ルシフは診察室の椅子に座っていた。
ルシフの正面には白衣を着た赤髪の女性が座っている。眼鏡をかけていて、肩で切られた赤髪は毛先が外側にはねていた。この女医はイアハイムから連れてきた医師だった。
「毒の影響で内臓がいくつか損傷してるわ。しばらく流動食ね」
「分かった」
「こういう場合はなるべく早く来ることが大切なのに、来たのは毒を飲んでから二日も経った後。自分の身体は大切にしなきゃ。ルシフくんは毒もそうだけど、高熱が出てるんだから。政務は休めないの?」
「無理だな」
「ならなるべく睡眠時間取ってね。あまり最近休めてないようだから」
「俺のことはいい。マイとヴォルゼーについて何か分かったか?」
女医の表情が曇った。この病院はマイが最近入院するようになった病院であり、今ヴォルゼーが入院している病院でもある。
「マイちゃんは総合失調症の可能性が高いわ。陽性症状の方。幻覚や幻聴、妄想など。ここでいう妄想は被害妄想とか、いわゆる思い込みが激しくなっている状態って理解して。診察したところ、今は急性期ね」
「なら、マイが何度も手首を切ったのは……」
「多分、あなたに興味を持たれてないとか、あなたから必要とされていないとかそういう思い込みをしたのでしょうね。自傷行為はあの子にとって、あなたの思いを感じるための手段。あなたに自分を見てほしいっていうメッセージでもある。あなたがお見舞いにくれば、あの子は自分は必要とされているんだと安心するの」
「それを治すためには?」
「マイちゃんのそばにいて、根気よく自分は必要としていることを感じさせてあげること。それでいて、甘やかさないこと。甘やかすと逆効果になる場合があるわ。しっかり自分でやるべきところはやらせる。なんでもかんでも世話を焼いていたら、何もできない人間になってしまうから」
「……念威端子で会話するだけじゃ駄目か?」
「確かに今のあなたは剣狼隊と敵対関係を演じているわけだし、多数のレギオスを束ねる統治者だから、マイちゃんと一緒にいる時間がなかなか作れないのは理解できる。それでも、時間がある時は端子の会話だけでなく、しっかり存在を感じられるくらい近くにいてあげて。端子の会話だけだと、妄想で悪い方向に考えてしまう可能性があるから」
「心の病気は難しいな」
「未だにこれだけは治療法が確立されてないわ。私に言えるのは回復した例が多い治療法だけ」
ルシフは拳を握りしめた。
何のために俺は、世界を壊そうと思ったのか。マイが笑って幸せに暮らせる世界を作りたいからじゃないのか。だが、マイだけのためではない。理不尽な死をこの世界からできる限り無くし、人間らしく死ねるために。そのために、俺は立ち上がったのだ。マイは大切だが、マイの存在に囚われれば、『王』になった目的を見失ってしまう。
「時間がある時はマイに会うようにするよ。で、ヴォルゼーは?」
「ヴォルゼーは肺を患っているわね。もう限界がきてて、いつ病死しても不思議じゃない。今まで定期検診すらしなかった理由が分かったわ。誰にも病気に気づかれたくなかったのね」
「……水くさい奴だ」
病気に気づけなかった情け無さが全身を蝕んでいたが、表面には出さなかった。
女医は少し考える素振りを見せる。
「……診察した時、ヴォルゼーに言われたの。『治せないでしょ? これは不治の病だから』って。確かに悪化しすぎてて、もう移植するしか手はなかった。でも、数年前なら治せた病だった」
「ヴォルゼーはずっと不治の病だと信じていたのか?」
「多分ヴォルゼーが産まれた都市は医療技術がそれなりに高かった都市だったんだと思う。だから、ヴォルゼーは疑わなかった。私は……言えなかった。数年前に病院に来てたら治せたって」
「……そうか。多分、それで良かった。不治の病だと思って死んだ方が、きっと救われる」
女医は顔をうつむけた。
ルシフは椅子から立ち上がり、診察室から出ていこうと女医に背を向け、歩き出す。
「ルシフくん!」
女医が顔をあげて言った。
「あの、各都市の住民たちはあなたを悪く言うけど、私はあなたのしていることを支持する。あなたが各都市を掌握して、各都市が培った技術を共有し合うことで、全体が成長してる。医療技術だって、医療技術が進んでないところに医療技術が高い医師たちを派遣して育て、その都市では不治の病だった者がどんどん救われてる。あなたじゃなかったら、きっと各都市の技術は独占された。その技術で甘い汁を吸う奴らのせいで、救える命がたくさん失われていたはずよ。あなたのしたことは甘い汁を吸う連中からしたらたまったもんじゃないけど、それで死ぬわけじゃない。人を治す医師の立場から、あなたにお礼を言いたいの。各都市の格差を無くしてくれてありがとう。きっと各都市の住民も、いつかあなたのやっていることを理解してくれる」
「勘違いするな」
ルシフは振り返った。女医は身体を強張らせ、息を呑む。
「俺ではなく、剣狼隊が勝手に動いてやったことだ。俺は関与していない」
ルシフは診察室から出ていった。
ルシフが出ていった後、女医はくすっと笑う。
「どちらでも結果は同じだから、どうでもいい。子どもの頃から、そういうところは変わらないよね」
女医は机の上を整理し始めた。
◆ ◆ ◆
ヴォルゼーは入院していた。
今ヴォルゼーの病室にはサナックがお見舞いに来ている。
ヴォルゼーは白色の病院服を着ていて、ベッドから半身を起こしていた。
ヴォルゼーはベッドに置いてある銀色のボトルを手に取り、サナックに放り投げた。サナックは片手で捕る。
