Fate/stay night プリズマ☆イリヤ   作:やかんEX

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ACT5 「遠い背中」

 真円の月が、漆黒の闇を煌々と照らし出していた。

 無音の庭に突如現れた青の槍兵。

 白い月光がその男に落ち、黒々とした地より彼の青の色彩を、怖いぐらい鮮やかに浮き立たせていた。

 張り詰めた場の空気にイリヤは押しつぶされそうになりながら、身じろぎ一つ出来ず、その男をただひたすらに眺める。

「……っは」

 変な声が洩れた。

 緊張に掠れ、イリヤは正常に言葉を発せない。

 隣立つ士郎も息を飲み、手に握り締めたポスターを高々と前へ構える。  

 一方、そんなイリヤ達の様子にいっそう愉快気な表情を作った青の騎士は、口端を吊り上げたそのままに口を開いた。

 

 

「よお坊主、さっき振りだな。まったく、よくやってくれたもんだ。まさか一日に同じ人間を殺すハメになるとは、いつになろうと人の世は血生臭いという事か。

 ────で、おまえ、心臓を穿たれて生きてるとはいったいどういうこった?」

「……」

 士郎は答えない。ただ、彼の右手に握り締められたポスターが、ぎり、と、見た目にはそぐわない硬い音を立てた。 

「……だんまりか。まあ、いいだろう。おまえは後回しだ」

 そう言って男は士郎から視線を逸らす。言葉の通り、もう一切の注意が彼には向けられていない。

「────さて、そこのお嬢ちゃん」

 そんな男の目が、イリヤに対して向けられた。  

 

 

「────」

 その何気ない問いかけに、イリヤはぞわりと身体を竦ませた。

 自分に視線を送ってくる獣の如き槍の騎士。彼の纏う青と対照に映える、その赤い瞳。

 ……獣の視線は涼やかだ。

 青身の男は、この異様な状況において、こちらを十年来の友人みたいに見つめている────

 

 

 そうして汗ばむ手を胸の前で握り締めるイリヤに、男が何の感慨もなく淡々と言葉を続けた。

「そう、おまえだ。……ああいや、別にそんなに堅くならなくていい。オレは一つだけ、お嬢ちゃんに確かめてえ事があるだけさ」

「確かめ、たいこと……?」

「ああ、そうだ」

 鸚鵡返しの彼女の疑問に、男は鷹揚として頷いた。しかしそう言われても皆目見当もつかないイリヤは、ただ無言をもって次の言葉を待つしかない。

 すると、そんな彼女を射抜くように、見透かすように赤い瞳を眇めた男が、言い逃れは許さないとばかりに強い口調で言葉を紡いだ。

 

 

「お嬢ちゃんはオレを見て────ランサーと、そう言ったな」

「…………っ!」

 

 

 反応してから、失敗したと悟った。

 いや、相変わらず詳しい状況は判らない。しかし彼女が動揺したほんの僅かなその間。その一瞬。目の前の男が、隠しきれない程の獰猛な殺気を辺りに撒き散らしたのだ。

 静かな瞳に一寸宿った凄絶な鋭気。それをすぐに収め元の飄然とした空気を纏い直した青の男が、次に観察するように、見定めるように、細めた瞳のままでまじまじとイリヤを見つめてくる。

 

 

「やはり、お嬢ちゃんが本命か。随分怯えた様子でいやがるから少し心配したんだが……。

 ────なるほど、大層な魔力を身に秘めている。はっ、いいねぇ、素質は十分ってトコか」

 

 

 そう言って軽く笑う青い男の姿に、背筋が凍る。

 なんということのない、飄々とした男の声。

 そんなものが、今まで聞いたどんな言葉より冷たく、吐き気がするほど恐ろしいなんて────

 

 

「……しかし、分からねえな」

 不意の恐怖に縛られたイリヤを置いて、一転、青の男がどこか腑に落ちていないような、怪訝そうな表情で独り言を洩らした。

「お嬢ちゃんの魔力は文句なしに一級ときているが、その割にゃあ、肝心のサーヴァントの気配が一切感じられねえ。たとえ同じサーヴァント相手に己が身を隠しきった所で、ここまで自らのマスターに距離を詰められては意味がないだろうに」 

「……サー、ヴァント……? マスター……?」

 男が呟いた言葉に思わずイリヤは口を挟む。それを受けた男もまた、訝しげに眉根を寄せた。

「なんだ? 聖杯戦争関係者なら当たり前のこったろうが」

 

 

