Fate/stay night プリズマ☆イリヤ   作:やかんEX

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2月1日
ACT1 「邂逅」


 

 それは、この世の物とは到底思えない、圧倒的な死の具現であった。

 

 

 姿を見せた月に、虚空に飛んだ黒の大影が浮き上がる。

 どうどうと大気を震わせて身体を圧す、身の毛のよだつほどの獣じみた咆哮。

 自我のない紅い光が、漆黒の影の中、虚ろな瞳に明かりのように茫洋と灯っていた。

 差し迫る死の影を動くことも出来ずに呆然と眺めて、イリヤは、冷酷で残酷な現実を、他人事のように胸の内で認識して────

 

 

 ────考えるより先に真横に飛んだ。

 

 

 側に着地した大男の足元で、重量に潰れた地面が悲鳴を上げるような音を立てて踏みしめられる。

 間髪入れず振り下ろされる大斧。神速を持って叩き込まれた、掘削機のような強力な一撃の下、ついぞ耐えきれなかったコンクリートが虚空に砕け散った。

 

 

 イリヤはその光景を視認する。

 一瞬前に自分が居たあの場所、あの空間。

 もしも一刻でも長く呆然としていたのなら、代わりに真っ二つになっていたのはイリヤ自身だっただろう。

 

 

「────ふうん」

 

 

 思わずぞっと背筋を凍らせていたイリヤの耳に、どこか感心したような声が届く。

 反射的に目を向ければ、そこには楽しげに口端を吊り上げる少女の姿。その怖いくらい無邪気な真紅の瞳に、またもやぞわりとした悪寒が湧き上がる。

 少女がそんなイリヤを静かに見据え、言った。

 

 

「いいわ、バーサーカー。ゆっくり、もう一度ね」

 

 

 何を────と、疑問を抱く前にイリヤは転がるように再度飛び退いた。

 一刻遅れてやってくる疾風。

 ほんの瞬きの間に突進してきたソレは、容赦なく空間ごと、先程までイリヤが立っていた地面をごっそりと削り取った。

 そしてその衝撃にまた避けられたことに気づいた黒の巨人は、酷く緩慢な動作で彼女の方に顔を向け、再度愚直な突撃を開始する。

 

 

 そうして幾たびか繰り返される死の追いかけっこ。未だ捕らえられていないイリヤだったが、それもきっと長くは持たない。

 そもそも彼女が先の攻撃を避けることができたのは、一度この存在を相手にした経験がある故だった。

 しかし、それも本来なら一度っきりのこと。ルビーが手元にない、唯の少女にすぎない今のイリヤでは、怪物のように強大な男の前に奇跡など二度以上望むべくもないのだ。

 

 

 ────それなのに、こうしてイリヤが今も無事なのは、あの少女の命令通り、化物の方が手加減をしているからに決まっていた。

 

 

「あはははは! まるでネズミみたいね!!

 バーサーカー、そのまま暫く遊んであげなさい。わたし、そいつが苦しむのをもっと見たいわ!」

 

 

 少女の、くすくす笑いの浮いた、愉しげな声が闇に響く。

 一方、それとは対称的な、圧倒的強者によって徐々に嬲り殺されていく獲物のように、ゆっくりと体力を削られていくイリヤ。息を切らして走る自分に向けられる、少女の哄笑がいやに耳についてやまない。 

 

 

 ────なんで、どうして、こんなことができるの……!

 

 

 全く意味が分からなかった。

 思考はぐるぐるぐるぐる回り回っている。

 目の前の少女は真実自分と同じ姿カタチをしているのに、その精神の在り方はこれっぽっちも似通った部分が見受けられないのだ。 

 自分はあんな表情なんて決してしない────残忍で苛虐的で、目の前の人をまるで路傍の石に見做してしまう様な、あんなむごたらしい表情は────

 

 

 

「────っ!」

 

 

 

 不意に背に激痛が走り、次いで脚がもつれて地面につんのめった。

 無理もない。八枚目のカードとの激闘を経たイリヤの身体には、既に尋常でない程のダメージが蓄積されていたのだ。精神的にも肉体的にも、もう限界なんてとうに超えている。

 そして痛みに蹲るイリヤのその身体を、大戦士が鷲掴みにして持ち上げた。

 

 

「いやっ────ぁ」

 

 

