水面に映る月   作:金づち水兵

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「まだ」と言って、まだ2、3話続くのかな? と思われた方がいましたら、ごめんなさい。話のテンポが悪いので2話で本話63話を構成し、64話と二話連続投稿を意図していたことをすっかり忘れていました。

ですので、今日が・・・第2章が完結を迎える日です。

いろいろバタバタしていて(イベントのせいではありませんよ・・・・・うん・・)、誤字・脱字が乱舞している可能性があります。その点を頭の片隅に入れて、読んでいただけると幸いです(汗)


63話 同じ空の下

雲1つない真っ青な空。ついにやってきたと梅雨の鬱憤を晴らすかのように、思う存分大地を照り付ける太陽。それによって天井知らずに上がっていく気温。長い長い地中生活を終え、夏の風物詩を奏でるセミたち。全開にした窓から、それら夏の雰囲気がこれでもかというほど流れ込んでくる。それを背に腕をまくり上げ、書類に目を通す百石。セミの鳴き声程度ならなんとも思わないのだが、夏が生み出す試練はさすがに看過できなかった。

 

「あ、暑い・・・・・・」

 

書類から手を放し、背もたれに全体重をかける。鈍い音を上げ、少し傾く背もたれ。扇風機に飛ばされないよう、書類に重しを乗せることは忘れない。毎年毎年、乗せ忘れで悲劇を味わっているのだ。こんなに蒸し暑い中、しなくても良かったはずの書類整理をするなど、徒労もいいところだ。

 

「提督、さきほどもそうしておられましたよね? お気持ちは分かりますが、早く目を通して下さい。それ、憲兵隊からの申請書ですよ」

「っ!?」

 

額に汗をにじませつつ、文句1つなく事務仕事を手伝ってくれる長門。見るからにこちらと同様の不快感を味わっているだろうが、平然としている。その姿には、もう何度目か分からない感心を抱かざるを得ない。夏になるとあからさまにやる気を無くす一部の艦娘には見習ってほしいものだ。

 

長門に指摘され、再び書類に手を伸ばす。

 

憲兵隊の書類。それを聞くと、あの時の惨劇が頭をよぎってしまうのだ。

 

「分かってる。んだが・・・・・・・・しかし、あの時はひどい目にあった。提督としての威厳のなさを痛感したよ・・・・」

「ふふふっ」

 

口元に手を伸ばし、上品に微笑む長門。同情の色が見えるため、それだけで心の救いだ。

 

あの惨劇。時間は、加賀たちの作戦が成功し、みずづきがいつものみずづきに戻ったあの朝までさかのぼる。百石と筆端、そしてその後ろで成り行きを見守っていた将兵たちは、艦娘たちの笑顔を見て安堵。特に2人はその心情が大きかった。榛名たちの明朝退院や加賀たちによる突撃をはじめとした艦娘たちの作戦を聞いた時は嬉しさが込み上げてきたものの、正直不安も大きかった。失敗すれば、取り返しのつかないことが目に見えていたため、当然である。だが、彼女たちは独力で生じた問題を解決したのだ。彼女たちを部下に持つ指揮官として、誇らしく思わないわけがない。

 

感動に打ち震える心を抱えて、2人は艦娘たちへと歩みよった。手をふるとみんな満面の笑みで答えてくれた。

 

「作戦成功、か。こちらの出番はなかったな」

「そのようなことは・・・・。提督のご助力がなければ・・」

「謙遜しなくてもいい長門。これは、君たちの絆が生み出した結果だよ」

 

見守るように、みずづきを取り囲む艦娘たちの輪から少し離れた位置にたたずんでいた長門。満足そうで、優しさを湛えた笑顔に、もう悲壮感はなかった。

 

 

 

だが、舞い上がる気持ちと長門に意識を取られ、肝心なことに全く気付かなかった。

 

 

 

「あっ!? 司令官!!」

 

声を上げる深雪。こちらに気付き、艦娘たちは輪を解いていく。

 

「みんな・・・・って」

 

取り囲まれ、瑞穂人と同じ黒髪しか見えていなかったみずづきの姿が露わになる。遠征前までいつも浮かべていた笑顔。それが再び戻ってきたことを感じると安堵の吐息をつきたくなったが、眼前の光景はそれを許してはくれなかった。

 

瞬時に明後日の方向へ飛ぶ視線。筆端の顔を一瞥すると彼も全く同様の行動を取っていた。顔が・・・・赤い。どうやら、彼も気付いてしまったようだった。

 

「ん? どうしたんですか? 2人とも、なんで視線を・・・・・って、っ!?」

 

みずづきは不審がり、自然に自分の体を確認して、固まった。段々と赤くなってく顔。

 

おそらく、寝起き直前かそれに近い状況で、無理やり引っ張り出されたのだろう。彼女は寝間着である作務衣を着ていた。そして、それは就寝時の寝心地を良くするため比較的薄い生地で作られている。そのため、雨にぬれたりすれば・・・・・・・・。

 

「す、すまない! でも、これはその・・・お、俺はそこまで目が良くないから、そんなに捉えられていないぞ! ねぇ!! 先輩もそうでしょ!!」

「ああ!! 当然だ!!! この年にもなって、こんな状況に感化されるなど・・・」

「きゃあああああああっ!!!」

 

甲高い悲鳴。胸元を隠し、みずづきは顔を真っ赤に染め、その場にしゃがみ込む。彼女の前に立ちふさがり、こちらへ鋭く、えげつない視線を向けてくる艦娘たち。

 

さきほどまでの感動はどこへ行ってしまったのだろうか。顔から血の気が引いていくのが分かる。

 

「ま、待って!! 確かに見たのは見たが、その・・・・・」

「正直、下着かどうか判別できなかった、ていうのが正しいところで、みずづきの反応が証拠になってしまったというか・・・・」

「先輩!!!」

 

ピ―――――――――。

 

鳴り響く警笛音。それだけで今後、どのような展開が訪れるか予測できてしまった。振り返ると、そこには鉄帽をかぶって程よく視界を遮った川合を筆頭とする警備隊が十数人、こちらへ猛進していた。

 

真っ赤だった顔が、一瞬で真っ青に変貌する。あまりに急変ぶりに顔の血管たちもさぞ驚いていたことだろう。

 

「百石司令長官。筆端副長官。あなた方にはその他もろもろの嫌疑がかけられていますので、ご同行願います」

 

