水面に映る月   作:金づち水兵

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今話で東京編も終了です。同時に作者的には、本章において「日常」話は最後になるのではないかと・・・・。


74話 東京へ その5 ~楽しむ者と悩む者~

雲一つなく、透き通る青空。700万もの膨大な人口を有し、一国の政治・経済・文化の中心である首都とは思えないほど、澄み切った空気。灰色に霞むこともなく、目を凝らせば凝らすほど、望遠鏡で遠方を見れば見るほど、世界が広がる。

 

果てしなく続く世界。この空が地球上のあらゆる場所につながっていることを知識としてではなく、感覚的にこの青空は伝えてくれていた。

 

「うわぁぁぁぁ~~~~、すっごいきれい!!!」

「日頃の行いが良かった証拠や!! うちらめっちゃ運ええで!!」

「こらっ!! ほかの人の迷惑になるから、もう少し静かに!! って・・・・・聞いちゃいない」

 

走り回る陽炎たちに向かって隣で怒鳴っていた川内は彼女たちが見向きもしないことを確認すると、呆れたようにため息をつく。

 

「あはははは・・・。まぁ、川内さん、そう言わずに。今日は平日で他のお客さんも少ないですから」

「それはまぁ・・・・でも」

 

みずづきははしゃぐ陽炎たちの気持ちも理解できるため、苦笑気味に彼女たちの肩を持つ。不服そうに頬を膨らませる川内であったが、みずづきは気付いていた。あともう少しで陽炎たちの仲間入りをしそうなほど気分が高揚している自身と同様、川内もまたはしゃぎたくてうずうずしていることに。

 

「ふふ・・・・」

 

その様子につい頬が緩んでしまう。彼女もはめをはずしたい気持ちと、旗艦としての矜持の間で揺れ動いているようだ。

 

「ほらほら、二人ともそんな隅っこにいないでこっち来いよ! 絶景だぜ! 絶景!!」

「絵画みたい・・・・・・。見ないともったいない」

 

いつもより少しテンションの高い深雪。そして、いつも通りの無表情を維持しつつ、声が上擦っている初雪。2人は一直線にこちらへ向かってくると、目にも止まらぬ速さで川内とみずづきの手を掴み、陽炎たちが歓声を上げている展望ガラスの目の前まで曳航される。海上でやれば満点の手際だった。

 

「全くもう・・・・・」

 

初めは「ちょっと・・」と軽く抵抗した川内だったが、もはや成すがまま。優し気に微笑んでいる表情には「やれやれ」といった良い意味での諦めの感情が見え隠れしている。

 

やはり、彼女たちには敵わない。

 

「「うわぁぁ~~~~」」

 

眼前の景色を間近に感じ、圧倒されるあまり川内と全く同じ感嘆を紡いでしまう。

 

「東京タワーからの眺めは・・・・・・どこの世界でも変わらないんだね。きれい」

 

東京都港区にある高さ333mの東京タワー。地上120mの大展望台2階にみずづきたちは今、足を運んでいた。都内各地に林立の兆候を見せ始めていた放送各局の100m級電波塔を一カ所に集中させ、都市景観の改善及び利用者の利便性向上、航空事故リスクの低減を実現させる「総合電波塔」として2017年に建設された“瑞穂の”東京タワー。鉄骨のさびもなく、塗装のハゲも十数年未来のこと。まだ開業16年しか経っていない真新しさを周囲へ四散させる新参者であったが日本同様、既に「かれ」は観光客そして東京都民の心を掴み、東京のシンボルとして受け入れられていた。

 

「私たちが泊まってた皇山(みやま)ホテルってどこでしょう? ・・・・あのあたりかな?」

 

白雪が手すりからわずかに身を乗り出し、新宿御苑方向を凝視する。ちょうどみずづきたちは東京タワーの北側にいたため、皇山ホテルがある“あたり”は視界に収めることができた。

 

「あの緑が新宿御苑だろ? その東側だから・・・・・。たぶん、そのあたりじゃね?」

 

姉と同じく目を細め、渋い表情となる深雪。つられて同じ方向に視線を向ける。確かに新宿御苑(ぎょえん)の青々とした緑ははっきりと見える。だが、それ以前に新宿御苑が新宿方向で一番目立つ存在であることに驚いた。果てしなく透き通る空と様々な景色が混じり合い不思議な色彩を生み出している地平線に圧倒され、眼下に広がる東京を感じていなかった。

 

「新宿駅近くの高層ビル群も、東京都庁も・・・ない」

「え?」

 

黒潮や川内との談笑を通じ、怪訝そうに顔を覗きこんでくる陽炎。横目で彼女に反応しつつ、今立っている場所から見える景色を総なめにする。

 

展望ガラスのサッシや鉄骨、訪れた人々の間から広がる汐留・新橋・丸の内・銀座・新宿・六本木。見知った建物どころか、高層ビル群が作り出す見慣れたコンクリートジャングルそのものが存在していなかった。

 

眼下に広がっているのは、地べたに這いつくばった印象の街。せいぜい天空に挑戦している建物も10階越えが限度だった。

 

「なるほど。だから、空と地平線に目がいったわけか・・・・・」

「さっきからなに独り言、ぶつぶつ言ってるのよ」

 

陽炎の反応を認識しつつ、放置したからだろうか。彼女の口調が少し不機嫌になっている。今回は明らかにこちらが悪いため、謝罪の言葉を喉に待機させながら陽炎へ視線を向ける。だが、陽炎は尖った口調と裏腹に眉を下げ心配そうに見つめてきた。

 

みずづきはそこで陽炎の心中を察した。陽炎は知っているのだ。みずづきが生きていた2033年の、“日本の東京”がどうなっているのかを。みずづきが生まれてからこの世界に来るまで何度も東京へ足を運び、繁栄の絶頂とどん底の絶望双方を直に知っていることを。

 

陽炎はそうであるが故に、こちらを気遣ってくれているのだ。

 

しかし、それは彼女の深読みである。確かに脳裏には日本の東京が浮かんでいたものの、悲観的な感傷に浸るためではなく単純な比較が目的だ。現在と過去。その境界、そして追憶の意義はこの世界に来てから経験した様々な出来事によって明確に理解している。

 

陽炎には余計な心配をかけてしまった。ここで「ごめん」と言うことは簡単。だが、どこまでも友達思いな親友に伝える言葉はこれだろう。

 

「ありがとう、陽炎。こんな時まで気にかけてくれて・・・」

「ちょっ!? なによ急に・・・・・。わ、私は別に・・・・その・・・・」

 

暗い表情から一転。時計の秒針が進むごとに顔が真っ赤に染まっていく。言葉は全く逆のことを語ろうとしているが、生理反応は素直だ。陽炎は俯くと聞こえるか微妙な声量で言葉にならない言葉を呟き続ける。その反応に微笑みながら、視線を展望ガラスの外、ちょうど皇居周辺に向けて話す。

 

