レイフォンはグレンダン王宮に来ていた。フェリとシャーニッドも一緒である。
レイフォンがここに来た理由は、念威端子でデルボネに呼び出されたからだ。何故呼び出されたかは知らない。ただ呼び出されたから行く。それだけだ。理由はどうでもいい。
フェリとシャーニッドは別に呼ばれてない。勝手に付いてきた。どうやらフェリはデルボネに、シャーニッドはバーメリンに師事したいようだ。
グレンダン王宮の天剣授受者が集まる詰め所。そこが、呼び出された場所だった。
レイフォンが詰め所の扉を開ける。リンテンス、サヴァリス、リヴァース、カウンティア、バーメリン、ティグリスが円卓の椅子にそれぞれ座っていた。
円卓の椅子は十席しかない。レイフォンがいた時は十一席あった。デルボネはそもそも病室から動けないため、デルボネの席がないのは当然だった。現天剣授受者の数しか席を用意しないのは、レイフォンが天剣授受者になった時からあった。
レイフォンは当たり前のように、空いていて一番近い椅子に座った。円卓にルイメイというプレートが置かれている。
ルイメイの席に座ったことに嫌悪感を感じたが、一度座った以上今さら席を移すのはばつが悪く、席を立たなかった。
シャーニッドとフェリは席に座る勇気を出せず、レイフォンの後ろに立つ。
「何故僕を呼び出したんです?」
レイフォンが訊いた。
蝶型の念威端子がレイフォンに近付く。
『あなたが長くルシフの近くにいたからですよ』
ルシフの情報を引き出すためか。
レイフォンは円卓を見渡す。リンテンスはいつも通り煙草を吸っていた。リヴァースとカウンティアは隣同士でいる。サヴァリスは退屈そうにあくびを噛み殺していた。ティグリスは髭を撫でながらも、レイフォンを真剣な表情で見据えている。バーメリンはイライラしていた。舌打ちし、貧乏ゆすりをしている。
「ルシフの情報なんて、そんなものないですよ。ルシフは僕と同じように一目見た剄技を理解し、自分のものにしてしまうほど武芸のセンスが高い。廃貴族というものを手に入れたため、陛下並の剄量がある。頭が良く、手段も選ばない。行き当たりばったりではなく、しっかり計画を練ってから行動に移す。敵をよく知ろうとする。冷酷に見えるが、甘さもある。その程度です、僕に言えるのは」
「なるほど。確かに情報でもなんでもないな。ただの噂話と変わらん」
リンテンスが灰皿に吸い殻を入れ、新たな煙草を吸い始めた。
「ルシフの情報なら、一週間前に捕まえた二人から引き出せなかったんですか? ルシフと内通した容疑で捕らえられたと聞きましたけど」
これはグレンダン中の話題になった。だが、その後どうなったかは徹底した情報統制により、表に出てこなかった。
『たくさんルシフの情報を吐きましたが、どれもあなたと似たように曖昧なものでした。そもそもわたしたちはルシフの内通者ではないと確信していたのですがねえ』
「陛下は?」
「部屋にこもり、酒に溺れ、自堕落に過ごしておる」
ティグリスが言った。苦い表情をしている。
「アレを当てにするな。もう使いものにならん」
「リンテンス、そういう言い方は止めよ。陛下がおらねば、次も負けるぞ」
「あんな年増どうでもいい、クソジジイ。ずっと腐らせとけ」
「バーメリン、お前もだ。ルシフの部下のようなヤツに負けたからといって、いつまで引きずっておる?」
バーメリンの顔が怒りに染まった。
バーメリンだけがルシフ以外の武芸者に倒されたのだと、レイフォンは今さら気付いた。バーメリンの自尊心は深く傷付けられた筈だ。
「あのクソ女二人、次は絶対撃ち殺す!」
「やれやれ。皆さん、随分と荒れてますね」
サヴァリスが軽薄な笑みを浮かべている。
全員がサヴァリスの方を向いた。
「なんで僕はそんなにもイラついているのか分かりませんね。ルシフは最強の相手ですよ? 老性体のように力に任せて闘うのではなく、こちらをしっかり分析したうえで確固とした勝算を叩き出し、最も効果的な作戦で勝ちにくる。まさに知と武の全てを凝縮させて闘うような相手だ。勝つためにはこちらも全て出し切らないといけない、そんな相手ですよ? ワクワクしませんか?」
