・」

 

何かは、後を付けてきた。こちらと同じ歩行速度で、音をほとんど発さず、まるで事前にシミュレーションをしていたかのように街灯を回避し、徹底的に闇と同化している。警戒心を叩き込まれていない一般人なら帰宅するなり、交通機関を利用するなり最後まで気付かないだろう。先ほどまで抱いていた高揚感は本能が鳴らす警報音で完全に消滅していた。

(手慣れてる・・・・・・。素人じゃない。しかも、この気配は・・・・・)

みずづきは“何か”が発する微細な気配に心当たりがあった。

 

星空の下、赤城たちと次期作戦について話し合った時。建物の隅からこちらの様子を覗っていた翔鶴と瑞鶴に紛れる形で存在していた別種の気配。翔鶴と瑞鶴が姿を現したと同時に消えてしまったため、この瞬間まで気のせいだと思い記憶の奥底に封印されていた。

 

みずづきは特殊護衛艦。一通りの近接格闘訓練を受け、祖国と所属する組織の裏側に放り込まれたといっても、影の住人ではない。危機察知能力は彼らに遠く及ばないが、この気配は確かにあの時感じたものだった。

 

二度も木陰からこそこそとこちらを観察する“何か”。なんらかの目的があると見て間違いないだろう。そこで相手の出方を覗うためとあるアクションを行った。不意に立ち止まると何気なしに左側にあった建物に目を向ける。“何か”は道路の左端に沿って進んできていたため、こうすれば視野に入るはずだった。

(・・・・・・やっぱり、プロだ)

“何か”はこちらの行動を予見したかのように、立ち止まった瞬間、ここから絶対に見えない乗用車の影に身を潜めていた。そして、歩き出すと再び全く同じ歩行速度でついてくる。

(・・っ)

それを確認すると一気に汗が噴き出した。いつもより粘着度が増した汗によって衣服と肌が密着し、熱の放出を阻害する。不快でたまらない。相手ほどの手練れなら、こちらが相手の存在を気付いていると看破している可能性は極めて高い。にもかかわらず反撃や逃走、或いは警備隊などに通報される危険性を冒しても、何かは後をつけていた。

 

“危害を加えられるかもしれない”

 

直感がそう訴えていた。相手の目的は不明。しかし、何かが強い意思を持っていることは確かだった。

 

艦娘寮は既に視界に入っていた。駆け出したくなる本能を、訓練された理性が弾圧する。ここで明らかに気付いていると声高に叫ぶ行為は危険すぎた。

 

呼吸が高まる心拍数に連動しないよう死に物狂いで、平静を演出する。永遠にも感じるほど長い時間を経て、とうとう、艦娘寮が面している道との交差点にやってきた。ここを右に曲がれば、ゴールは目の前である。

(さぁ・・・・どう出てくる・・)

ここを超えれば、一気に街灯が増えてくる。いくらプロとはいえ、相手に気付かれないよう闇に紛れるのは至難の業だ。気付かれたことを察知し、仕掛けるつもりならば今しかない。こちらが動かなくとも、相手が動く可能性は大。普通に手を振りながら、足を踏み出しながら、対応術を頭の中でシミュレートする。五感は伊豆半島沖で戦艦棲姫を有する敵重機動部隊と戦った時以来の感度を誇っていた。

 

しかし、“何か”は仕掛けてこなかった。何も起こらない。交差点を曲がると先ほどまでの出来事が幻のように、忽然と“何か”は消えた。

 

得体の知れない危機感を覚えつつ、みずづきは艦娘寮玄関の引き戸を開けた。

 

「え~~~? だから、黒潮。もう少し大きな声で言ってくれなきゃ、聞こえない! って、みずづきじゃない。おかえり」

 

玄関のすぐ隣にある階段を陽炎がのぼろうとしていた。さりげなく「おかえり」と言ってくれた彼女は作務衣のような寝間着を着て、特徴的な色の髪の毛を降ろし、夜独特の可憐な姿になっていた。その緊張感が微塵もない姿を見ると、一気に強張っていた身体の力が抜けた。