「あなたにあげるわ。わたしはもう闘えないから、これからはあなたが剣狼隊最強。もし勝てない相手がきたら、それを使って」
サナックはボトルを腰に吊るし、スケッチブックを取り出した。ペンを走らせる。書き終わったら、ヴォルゼーにスケッチブックを見せた。
スケッチブックには『分かった』と書かれている。
その文字を見て、ヴォルゼーは頷いた。
「最強なのに負けたら許さないわ。負けるなら死を選ぶくらいの覚悟で闘ってね」
サナックは頷いた。
それから少し話をして、サナックは帰っていった。
ヴォルゼーは中断していた首飾りの製作を始める。
咳が出た。血が吐き出される。咳が出る瞬間、首飾りを頭上にあげたため、首飾りに血は付かなかった。布団が赤く染まっただけだ。
赤く染まった布団を、ヴォルゼーはただぼんやりと見る。生まれた時から、不治の病をもっていた。長く生きられないことは生まれた時から知っていた。
ノックの音が響いた。
「入っていいわよ」
「失礼します」
水色の髪をした二十代前半の女性が入ってきた。
ヴォルゼーを見るなり、悲鳴をあげる。
「ヴォルゼーさん、ちょっと! 血が布団にべっとり付いてますよ!」
「ああ、ごめん。考え事してたから」
「考え事? なんです?」
「剄を宿した人間──武芸者がいるじゃない? なんで武芸猫や武芸犬はいないのかなって」
「……はあ?」
「もし武芸猫がいたら、
「…………はい、かわいいですね。そんなことより、頼まれてた首飾りの材料買ってきましたよ。ここ置いときますね」
水色の髪の女性は持っていた袋をヴォルゼーの隣に置いた。
「ありがとう」
「いえ、お礼を言われるほどでもないです。で、次の命令はなんですか? わたしにもっともっと命令してください」
「……フォルはその性癖だけがネックよね。実力は隊長格なのに」
この女性はフォル・ニルという名前で、スカーレット隊の中でのヴォルゼーの副官のような立ち位置にいる。
フォルは命令されることに至極の悦びを感じるという性癖をもっており、命令される回数を増やしたいという理由だけで隊長になろうとせず、隊員の立場に甘んじていた。
「わたしは小隊長に向いていませんよ。そんなことより命令、命令」
フォルはリズム良く命令、命令とずっと口ずさんでいる。早く命令してほしくてたまらない様子。
「なら、イアハイムにあるケーキ屋『クリムゾン・ドロップ』のストロベリータルト買ってきて。あそこのストロベリータルト好きなのよ」
「分かりました! すぐ買ってきます!」
フォルは上機嫌で病室から出ていった。
ヴォルゼーは中断していた首飾り製作の作業を始めた。
ルビーの装飾がされた部分の裏に、剄を集中させた指で文字を刻む。終わったら、銀の鎖にルビーのエンドチャームを付ける。それで終わりだ。それを剣狼隊全員分揃うまで、繰り返していく。
今剣狼隊の人数は内通のために隊を追放した者も全員加え、二百四十五人にまで増えている。しかし暇な時に作っていた首飾りのストックはたくさんあるから、あとは今ある材料を使い切れば完了する。
首飾りの製作を続けながらも、ヴォルゼーは首飾りを見てはいなかった。今までの人生を振り返っていた。
ヴォルゼーという男の名前を付けられた理由は、男のように強く生きてほしいという父の願いがこめられていた。
両親は不治の病があると医者から知らされてから、わたしに謝り続けた。「健康な子どもとして産めなくてごめんね」と母は涙を流しながら繰り返し言った。「残された時間を精いっぱい生きよう」と父は母を励ますように言い続けた。
幼い頃から、両親は罪悪感のようなものを持っているのに気付いていた。だから不治の病を患っていても、明るく生き続けようと心に誓った。自分は幸せなのだと両親に分かってもらうために。
父に連れられ、外縁部付近の建物の屋上に幼い頃行ったことがある。その時は夜で、大きな月と煌めく星々が夜空一面に散りばめられていたことを覚えている。
『ヴォルゼー、お前には月になってほしい。闇に安らぎを与える存在になってほしい。私たちの生きる世界には希望がなさすぎる』
父が月を指さし、言った。
月とは何か、と父に訊いた。月は太陽の光を反射させて輝いているんだよ、と父は優しく答えた。なら、星はと訊いた。あの星の光は長い年月を旅してここまで届いているんだよ、星自体が滅んでも光は旅した年月だけ残り続けるんだよ、と父は答えた。
それを聞いた時、わたしはお月さまよりお星さまになりたい、と叫んだ。自分が死んでも、いつまでも自分が残り続ける。それならきっと、両親を哀しませなくてすむ。
父は驚いたように目を見開いたが、すぐに眩しそうに目を細め、わたしの頭を優しく撫でた。
『そうか、ヴォルゼーはお月さまよりお星さまになりたいか。お前なら誰よりも輝く星になれるよ』
それからの毎日は楽しく、幸せな日々だった。
肺が悪いため武芸の鍛練はあまりさせてもらえなかったが、両親と様々な場所に行った。一日一日が、自分にとってかけがいのない宝物だった。
一つ、決めていたことがある。最期に死ぬ時は、両親に産んでくれた感謝と幸せな人生だったことを伝えて笑顔で死のうと。両親の罪悪感が消えるなら、そんな最期でいいと思った。
十二歳の時、初めて都市間戦争に参加した。初めてということで、激戦区にならない場所にいる念威操者の護衛を任された。
護衛している最中、念威端子から敵対都市に攻めいった両親の部隊が壊滅したという通信が入った。