その場にいる天剣授受者全員が顔を見合わせた。リンテンスは微かに笑い、リヴァースとティグリスは苦笑する。カウンティアは勝ち気な笑みを浮かべた。バーメリンだけが不機嫌そうな表情のままだった。
「心が躍らんと言えば、嘘になる。だが、二度負けることは許されんのだ。グレンダンは最強の都市なのだぞ。ならばこそ、陛下にはしっかりしてもらわねばならん。ルシフに勝つ鍵は間違いなく陛下が握っておられる」
ティグリスの言う通りだと、レイフォンは思った。アルシェイラの力無くして、ルシフに勝てるわけがない。地力でルシフと互角の筈なのだ。天剣授受者も全員揃っている。天剣は無いが、十分勝ち目はある。
「サヴァリスさん、ティグリスさんの言う通りだと思います。ただ、次も闘うと決めていたうえで、ルシフは僕らだけでなく、陛下も生かした」
リヴァースが言った。
「ルシフにとって僕らと陛下は、殺すに値しない障害物程度の価値しかなかったってことです。次闘っても勝てるって自信があるからこそ、僕らと陛下は生きている」
その通りかもしれなかった。
殺す価値のない相手だったからこそ、ルシフが殺さなかったのは十分有り得る。
「ルシフのその自惚れを、次闘った時にたっぷり後悔させましょう」
「うん! リヴァ、やろう!」
「ははは! なかなか面白いこというじゃないですか!」
サヴァリスが愉快そうに笑った。
リヴァースが沈んだ表情になる。
「天剣を奪われたと聞いた時、今まで積み上げてきたものが全て崩れ落ちたような気がしました」
それは誰もが感じていることだろう。
自分は天剣授受者ではないが、それでも天剣が奪われたことに悔しさと憤りを感じた。現天剣授受者が天剣を奪われて何も感じないわけがない。
「必ず天剣を取り戻しましょう。今も『天剣授受者さま』と呼んでくれる都市民たちのために」
そこだけは、全員揃って頷いた。
話が終わると、シャーニッドはバーメリンのところにいった。
「俺を鍛えてくれ! 頼む!」
シャーニッドはバーメリンに頭を下げた。
「ウザッ! どっかいけ!」
バーメリンはシャーニッドを足蹴にした。シャーニッドは横に吹き飛ぶが、受け身をとってまたバーメリンの前に立った。再び頭を下げる。
「強くなりてぇんだ! 立ち向かえるようになりてぇんだよ!」
バーメリンは不機嫌な表情のままだったが、何か思いついたのか、表情が少しだけ柔らかくなった。
「ウザガキ、名前は?」
「シャーニッド・エリプソン」
「死んでも文句言うなよ、ウザガキ。サンドバッグにしてやる」
「……死んだら文句言えなくね?」
バーメリンは再びシャーニッドを足蹴にした。シャーニッドは壁に叩きつけられて気を失った。
バーメリンはシャーニッドの首根っこを掴む。そのまま詰め所を出ていった。
フェリは蝶型の念威端子に向かって軽く頭を下げている。
「私に念威を教えてもらえませんか?」
『よいですよ。いつから始めましょうか?』
話がトントン拍子で進むので、フェリは逆に戸惑ったようだ。
視線を泳がせながら、言葉を探している。
「……今からでお願いします」
『まあ! 素晴らしいですわ! 明日からなんておっしゃったらお説教するところでしたよ』
フェリは無表情だが、ホッと息をついていた。
フェリは念威端子に誘われるまま、部屋から出ていった。
──さて、ここからだ。
レイフォンは自分に気合いを入れた。
席を立ち、円卓の周囲に座る天剣授受者たちを見据える。
「ルシフに勝てるかもしれない剄技があります」
全員が、大なり小なり驚いた表情をした。
「本当か?」
リンテンスが紫煙を吐き出して言った。
「はい。ただし、天剣授受者であるあなたたちの協力が必要です」
──ルシフを倒し、リーリンを必ず取り戻す。
レイフォンはルシフを倒せる剄技について、詳しいことを話し始めた。
◆ ◆ ◆
ルシフと闘ってから一ヶ月が経とうとしていた。
怪我が完治してから、アルシェイラは最低限の政務しかせず、遊びふけっていた。酒を飲み、面白そうな書物やエンターテイメント作品に手を出し、寝たい時に寝て、食べたい時に食べる。そんな生活だった。