 ────その言葉に、

 イリヤは弾けるように、反射的に男に対して疑問をぶつけていた。

 

 

「また『聖杯戦争』!?」 

「あ?」

「昨日からそればっかり! あなた達は、なんでわたしやお兄ちゃんを付け狙うのっ!?」

「……」

「それに、なんであなたがそのカードを持ってるの!? 皆は、皆は無事なんだよね……!?」

「……だからおまえ、さっきからいったい何をスッとぼけてやが────……いや」

 途中で言葉を切り、不意に何かに気づいたように男は瞳を細めた。

「────違うな」

 言って、男はイリヤの様子を上から下まで無遠慮に眺めた。そうして口元に手をやり、思考を纏めるように考えを口にしていく。

「誤魔化そうとしているのかとも思ったが、どうやら本当に何も知らないみてえだな。言っているコトはとんと見当がつかねえが、確かにその動揺は本物だろう。

 ……あー、おいおい嘘だろ、くそったれ」

 

 

 必死な形相のイリヤから目を切り、ガシガシと頭を掻く青い男。先の飄々とした様子でも物騒な様子でもなく、ただただ気が抜けたように下を向き、溜息なんかを吐いてぶつぶつと独りぼやいている。

 奇妙に場の空気が和らいだ。

 何せ、場を殺伐とさせていた本人が酷く格好を崩しているのだ。それも無理もない。

 そうして急な展開にイリヤも思わず呆気に取られてしまうが、それはそれとして、自分の質問が流されていることにもハッと気がついた。

 だから彼女がもう一度男に向かい、意識的に強い調子で問い重ねようとした。

 

 

 

 

「────ちったぁ期待したんだがな」

 

 

 ────途端、場の空気が死んだ。

 

 

 

 

「…………ぁ」

 その声は自分と兄、どちらの物だったのか。

 とにもかくも、男の顔が上げられたのだ。

 視線が交わる。赤い瞳。その恐ろしい色。

 だが彼の瞳には何の感情も込められてはいない。つまらなそうに、まるで不毛な罰ゲームをさせられる時のように、ただ作業的に事を為そうとしているような、そんな平静で無感情な赤い瞳だった。

 

 

 だけど、それなのに

 そう、それなのに────どうしようもないほどの絶望的な死への確信が、一瞬にしてイリヤの全身を貫き奔り抜けて行ったのだ。

 

 

 イリヤは唾を飲んだ。

 同時に先程までの疑問も何もかもを飲み込んで、死の予感に捉われたままにただ思考を巡らせた。

 ダメだ。この相手には無理だ。自分たちはすぐに死ぬ。たぶん瞬きをした、その瞬間に。

 ダメだ。無理だ。無駄だ。不可能だ。とにかく何をしても勝てない────

 

 

 ────少なくとも、今は。

 

 

 辺りを見渡す。

 斜め前に兄の姿。表情は見えない。ただ立ち尽くしている。 

 ────状況判断は一瞬だった。

 今のイリヤは絶望に囚われている訳でも、自暴自棄になっている訳でもない。

 唇を噛み締め、感じる痛みに思考を加速させる。

 恐らく敵の力は強大。何故かランサーのカードを有している。こちらにはルビーもない。理由は判らないが、兄の胸はあいつにやられたものだろう。だから────

 

 

「シロウさん、逃げよう────!」

 

 

 イリヤはそう声を上げ、士郎の左腕を後ろから引っ掴んだ。

 そのまま瞬時に後方を確認する。少し先に、外堀の出口と思しき門が見えた。あそこまで行けばきっと外に出られるだろう。彼女は素早くそう判断を下す。

 

 

 腕を掴んだ兄は動揺からか、まだその場より動こうとしていなかった。

 奇しくも、先ほどとは逆の立ち位置だ。頭を必死に働かせながらも、そんな感想をイリヤは抱いた。

 ────そしてそうなら、兄が動けないのならば、自分がなんとかするしかない。自分はこれでも手強いカードの英霊達を相手取ってきたのだ。だからいつもとは逆に、今度は自分が兄を助けなくてはならない。絶対に、兄と一緒に生き延びるのだと。

 そうやってイリヤは、非常な決意を胸に宿し、動かない士郎の腕をよりいっそう強く引っ張って────

 

 

 ────不意に

 ざっ、と、誰かが地を踏む音が辺りに響いた。

 

 

 その音に、イリヤは驚愕を飲んで振り返る。

 

 

「お兄、ちゃん…………?」 

 

 