目の前に立つ川合。連動してこちらが反応する前に、左右と後ろを固める屈強な警備隊員。同行はもはや既定路線らしい。大体、軍規には不可抗力で女性の下着を見てしまったことに関する罰則もなければ、規定もない。当然、それ以上になれば存在するが。

 

「その他、もろもろって、川合大佐? もしかして私たちを暇つぶしの道具に・・・」

「連行します」

 

毅然とした反応。

 

「そうなんだな・・」

 

筆端が顔を引きつらせる。どうやら、まんまとハメられたらしい。ヘルメットを被っていたあたり、玄関でこちらと同じように艦娘たちの様子を眺めながらこの展開を予測していたようだ。

 

「えっと・・・・け、憲兵隊はどこに?」

「あちらの方がいいですか?」

「いえ、遠慮しておきます・・・・・・」

 

あの毒舌が封印されるほど絞られた御手洗たちを間近で見ていれば、「うん」などとは絶対に言えない。拘束はされなかったが、あの中将は中堅将兵でもトラウマもののお説教をみっちりくらっているのだ。

 

「じゃあ・・・・憲兵隊は?」

「あちらです」

 

川合が指さした方向。1号舎の玄関前では警備隊といかにもエリートという雰囲気を醸し出した憲兵隊が、激しい火花を散らせていた。見ているとこちらまで熱を感じる。「そこを通せ!! 司令たちは我々の獲物だ」と叫ぶ憲兵隊に対し、「頭でっかち野郎の獲物は机の上にある書類だけだ!! さっさと事務処理に奔走して来い!!」と行方を遮る警務隊。一見すると今にでも殴り合いが始まりそうだが、楽しそうな雰囲気を感じるのは気のせいか。

 

「我々にも、梅雨明けが必要ですな」

 

日光を遮りながら、空を見上げる川合。なかなか様になっている。そのすがすがしい表情に、さすがに文句は言えない。

 

 

・・・・・・・わけがない。

 

 

「「ふ、ふざけるなぁぁぁ!!」」

 

 

みずづき並みの声量で、そう叫ぶのは当然の反応だろう。

 

 

そして、今日に至る。あの日から1ヶ月近くが経過したものの、いまだにハメられた時とその後の事情聴取を思い出しただけで頭が痛くなってくる。これはもう一生物の記憶だろう。

 

「はぁ~」

「まぁまぁ、提督。川石大佐たちも提督を信頼しているからこその行動ですから。畏怖されていたり、嫌われていたりすればこのようなこと絶対にありませんよ?」

 

苦笑しつつ長門が励ましてくれる。謀られた本人としては最悪で個人としてはかなりの怒りを抱いたが、横須賀鎮守府司令長官としてはやられた腹いせに処分を下すなどの行為は行っていない。あの頃、房総半島沖海戦とみずづきの暴露を受けた艦娘たちの動揺によって鎮守府の雰囲気は落ちるところまで落ちていた。いつも以上に鎮守府が静かに感じたのも、雨のせいだけではなかった。第5艦隊は霧月を残して全滅し、関東に展開する海軍航空隊も甚大な被害を受け、実際に小海東岸壁は遺体の安置場所となっていた。沈むのは当然だろう。どうしたものかと頭を抱えていのだが、あの出来事が鎮守府を盛り上げる格好のネタとなったのだ。

 

“不可抗力でみずづきの下着を見てしまい、警備隊に連行された”

 

これに憲兵隊との獲物争奪戦や百石たちの足掻きが加われば、笑わない者はいない。おそらく川合たちもそれを見込んで、あのような暴挙に出たのだろう。ならば、この鎮守府を預かる身として何もいうことない。

 

だだ。

 

もう少し別の方法にしてほしかった。

 

因みに、警備隊に対する処分は下してないが「下着は何色でしたか?」などと安易に聞いてきた不届き者には、厳罰を与えている。妻子持ちは同情の余地なしだ。

 

「そうなんだがな・・・・・・て、長門?」

 

何気なく聞いていると、とある言葉が耳に引っかかる。

 

「はい・・・・・?」

「畏怖は必要じゃないか? というか、俺、やっぱり畏怖されてないんだな・・・・・」

「あっ・・・・・」

 

しまったと言わんばかりに、動きを止める長門。「はぁ~」と再び大きくため息が出てくる。「いや、その・・・・これは言葉のアヤで、ご、誤解です!」と必死に弁解する姿が、さらに虚しさを増大させる。わたわたと電のように慌てふためく彼女は珍しいが、じっくりと観察する気分ではなかった。

 

「百石? いるか~?」

 

現実を認識し、乾いたぎこちない笑みを浮かべていると、ノックが響き1人の男性が入室してくる。額に汗をにじませ、腕をまくっている姿は百石と全く同じだ。

 

「先輩? どうしたんですか? 会議はまだ先じゃ・・・・・」

「いやいや、その件じゃない。これ」

 

そういうと筆端は、右手に持っているそこそこに分厚い冊子を掲げる。

 

「霧月の損傷状況に関する最終報告書だ」

「ああ、昨日言われていたやつですね。分かりました。目を通してきます」

「それにしてもかなりかかりましたね。通常ならもう少し早く完了する印象を持っていましたが・・・・」

 

こちらの様子を若干覗いつつ、長門が筆端に声をかける。来客があっても、さきほどの話を忘れることなく気に留めてくれているようだ。

 

「なんでも、損傷箇所には出来る限り新しい技術や部品を使って、修理とは一線を画すらしいんだ。まぁ、体よくいえばついでの改装だな。どれほどの規模で行うのかはまだ決まってないらしいが・・・・・・」

 

思案顔だった筆端の顔が、厳しくなった。不思議に思い、彼の視線を負う。長門が座っているソファーの前。小さなテーブルの上に置かれている新聞に視線が止まっていた。今朝登庁後に読んでいた今日の朝刊。百石と長門もそれを見た途端、筆端と同じ表情になる。新聞は半分に折りたたまれているが、ちょうど一面のトップ記事欄が見えていた。

 

そこに踊る文字。

 

『早期の報復攻撃 支持8割越え 本社緊急世論調査』

『共革党、海軍軍令部上層部の国会への証人喚問を自憲党へ要求』

『佐影総理、引責辞任を改めて否定』

 