今日もアルシェイラは自室で酒を飲んでいた。酒の瓶が二本床に転がっている。かなり酔いが回っているようで、顔がほんのりと赤くなっていた。美しい容姿をしているため、それでも色っぽく見える。着ている服はTシャツに短パンで、とても女王には見えない。
部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「陛下、カナリスです。入室してもよろしいでしょうか?」
「入りなさい」
「失礼します」
カナリスは扉を開けて部屋に入り、部屋の惨状に慌てて扉を閉めた。こんな部屋を誰かに見られたら、何を言われるか容易に想像がつく。
「陛下」
「座れ」
アルシェイラは机を前にしたソファに座っていた。机には酒の瓶とコップ、つまみがある。その近くに書物を書いたりするのに使う引き出しつきの机があり、椅子が置いてある。
アルシェイラはその椅子を右手の人差し指で指差した。
「しかし──」
「座れ。そんで、こっちにこい」
カナリスは仕方なくアルシェイラの言う通りにした。アルシェイラと机を挟んで向かいの位置に椅子を置き、座る。
アルシェイラがコップをカナリスに投げた。カナリスは反射的に受け取る。
「陛下、これは……」
「コップを出せ」
「何故ですか?」
「いいから、出せ」
カナリスがコップを差し出す。アルシェイラは酒の瓶を持ち、コップに注いだ。注いだ後は、酒瓶に口をつけて酒を飲んだ。
「わたしの酒に付き合え、カナリス」
「何をおっしゃってるんですか!? 今はまだ昼間で、わたしは政務に関することで陛下の部屋を訪れたのですよ! お酒なんて飲みません!」
「いいから、飲め。わたしの酒が飲めないのか?」
「そういう問題ではなく……!」
「飲まないのなら、殴り殺してやろうか?」
アルシェイラから殺気と圧倒的な剄が放たれた。それだけでカナリスの全身が震え、動けなくなる。手に持つコップも震え、酒が少しこぼれた。
カナリスはコップを持つ手を震わせながら口元に運び、口に酒を含む。飲んだ振りをした後、咳が出た演技をして口に当てた布に全て吐き出した。
「これは強いお酒ですね。思わず咳き込んでしまいました」
「お前はいつも肩に力が入っている。たまには羽目を外すことも必要だと思わないか?」
「息抜きなら充分しているつもりですが……」
「ダメよ、全然ダメ。酒に酔っ払ったこともないでしょ?」
「確かにおっしゃる通りですが、わたしはそれでいいと思っています。酔いたいと思ったこともありません」
「だからお前はそんなに堅苦しいんだ。たっぷり飲んで、酔え。酔えばお前も少しは親しみやすくなるかもしれない」
アルシェイラが念威端子につまみを持ってくるよう言った。
十分ほど経つと扉が開き、侍女が入ってきた。侍女が机に皿を置く。皿には牛肉を干したものが切られて山のように盛られていた。
「食え」
「あの、陛下。わたしは今陛下の代わりに政務をしております。大臣や官僚たちとの会議や報告も控えております」
「大臣? 官僚? そんな連中がどうした。今すぐそいつらもここに連れてこい。天剣授受者にも武芸者にもなれない負け犬どもの面をしっかり拝んでやる」
「陛下、酔いすぎです。そんなの無理に決まってるじゃないですか」
アルシェイラから、いつもの軽い感じがなくなっていた。女らしい喋り方も鳴りを潜め、地に近い喋り方になっている。
「何が無理だ」
「大臣と官僚を呼ぶ理由がないから無理だと言っております」
「いいから、呼んでこい」
ここでカナリスは閃いた。これを上手く利用すればこの場から逃げられると考えたのである。
「では、大臣と官僚たちを呼んできます」
コップを机に置き立ち上がったカナリス。その腕を、アルシェイラが掴んだ。無理やり椅子に座らせる。
「一体なんなんですか!?」
「念威端子がある。それで大臣と官僚を呼べ。お前はここで酒に付き合え」
「そんな無茶苦茶な……。大体、近い内にルシフが攻めてくるんですよ。こんなことやってる場合じゃないとわたしは思いますが」
「ルシフがなんだ。あんな姑息で小賢しい闘い方しかできん男に、わたしが負けるか。そもそも前の闘いにしても、わたしは負けたと思ってない。リーリンがそばにいなかったら、ルシフなんぞわたしがひねり潰していたわ」