 言葉にならない声が零れた。

 恐ろしいほどの怪力で握り締められる、華奢なイリヤの躯体。

 臍下から圧迫された彼女の内臓が、みしみしと鳴ってはならない音を立てて凝縮される。

 

 

「あーあ、もう終わりかぁ。まぁ、予想よりは持ったけれど、もう少しのたうち回ってくれても面白かったのになぁ」

 

 

 一連の流れを眺めていた銀の少女が、心底つまらなそうに独りごちた。

 言いながらその実興味なさそうな瞳は、まさしく傍観者のそれ。

 その少女の軽薄な態度が、イリヤにとって信じられなかった。

 

 

「な、なんで……」

「うん?」

 知らず絞り出すように口から洩れた疑問に、少女が小首を傾げてイリヤを伺った。

 無邪気で純粋な、それだけ切り取れば、まるで鏡で自分を見ているような錯覚を受けるその仕草。

 

 

「な……んで、こんなこと、するの?」

「なんでって、これは聖杯戦争だからでしょ? マスターにサーヴァント、それにその関係者。全て殺してしまえばわたしの勝利だもの。これって、そんなに難しいことかしら」 

「聖杯、戦争……?」

 

 

 知らず、イリヤは反芻するように呟いていた。

 聖杯戦争。

 その言葉は最近よく耳にしていたものだ。

 自分やクロ────それに、ミユ。

 自分たちに深く関係し、そして振り回してきたのがその言葉。

 だけど、それは────

 

 

「十年前に、終わったん、じゃ?」

 

 

 そう。母であるアイリスフィールから聞いた通りなら、父の衛宮切嗣が未然に発生を防ぎ、そして既に終わった過去の産物であるのが聖杯戦争というものだった。ならば自分のこれは順当な疑問な筈だと、痛みに耐えながらイリヤは必死にそう考えたのだ。

 ────しかし、その言葉を少女は浅く笑って否定する。

 

 

「はっ、何を言っているのかしら。十年前に終わったのは第四次聖杯戦争でしょ。そして、今わたしたちが始めようとしているのは、第五次聖杯戦争」

「……っ?」

 

 

 意味が分からなかった。母が自分に嘘を言った筈はない。だけど、目の前の少女が偽りを口にしている風にも見えなかった。

 ……どこか、ボタンを掛け違えているかの様な奇妙な違和感が胸中に湧いている。

 あと少し、何かほんの少しの切っ掛けで、全てがカッチリ嵌るような気がするイリヤだったが、不意に、また目の前の少女がその揶揄していた様な笑みを引っ込めると、冷淡な表情で自身の従僕に指令を下した。

 

 

「バーサーカー。そいつ、ゆっくり握りつぶしちゃいなさい」

「────あ」

 

 

 再び身体に掛けられる力が増した。

 外側から塞き止められた血管が、どくどくと鼓動を圧迫する。  

 

 

「わたしと同じ姿をしているのだから、少しは変な気分になるかとも思ったけど……そんなこと、全然なかったわ。本当に、わたしと全く違っているのだもの。特に、この目」

「いやっ……!」

 

 

 化物の腕が下げられたと思った瞬間、地面に立つ少女に顔を鷲掴みにされた。

 乱暴なその行動に思わず瞳を閉じそうになるイリヤだったが、瞼を無理やりにこじ開けられ、強制的に目の前の少女と対面されられる事になる。

 紅と紅。

 全く同じ色をした二人の瞳が、視線を交わす。

 

 

「な〜んにも、知らないような目をしているのだもの。この世界に蔓延る苦痛も悪意も、絶望も。────この癇に障る眼、くり抜きたくなっちゃうわ」

 

 

 手袋を脱いだ素手で、少女に瞳を撫でられる。

 

 

「っ……!」

 

 

 他者に瞳を触れられる、という常識から逸脱した行為に拒否反応を見せたイリヤは、悲鳴にならない声を喉元から零した。

 身体の芯が、凍っている。

 怯えてる、心の底から。

 目の前の少女は冗談なんか口にしていない。あどけない表情をして自分を見下しているこの少女は、ともすれば気まぐれに楽しげに、自分の二つの瞳をそのまま掴んで抉り出してしまうだろう。

 先ほどまで暴虐の限りを受けていたイリヤは、そのことを本能的に察していた。

 

 

「もう、嫌だよ……やめて、離して……」

 

 