「私は大丈夫。確かに頭の中には日本の東京がある。でも、ここは瑞穂の東京。私たちの世界とは全く別の世界。そこに私の世界を投影して感傷に浸るのはこの街を造って、この街で生きる人々に失礼かなって」

 

いつの間にか、陽炎の独り言は収まっていた。

 

「ここにはここの良さがある」

 

おそらくはかつての東京もこのような外観だったのだろ。建築技術の成熟を要因とする天空への挑戦がなく、街がおとなしく地上で収まっているため、東京の空は日本と比較にできないほど広かった。地平線を凸凹にする無粋な建築物もなければ、視線に堂々と立ちふさがる反抗的な高層ビルもない。

 

東京タワーがこの街で最も高く、街がまだまだ発展途上であるために生き残っている古来より受け継がれてきた世界。

 

「こんなの日本にいたままじゃ、絶対に見られなかった。せっかく神様もびっくりの希有な立場にいるんだから、堪能しないとね!」

 

嘘も偽りも見栄もない、心の底から湧き上がった笑顔を陽炎に向ける。彼女は柔和な笑顔で応えると、背中にもたれかかって来た。

 

「なになに? 今日のみずづきさんはやけに笑顔が透き通ってますね~~。昨日、大切な仲間の顔面に枕を打ちつけて、狂乱していた人と同一人物だとは思えませんよ」

「もう! それは陽炎だって同じでしょ! 深雪を倒した直後に同盟解消! とかいって不意打ちしてきた不届き者はどこのどいつよ!」

 

両手を後ろに回し脇腹をくすぐると陽炎は甲高い笑い声を上げながら、背中に寄りかかっていた身体を少しだけ離す。そして、この階に充満する高揚した空気に溶け込みそうな儚い声でこう言った。

 

「あんたは・・・変わったわね」

「え?」

 

陽炎らしからぬ口調に驚き、慌てて後ろへ振り返る。しかし、絶妙なタイミングで左脇腹に深雪が抱きついてきた。

 

「みずづき! みずづき!! あっち! あっち!」

 

それだけを口にしてエレベーターを、方角的には南西方向を指さす。深雪のことなのでてっきりそちらに白雪と初雪がいるのかと思ったが、彼女たちの姿は見当たらなかった。

 

「ど、どうしたの!?」

 

そう声をかけると、深雪は子供のようにはにかむ。

 

「あそこから富士山が見えるんだよ! 富士山が!」

「え!? 富士山が!」

 

深雪に抱きつかれた動揺はどこへやら。頭の中に山頂に雪化粧をした富士山が浮かぶ。今は10月でちょうど初冠雪を観測したばかりの時季。日本人の誰もが思い浮かべる霊峰・富士よりは山腹から山頂まで一面赤褐色の活火山という風貌が強いが、あの特徴的な山体美だけでも見る価値は大いにある。

 

「あ・・・・・そうや! 富士山! 忘れてた!」

 

少し離れた位置で何かをしでかしたのか、川内に首根っこを掴まれている黒潮が目ざとく反応。「川内さんもはよ!」と川内の拘束を脱し、目の前を駆け抜けていく。

 

「こら! 黒潮! 走ったら危ないから!」

 

川内の注意は虚しく喧騒にもまれて、消えてゆく。

 

「雪がない富士山ってのも味があっていいぜ! さ! 早く、早く!」

「ちょっ! 分かった! 分かったから! 深雪、もう少し落ち着いて!」

 

ズルズルと深雪に引っ張られていくみずづき。周囲の人々も微笑ましい光景に目尻が緩んでいる。しかし、それが尋常ではないほど恥ずかしい。

 

「ちょっと! 陽炎! 川内さん! 笑ってないで、助けて!!」

 

いつの間にか陽炎の隣に立っている川内。結局、常に周囲の注目を集めながら、富士山が見えるポイントまで誘導されることとなった。艦娘と気付かれなかったことがせめてもの救いである。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

関東地方某県の幹線道路。両脇を住宅と商店で埋め尽くした片側2車線の道路は平日の通勤ラッシュ時間帯ということもあり、合計すると4つある車線は自動車でひしめき合っていた。時間に追われている者からすれば、感情を逆なでする光景。学校・職場への「遅刻」が現実味を帯びれば、誰しも感情が高ぶる。いくら自動車の知識に疎くても一見しただけで高級車と分かる厳めしい乗用車に乗っている百石もその一員のはずだったが、彼は苛立つこともなく、窓の外に広がる“日常”へ視線を向けていた。

 

運転席で苛立たしげにハンドルを叩く運転手。バスの中で立ったまま目を閉じている中年のサラリーマン。歩道を、友達と爆笑しながら歩いて行く男子学生たち。背筋を伸ばし、眠たさも垣間見せず男子学生の脇を駆け抜けてゆく、スポーツウェア姿の女子学生たち。

 

自身が生まれてから常に目にしてきた光景が、そこにはあった。

 

「申し訳ありません、長官。これでは・・・・・」

 

エンジン音と他車が鳴らすクラクションしか聞こえなかった車内。唐突に運転席から声がかけられる。後部座席からルームミラー越しに運転手の顔を覗くと、わずかに眉が垂れていた。

 

「気にしなくていいさ。既に先方には連絡は入れてある。彼らもここの酷さは身に染みて分かっているようだったから、大丈夫だ。この渋滞じゃ、どうもこうもない」

 

少しでも心の重荷を軽くしようと笑いながら話す。不意に自動車が止まった。どうやら、信号に引っかかったようである。

 

今まで自分の意思とは関係なく流れていた日常が、思いのまま捉えられるようになった。偶然、視線を向けた先に白のブラウスに紺色のリボンを結んだ一般的なセーラー服を身にまとう4人の少女たちがじゃれ合いながら歩道を進んでいた。全員小柄で幼さが垣間見えることから、おそらく中学生だろう。彼女たちの姿が、今まさに久しぶりの息抜きを楽しんでいるであろう部下たちと重なった。

 

「川内さんたちは今の時間だと、ホテルを出たあたりですかね?」

 

山内がルームミラー越しに笑いかけてくる。少女たちの姿はフロントガラスからもばっちり見えている。山内も彼女たちを見て、全く同じことを思い浮かべたようだ。それを思うとつい笑みがこぼれてしまう。

 

「ああ、おそらく・・・・というか絶対、川内たちが先行しようとする深雪と黒潮の手綱を握ろうと必死になっているはずだ」

「いや、もしかしたら、川内たちではなく川内さんが孤軍奮闘しているかもしれませんよ」

「ん? というと?」

「昨夜も川内さん以外は暴れに暴れておいでで、人数確認に訪れた際は枕投げという決戦を終えた戦場の様相を呈していました」

 

これ以上吹き出しては運転に支障が出ると必死に笑いを噛み殺す山内。だが、よほどツボに入った光景なのか全く噛み殺せていない。彼の言葉を元に、その光景を想像してみる。皇山ホテルへの宿泊は経験済みのため、容易に部屋の雰囲気が脳裏に浮かぶ。乱れきった布団。広縁の隅など寝具がいてはいけない場所にいる枕たち。そして・・・・・・・。