 ……呼び方なんて気にしていられなかった。

 だがその人物は、イリヤの不注意な発言を一顧だにせず、ただ前だけを見据えて佇んでいる。

 

 

 ────そう

 そこには、足を止め手に持つポスターを構えて男に対峙する、彼女の兄の姿があった。

 

 

 士郎は動かない。イリヤからは前を向く彼の表情は見えない。

 しかし彼のその背中は固く、そこから一歩も動く気はないのだと、そう強く言葉なしに物語っているようだった。

 そうして彼女は暫し呆然とその背を眺めて、やがてハッとして我に返り、酷く冷静さを欠いた、けたたましい程の声を張り上げて叫んだ。

 

 

「お、お兄ちゃん! 何をしてるのっ!?」

「……」

「は、はやく逃げなくっちゃッ!! なんで、このままじゃ殺されちゃうよ!?」

「……」

 口を開かない士郎に、強い焦燥を得てイリヤは叫ぶ。

「ねえ、どうして、お兄ちゃん……っ!」

「…………ああ、わかってる」

 彼が短く答えた。その声の抑揚のなさが、彼女を苛立たせた。

「だったら────!!!!」

 早く逃げようよ、と、懇願するようなその叫びは、イリヤの喉元より出ることはなかった。

 

 

 

「だから君は────イリヤは、逃げてくれ」

 

 それよりも早く、兄が自分の名をそう呼んで、そんなコトを口にしたのだ。

 

  

 

「…………え?」

 イリヤは思わず疑問の声を上げていた。彼女が必死に予想立てた次の展開の中でも、全く想定外の言葉を耳にしたからだ。頭が真っ白になるとはこういうのを言うのだろう、なんて事を、今の彼女は場違いにも考えてしまう。

 そうして唖然と立ち尽くすそんなイリヤを置いて、彼女に腕を掴まれたままの士郎が、目の前の相手をすっと見据え、言った。

「……どうせ、お前も逃すつもりはないんだろう」

 

 

 士郎の視線の先では、いつの間にか槍を担ぐようにしてその場に屈みこんでいた青い男が、興味深そうにイリヤたちの遣り取りを観察していた。

 士郎の言葉に男がすくっと立ち上がり、やけに気安げに返答する。

 

 

「まあな、目撃者は全員殺せときている。どっちにしろオレはおまえ等を逃すつもりはねえし、おまえ等二人は此処で死ぬ。これはもう決まっている」

「……」

「ったく、つくづく気に喰わねえ雇い主だぜ」

 男は言いつつ、それを違える気はないのだろう。士郎もそれが分かっているのか、無言で彼から目を逸らさない。

 するとそんな士郎の様子に少し感心するように、どこか興味をそそられたように男が言葉を続けた。

「それにしても、随分潔いじゃねぇか、坊主」

「……さっきで懲りたさ」

「────は、違いねえ」

 

 

 短く、小気味良い問答。内容とは逆に会話の調子は軽やかだ。

 イリヤはそんな士郎を見る。向こうの世界の兄とも変わりないその姿、声。だけどそんな兄が、全然自分の知らない人のように、この異様な状況の中で悠然と佇んでいる。……意味が判らなかった。

 そしてそんな士郎の姿をつくづくと眺めた青い男が、またもやイリヤからすれば埒外の感懐を、目の前の彼に向かって紡ぎ出した。

 

 

「……いや、少しオレの目が曇ってたのかもしれねぇ。坊主、その手の物から察するにおまえさん魔術の力量はからきしだが、それを踏まえても良い目をしてるぜ。

 向かう先が死地と知って恐怖し、それでも立ち向かう────英雄の性を匂わす目だ」

「……」

 士郎は応えなかった。しかし、男の言葉にイリヤは気づいてしまった。────彼女の掴む腕から伝わる、抑えきれない兄の震えを。

 その士郎の震えに心底楽しげに、腹の底から愉快そうに、男が笑う。

「あぁ、まったく悪かねぇ。オレの時代にはそいつを持ったガキが多くいたが、どいつもこいつも、いずれは良い男になったもんだ。

 ……おまえが肚の裡に何を抱えているのか。おまえがいま何を思い、この場に立っているのか。オレはそんなコトは知らねえし、欠片の興味もねえ。────だがな、坊主。断言してやる。英雄たるオレが保証してやる。おまえはきっと、良い戦士になった」

「……」

「……ま、だからこそ芽が出る前に摘み取るのは勿体ねえし、オレの趣味でもねえワケだが」

 

 

 

