水面に映る月   作:金づち水兵

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今話は回想などが所々にあって、読みづらく思われる方もいらっしゃると思います・
「~~~~~」や「―――――」が転換の目印です。


56話 房総半島沖海戦 その5 ~終わらない~

曇り時々晴れ。

 

この世界に、日本とは異なる並行世界に来た時から脈々と続いてきた朝方はその表現がぴったりな空模様だった。しかし、今は地球の息吹を肯定的に捉えられない。天頂近くまで昇った太陽。それから発せられる日光がわずかに雲に遮られつつも、地上を照らす。季節はもう7月に入っているため、日光には夏の雰囲気が混じっていた。

 

「バイタル低下! 出血量増大! ダメです! 止血できません!」

「心肺停止! 心肺停止です!! 心臓マッサージを!!」

「川野! 川野! しかっりしろよ! なぁ! おいっ!! なんでそんなに白くなってんだよ!!」

「応急処置完了! 搬送急げ!」

「はっ?! ベッドがいっぱい! ふざけるな! 集中治療が必要な患者以外は全員、床でも廊下でも、平らな所に寝かせておけ! こっちにはまだ数え切れないほどの負傷者がいるんだぞ!」

「横須賀病院からの応援は?」

「もうまもなく到着です。しかし、いかんせん医師・看護師の絶対数がたりません!」

「近隣病院からは?」

「鎮守府を通して応援要請を行っていますが、まだかかると・・・」

 

久しぶりに頭上へ姿を見せた青空。台風8号による雨で大気中のチリやホコリが地上に落下したためか、空気はとても澄んでいる。

 

1つ深呼吸。

 

肺に入ってくる清涼な空気。体の外から、内から梅雨の憂鬱感を洗い流してくれる。誰もが、それに一時の解放感を味わう。

 

 

 

 

はずだった。

 

 

 

 

だが、そんな雰囲気はかけらもない。この状況でそんなことを感じる、思う人間がいたならば、そいつは人間ではない。

 

設置されたテントや近傍にある倉庫の合間を緊迫した表情で走り回る医師や看護師たち。ほとんどは純白のはずだった制服を、誰のものかも分からない血で真っ赤に、褐色に染めている。飛び交う怒号やうめき声。医師たちは必死だった。消えかかった命を1つでも多く救おうと。だが・・・。

 

「・・・・・・・12時36分、死亡確認」

 

また、だった。その「死亡確認」が常に周囲のテントから聞こえてくる。もう、なんど自分が言ったのか、もう何度自分が聞いたのか、誰も分からなくなっていた。

 

「次だ」

 

人間でなくなったものは、すぐさま処置台からどかされ、自分たちの手にかかる前に息絶えた者たちと合流する。そして、新たな負傷者が運ばれてくるのだ。

 

 

横須賀小海東岸壁。本来は船舶が停泊し、積荷の積み込みや荷降ろしを行い、長い旅路を終えた船たちが休息をとる場所。みずづきがこの世界に自らの力を見せつけた光昭10年度第一回横須賀鎮守府演習にて、海軍軍令部総長的場の訓示が行われた場所。しかし現在、ここは全く別の場所と化していた。

 

コンクリートの上に整然と並べられた無数の遺体。岸壁に停泊している霧月や警察、海上保安庁、そして海軍の要請を受けた船会社、地元漁協の船によって回収され、救助された後に力尽きた第5艦隊の将兵たちだ。彼らは死体袋に入れられることも、顔に布を被せられることもなく、ただそのまま置かれていた。五体満足で、寝ているのではないかと思えるほどきれいな遺体もあったが、大半はそうではない。顔面が吹き飛び、中身が丸見えの者。下半身がなく、内臓が・・・・腸が腹の断面から木の根のように広がっている者。体があらぬ方向へ曲がっている者。腕や手など一部しかない者。彼らから流れ出た血がコンクリートの上に広がり、日光の熱で蒸発し固まる。そして、海風に舞い上げられて、目に入るのだ。

 

目をこすりながら、みずづきはその光景を呆然と眺めていた。彼女だけではない。川内たちも、表情を凍らせて、視線を下げて、悔しそうに拳を握りしめ、眺めていた。

 

 

 

敵重空母機動部隊を殲滅したあと、みずづきたちは横須賀からの指示がなかったこともあり、因幡の電文を無視して、第5艦隊の救援に向かった。だが、その途中で第5遊撃部隊旗艦吹雪から連絡が入ったのだ。

 

“霧月を除いて、第5艦隊は全滅した”と。いつも明るく無邪気な吹雪からは想像もできないほどのひどく悲し気な声で。

 

その衝撃は、凄まじいものだった。敵部隊殲滅の歓喜を容易に、根底から、跡形もなく吹き飛ばしてしまうほど。そして、横須賀鎮守府からの連絡で正式に「第5艦隊救援」は取り消し。変わって、付近に新手の存在がいないか捜索するように命じられたため、さきほどまで浦賀水道沖の捜索を行っていた。

 

体が鉛と化してしまったのでないか思えるほどの重さと痛々しい沈黙を抱え、久しぶりに帰投した横須賀。まさか、こんな形で帰ることになるとは夢にも思っていなかった。2回にわたり敵の攻撃を受けたため、状況が気になっていたがそこまでの被害は見当たらなかった。だが、無傷とはいかず、損傷した建物もあり、艦娘用桟橋も被害を受けた施設の1つだった。そのため、艦娘が出現した黎明期に使っていた桟橋から、横須賀の地に足をつけたのだ。そして、旧桟橋はくしくも小海東岸壁の北側にあり、岸壁を通らなければ横須賀鎮守府の中心部へ行けない地勢になっていた。

 

 

耳のすぐ隣を何がが、羽音を響かせ高速で飛んでいく。しかも、1つではない。直接姿を認めずとも、その正体はすぐに看破することができる。

 

ハエだ。

 

特定の部位でなく、あくまで全体を見ているため分からない。だが損傷し、体の体組織がむき出しになっている箇所には、おそらくうごめているだろう。・・・・・・・・・黒い群団が。

 

これから遺体を食べ、繁殖の苗床にする予定だったであろうハエが1匹、右手に止まる。見た瞬間、迷うことなくつぶした。ぺったんこになり、内臓と体液を固い外殻からしみ出させているハエ。いまだ硬度をとどめている外殻はを人差し指ではじき、染みだした液体はちょうど足元に落ちていた生葉で拭きとる。

 

強く叩きすぎたのであろうか。真っ赤になった右手の甲をさすりながら、みずづきが一番初めに足を進める。遺体の間を通らなければ、中央区画に行けないのだ。川内たちは躊躇するものの、数秒遅れてみずづきの背中を追い始める。

 

自分たちの足元に横たわる第5艦隊将兵の遺体。血の臭いと、正体を想像したくない臭いが鼻を突く。目を開けたまま絶命している中年兵士の遺体を見た瞬間、体の中心が久しぶりにうずいた。

 

「う゛っ!!」

 

もどしそうになるがなんとかこらえる。

 

「だ、大丈夫? みずづき・・・」

 

遺体を運んでいる新兵たちのように胃の内容物をまき散らすことは回避できたが、嗚咽の様子は隠しきれなかったようだ。川内がこわばった声色で話しかけてくる。目に浮かんだ涙を拭きながら、出来る限り笑って答える。

 

「だ、大丈夫です・・・・すみません」

 

だが、笑えなかった。焦点が外れかけた瞳。青白い顔。震える体。決して「大丈夫」ではない様子は自覚していたが、いくら抑えようとしても効果は皆無。

 

「気を遣わなくていいんだよ。ほら。向こうの方が、その少ないし・・・・、ちょっと遠回りになるけど、歩きやすいよ」

 

川内の提案。だが、それに頷くことはできなかった。1秒でも早くこの場を離れたいという想いもあったが、それ以上にある感情があった。

 

「本当に大丈夫ですよ。川内さん。・・・・・・これぐらいの死体は何度も見てきましたから・・・・・平気です」

「え?」

 

川内たちの視線が一気に集中する。いつものみずづきなら「しまった」と発言の誤魔化しにかかっただろうが、本人には言い訳も、自分の発言を振り返る余裕もなかった。

 

「これぐらい・・・・これぐらい・・・・・・」

 

川内たちの反応を顧みることなく、言葉を続ける。みずづきには川内たちの顔が見えていなかった。

 

 

 

 

みずづきがこの死屍累々に耐える原動力にしていたもの。それはくしくもかつて故郷で散々味わった、地獄だった。

 

 

 

 

子供たちの無邪気な笑い声。親たちの優しげな微笑み。学生たちの思い出。数え切れない、想像すらできないほど尊いものが宿っていた公園。乱暴に大穴が掘られたそこには、もう尊いものは宿っていなかった。芝生を、砂場を踏み荒らして入っていく民間の、自衛隊のトラック。

 

「これぐらいで動揺するわけには・・・・・。見てきたんだもの。何度も、何度も・・・」

 

 

―――

 

 

「うっ。くっせぇ・・・・・なんだよ、この臭い・・・何かが腐ったような・・いってぇぇ!!」

 