それは、あの攻撃以来この国に渦巻きだした悪しき流れを体現するものだった。

 

「・・・・・・軍令部でも、世論に感化されたのか、利用しているのかしらないが早期に反攻作戦を実施すべきとの意見がかなり大きくなり始めている。総長が抑え込んでいるが、世論に押された政府の意向とそれを盾にした排斥派の攻勢で、予断を許さない」

 

打って変わって、危機感を帯びた声色。百石も長門も、ただ沈黙をもって同意を示すしかない。

 

あの戦い以降、瑞穂の雰囲気は大きく変わってしまった。空爆を伴った深海棲艦空母機動部隊による奇襲攻撃と本土決戦の恐怖を味わった国民は、再発防止と国防強化を訴え、攻撃部隊の本拠地と目されているミッドウェー諸島への全面攻撃を声高に叫んでいた。最初は一部の識者や国防政策に明るい者たちの間で収まっていたのだが、メディアと野党である共和革新党(共革党)が便乗したため、今や国民の大多数が支持するに至っている。その動きは日を追うごとに増加し、連日国会議事堂や市ヶ谷の国防省前で激しいデモが繰り広げられている。そして、1週間ほど前から過激化したデモ隊と警視庁機動隊が衝突し、一昨日にはついにデモ隊に2名の死者が出てしまった。

 

政府も大本営もミッドウェー攻略はまだ「時期尚早」とし、いかにこちらの準備が整っていないか、いかに敵が強大かを、国会、記者会見、メディアを通じて国民に説明を繰り返しているのだが、一度燃え上がってしまった世論を鎮火させることは困難だった。これに呼応して高水準を維持していた佐影内閣の支持率も急降下。攻撃前は71%だったにも関わらず、直近の調査では46%となってしまっている。株式市場や先物取引市場も社会・政情不安が起こる可能性が高まるとの見方から、乱高下を繰り返し、深海棲艦の侵攻以来持ち直していた経済にも影を落とし始めていた。瑞穂は議院内閣制をとる民主主義国家であるため、政府の権力は国民の支持と直結する。いかな政治家といえども、国民の意向に完全に逆らうことは不可能なのだ。例え、国民が間違っていると確信していても・・・・・・。

 

そして、それは軍も同じである。瑞穂軍の最高指揮官は内閣総理大臣であり、軍の上に立つ内閣総理大臣と国防省大臣は文民でなければならないとする文民統制(シビリアンコントロール)が定められている。また、軍も公的組織であるため、何をするにも原資は国民の血税だ。汗水流して得た財産を真面目に納税し、各種国防政策に協力している国民を無視することはできない。

 

ある意味、それは文民統制が厳格に履行されている状態を示していた。

 

そのため当初、報復攻撃に慎重だった政府・大本営も次第に「早期攻撃の方針」へ傾斜。ミッドウェー攻略作戦が発動されると主体的役割を担う海軍軍令部も攻撃直後から報復を訴えていた排斥派に加え、擁護派からも消極的賛同者がちらほらと出始めている。いまだに百石たちのように反対を唱えている勢力が多数を占めるが、それ故の擁護派と排斥派の対立は激化の一途を辿っていた。

 

「そういえば、君はこんなところにいていいのか? 今日は・・・・だろ?」

 

「悪い悪い」と謝り空気の転換を図るためか、筆端は壁にかかっているカレンダーに目を向ける。季節はもう8月。瑞穂にとって8月は夏本番の8月だが、長門たちにとって8月とは特別な月だ。聞くところによれば、その日も今日と同じく青空が広がっていたらしい。なんという偶然だろうか。

 

「もう少ししたら私も・・・・・・。みずづきたちは既に例の場所へ行っているそうです。しかし、こちらも気になってしまって」

 

苦笑を浮かべ、書類を示す長門。「すまない」と顔の前で合掌する。最近は世間のきな臭い動きもあり、事務仕事がかなり増えている。これに専念できれば1人でも処理は造作もないが、会議やら根回しやらも同時に増加したため、てんてこ舞いなのだ。

 

その言葉を聞き、筆端が目を少しだけ見開く。気付いたのか長門が「どうしたんですか?」と聞くが、彼は微笑をこぼすと少しうれしそうな様子で答えた。

 

「いや・・・・・。君は変わったな」

「え?」

 

訳が分からないと長門は目を点にする。こちらへ視線を向けてくる筆端。こちらも意味深な視線を彼に合わせる。そして、微笑む。「な、なんですか?」という若干凄みが入った長門の問いには、最後まで微笑みを貫き続けた。

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

海から、街から吹き抜ける風によって心地よい音を奏でる木々。セミの鳴き声も相まって、自然と体の緊張がほぐれていく。彼らのおかげで快晴にも関わらず、鎮守府内の灼熱地獄は別世界となり、葉が適度に木陰を提供してくれている。清涼な海風のためか、木陰に入ると一瞬、夏であることを忘れてしまう。それほど過ごしやすい空間が生み出されていた。感謝も込めて背中を預けている幹に触れる。金属などとは異なり温かみのある冷たさ。この世界で戦う理由を考えるために訪れた時と何も変わらない。

 

本当に、なにも変わらなかった。

 

「懐かしいな~。もう、この世界に来てから3か月か~」

「なに、年寄り臭いこと言ってんのよ! まだ、3か月じゃない。私たちは年単位よ、年単位!」

「ちょっと、曙ちゃん・・・・」

「やっぱり、曙は曙。いつもの曙」

 

苦笑する吹雪とは対照的に、真顔でうんうんと頷く初雪。「やっぱりってどういうことよ!」と噛みついてくる曙をさらりと回避する。

 

「初雪の言う通りよ・・・・・。朝はあんなにしおらしかったくせに、今日が何の日かもう忘れちゃったの?」

「なによあんたまで! べ、別にしおらしくなんか、私は平常心よ、平常心」

 

明後日の方向に顔を向けるが、ほんのりと赤くなった耳がニヤニヤと不敵な笑みを浮かべた陽炎の言葉が真実であることを証明していた。

 

巻き起こる笑い声。桜の木も笑っているのか、一際強い海風に吹かれ葉の摩擦音を周囲に伝える。

 

ここから見える景色。

 

この世界に来たのが5月下旬。初夏だったためそこまでの変化は見受けられないが、山々の緑が深くなっていることは確かだ。

 