アルシェイラは、真っ向勝負ならルシフを圧倒できたと今も信じている。
「陛下、お酒を止めてください。お酒に溺れるなんて、陛下らしくありません」
「何を言ってる、カナリス。わたしはいつもこうだっただろ。政務はお前に任せ、わたしは自由気ままに生きてきた」
「それでも、お酒を浴びるように飲まれるのは初めてです」
「わたしは今まで通りだ」
「ルシフに負けてから変わられました」
「わたしは負けてない!」
アルシェイラが机を蹴り飛ばした。机に置かれていたコップやつまみが盛られた皿が床にぶち撒けられる。
「政務は全てお前に任せている。お前の判断で政務を処理しろ」
アルシェイラが立ち上がり、椅子に座ったまま動けなくなっているカナリスを見据えた。
カナリスの椅子から液体が垂れている。どうやらビックリしすぎて失禁したようだ。顔を真っ赤にして涙目になっている。
カナリスはアルシェイラと瓜二つの容姿である。情けない姿を晒しているカナリスと、四肢を切り落とされ地面に這いつくばるという醜態を晒していた自分とが重なった。
カナリスの顔が、この上なく目障りに感じる。
「もういい。出ていけ」
「……わ、分かりました。失礼いたします」
カナリスは腰を抜かしたのか、中腰の姿勢でぎこちなく部屋の扉までいく。その間も股からポツポツと液体が垂れていた。
「カナリス、侍女を呼んで部屋の掃除をさせろ。あと、新しい酒を持ってこい。ティグ爺も呼べ。酒の相手をさせる」
「……はい」
カナリスは部屋からでて、扉を閉める。
アルシェイラは手に持っている酒瓶に口をつけて飲んだ。
アルシェイラはアイレインの完全な模倣品となるべく生まれた。グレンダン三王家同士で常に結婚してアイレインの因子を強め、最強の存在を意図的に創る。グレンダンはずっとそうやってイグナシスの侵攻に備えてきた。
そんな存在が、イグナシスではなくグレンダンのような業を犯していない他都市の単なる武芸者に負ける。たかが廃貴族の力が加わった程度で。許されない。そんなことは許されない。許してしまったら、今までグレンダン三王家が積み重ねてきた業はなんだったのだ。なんのために近親相姦に近いことをしてきたのだ。ただ廃貴族を手に入れていれば、それで良かったのか。
──負けたことを認めたら、わたしの今までの人生はなんだったのよ。わたしの存在価値は……。
アルシェイラは再び酒瓶に口をつけた。
◆ ◆ ◆
マイはマリア・ナティカが住んでいる集合住宅に足を運んでいた。左手に
マリアの部屋番号は予め調べておいた。そもそもマイが何故マリアに会いに来たかといえば、マリアと話がしたかったからだ。
昨日、ゼクレティアと色々話をした。その中で、マリアがルシフとの子を宿し、産んだという噂があると聞いた。マリアは一言もルシフの子どもだと言わないようだが、見る者が見れば一目でルシフの子どもだと分かる。だが、ルシフはマリアのところしか通わないわけではない。それどころかマイの知っている限り、一度しか会ってない。
イアハイムに戻ってきて、今日は五日目だった。
イアハイムに帰ってきてからルシフは遊び呆けていた。剣狼隊指揮官の職務は毎日二、三時間ほどで、それ以外の時間は書物を読んだり、暇な相手を見つけては食事を共にしたりしていた。女に関しては、毎日別の女を抱いているようだった。一日一人というわけでもないらしい。一日四、五人抱くのもざらのようだ。
ルシフが女と話し、寝室に連れていくのを念威で見る度に、マイの中でどす黒いものが湧き上がった。その先を見たことはない。バレるだろうし、自分以外の女を抱いて快楽を貪っているルシフも見たくなかった。
マリアがどう思っているのか、気になった。子を産んだのに、他の女ばかり抱かれることをどう感じているのか。知ればどこか親近感のようなものが湧くかもしれない。
マイはマリアの部屋の呼び鈴を鳴らした。
「はい?」
扉が開く。長くきれいな黒髪を流しながら、マリアが顔を出した。女の目から見ても嫉妬するような美貌だった。その美貌に強い意志のようなものが宿っている。男が声を掛けにくいタイプの美人という感じがした。