自分と同じように長時間並んだ末、やっと手に入れた貴重な配給品が入る袋。それを持ち、隣を歩いている少し小さな少年。その頭を叩く。彼は大きな声を上げ、空いている方の手で頭をさする。そうなるのは当然だ。いつもする手加減を今はしていなのだから。

 

「あんた、少しは空気読みなさいよ!! 誰かに聞かれたらどうすんのよ! いい加減、少しはものを考えてから、口を開くようにしてよ・・・」

 

少年は反抗的な目つきで睨み返してくるが、どこ吹く風。しばらく無言で歩いていると、ようやく先ほど通りかかったトラックが、何を運んでいたか理解したようで視線を下に向ける。直接、物を見てから理解するとは遅すぎる。

 

だが、子供っぽい性格は世界がこうなる前から何も変わらないものだった。あの頃が思い出せなくなるほど周囲が変わっても・・・・。

 

そっと、彼の頭に手を乗せる。いつもそばにいてくれることへの感謝と、そしてこれから見るであろう地獄への鼓舞として。ろくに風呂も入れず汚れきった髪。髪が長い分、自分の方が汚いので気にしない。

 

「・・・・はぁ・・・・せーのっと!」

「立花? あといくつの残ってる?」

「まだまだですよ、先輩。数え切れません!」

「そうか・・・・・。急がねぇと、第6小隊の回収した分もくるからな」

「それに、早くこんな仕事とおさらばしたいしなっと!」

 

全身を泥まみれにしながら公園に掘られた穴に、それこそゴミを捨てるかのように放り出されて転がり落ちていくやせ細った遺体。既に捨てられていた遺体の上に落ち、何かが折れる音がするものの、薄汚れた迷彩服を着た男たちは気にも留めない。バケツリレーのようにして次々とトラックの荷台から遺体が運ばれて行き、穴に落とされる。全員マスクをつけているが、鉄帽との間からわずかに覗く顔を見ただけでも憔悴しきっているのが分かる。その反対側を歩いていく。少年が穴を見ないよう手で頭を固定しつつ、自分はその光景を見る。

 

自分と同年代の女の子が、両親と同じような背格好の男女が次々と無造作に落とされていく。

 

「なぁ、姉ちゃん?」

「なに?」

 

怯えたような声。中学3年生にしては情けないが、仕方ない。このような光景、これが初めてではないのだから。いや、まだましだろう。ウジ虫がわき、スコップでぶつ切りにして運ばないと処理できない腐乱死体に比べれば、腐っていないのだから。

 

「俺たちも、いつかああやって埋められるのかな。墓に入ることもできなくて、ゴミみたいに・・・・・」

 

公園と道路を分ける柵。近所の住民だろうか。柵の向こう側から複数の大人たちが汚れた顔でその作業を見ている。その瞳に宿る感情。なぜか、少年が吐露した心情と同じような気がした。同じだとしてもなんら不思議ではない。この国に住む全ての人間が、死の恐怖におびえているのだから。

 

自分自身も例外ではなかった。

 

「分かんない。・・・・・・でも、あきらめたら終わりよ」

 

ささやかな抵抗。当時はこれが精一杯だった。

 

 

―――

 

 

「あぁ・・あぁ・・・くそ、ちくしょう・・・・なんで、なんで・・・・・」

 

丸焦げになり、性別すら判別できない遺体。その前に跪き、嗚咽を漏らす1人の水兵。前方にその姿が見える。一瞬足を止めるが、無理やり動かす。

 

「こんな姿になっちまって・・・・。田舎のご両親、顔みられねぇじゃねぇかよ・・。さっきまで、さっきまで・・・・・・」

 

近づいていくみずづきたち。水兵が遺体に意識を集中してくれていたらどれほど良かったことか。だが、そのささやかな願いは叶えられなかった。当然の報いか・・・・・。

 

向けられる涙と煤で汚れた顔。みずづきたちを見た途端、悲しみに染まっていた表情に怒気が宿っていく。

(ああ・・・・)

どんなことを言われるのか、すぐに分かった。今まで幾度となく目にしてきた。耳にしてきた。

 

「なんでだよ・・・・・・」

 

呟かれた瞬間、足が止まる。第3水雷戦隊の誰も言葉を発しない。

 

「なんでだよ・・・・・」

「・・・・・・・・」

「なんで、なんで、お前たちがいたのに・・・・・。なんでなんだよ!!」

 

発せられる大声。初雪や白雪の肩が震える。

 

「お前ら、艦娘なんだろ? 瑞穂の、人類の希望なんだろ? なのに、なんでこんなことになってんだよ!!」

 

水兵は周囲を埋め尽くす遺体を示す。数え切れないほどの遺体。それぞれに夢があり、人生があり、家族がいた。ここで死ぬことを望んだ者は、許容できた者はいなかっただろう。

 

水兵が視線を戻す。しかし、震える瞳は艦娘という総体に対してではなく、みずづきという単体に向けられていた。

 

「なにが鬼神だよ・・・。なにが、最強だよ・・・・。誰も、守れてねぇじゃねぇか!!」

「・・・・・・・・・・っ」

 

“私が・・・私が自衛隊に入った理由は、みんなが普通に笑って普通に生きてほしいと思ったからです。家族や友人の死に悲しむことも、故郷が焼け野原になって嘆くことも、飢えや寒さに耐えることも、死の恐怖におびえることもない。そんな、ごく当たり前の平和で穏やかな生活を送れる一助になりたかったんです。別に昔のような贅沢三昧を望む気は毛頭ありません。ただ、私はこれ以上、家族にも友人にも誰にも苦しんでほしくない、悲しんでほしくない。誰にもあの頃・・・・平和だったあの頃みたいに笑顔でいてほしい。そのためには現状を引き起こしたやつらから、みんなを守らなくちゃいけない。だから、自衛隊に志願して、今も軍人としてここにいるんです”

 

唐突に、その声が聞こえた。

 

「わ、私は・・・・・・」

「どうして・・・・どうして・・・・・・う・・うぅ・・・」

 

みずづきにやりきれない想いをぶつけると再び泣き崩れる水兵。前方を遮る障害がなくなったため足を踏み出そうとするが動かない。一刻も早くここから離れたいのにも関わらず、だ。目の前に現れた川内が、こちらに振り返ることもなく手を掴むと引っ張ってくれる。そうされてようやく足が動き出した。

 

しかし、意識は完全に自身の内側へと収束していた。

 

「私は・・・・私は・・・・・・」

 

誰にも聞こえないうわごとを繰り返す。

 

“守れてねぇじゃねぇか!!”

 

その言葉が耳について離れない。

 

まだ、ここを抜け出すには時間がかかりそうだ。

 