 

着物が無意識のうちにはだけた艦娘たち。

 

「・・・・・・・・・・・・・・。ゴホン!」

 

行き先を反芻するたびに浮上する緊張感から無意識のうちに逃れようとしたのか、隠しようのない邪念が浮かんだ。「至誠(しせい)(もと)()かりしか」に代表される海軍士官にとって心の友と言うべき訓戒の五省を心の中で唱える。

 

これを唱えると海軍兵学校時代の地獄が鮮明に思い出され、俗人の煩悩が怖いほどに消えていく。捉え方によってはそれほど兵学校時代に教官や先輩からお優しい指導を受けたということだが人間、物事によって思考の程度を選択できるから便利である。

 

「川内たちは東京タワーへ行ったあと、どこへ行くんだ?」

「私も詮索は野暮、道中は警視庁公安局が秘密裏に警護して下さるということで・・・」

 

急に山下の声がしぼむ。

 

「ん? どうした?」

 

山下の様子を不審に思い、声をかける。山下は「いえ」と表情を曇らせて、ブレーキをかけた。また、赤信号だ。

 

「心強いと言えば、心強いんですが・・・その・・」

「だから、どうした?」

 

山下を圧迫しないよう、穏やかな口調を心掛ける。山下はこちらを一瞥したあと、口を開いた。

 

「なんでも、部内での噂ですが、情保室も動いていると」

「・・・・・・・・」

 

山下の声色は決して高圧的ではない。しかし、押し黙る。気圧されたとすれば、山下にではない。山下の語った噂にだ。みずづきによれば、日本には内閣府-瑞穂では総理府との名称-に付属する内閣情報局をはじめとして、警察庁、警視庁、公安調査庁、防衛省、統合幕僚監部、陸・海・空幕僚監部など諜報活動に従事する組織や部隊が存在していたという。所詮は同じ人間が君臨する世界。瑞穂にも日本と同様、法的権限や規模はさておき、諜報機関は複数存在していた。山内が言った、情保室。正式名称、海軍軍令部情報局情報保全室は対外的・対内的諜報活動及び情報収集活動を担っている情報局内組織で、軍令部総長の指揮下にある海軍の諜報機関である。諜報機関としての特性上、トップである室長など一部の幹部を除いた構成員は不明。横須賀鎮守府司令長官である百石でも把握することはできない。ただ、任務は明確だ。海軍内の機密情報の管理、将兵の思想統制、情報漏洩の際の調査、警察や公安・憲兵隊などでは対処できない事件の捜査などを主に職掌としている。それを全うするために手段は選ばす、合理的と判断すれば時には潜入・破壊工作・暗殺・脅迫なども行う。それだけでも一般将兵からすれば畏怖の対象だが、情報保全室は何も身内外ばかりに注力しているわけではない。むしろ、身内を(あさ)る性質の組織だと言ってもよい。将兵の身上・思想調査は典型例だ。同じ情報局内組織ながら対外活動を主な任務とする情報部とは対照的に、快く思っている者はほとんどいない。しかし、情報保全室員は多くの者が普段別の肩書きを背負って、それぞれの組織に完全に溶け込み、活動している。故に、その感情を公言する者はそうそういない。いることにはいるが・・・・。

 

ここは車内。2人しかいないものの、その恐怖は簡単には抜けないものだ。

 

「だが、彼らほどの実力者がそばについていてくれるのなら、何も心配することはない。東京タワーの後は?」

 

辛気臭い話はここまでと先を急かす。山下は一笑するとアクセルを踏み込んだ。信号は青に変わっていた。

 

「あまり詳しく聞いていないんですが、東京タワーへ行ったあと六本木や赤坂周辺を散策。最後に修文(しゅうぶん)神宮を訪れたのち、新宿駅で待ち合わせです」

 

山内が挙げた固有名詞を聞いて「ほう」と唸る。

 

「なかなかいいじゃないか。六本木は昔、陸軍の歩兵連隊が所在していたことに由来して、23区でも有数の商店街。修文神宮もあの厳かさによって古来より続く瑞穂の伝統を体現している」

「私も同行したかったものです」

「悪いな。華の欠片すらないオヤジの送迎を頼んでしまって」

「まったくです」

 

有無を言わさぬ勢いで、断言する山内。一拍の無言を経て、車内は爆笑に包まれた。

(俺も久しぶりにはめをはずしたいな・・・・・)

隠し通す必要もない、自身の本音。身近な存在のはしゃぎっぷりがありありと想像できる分、その欲求は脈打ち理性を刺激する。

 

しかし、それを抹殺せんとするかのようにまもなく目的地到着を知らせる標識が視界に飛び込んできた。それ見た途端、心臓の鼓動を生々しく強調する緊張感がタイヤの回転ごとに高まっていく。

 

「あいつらが思う存分はしゃげるよう、職務をまっとうしないとな」

 

気合いを入れるため、頬をはたく。何気に痛い。これから百石が訪れる場所。そこは鎮守府司令長官でさえも無意識のうちに心臓へ過酷労働を強いてしまうほど重要性を宿した施設だった。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

国立理化学研究所。

 

文科省所管の研究機関で、物理学、化学、工学、生物学、医科学などの基礎研究から応用研究まで行う瑞穂で唯一の自然科学系総合研究所。同時に瑞穂で最も歴史を有する近代科学の研究所で、国内そして国外においても絶大な権威を有している。本所は埼玉県にあり、そのほかの研究所や研究拠点・実験施設・協力機関が瑞穂全国に置かれている。人員は約4000人。

 

希少性だけではく、文字通り規模も実績も名誉も瑞穂においてトップの研究所である。

 

「どうぞ、海軍で出されているものよりは安物とお察しいたしますが、良ければ」

「あ! これこれは! ありがとうございます。・・・そのようなご謙遜を。一般の方々にはあまり知られていませんが、我々が飲んでいるものも大したことありませんよ」

 

瑞穂一の研究機関にいることを忘れてしまいそうな、平凡極まりない執務室。壁際に置かれている本棚も窓の傍に置かれている机や椅子も、腰かけている接待用のソファー、隅に置かれている観賞植物も市井にあふれている品々だ。

 

目の前でカップに口を付けている初老の男性が入れてくれたコーヒーを飲む。決して、高級品とは言えない味だったが、今の疲弊しきった体には染み渡る。おそらく今の自分は敗残兵と誤認されるほど憔悴しきっていることだろう。

 

その原因は対面に座る男性から語られた言葉、そして残酷に突きつけられた実物の書類にあった。もともと男性からこれを見聞きするために的場総長の特命を受け、存在すら公表されていないこの研究所へ足を運んだのだ。

(まさかこれほどのこととは・・・・・・・・)