 

いくら意地を張っても、いくら理性で抑え込んでも、生を欲する人間である以上、恐怖は制御できなかった。

 

「か、陽炎・・・・・・。ただいま」

 

そう呟いた言葉が、酷く尊いものに感じた。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

横須賀鎮守府 提督室

 

 

 

つい先ほど消灯時間を迎えた鎮守府。半ば無理やり休息へ追い込まれた照明たちは完全に闇の恐怖感を煽る背景と化していた。ここ提督室のように闇の侵攻から逃れている部屋もところどころに存在するが、消灯時間を経た現在では、あくまでも少数派だ。

 

窓の外に広がる闇と絶望的な抵抗を続けるわずかな照明たち。当直以外でそこを我がもの顔で闊歩している怖いもの知らずはさすがにいなかった。

 

「・・・・・・・・・・・・・」

 

百石は窓辺に立ち、ガラス越しにその光景を眺めていた。室内の照明によって即席の鏡となっている窓ガラスには深い皺が顔中に走り、険しい表情の自分自身が鮮明に映っていた。

 

その原因はさきほどまで提督室を訪れていた参謀部長緒方是近(おがた これちか)少佐が焦燥気味に寄こした緊急報告にあった。これがなければ今頃、百石は別邸に帰宅し、湯船で一日の疲労を洗い流していたところだった。

 

“特別陸戦隊司令部及び陸軍横須賀要塞根拠地隊に不穏な動き有。また、神奈川県警警備課特命チームが横須賀入りしたとの情報も”

 

「一体、どういうことだ・・・・・・・」

 

これはまさに青天の霹靂、寝耳に水の情報だった。このような報告など全く予想しておらず、緒方から聞いた瞬間、思考が凍り付いてしまった。単にその報告なら警戒レベルを上げるなり、翌日横須賀特別陸戦隊司令の和深大佐を呼び出し、真意を問いただすなり、軍令部から横須賀特別陸戦隊司令部及び横須賀要塞根拠地隊を指揮する陸軍関東方面隊司令部に確認するなり、それらを行う時間的猶予は大いにあった。しかし、緒方たち参謀部が不穏な動きと断じた根拠は悠長に構えていられる代物ではなかった。

 

現在、横須賀特別陸戦隊は2日前から4日間の日程で四六時中、基地施設が置かれている田浦地区内で限定的な近接戦闘演習を行っている。特別陸戦隊司令部から直々に、そして陸戦隊司令部から提出された演習計画書には各部隊の歩兵中隊である第1、2中隊、重迫撃砲中隊である第3中隊、戦車中隊である第4中隊に所属する全将兵2835名が参加する旨が記されていた。通常なら特別陸戦隊といえども、陸軍の演習場を使用して演習は行われる。これだけの戦力を一度に投入するにもかかわらず基地内で行われる事態は異例中の異例だった。

 

普通に聞けば陸戦隊の熱血さに感銘を受けるところだが、田浦地区が担当区域となっている警備隊第4分隊の報告では「明らかに参加部隊が少ない」らしい。また、弾薬や食料を満載した五美財閥の一社、五美運送のトラックが頻繁に田浦地区へ出入りしていることも確認された。特別陸戦隊の基地であろうが田浦地区の管理は一元的に横須賀鎮守府が担当している。そのため、当然車両の出入り・物資の搬出には鎮守府総務課への届け出が必要なのだが、総務課には一切警備隊第4分隊の報告にあった弾薬や物資の搬入は知らされていなかった。陸戦隊司令部もそのような指示は出していないという。

 

「演習といいつつ、実戦部隊の雲隠れ。一部隊独断での過剰な弾薬・物資の貯蔵・・・」

 

これの動きは横須賀要塞根拠地隊にも言えた。さらに当部隊では佐官以上の士官に裏で非常招集がかけられているとの未確認情報もあった。

 