 

~~~~~~~~~~~

 

 

一面黒に染まり切った空に浮かぶ月。少し欠けており満月とは到底言えないが、それでも昼間輝いていた太陽に代わり、闇夜に沈む地上を照らしていた。雲1つなく、台風一過の到来をようやく人々に告げていた。

 

しかし、誰も久しぶりの月に見向きもしない。当然だろう。夜空を見上げることができる外に人影がまばらで、大半の人間が家や防空壕の中に引きこもっているのだから。いつもなら仕事終わりのサラリーマンや買い物客などであふれる街は閑散とし、歩いている人影はほとんど軍人や警察官。その中をあちこちに居座った陸軍の高射機関砲陣地を片目に空気だけを乗せたバスやタクシーがむなしく走っていく。ほかに走っている自動車と言えば、軍や警察などの公的機関のものだけ。私有車や社用車は一切いない。

 

瑞穂最大の都市であるにも関わらず、街全体を包む静寂。一時的にそれを乱し、高架橋の上を電車が走り抜けていくが、そこに乗っているのも軍人や警察官。あとは妙に目つきの鋭い背広の男たち。一般人でないのは一目瞭然だ。

 

昨日、いや今日の朝方まで日常を紡ぎ続けていた首都東京。だが、現在その面影は何処にもない。2027年以来6年ぶりに行われた本土空襲。それは政府上層部から一般国民に至るまで計り知れない衝撃を瑞穂にもたらした。特に、攻撃目標となり、各所で迎撃戦・空中戦が展開された関東は恐怖のどん底へと突き落とされていた。艦娘たちの奮戦によって訪れていた束の間の平和。以前と変わらなくなった生活に、瑞穂国民は忘れかけていたのだ。

 

 

自分たちが今、人類の存亡をかけた戦争をしている、と。

そして、つい数年前まで頭上からいつ爆弾が降ってくるのか、得体のしれない化け物がどこから上陸してくるのか分からない恐怖に身震いしていたことを。

 

 

それを思い出し、しかもまだ攻撃を仕掛けてきた敵部隊が房総半島沖に遊弋していると知らされれば、もう日常など謳歌できない。恐怖は大戦初期に空襲と本土決戦の恐怖に怯えていた関東で特に顕著であった。結果、空襲警報が解除され、佐影総理や大本営長官がじきじきに記者会見を行い国民に冷静な対応を呼びかけたにも関わらず、一般市民が再攻撃に備え、家や防空壕に籠る事態を引き起こしていた。

 

だが、いつもは田舎のごとく人気が少ないのに、今日に限って新宿や渋谷あたりのように活気に包まれている場所が東京にあった。瑞穂の中心、皇居。その西側に位置する政治の中心、永田町から霞が関のかけての一帯だ。活気を演出しているのは陸軍関東方面隊第1師団第1高射群第12高射中隊の将兵たち。市ヶ谷と同じく大通りを占領し、対空陣地を構築。いつ再来襲があっても猛訓練の成果が発揮できるよう臨戦態勢が整えられている。

 

そんな彼らに守られている場所の1つ。総理官邸。瑞穂国の指導者である内閣総理大臣が執務を行う場所だ。海軍の重要施設より少し明度の低い茶褐色のレンガで立てられた、準西欧風の外観。横須賀鎮守府1号舎のようなきらびやかさはないが、達観した老人を思わせる落ち着き払った雰囲気を醸し出している。ここと、寝起きなど首相の私生活の場である総理公邸は隣り合わせで、何かあれば地下に設置された廊下を使い、わざわざ外に出なくともすぐさま執務に移れる構造になっている。その逆もまたしかりだ。

 

その中の一室。ここでは現在、瑞穂の行く末を決める最重要会議が行われていた。国家安全保障法に基づき、平時の外交・安全保障方針の決定や有事の際、対処方法の審議などを行う国家安全保障会議。その一形態であり、突如発生した非常事態への対処を審議する「非常事態大臣会合」が当会議の名称だ。議題は当然、今日から断続的に続いた深海棲艦との戦闘についてである。既に別の形態である4大臣会合や9大臣会合も行われ、非常事態大臣会合はこれで2回目だ。

 

「こ、これは、事実なのか・・・・・・」

 

人の身長ほどもある窓のカーテンは閉め切られ、天然の光源に一切頼ることなく、天井に吊るされたシャンデリアのみで照らされた室内。それが淡い橙色のせいかどうにも薄暗く感じる。部屋の中央に置かれたいかにも高級そうな長方形の机を、これまた高級そうな椅子に腰かけた10人の男女が囲んでいる。その中の1人、先日趣味のツーリングを楽しんでいる最中に転倒し、負傷。頭に包帯を巻いている内閣総理大臣、佐影禎明(さかげ さだあき)が海軍軍令部総長的場康弘大将から配布された資料を震える手で握りながら、問いかける。その声も、手と同じように震えていた。他の出席者たちも声には出さないが佐影と同じような心境であることは容易に察せられる。

 

「はい。事実です」

「なんということだ・・・」

 

的場の隣に座っている国防大臣小野寺七兵衛(おのでら しちべい)が、両手で顔を覆う。それに構うことなく、総理首席補佐官の大前研一(おおまえ けんいち)が険しい表情で説明を始めた。

 

「瀕死の重傷を負いつつも、任務を全うした伊168、そして夕刻に通信が回復した硫黄島基地からの情報は見事に一致しています。敵輸送部隊が、瑞穂本土に向かっていることは確実です」

 

静まり返る室内。今まで幾度となく荒波に揉まれてきた出席者たちも、こればかりは言葉を失うしかなかった。

 

事の発端は、房総半島沖での各海戦が終わった16時ごろまでさかのぼる。朝方の空爆の衝撃が覚め止まぬ中、全ての通信を押しのけ届けられた横須賀沖での戦闘結果と第5艦隊壊滅の報。それによって軍令部及び政府は大戦初期以来の大混乱となっていた。みずづきたちが無傷で重空母機動部隊を殲滅したことなど、ほとんどの人間の頭の中から吹っ飛んでいた。だが、その喧騒はたった1つの報告で凍り付き、静寂にとって代わられることになった。

 

5日ほど前から消息不明となっていた呉鎮守府潜水集団所属の潜水艦娘伊168が、突然和歌山県由良基地に姿を現したのだ。彼女は瀕死の重傷でいつ沈没してもおかしくない状態だった。血相を変えて即座に病院へ搬送しようとする将兵たちを自ら止め、彼女は言ったのだ。

 

 

 

“敵の大規模な輸送部隊が、まっすぐ本土に向かっている”と。

 

 

 

当初はあまりの突飛さに真偽を決めかねていたのだが、夕刻に通信が回復した硫黄島基地からもたらされた情報が、伊168の報告の信憑性を確実なものにした。硫黄島基地は敵航空部隊の攻撃を受け、滑走路が破壊されたものの戦闘機が格納されていた格納庫は健在で、現在修復を急ピッチで行っているとのことだった。しかし、敵が再攻撃を仕掛けてくる可能性も十分考えられたため水上偵察機を飛ばし、周囲の哨戒を行うなかで、彼らは見つけたのだ。

 

「奴らは、はなからこれが狙いだったのか・・・・・」

 

疲れ切った声で副総理兼大蔵大臣米重薫(よねしげ かおる)が独り言のように呟く。

 

「そう考えるのが妥当でしょうな」

「敵の攻撃は面白いほどに一貫性を保っています。まずは、第1次攻撃で関東上空の制空権を奪い、第二次攻撃で・・・これは結局艦娘部隊の奮戦と第101、102、404飛行隊の多大な犠牲で失敗に終わりましたが・・・・関東各地の重要施設をつぶし、名実ともに我が国のあらゆる指揮命令系統を分断」

「こんな真似をされれば、第5艦隊も動かざるを得ない。そして、あらかじめつぶしておいた伊豆諸島をかすめて、真打ちを投入。第3水雷戦隊と第5艦隊を葬る。そうなれば関東は空も海も丸裸同然です」

 

憔悴しきった笑みを浮かべる小野寺に、大本営長官鳥喰政憲(とりばみ まさのり)と陸軍参謀総長石橋英機(いしばし ひでき)が続く。深海棲艦の作戦立案能力。自らの経験と諸外国の情報から警戒はしていたのだが、今回は大きくこちらの予想を上回るものだった。

 

「そんな悠長な考察に浸っている場合か! 硫黄島で夕方に捉えられたということは、もうすぐそこまでやつらが迫ってきているということだろう! にもかかわらず・・・・」

「林、落ち着け。場をわきまえろ」

 

気勢を荒げる警察庁と海上保安庁を所管する保安大臣林豪将(はやし ごうすけ)に対して、官房長官で佐影の右腕と語られる神津四朗(こうづ しろう)が腕組みをしたまま、鋭い視線を向ける。新人議員なら失禁しそうな迫力があったが、相手は保安大臣。しかも、林は元警察庁職員で闇と肩を並べてきた猛者。神津の睨みなど意に介さない。

 

「官房長官・・・・。くっ。官房長官はなんともお思いにならないのですか?」

「なんの話だ?」

「もとはと言えば、今回の件は明らかに海軍の失態です。いくら勝ち続けていたとはいえ、台風が接近していたとはいえ、哨戒を疎かにするべきではなかった! 的場総長たちの慢心の()()()で瑞穂は取り返しのつかない犠牲を支払うこととなった」

「まぁ、まぁ、林さん落ち着いて。確かに海軍に責任の一端はある。しかし・・・・」

 

額に汗を浮かべながら、ぎこちない笑みで林を宥める佐影。しかし、この会議に・・いや、この国のトップとして議論をあるべき方向に導き、結論を下さなければならない男の気遣いを林は呑気と受け取った。

 

「総理・・・・。もう少し、危機感を持ってください!! これは軍事的見地からの影響だけでは収まりません。この国に、取り返しのつかない地殻変動をもたらすには十分すぎる! 我が内閣の存亡すら左右しかねません! それを軍人風情が・・・・」

 