頭が真っ白になった。念威操者の護衛も忘れて、叫び声をあげながら都市に攻めてきていた敵の武芸者の集団に突っ込んだ。気付いた時には、四百人近くの武芸者の死体が背後に転がっていた。
敵対都市に突入すると、敵対都市の都市長らしき中年の男がやってきて、わたしの目線に合わせるように両膝を地面についた。そして、もう我々の負けでいいからこれ以上殺さないでくれ、と泣きながら懇願してきた。
わたしは目の前にある男の頭を衝剄で消し飛ばした。血煙となって眼前を赤く彩った光景を見た瞬間、唐突に理解したものがあった。死なんてものは誰にでも唐突に訪れるものだと。そこに病の有無は些細な問題だった。
敵対都市の武芸者が恐怖に支配され、都市旗をわたしの方に投げ渡したことで都市間戦争は終わった。両親の死体も引き渡された。両親は優れた武芸者で敵対都市の武芸者を何人も殺していたせいか、両親の身体は刺し傷や切り傷が三十ヶ所以上もあり、腕や足が千切れそうになっていた。
自都市に両親の死体を連れ帰ると、両親の死体の前で声を出して泣き続けた。ずっと自分が先に死ぬものだと思っていた。両親に見守られながら笑って死んでいくのが自分の人生だと考えていた。
それから一年経ち十三歳になったら、都市を出た。自分にあるのは誰よりも輝く星になるという、父とした約束とも言えない約束しかない。それを実現するためにはより多くの人間に会い、自分という存在を刻みつけていく必要があった。
ヴォルゼーと名前を付けた服を着て、様々な都市を巡り、便利屋のような仕事を始めた。人助けが自分の存在を相手に刻みつける最も有効な方法だと考えていた。
宿は一度も借りなかった。眠りたくなったら通りを歩く男に声を掛け、泊めてもらった。その度に当たり前のように身体を重ねた。恋愛感情など全く介在しない交わりだったが、不思議と安心できた。抱かれている時は、確かに自分は相手の心にいるのだ。自分は独りじゃない。今死んでも、この男の中に残る。自分にとってそれは自慰行為だった。相手がいないとできない自慰行為をやり続けた。
ぽっかりと心に穴が空いていた。そこからどくどくと黒いものがこぼれ、自分を侵食していた。
本当は分かっていた。血の繋がりもなく、恋人のような深い情愛で結びついているわけでもない。便利屋も交合も、事が終われば他人。一ヶ月もすれば──いや、一週間で自分の存在など薄れ、消えてしまう。自分が死んでも、一年後に一体どれだけの人間が覚えているのか。
どうすれば自分は誰よりも輝く星になれるのか分からないまま便利屋を続け、いろんな男に抱かれ、各都市を放浪した。イアハイムに行ったのはそんな時だった。
便利屋をイアハイムでしながら、面白い子どもを見つけた。都市民の誰もが天才か問題児か分からないと、その子どもをさして言っていた。確かに馬鹿のようなことをその子どもはよくやったが、その行為の意図が明らかになると、天才と言われるのが理解できた。常人ではできない発想、柔軟性をその子どもは持っていた。
ある時、その子どもが声をかけてきた。一勝負したいと言ってきたのだ。剄は抑えていたが、実力を見抜いたのだろう。
勝負はすぐについた。確かにその子どもは自分に匹敵する剄を持っていたが、自分も日中は鍛練していたのだ。時間の差は簡単に埋められるものではない。
勝負が終わった後、その子どもが自分と世界を変えないかなどと言ってきた。それは別になんとも思わなかった。世界を変えて何の意味があるのか。ただ死ぬ人間がかわるだけで、何も変わらない。
頭にきたのは、その後に続けられた言葉だ。お前の力を使いたいなどとほざいたのだ。
生意気な年下は嫌いだった。自分より闘ってないのに、自分より闘い抜いた相手を見下す。年上は、年が上の分だけ多くこの世界と闘い、勝ち抜いてきた者。生きているだけで尊敬に値する。
その子どもを半殺しにして、その場を立ち去った。
それからというもの、子どもは傷を癒すと、毎回自分の前に現れ、勝負しろと言ってくるようになった。そして勝負が終わると、その力を有用に使わないのなら凡人と変わらないとか、そんな言葉を決まって吐いた。当然半殺しにした。殺しは何故かしなかった。その子どもはあくまで勝負を仕掛けてきたため、命のやり取りは勝負の外にあった。殺しにきてない者を殺す気にはならなかった。それに、この子どもと自分の間には今までの誰とも違う繋がりがあった。その繋がりを断ってしまうのが嫌だったのかもしれない。
何度もその子どもに誘われる内に、子どもの言う世界を変えるというものに興味を持ち始めた。この世界の環境は苦しい。それを一変させることができたとしたら、誰の心にも残り続ける存在になれるのではないか。
だが自分を知らない者に、力を貸す気にはならなかった。
その子どもに力を貸す三つの条件を言った。
一つ目、殺し合いを望んだら殺し合うこと。
二つ目、殺し合いの決着は必ず相手を殺すこと。
三つ目、わたしをお星さまにすること。
その子どもは少し考えてから、分かったと言った。
頭にきた。簡単に自分を理解できるはずがない。仲間にしたくて適当に言ったに違いない。
そう考え、子どもに三つ目の意味は分かるかと訊いた。
子どもは平然と『星は壊れても、光は残る。つまり、自分が死んでも名前が残るようにしたいんだろ? いいだろう。必ず歴史にお前の名を刻んでやるよ』と言った。
その言葉を聞いた時、身体が震えたのを覚えている。まるでずっと求めていたものを与えられたように、心が躍った。力を貸してやってもいい、と思った。
それからは男の家に泊まって寝る生活をやめ、その子どもの屋敷に居候として暮らすようになった。