総長室にて特命を言いつけられた際、的場のただならぬ雰囲気から機密も機密、この国でも一握りの上層部しか知らされていない事柄に関係することだとは容易に察せられた。しかし、誰が事前に予測できようか。もし予測できたものがいたなら、即総理大臣か大本営長官に就任すべきである。横須賀鎮守府司令長官に任じられたとはいえ、この平凡な脳みそでは想像の次元すら超越していた。

 

「やはり、いかな鎮守府の司令長官どのとはいえ、こればかりは動揺されるものなのですな」

 

男性の視線の先には、小刻みに震える己の手があった。カップに注がれた黒い水面は常に波打っている。

 

「あ、いえ、卑下しているわけではないのですよ。私も、その・・・・・三日三晩、眠れなくなりましたので」

「かの有名な所沢所長でもそうなられましたか・・・。私は倒れるかもしれませんな」

「ご冗談を。倒れられてもすぐに回復なされるでしょう。私たちのように室内でかび臭い白衣を着ている人間とは体の構造が違いますからな」

 

乾いた笑みが木霊する。だが、それも長続きしなかった。2人の心から染みだしたかのように、暗く重苦しい沈黙が室内に充満する。ブラインドを下ろしているためか、昼間にもかかわらず、ここは薄暗い。

 

沈黙とさきほど知らされた事実に耐えきれなくなり、弱々しい声で本音を吐露した。

 

「無礼を承知で申し上げますが・・・・・・私はいまだにあなた方の解析結果が事実だとは信じられません。このようなことが・・・・・本当に」

 

所沢と呼ばれた男性は反論することもなく、脇に置いていたポーチから1冊の分厚い書類を取り出した。そして、静かに目の前に置く。室内の空気がさらに重くなったような気がした。

 

「私もあなたの気持ちは痛いほど分かる。先ほど三日三晩、眠れなくなった申し上げたとおり、私も・・・・」

 

所沢は深刻そうな表情でテーブルに置いた書類を見つめる。

 

「当初は、信じられなかった」

 

その表情はもはや泣きそうだった。瑞穂国内で生命科学の第一人者と言われる、所沢源五郎(ところざわ げんごろう)。生命科学系学部を有する難関国立大学を練り歩き、優れた研究業績がある科学者しか任命されない国立アカデミーたる瑞穂学術会議の委員。当分野で世界最先端をいく北京理工大学から招待状を受けたほどの科学者。

 

そのような人間の、世界に見放されたかのような表情は、人の死すら間近で見てきた心に突き刺さった。

 

「ですが、何度解析を繰り返しても同じ結果がでるのです。何度、作業を精査しても、慎重に慎重を期しても・・・・・・同じ結果がでるのです。なら、認めざるを得ないではありませんか。私と、信頼のおけるこの国で最高峰の研究員たちが担っていたのです。この解析結果が、そこから導き出される結論が・・・・・・・事実だと」

「しかし、これでは・・・・・」

 

瞬間、報告書に書かれていたことが濁流となって、脳裏に押し寄せてくる。胃と食道に違和感を覚え、とっさに口を押えた。額を脂汗がゆっくりと流れていく。

 

「洗面所なら、この部屋を出て、右のつき当りです。全速で走れば口からぶちまける前に辿りつけますよ」

 

妙に現実感を伴った言葉。その可笑しさに意識を集中させると、内容物は本来の居場所へ戻っていった。

 

「ご親切、ありがとうございます。なんとか、なりました。ふぅ~~」

「軍人さんは違いますな。我々はトイレか洗面所直行ですよ。おかげさまで、体重が5kgほど落ちました・・・・あはは・・は・・」

 

疲れ切った微笑みを示しながら、「私もまだまだですな」と所沢は真っ白になった頭を掻く。薄くなり始めている頭と心労の種は、決して無縁ではないだろう。

 

「・・・・・・・ずっと、考えてきました」

 

笑みを消し去った顔で呟く所沢。「何を?」は愚問であろう。一軍人に著名科学者の思考を推し量かることはできない。ただ、この場だけは彼の思考が分かるような錯覚を抱いた。

 

「百石提督。あなたの鎮守府には、“みずづき”という瑞穂と同時間軸の並行世界から来た艦娘がいらっしゃいますね?」

 

一語一句確かめるように言葉を噛みしめながら、所沢は海軍内でも少数の人間しか知らない機密事項を語った。

 

「はい。そうです」

 

しかし、困惑はない。今目の前にいる科学者は“みずづきの存在”より遥かに機密レベルの高い、漏らせば著名科学者とはいえ確実に暗殺されるレベルの機密事項を扱っている人間。彼にとってそれ以下の “些細な”機密を知っていたところで特筆すべきことはなかった。

 

「私はご覧のように生命科学しか脳がないため、詳しく把握しているわけではありませんが、なんでも彼女の世界は艦娘の艤装と同能力のものを科学技術で作っているとか・・?」

「はい。付け加えるなら、艦娘たちが大洋を駆け巡っていた90年後というだけあり、同じ艤装でも戦闘能力は桁違いです」

「それを用いて・・・・・・いや、自ら艦娘を生み出し、完全な独力で深海棲艦に対抗していると・・・・・・・・・。そうですか」

 

所沢は深く頷くと、氷が解けすっかり温くなってしまったコーヒーを口に含む。一瞬、彼に倣ってカップの取っ手に指をかけるが、止めた。所沢の放つ雰囲気が、弱り切ったものから決意を秘めたものに変わっていたからだ。

 

「百石長官」

 

所沢は修羅場を潜り抜けてきた軍人にも負けない視線で百石を射貫いた。

 

「彼女に・・・・・みずづきに、日本世界の深海棲艦について探りを入れてもらえませんか?」

「探りを、ですか?」

「はい」

「しかし、既に日本世界の深海棲艦についてみずづきへの聴取はあらかた・・・・」

 

言葉を遮るように、所沢は首を横に振った。そして、目の前に置かれた例の書類を指さした。

 

「これを踏まえての、詳細な調査です」

 

思わず、生唾を飲み込んだ。その言葉には“方法はいとわない”というかのような気迫が備わっている。公平性・中立性、規則・規範。普遍的かつ先進的な研究結果の創出に必要不可欠なそれらが最重要視される科学。当然、所沢を含めた科学研究に従事する科学者はそれらの重視が真髄にまで染み渡っている。

 

それを、科学者としての矜持・プライドを捨ててでも彼は探究を追い求めていた。今回、百石に示された純然たる事実は所沢ほどの科学者に半世紀近く順守してきた矜持を変形させるほどの威力を有していた。

 

「百石長官? 私はね・・・・・・・・・人間に不可能はないと思っています」

 

彼の目は真剣だった。あやふやな精神論や風説を根拠に語る宗教家や霊媒師と対照的に科学者らしく、その言葉の裏には誰も反論できない科学に基づいた根拠があった。

 

「航空機、艦船、鉄道、自動車はおろか、この部屋にある本棚や机、ガラス、照明・・・・・」

 

空になったコーヒーカップを持ち上げる。

 