そして、横須賀鎮守府参謀部が警戒心をあぶられた最たる理由。

 

「陸軍根拠地隊はともかく、特別陸戦隊司令は排斥派の中でも最強硬の和深千太郎。旧知の仲であり、信念を同じくする武原勝は第1特別陸戦隊隊長・・・・・・・・」

 

自身とはかけ離れた価値観の持ち主だけに10月1日の人事異動で横須賀に来る前から彼らの存在は知っていた。

 

房総半島沖海戦を受け、艦娘の処遇を脇に置いた排斥派上層部と激しく対立。半暴走状態に陥っていること、そして対外・内の諜報活動を行う軍令部情報保全室、憲兵隊が「要監視対象」としてマークしていることも耳に入っていた。

 

 

 

 

言い知れぬ危機感が、規則的に鼓動を打つ心臓を鷲づかみにした。

 

 

 

 

「備えあれば、憂いなし・・・・・・・」

 

この言葉。そして、そう呟きながら机の上に置かれている黒電話に手を伸ばす感覚に既視感を覚える。記憶の引き出しを開け放つと、すぐに正体が分かった。

 

「みずづきがやって来た時もこうだったな。あの時は結局無駄骨に終わったが・・・」

 

黒電話の受話器を上げ、ダイヤルを回す。

 

「今回は遥かに嫌な予感がする・・・・・・」

 

数度の乾いた呼び出しのあと、目的の部署に電話がつながった。受話器からこのような時間にもかかわらず、張りと気合いの入った声が聞こえてきた。先方にはどこからの電話か知られているため当然かもしれないが。

 

「こちら、横須賀鎮守府警備隊本部」

「もしもし、百石だ。当直で最先任の者と変わってくれ」

 

その後交わされた会話は窓外の世界とは対照的に、当事者たちの思考と身体を全力稼働状態に置いた。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

最近、みずづきの様子が変だ。

 

「陽炎、塩とって」

「ん? ああ・・・・、はい」

 

今、陽炎はみずづき・黒潮の3人で訓練終わりの幸福感あふれる夕食を取っていた。ちょうど、一般将兵の課業終了時間であるためか、食堂には疲労の色もそこそこに神々しい光を放つ食べ物たちに目を輝かせた将兵たちが大勢ご飯をかき込んでいた。みな、激務の解放感に浸り上官などに対する緊張感はあれど、心身に多大な負荷を強いる警戒心を抱いているものなどいなかった。

 

目の前に座っている、1人を除けば。

 

「みずづきって、塩ばっかりやな。なんで醤油かけへんの? 美味しいで」

 

黒潮の問い。みずづきは彼女の持っている醤油を一瞥すると、ごく自然のように見える苦笑をした。

 

「え、いや、私の家は子供のころから塩だったから。トマトに醤油って・・・・本当においしいの?」

「なにを言うとるんや! トマトに醤油って言うたら定番やろ?」

「聞いたことはあるけど、日本にいた頃はあまり見かけない食べ方だったなぁ。なんか、おばあちゃん・おじいちゃん世代に多いって感じ?」

「・・・・・・ということはなに? うちらの食べ方は年寄り臭いってこと?」

「んん? いや、その・・・・・そういうことじゃ・・」

「確かにうちらはバリバリの昭和生まれやけど、みずづきより遥かに生まれたの早いけど、まだうち人間基準やと10代やで。そんなのあまりやわ・・・」

「だからね、黒潮。私は・・・・」

「・・・と、いうことで罰としてから揚げ一個徴収や!!!」

「え!? や、やめてよ!! 唐揚げ5つしかないんだから! とりゃ!!」

「な・・・・うちの箸が弾かれた・・・・・」

「10年以上、弟と聖なる戦いを続けてきた私に勝とうなんて、甘いよ黒潮」

 