「あの戦争が終ってから、88年か・・・・・」

 

みながひとしきり笑い終わった後に訪れた沈黙。誰も声を発さなくなったため、風物詩であるセミの鳴き声が堂々と鼓膜を揺さぶる。それにもだいぶ慣れてきた頃合いに、白雪が遠い目をしてぽつりと呟いた。

 

「そうだね、88年・・・・」

「でも、今の日本は戦争を続けとるんやんな・・・・・・、うちらが見たものよりも遥かに深刻な戦争を・・・・・・」

 

何気なく返した言葉。それに黒潮が反応する。俯くこともなくしっかりと前を向いているが、葉の影がいくつも顔に映し出されている。やはり、割り切っても、受け入れても思うところはあるのだろう。これはそうそう踏ん切りをつけられるものではない。みずづきは何も言わない。だから、深雪は心に浮かんだ感慨をそのまま口にしたのだろう。

 

「そりゃ、色々変わるよな・・・・。日本も」

 

桜の木の下に集っている7人の間を木々と潮両方の匂いを宿す風が駆け抜けていく。深雪や陽炎たちが何を考えているのか。今だけは手に取るように分かった。

 

あの一件後、みずづきは艦娘たちにそして百石たちに自分が知り得る限りの日本世界の現状を、包み隠さず話し続けている。現在進行形なのは並行世界証言録に追加するためかなり詳細な聞き取りが行われていることと、一介の軍人・日本国民とはいえ頭に入っている事実は膨大なため、まだすべてを話し終えていないからだ。艦娘たちの信念と優しさを知ったみずづきは、話せば確実に物議を醸しそうな事柄も隠すことはしなかった。

 

 

 

日本の核兵器保有も、そうであった。

 

 

 

視線が無意識のうちにコケに覆われている地面へ下がる。その時、背中に程よい衝撃が加えられた。痛みもなく、原因も分かり切っていたため、声は上げない。ただ、抗議の意思を込めて視線は向けた。柔和な微笑でそれを受け取った陽炎は自身の隣に腰を降ろす。彼女の右手は少し赤くなっていた。

 

「私たちはあんたたちの選択には何も言わない。難しすぎて分からないってこともあるけど、色々変わるのは当然よ。・・・・・・・・・日本も変わっていったから」

 

笑顔は笑顔でも、見る者の心を締め付ける悲しさを湛えて語られた“日本”がどの日本を指すのか。分からないみずづきではない。

 

「日本の変化は、無条件降伏っていう最悪の結果を招いた後進だったのかもしれない。でも、結果を見るまで前進か後進かなんて、結局のところ自分の主観でしか判断できないのよね。だから、あんたは主観を信じればいいと思う。結果を見てから判断しようとするのはただ停滞で・・・・・・・一番やっちゃいけない卑怯な行為よ」

 

笑っている表情と険しい口調。そのギャップが彼女の言葉はより素早く、より強く胸に落とし込んだ。そして、より感情の感度を向上させた。

 

「私は前進だと思う。ただ、それだけ・・・・・」

「陽炎・・・・・」

 

視線をみずづきから眼前に海に向ける彼女。言葉だけでなく、その横顔でも陽炎はいまだに弱さを抱える心を支えてくれていた。

 

「いつか来るんやろうか・・・・。うちらみたいに、いろんなものを抱えずに済む時代が、同じ人同士で憎みあって、蔑み合って、殺し合うなんてアホみたいなことがなくなる時代は・・」

 

陽炎に倣ったのだろうか。ここから見える横須賀湾の景色を見つめたまま、静かに呟く黒潮。軽い感情ではなく、体の奥底に眠る心情の吐露というべき風格が備わっている。

 

世界平和。人類の大多数が切望してやまない究極の理想。

 

今まで、様々な時代で幾多の人々がこれを達成しようと奔走してきた。しかし、文明が誕生するはるか以前から組織的抗争を続け、「血塗られた歴史」とも言われるほど戦争まみれの歴史を積み上げてきた現実を前に、それが達成されることはなかった。そして、「血塗られた歴史」は人間同士という内在的要因、深海棲艦という外在的要因によって、今この時も追加され続けている。

 

これはどうしようもない事実だった。

 

「確かに難しい・・・・・。国家、民族、宗教、経済、領土、歴史、覇権、いろんなものが相互に混ざり合って、戦争は起きる。混ざり合っているが故に、どれか1つを解決しても根本的解決にはならない。ほんとに・・・・・・・・。でも」

 

みずづきは確かにこの目で見たのだ。人間の可能性を。

 

「いつかはきっと・・・・・出来ると思う。日本にいたころは戦時下だったから考えられなかったし、無理だと決めつけてた。人間はそういう生き物だって、諦めてた。でも、この世界に来て、もしかしたらっていう儚い希望が生まれたの」

 

そう瑞穂世界は日本世界と対照的な歴史を歩んだ世界。一方の視点では嫉妬の対象になるが、もう一方の視点で見れば希望の根拠になる。

 

「だから・・・・・」

 

みずづきも吹雪たちにならい、しっかりと前を向く。眼下に見える横須賀鎮守府と横須賀湾。快晴のためか、海の青が非常に映えている。こちらの顔を覗う視線。前を向き続けることがみずづきの導き出した答えだ。

 

「そう・・・・やな」

 

嬉しそうに黒潮が微笑をこぼす。陽炎たちも声は出さなかったものの、黒潮と同じ感情であることは察せられた。

 

但し、やはりというかなんというべきか彼女だけは少し違った感傷を抱いていたようだ。

 

「ふふ・・・・。なによ、大口叩いちゃって。もう夜中に1人でむせび泣くのは、ないってことね」

「・・・・・・・・・・・ええ!?」

 

物悲しいような、希望を信じるような儚い雰囲気が、みずづきの驚愕で煙が風に吹かれるようにあちこちへ四散していく。名残惜しさが否めなかったものの、それを気にしている様子はなかった。黒潮たちは訳が分からずまばたきを繰り返しているが、事情を知っている陽炎もみずづきと同じ反応だ。

 

「ちょっと、曙!? え・・・え!?」

「あんたなんで知ってんのよ!!」

「なんでも、なにも見たからに決まってるじゃない」

 

2人の驚きようが気に入ったのか、曙はいたずらに成功した子供のように悪い笑顔を浮かべる。少しイラつくが、今は怒りよりも驚きが完全に勝っていた。

 