「これすらも科学の産物です。人間は時間と血が滲む試行錯誤、数世代にわたる失敗と成功の連結によって、不可能と言われた様々な偉業を可能にしてきました。そしてこれからも、可能となる偉業は加速度的に増え続けます。そして、いつかは・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

重苦しいを通り越して、室内の空気が凍り付く。

 

「これはあくまで推論です。根拠はありますが、反対意見をねじ伏せるほど強固なものでもない。ただね、私も人間ですから思ってしまうのですよ。・・・・私たちは世界をくまなく見ているようで、実は見ていると思い込んでいるだけではないか、とね」

「だったら・・・・・」

 

所沢の真意を受け、沸騰しかけた頭。心の中に広がる得体のしれない恐怖心を隠すように、苦し紛れにはじき出した言葉を誰にでもなく呟いた。

 

「私たちは何と戦っているのでしょうか?」

 

それに対する答えはない。一日の勤めを終え始めた斜光がブラインドの隙間から、相変わらず薄暗い室内を照らしていた。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

言葉では形容できない、厳かな雰囲気。入ってくる者を拒絶する冷たさでもなく、逆に歓迎する温かさでもない。今や人工林とは思えないほど鬱蒼(うっそう)と生い茂った木々。感情の起伏もなくただただ鎮座する風雨によって若干青みがかった大鳥居。両脇そして頭上をせり出した木々と共存させている参道。

 

都内の喧騒から隔絶されたここは、「神聖」という人間が生み出した言葉を本能的に教えてくれる場所だった。

 

「・・・・・・・・・・・・修文神宮、ね」

「日本で言うところの明治神宮。祀られている神様は違うけど、位置は全く同じ。社の雰囲気とかは・・・・・・みずづきに一任」

 

東京都広しといえど、ここしか充満していない特別な空気を思う存分肌で感じながら、みずづきはこの神社の名前を呟く。そこから何かしらの感傷を感じ取ったのか、隣を歩いている陽炎が説明を開始するもののすぐに息詰まる。即座にこちらに投げてきた。

 

「ええ・・・・。乗りかかった船じゃんか。なんで途中でやめるの?」

「う・・・・・。だ、だって私駆逐艦だったから、明治神宮の大まかな概要は知ってても、詳しいことは分からないのよ!」

「陽炎、静かに」

「すいません・・・・・・・・・・」

 

陽炎の背中に川内から少しとげのある言葉が刺さる。ここは瑞穂でも屈指の知名度と気品を有する修文神宮。また、近代化を推し進め、現代瑞穂の礎を築いた修文天皇が祀られているということもあり、境内での立ち振る舞いにはそれなりに気を遣わなければならない場所であった。

 

白雪たちはともかくあの深雪でさえ、ここでは非常におとなしくしている。川内が境内へ入る前にきつく言い聞かせたこともあるが、決してそれだけではないだろう。

 

「えっと・・・・・。修文神宮は1906年、修文44年に崩御した修文天皇の御神霊を祀るために造営された神社・・・」

 

陽炎が川内から注意された一端はこちら側にもあるため、彼女の下がったテンションを回復させようと原宿駅で手に取った無料パンフレットに書かれている文章を読む。その効果はあったようで陽炎は下降したテンションを即座に回復させ、胸の前で広げているパンフレットを覗きこんでくる。

 

「例年初詣客は都心の至近と言うこともあり瑞穂一を誇る」

「本当に明治神宮そのままだね」

 

陽炎が読み上げた文章やパンフレットの内容、そして参道の雰囲気。それらを見るとそうとしか言えなかった。

 

「みずづきは明治神宮に来たことあるんやんな?」

 

会話を聞いていた黒潮が尋ねてくる。六本木のとあるレストランで昼食を取った際、明治神宮と酷似した「修文神宮」に行く話を聞いたのであらかじめ彼女たちには「明治神宮に行ったことがある」旨を伝えていた。

 

「うん。小さい頃に家族と旅行でね。まぁ、あまりにも小さかったからほぼうろ覚えなんだけど。でも、この雰囲気は変わらないな~」

 

幼心に日本の明治神宮で感じた俗世とは明らかに次元の違う空気。ここ修文神宮も記憶の彼方で霞みがかっている感覚と同じものが漂っていた。

 

「そっか、日本の明治神宮もこんな感じなんだね」

 

神妙な面持ちで川内が周囲を見回す。神社は何も造営物と自然物だけで成り立っているわけではない。参拝者が柏手(かしわで)を打ち、おみくじに一喜一憂し、祭事に参加し、記憶にとどめてこそ信仰を集める神社である。参道には平日にもかかわらずこれから参拝へ向かう人、もう終えた人、単に散歩や散策、ジョギングに勤しんでいる人などで賑わっていた。

 

「お、拝殿が見えてきたぜ!」

 

いくらリラックスできる雰囲気とはいえそろそろ飽きていたのか、御社殿が見えてきた瞬間、深雪が歓喜に沸く。視界が開け、木々が急速に遠ざかっていく。砂利から石畳に変わる参道。その先に多くの人々が願いを捧げている外拝殿が堂々たるたたずまいで構えていた。

 

「やっと・・・・やっと・・・。長かった・・・・・」

「ちょっと初雪って・・・・はぁ~」

「もう・・・・初雪ちゃん、さっきまで歩いてたんだから、一人で歩けるでしょ? もう・・・」

 

 

注意しようとした川内だったが、息絶え絶えの初雪のうめき声が機先を制する。初雪は白雪にもたれかかり、彼女に肩を貸してもらう形で一歩一歩足を進めていく。当初は頬を膨らませていた白雪だったが、すぐに優し気なほほ笑みに変わった。

 

「初雪も疲れてるんだね」

「そりゃ、何気に黒潮や深雪並みにはしゃいでたからね、あの子」

 

陽炎が相槌を打つ。

 

「今日は楽しかったな~。東京タワーに六本木・赤坂。新宿で横須賀のみんなへのお土産も買えたし、夕闇に染まる空の下でお参り。ここまで羽を伸ばせたのは本当に久しぶり!」

「私もよ! わたしも! 最近は訓練に演習、帰っても報告書の作成やら明日の打ち合わせやらでろくに遊べもしなかったし。はぁ~~、これで幾分充電できたわ!」

 

茜色に染まり、東から紫色が迫ってくる空を見上げながら、陽炎と共に今日一日を噛みしめる。

 

近づきつつある、MI/YB作戦。今後の戦局、そして瑞穂の命運を左右する戦いは実感が湧かないほどゆっくりと、しかし着実に迫ってきている。気持ちを切り替え、明日からは再び訓練に邁進する日々だ。

 

陽炎の横顔を盗み見る。こちら同じように上空へ向けられる視線。そこには待ち受けているであろう苦難を覚悟する真剣な瞳があった。お互い、息抜きの余韻を壊したくない一心で口にはしないものの、抱いている想いは酷似していた。

 

「陽炎ーー! みずづきーー! 何してんの!! お参りするよ! お参り!」

「「へ?」」

 