その時の仲間は二十人にも満たなかった。ルシフの父であるアゼルがルシフに頼まれて各都市に人を派遣し、有力な武芸者の引き抜きを始め、人数が徐々に増えていった。
それが百人になった頃、クーデター紛いのことをやって剣狼隊を結成した。
剣狼隊として、過ごした日々。
それは以前の自分の生き方とは比べものにならないほどの充実感を感じさせた。
同じ理想を抱き、互いに力を合わせながら突き進む。こんな繋がりがあるのか、と思った。血よりも濃い繋がり。心の深い部分で結びついていると強く感じられる。自分は独りではなくなった。自分が死んでも、ルシフと剣狼隊の中に自分の存在は残る。そう確信して生きることができるようになった。
ヴォルゼーは現実の世界に意識を戻した。
現在の剣狼隊の人数は二百四十五人。大きくなった。しみじみとそう思う。
毎日、起きている時は首飾りの製作をした。
見舞いにはたくさんの隊員が来た。スカーレット隊は毎日病室に来て、何も言わずに首飾りの製作を見ていた。フォルだけが命令してと口にし、ヴォルゼーは命令を与え続けた。フォルは嬉々として動いた。時おり血を吐き出すと、スカーレット隊の隊員が口元を拭ってくれた。
最後に作ったのは、金の鎖にルビーの装飾を付けた首飾りだった。
作った全ての首飾りを小箱にそれぞれ入れ終えると、病室を見渡した。スカーレット隊全員がいる。他の者は誰もいない。
「……フォル」
「はい、なんですか? なんでも命令してください」
「わたしの後任として、スカーレット隊の隊長になりなさい」
フォルは絶句した。
病室にいた隊員全員が目を見開く。
「……その命令は、きけません」
「やりなさい」
「嫌です」
「あなたがやるのよ」
「そんなの嫌です! もっともっとヴォルゼーさんに命令してもらうんです、わたしは!」
ヴォルゼーはため息をついた。
「今夜、わたしはルシフと殺し合いをする。そう決めた。わたしの命は今日までよ」
隊員は狼狽しだした。フォルも潤んだ目でヴォルゼーを見つめる。
ヴォルゼーは微笑んだ。
「なんてことはないわ。生きているものはいつか死ぬ。あなたたちもそう」
花は枯れ、月は欠け、風は止み、生物は死ぬ。だがしかし、再び花は咲き、月は満ち、風は吹き、生物は生まれる。永遠に繰り返される摂理。死などどうということはない。ただ自分が土に還る時がきただけだ。
「フォル・ニル」
「はい」
「スカーレット隊の隊長をやりなさい。スカーレット隊隊長として、最期の命令よ」
「……分かりました。しかし、ルシフがわたしを任命するかどうかは分かりません」
「なら任命したら、やってね」
「はい」
「それから、最後にわたし個人としてのお願い。わたしが死んでも覚えててくれる?」
「お願いは嫌いです。命令してください」
「あなたは命令に拘るわよね」
「お願いってつまり、わたしの代わりがいるってことですよね? でも命令は違います。わたしにやらせたいこと、つまりわたしの代わりはいない」
「そんなに他人に自分の存在を認めてもらいたい?」
「いけませんか?」
「……いえ、そんなことないわ。なら、命令する。わたしを一生覚えていなさい」
「その命令、魂に刻みます」
フォル以外の隊員も頷いた。全員涙を堪えている。
念威端子を呼び、ルシフに今夜指定した場所に来るよう伝えた。
土に還ろう。人間の良いところは、土への還り方を決められるところだ。
ヴォルゼーはそう思った。
◆ ◆ ◆
夜、ルシフは病院の屋上に来ていた。ルシフの他にも剣狼隊全小隊長、マイ、隊員四十名程度がいる。剣狼隊総員の四分の一程度がこの場に集結していた。
ルシフは方天画戟を手に瞑目していた。ルシフの全身からピリピリとした緊張感が放たれ、その場にいる者たちもひと言も話さず、ただ時間が流れるのを待った。
集まってから十五分後、屋上の扉が開かれた。
ヴォルゼーが青龍偃月刀を手に、悠然と歩いてくる。白い病院服ではなく、赤装束を着ていた。
「みんな、これから始まる殺し合いを見に来てくれたのね」
ヴォルゼーの言葉に、その場にいた面々は苦い顔をした。別に殺し合いが見たくて、ここに来たのではない。
ヴォルゼーがルシフと相対する。ヴォルゼーが全身から剄を走らせると、都市全体に剄の波動が届いた。
ルシフはゆっくりと目を開く。方天画戟を握る左手に力がこもった。剄が解き放たれ、ヨルテムの都市が震える。
「さあ、やりましょう」
ヴォルゼーが青龍偃月刀を構える。
「メルニスク」
《なんだ?》
「この戦闘、お前の力は借りん」
《承知》
ルシフも方天画戟を構えた。
ここ二、三年はずっとヴォルゼーと互角で、負けなかったが勝てもしなかった。最後くらい、自力でヴォルゼーに勝ちたい。
屋上は病院の敷地分の広さがあり、十分に戦闘できるスペースがある。
同時に高速で前に出て、方天画戟と青龍偃月刀がぶつかった。闇に火花が散る。
そのまま二人は打ち合い続けた。瞬く間に十合を超えた。打ち合うたび、都市全体が震動する。
ヴォルゼーの空いた手から剄が放出され、化錬剄により不可視の鞭がルシフに襲いかかる。ルシフは剄の動きを見極め、戟で鞭を消し飛ばした。
その隙にヴォルゼーがルシフの懐に潜り込み、右足で鋭い蹴りを放つ。ルシフも同じく蹴りを放って相殺。お互い体勢が僅かに崩れた。
互いに相手を睨みつけながら、いち早く体勢を立て直そうとする。そこでヴォルゼーが口から血を吐き出した。肉体の限界がきたのだろう。