 頰に涙が伝った。

 数々の手強いカードと相対してきたイリヤだったが、ここまで残酷な悪意との対峙は初めてだったのだ。

 加え、魔法少女の力もなく、仲間とも離れ離れになり、たった独りで無惨たらしく殺されそうになっている。そんな理解範疇を超えた出来事の前に彼女ができたのは、もう、情けないまでの無様な命乞いでしかなかった。

 

 

 

 ……だがここで、唐突にまた表情を急変させた少女が、思いもしないコトを口にする。

 

 

 

「ふうん、いいわよ」

「……え?」

 

 

 

 その言葉に疑問を浮かべた瞬間、イリヤは尻臀から地面に着地する事になった。

 痛みが走る。激痛なんて言葉が生易しいくらい、身体の芯から自身を壊して動けなくする程の痛み。それでも、そんなことを気にしていられないくらい、イリヤは少女の行動の訳が分からなかった。

 そんなイリヤを見下しながら、銀の少女が淡々と言葉を紡ぐ。

 

 

「何よ。あなたの望み通り、離してあげたんじゃない。さぁ、どうするの? 自由になったのなら、早く逃げたほうがいいんじゃないかしら?」

「……あ……っ!!」

 

 

 少女の言葉が頭に染み込んだ瞬間、イリヤは弾かれるように立ち上がり、彼女たちに背を向けて走り出していた。

 そんな無様な自身の姿を見て、後ろの少女がまたくすくすと笑う。

 その声からなんとか逃げたくて、下唇を噛んで目を瞑りながら、ただひたすらにイリヤは走った。

 

 

 疑問は山ほどあった。

 この少女は何者なのか? 

 なぜ以前倒したはずのカードが存在するのか? 

 終わった筈の聖杯戦争が何故始まっているのか?

 

 

 だけどそんな次々に湧いてくるよくわからないコトを頭の隅に追いやって、イリヤは必死になって走っている。この状況も身体の痛みも、今だけは全てを忘れて、ただひたすらに不恰好に自分の命を繋ごうとしていたのだ。

 

 

 

 だが、死神はそう簡単に、彼女を逃しはしない。

 

 

「それじゃあ、鬼ごっこね。三つ数えるから、そのうちによく逃げるといいわ」

 

 

 それは残酷なまでに楽しげな、無邪気な子供の遊び声だった。

 

 

 

「────Eins(アインツ)

 

 

 少女のその声から逃げたくて、イリヤは今まで以上に必死に走る。

 俯き、ぎりぎりと歯を食い縛り、きつくきつく拳を握って、足が棒になるくらいに全筋力で地面を蹴った。

 

 

「────Zwei(ツヴァイ)

 

 

 だけど、悲鳴を上げながら走っても走っても、少女の小高い声が聞こえて来る。

 そもそもこの道は見渡す限りの一本道。遮蔽物のないこの街道では、どれだけイリヤが速く走っても、どれだけ遠くまで逃げることができたとしても、あの狂戦士は一瞬にして間合いを詰めることだろう。そしてそれを、イリヤはようようと理解していた。

 

 

「────Drei(ドライ)。はい、三つ。これでタイムオーバー。うんうん、やっぱりなかなか足は速いみたいね。思ったよりも随分頑張ったと思うわ────本当に、ムカつく。……それじゃあ、バーサーカー」

 

 

 だから、イリヤがこの局面で咄嗟に縋ってしまったのは、自分ではなく他者の存在。友達へ、仲間へ、家族へ。イリヤは涙を瞳に溢れさせながら、思いつく限りの助けを心の中で叫んで走っている。

 

 

「あいつを、蹴り殺しなさい」

 

 

 ────それでも、死の宣告は下された。

 

 

 

 

 

 そして、瞬間

 

 

 

 

 

 下を向いて走るイリヤの視界に、不意に巨大な黒影が覆いかぶさった。

 それと同時に感じる、先ほどよりも尚濃厚な死の気配。

 ぞわりと身体の芯を凍らせる、圧倒的な存在感。

 それを身に感じたイリヤは、ふと、真っ白になった頭で緩慢に顔を上げようとして────途端、背中に信じられないぐらい強烈な一撃が、叩き込まれたのを自覚した。

 

 

「────ぁ」

 

 

 呆然と、息が詰まって言葉を継げないイリヤの身体が、ぐっと宙に浮かぶ。

 不意に無重力を感じたイリヤは、視界で無機質なコンクリートを流れていくのを眺めていた。

 そして、何メートルか分からないくらい吹き飛んでいった身体は、ぐるぐるぐるぐる回りまわって、イリヤは、進行方向に、民家の石塀が現れるのを、視認した。

 