いつの間に川内たちは外拝殿の前まで進み出ていた。参拝の列などはないため、すぐにでも柏手を打てる状態。慌てて、川内たちと合流する。

 

「うちは何をお願いしようかな?」

「休みが増えますように・・・!」

「だったら俺は給料が増えますようにで、どうだ!」

「二人とも、罰が当たっても知らないよ。もう少し、こう人様のためになるものにしようよ。というか、初雪ちゃん? 元気になったんなら一人で歩けるよね?」

「う・・・・急に動悸が・・・・」

 

表参道の脇では陽炎を除く駆逐艦たちが願い事を思案していた。少し遅れての合流となったがなかなかに難航している様子を見るとこちらも願いごとを熟慮する時間を確保できそうだ。自分たちを置いていったことへ恨み節の1つでもかましたいが、川内の前で和気あいあいと願い事で盛り上がっている駆逐艦たちを見るとどうでもよくなった。

 

「ん?」

 

そこで、何故今まで気付かなかったのかと過去の自分を殴りたくなるほどの異様な光景に気付いた。

 

「ねえねえ、陽炎?」

「私か~~~、どうしよっかな? って、みずづき? どうしたのよ? 願い事、何にするかって?」

「えっとね・・・あのね?」

「なになに、どうしたん? みずづき」

「ん?」

 

陽炎が不思議そうに顔を覗きこんでくる。彼女と願い事を話し合っていた黒潮や川内も同様だ。その表情を見て、質問の有無を迷ったが思い切って聞いてみることにした。

 

「陽炎たちって、軍艦の転生体・・・・・付喪神のような存在だよね?」

「そうだけど・・・」

「そのあまり気を悪くしないでほしいんだけど、人とは違う神様のような存在が神社にお参りするのはどんな気分なのかなって・・・」

 

陽炎たちはこちらの質問に瞬きを繰り返した後。

 

『あああ~~~~』

 

と、間抜けな感嘆を漏らした。

 

「やっぱり、みずづきもそう思う?」

「逆にみずづきだから、かな?」

 

陽炎と川内が苦笑気味に問うてくる。

 

「やっぱり?」

「私たち今まで初詣とか戦勝祈願とかで横須賀の神社とかにお参りに行くんだけど、そのたびに言われるのよね。今、みずづきが言ったことと同じようなこと」

「あはははは・・・・」

 

どうやら、先人たちはきちんと世にも不思議な光景にツッコミ入れてくれたようだ。少し眉に皺が寄ったあたり、陽炎のお気に召してはいないようだが。対照的に川内は普通に笑っていた。

 

「そりゃ普通に考えたら、おかしいよね。神様みたいな存在が神様に祈願するんだもん」

「でもうちら神様って言われても、そんな実感ないからな~」

「露骨に社を立てられて、崇められたこともないし・・・。艦内神社は別だよ?」

「神様として力を及ぼして何かを達成したこともあらへんし・・・・」

「柏手打たれて願いを託されたこともない・・・・・・あったかな?」

 

最後はなんとも締まらないが、総じて3人はみずづきの言葉の前に「う~ん」と首をひねり続ける。その様子があまりにおかしく吹き出してしまった。このような可愛らしい神様は信仰以上のものを集めそうだ。というか、現に集めているともいえるだろう。

 

「やっぱりそこいらに鎮座されている神様たちとは違うみたいだね、陽炎たちは」

 

その言葉がよほどうれしかったのか、陽炎は満面の笑みでウインクを決める。

 

「さっすが、みずづき。分かってるじゃない! 私たちはあやふやな神様じゃない。この世に生を受け、この体を持ったこの国に生きる人々の未来を守るため、あの人たちの想いを受け継ぎながら戦う艦娘。みんなとなんにも変わらない。少し境遇が違うだけの存在よ」

 

その言葉を紡ぎながら示される陽炎の表情と仕草、そして雰囲気がなにより彼女の言葉を証明していた。陽炎の言葉に川内と黒潮も「うんうん」と笑顔で頷いている。

 

みずづきが抱いた疑問は無粋だったようだ。

 

「よし! 決まった!! 川内さんたちはどうだ?」

 

深雪が飛び跳ねながら尋ねてくる。白雪や初雪もどうやら決まったようだ。

 

「みんな、大丈夫?」

「うちは決定済みや!」

「左に同じ」

「右に同じです!」

 

右側に立っている陽炎に倣う。願い事は既に決めていた。深雪はそれを聞くとすぐに外拝殿へと進み出る。

 

「こら! 深雪! こういう時ぐらい落ち着きさない!」

 

それに構わず、「早く早く」とこちらを急かしてくる深雪。彼女はどこでも平常運転だ。周囲の人々も自分たちが艦娘だとは露知らず、微笑ましく見守ってくれている。

 

「まったく、それじゃ行こっか」

 

川内に続き、多くの人々が現在進行形で祈りをささげている外拝殿へと近づいていく。

 

ここでの願い事は果たして叶えられる日が来るのだろうか。

 

修文神宮が今日最後の目的地。参拝を終えると、横須賀への帰路となる。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

正面の開け放たれた窓から黄金色に輝く丸い月が見える。左上に雲を従え、障子と土壁の額縁から見えるその姿は、高名な絵画と見間違えるばかりに美しい。残暑も過ぎ去りつつある中、いまだ夏と勘違いしてリンリンと優しい音色を鈴虫たちの合奏は、眼前の絵画に華を添えていた。

 

視線の下には、何度食しても飽きないお袋の味が染み込んだ懐石料理と数本の徳利がある。

 

帰心の知れた仲間同士でこの席を楽しめたなら、どれほど良かっただろうか。

 

もはや過去となってしまった光景を、つい忍んでしまう。目の前には本来ならこのような席を囲みたくもないメンツが座っていた。おかげで室内の空気も最悪。対面に座っている男たちはわざわざ持参した軍刀に手をかけそうな雰囲気をまとっていた。

 

「鬼のいぬ間にそのような知らせるため、祖国に身を削って報いている我々を呼び出したと。貴君はそうおっしゃるのですかな?」

 

「本物の海軍軍人なら人前で祖国に身を削って報いているなどと言わない」と心の中で愚痴を吐き、外の情景へ飛んでいた景色を現実(室内)へ引き戻す。満月の月と雲が織り成す絵画の下には、感動を一瞬で、不快感で塗りつぶしてしまうほどの人物たちが酒を仰ぎ、料理を摘まんでいた手を止め、こちらに殺気を向けていた。

 

下品極まりなく鼻の下に蓄えた髭と唇に直接徳利を当て、酒を飲んでいた男性は発言後も「早く答えろ」と睨み続ける。自分たちの頭でこちらの意図をくんでほしかったのだが、さすがにこれ以上沈黙を続けると軍刀で切られかねない。

 

こちらの真剣さを言葉にせずとも伝えるため、相手の目を射貫いたまま口を開く。

 