唾を周囲に飛ばしながら、的場たち瑞穂軍勢を相変わらず睨みつける林。軍人嫌いなのはかなり有名な話だが、ここまで来ると感心してしまう。

 

「お前はさっきなんと言っていた?」

 

それを見かねた神津が口を開く。佐影を非難対象に対象に定めていた林は、よほど横やりを想像していなかったのか目を点にする。

 

「は?」

「今は非常時だ。この中で一番有事慣れしているお前が責任の押しつけをしてどうする。そんな()()()()()()()()()()時間はない。・・・・お前の言葉だぞ? 保安大臣の肩書が泣いているな」

「くっ・・・・」

 

林は拳を震わせながら、しぶしぶ口を閉ざした。彼の様子を確認し、神津は声をあげた。

 

「的場」

「は!」

「敵の現在位置及び真意は分かった。して、海軍は現有戦力で食い止められるのか?」

 

全員の視線が的場に向く。それを受けとめ珍しく額から的場は汗を流す。彼の口から出てきた言葉は、室内にさらなる危機感を抱かせるには十分すぎるものだった。

 

「はっきり申し上げて、かなり厳しいと言わざるを得ません」

「そうか・・・・・・・」

「ちょっと、待ってください!」

 

憲政史上初の女性自治大臣、山本良子(やまもと よしこ)が血相を変える。もうおばあちゃんと言われる年頃になっても健康不安説は皆無で、男性が大半の政界でも持ち前の元気さで着々と頭角を現している逸材だ。

 

「的場総長は厳しいと仰いましたが、それはどうしてですか? 失礼を承知で申し上げますが、こちらの損害は第5艦隊の壊滅や艦娘に複数の中大破艦が生じたとはいえ海軍が現在保有している全戦力に比べれば微々たるもののはず」

「そうだ! 君たちには呉も、横須賀も、佐世保も、大湊も、大宮も、無理を言ってかっさらった予算で造った新造艦隊もあるではないか!」

 

山本の言に、林が乗っかる。懲りていないことに神津の感情が刺々しくなるが、当の本人は気に留めていないようだ。

 

「山本大臣や林大臣のおっしゃることはごもっともです。ですが、現在全国に配置されている部隊を動かすことは不可能なのです」

「どういうことですか?」

「現在第1・第2統合艦隊は瑞穂海上で試験航海の真っ最中。第3・第4統合艦隊も進水こそは完了していますが、まだ試験航海にすら移れておらず、戦力としての勘定は不可能です。おのずと頼れるのは現有戦力のみということになりますが現在、大宮、幌筵各警備府の近海に深海棲艦が出現。艦娘を差し向ければ殲滅可能な小規模部隊ですが、明らかにこちらの戦力移動をけん制する動きを見せています」

「っ!?」

「また呉鎮守府は西太平洋にて多数の敵潜水艦が遊弋している兆候があると報告してきています。これを受け呉は瀬戸内海への侵入を防ぐため豊後水道並びに紀伊水道に防衛線を構築。太平洋上への出撃を控えています。タイミングを考察するに大宮、幌筵と連動した動きであると見られます」

「な、なんと・・・・・・・」

 

敵の連携した行動。いくら自治大臣である山本であろうとそこから的場達と同様の結論を導くのにそう時間はかからなかった。

 

「小笠原・伊豆諸島の陸軍基地といまだに連絡が取れない以上、第2次列島線はないも同然です。仮に被弾覚悟で呉の部隊を関東防衛に回した場合、西瑞穂の防衛はがら空きとなり、瀬戸内海が食い荒らされてしまいます。舞鶴を回すにしても、関門海峡ルート、津軽海峡ルートのどちらも結局太平洋へ出てしまいますし、佐世保は漢城条約に拘束され、自由に動かせません。仮に佐世保の部隊を関東救援に派遣した場合、東シナ海の第一義的防衛義務を定めた漢城条約第5条に抵触する恐れがあります」

「今は瑞穂の存亡がかかった非常時だ。国が滅んでは条約などただの紙切れ。大体、漢城条約の“義務”は真の義務ではなく、法的拘束力はない。軍事主権は常に我々が握っている。そうだろう?」

 

怒気を単語の端々から漏洩させる林。彼のいうことは尤もだった。瑞穂・栄中・和寧の東アジア3か国で2031年に締結された「漢城条約」。この条約では未知の敵「深海棲艦」に対し3か国が緊密な連携の下、共同して対処することが謳われていた。しかし、いくら未曾有の事態とはいえ、直接的に国家主権を侵害するような規定は存在していない。

 

「そうですがね。それはあくまで表向きはです。裏は違う」

 

ずれたメガネを人差し指で直しつつ、白髪の侵攻によって髪が灰色と化した外務大臣森本五典(もりもと いつのり)が苦悩に満ちた表情で語りだす。

 

「確かに、第5条には法的拘束力もありません。その他の条項にもわが国の主権を侵害する旨は記されていません。しかし、当条約は行動対行動の原則の下、信頼関係で成り立っています。もし、我々が漢城条約を軽視する姿勢を鮮明にした場合、深海棲艦侵攻時に瑞穂救援を規定した第12条を栄中と和寧は我々の姿勢を根拠に履行を渋る可能性があります」

「彼らの機嫌を決定的に損ねれば、問題は国防だけに収まらない。相互依存が進んでいるとはいえ経済にも壊滅的な影響が及ぶ」

 

元陸軍軍人で、退役してからかなりの時間が経過しているにも関わらずたくましい肉体を維持している通産大臣細川五郎(ほそかわ ごろう)は険しい表情で腕組みを続ける。

 

「第5条の規定は栄中の巨大な経済力の恩恵にあやかっている瑞穂には利するものだ。栄中が深海棲艦との直接的戦闘に突入すれば、世界と隔絶されたにも関わらずなんとか近隣諸国同士の重層的な交易を確立し、大戦勃発前の経済水準に戻りつつあった瑞穂経済は本当に終わる。民間の資源が全て戦闘に投入されるからだ。その現実があるからこそ、努力目標とすることを目指していた第5条が義務にされたんだ。やつらは本気で我々に東シナ海の防衛を託している。あの満州族が頭を下げたことからもその並々ならぬ覚悟は分かる。それを裏切れば、どのような報復行為に出るか分からん。海軍はよく東アジア情勢を考察している」

「ありがとうございます」

 

暗に「自分の立場を自覚しろ」と細川は林を叱責する。林は「そのような屈辱を許容するとは、瑞穂政府の一員として失格だ」と顔に刻み込み、細川を射貫く。この2人のいがみ合いも出身から今に始まったことではないが、今日は特に刺々しい。

 

「大湊は東北沖での哨戒に投入されています。哨戒戦力を幾分か割けば輸送部隊迎撃に参加させることも可能ですが、もともと大湊には第5機動艦隊、第2水上打撃艦隊、第1水雷戦隊しか配備されておりません。敵の周到な作戦を考えれば、関東そのものが囮で本命は別ということも十分に考えられます。この情勢下での戦力分散はリスクが高すぎます。動かした後に敵が現れたらそれこそ取り返しがつきません。大宮や幌筵の状況からこれは一部隊ではなく、太平洋に点在している泊地単位の部隊が各自に連携しているとみて、ほぼ間違いありません」

 

 

的場の言に合わせ、壁に張られた東アジア・東南アジアから西太平洋全体を収める地図を大前が指で示していく。それを食い入るように見る各大臣。現状を、軍事に鈍い者でも視覚的に把握していく。ますます顔が青くなるものが数名。

 

「ですが、厳しいことは厳しくとも、あくまで()()()です。もうお手上げというわけではありません。現在、軍令部では横須賀鎮守府と共同で迎撃作戦を立案中です」

 

各大臣から放たれる異次元の存在感を押しのけ、的場が決意を込めた口調で言う。的場の姿勢に対する反応は千差万別だったが、この中で最も過激な直感に至った林が皮肉と怒りを織り交ぜた。

 

「迎撃作戦? 危機感を煽ったにしてはまた随分なものを懐に抱えて・・・・。今、房総半島沖には敵の艦隊が堂々と居座っている。目先の敵を見逃し、わざわざ装甲が弱く、数もいる輸送部隊を名誉のためだけにやろうというのか?」

「いえ、決っしてそのようなことでは・・・」

「人の話は最後まで聞け」

 

的場の弁明を遮り、神津が神仏さえ連想してしまいそうな荘厳かつ圧巻な一言を放った。あまりの迫力に林はおろか的場たち海軍に不信感を募らせている幾人かの大臣が睫毛を伏せる。

 

「敵の残存部隊だな?」

「その通りです」

 

周囲に様子を確認した上での発言。的場は力強く立ち上がり、大前がさきほどまでいた地図の隣に移動する。

 

「敵は周到な計画で攻撃を仕掛けてきましたが、陣容を見るにとても撃沈覚悟で侵攻してきたとは思えません。深海棲艦は既に戦力の過半を失っています。これは敵にとって想定外のことでしょう。空母が4隻残っていますが、艦載機は昼間の戦闘でかなり消耗していると思われ、こちらが手を出さない状態での制空権確保がやっとの状態と推測されます。ですが、そうとはいえ横須賀航空隊各隊が壊滅した以上、制空の主導権が向こうの手にあることは否定のしようがありません。輸送部隊の護衛に軽空母が複数確認されていますが、あくまで彼らの役割は艦隊の防空。上陸作戦支援のための制空権確保は日本世界のアメリカ軍同様正規空母が担っていると思われます。我々はその点に着目し、深海棲艦の本土侵攻意思を撤下するため艦娘戦力で空母部隊撃滅を図ります」

「敵空母部隊の位置はつかめているのか? それに第5艦隊挟撃を目指した重巡艦隊は無傷だと聞いている。彼らの動向は?」