必然的にルシフの方が体勢を早く立て直し、戟を振り上げる。きれいにヴォルゼーの胴体に柄がめり込み、バキバキと骨を折る音をさせながら上空に吹き飛ばした。
ヴォルゼーは空中で体勢を立て直すこともできず、そのまま落ちてくる。勝った。
そこから先は、ほとんど無意識に身体が動いた。落ちてくるヴォルゼーの落下点まで移動し、受け止める。お姫さま抱っこのように抱えた後、ゆっくりとしゃがみ、片膝の上でヴォルゼーの頭を支えて横にする。
ヴォルゼーが咳き込む。血が吐き出され、ルシフの黒装束に染みを作ったが、ルシフはヴォルゼーから離れようとしなかった。
「……あなたに出会ってから今日まで、とても楽しかったわ。ありがとう」
「……」
ルシフは何も言わず、ただヴォルゼーの髪を撫でた。
「みんながいる前でこんなこと、言いたくなかったけど、最期まで力になれなくてごめんね」
せめてルシフがグレンダンを陥落させ、全レギオスを支配する基盤を作るまでは力になりたかった。
ルシフはただ無言で首を横に振った。
ヴォルゼーが再び血を吐く。胸のあたりに穴が開いているようだ。全身を激痛が襲い、ヴォルゼーの顔には汗の玉が浮かび出した。
「……このまま放っておけばすぐに死ぬから、別に約束は守らなくていいわよ」
殺し合いをしたら、必ず相手を殺すこと。あの時は病死だけはしたくないという一心で、そんな条件を出した。闘いで死にたかった。
「約束は、守る」
ルシフが方天画戟の柄を強く握るのが分かった。
「ヴォルゼー。たとえお前が死のうとも、お前の血は、心は、思いはずっと俺たちの中で生き続ける」
「……あなたのそういうところ、大好きよ」
俺ではなく、俺たち。つまりは剣狼隊全員で一つ。ルシフがそういう気持ちでずっといるからこそ、剣狼隊の誰もが慕い、付いていく。
ヴォルゼーは横たわりながら、視線をめぐらす。集まった者は泣いているか、涙を堪えている。大嫌いなアストリットの頬が濡れているのが目に入った。何故か、とても嬉しくなった。
「最後の条件、覚えてる? お星さまになりたいって。でもわたし、それはもういいわ」
「……約束は守ると言ったろ」
ルシフの表情がほんの少しだけ歪んだのを、ヴォルゼーは見逃さなかった。
そういえば、いつから自分の一人称は『ヴォルゼー』から『わたし』になったのだろう。思い返す。ルシフがイアハイムで王になった時、みんなでみんなの血水を飲んだ。多分、その時からだ。なるべく多くの人に見える星ではなく、ルシフと剣狼隊にだけ見える星でいいと思えるようになったのは。
星自体は滅んでも、星の光は何十年、何百年、何千年と見える。自分もそうなりたかった。自分が死んでも、何十年、何百年、何千年となるべく多くの人に覚えていてほしい。そうすれば、自分はその人の心の中で生き続けることができる。ヴォルゼーという一人称も、赤装束の前後にでかでかと名前の刺繍をしたのも、気に入った相手にヴォルゼーと刻んだアクセサリーを渡したのも、青龍偃月刀という派手な武器も、すべては人の心に強く自分の印象を残し、忘れないようにさせるため。長く生きられないと分かっていたからこそ、たくさんの人の心の中で生きたかった。でも、今はルシフと剣狼隊の心の中で生き続けるだけでいい。自分の血が彼らの中に流れているだけでいい。
ヴォルゼーが咳き込んだ。さっきまでの血の量とは段違いの量が吐き出される。視界が霞み始めた。もう死ぬ。
「……ルシフ、剣狼隊のみんな……先、逝ってるね」
「俺も後でいく。あの世で待ってろ」
「わたしの唯一の心残りは……グレンダンも従えて全レギオスを掌握したあなたの姿が見れないこと」
もしそれが実現した暁には、最近全く見ていなかったルシフの弾けるような笑顔がきっと見れただろう。それを見られないのが、本当に残念。
集まった者が声をあげて泣き出した。身体を震わせている者もいる。マイだけは普段通りの無表情だったが、それもいい。
ルシフが方天画戟を振り上げる。
ヴォルゼーは正面に顔を向けた。
夜空に星々の煌めきが連なり、まるで星の絨毯が敷かれているようだ。その中で星の光を浴び、白銀に輝く戟の穂先。風になびく赤みがかった黒髪。星よりも輝く二つの赤い瞳。赤い瞳が光を放っているように見えるのは、目の錯覚だろうか。なんにしても……。
──美しい眺め。まるで絵画みたい。
「さらばだ、ヴォルゼー。我が同志」
方天画戟が振り下ろされる。
──お父さん、お母さん。わたしは幸せだったよ。
両刃の穂先はきれいにヴォルゼーの首をはねた。血が大量に噴き出され、ルシフの黒装束全体に染みを作る。ルシフの顔にも血飛沫がまだら模様で付着した。周囲から悲鳴が聞こえた。
ルシフは右手でヴォルゼーの頭を掴んでいた。そのままゆっくりと立ち上がる。ヴォルゼーの首から血が滴り落ちた。
ヴォルゼーの髪を掴んで頭を持ちながら、頭が無い胴体を見る。手に持っていた青龍偃月刀が錬金鋼状態に戻っていく。ルシフは化錬剄で剄を吸着する性質に変化させると、天剣を剄で吸着し、両手を使わずサナックの方に投げた。サナックが右手で捕る。サナックの顔は濡れていて、腰には銀色のボトルが括りつけられていた。
ルシフはヴォルゼーの頭を持ったまま、屋上の端を目指して歩き始めた。誰も何も言えず、ただルシフが何をするつもりか見守っている。歩いたところは首から血が落ちて道のようになった。
「マイ、念威操者に映像を都市の各所に展開させるよう指示しろ」
「はい」
マイが念威端子で念威操者に指示を出す。
ルシフの周囲に六角形の念威端子が舞った。都市のいたる所でルシフがヴォルゼーの頭を持って歩いている映像が展開される。