「ご多忙の身を考慮しても、今日お呼び出しすることが賢明と判断し、このような場を設けさせていただいた次第です」

「貴様、何様だ! 敗残兵ごときが誇り高き横須賀特別陸戦隊司令にそのような口の利き方。貴様の替えなどいくらでもいる。ここで天誅を下してやっても良いのだぞ!」

 

煮卵のように頭皮が黒ずみ、毛髪が全滅している男性は激高した様子で勢いよく膝を立てると、座布団の淵に置いていた刀を持ち上げる。彼の顔は本気だった。

 

彼らにとって、自分は戦場からおめおめと生きて帰って来た恥知らず。いくら一艦隊の指揮官であろうとも、先任であろうとも、房総半島沖海戦で生き残った「霧月」と大戦初期に壊滅した第2艦隊の生き残り3隻で構成された艦隊はスクラップ同然と思っている。そんな自分に敬意を示すような軍人ではないことは初めから分かっていた。

 

「武原、座れ。陸戦兵の命である刀をこのような細事で穢してならん」

「申し訳ありません、和深閣下」

 

髭を蓄えた男性が真顔で武原と呼んだ煮卵頭を制する。武原は男性に一礼すると、居ずまいを正した。しかし、相変わらず殺気は収まらない。日常的にとある人物の殺気を感じてきた身にとっては何ともないが、それを少しでも示唆すると切られそうであるため黙っておく。

 

対面に座っている2人の男性。海軍の軍服を着て、軍刀を所持していることからも分かる通り彼らはれっきとした海軍軍人である。

 

髭野郎は10月1日付で佐世保特別陸戦隊司令部より異動してきた、横須賀特別陸戦隊司令官和深千太郎(わぶか せんたろう)中佐。

煮卵頭は同じく10月1日付で沖縄防備隊より異動してきた、横須賀特別陸戦隊第1特別陸戦隊隊長武原勝(たけはら まさる)少佐である。

 

「いくら、あなたのお言葉とはいえ、それらを受け入れることはできません」

 

和深の言葉を受けまた一段階、室内の緊迫感が上昇した。

 

「これは御手洗中将直々の命令です。先ほど申し上げた期限までに計画の中止が行われない場合、我々は最終手段を講じることになります」

「やれるものなら、やってみるがいい。そもそも、あの御手洗閣下が我々と志を異にされていること自体がおかしい。我々は貴様の言葉を信用することができない!!」

 

和深と話しているにもかかわらず、武原が煮卵頭を真っ赤なタコ頭にして反論してきた。「黙れ」と睨みつけるが、意に介さない。

 

「御手洗閣下は孤軍奮闘の苛烈な戦いを通じて、我々の心を欺くため忌々しくも婦女子を模した化外(けがい)の正体を暴き、危険性を唱え続けられてきた! 昇進の道を捨て、汚名を被ろうとも、この大瑞穂のために骨を砕いて来られた! そのような偉大なるお方が化外の正体に近づく今次計画の中止を求められるなど、あり得ない!」

「私が誰かお忘れですか? 私はあなた方が全幅の信頼を置いている御手洗中将ご自身からの特命を受けて参っているのですよ。これは嘘偽りのない御手洗中将のご意思です。神仏に誓って断言いたします」

「神仏に誓って、だぁ? 貴様がどれほど言葉を重ねようが我々の認識は揺るがない。貴様らは・・・東京は権力と地位が欲しいがために的場と妥協に妥協を重ね、許しがたいことに化外の排除を脇に置き、擁護派どもと手を結んだ。我々に断りもなく、突然、一方的にだ!」

 

唾を周囲に飛ばしまくり、武原は自分たちにとって都合のいいように作り替えた事実を垂れ流す。本気でそうだと信じているのなら、もはや妄想と現実の区別がついておらず、即刻精神病院に入院しなければならないほどだ。

 

彼の言っていることも全てが虚偽なわけではない。事実、すでに艦娘の排除及び軍人による国防の完結を大戦勃発以降声高に叫び続けていた排斥派は綿密な人間関係を維持しているものの、「MI/YB作戦早期実施」「房総半島沖海戦の敵討ち」の御旗の元に多数の擁護派を巻き込んで「攻勢派」として姿を変えていた。しかし、これにあたりもともと血の気が多い将校たちの反発を抑えるため、排斥派上層部は目回しに目回しを重ねた。当然、彼らにもその話を伝わっており、蚊帳の外に置いた事実はない。

 

「裏切者!」と突っぱねたことを蚊帳の外に置いたと表現する事は、ただの強弁でしかない。心の中で長いため息をつく。彼らがもう手に負えられないほど過激化しているとは報告を受けてはいたが、御手洗が特命を発したことも納得だ。

 

「前科がある人間の言葉など誰が信じようか。御手洗閣下、御手洗閣下を連呼するが、それが御手洗閣下のご意思だとは到底思えない!!」

「どういうことだ?」

 

自身の妄想を貫き通すためだけに御手洗の意思を捻じ曲げようとする姿勢に膨らみに膨らんでいた堪忍袋がついに限界を迎えた。破裂はなんとか抑えつつ、ドスの聞いた低い声で問いかける。こちらの反応があまりに予想外だったのか、武原は先ほどまでの挑戦的な姿勢を一変させ、「いや・・・・」と目を泳がせる。額には急速に汗の球が出現していた。

 

「我々は、御手洗中将はあなた方にたぶらかされているのではないか。そう思っているのですよ」

 

怯えてしまった武原とは対照的に和深はお猪口をあおりつつ、平然と答えた。

 

「いくらあなたが御手洗閣下の特命を口にされても、我々に疑念がある以上、あなたのお言葉は我々の胸に御手洗閣下のお言葉として届かない。である以上、我々は我々の信念に従って行動させていただきます。申し訳ありませんな。それに・・・・・・」

 

和深は武原など吹けば飛んでしまうほどの物々しい気迫を乗せた視線を向けてきた。背筋に悪寒が走る。

 

「既に賽は投げられました。今さらどうこうしろ言われても、もう遅いのですよ。潜入させた手駒には命令を下し、おそらく数日中に計画は実行されるでしょう。邪魔されるも、傍観されるもあなた方の自由だ。しかし、これだけは言っておく。正義は我々にある。その正義を邪魔しようというのなら我が横須賀特別陸戦隊が総力をもって聖戦遂行に身命を賭すだろう」

 

その言葉に頷いた後、額の汗を拭った武原も死を覚悟している視線を向けてくる。

 

来るべき流血の事態を避けるために行われた会談。それは和深たちの見当外れな硬い意思によって決裂した。

 

 

 

 

 

 

「はぁ・・・・・・・・・」

 

会談の内容を反芻するたびにため息が漏れる。そして、徳利を仰ぐごとに消えていく焼酎。先ほどまでは全く気が進まなかったにもかかわらず、今は面白いように酒が進んだ。あれほど、残っていた懐石料理もほとんど消えている。

 

「やはり、もう強硬手段しかないか・・・・・・」

 