 そう言って、男は不意に虚空を睨めつけた。

 不機嫌そうなその表情を隠そうともしない。 

 やがて、唐突に舌打ちを零し、男は瞳を閉じる。

 次いで訪れた短い無音の間。

 あまりにも満ち満ちたその静寂に、イリヤは無という音が響いているような、そんな錯覚にさえ陥ってしまう。

 ……そうして、男が緩慢に瞼を開いた。

 彼の瞳が暗闇の中でも鮮やかに、赤々と覗く。

 魔性の、どこか神々しいとさえ言える赤眼に魅入られるイリヤを余所に、男が短く、彼に言った。

 

 

 

「────いいだろう。その目に免じ、テメェから殺してやる」

 

 

 

 剥き出しの殺意が、目の前の少年ただ一人に向けられた────

 

 

 

「…………ぁ」

 

 

 声にならない声が零れた。

 ただ、それは視線を向けられた士郎の物ではない。無言で相対する彼の横に立つ、イリヤの物。

 彼女に男の注意は向けられていない。

 それでも、その視線に篭られた膨大な殺意は、向けられた彼の周囲すらも巻き込んで場を吹き抜けていく。そしてその後に吹き溜まる、圧倒的な死の気配。死の予感。

 震える、身体が。どうしようもなく、わななく。兄の腕を掴んだ指先は凍るように冷たく、膝は身体を支えきれなくなって、その場に崩れそうになる。

 

 

 ────それでも

 

  

 今、恐怖に駆られて場に流されれば、取り返しのつかない事になる。

 そう本能的に察したイリヤは、唇を噛み締めて震えを無理矢理に抑えると、訥々と、呼吸を詰まらせながらも彼に縋り付くように言葉を紡いでいた。

 

 

「……そんなのダメ」

 ゆさゆさと、彼の腕を揺り動かす。

「お兄ちゃん……いや、嫌だよ……!」

「……」

「ねぇ────ねぇったら!! おにぃちゃんっ!!」

 涙すら滲むイリヤの呼び声にも、士郎は応えない。

 しかしそんな少女を見かねた槍兵が、彼に代わって口を挟んだ。

「……あのなぁ、お嬢ちゃん。全くもってオレが言えた義理じゃねえんだが、ソイツの意気を汲んでやってくれや。

 確かにどっちにしろオレはおまえ達を両方とも殺す。だが、おまえ達がどちらか一方でも、僅かでも生き延びる可能性を追い求めるとするなら、定石通り一人がオレを足止めするしかないだろう?」

「────っ!! あなたになんか────」

 

 

 言われたくない、と、その言葉は飲み込んだ。

 そのまま顔を俯かせ、ぎゅっ、と、ただ士郎の腕を強く握る。

 

 

 そんな事は、言われずとも分かっていた。

 

 

 これでも手強い黒化英霊達と戦ってきたイリヤだ。敵の正確な力量は分からなくても、状況の判断くらいはできる。だから目の前の男がどうしようもないほどの理不尽な存在で、そんな相手に二人共逃げられない事なんか、彼女は最初からようようと理解していたのだ。

 ────だけど

 仕方ないじゃないか。そうするしかないじゃないか。

 立ち向かう事ができなくても、逃げる事ができなくても、そこで諦めるなんて選択肢をとれる訳がない。自分が死ぬ事も兄が死ぬ事も、そんなの、どっちも認められる筈がないのだから────。

 

 

 そうして、士郎の腕を後ろから引っ掴んだまま無言で俯くそんなイリヤを、無感情な瞳でしばらく眺めていた青の槍兵は────やがて、場の沈黙を破る小さな嘆息を漏らした後、低い、重い声で、口を開いた。

「……坊主、悪いが、さっきの発言は撤回だ。気は進まねえが────まずはそこのお嬢ちゃんの方から、楽にさせてもらうぜ」

「え、ぁ」

「っ、待て……! お前の相手は俺だッ!!」

「ぃ、ぃや……」

 どちらの言葉も飲み込めないまま、イリヤはただ声を洩らす。しかしそんな彼女には一瞥もくれず、男は士郎に言葉を続けた。

「……だがな、坊主。このお嬢ちゃんの様子じゃ、おまえが先に向かってきても意味がねぇ。どうあろうとおまえはお嬢ちゃんを気にしながらの戦いになる。元からオレとおまえじゃ話になんねぇのに、その上余計なハンデも背負われるってんじゃ、一秒すらもたねぇよ。……そんな最期は何にも残らねえし、そんな殺し、オレも御免だ。