ルシフは屋上の端に立つと、ヴォルゼーの頭を高く掲げた。
「住民たちよ、騒乱の原因たるヴォルゼーは俺が討った! ヴォルゼーは俺から報酬と信頼を受けていながら、俺に反旗を翻し、俺を殺しにきたのだ! このような裏切り者にはお似合いの姿にしてやったぞ! 安心して休むがいい!」
ルシフがチラリと背後を見る。
マイは頷き、ルシフの周囲の端子のリンクを切断した。展開されていた映像も消える。
ルシフは撮影が終わっても、ヴォルゼーの頭を高く掲げたままだった。ルシフの背後では、集まった剣狼隊隊員が目を見開いている。そして、彼らは気付いた。今までのルシフと剣狼隊の関係性から、こういう行動をルシフはとらざるをえなかったのだと。
ルシフは高く掲げたヴォルゼーの頭に視線をやる。
──ヴォルゼー……初めて殺した人間がお前で良かったよ。こんな感触、当分味わいたくないと思えたからな。
ルシフは屋上から見える景色に視線を向けた。目を見開く。ヴォルゼーが星を見るのが好きだったことを思い出した。
──見えるか? ヴォルゼー。
星空が一面に広がり、都市の灯りも次々に点いていっている。
──星の空と星の大地だ。
この場所から見ると、都市の灯りも星の光のように見えた。外縁部は暗いが、それが都市の光球を際立たせている。
ルシフはヴォルゼーの頭を下げ、振り返った。
剣狼隊の面々が何か言いたそうな顔をしているが、誰も何も言葉を口にしない。
ルシフは無言で歩き、ヴォルゼーの頭を持ったまま、屋上から去っていった。結局誰もルシフに声をかけられなかった。
屋上にヴォルゼーの胴体が横たわっている。剣狼隊数名が両膝をついて泣き崩れた。
◆ ◆ ◆
ルシフは病院でヴォルゼーの頭部にエンバーミングをしてもらってから、自室に戻ってきた。エンバーミングとは死体が腐らないよう防腐処置をすることである。
ルシフは寝室の椅子に座り、黒色で正方形の箱を膝の上に置いた。エンバーミングをされた後、ヴォルゼーの頭部は黒色で正方形の箱に入れられた。
時刻はすでに零時をまわっていた。ルシフはずっと顔を俯け、箱の上面を見ている。
コンコン、と寝室の扉をノックする音が響いた。
「……入れ」
寝室の扉が開かれる。
澄みきった空がそのまま髪を染めたような、水色でまっすぐな髪をショートヘアにした女性が寝室に入ってきた。眼は赤く充血している。フォル・ニル。ヴォルゼーの副官のような立ち位置だった者。実力だけなら隊長格だろう。彼女にその気がないだけで。
「ヴォルゼーさんから預かり物。あなた宛に」
フォルは手に持つ白い小箱をルシフに渡した。
ルシフは小箱を開け、中身を取り出す。金でできた首飾りだった。エンドチャームには丸い形をした金の中にルビーがはめ込まれている。
何気なくルビーがはめ込まれている装飾の裏を見ると、『ずっとあなたらしく在れ』と文字が刻まれていた。
ルシフは刻まれた文字をじっと見つめる。
「……俺以外の奴にもあるのか?」
「あるよ、剣狼隊全員分。でも、金の首飾りはあなただけ。他は全部銀の首飾り」
フォルの首から銀色の鎖が見えていた。おそらくヴォルゼーからもらった首飾りを身に付けている。
「そうか。話は変わるが、ヴォルゼーが死んだことで、スカーレット隊の隊長がいなくなった。お前にスカーレット隊の隊長を任せたいと考えているが、お前はどう思う?」
「……何、その言い方。あなたらしくない」
フォルは不満そうに目を細めた。
「相手の都合なんか考えず命令すればいい。あなたの命令なら、どんな命令もわたしは従う」
ルシフは軽く息をついた。面倒くさい女だ。
「……フォル・ニルにスカーレット隊隊長を命じる」
「フォル・ニル! スカーレット隊隊長の任につきます!」
フォルが跪き、頭を下げた。顔を上げる。恍惚の表情をしていた。
「……おい」
「すいません、イキかけました」
「言わんでいい」
フォルがいきなり表情を歪め、涙をこぼした。
「本当にヴォルゼーさんは亡くなられてしまったのですね」
自分が隊長になったことで、ヴォルゼーが死んだという実感が湧いてきたのだろう。
フォルは跪いたまま、泣き出した。
「もう帰れ」
「……はい、失礼します。おやすみなさい、陛下」
「ああ、おやすみ」
フォルは寝室から出ると、扉を閉めた。
ルシフは椅子に座ったまましばらく動かなかった。首飾りに刻まれた文字を見続けている。
ルシフから金色の粒子があふれ、メルニスクが顕現した。
ルシフはメルニスクをチラリと一瞥するが、すぐに視線を首飾りに戻した。
「……ルシフよ」
「なんだ?」
ルシフが顔を上げ、メルニスクを見た。
「今、この場には我しかいない。誰も、汝を見る者はいない」
「だから?」
「……『王』の仮面を外しても、誰にも気付かれない。汝自身の心を晒しても、何も影響はない。たまには、本来の汝に戻ったらどうだ?」
ルシフの表情が驚愕の色に染まった。それから数秒おいて、自分を落ち着かせるようにルシフはゆっくり息を吐いた。
「……そうか……今だけは、ヴォルゼーの死を哀しめるのだな」
「ルシフ……汝はそこまで……」
ルシフの両目から涙があふれ、頬を伝っていた。
ヴォルゼーと出会った日から今日までの様々な出来事が、ルシフの脳内で再生されている。
ヴォルゼーは絵空事のような理想を実現できると信じ、力を貸してくれたかけがえのない仲間の一人だった。血よりも強い、心の結びつきがあった。