「マイ・キリーです。少しあなたとお話がしたくて来ました。お時間ありますか?」
時間があるのは知っている。マリアがどこで働き、いつ休みなのかは調べてあった。マリアは今日、休養日なのだ。
「ああ、ルシフさまといつも一緒におられる女の子ですね。中にどうぞ。散らかっているので見られるのはお恥ずかしいですが、立ち話よりは良いかと思います」
マリアに案内され、マイはマリアの部屋に入った。
散らかっていると言っていたが、部屋の中はきれいに片付けてある。家具はどれも安っぽいものばかりで、最低限しか置いてない。アシェナ家の豪邸に住んでいた自分から見たら、物置小屋のような印象を受けた。マイはマリアの収入も知っている。もっと贅沢に暮らしても十分やっていける筈だ。
部屋の奥にいくと、寝室が見えた。普通のベッドと柵に囲まれた小さなベッドが置かれている。小さなベッドだけは、お金がかかった良いベッドだった。
リビングにある椅子に座るよう促され、マイは椅子に座った。
マリアがキッチンからお盆を持って出てくる。テーブルにお茶が入ったコップ二つと、クッキーが盛られた皿が置かれた。
「遠慮なさらず、どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます。いただきます」
マイはクッキーを右手でつまみ、食べる。甘い味が口の中に広がった。甘いものは好きなので、自然と表情が緩んだ。
「おいしいクッキーですね」
「お口にあったようで何よりです」
それからマリアと他愛ない雑談をした。
マリアは孤児で、孤児院は個人経営だったためとても貧乏だった。そこをルシフが援助してくれたお陰で、人並みの生き方ができるようになったという。だからルシフにはとても感謝していて、自分にできることならなんでもしたいと考えているようだ。
それらのこともマイは事前に調べあげていた。ルシフが孤児院に援助したのも、記憶にしっかり残っている。知らなかったのは、ルシフに感謝していてどんなことでも力になりたいと考えていることだけだった。
自分と境遇がどこか似ている、というのも話をしてみたいと思った理由の一つだった。
念威をさりげなく強める。髪が蒼い燐光を放ち始めた。マリアの目にその光は見えないようで、無反応だった。
念威がリビング全体に拡がり、寝室まで及ぶ。小さいベッドで気持ち良さそうに寝ている赤ン坊が見える。赤みがかった黒髪が僅かに生えていた。間違いなく、ルシフの遺伝子が受け継がれている。ルシフの遺伝子を受け継いでいるのに、好感は全く感じない。むしろ忌々しくて見るに耐えない存在だった。
「あそこに寝ている赤ちゃんの、父親は誰ですか?」
「とても素晴らしい方です」
「ルシフさまですね?」
「違います」
「ルシフさまでしょう?」
「ルシフさまが私のような者の相手をされる筈がありません」
マリアはルシフが父親だと絶対に認めないようだ。多分そういう約束で、子を宿したのだろう。
マイはため息をついた。
「分かりました。もう訊きません」
「助かります」
マイは間を取るように、コップを手に取ってお茶を飲んだ。少し苦いが、甘いクッキーには合う。マイはクッキーを口に放り込む。
「ルシフさまのことは好きですか?」
「はい、大好きです」
「でも、ルシフさまは様々な女性のところに行きます。自分以外の女性ばかり相手にして、つらくないですか?」
自分はつらい。そういうところを見る度、胸が張り裂けそうな気持ちになる。
マリアは微笑んだ。
「つらくありませんよ」
マイは驚いた。自分と同じ境遇からルシフを好きになったのなら、ルシフが他の女といて平気な筈がない。
「何故です?」
「ルシフさまは鳥なんですよ。大空に雄々しく羽ばたく鳥です。でも、鳥もずっと飛んではいられません。止まり木で休む必要があります」
「その話が今の話となんの関係があるんですか?」
「鳥はたまたま目にとまった止まり木で休むものです。私は止まり木の一つであればいいと思っています」