 

 ────あ、死んだ、わたし

 

 

 呆気ないほどの、絶望的な未来への確信だった。

 身動きの全く取れない空中の自分、その身体が飛んでいくスピード、極めて硬そうな民家の石塀。物理なんて習ったことがない小学生のイリヤでも、本能的に分かってしまう単純な結末だった。

 だからもう、ぐちゃぐちゃになってしまった思考を頭から放棄して、ただぎゅっと目を瞑り、次に身を襲うであろう衝撃に独り涙を流して受け入れたイリヤは────

 

 

「────ぐッ!!」

「…………え?」

 

 

 ────唐突に包み込まれた暖かい感覚に、またもや惚けた声を上げていたのだった。

 

 

 ……どうやら、石の壁に激突する事は避けられたらしい。

 だって、その代わりにイリヤの身体を受け止めたのは、力強くも身を気遣われた、とても暖かい安心する感覚だったのだ。

 けれど、衝撃が完全になくなる事はない。あれだけのスピードだったのだ。たとえ見知らぬ誰かが受け止めてくれたのだとしても、それ相応の痛みは受けることになる。

 故に、もともと疲労の限界を超えていたイリヤの意識は、今の一撃で完全に許容範囲を振り切っていた。

 

 

「────つッ────おい、大丈夫か!? 意識があるなら返事をしてくれっ!!」

 

 

 どこかで聞き覚えのある声が遠くで聞こえたイリヤは、朦朧とする意識を歯を噛んでなんとか保った。そうしてゆっくり瞼を上げて薄目を開くと、そこに、やっぱり見覚えのある、赤銅色の髪の毛と自分を伺う優しい瞳を、その視界に収めたのだった。

 そしてイリヤは、その何よりも大好きな暖かさの内で意識を失いながら、最後の力を振り絞って、こんな状況で見るはずのないその人物の名を、口にしていた。

 

 

「……ぉに、ぃ……ちゃ、ん……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 開発地区である新都で五時から八時までの荷物運びのアルバイトを終えた衛宮士郎は、日が沈みきって闇に染まった冬木の街を、一人自宅へと向かって帰路に着いているところだった。

 いつも通りに学校に登校して授業を受けて、放課後に時間潰しがてら公園で佇み、何時もと変わりないアルバイトを作業的にこなした。帰りに高層ビルの屋上で同級生を見掛ける、という妙な事はあったものの、それ以外はなんの変哲もない、ただの有り触れた日常。

 

 

「────ここは」

 

 

 そうして、自宅のある深山町の坂を上がっていた士郎は、とある交差点の前で立ち止まった。

 新都と違い人影の一つもない閑散とした道。

 その道を割けている交差点の前に、玄関に立ち入り禁止の札が掛かった、朝も見かけた一軒家があった。

 

 

 その一軒家で、ある事件が起こったのだという。

 押し入り強盗によって殺された両親と姉。

 そしてたった一人残された、幼い子供。

 

 

「────」

 

 

 不意に感じた無力さに、士郎は唇を噛んでぐっと耐えた。

 正義の味方になる。その目標をずっと追って生きてきた士郎だったが、自分の身の回りの悲劇でさえ防げやしない。────その事が、そしてそれ以上に、それでものうのうと日々を暮らしている自分の事が、ひどくもどかしかった。

 

 

「……正義の味方って、いったいどうしたらなれるんだよ、親父」

 

 

 故人に縋る、なんて普段の士郎らしくない事だ。

 そもそも、士郎は自分で実現可能な願いしか持っていないと考えている。だから、一つずつ小さな事を積み重ねていけば、どんな願いもいつか叶えられると信じているのが、衛宮士郎という人間なのだ。

 

 

 ……しかし、これは既に何度も自問自答した問いだった。

 

 

 父親から受け継ぎ行った、正義の味方になるという誓い。士郎は昔からずっとそれに向けて努力してきた。

 それでも、考えれば考えるほど解らなくなって、この世界にある不条理を知れば知るほど、その存在と自分の間に大きな壁が現れるように感じられていたのだ。

 だからそんな士郎が、また身の回りで起こった事件を前に、亡くなった父に思わず泣き言のような言葉を漏らしてしまった────

 