「最新の情報では、どうやら両艦隊は合流し連合艦隊を組んだ模様です」

 

漏れる複数のため息。いくら軍事に疎くても敵戦力が増えれば、撃滅が困難になることは分かる。

 

「そして、敵の位置は、ここです」

 

神津を見ながら的場は房総半島九十九里浜沖、100km地点を示す。

 

「偵察機を発艦させ、哨戒を行っているようですが目立った動きは確認されておりません」

「なるほど。敵輸送部隊の方はどうだ? いつ頃本土の近海へ?」

「現在の速力を維持しますと、明日の今頃には連合艦隊と合流します」

「あと、1日か・・・・・」

「と、いうことは、敵の上陸地点は・・・・?」

 

佐影の確信ある疑問。

 

「九十九里浜とみて間違いありません」

「大本営と参謀部も同様の見解ですか?」

 

佐影の言葉に、鳥喰と石橋が大きく頷く。

 

「敵は昼間の損害を考慮しても、上陸は可能と考えているのでしょう」

「敵ながら、よくこちらを分析していると言わざるを得ません。敵の規模から判断するに関東方面隊第1、第2、第3師団の3倍の戦力を有していると考えられます。仮に上陸された場合、全国の部隊を総動員しても排除はかなり厳しいものとなります」

「攻撃3倍の法則、ですか」

 

山本が呟く。攻撃3倍の法則とは、戦闘において特に他国や他国軍の展開地域など他国の軍隊がいる区域に侵攻して勝利するためには、他国軍の3倍の兵力が必要と言う理論である。もっと平たく言えば、隣国を侵略したかったら、隣国の3倍の軍隊を整えなければ勝てないということである。

 

「だが、万が一上陸したとして、やつらの狙いはなんだ? どうにも俺には奴らの真意が分からん。そのまま進んで東京を灰燼に帰すつもりか?」

「米重大臣のおっしゃることはもっともです。常道でいけば、最前線拠点である大宮を叩くはず。しかし、現在、大宮に主戦力が移動したため、本土はがら空きとは言わないまでも、以前より防御力が落ちていることは事実です。そして、大宮への補給は横浜港と大阪港が主体となって行われています。特に横浜港を出発する船舶は第2次列島線沿いに大宮島まで航行します。大阪の船舶も第2次列島線がミッドウェー、布哇方面からの敵侵入を防いでいるからこそ、安心して航行できるのです」

「急がば回れ、だな。まさしく。奴らは利根川を境として本土から房総半島を切り離し不沈空母、前線基地とし、瑞穂攻略の橋頭保を築く。そうなれば房総半島を拠点とした敵地上航空戦力の攻勢下に入る第2次列島線は手放すしかなく、補給路は経たれ大宮は干上がる。そして、満を持して大宮の奪還へ、と」

 

目の前の消しゴムを置き、神津は将棋で言う大手のようなしぐさを示す。

 

「完全に、攻勢が裏目に出たかたちですね・・・」

「ミッドウェー方面からの敵軍侵攻の可能性を予見できなかったのは、完全に我々の落ち度です。最近は少々上手く行きすぎていました。我々の間に根拠なき慢心が広がっていたことは否定のしようがありません」

 

視線を下に向ける的場。そして、大前。自分の言葉のせいだと気づいた佐影は慌てて顔をあげるように促す。

 

「慢心していたのは、我々政治家も同じです」

 

しかし、内閣総理大臣の気遣いを受けても軍人たちの顔は晴れない。だが、それほどまでにここの軍人たちが責任を感じている理由を佐影や神津、そして小野寺など軍事に明るい瑞穂の最高指導者たちは理解していた。瑞穂は潜水艦娘たちを投入した深部偵察、そして相互連絡可能な環太平洋諸国と連携によって既に、太平洋上に存在する敵泊地の大まかな位置を特定していた。その一カ所に布哇諸島の東方海域に存在する布哇王国領ミッドウェー諸島も該当する。駆逐隊や警戒監視部隊が常駐する小規模な泊地ながらもたびたび布哇諸島を本拠地とする機動部隊が進出していることから、ここが布哇諸島の防衛拠点であり同時に西太平洋への睨みを利かせる哨戒ラインであることは容易に察せられていた。そして、ここが的場たちに多大な責任を感じさせている所以だろうが、今回侵攻してきた部隊のおそらく中枢である空母ヲ級改フラッグシップ旗下の重空母機動部隊が多温諸島を奪還して以降にミッドウェー泊地に進出していることを軍は把握していたのだ。だが、このようなことは希有とはいえ、前例がないわけではなかったため、大本営でも、軍令部でも注目されることはなかった。

 

 

 

 

本土に爆弾が降り注ぐまでは・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

「海軍だけの責任ではありませんよ。それより今は・・・・」

 

軍人たちの顔を一瞥する佐影。そこにはこの国のトップらしい威厳が宿っている。

 

「単刀直入に聞きます。敵連合艦隊を撃滅した場合、上陸部隊は引きますか?」

「引きます。と断言したいのですが、確証は持てません。支援部隊の存在なしには上陸作戦が成功しないのは自明の理です。ですから、それらが撃破されれば通常は引きます。諸外国の情報を照会すると、多くの場合、深海棲艦も撤退しています。そのため、ほぼ引くと推測していますが、相手は人智を越えた化け物です。これ以上の慢心は避けなければなりません。既に敵か強行突破してきた際の作戦も」

「なるほど、だから、これが準備されていたんだな」

 

国防勢を見渡したあと、米重は手元に置かれている分厚い資料を手に取る。

 

「作戦1208号」

「通称、背水作戦」

 

黒く太い字。その上には「特管秘」と赤い判子が乱暴に押されている。米重と小野寺がそれを読み上げた瞬間、室内が久しぶりの静寂に包まれる。これが意味するもの。それは個々人が背負うにはあまりにも重すぎるものだった。

 

そこへ慌てた様子の足音が急速に近づいてくる。止んだと思った瞬間、響くノック。

 

「いいぞ」

「し、失礼します!」

 

息を切らせながら入ってくる若い男。ネクタイは曲がり、着ているスーツの第一ボタンは外れ、身なりがかなり乱れているが、彼の正体を知らない者はいないため、「礼儀がない」と怒る者はいない。彼は佐影の秘書で、今朝から佐影と同等に、もしかすると佐影以上にあちこちを走り回っているのだ。身なりを気にする余裕もないほどに。

 

「首相、記者会見の準備が出来ました!! ご指示通り、21時から開始できます。既に報道各社には通達を」

「分かった」

 

現在の時刻は20時半を少し回ったところ。後30分ほどで、佐影は憲政史上、いや約2000年前に瑞穂が建国されて初めての事態を国民に伝えねばならない。

 

「まさか、私がこのようなことを言う事になるとは、政治家になった時は全く想像していませんでしたよ。あはは・・・」

「総理・・・」

「みなさん」

 

儚げな笑みから一転、総理大臣の顔に戻る佐影。一同は背筋を伸ばし、身を固くする。

 

「これから1日で瑞穂の運命が決まります。瑞穂国民8200万人の命と未来、そして永久の時を経て築き上げられ唯一無二の歴史、文化、伝統が、我々の肩にかかっています。それを今一度思い出して下さい」

『はい』

「この場を持って正式に大本営作戦1208号、背水作戦を承認します」

 

息を飲む音。一気に緊迫度が増す。作られただけで発令されず済めばどれほど良かったことか。夢であればどれほど嬉しいことか。しかし、これは夢ではなく現実。紛れもない現実なのだ。

 

「以上、非常事態大臣会合を閉会します」

 

 

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 

「隊長?」

「ん? どうしたのおきなみ? そんな怖い顔して・・・・」

 

海防軍須崎基地第1庁舎1階の少し薄暗い廊下。天井に設置されているLED照明はサボタージュを起こすことなく、空間全体を、自分たちを照らしている。右側にあるガラス窓から覗く空は一面雲に覆われ、灰色一色だ。どうやらこれが薄暗くなっている原因らしい。

 

彼女の暗く、黒い表情も曇天の影響なのだろうか。いつもの頭にくるほどの陽気さが全く感じられない。

 

自然に後ろへ引き下がろうとする体。そうする理由が自分自身の行動にも関わらず分からない。本当に、分からない。そんなこちらの戸惑いに構うことなく、彼女は口を開く。だが、何故だろう。何故、この期に及んでも温かみを一切感じないのだろうか。

 

 

 

 

「なんで、私たちを守ってくれなかったんですか?」

 

 

 

 

「ひっ!?」

 

恐ろしいほどまでに感情がない言葉。あまりの冷たさに体が凍てつく。自身の記憶の中にいる彼女とのギャップが、まるでナイフのような鋭利さを持って心を引き裂いた。おきなみの表情を覗おうとするが俯いているため、分からない。

 

なんで、守ってくれなかったのか?

 

こんな言葉を聞いてしまえば思い出さざるを得まい。この世界にくる直前の出来事を・・・・・。

 

「あ・・・・・あぁ・・・・・・・・」

 

瞼に瞬くあの日の光景。多くの隊員を、大切な人たちを乗せ無残にも沈んでゆく灰色の船。それが、何度も何度も再生される。

(もう見たくない!! 見たくないよ!)

いくら頑なに拒絶しようと何度も、何度も、何度も。

 