 ────だもんで、どっちにしろ胸糞悪いが、そのお嬢ちゃんを片付けた後におまえの相手をさせてもらうぜ」

 

 

 男の紅い槍が、イリヤに対して向けられた。

 

 

「────っ!!」

 

 

 男のその動きにまず反応したのは士郎だ。

 咄嗟に槍の前、少女の前に立ち塞がった彼は、半身になって右手でポスターを構え、左腕で彼女を庇うように男と対峙した。

 

 

「ぁ…………ぉにい、ちゃん」

 

 

 その士郎の動きに振り回されながらも、決して彼の腕を離すまいとして思わずたたらを踏んだイリヤは、前がかりになった自分の前に来た背中を目にし、無意識のうちに彼のことを呼んだ。

 すると何故か、今の状況には全くもってそぐわない、暖かくて緩やかな、安堵にも似た感情が彼女の胸に込み上がった。

 

 

 ────なんでなんだろう?

 イリヤはそっと自分の胸に聞いてみて、けれど、その答えにはすぐに行き着く事ができた。

 

 

 ……考えてみれば簡単な話。

 士郎はイリヤにとってのヒーローなのだ。

 もう、ずっとずっと、幼い頃から。

 怖くて震えている時にはいつだって現れてくれて、その背中は暖かくて、何よりも安心できる。

 

 

 場違いにも胸の内に湧き上がったその感情に

 彼女は恐怖も何もかもを飲み込んで、安堵の笑みを緩く零した。 

 兄が居ればもう大丈夫。

 どんなに怖くても、兄が守ってくれるから。

 そっと振り返って、笑いかけてくれるから。

 そうやってイリヤは、込み上げる暖かな感覚に身を任せて、いつかそうしていた様に、兄のその背中をただひたすら自身の目に焼き付けていた。

 

 

 

 

 

 だけど

 

 現実はそんな彼女に

 

 どうしようもなく厳しくて

 

 

 

 

 

「────早く────行けッッ!!!!!」

 

 

 彼は振り返らず、彼女の腕を振り払い、そう怒鳴りつけた。

 

 

 

 

 

 ────瞬間

 

 弾かれるように、イリヤは駆け出していた。

 

 

 

 

 

「は────いい合図だぜ坊主!」

「黙れ、この野郎────っ!!」

 

 

 彼女の背後から聞こえた二人の声。

 それと同時に夜に響いた、どん、と地を強く蹴る足踏みの音。

 

 

「────ハッ────」

 

 

 それらに背ごと耳を塞ぐように、彼女は必死に走る。顔を俯け目を瞑り息切れを堪えきれないまま、無我夢中に走る。まるでそのまま何もかもを抛り出して逃げるかのように、脇目も振らずにただひたすらに走っている。

 

 

 それでも、頭には疑問が湧いていた。  

 なぜ、どうして────そう、どうして。

 どうして

 どうして

 どうして、今、自分は走っているのか────

 

 

 そうだ、助けを呼ばなくてはならない。

 

 

 唐突にイリヤは一つの結論に至った。

 思考は単純だった。今の自分では兄を守れない。つまり役立たず。それなら自分以外の、兄を助ける力を持つ誰かを探さなくてはならない。助けてくれるのなら誰でもいい。ルビーでも、ミユでも、クロでも。────そうだ、自分はその為に走っている。兄もきっとそう考えたのだ。自分は頭が悪いからすぐには気づけなかった。だからぐずぐずして少し怒られてしまったけれど、きちんと助けを呼べば今度はきっと褒めてくれる筈だ。……まったく、兄に怒られるなんていつ以来だろうか。記憶にも殆どない出来事だけに、随分とショックを受けてしまった。これでは更に印象が悪い。痛恨の極みだ。兄の前ではそんな自分で居たくなかった。だから、その失敗分を挽回する為にも、今はとにかく速く、走って走って────

 

 

 

 

 ────その時、背後に響いた

 ぎん、という、耳につく甲高い金属音。

 

 

 

 

 その音にイリヤは振り返った。

 立ち止まった彼女の視線の先では、士郎が持っていたあのポスターが粉々になって虚空に舞っていた。その光景に思わず息を呑む。

 何故紙があんな風に砕けているのかは分からない。けれどあの青い男が槍を引いている所を見るに、彼はあの道具を用いて男の一撃を躱したのだろう。そうイリヤは推測する。そしてこうも思う。上手い、と。