「ちちち」と指を振り、唐揚げを頬張りつつ、みずづきは黒潮に挑発的な表情を示す。黒潮はいつも通り、「あーーーーーー!! またや!!」と悔しそうに頭を掻きむしっている。

 

その一瞬、みずづきの意識が黒潮以外に飛んだ。

 

「塩も案外おいしいわよ。渋いトマトにはやっぱり醤油だけど、熟したトマトには塩の方が甘くて、合う」

 

口を開くと、高速でみずづきの意識がここへ戻って来た。

 

「さすが、陽炎!! 分かってるじゃん! 黒潮もどう? かけてみる?」

「いらんわ、んなもん! 私は塩なんかに浮気せぇへんで! 一生、醤油と添い遂げるって決めたんや!」

 

「変な所で頑固」とご飯をかき込みながら、みずづきは笑った。だが、やはりその笑顔には何気なく見ていると分からないほどの薄い影が差していた。

 

みずづきの様子がおかしくなったのは、2日前の夜。もうすぐ消灯という時間に工廠から帰って来た時だった。薄暗くてよく分からなかったが、みずづきの顔は真っ青で制服には汗を吸ったことによるシミが多く発生していた。その時は「通りがかりの将兵を幽霊と見間違えた」ぐらいに捉え、特段気に留めなかった。しかし、その日を境にみずづきは例え艦娘寮でも気を張るようになり、しきりに窓の外を確認。起床ラッパが鳴る時間よりも早く起きて、艦娘寮周辺を鋭い目つきで歩いていることもあったし、枕元には殴られると悶絶しそうな分厚い辞書を置くようになっていた。

 

そして、極めつけは昨日、2人きりで艦娘専用浴場「灯の湯」の露天風呂に浸っていた時に呟かれた言葉だった。

 

「ねぇ、陽炎?」

 

みずづきは珍しく「ああああ゛」とオヤジ臭い声を上げることもなく、神妙な面持ちでお湯に浸かっていた。いつもは積極的に話しかけてくるにもかかわらず、口は閉じられたまま。湯船の幸福感にも幾分慣れ、彼女の様子を不審に思い始めた時だった。

 

「私の拳銃って、まだ提督室の金庫にあるのかな?」

 

思いもしなかった言葉に「え?」と問い返してしまった。

 

私の拳銃。それを聞いて首をかしげるほど、記憶力は欠如していない。彼女はこの世界に来た当初、軍人らしく一丁の拳銃を所持していた。当初、瑞穂側は拳銃の存在を認知していなかった。横須賀鎮守府に無断で侵入し日本を侮辱した御手洗に、激高したみずづきが発砲したことでその存在が明るみに出た。

 

その後、みずづきが持っていた拳銃は鎮守府によって没収。横須賀鎮守府の金印など司令長官が持つ公的貴重品と共にみずづきの拳銃は提督室にある金庫に保管されていた。

 

その措置にはみずづきも同意しており、彼女が来てから約5か月間「拳銃」に関する話は全く出なかった。

 

にもかかわらず、みずづきは拳銃の在りかを気にしていた。探っていた、と言っても語弊はないだろう。

 

「あ・・・・・な、なんでもないよ。・・・・・え・・その。・・今日は特段疲れたぁぁ」

 

彼女の真意を聞きたくて問い返しに続く言葉を待ったのだが、彼女はすぐさま話の方向を転換した。

 

結局、その話を真意は今に至るまで確認できていない。

 

「あ~~~~~、お腹いっぱい食べし、お風呂も入ったし、あとは寝るだけやな!」

「私はちょっくら、外の空気を吸いに・・・・」

「だめですよ、川内さん! 最近風紀が乱れているからって、消灯が10時からになったばかりじゃないですか。不届き者にお灸を据えるため、警備隊の巡回も始まったんですよ?」

「ぎく・・・・・」

 

艦娘の自室で机につきながら、忍者のような足取りでドアノブに手をかける川内。優しい笑顔を浮かべた警備隊員に問答無用で連行される川内が恐ろしい現実感を持って脳裏に浮かんだため、制止する。三段ベッドの最上部で歓声を上げながらゴロゴロしている妹の眼中に川内はいないらしい。