「隊長・・・・・」

「!? はやなみ・・・・?」

 

突如、後ろからおきなみとは別の声が聞こえた。あまりの唐突さに驚きつつおきなみを探すが、目の前に彼女の姿は見当たらない。

 

 

おきなみはもういなくなっていた。

 

 

急いで後ろへ振り返る。そこには、推測通りはやなみがいた。いつも通りの無表情をたたえて。おきなみの言葉で凍てついていた心が徐々に融解していく。顔が見えるということの重要性を改めて認識させられてしまう。思わず安堵のため息をついてしまった。

 

「ふう・・・・。なによもう。どうしたの、はやなみ? 私のよ・・・・」

 

ピチャ・・・・。

 

「え?」

 

粘り気のある不快な音が鼓膜を揺さぶる。聞こえた瞬間、心の融解は即座に停止。それどころか、溶けた分を上回るペースで氷結面積を拡大させる。体が震えてくる。寒くないのに、冬じゃないはずなのに震えてくる。

 

下に向けられる視線。この音には聞き覚えがあった。鼻につく独特の臭い。水ならば当然、このような臭いは発しない。

 

「!?」

 

音の正体。それは血だまりだった。つい先ほどまで存在すらしていなかった血だまりを自身の右足が踏んでいる。血の海に移り込むLED照明。白い蛍光灯型にもかからわず、それは赤く見える。震えを必死に抑え、おそるおそる視線を足の先に向けていく。ゆっくり、ゆっくりと・・・・・・。自身の身長ほどの半径を持っている血だまりの中心にいたのは、はやなみだった。

 

全身を血塗れに、あちこちが“損傷”しているはなやみ。指先から、破れたスカートの裾からぽたり、ぽたりと体内から体外へ生命維持に不可欠な体液を供給していく。さきほどまで普通の姿だったのだ。なのに、なぜ。

 

「は、はやなみ・・・・?」

 

声が震える。

 

「隊長。・・・・・・痛いよ・・・・・」

 

悲しみと苦しみを融合した声が・・・・・聞こえてくる。

 

「は、はやな・・・」

「体も、心も・・・・・・・。私、ずっと、居たかった・・・・・・・ここに。ずっと・・・ずっと・・・」

「う゛・・・」

 

胸に激痛が走る。頭に激痛が走る。はやなみの悲しそうな瞳に自身が映っている。恐怖と絶望と懺悔に染まり切った憐れな姿が、ただただ映っている。

 

「みずづき隊長~~~~~~!!」

 

耳に届く声。おきなみともはやなみとも違う、優しさを感じさせる穏やかな声。

 

「え? か、かげろう・・・・・・・。って、はやなみ・・・・はやなみ?」

 

目の前には、誰もいない。ほんの一瞬、意識を前方から逸らした間に足元の血だまりも消えていた。おきなみに続き2人目。また周囲を捜索するが見当たらない。

 

 

 

はやなみもいなくなっていた。

 

 

 

「みずづき隊長~~~~~~~!!」

 

こっちに向けと言わんばかりに叫ぶ声。額に浮かんだ雨粒のような汗をぬぐいながら、聞こえる方向へ顔を向ける。窓の外。第1庁舎正面を100mほど行った道路上にかげろうが立っている。

 

眩しい笑顔を浮かべながら、手を振って。

 

窓を開け、声をかけようとする。だが・・・・・・・・・。

 

「え? ち、ちょっと、かげろう!?」

 

突然、走り出すかげろう。こちらに背中を向け、海へ向かって走っていく。

 

「なんなの、もう!」

 

何故か追いかけなくてはならないような気がしたため、全速力で玄関を目指し廊下を走る。静まり返った廊下に、玄関に、自身の足音のみが木霊する。

 

人の気配は、ない。

 

「はぁ・・・・・はぁ・・・・はぁ・・・・・あれ?」

 

必死に肺へ酸素を補給しながら、周囲を見回す。木々に、海に、岸壁。そこには追っていた人影はなかった。

 

「おかしいな・・・・この辺りに来たはずなんだけど・・・・」

 

 

かげろうもまた・・・・・・。

 

 

岸壁に向かって、足を進める。どこでも同じようでありながら、少しずつ違う潮の香りが鼻腔をくすぐる。鹿児島港から那覇港へ向かう船団護衛任務のため須崎を離れて以来、嗅ぎ慣れた香りを嗅ぐことはなかった。もう少しのところで第53防衛隊は・・・・・。

 

「ここって・・・・・」

 

自身の信念をあの人に伝えた場所。なんの偶然か、みずづきはかげろうを追っているうちにそこへ差し掛かっていた。

 

「え・・・・・」

 

そして、足が止まる。前方の岸壁でかげろうとは違う人影が、海を眺めていた。それを認めた瞬間、勝手に足が動き出す。歩きから早歩き、そして疾走へ。体が、足が激しく動いていく。だが、心もそれをいさめない。何故なら、会いたいからに決まっている。

 

「知山司令~~~!!」

 

だが、彼は聞こえていないのか、自身の存在に気付かない。

 

徐々に詰まる彼我の距離。

 

「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・。ち、知山司令?」

 

彼のすぐ隣まで来た。息を整え、彼を直視する。彼は海を見たまま、微動だにしない。

 

「あの・・・・」

 

言葉を遮るようにして、なんの前振りもなくいきなり視線がこちらに向く。

 

 

 

まるで、罪人を見るような視線で・・・・・・・・・・・。

 

 

 

もはや、言葉も出なかった。全身のあらゆる活動が停止する。そんな錯覚さえ覚えてしまう。まるで生身で極地に放り出されたかのような寒さ。震えることもできず、肌がちくちくと痛み出す。

 

そんな顔、見たくない。

 

視線を外そうとするが、どうしても顔が動かないため外すことができない。その視線が、自身を葬ろうとした会議室に座っていた老害たちと重なる。

 

そんな目を、向けないで。あなたに向けられたら、私は・・・・・。

 

彼がゆっくりと口を開き始める。恐ろしいほどゆっくりだ。まるでスローモーションのように。

 

いや・・・・・・・。

 

徐々に大きくなる。その口から何が放たれるのか、想像がついてしまった。その瞬間、全力で体の凍結を溶かそうとする。動こうとする。走ろうとする。彼の声が聞こえないところまで。塞ごうとする。自身の足元を根底から崩す言葉を聞かないために。

 

 

“俺は絶対先に逝ったりしないし、裏切ったりもしない。こう見えてもしぶとい。精神は外見通りなんでとても部下をおとしめるような図太さは、ない!”

 

 

あの時の光景を必死に再生する。現実逃避をするかのように。これから投げられる言葉は、それとは正反対の言葉。聞いてしまったら、もう生きていけない。前を見られない。

 

彼がいたからこそ、みずづきは・・・・・・・・・・。

 

「・・・・・・・・・」

 

唐突に声が聞こえる。あまりに遠く過ぎて何を言ってるのか分からない。何故か、ゆすられる体。それは徐々に大きくなっていき、声も段々と近くなってくる。

 

 

 

 

そして・・・・・・・。眼前の世界は消滅した

 

 

 

―――――――

 

 

 

「みずづき!!!」

「んはっ!? ・・・はぁ、はぁ・・・・ここは?」

 

朦朧とする頭と酸素を必死に要求する肺を抱え、みずづきは自身に声をかけた張本人を覗く。自分を見下ろすようにして、川内が体をゆすっていた。

 

「みずづき、大丈夫? なんかうなされてるみたいだったけど・・・・」

 

心配そうな表情の川内。いつもなら安心させるため言葉を重ねるのだが、今はそれに構っている余裕がなかった。川内から、前方へ視線を移す。目の前を忙しなく走り回る医者・看護師・将兵たち。その向こう側には治療を受けている大勢の将兵たちが寝かされ、所々からうめき声が聞こえる。いまいち状況が分からない。必死に記憶を振り返ろうとするが頭痛に邪魔され、よく思い出せない。

 

「えっと・・・・ここは・・・・」

「ここは体育館。覚えてないの?・・・・・まぁ、無理もないか。百石司令からここで待機するように言われたんだよ。その最中、あんたが船をこぎ出して。起こすのもかわいそうだったから・・・・」

 

そこで、記憶の霞が少しとれる。川内の言うとおり、一旦1号舎へ戻った第3水雷戦隊は負傷者救護の支援に回されてたのだ。しかし、戻った頃には治療と収容のピークが過ぎており、結局待機することになったのである。静かに体育館でじっとしているうちにみずづきは体育館で寝てしまったわけだ。

 

「あ~そうだった、そうだった・・・・すみません川内さん・・・って」

 

寝相が悪かったのか、痛む体にむちを打ち起き上がろうとすると、一枚の毛布が床に落ちる。

 

「これって・・・まさか、川内さんが?」

「厳密にいえば白雪だけど・・・まあそんなところ。もう7月とはいえさすがに毛布の1枚や2枚ないとね、風邪ひくし」

「あ、ありがとうございます!」

「いいよ、いいよ。それより、みずづき? すぐに体育館の外に・・・」

「川内さん!」

 

一転して深刻な表情になった川内の言葉を遮り、黒潮が体育館の玄関からこちらへ走ってくる。彼女も川内と同様の表情で、いつもの笑顔は消え去っていた。

 

「もうすぐ、放送が始まるで! はよせんと!」

 