メルニスクはルシフの今の姿に驚いていた。ルシフがどこか落ち込んでいるように見えたからあんなことを言ったのだが、ここまで感情を殺しているとは思わなかった。
「汝と共にいて気付いたのだが、汝は『王』に向いてないな。汝は感情を爆発させる人間だ。感情を殺し、常に合理的に決定を下さなければならん『王』とは相性が悪い」
「……『王』に向いていたら、『王』で在り続けようなどと考えるものか。だが、仕方あるまい。誰よりも優れ、全レギオスを支配できる器の持ち主が俺以外にいないのだからな」
メルニスクは言い知れぬ感情を抱いた。
もしかしたらルシフは、自分より優れた人間が現れるのをずっと待ち望んでいるのかもしれない。
ルシフの目からは涙が流れ続けている。
ルシフは孤独なのだ。誰にも本心を見せてはならず、ずっと独りで世界と向き合い、闘い続けている。
「ルシフ、たとえ世界中の人間が汝の敵になったとしても、我はずっと汝の味方だ。汝と共に在る。ずっと汝と歩き続けよう」
父を死なせた日、二度と涙は見せないと決めていた。
涙を見せるのは『王』として失格だと今も思っている。
にも関わらず、涙があふれて止まらない。
メルニスクの言葉が温かく心に染み込み、凍らせた心を溶かしていっているようだ。心を塞き止めていた堰が壊れ、洪水のごとく流出している。ならば、目からあふれ流れているのは心なのだろうか。
以前の自分ならば、誰に何を言われようとこんな醜態を晒さなかった。『王』である自分を貫けた。
それが、今はどうか? メルニスクに優しくされたくらいで、こんなにも簡単に仮面が外れてしまった。
もしかしたら、自分は弱くなってしまったのかもしれない。
「……メルニスク、俺は……俺は……」
弱くなったのだろうか、と言葉を続けようとして、自分を戒めた。
弱くなったかと訊いて何の意味がある? そんなことはない。お前は強いとでも言ってほしいのか? 甘えるな。覚悟を貫き通せ。
そもそも、強い人間とはどういう人間をいうのだろう? 理想を目指して全身全霊で突き進む人間を強い人間だとずっと思い、自分は『王』なのだから誰よりも強く在ろうと心に決めた。だが、それは転じて理想に縛られ本来の自分らしく在れない弱さでもあるのではないか。
心のまま生きるのは獣のすることだとずっと軽蔑してきた。弱い人間の生き方だと思っていた。だがそれも突き抜ければ、いついかなる時も本来の自分を見失わない強い人間ではないのか。
誰よりも強く在りたい。だが、どうしても弱さが顔を出す。この弱さを潰すためにはどうすればいいのか。
「我は汝のことを理解している。汝の好きなように突き進めばよい。だが、今は休息するべきだ」
ルシフは頷いた。
メルニスクに感謝の言葉はどうしても出てこない。自分の弱さを完全に認めてしまう気がするのだ。
ルシフが視線を落とし、ヴォルゼーの頭部が入った黒い箱を見る。
──ヴォルゼー……もしこれから俺がすることをお前が知ったら、俺を許して──いや、許してほしいなどと思わない。俺はただ約束を守るだけだ。今までありがとう。ゆっくり休んでくれ。
涙はまだ止まらず、透明の滴がぽつぽつと黒い箱に染みを作り続けている。
ルシフは首に金の首飾りを身に付けた。
ルシフが泣いている。涙を流して、椅子に座っている。
リーリンは布団に潜り込んだ状態で、右目を押さえていた。なのに、見えるのだ。まるで誰かの視界をそのまま右目に持ってきているような、そんな感覚。
──何? なんなの?
ルシフが言葉を話している。その言葉も何故か聴き取れた。
──誰か知らないけど、こんなもの見せないでよ……!
冗談じゃない。
ルシフは残酷非道で自分勝手で暴力的な人間でいい。こんな一面は見たくない。殺さなければならない可能性のある人間に顔なんかいらない。顔を知ってしまったら……。
──いざという時、ルシフを殺せなくなってしまう。
《今あなたに観せているのは、メルニスクの視界です》
声がどこからともなく聴こえた。
リーリンは右目を押さえながら、左目を動かす。
いつの間にか緑色の光に包まれた長髪の幼女が布団の中にいた。ニコリとリーリンに幼女は微笑んだ。
この幼女はどこかで見たことがあった。ツェルニの都市旗に刺繍されていた女の子に似ている。ということは……。
「……電子精霊ツェルニ?」
ツェルニは微笑んだまま頷く。
「……なんでわたしにこんなもの見せるのよ?」
《力になってほしいからです。ルシフの》
「なんであなたがそう思うの? もうルシフはツェルニの学生じゃないのに」
《短い間でも、ルシフはわたしのところにいました。わたしの子どものような存在です。助けてあげたいと思うのは当然です》
幼女の姿なのにルシフを子ども扱いするのはどこかシュールだが、考えてみれば電子精霊として長年生きているのだから、別におかしくもない。
《ルシフは『王』という殻にずっと自分を閉じ込めています。そんな時、本当の自分を知っている相手が一人でもいることは、きっとルシフの心の助けになるでしょう。あなたに強制はしません。ですが、わたしはあなたがルシフを助けてくれるのを願っています》
ツェルニが緑色の粒子となり、リーリンの視界から消えた。視界も元通りになり、リーリンの右目は布団の中を映している。
「勝手なことばかり言って」
リーリンは起き上がった。向かいにはニーナのベッドがあるが、ニーナはいない。凄まじい剄のぶつかり合いを感じた途端、窓から飛び出していった。
リーリンは右目を押さえる手を離した。
──ルシフ……あなたはそんなにも剣狼隊の人間に愛情を抱いていたの?