「どういうこと! だって、あそこには私しか・・」

「私も全然・・・・・。まぁ、陽炎が見ていたことにも気づいていなかったから、全否定はできないんだよね・・・」

 

あの日見た、阪神同時多発テロの夢。徐々に直視したくなかった現実が露わになっていたことも相まって悲しみに耐えきれなくなり、気分転換を図るため、真っ暗闇の世界に飛び出した。あの時はまさか誰かに見られているとは思わず、堂々と涙を流していたのだが、のちに陽炎の目撃が発覚。その事実を知ったときもかなり驚いたのだが、またこの驚愕が訪れるなど夢にも思っていなかった。

 

「なんだ、やっぱり気付いていなかったのね。心配して損した。一時期のひやひやを返してほしいわ」

「いやいや、あんたが勝手に見て、勝手に思い込んだだけでしょ。それよりも、どこから見てたのよ? 私、誰も見てないけど・・」

「私は見てたわよ。あんたが顔面蒼白になってるところ」

「はぁ!!」

 

大声を出して立ち上がり、曙に詰め寄る陽炎。明らかにに曙は陽炎とみずづきの反応を楽しんでいる。

 

「どういうことよ!! 私がいたのは両脇を植え込みと公園に挟まれたあそこ。私の顔を見れるのって・・・・・・・」

 

言葉が止まる。目を見開き、ここではない別の場所に意識を飛ばす。一拍の沈黙。目の焦点を再度合わせると、曙へゆっくり話しかけた。

 

「あんた、植え込みの中に、いたのね・・・?」

 

「やっと分かったの? ほんと馬鹿ね」と挑発的な笑みを浮かべる曙。陽炎は自身の失態を恥じるように両手で顔を覆う。

 

「嘘でしょう~~~~。ということは、あの物音は・・・・」

「私よ。やっちゃった時は終わったと思ったけど、あんたそれどころじゃなかったみたいだし」

「あ、はははは・・・・・。私も大概だな・・・・・・」

 

自身の鈍感さと無警戒ぶりに、もはや笑うしかない。

 

「ほんと、そうよ! 軍人で、しかも最先端技術の塊を背負っている艦娘とは思えないわ。よくもまぁ、試験合格出来て、左遷先とはいえ一部隊の隊長になれたわね」

「め、面目ないです・・・」

 

「言い過ぎ」と続けて吹雪姉妹が援護射撃してくれるが、「事実じゃない!!」という曙の装甲は固かった。それに、これは素直に受け止めなければならない事実である。

 

「もう、うるさいわね! こういうのはびしっと言った方がいいのよ。ったく・・・・。それでどうなのよ?」

「・・・・へ?」

 

先ほどから一転。頬をほんの少し赤らめて視線を適当に逸らしつつ、挙動不審気味に話しかけてくる曙。あまりの変わりようについていけない。

 

「だから、その・・・・・・」

 

なにか、大事なことを言いたいようだ。彼女とも数え切れないほど話し、顔を合わせた。だいたいどういう性格かは把握済み。陽炎たちと呼吸をあわせ、その時を待つ。しばらくモジモジしていたが、決心したようで、ぼそぼそとセミに完敗しそうな声で呟いた。

 

 

 

 

「夢とか・・・・心とか・・・・・大丈夫?」

 

 

 

 

一瞬こちらへ視線を向けてくるが、目があった瞬間に慌てて逸らす。更に赤くなる顔。耳などは真っ赤だ。今の曙には、いつもの威勢のよさは皆無だった。

 

寄せてくれた心配。これにきちんと答える。

 

「うん・・・・。あれ以来、夢とか見なくなったし、急に落ち込むこともなくなった。・・・・・・・・・・・ありがとうね、曙。そして、みんなも」

 

心に浮かぶ、明確な気持ちだ。どれだけ感謝してもしきれない想いを、みんなに伝える。

 

 

あの日以来、己を苦しめてきた夢(過去)はもう見ていない。

過去や記憶とは関係ない、己の弱さが生み出した夢(幻)も同じく。

 

目を閉じ、柔らかな布団に包まれている感覚を得ながら、次の日の朝を迎える。

そんなささやかで取るに足らない、しかし爽やかで必要不可欠な感動が、当たり前になった。

 

つい先日まで信じられなかったものが、今、現実のものとなっている。

 

彼女たちがいなければ、みずづきの心の中が優しい光と優しいぬくもりで満たされることはなかっただろう。

 

 

 

だから、恥じらいはなしだ。当分の間、見られなかったみずづきの笑顔。決して作り物でも、無理したものでもない。

 

純粋で、透き通った本物の笑顔。青空を背景に思う存分輝いている太陽よりも、眩しく美しい。

 

 

あまりの美しさに見とれているのか、数秒間反応を示さなくなる陽炎たち。だが、すぐに表情を和らげ、みずづきと同じように、華を咲かせる。これでこの場にいる全員が笑っていれば、有名かつ高価な絵画にも劣らない微笑ましい光景なのだが、そう簡単には問屋が卸さない。笑顔の輪の中で、ただ1人リンゴのように熟れた顔を明後日の方向へ向ける曙。「そ、そう」とそっけない反応で、謙遜したり、素直に喜んだりと各々の個性に基づいた反応を示している陽炎たちと対照的に見えるが、これも彼女の個性に基づいたものである。そのため、なんら場に水を差すような存在ではない。むしろ、黒潮や深雪の餌食となり、微笑ましさに拍車をかけていた。

 

「吹雪ちゃん、今何時?」

 

ひとしきり、曙をからかったりその余波をこちらに受けたりした後、吹雪が身に付けている腕時計を白雪がのぞき込む。だが、見えなかったようで結局、吹雪の解答が必要となった。

 

「もうすぐだよ。・・・・・あと5分少々・・」

「5分か・・・・・。そういえば、みんなどうしてるんだろう? 今日、演習や任務は入ってないよね?」

 

不意に浮かんだ疑問。なぜ今さらと自分でツッコミたくなるが、胸の内に閉じ込められるほど軽いものではなかった。

 

「みんな思い思いの場所にいるのさ。俺たちみたいに外にいるやつもいれば、寮にいるやつもいる。俺も詳しい場所は、事が事だけに把握してない」

「へぇ~。そうなんだ」

「みんな、そろそろだよ」

 