 

 ────そんな時だった

 

 

「────?」

 

 

 不意に、遠くで、悲鳴のような何かを聞いた気がした。

 

 

 ……いや、気のせいではない。確かに、坂の上から幼い子供の金切り声の様な叫びが聞こえてきている。そしてそれを認識した士郎は、先程まで考えていたこともあり、いつの間にか走り出している自分に気づいたのだった。

 

 

 深山町の坂は傾斜がきつい。

 普段なら決して走ったりなどしないその急斜面を、士郎は息を切らして全力で駆け上っていく。

 

 

 そうして、いよいよ先程まで聞こえていた悲鳴の近く、坂道と横道を繋ぐ三叉路にまでやってきた士郎はその時。

 

 

 ────横から弾丸のように飛んでくる、小さな少女を目にして

 

 

「なっ────ぐッ!!」

 

 

 何か考えを巡らすより早く、反射的にその少女を受け止めていた。

 もちろん、その衝撃を受けた身体は無事ではない。全身を押され、気道が詰まり、呼吸もろくに出来ない程の痛みを感じる。常日頃から体を鍛えている士郎とは言え、これはその修練で可能な無茶の範囲を超えていた。

 

 

「────つッ────おい、大丈夫か!? 意識があるなら返事をしてくれっ!!」

 

 

 それでも、いま考えるべきは自分のことではない。

 そう判断した士郎は、自身の腕の中で呻く少女に必死に呼びかける。

 長い、綺麗な銀髪をしたその少女の容体は、一見して酷いものだと見て取れた。埃だらけの衣服に、季節外れの半袖から露出する肌に帯びる、夥しいまでの裂傷の数々。

 とにかく命に別状がないか、意識を確認するために覗き込んだ士郎は────

 

 

「────っ」

 

 

 少女が薄目に覗かせた瞳に、思わず息を呑んだ。

 どこまでも紅い、綺麗な水晶玉のように静謐に澄み通ったその瞳。

 暫く思考を失っていた士郎は、自分に少女が小さく答えた何かを、明瞭に聞き取る事は叶わなかった。

 けれど、どこか安心した風に意識を失った少女が、規則正しいリズムの呼吸を刻み出す。士郎はその様子を見て、ほっと安堵の吐息をついた。

 

 

「────バーサーカー!!!!」

 

 

 そんな時、甲高い怒声が横道から聞こえてきた。

 

 

 気を緩めていた士郎が弾かれるように視線を遣ると、彼は再び驚愕を表情に浮かべた。

 まず、その憤怒の感情を発露した人間の姿。

 月光に輝く銀の髪に紅玉の瞳。

 夏服と雪国の服。着服している洋服に違いがあるものの、視線の先で猛っている少女は、自分の腕の中で意識を失っている少女と全く同じ姿をしているのだ。一卵性の双子だとしても、これ程まで似ることはあり得ないぐらいに同一なその姿。

 

 

「何してるのよ、バーサーカー!! 

 私はあいつを蹴り殺せって言ったのよ!?

 なのにどういうことなの、この体たらくは!? 

 あなた手加減したわね!! 

 ただの使い魔であるバーサーカーが、マスターであるわたしの命令に逆らって!!!」

  

 

 ただ、その少女がまるで駄々をこねる子供のように罵声を浴びせている存在に、士郎はいよいよ言葉を失うことになる。

 

 

 ────それは、現実に在ってはならない異形だった。

 未熟な魔術師である士郎にもわかる、絶望的なまでに凝縮されたエーテルの塊。それが大型の、二メートルを優に超える巨人としてこの世に具現していた。

 

 

 その存在は、ただ茫洋として地に直立している。

 隣で怒声を叫ぶ少女にも、何も反応を返さない。

 そして、それを前に、少女はショックを受けたように目を丸くする。

 悔しいのか、薄っすらと涙の滲んだ瞳で巨人を睨みつけ、更なる罵声を繰り出した。

 

 

「────っ!!

 もういいっ!! もういいっ!! 