マリアは様々な女性のところに行くのがルシフだと受け入れ、その上でたまに構ってくれればいいと考えているのか。自分以外の女の相手ばかりするのも、ルシフだから仕方ないで負の感情を相殺しているのか。
マイはマリアに嫌悪感のようなものを感じた。親近感が湧く? とんでもない勘違いだった。親子揃って腹立たしい。
ルシフが一人の女にとらわれない。だからなんだ。だから他の女と仲良くしていても何も感じないとでもいうのか。そんなものは負け犬の考え方ではないか。
「私はそう思いません。自分以外の他に止まり木があるから他の止まり木で休むというなら、自分以外の止まり木全てへし折ってやります」
止まり木が一つしかなければ、嫌でもそこで休むしかない。
マイは別にそれが悪いことだと思わなかった。ルシフのそばで生きるのは自分の存在価値なのだ。ルシフのそばで生きられないなら、自分は死んだも同然である。つまり、ルシフを誘惑する女は自分を殺しにきているのであり、殺しにきた奴を逆に殺してやろうと考えているだけなのだ。罪悪感など、生まれる筈もなかった。
「マイさま。私はルシフさま以外の殿方を好きになったことはありません。ですが、普通の殿方と暮らす一生よりも、ルシフさまと過ごすひとときの方がずっと充実していると思うのです。すでに私は至福の時間を過ごしました。たとえルシフさまとの時間がもう無かったとしても、不満はありません」
マリアの言葉を聞くと、マイはくすくす笑った。
マリアは首を傾げ、不思議そうにマイを見つめている。そういう仕草もどこか男の心をくすぐるような色気があり、マイは無性にこの顔を傷付けたくなった。
「嘘つき。ルシフさまが訪ねるのを期待しているくせに」
「それは……」
「もう訊きたいことは聞けました。そろそろ帰りますね」
これ以上ここにいたら、本当にマリアを傷付けてしまうかもしれない。顔に大きくバツ印を刻み、両耳を削ぎ落として、両目を潰す。そういう妄想をするだけで、胸がすっとした気持ちになる。しかし、そんなことをしたらルシフに嫌われてしまい、念威ですら他の人間を頼るようになるだろう。
マリアはもしかしたら自分が理想としている女かもしれない。好きな男にすべて捧げ、見返りを求めない。力になれることが幸せ。だが、理想の自分である筈なのに、そんな生き方はバカバカしいと思っている自分がいる。自分のすべてを捧げるのだ。それなのに報われないのは、あまりに苦しく、悲しい。そんな生き方は嫌だ。
「マイさま、今日は話せて良かったです。またお暇でしたらいつでもいらしてください」
「ありがとうございます」
二度とこない。
心の内でそう呟き、マイはマリアの部屋から出ていった。
マイは今、ルシフの豪邸に住んでいなかった。ルシフから与えられた、一階建ての小さな一軒家に住んでいる。
ルシフは最初、庭がある豪華な屋敷を与えようとした。使用人も雇おうとしたくらいだ。しかし、マイは一番安い家で結構ですと言い、使用人もいらないとも言った。ルシフはマイの意思を尊重した。
「……ただいま」
家の扉を開けて家に入っても誰もいない。虚しく自分の声が響くだけだった。
錬金鋼を左手に持ったまま、リビングの床に座りこんだ。マイの両目から涙が溢れて止まらない。やがて声もあげてマイは泣いた。
ルシフはイアハイムに帰ってきてから変わってしまっていた。自分がツェルニに行く前もルシフはよく他の女といたが、自分を邪険にしなかった。他の女といるのに腹が立ったが、二人で過ごす時間はちゃんとあった。その時間があったから、自分はルシフの女好きを赦せていた。ツェルニにいた時も一年間は独りだったが、こんな風に悲しくなることは一度も無かった。ルシフが必ず来てくれると信じられたからだ。ツェルニでルシフと過ごした日々は、宝石のようにキラキラ輝いていた。ツェルニでは、ルシフの女好きが抑えられていたからだ。久しぶりにルシフと二人きりで過ごす時間をたくさん取れた。
しかし、今は屋敷を追い出され、剣狼隊の念威操者のまとめ役として、仕事する部屋も別々。ルシフと二人で過ごす時間は全く無くなったのだ。
胸が苦しい。ルシフといる時間はとても甘い。その甘さの虜になっている。だから、こんなにも苦しい。他の女がその甘さを享受しているのが、憎くてたまらない。