 

「一応、忠告はしましたからね? あとは知りませんよ。最近、司令カリカリしてるから、面白いことになるんじゃないかしら」

 

もっともらしい独り言を呟きながら、報告書を書こうと引き出しを開ける。

 

「あれ・・・・・。おかしいわね・・・・・」

 

いつもここに報告書の原稿用紙を入れていたのだが用紙は姿形もなく、引いた反動で適当に突っ込んでいた鉛筆が虚しく転がる。

 

「今日は雲も多いし、なんか鎮守府が殺気立ってるし・・・・・。すがすがしい、夜戦は無理だよね、うん・・・・・」

「どこにやったのかしら。昨日確かにここに・・・・って」

 

唐突に1階居間での光景が瞬いた。つい30分ほど前まで陽炎はそこにいた。

 

「そうだ、そうだ。吹雪に原稿用紙をあげたんだった・・・・・」

 

食堂で夕食を済ませた後、陽炎たちは一旦下着などを用意するため艦娘寮へ戻った。その際、たまたま玄関で靴を脱いでいた吹雪に遭遇し、「もし余裕があったら、原稿用紙貸してくれない?」と申し訳なさそうに言われたのだ。その時は黒潮やみずづきがいたこともあり「お風呂に入ったあとで」と言い残し、艦娘寮に戻ったあと彼女に原稿用紙を渡した。

 

ちょうどそこは艦娘たちが消灯まで騒ぐ居間。渡した直後、案の定ババ抜きをしていた一機艦メンバーに捕まり、原稿用紙を座卓の上に置いたままゲームに熱中してしまった。

 

「さてと、明日も忙しいし、夜戦の体力を温存するためにも寝ますか」

 

さも当然のようにドアから踵を返す川内。陽炎の忠告がよほど効いたようで制服から寝間着に着替え始める。その彼女を横目に廊下へと出て、階段を下りる。あちこちから仲間たちの笑い声が聞こえた。

 

「あ、陽炎」

 

階段を下りきって、居間へつま先を向けようとした時、玄関から正体がすぐに分かる声がかけられた。いまだに制服のまま、靴を履こうとしているみずづき。彼女はいたずらが見つかってしまった子供のように苦笑を浮かべる。

 

「みずづき。どうしたの? これから外出?」

 

少し非難を込めた口調で行動の理由を問う。彼女も消灯が1時間早まったことは知っていた。

 

今の時刻は9時20分すぎ。

 

「うん。ちょっと工廠に用があって」

「工廠に? 今から?」

「そう。この間、艤装の定期点検をしてもらったでしょ? 今日寄った時に忘れちゃったみたいで」

 

目を逸らしながら、気まずそうに頬を掻く。その言葉にはいつも宿っている覇気が微塵も感じられなかった。

 

心の中に一抹の不安が発生する。彼女は明らかにおかしかった。

 

「なんで今なのよ? 明日でもいいじゃない。もう、消灯時間よ」

 

さらに非難を込める。その口調はもはや質問ではなく、叱責だった。苦笑を消し去り、俯くみずづき。だが、彼女はのぞかせたわずかな希望を裏切り、玄関の引き戸に手をかけた。

 

視線を合わせることもなく、みずづきの背中だけが視界に映る。

 

「ごめんね、陽炎。明日でも問題はないけど、忘れ物は確認や届け出とかで拾った人に迷惑がかかっちゃうから。消灯までには戻ってくるね」

 

丸まった背中。覇気のない口調。そして、玄関の照明が当たっているにもかかわらず、外界と同じように底なしの暗闇に飲み込まれている彼女の影。

 

あまりの特異な気配に陽炎は言いようのない不安を覚えた。

 

みずづきがこのまま目の前からいなくなってしまうのではないか。

みずづきが遠くへ行ってしまうのではないか。

 