 存在感とでも言うのだろうか。漠然と感じるあの青い槍兵の印象は、自分が戦ってきたカードの英霊達に対する物によく似ていた。おそらく、それに見合う凄まじい力量を男は持ち合わせているのだろう。理由もなしに、直感的にイリヤはそう察していた。

 ────けれど、そんな男の一撃を兄は防いだ。

 なけなしの道具を代償にしたものの、それが逆に男の意表を突いたのだろう。目を見開いて短く間を挟む青の槍兵。対して、反動に身を任せて男に背を向け、距離を取った士郎の姿。

 ────そのまま逃げて。思わずそう念じたイリヤの目に、

「……っ!」

 背くように、身を翻して男に再度対峙する士郎が居た。

 もう武器なんて持っていない。それなのに、地を踏み、敵を睨み、惚けたように見やるイリヤに背を向けて立つ、士郎の姿。彼の顔は彼女からは見えない。けれど彼の対面で心底楽しげに笑う、青の槍兵。それがイリヤには、彼女の兄の表情を反対にして映しているように思えて。

 

 

「……な……んで……」 

 

 

 もう、本当に、ワケが分からなかった。

 自分がいるから、兄はああしている。

 そんな事はイリヤにも分かっていた。けれど、だからこそ、余計に理解できなくなった。

 

 

 ────どうして

 自分の為に、兄があそこまでしてくれるのか。 

 

 

 最初に自覚できたものは、まず疑問だった。

 次いで『怖い』という気持ち。多くの感情が形もなく綯い交ぜになる中で、それだけが、ようやくイリヤに認識できた感情だった。

 そして一旦自覚してしまった感情は、彼女自身にも制御できない内にどんどん増幅して

「…………っ!!」

 ぞくり、と、酷い寒気が背を這い上がった。

 ……怖い。ただ怖いと、イリヤは思う。

『わからない』という事がどうしようもなく恐ろしいのだと、今の彼女には思えてやまなかった。

 そしてそれが、自身のよく知る人物の事なら、なおさら。

 

 

 こちらの世界の兄は────あの人は、自分の事を知らない。

 それは確かだ。だからこそ自分は一晩中ショックを受けていたのだし、だからこそ彼に向こうの兄の面影を見て自分は嬉しくなったのだ。

 だから、あの彼は自分を知らない。それはもう受け入れてしまった、単なる事実にすぎない。

 

 

 ……それなのにどうして、知らない人の為にあんな風に、自身の命まで張ってしまえるのか。

 イリヤにはその理由が全然理解できなかった。そして彼に自身の兄の姿を重ねてしまうからこそ、余計に怖くなった。

 

 

 他にも疑問は際限なく胸に湧いてくる。

 何故、彼が魔術を使っていたのか。

 何故、彼はあの青い男に狙われているのか。

 何故、彼は

 自分に、振り返ってくれなかったのか────。

 

 

 ……怖い。ただ怖い。

 分からないことだらけで、イリヤの頭はもうぐちゃぐちゃだ。

 もういっそ、彼の事を本気で別人だと割り切ってしまえれば、楽なのに。

 そんな事を考えてしまうぐらいには、今の彼女は恐怖という感情でがんじがらめに縛られていた。

 

 

 ……ただ

 

 

 それでも

 彼の、あの背中からイリヤは視線を逸らせない。

 見れば見るほど『怖い』という感情が押し寄せてくるのに、ただ目を背けてしまえば楽なのに、

 どうしても、彼の、あの背中から────

 

 

 

 

 

 不意に、遠い光景が眼前にちらついた。 

 夕暮れの公園。疎らになった人影。

 淋しさに震える一人の女の子。

 そしてそこに現れた、目前の彼によく似た背中。

 

 

 

 

 

「────っ!」

 

 

 イリヤは目を瞑る。耳を塞ぐ。

 そうして彼に背を向ける。

 いま目の前にある光景が怖くなって、また駆け出した。

 

 

 

 

 

 ────ああ、またやってしまった。

 走りながら、他人事のように彼女はそう考えた。

 

 

 

 

 

 イリヤは元来、怖がりで淋しがりだ。

 ただもっと詳しく言えば、どちらかというとイリヤは『淋しい』よりも『怖い』が嫌い。

 

 

 なぜなら『怖い』という感情は、自分の目の前で取り返しのつかない事が起こりそうな時に抱いてしまう物だから。もし自分の行動で何かが失われてしまったら、そう思うとイリヤは怖くてたまらない。だから肝心な時に決めきれなくて、クロには『ウジウジイリヤ』なんて言われてしまう事もあるけど、それは仕方がない事だと、自分でもそう思う。