時計を指差す。今の時刻は21時前。あと1分ほどで21時になるところだ。それに「うわ!」と焦燥感を浮かべる川内。だが、みずづきには2人がそうなっている理由が分からなかった。そして、最低限の人数のみを残し、体育館の人間が血相を変えて外へ出ていく理由も分からなかった。

 

「分かった! さ、早くみずづき!」

「ど、どうしたんですか!? 放送って・・・・」

 

手を引っ張り、走り出す川内。黒潮も後に続く

 

「なんでも9時から首相の緊急会見が開かれるんやって!」

「緊急会見? しかも首相って・・・・」

「総理大臣だよ! 総理大臣! この国のトップ」

「それは知ってますけど、なんで?」

 

上履きから靴に履き替えることもなく外に出る。一瞬、物心ついた時からの癖で「あっ」と立ち止まりそうになるが、その戸惑いはすぐに安堵へと変化する。現在は非常時。みずづき以外の医者や看護師、兵士たちも土足のまま体育館に出入りを繰り返していた。自分の着衣を意識したが故か、ここで右手が川内に握られていることを明確に認識した。

 

「あ、あの・・・・・・」

 

わずかな気恥ずかしさが気だるい心を幾分和らげてくれるが、一瞬のこと。川内の背中から前方へ視線を移すと段ボール箱4、5個を積み重ねた即席机にラジオが置かれている。その前に人だかりができていた。みな一様に緊迫した表情で、落ち着きがなく周囲の人間と話している。

 

「川内さーん!」

「やっと来たわね」

「ほらほら早くしろよ! もうすぐだぜ!」

「・・・・・・こっち」

 

手を振る白雪たち。一見した所、残酷な現実が押し寄せたにも関わらずいつもと変わらない。それに応えると、彼女たちと合流する。開口一番、陽炎にこの状況について問いかけた。

 

「一体何? この様子、ただ事じゃないよね?」

「私もさっぱり。ただ、かなり重要なことを言うとか・・・・」

 

陽炎も大して所持している情報が少ないのだろう。首をひねりつつ新たな情報を語ってくれたが、目的の音声を前に中断を余儀なくされた。

 

「21時になりました。これより、佐影総理大臣の緊急会見が始まります。こちらは総理官邸記者会見室です」

 

男性アナウンサーの低い声がラジオから流れてくる。一気に静寂へと移行する周囲。川内も口を閉ざし、一語一句聞き逃さないとばかりに耳を向ける。それにならって同じように耳を傾けるが、どうにもしっくりこない。総理大臣の記者会見と言えば、テレビを通じて総理大臣の顔も見ながら語られる言葉を聞くのが日本では一般的であった。深刻な電力不足からラジオの復調が顕著であったが、それでもテレビの地位が揺るぐことはなかった。

 

「まもなく佐影総理が入室・・・・あっ! たった今、佐影総理が姿を現しました。薄紫色の防災服を着て、神妙な面持ちで・・・・・・ゆっくりと・・・・今登壇されました」

 

実況の音声に紛れて聞こえてくるフラッシュの音。日本のように対空機関砲かと思えるほどの連射音は聞こえないが、かなりの数であることは察せられる。

 

「国旗に一礼・・・今、前方へ・・・・・」

「これより、総理からご発言がございます。なお、今回は記者の皆様からのご質問は一切受け付けませんので、ご了承お願いいたします」

 

総理官邸関係者と思われる男性が発言した瞬間、わずかに場がざわつく。

 

「おいおい、あの首相が質疑応答なしだとよ」

「一体、なにを話すんだ・・・」

 

口々に心情と事実を吐露している将兵たちへ何気なしに視線を向ける。

 

「あれ?」

 

そこで気付いた。周囲に数え切れないほどいる兵士たち。だが、士官以上の軍人は1人もいなかった。

 

「国民のみなさま、内閣総理大臣の佐影禎明です」

 

喧騒が示し合わせたかのように、ピタリと止む。ティッシュ箱サイズの機械から、東京に立っているこの国のトップの声が聞こえてきた。

 

「今朝発生した深海棲艦空母機動部隊による関東及び伊豆・小笠原諸島各地への空爆によって海軍を中心に多くの尊い命が犠牲となりました。亡くなられた方々、そしてご遺族に対し哀悼の意を表するとともにお悔やみを申し上げます。2027年以来、6年ぶりに深海棲艦は我々の頭上から再び牙を剥きました。降り注いだ恐怖に、多くの方が慄き不安に駆られていることは承知しております。そのような状況下、国民のみなさまにこのようなご報告をしなければならないのは慙愧に耐えません。しかし、私には瑞穂国民の皆様にこの国のトップとして真実をお伝えする義務があります」

 

ここで佐影は一旦、言葉を区切った。ざわつきの前兆が現れた始めた時、彼は冷静沈着に真実を告げた。

 

「・・・・・・・・・現在、我が瑞穂本土、関東地方へ向け、小笠原諸島沿いに輸送艦を中心とした深海棲艦の大船団が北上しています」

「っ!?」

 

佐影とは対照的に周囲は凍り付いた。

 

「確認された敵艦隊の規模、そして房総半島沖に展開している残存空母機動部隊から考察するに、敵が本土侵攻を目論んでいることは明白であります。・・・・・みなさん」

 

聞こえる佐影の深呼吸。一拍のあと、さきほどよりも強い口調で言葉が再開された。

 

「我が瑞穂は今、建国以来最大の危機に直面しています。ですが、いや・・・だからこそ、我々は今、一致団結し、共に助け合い、この未曾有の国難に対処しなければなりません。我々なら出来る。そう、私は確信しています。みなさん、今から8年前、2025年のあの時を思い出して下さい。あの時もわが国は、深海棲艦という未知の敵の出現によって未曾有の国難に見舞われ、多大な犠牲と苦役を被りました。しかし我々はあの国難を見事に乗り切り、尊い日常の継続を成し遂げることができました。我々は一度、自らの力によって深海棲艦の邪悪な意思をはねのけたのです。8年前にできて、今できないわけはありません。我々には強力な友人もいます。私は瑞穂政府を代表し、国民の生命・財産・幸福を守るため、死力を尽くすことを改めてお約束いたします。国民のみなさまもご協力のほど、よろしくお願い致します。現時刻をもって我が瑞穂国政府は、国家緊急事態法に基づく、特別非常事態宣言を瑞穂全土に発令。関東地方を警戒区域に指定し、特別非常事態宣言発令時第1号計画、通称本土決戦に対処するための避難行動計画の実施。及び、大本営作戦第1208号、背水作戦の承認を宣言いたします」

 

沈黙。マイクのすぐそばにいる人物が動いていることを伝える、布のすれる音。普通は聞こえないであろう音が、今回ばかりははっきりと聞こえる。本来情報を乗せた人の声を聞くためのラジオが、取るに足らない物音を流し続ける。雑音が頻繁に混じる電波環境でも記者会見室の沈黙がありありと伝わって来た。

 

横須賀鎮守府体育館前の広場も東京の総理官邸記者会見室と同様だった。いつも通り岸壁に打ち寄せる波の音が、無性に苛立だしく思えてくる。誰も、実況するはずのアナウンサーですら、声を発しない。

 

そして、情報過多で思考停止に陥っている周囲の兵士たちや川内たち大日本帝国海軍艦艇の艦娘たちのみならず、ここ瑞穂世界の並行世界たる日本世界から日本人であるみずづきも驚きのあまり固まっていた。口は無様にも半分開け放たれ、瞳の焦点はまったくあっていない。まるでここではない、別の空間を見ているようだった。

 

 

 

 

“本土決戦”

 

 

 

 

その単語が急浮上し、頭の中で何度も反響する。かつてのアジア・太平洋戦争で日本の敗戦が濃厚となる中、侵攻・上陸してきたアメリカをはじめとする連合国との間で生起すると予測された日本本土での国土防衛戦の通称。しかし、その言葉はポツダム宣言を受諾し、大日本帝国が無条件降伏したにも関わらず、歴史の影に隠れることはなかった。戦後が始まった後も“本土決戦”は綿々と次世代に受け継がれ、特殊な用語ではなく、読んで字の如く日本の存亡・興亡を決める戦いという一般的意味を宿すに至っていた。

 

それは、この瑞穂とも変わらない。しかし、瑞穂は本土決戦に晒された局面はあれど、連合軍による日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の発動が目前まで差し迫っていたアジア太平洋戦争末期の大日本帝国、深海棲艦の九州上陸・伊豆半島上陸を多大な犠牲の果てに阻止した日本国ほど追い詰められたことはなかった。そのため、今まで歴史の1つの可能性や映画・小説の中の話だと思っていたことが、突然目の前に降ってわいた時の衝撃は、もう表現のしようがないのだろう。

 

佐影首相の言葉を受けて呆然となっているこの国の将兵たちの気持ちはよく分かる。あの時みずづきも、そして空爆と飢餓、エネルギー不足でパニックに陥っていた全ての日本人も同じ気持ちを抱いたのだから。

 

 

 

 

―――――

 

 

 

「繰り返しお伝えします、繰り返しお伝えします! さきほど、政府はアウノンウン生命体、いわゆる深海棲艦の脅威が迫っているとして、関東及び中部の太平洋沿岸地域に国民保護法に基づく警戒区域の設定およびこれに伴う避難指示を発令しました! 発令地域にお住いの方はテレビ・ラジオをつけて、情報収集に努め、慌てず落ち着いて行動して下さい! 各自治体から何らかの指示がなされている場合があります。各自治体・自衛隊・警察・消防の指示に必ず従って下さい!」