吹雪の呼びかけで腰を降ろしていた全員が、立ち上げる。賑やかさにとって変わる厳かな沈黙。しばらく意識していなかった葉同士のこすれる音が再び聞こえてくる。

 

昨日までとなんら変わらない世界。しかし今日は川の如く流れくる時間における、ただの1日ではない。

 

特別な、1日だ。

 

今日、実際にあの戦争を戦った陽炎たちがどのような想いを抱えて、ここへ立っているのか知る由もない。但し、分かることもある。

 

彼女たちへ向けられる視線。そこには明確な意思が宿っていた。

 

しっかりと前だけを見つめる彼女たち。会話の中で見せた時と同じように、ブレや迷いなく、ただ前を・・・・。

地獄を見て、後悔し、葛藤を抱いても、日本の現実を知らされ、絶望に飲まれかけても、屈することなく割り切り、ただ前を・・・・・。

 

なんと勇ましい姿だろうか。これほどまでに日本を、自分たちを愛し、信じてくれる存在を前にしては、涙腺が決壊寸前にまで緩むのも致し方ない。

 

しかし、今は泣く時ではない。今は生者として死者を弔う時。1人の人間としてこれを疎かにすることはできない。

 

再び巡ってきた特別な日。

 

 

・・・・・朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。

 

 

西暦2033年(光昭10年)8月15日。

 

 

・・・・・朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス。

 

 

世界は違えど、88年前に日本が昭和天皇の玉音放送によって無条件降伏を大日本帝国臣民に伝えた日。日本全土に響き渡る現人神の肉声。頭上に翻るぼろ布と化した日の丸。歓喜、絶望、脱力、後悔、虚無。様々な感情を抱え、知らないうちに歴史の転換点に立つ人々。その光景が見えたような気がする。

 

あの日と同じ真っ青な空の下。

 

88回目の特別な日がやってきた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~

 

 

 

時間が経つにつれて、地平線へ没していく太陽。ここ数日瑞穂全体を覆っている太平洋高気圧のおかげか、雲は皆無で、茜色に染まる空の下、地上のありとあらゆるものをオレンジ色に染め上げていく。名残惜しいのか、はたまたこれから出番を迎える月や星たちに妬いているのか、沈んでいく速度は非常にゆっくりだ。それに合わせて、下降していく気温。そのまま快適な温度帯へ到達して欲しいものだが、熱と言う置き土産は早々に退場しない。

 

道路を走り抜ける自動車の群れに、歩道を歩く人々。その流れには一定の法則があった。スーツの上着を腕にかけ、カッターシャツの袖をまくり上げ、暑さに辟易としながら、会社員や学生たちが帰宅の途についていく。自動車も心なしか都心から離れる道に多く見受けられる。

 

だが、彼らと違う動きをする人間がいるのも事実。

 

「これは・・・・・・一体どういうことでありますか?」

 

宴会用の部屋だと一目見ただけで分かる、広々とした和室。畳と言い、襖と言い、障子といい、花が生けてある花瓶といい、高級品独特の厳かな雰囲気を醸し出している。普段、市井で見かける品とははなから格が違う。上流階級出身者でなくとも、それは直感的に察せられるだろう。そんな一般人が入ったら緊張で銅像と化してしまいそうな大広間に、慣れているのか周囲の品々に全く目を止めることもなく、20人ばかりの真っ白な制服を来た男性たちが鎮座している。

 

この場を離れようとする雰囲気は皆無。

 

そこへ漂う、とある男性のうめき。露呈しないよう虚勢を張っていたが、多くの者が男性と同じように内心では怒りをたぎらせていた。少しつつけば爆発してしまいそうである。

 

 

「・・・・・・・・・・・」

 

瑞穂において最も地位・身分の高貴な者が座る、上座。入り口から最も遠く、床の間を背に戴くその場所に座っている中将の階級章を持つ1人の男。両隣りに少将の階級章を有する男が座っているものの、障子や土壁を背に座っている男たちの視線は彼に集中していた。

 

排斥派の実質的リーダー。軍令部作戦局副長、御手洗実。

 

彼は発言を求める物々しい沈黙が形成されようと、その継続を望む。耐えきれなくなったのか、先ほど発言した男が言葉を重ねる。

 

「閣下は我々の信念を、現在に至るまで奔走してきた我々の努力を放棄するとおっしゃるのですか?」

「宮内。言葉にすぎる」

 

御手洗の右隣に座る少将がこちらに食って掛かる軍令部軍備課課長宮内芳樹中佐を一睨み。宮内は一瞬で汗だくとなり震え上がりながら、「ご無礼申し訳ありませんでした!!」と胡坐を正座に組み換え頭を下げる。額が畳に接触しそうなほどであるため、土下座と遜色ない見た目だ。

 

「閣下も何も望んでこの方針を打ち出されたわけではない。ただ深海棲艦は我々憂穂会に爆撃を敢行し、忌々しい艦娘ども・・・・・・みずづきは我々に無慈悲な砲撃を加えた。それを経たならば、我々も行動しなくてはならない」

「行動には限度があると小生は愚考致しますが・・・・・」

 

拳を握りしめる少将を前に堂々と作戦課課長富原俊三中佐が口を開く。少将は一瞬顔を歪めると体を前傾させるが、「言わせてやれ」と小声で制した。

 

「横須賀からもたらされた日本世界の真実。情報公開、情報公開とスズメのように騒がしく鳴いていた輩が今の今までそのような重大事項を秘匿していた明確な事実を受け、我々憂穂会同志は変革の必要性を再認識するに至り、先日の会合では血生臭い蛮族の申し子かつ深海棲艦の斥候であるかもしれない艦娘の掃討、真実を秘匿し艦娘を擁護し我々をコケにした老害の排除に向けた行動の開始で一致したはずです」

 

横須賀、正確には百石健作の報告によって海軍上層部に知れ渡ることとなった2033年までの日本世界の歴史。見聞きした者に例外なく凄まじい衝撃をもたらした事実は依然より蠢いていた海軍内の地殻に大規模な変動をもたらすには過剰なエネルギーが含まれていた。

 

あの、人生でも数えるほどしか感じたことのない、あまりの突飛かつ激烈さに意識が強制終了しそうになるほどの衝撃。

 