なぜかのような不安が急浮上し、胸が覆い尽くされた。

 

「み、みずづき!」

 

その不安を振り払いたく思い反射的に彼女の名前を読んだ。しかし・・・・・・。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

答えてくれたのは引き戸が閉まる、無感情な音だった。みずづきの姿が、気配が完全に消失する。

 

「みずづきは・・・・・帰ってくる。絶対に・・・・・」

 

恐怖心から目を逸らすように、言霊が現実のものとなるように、滑舌良く呟く。みずづきが横須賀へやってきてから約5か月。彼女は常に艦娘たちの前で喜怒哀楽を見せ、肩を並べて戦ってきた。一日もかけず、毎日だ。

 

その常識が、心の中に充満しつつあった不安・恐怖心を幾分か和らげてくれた。

 

 

 

しかしその常識は今日、盤石な常識の地位から滑落した。

芽生えた恐怖心は現実のものとなったのだ。

 

 

みずづきが艦娘寮から外出してしばらく消灯時間になり、鎮守府から光が消えてしばらくしても、彼女が寮に帰ってくることはなかった。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

横須賀鎮守府 提督室

 

横須賀鎮守府司令長官の権限で一時間早めた消灯時間を迎えてから、1時間30分。ここ提督室は房総半島沖海戦以来、いや当時は所属不明艦だったみずづきがやって来た時と同等の緊張感に包まれていた。

 

2日前に緒方の報告を受けてから微増を続けていたが、跳ね上がったきっかけは艦娘寮付近を巡回していた警備隊第1分隊兵士からの緊急報告だった。

 

それを受け、事態の緊急性を直感的に察知した百石は横須賀鎮守府の幹部をここへ緊急招集した。そのため、ここはかなり手狭となっている。誰もそのことを気にする余裕は皆無だったが。

 

「まだみずづきは見つからないのか?」

 

焦燥感のあまり、つい怒気を含んだ声になってしまう。カーキ色の戦闘服に鉄帽。瑞穂軍の一般的な士官が所持している19式拳銃を腰にさげ、24式小銃で完全武装した部下2人を従えた警備隊隊長の川合清士郎(かわい せいしろう)大佐は百石の剣幕に怯まず、冷静に報告した。

 

「現在、第2分隊を工廠へ急派し、捜索を行っています。しかし、現在のところ発見したとの情報はありません」

「憲兵隊も同様です」

 

川合の視線を受け、筆端や緒方、参謀部各課長の後方に控えていた頭を丸めている高身長の男性が声を上げる。肌はそこまで焼けていないが頑丈な体つきで、鋭い視線からは知的な雰囲気も感じる。彼も川合と同様に19式拳銃を所持していた。憲兵の中には特権階級意識から、任官時に支給された軍刀を武士のように携帯する輩もいたが彼の所持武装は19式拳銃のみであった。

 

「目下、みずづきが外出した時間帯にうろついていた将兵に聞き取り調査を行っています。工廠までは目撃証言もあがっているのですが、それ以降の足取りは全く持って掴めておりません」

 

横須賀憲兵隊長副官の山田寅助(やまだ とらすけ)少佐は申し訳なさそうな響きを最後に、口を噤む。事は今から1時間前、警備隊第1分隊の小隊が艦娘寮付近を巡回中に血相を変えた艦娘たちから「みずづきが帰って来ない!」と詰め寄られた際に発覚した。艦娘が所属基地内で行方不明になるという前代未聞の事態。

 

「川合? 田浦の様子はどうだ?」

 

応接用のソファーに座り、顔の前で組んだ両手の隙間から猛獣のような視線をのぞかせている筆端が言った。現在の情勢下で、このような事態が不穏な動きと無関係で発生したと考えることはあまりにも楽観的すぎる思考だった。

 

誰も筆端に異を唱えず、川合の言葉に耳を傾ける。

 