 バーサーカーなんてもう知らないっ!! 知らないんだから────」

 

 

 ────そのとき

 不意に、いつまでも続くかの如く癇癪を上げていた少女が、側でもう一人の少女を抱きながら佇む士郎に気づいて、その宝石のような瞳を士郎に向けた。

 その紅い瞳に魅入られた士郎は、見れば見るほど同じ色だと、そんなことを麻痺した頭で考える。

 そんな呆然とする士郎を視界に入れて少し言葉に詰まった少女が、やがてハッと気を取り直し、一転、極めて優雅な所作でスカートの端を掴み、彼に向かって丁寧なお辞儀を行って言った。

 

 

「こんばんは、お兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」

 

 

 その言葉に、士郎は唐突に思い出した。

 丁度昨夜、同じ様な時間帯にこの少女と士郎は出会っていたのだ。突然の出来事に混乱していたが、言われて見ればすぐに思い当たる事が出来た。

 その士郎の様子を感じ取ったのだろう。目の前の少女が楽しげにくすくすと笑う。

 

 

「あーあ、こんな風に二回も会うつもりじゃなかったのにな。まぁ、しょうがないよね」

 

 

 くるくる手を伸ばしてその場で回る少女。

 言葉ほどに残念がっていないのは明らかだった。

 無邪気なその仕草と、この場に満ちる殺気の間に隔たる、決定的な違和感。

 ……だがそれよりも、今の士郎には、この少女に問い詰めなくてはならない事があった。

  

 

「お前が、こんな事をこの子にしたのか……?」

「? ええ、もちろんよ。このウスノロの所為で殺し損なったけれど」

「────」

 

 

 士郎の問いに、コツン、と、隣に立つ巨人の脚を蹴る小さな少女。

 その当然の様に返された言葉に、彼は今度こそ瞠目して動けなくなった。

 頭にカッと血が昇る程の激怒と、それを凌駕するほどの心からの疑問。耐えきれなくなった士郎は、突き動かされるがままにもう一度少女に問いを投げかけていた。

 

 

「……な、んで。お前たちは、姉妹じゃないのか? それなのにどうして、こんな事を────」

 

 

 士郎が最後まで言い切る事はなかった。

 尋常でないくらいの殺気が、唐突に目の前の少女から放たれたのだ。

 

 

「────姉妹? わたしとその紛い物が? 

 お兄ちゃん、二度とそんな事言わないで。でないとわたし、今ここでお兄ちゃんを殺しちゃうかも」

 

 

 ぞっと士郎の背筋に悪寒が走った。

 いや、背筋なんて生やさしいものじゃない。

 体はおろか、意識まで完全に凍りついてる。

 少女は決して偽りなど口にしていない。その確信だけが士郎の思考を掴んで離さなかった。

 一方、少女は、ふっと冷たい表情を緩めると、空気を変えるように朗らかに口を開いた。

 

 

「だからそいつを渡して、お兄ちゃん」

「え……?」

 士郎は少女の言っている事が分からなかった。

 その様子に少女は少しだけ眉を潜め、士郎の手の内に収まるイリヤを見下しながらもう一度告げた。

「だから、そいつをわたしに渡すだけでいいんだってば。そうしたらお兄ちゃんは見逃してあげる」

「っ! そんなの渡せるわけ────」

「────いいから。じゃないと殺しちゃうよ。ねぇ、バーサーカー」

 

 

 士郎の言葉に覆い被す様に放たれた少女の声。 

 その声に応えるように今度こそ動き出す、黒の巨人。

 

 

「────」

 そこで士郎は息を呑んだ。

 

 

 少しでも動けば死ぬ事になるのだと、その巨人の圧力が言葉として発せられていたのだ。

 そして、その隣でようようと士郎の様子を観察する、残酷な色を灯した紅の瞳。

 その両方に挟まれた士郎の脳内では、今まで感じた事のないほど正確な予感が湧いていた。

 

 

 死ぬ。 

 きっと死ぬ。

 惨たらしく、死ぬ事になる。

 目の前の巨人には理屈など通じない。

 圧倒的な死の具現の前では、矮小な人間など塵芥の様に散る事になるのだと、士郎は、必然に近い残酷な現実を読み取っていた。

 

 

 ……断れば死ぬ。

 

 

 断れば死ぬ。

 断れば死ぬ。

 断れば死ぬ────

 

 

 

 

 ────それでも

 

 

 

 

「────ダメだ。俺はこの子を、お前になんか渡す事は出来ない」

 

 

 士郎は、襲いかかる全ての圧力を胸の内に呑み込んで、相対する絶望二つを見据えながら、精一杯毅然とした、決意を滲ませた声で、そう言い放っていた。

 

 

 