唐突に自身しかいない室内に他者の声が響く。振り返ると開け放たれた障子越しに、深い皺が刻み込まれ、不機嫌そうな様子の海軍軍人が立っていた。直に彼らの様子を聞こうと最初から対面の部屋で聞き耳を立てていたが、彼らの退散を確認したが故に姿を現したようだ。遥かに階級の高い人物であったが、もはや敬礼をする気力もない。軍人はそれに眉をひそめることもなく、隣に腰を降ろした。直に畳へ座っているため、「せめて座布団でも」と腰を上げるが「いい」とぶっきらぼうに気を遣われる。

 

軍人は窓から見える満月に視線を向けた。

 

「私がたぶらかされているとは、他人の分際でよくも言ってくれる」

「さすがは中将閣下。熱い信頼を勝ち取られていますな」

 

苦笑を浮かべながら皮肉を言う。中将はバツが悪そうにこちらを一瞥した。

 

「あれは信頼ではない。依存だ。自分たちの信念が崩れていく様に恐怖を感じ、必死に拠り所へすがっているだけ。・・・・・・・・醜いものだ」

 

そう言いつつ、彼の口調は蔑みに染まってなどいなかった。

 

「しかし、最悪の事態となりました。いかがいたしますか?」

 

その問いを受け、御手洗がこちらへ視線を向けた。

 

「既に警備隊の有志には伝えてある。あの野獣ども従えている川合なら、作戦を知っても動揺せず的確に制圧へ動いてくれるだろう」

「お言葉ですが、警備隊は所詮警備隊。陸戦隊とは兵力も装備も桁違いです。陸軍を動かすことはできないのですか?」

「そんなことをすれば、この一件は確実に現体制の転覆を図ったクーデターとして処理される。一応関東方面隊と話はつけているがそうなれば、和深も武原も死刑は免れん。瑞穂海軍の名誉は今度こそ地に落ちる。また短期的な影響に留まらず歴史に未来永劫、海軍は同族殺しをしたと刻み込まれるんだぞ?」

「陸軍が動かない以上、もし衝突に発展すれば警備隊側に多数の犠牲者が、そして艦娘たちにも犠牲が生じるかもしれないんですよ!? そうなればますます・・・・」

「落ち着け。俺は犠牲者を1人も出さないために今日まで必死に駆け巡ってきたんだ。既に手筈は整った」

「っ!? では?」

 

彼の言葉に心から歓喜か湧き上がる。もう少し酒が回っていれば上官の前でありながら、子供のように飛び跳ねてしまうところだった。彼も最初は強い口調だったものの言葉を重ねるごとに気迫は消え、最後には笑みを浮かべていた。中将は未使用のお猪口を傾ける。彼の意図を察し、まだ手を付けない徳利から酒を注いだ。彼は満足げにお猪口を揺らす。

 

「ああ。万全を期すために俺が乗り込むことになるだろうがな?」

 

そう言って、中将はお猪口を仰ぐ、一気飲みだ。その言葉は彼の性格を考えれば至極簡単に思いつく帰結だが、いまだに一抹の不安が消えない。その心情を察したのだろうか。中将は再び窓の外に浮かぶ満月を見ながら言った。

 

「・・・・・あの世にはあいつらがいる。だが、あいつらは優しいから俺が来ることを望んではいない。雪子は今も幸せだったあの頃の面影を胸に抱いて、俺の帰りを待っている。1人の男として、あいつを残しては逝けない。・・・・・俺は意地でもまだ死なない。だから、安心しろ。万事解決して、勝利への道を進むのだ」

 

迷いを感じさせない力強い言葉。彼は相変わらず、月を眺めていた。その横顔からでも彼の覚悟を把握することはできた。

 

光を宿す瞳。

 

その瞳に見据えられた月は雲を被ることもなく、闇に沈みかけた世界を淡く、優しい光で照らしていた。




本当は日本人なら誰でも知っているようなところではなく、もう少し東京らしいところを描きたかったのですが、東京に土地勘がない作者には無理でした(東京は時代ごとに変化か著しい街ですから、なおさら難しい・・・・・)。

次話から舞台は横須賀に移ります。



ここからは恐れながら、文中に出てきた難しい言葉の解説を少々行いたいと思います。雑談のようなものなので、興味がない方はスルーしていただいても結構です。
(私が習った内容に基づいてお話するので、この点に留意してもらえると嬉しいです)

注釈する言葉は「化外(けがい)」という言葉です。初めて目にするという方も多いのではないでしょうか。

この言葉は隣国で21世紀の現代でもそれなりに影響力を持っている中華思想、厳密にいえば華夷秩序と呼ばれる、中国皇帝を中心とした東アジアにおける階層的な国際関係において登場する概念です。華夷秩序は現在の国際関係(主権国家は例えアメリカだろうが、アイスランドだろうが平等)とよく比較される国家間(王朝間)に純然たる序列が存在する不平等な国際関係です。この華夷秩序の世界観は円でよく表現され、皇帝を世界の中心として、皇帝から地理的に遠ざかるにつれて内臣、外臣、朝貢国と区分されていきます。多くの方もご存じのとおり、かつて朝鮮やベトナムは中国王朝に貢物を送り、その代わりその土地を統べる王と認められていたため、朝貢国でした。日本も室町時代の一時期などは朝貢していたため、朝貢国になるかもしれませんが、島国であるためか少し曖昧です。この朝貢国の外側、すなわち中国皇帝の支配を受け入れない、または及ばない地域の民族、集団が「四夷(しい)」あるいは「夷狄(いてき)」とされていました。そして、このさらに外側にいるのが「化外」です。

wikiでは夷狄と化外が同じ領域の概念のように書いてありましたが、少なくとも筆者が聞いた話では、夷狄より化外が外です。

中国では、武力で抹殺する欧米諸国と異なり、相手が自ら進んで支配下に入りたがる高貴さ、教養深さ(徳)を持って支配することが文明的とされ、皇帝は王や民を教化し、導かなければならないと考えられていました。この思想には夷狄も含まれるそうです。

この点を抑えた上で、化外の話に戻ります。「化ける」という字は化物などにも使れるとおり、人ではない獣を表す漢字です。

「化外」とはすなわち、「人ではない」ため『教化する価値もない獣』という意味があり、中国における他民族への蔑称でも激烈な部類に入ります。欧米でいうところの“イエローモンキー”でしょうか。中国は朝鮮や日本になどに対しては使用していなかったそうですが、未開の原住民や欧米人には公文書で使用したことがあったそうです。

なので「化外」はかなりヤバい表現です。蛮族や原始人、未開人、土人などとは次元が異なることだけはご理解いただいた上で、文中の発言。

・・・・彼らは艦娘に対して“そういう”認識ということです。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。そして、少し端折り気味なのでおかしいところがあるかもしれませんが、すみません。作者が勉強不足です。

もし、周辺で軽々しく「化外」などと使っている人がいたら、さりげなく注意してあげて下さい。いつか問題になった土人よりこちらの方がヤバいです。



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