 一方、『淋しい』という感情は、なんとなく一人が嫌な時に漠然と抱く物。確かにこっちも嫌いだけど、ただ自分が耐えればいいだけの物だ。だからそう考えると、『怖い』よりも全然たいしたことがない。

 

 

「────」

 

 

 だから時々、イリヤはこうやって『怖い』から逃げ出してしまう。

 目を閉じて、耳も塞いで、そうすれば目の前の現実から逃げられるから。そうすれば怖くない。

 代わりに目の前が暗くて、何も聞こえない一人の世界に飛び込んでしまうけど、こっちはただ『淋しい』だけだから。辛いけれど、嫌だけど、心の中でただ耐えればいいだけだから。

 

 

 目を閉じた。耳を塞いだ。 

 もう何も見えないし、もう何も聞こえない。

 暗い世界。

 一人だけの世界。

 淋しいけれど、怖くはない。

 これで良いのだと、今回だっていつものようにすれば良いのだと、彼女は自分に言い聞かせて、ただひたすらに走っていた。

 

 

 

 

 だけど

 

 

 

 

 ふと、イリヤは思うのだ。

 

 

 

 

 

 怖くなって目の前の現実から逃げ込んだ

 暗い世界の中で、

 自分一人だけの、その淋しい世界の中で、

 それでも

 遠くから聞こえてくる、この声は、いったい何なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『────俺はイリヤのお兄ちゃんだから。

     だから、いつだって────』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不意に、イリヤは足を止めた。

 ざっ、と、足が地面を引き摺る音が鳴る。 

 身体を翻す。そうして顔を上げて目を向けて

 少し遠くなった、兄を見た。

 

 

 

「…………お兄ちゃんが、死ぬ?」

 

 

 

 呆然と呟いたイリヤの視線の先では

 紅い槍の切っ先が、士郎の胸に向けられていた。

 

 

 ────ふと、嫌な光景が脳裏を過った。

 

 

 走る銀光。彼の胸に吸い込まれるように進む穂先。そしてその一秒後、紅い槍が柔らかな身を抉って突き抜け、心臓を穿ち、弾ける血液。目に染みるような、赤い、赤い、鮮やかな飛沫。そして最後に崩れ落ちる、ぴくりとも動かない、よく知った人物の身体。動かない。動かない。本当に、少しも────

 

 

「…………そん、なの」

 

 

 イリヤは拳を握る。その拳に汗が湧いている。

 絶望と焦燥に歪みそうになる表情を無理やり無表情に凍らせ、その下で彼女は早鐘のような自身の鼓動を飲み込む。

 ────お兄ちゃんが死ぬ。

 荒い呼吸に思考が詰まる。頭が一杯一杯な状況で、不吉な予感だけが脳裏に過る。

 耳を、己の鼓動が痛いほどに叩いている。

 冷たい汗が頬を伝う。

 ────なんで、お兄ちゃんが死ぬ。

 頭が上手く働かない。理由なんて判りっこない。

 そんなの考えたコトがないし、考えたくもない。

 ────だけど、お兄ちゃんが死ぬ。

 その未来は確定している。

 それが判っているから、自分は今こんなにも焦っている。焦った所で何も出来ないと知っているから、自分はこうしてただ立ち尽くしている。

 

 

 

 だけど

 もう、そんなコトは、関係なくて

 だから、自分は────わたしは────

 

 

 

「そんなの、嫌ぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!」

 

 

 

 気づけば、イリヤは叫んでいた。

 今の彼女は正常な感覚など持ち合わせていない。ただ感情に突き動かされただけ。恐怖も絶望も、怒涛のように湧き出てくる余計なモノは何もかもかなぐり捨てて、胸の内にあった一番大きな感情を、無様にもぶち撒けていたのだ。

 

 

 

 ────だが

 それでも紅い槍は奔るだろう。兄の胸に、寸分の違いなく。

 

 

 そして、次の瞬間

 イリヤの予想通り、槍を持つ男の腕が────動いた。

 

 

 

 その光景に息が詰まる。それを無理矢理に押し出して叫びを続ける。出しきれないで余った声が内に反響する。体の芯から響く音に酷い耳鳴りが、そしてそれに重なるように鼓動の音が頭に響き、一秒がいやに長く引き伸ばされる。本来ならば、速やかに移りゆくはずの視界がなぜか鈍く、静止した目の前の光景は、まるで一点の風景画のように。