その瞬間、リーリンに電流に似た衝撃が走った。
──もしかして、暴政をした残り二つの理由って……。
今観た光景と、ルシフの今までの行動を思い返す。
──そうか……そういうことだったんだ。
答えはすべて、それらの中にあった。
リーリンの左目から涙がこぼれた。涙がシーツに落ち、染みを作る。リーリンは口を押さえ、涙を流し続けた。ルシフという人間を理解してしまったから。
星を散りばめたような空間。
二つの存在が向かい合っている。片方は半人半鳥の姿をしており、もう片方は長髪の幼女の姿。シュナイバルとツェルニ。ここは『縁』の空間の中。
「余計なことをしてくれましたね、ツェルニ」
「余計なことをしたとは思っておりません、お母さま」
シュナイバルはツェルニがリーリンにどんなことをしたかは分からなかったが、何かをリーリンにしたのは分かった。それがリーリンの覚悟を揺るがすことであることも、ツェルニの性格から察しがついた。
「リーリン・マーフェスの持つ力は、ルシフが万が一変貌した場合の切り札となりえる力。彼女自身もその覚悟を胸に秘めていたはずです。いかなる方法でリーリンの覚悟を揺るがしたかは存じませんが、妾たちにとって都合の悪い方にしかいかないと分かるでしょう?」
「わたしは、ルシフを信じます。ルシフが必ず内なる敵に打ち克つと。可能性を信じることこそ、わたしの性質ですから」
確かにツェルニは学園都市という可能性を信じて集まる者の都市を任されている。より良い未来への可能性を信じるのは学園都市らしいと言えるかもしれない。
「あなたは見た目にそぐわず、頑固ですね。以前にも闇の側に立つ彼女を自身のエネルギーを分け与えて助け、今も世界の敵になりえる者を助けようとしている。しかし、あなたが助けた彼女はあなたの都市に住む者を操り、怪しげな計画を実行していました」
今はないが、少し前までツェルニには研究施設のような場所が密かに存在し、その中に円柱のような装置に入った黒髪の少女がいた。シュナイバルはその人物のことを言っている。
「あなたは目先のことしか見ない。だから結果としてより悪い方向にいくのです。もっと大局に立って行動するのです」
「わたしは可能性を信じ続けます。たとえお母さまに逆らうことになったとしても」
「……確かに妾は伝えましたからね。あなたの選択が世界にどのような結果をもたらすか、最後まで見届けなさい。あなたにはその責任があります」
シュナイバルの姿が消えた。
ツェルニは少しだけ寂しそうな表情になる。
ルシフがツェルニにいた時、ツェルニはルシフに憑依していたことがあった。その時メルニスクも憑依していたため、ツェルニとメルニスクはお互い知らぬ内に『縁』が深まって同調し、感覚を共有できるようになっていたのだ。メルニスクの視界を共有できたのも、ツェルニがメルニスクと同調しているが故のことだった。
やがてツェルニの姿も『縁』の空間から消失した。
◆ ◆ ◆
翌日の朝。
ルシフが建物から出てきて、出入口の前の地面に銀色の棒を突き刺した。棒はルシフの身長ほどの長さがあり、その先にヴォルゼーの首が突き刺さっている。りんご飴のような感じだ。
ルシフはもう一本銀色の棒を、ヴォルゼーの首が刺さっている棒の隣に突き刺した。その棒の先には木でできた板が固定されており、『王を裏切り、歯向かった者の末路』と太字で書かれている。
ルシフはそれが終わったら念威端子を介してグレンダン以外の全都市に、ヴォルゼーを見せしめとして晒し首にしたことを伝えた。
一時間も経たない内に、ヴォルゼーの首の周りに人が集まった。変わり果てたヴォルゼーを見て悲鳴をあげた者は大勢いた。『ルシフは血も涙もない非情で最低な奴だ』などと心の内で都市民の大多数が罵っていた。
ニーナも端子の映像を観て、ヴォルゼーの晒し首がある場所まで走ってきた。ヴォルゼーの首が切り落とされ、晒し首にされたのを知ったのは今の映像を観てからだ。昨日はヴォルゼーとルシフを夜通し探したが、剣狼隊の隊員に捕まってしまって動けなくなっていたのだ。
ニーナは人ごみを掻き分け、最前列に立つ。少し見上げたところに、ヴォルゼーの首はあった。
ニーナは息を呑む。ヴォルゼーは悔いなく死んだような穏やかで優しい微笑みのまま、棒に突き刺さっていた。
「……ッ!」
ニーナは思わず目を背けた。ポケットからヴォルゼーに貰った首飾りを取り出し、手の中にあるそれを見つめる。『ヴォルゼー・エストラ』と刻まれた文字。ぎゅっと首飾りを握りしめた。
この出来事は都市民のルシフへの恐怖を増大させたが、穏やかな表情で死んでいるヴォルゼーの姿が都市民にそれ以上の別の感情を芽生えさせた。都市民の心に恐怖に立ち向かうだけの勇気の火種を灯した。
ちなみにこの出来事は『暴王の首打ち』と呼ばれ、後世の歴史書に刻まれることになる。暴王を正そうとした武芸者……ヴォルゼー・エストラの名とともに。