「第5、6分隊によりますと大きな動きはないとのことです。ただ・・・・・」

「ただ?」

「昨日まで異なり、消灯後も明かりが灯っている建物が多いと。さらに消灯時間の前倒しを“実質的な外出禁止令”だと反発し、違反者を拘束しようとする分隊員とのもみ合いも発生しています」

「明らかに今までと異なる動きですな」

 

緒方が低い声で呻く。横須賀鎮守府の敷地である以上、風紀の取り締まりや不審者の拘束は一義的に横須賀鎮守府隷下の警備隊が担う。いくら特別陸戦隊ともいえども、警備隊に抵抗する権限はない。

 

軍規上は。

 

通信課長の江利山成永(えりやま なりなが)大尉はその小柄な体に危機感を張りつかせて、視線を向けてきた。

 

「百石長官。特戦隊の行動は明らかに常軌を逸しています。それに呼応するかのようなみずづきの失踪。念のため、特戦隊司令部にコンタクトを取ってみては?」

「それはだめだ!」

 

江利山の意見具申に、山田が声を荒らげる。

 

「あちらの我々に対する不信感は大尉も知っているだろう? こちらからアクションを起こせば、それを口実に喜々として何らかの行動を起こされる可能性がある」

「しかし、このままでは・・・・」

「膠着状態に陥っていることは認める。だが、これは横須賀だけの問題ではない。こちらから・・・擁護派から手を出したと喧伝されれば、御手洗中将たちが決めた方針にしぶしぶ従っている強硬派が一気に息を吹き返しかねない。そうなれば、影響は国家全体に波及する」

 

コンコン!

 

山田の言葉を制止するかのように、提督室の扉がノックされた。こちらの目配せを受け、最も至近にいた山田が「なんだ? 今こちらは取り込み中なんだぞ」と怒気を発散させながら扉を開く。

 

人が1人通れるほど扉が開いた瞬間、黒い影が廊下から染みだしてきた。

 

「っ!?」

「貴様!! なにも・・・」

 

その影は目にも止まらぬ速さで一直線に百石めがけて疾走。山田が怒号を発しきる前に、川合や彼の部下たちが拳銃や小銃を構え切る前に、それは極寒の鋼を自身の首元に添えていた。

 

「くっ・・・・・・・・・・」

 

首元の頸動脈付近に感じる、死の可能性。心臓は破裂しそうなほど高速で鼓動を繰り返していたが、思考はこの影についてで埋め尽くされていた。

(この動き・・・・・・もしかして・・・・・)

 

「百石!!!」

「百石長官!」

「貴様!! その汚らわしい手を即刻離せ!!」

 

突然の乱入者に対する動揺も一瞬。首元に鋭利なナイフ突きつけた影から筆端や川合は一斉に距離を取る。そして川合・山田をはじめ、銃を持っている将兵は全員影へ殺意を込めた視線と共に躊躇なく銃口を向けた。銃を持っていない者は警備隊に急報を知らせたり、手近で武器になりそうなものを構えたり、全員が臨戦態勢に突入した。

 

 

 

こいつ、ただものではない。

 

 

 

この部屋の士官全員が1秒にも満たない時間で同じ認識を共有した。室内にこれほど人間がいるなか、超高速で全員を交わす俊敏性。一斉に銃口を向けられても変化1つない頑丈な精神。この状況で飛び込むことを決意した大胆性。

 

相当高度な訓練を受けたプロであることは容易に察せられた。

 

室内の緊迫感は頂点を突き破り、もはや死者が出かねないほどの状況だ。

 

「衛兵は何をしていた!!」

「だ、ダメです!! 衛兵2人はやられています!!!」

 

提督室の前には用心を期し、警備隊兵士2人が配置されていた。開け放たれた入り口からうつ伏せに倒れた2人が見える。出血などは見えない。

 

「何が目的だ? 言え! 要求なりなんなりがあるんだろ!!」

 

下手をすれば自身の命どころか、命より優先される所属組織の情報が洩れかねないにもかかわらず、こうして横須賀鎮守府司令長官にナイフを突きつけているのだ。

 