 いつの間にか声が掠れた。息が続かず知らないうちに喘いでしまい、酸素の足りなくなった脳は働かず、思考は茫洋として色味さえも失われていく。静止した光景は無機質にトーンを落とし、希薄な現実感が、場を朧に霞ませていった。

 

 

 

 ────その時

 ごとり、と、心臓が音を立てた。

 

 

 

 その音に意識が覚醒する。ひゅっと笛のような音を零して息を吸い込んだ。茫洋と濁っていた頭が、取り込んだ冷たい酸素に、急速にクリアになっていく。目の前で止まりかけていた風景が、再生ボタンを押されたかのようにゆっくりと動き始め、イリヤの視界に、動き出した赤い槍の軌跡がまざまざと映りこむ。動画が次第に早送りされていくように、スローだったその動きが急速に速くなっていった。

 

 

 

「あ……ぁぁぁぁぁぁぁぁ…………っ!!」

 

 

 

 現状を認識した途端、悲鳴にならない声が喉元より零れた。恐怖に似た感情がイリヤに走る。だけどその感情に、更に景色は速くなる。嫌だと訴えるイリヤの想いが、かえって目の前の世界を正しく認識させた。

 

 

 

 だから結局、どれだけ彼女が願っても叫んでも、槍は動いて、彼の心臓へ────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イリヤさん。貴女の声、確かに届きました!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────突如

 空から(・・・)、そんな声が落ちてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え────!?」

「な────!?」

 

 

 士郎と男と、驚愕の声が重なった。

 原因は、文字通り場に落ちてきた何らかの存在。

 視認できないほどの猛スピードで空から降ってきたそれは、向かい合う二人のちょうど中間に落ち、まるで彼らを分かつように土煙を轟々と舞い上げた。

 

 

「────」

 そうして、その場に立ち会った、もう一人。

 

 

 

 

 

 

「────チィ!」

 

 

 戦闘者の性なのだろう。

 謎の声と現象を前に、男が背後へと跳躍する。

 一息に十メートル。それ程の距離を苦もなく飛んだ青の槍兵は、自身の紅い槍を前へと構え、警戒の目つきを持って先の場を睨みつけた。

 

 

「────え、な────?」

 

 

 一方、急な展開に全く付いていけない士郎。

 状況を飲み込めずただ目を白黒させた彼は、ついで驚きに開けたままの口から煙を吸い込んでしまって、ごほごほと知らず咳き込んでしまう。

 

 

「────」

 

 

 そうして最後に、その場にいたもう一人。

 先ほど届かない筈の叫びを上げたイリヤは、この現象を前に状況を窺う他の二人を置いて、僅かな逡巡の間も入れず駆け出していた。向かう先は兄の許。依然として土煙に視界を防がれたその場所に、しかし迷いなく、一直線に彼女は突っ込んでいく。

 

 

「────まだ、何にもわからないままだけど」

 

 

 そんな少女の声だけが夜に響いた。

 するとその声に呼応するように、先ほど庭に落ちてきた何かがイリヤの手に飛び込んでくる。

 それを彼女は迷いなく受け止めた。そうしてぎゅっと強く握りしめて、速く、強く、顔を上げて迷いを切って、喉元に掛かった言葉を押し出すように、溜まり溜まった気持ちを腹の底から吐き出してやる。

 

 

「────お兄ちゃんが死ぬなんて、そんなのは認められないから」

 

 

 瞬間、ざあっと白銀の光が場に走り、辺りを白く彩る。

 その清廉な光が走り抜けた後には、彼女がこの世界に来る直前のように、その身に薄い桜色の衣装が纏われていた。淡い、 華やかなその装いは、夜の闇にもありありと鮮やぐ。

 いつもは派手過ぎるとさえ感じるその格好が、今のイリヤには背中を押してくれているように思えて。

 そうして彼女は湧いた決意を揺るぎなくするように、土煙の向こうに立つ槍兵をキッと強く睨みつけ、精一杯の声を張り上げて宣言した。

 

 

「────お兄ちゃんは、わたしが守る! だから力を貸して、ルビー…………!!」

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




(あとがき)
今話でセイバーが出ると思われた方には
申し訳ないことをしました……。
展開をかなり変えていきますので、
まだ少し時間がかかります。

ちなみに、原作で兄貴がバーサーカー&イリヤと
偵察でやり合った日時に関しては、
明記されていなかった筈ですので
二月二日時点ではまだとしています。
(漫画版ではセイバー戦後なんですね。
 それに倣ったという事で、どうか一つ)

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