だが、書面から現実に帰還した際、最初に浮かんだ感情は強烈な危機感だった。そして、それは後一息対応が遅れていれば、現実のものとなるところまで進行していた。しかし、まだ完全に抑え込めた訳ではない。むしろ、見事な手腕と同じ危機感を共有していた部下から称賛された対応が、不満の漏出を招来した雰囲気さえあった。

 

「にも関わらず、なぜでありますか?」

 

その典型例がこれだ。しかし、自身の対応のまずさに気負っている場合ではない。ここで適切な対応を取らなければ、過去の対応は誤りと決定してしまう。それによって自分1人だけが不利益を被るなら構わない。だが、ここで不利益を被るのは・・・・・瑞穂そのものだ。

 

「富原? なぜはこちらの台詞だ。この場でそのような耳障りにもほどがある雑音を垂れ流す」

「・・・・・・・・・・」

 

普通なら「は?」と目を大きく見開き「お前こそ何言ってんだよ」を表現するところ、富原は動揺もなくただ悔しそうに顔を歪ませた。それが確信をさらに強固なものへ変えた。

 

「貴様は軍令部で一体何をしている? 擁護派いじめがそんなに楽しいのか? 高貴な趣味に口出しする気はないが貴様は作戦課長だ。自らの願望と信念の前に事実を歪曲するような輩は・・・・作戦課にいらん」

「そ・・・それは!?」

 

この場にいる最高位の言葉。それは単なる言葉だけに留まらない。現実を改編するほどの力を有していると分かっているからこそ、富原は血相を変える。

 

「そうでなければ、事実を前に行動しろ。貴様がほざいた計画が本当に実を結ぶと思っているのか?」

「それは・・・・我々憂穂会が一致団結すれば、不可能なことは・・」

「後援組織と最も接触を持っている存在がこの私であるということを忘れていないか?」

「っ!?」

 

大きく開眼した宮内は息を飲む。御手洗の示唆する事項。それが分からないほどの愚か者はいかな排斥派と罵られている彼らの中でもいなかった。

 

「それを踏まえて、改めて問う。私が示した方針に対して、どう思考する?」

 

保身のためか。はたまた、彼の中にも海軍軍人としての良心が生き残っていたのか。富原は無念と拒絶をなんとか押しのけ、悔しさを言葉の端々に宿らせて口を開いた。この冷静さがまだ残っているからこそ、彼は作戦課課長を全うできているのだ。

 

「・・・・・・・・・・閣下のご判断は・・・・・・・・・、最良の選択と同意いたします・・・」

『・・・・・・・・・・・・・・』

 

安堵、叱責。両方の感情のため息が交差する。

 

「計画の遂行は現実的ではなくなりました。そして・・・・・・・」

 

一際、強く拳を握りしめる。

 

「通常部隊では・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。深海棲艦に対抗することはっ!」

 

富原は顔中に深い皺を刻み込み、最後の一言を放った。

 

「・・・・・・・不可能です」

 

房総半島沖海戦はこれまで見続けてこられた“夢”を完膚なきまでに否定するには十分すぎる威力を持っていた。通常水上戦力の象徴だった第5艦隊は、兵器開発本部が開発した新型装備“零式弾”を装備していながら海月型駆逐艦5番艦霧月を残して全滅。急ピッチで構築した30式戦闘機による強固な防空網は初手から突破され、輝かしい戦果を発揮するはずだった浦安沖航空戦と横須賀湾沖航空戦で海軍横須賀航空隊は舞鶴航空隊第404航空隊と共に壊滅。最終的には背水作戦が発動される最悪の事態にまで発展した。

 

その強大な敵を打ち払ったのがほかでもない“艦娘”である。もし彼女たちがいなければ、確実に房総半島は敵の橋頭保・前線基地と化しここ東京を含めた関東一円は将兵・民間人の死体で埋め尽くされていただろう。

 

その紛れもない現実は憂穂会を頂点として束ねられている排斥派に重大な転換点を提供した。

 

「しかし・・・・それでもっ!! くっ・・・・・・・・・・」

 

富原の荒々しい鼻息を前に、沈痛な沈黙が訪れる。それを利用して御手洗は両隣の少将・・・憂穂会の会長・副会長と話し合い、資金・便宜などを提供してくれるこの国の真の権力者たちと折り合いをつけた憂穂会助言役としての決断を改めて周知した。

 

「艦娘の処遇、棚上げ。計画の白紙撤回。これこそが・・・我々が今後も影響力を保持し、ここまで築き上げてきた組織を維持する唯一無二の方策だ。貴様らも承知の通り、これを踏まえた私たちの戦略は想像以上に効果を上げている。ここで世論の意に背く言動に出れば、それこそ擁護派の思うつぼ。我々が進むべき道は・・・・・・これしかない。・・・・・・これしかないのだ」

 

各員の意識に刻み込むため、御手洗実としての意思と結論を2度言う。

 

「・・・・・う・・・・・うぅ・・・・・・」

 

各所からむせび泣く声が木霊してくる。まるで大日本帝国の如く、敵対勢力に屈したかのような雰囲気だ。

 

一体、彼らは何に負けたのだろうか。

 

それをただただ、無言・無表情で見つめていた。だが・・・・・。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

その呻きを許容ではなく、抵抗として発している者の存在を御手洗は見逃さなかった。

 

 

 

~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

6畳ほどの小さな和室。中央に座卓が置かれ、右手にある縁側からは風情あふれるこぢんまりとした瑞穂庭園と、感動さえ覚える美しい星空を拝むことができる。畳と言い、襖と言い、障子と言い、花が生けてある花瓶と、座卓といい、市井の品々で先ほどまでいた料亭とは雲泥の差だが、高級品が無意識のうちに放ってしまう緊張感は皆無で、自宅にいるような落ち着いた雰囲気を作り上げている。憂穂会の将校たちは、この身が御手洗家出身だからと勘違いしているようだが、個人的には格の高低に関係なくこういう雰囲気が好みであったりする。これを分かってくれているのは、果たしてどれぐらいいるだろうか。昔はかなりいたのだが、今は・・・・。

 

ここは、都心の少し外れに位置するとある居酒屋。居酒屋と言っているが、どちらかといえば料亭に近い。そもそも瑞穂庭園がある居酒屋など通常は考えられないのだが、頑固者の店主が強硬に言い張っているため、常連客はみな「居酒屋」ということにして通っている。久しぶりに来たのだが、今回はとても酒を飲む気にはなれない。