お前の命だ、などと言われればもうお手上げだが、もしそうなら全ての銃口が向けられる前に首元を切り裂いて、窓から脱出しているだろう。

 

外では異変を察知した警備隊員の怒号と警笛が聞こえてくるが、その根源たる提督室は異様な静けさで覆われていた。じりじりと川合たちが近づいてくる。

 

一触即発の中、唐突に笑みが混じった声が蚊の鳴くような声量で耳打ちされた。そこには外見と発散されている刺々しいオーラに似合わず、人間らしい感情が含まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

「さすがは天下の横須賀鎮守府。やっぱり平和ボケはしてないようですね。安心しました」

「っ!?」

 

 

 

 

 

驚愕で反射的に首を動かした瞬間、首元からナイフが離れ、黒い影は窓に体当たりをかます。その動作故だろう。

(この臭いは・・・・・・・・・)

黒い影が発する空気が鼻腔に反応した。

 

「撃つな!!!」

 

パシャリンっ!!!!!

 

発砲を制止する川合の怒声と同時に、独特の響きを持ったガラスの砕ける音が聞こえる。

 

「おいおい、嘘だろ・・・・」

 

黒い影が窓ガラスから逃亡を図った。その事実を咀嚼するとあまりの衝撃に、窓枠から下を覗きこむ。ここは3階。常人なら命にかかわる重傷。運が悪ければ死に至ってもおかしくない高さ。

 

だが・・・・・・・。

 

「うお!! なんだ!!」

「不審者だ!!! 警笛ならせ!!」

「止まれ!! 止まらないと撃つぞ!!!」

 

もともと騒がしかった外は「騒がしい」を通り越し、見る者に恐怖さえ与えかねない緊迫感に覆われる。その俊敏性を最大限発揮し闇に紛れ込んだのか、黒い影の姿は捉えられなない。しかし、5、6人の警備隊員が24式小銃を構えている別班と協同して、特定方向へ走っていく。どうやら、彼らの先に黒い影がいるようだ。

 

「ありゃ、完全に特務機関系だぞ」

 

同じように窓から黒い影の驚異的な身体能力に恐怖する筆端。彼には全く持って同意する。

 

「百石長官! 筆端副長!! 見て下さい!」

 

緒方のうわずった声に慌てて振り返る。彼や川合たちの動揺気味な視線の先。執務机の上には山折りにされた1枚の紙が置かれていた。無論、影が来るまで執務机の上に折られた紙はなかった。

 

百石はすぐさま紙を取る。

 

 

そこには達筆な字で以下の事柄が記されていた。

 

 

横須賀鎮守府司令長官百石健作提督への要望事項。

 

一、 現在展開中の横須賀鎮守府司令長官隷下地上部隊を10月22日午前3時までに撤収させること。かつ撤収後すみやかに武装解除を行うこと。

一、 不定期で開催される朝礼を前例通り、横須賀鎮守府体育館内で実施すること。なお、実施時間は10月22日、午前10時30分とすること。

一、 艦娘の艦娘寮からの外出を一切禁止する事。なお、朝礼実施時は例外とする。

一、 要望外の鎮守府一般業務は平時通り、遂行すること。

一、 当事項及び当事項伝達時に発生した事象について、伝達時に遭遇した者を除き、あらゆる個人・あらゆる組織への一切の口外を禁止すること。なお、他組織・個人からの問い合わせについても同様である。

一、 上記以外の追加要望事項が生じた場合、すみやかに承諾すること。

 

 

以上の要求が遵守されない場合、現在不法入国の容疑で拘束中の国籍不明者、また横須賀鎮守府将兵、所属艦娘の身の安全は保障されない。

 

貴君らの聡明な判断を期待する。

 




行方不明になってしまったみずづき。
鎮守府に潜む謎の人物。
もたらされた不都合な要求。

次話より「横須賀騒動編」に移行します!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。