「うそ・・・だろ?」

 

灯火管制が敷かれているため照明の光度を落とした、薄暗い室内。長い間掃除がなされていないのか、ほこりがスポンジのように積み重なり、ゴキブリすら逃げ出す汚染空間。お世辞を呟く余裕もないほど汚れているがそんな劣悪な環境な誰もど気にも留めない。

 

自分達のみがこのような有様なら気にもなるが、日本中よほどの高貴な家柄ではない家屋はどこも似たようなものなのだ。明日、自分が家族が生きているのかも、故郷があるのかも分からず、今日を生き抜くだけで精いっぱいな状況では当然。その絶望的な現状を室内の薄暗さが強調してくる。そこへ情け容赦なく響いてくる緊迫したアナウンサーの声。このご時世でも清潔感あふれる身なりを維持している男性が顔を真っ青にしてテレビの画面の向こう側から、こちらを見つめて必死に言葉を紡いでいる。

 

その言葉を聞いて、その顔を見て、正気を保てる人間が、冷静さを維持できる人間が果たしてどれほどいたのだろうか。少なくとも、自分にはそして自分の家族には無理だった。

 

 

最愛の家族、友人、知人がいついなくなるか、自分の住んでいる町がいつなくなるか分からない状況で、この国に住まう人間が最大にして不変の拠り所としているこの大地が消えるかもしれないという現実は、あまりにも重すぎた。

 

 

ほほの痩せこけた中年男性のうめき。それをただただ聞くことしかできなかった。

 

「・・・・・・なります! え? はい・・・・・はい・・・・分かりました! たった今、国防軍創設準備制度理事会委員、元海上自衛隊護衛艦隊司令官の日谷正成(ひたに まさなり)さんと電話がつながりました! 日谷さん! 聞こえますでしょうか?」

「はい。聞こえてます」

 

少し加齢を感じさせる年季の入った声。アナウンサーは耳に全意識を振り分けたのか、どこを見るともなく、視線を下げる。

 

「日谷さん・・・え、あ・・・わ、私も少し、混乱しているのですが、単刀直入にお伺いします。政府は日本本土に深海棲艦が侵攻してくると判断したため、このような措置を取ったと見ていいんでしょうか?」

「・・・・・・・まだ、断定はできません。私も突然の事で手持ちの情報が少ないのですが、現在、八丈島を占領するに至ったアウノンウン生命体、いわゆる深海棲艦に対し、陸海空自衛隊が総力を持って防衛戦を試みています。三宅島や伊豆諸島死守の最前線である御蔵島には、日本全国から陸自の特科・高射部隊が結集。また2023年度から調達が開始された23式地対艦誘導弾等も関東・中部各所に展開。八丈島から手を伸ばそうとする深海棲艦に対し、ミサイルや超長距離砲弾による攻撃を行い、これを敵の猛爆撃から生き残った空自戦闘機部隊と海自の第3護衛隊群が支援しています。政府はこれを“皇国存亡の天王山”と位置付けており、伊豆諸島を死守する決意を鮮明にしています」

「それは既に・・・・、一日本国民としても自衛官の方々には頭が下がる思いです。しかし、しかしですよ。日谷さんも重々ご承知のこととは思いますが、在ハワイ・グアム米軍、そして世界最強と謳われたあの第7艦隊も深海棲艦を前になすすべもなく全滅。世界各地では深海棲艦による本格的な侵攻が始まり、一部情報ではアメリカは西海岸に上陸を許し、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴでは激戦が繰り広げられているとも伝えられています。日本も、敵爆撃隊による度重なる空爆によって既に航空自衛隊・海上自衛他は壊滅。全国各地は焦土と化し、おびただしい数の死傷者が生じています。・・・・・・このような状況下で深海棲艦の攻勢を防ぎきれるのでしょうか?」

 

務めて冷静な返答をこなす日谷。この状況に至っても官僚的な答えが返ってきたことに不満を抱いたのか、アナウンサーが少し強い口調で迫る。

 

「・・・・・・・少なくとも、むざむざと撤退するようなことはないと思っています。しかし・・・」

「しかし・・・・?」

「言われる通り現状が極めて危機的状況にあることは事実です。隠しても隠し通せるものではありません。私たちには、遂に先人たちが抱いた決意を、再び心に宿すときがきたのかもしれません」

「それはつまり、敵の侵攻・・・・・本土決戦の可能性もある、と・・・・・」

 

沈黙。会話をしている両者だけではない。カメラには映っていなくとも、その後ろで控えているであろうスタッフも、こちら側でそれを見ている自分たちも静まり返る。そして、意を決したような吐息が聞こえた後、つらそうな声が届けられた。

 

「・・・・・・そうです」

「そ、そんな、この日本が、戦場になるのか・・・・・・」

 

中年男性は肘をつけていた机に、首を垂れる。自分は聞いた瞬間、声を発することも出来なかった。豊かな自然が、美しい田園風景が、自分たちの街が、家族が爆弾に侵されるのみならず、敵に蹂躙される。そう考えただけで、恐ろしくてたまらなかった。

 

「ですが、政府は、自衛隊は、私たち国民を守るために歯を食いしばって戦っています。今、私たちがこうやって話しているこの時も・・・・・。まだあきらめるの早計の一言です。彼らを、私の後輩たちを、信じてやって下さい。自衛隊は、そして国防軍は国民とこの美しい国土を守るために存在しているのですから」

 

日谷の呼ばれた男性の切実な訴え。正確には祈りと言えるかもしれない。その今にも社や寺院に飛び出していきそうな姿を想像できる声色が、何よりも日本の窮状を端的に表しているようだった。

 

 

 

―――――――――

 

 

 

 

「・・・た、った、ったった今、総理が降壇していきま・・・・」

 

耳に響く、やけに鮮明な音。はっとなり、自分が今どこにいて何をしているのか把握し直す。気付かぬうちに意識があらぬ方向へ向けられていたらしい。どうやら、あの時の恐怖は、絶望は、祈りは、何年たっても一度経験すれば容易に忘れられない代物らしい。静寂が一気に喧騒へと変貌する。但し、それはラジオの向こう側だけだったが・・・・・。実況のアナウンサーが思わず声を噤んでしまう。

 

「総理! 本土決戦ということですか!? 総理!」

「待ってください! 詳細をお伝え願えないでしょうか!? 首相!」

「現在の戦力で深海棲艦の、侵攻を防げる確証はお持ちなんですか!?」

「敵は! 敵はどのような・・・・・・・・!」

 

ラジオの音が完全にかき消す警報音が突如鳴り響き、鎮守府をそして市街を「特別非常事態宣言下」に染め上げていく。人間も例外ではない。頭のてっぺんからつま先まで、薄れかけていた緊張感と緊迫感が充填された。はじかれたように周囲は動き出す。将兵も、医師も、看護師も関係なかった。全ての人間がそれぞれの持ち場へ、全力の疾走を開始する。

 

「くっそたれが!! 本土決戦って・・・・・」

「川島! 愚痴言ってないでさっさと来いよ! 遅れるぞ!」

「ちくしょう・・・なんでだよ・・・・」

「お前はまだ、滋賀出身だからましだよ! 隊の中にも千葉や茨木みたいな関東出身者は大勢いるんだ! そいつらが冷静なのに、お前が取り乱してどうする!」

 

「俺たちは一体?」

「さぁな、背水作戦でどういった作戦行動になるのかさっぱりだからな! 本部に行けばじきにいわれるさ」

 

あちこちから聞こえてくる声。彼ら・彼女らの姿をじっと同情心を隠しきれない視線で捉える。自分たちもその気持ちを5年前に抱えていたのだ。但し、全てが同じというわけではない。

 

 

 

みな纏っている雰囲気は緊迫。しかし、日本人が纏った雰囲気は絶望。自らと周囲の死と破壊を夢想した、滅びへの恐怖に苛まれたのだ。それに比べれば、まだマシだろう。

 

「せ、川内さん。わ、私たちは?」

 

脱兎の如く走り去っていく将兵たちとは対照的に、その場で立ちつくしたままの川内たち。どうしたらよいのか分からなかったため、声をかけたのだが反応はない。もう1度、声をかけようとした時、再び放送無線が吠えた。

 

「全艦娘は直ちに講堂へ集合せよ! 繰り返す、全艦娘は直ちに講堂へ集合せよ!」

「来たわね・・・・・」

 

拳を握りしめると、川内はみずづきに背を向け、講堂ある方角を見る。

 

「みんな、行くよ!」

 

走り出す川内。それに続いて、陽炎たちも駆け出す。みずづきは一瞬戸惑うものの、怯えそうになる表情を引き締めて彼女の背中を追っていく。




まだまだ、房総半島沖海戦は終わりません。


先週投稿の話に関して、読者の方から「因幡ほどで船体では、20.3cm連装砲の自動装填装置は搭載できないのではないか?」とのご指摘を頂きました。
大変申し訳ありません。つい、海上自衛隊が装備している砲弾の大きさが頭の中にあり、20.3cmクラスの自動装填機構、また砲弾や装薬そのものの大きさを考慮していませんでした。ですので、因幡に自動装填装置がある描写は変更させていただきました。

軍事知識が浅い作者ですが、今後ともよろしくお願いします(汗)

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