 

それでもせっかく来たのだからと、正面に座っているスキンヘッドの男に注がれれば、多少は手を付けるのが流儀だろう。

 

しぶしぶおちょこに口をつける。やはり、まずい。

 

「・・・・・・・すまない」

 

おちょこを座卓に置くと、わずかに頭を下げる。男は若干目を見開いていたが「いい」といって、おちょこを仰ぐ。うまいと頬を高揚させるが、いつもの陽気さはなく沈んでいる。

 

「こちらの顔を立ててもらったにも関わらずこのような・・・・」

 

カタンっと軽快な音を立てて、座卓の上に空になったお猪口が置かれる。その音が「言わなくていい」と暗示しているようで、言葉を紡ぐ意思を失った。しかし、静寂は男の発言で登場を許されない。男はお猪口に酒を注ぎ終わった後、落ち着いた口調で言った。

 

「薄々は覚悟していた。ここで万事解決なら、ここまでもつれてはいないだろう」

 

その言葉が何より背負っている責任感を刺激した。

 

「俺とて事態を楽観視していたわけではない。だが、あいつらは俺の部下だ。上官として・・・・・・・信じていたんだ」

「しかし、同時に疑念も抱いていた。そして、事態は疑念から練られた対処を始動しなければならないところまできてしまった。・・・・・・・・・やはり、世間は上手くいかないものだな。いつまでも予想外に翻弄される。そういえば・・・・・・・・」

 

唐突に視線を空気中に漂わせる男。何事かと首をかしげていると、年に似合わず子供のようにニヤニヤと笑みをこぼしながら、場違いなセリフを吐いてきた。

 

「予想外といえば、お前が俺に頭を下げたことも予想外だったな」

 

これこそまさに予想外で思わず、「・・・・・・・はぁ?」と顔を歪めながら聞き返してしまう。その反応にさらに笑みを深くする男。御手洗の心は窯のように熱を帯びはじめ、両手を強く握りしめる。

 

「一体いつ以来だろうな・・・・・、こういうのは。お前、雪子さん以外にはめったに頭を下げないから」

「くっ・・・・・・・・」

 

苦虫を噛み潰したよう顔になる御手洗。必死にそれを隠そうとしているが、はたからみればバレバレだ。いつもならここからお怒りモードに移行するするのだが、一際大きなため息をつくと拳を緩め、お猪口に入れた瑞穂酒を一気に飲み干す。

 

それを見て男も口を閉ざし、お猪口に口をつける。

 

「俺が悪いんだ。下げなくてよいなら絶対に下げないが、下げなければならないなら下げる。俺だって、人間だ・・・・・」

 

いつもの覇気が全く感じられない弱々しい言葉。こちらを元気づけようと気を遣ってくれた男には悪いが、とてもそれに乗っかる気にはなれなかった。

 

心に鉛のように重い現実がのしかかる。もっとうまく動いてれば防げたかもしれないという後悔と共に・・・・。

 

“も、申し訳ありません、中将・・・・。誠に・・・・誠に・・・・!! 結解も・・・大戸艦長も・・・、みな・・みな・・・・。私だけが無様に生き残ってしまいました。どう家族に顔向けしたらいいか・・・”

 

自分の前で必死に涙を抑えつつも、決壊を阻止できずただ「申し訳ありません」と謝罪を続ける1人の男性。食べ物も喉を通らないのか、数か月前にあったにも関わらず、軍服を着ている状態でも分かるほど体の線が細くなっていた。

 

 

 

その姿が、その苦しそうな声が・・・・・・犠牲者の数字と遺族の悲壮が頭に染みついて離れない。

 

 

 

「そうか・・・・」

 

俯く御手洗を見た男は淡々と呟く。ただ、何の感情も籠ってないというわけではない。むしろ逆だった。

 

 

「お前が必要以上に負い目を感じる必要性はないんだぞ。擁護派、排斥派問わず、海軍のトップである以上、みな俺の大切な部下たちだ。本当なら、俺だってこんなことはしたくない。だが、俺は部下を預かっていると同時にこの国の未来にも大きな責任がある」

「お前・・・・」

 

俯いていた顔を上げ、男を見ると彼はおちょこ片手に縁側から星空を眺めていた。悲壮感のかけらもない横顔。それを見ていると不意に問いたくなった。

 

「本当に、いいのか?」

 

何度聞いたか分からない質問を、もう1度行う。苦笑を浮かべながら返ってきた言葉はこれまでと全く同じものだった。

 

「いいんだ。俺は、十分この国に奉仕できたと思っている。髪もふさふさで、肌にハリがあったあの頃はもう学校の教科書にも出てくる時代になってしまった。歴代の総長と同じように定年退職するのも良かったが、そんな性分じゃないことぐらいお前だって知っているだろ?」

「・・・・・ああ、反吐が出るほどな」

「最後まで瑞穂のために働けるのは本望だ。これは、俺の身にあまる大きな価値がある。それに一刻も早く対処しないと取り返しのつかないことになる」

 

 

真剣な表情で星々からこちらへ視線を移す男。悪ふざけが許されるような雰囲気ではない。それにしっかりと応える。

 

「・・・・・・頼んだぞ」

 

簡素な一言。しかし、これにどれほどの想いが込められているのか、想像しただけでも胸が張り裂けそうだ。

 

「ああ、しかと頼まれた」

 

瑞穂酒で満たされたおちょこを掲げると、同時に喉へ流し込む。だが、頼まれても果たせないことまで背負えるほど、この身は大きくない。それは自分自身が最も自覚していた。だから・・・・・・そう、言ってやった。

 

「だが、海軍トップの椅子から去るのは認めんし、頼まれもしない。愚痴や怒りのはけ口はどこの組織にも必要だ」

「お前・・・・・・・」

 

外から聞こえてくる寿命が近いセミの鳴き声とパトカーのサイレン。それが来るかもしれない未来とモザイク模様の現実を的確に表し過ぎており、先ほどまでの真剣な雰囲気は一変。2人とも腹の底から湧き上がる爆笑を阻止できなかった。

 




第2章開始から7ヶ月。こうして、終わりを間近にするとなんだか不思議な感覚です。

次話は「無の世界で」シリーズの第3弾です。

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