「────っ」

 それに息を呑んだのは少女の方だ。

 その瞳に困惑の色が浮かぶ。

 心から理解不能な、そんな存在を目にしたかのような表情を少女は浮かべた。

 

 

「なんで……? お兄ちゃんはそいつの事を知ってるの?」

「……いや、知らない」

「じゃあ、なんで……?」

 

 

 少女の問いに、士郎は答えなかった。

 答えるまでもなかったのだ。

 衛宮士郎は、倒れている誰かを見捨てる事はできない。自分はそういう生き方を選んだ筈だし、自分の腕の中で弱った少女を見捨てるなんて考えは、衛宮士郎にとって許されるものでない。

 ────それがたとえ、自分の命を犠牲にするものだとしても。

 

 

「……」

「……」

 

 

 耳の痛い沈黙が場に降りる。

 その中でじっと黙して二人を視界に入れていた士郎に、少女はゆっくりとその両目を眇めて────唐突に踵を返し、彼に対して背を向けた。

 

 

「────もういい、帰る」

「…………え?」

「帰るって言ったの。もう別にいいわ。お兄ちゃんはまだ呼び出してないみたいだし、よく考えたらそいつも問題にならないもの。器までなんて(・・・・・・)、ちょっと信じられないくらい精巧に作られているけれど、わたしがいる限り、そいつは所詮ただの出来損ない。今度見つけたときに処分すればいいわ」

 

 

 そのまま道を歩いていく少女。

 朗々と物騒な事を言っているが、もう今は士郎にもその腕の中のイリヤにも興味がない様子だ。

 

 

「まっ、待てっ! この子は一体何者なんだ!? 昨日も言ってたけど、呼び出すって何を!? 」 

 

 

 意味不明な事だらけで焦って問い叫ぶ士郎に、少女はまたもや楽しげに笑いながら振り返った。ただ先ほどまでと違うのは、困惑する士郎の様子が心底滑稽だと、そう馬鹿にした色を瞳に湛えている事。

 そうしてひとしきり満足するまで笑っていた少女は、やがて、その軽薄な笑みをどこかに引っ込めると、感情のない冷たい声色で、謳うように口を開いた。

 

 

「まだそんなこと言ってるのね、お兄ちゃんは。あいにくだけど、そいつの事は私も何にも知らないわ。でも心配しなくても大丈夫。わたしがきっと処分してあげるから。

 そして、呼び出すものはサーヴァントよ。英霊、使い魔、エーテルの塊。なんとでも言えるけど、なんでもいいわ。それよりもはやく呼び出してね、お兄ちゃん。その時になったらわたしが────」

 

 

 ────殺してあげるんだから

 

 

 少女はそう一言最後に言い捨てると、もう振り返らずに去って行った。

 その後ろ姿を、士郎はただ愕然として見送り眺めている。

 いつの間にかあの強力な存在感を放っていた巨人も、闇に溶け込むように消え去っていた。

 

 

 

 

 

 月が、翳る。

 

 

 

 

 

 再び流れ戻ってきた雲が、月に掛かっていた。

 急激に薄暗くなる場の中、全てが闇に染まる中で、士郎はただ、浅い呼吸を繰り返し、次々に浮かび上がってくる疑問を一緒くたに飲み込んで、その場で独りごちた。

 

 

「くそっ、なんだってんだ一体全体ッ────あっ」

 

 

 よく解らないことばかりで苛立ち紛れに吐き出された言葉に、腕の中で眠る少女が反応した。

 穏やかな呼吸に、しかし無意識に腕をさすって震える少女。季節外れの夏服はむやみやたらに寒そうで。

 そのことに気づいた士郎は、自身の上着をすぐに脱いでその少女に被せながら、今度は違う意味で、心底困った声色で独り呟いた。

 

 

「……参ったな。とりあえず、家に連れて帰るしかないか。……藤ねえ、もう帰ってるといいけど」

 

 

 そう言いながら少女の体を横向きに抱え込み、自身の家に向けて坂を登っていく士郎。ゆっくりゆっくり、その少女の身体を気遣いながら、なるべく振動を伝えないように。

 そんな士郎の腕の中で緩やかに揺られている少女は、彼の胸に無自覚に頭をすり寄せながら、心から安心した穏やかな表情で、眠っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 




(あとがき)
イリヤがdreiと違って
直ぐに平行世界だと
察せないのは恐怖故です。
原作の時系列的に2日目となります。


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