自分の価値は、念威だけだったのか。念威の力だけあればいいのか。ルシフにとって、それ以外に価値のあるものはないのか。
『わたしは、ずっとそばにいていいの? 迷惑じゃない?』
『──ああ、迷惑なものか』
過去の記憶がよみがえる。
それはとても甘い約束。あの時、自分は人間になれたと思った。
──そばにいろって言ったのはルシフさまなのに……。
なのに、この仕打ちはひどい。ひどすぎる。
マイは涙が枯れるまで泣き続けた。
マイの顔には涙の跡がくっきりと残っている。生気のない顔でただ正面を見ていた。いや、正面を見ているが何も見ていない。
この先、ずっと毎日自分はこの苦しみを耐えなければならないのか。
ルシフに言いたいことはたくさんある。ずっと私のそばにいて。他の女を構わないで。ずっと私だけを見て。私を抱いて。私を離さないで。私の恋人になって。
ずっと心の内に溜めに溜めてきた言葉。しかし、それを口にした時、ルシフから否定されるのが怖くてたまらない。否定されて今の関係が壊れるくらいなら、ずっとこのままでいいと思っていた。
──もう、なんか疲れちゃったな。
マイはキッチンに行き、包丁を手に取った。
何もない世界にいこう。苦しみも悲しみもない、真っ白な世界にいこう。
「……ルシフのばか。女たらし。鈍感」
私の声なき叫びに気付いてほしいのに、全然気付かない。もういい。こっちから別れてやる。そして、一生癒えない心の傷を負えばいい。ずっとずっとずっと、女と会う度に私を思い出せ。ずっと、私の存在がルシフの中に残りますように。ルシフの中で生き続けますように。
包丁を左手首に当て、深く切った。鮮血がどくどくと手首から流れてくる。気分が悪くなり、床に倒れた。視界が白くなっていく。やっぱり真っ白な世界にいくんだ。
枯れたと思っていた涙が溢れてくる。イヤだ。死にたくない。もっともっとルシフといたい。
「……まだ生きたいよ、ルシフさま……」
錬金鋼を持つ左手にぎゅっと力を入れる。視界が真っ白に染まった。
◆ ◆ ◆
目を開けたら、真っ白な世界が広がっていた。
なんだ。死後の世界はあるとよく聞くけど、やっぱり何もないんじゃないか。
そこでズキリと左手首に痛みが走った。
戸惑いつつ左手首の方に顔を向けると、布団が自分に掛けられているのに気付いた。周囲を見渡す。ルシフ、レオナルト、ヴォルゼー、ニーナ、リーリンがいた。真っ白だったのは天井の色だった。
「気がついたか」
ルシフがそばにある椅子に腰かけている。本を閉じて、マイを見た。近くの机には本が積み上げてある。
どうやら病室に寝かされているようだった。ということは、自分は助かったのか。
「ちょっとアレ取ってくる」
ヴォルゼーはそう言って、部屋から出ていった。
「全く! 心配したんだぞ! これに懲りたら、包丁を扱う際は十分気を付けて使うように。でも、死ななくて良かった」
「……心配かけてごめんなさい」
マイが寝ているベッドに近付いて怒った後、ニーナは笑顔になる。その笑顔を、マイは直視できなかった。視線をニーナから逸らす。
自分は包丁を使う時にヘマをして、たまたま切ったところが悪くて倒れた。自分が倒れた理由はそうなっているようだ。
それから数分後にヴォルゼーが部屋に戻ってきた。両手で皿を持っている。皿には生クリームでデコレーションされ様々なフルーツがのっているケーキとフォークが置かれていた。
ヴォルゼーがマイに皿を差し出す。
「病院の冷蔵庫借りさせてもらったの。どうぞ好きなだけ食べて」
マイが皿を両手で取り、フォークでケーキを切って口に運んだ。口いっぱいに生クリームの甘さとフルーツの甘酸っぱさが広がる。
「おいしい?」
ヴォルゼーの言葉に、マイは無言で頷いた。実際、とてもおいしいケーキだった。かなりの値段だっただろう。夢中になってマイはフォークでケーキを食べた。
「マイ、生きてて良かったでしょ」
マイはハッとした。死んでいたら、こんなにもおいしいものを食べられなかったのだ。
涙を堪える。ヴォルゼーに泣かされてたまるか、と思った。
ヴォルゼーはマイの顔を覗き込むと、笑みを浮かべた。
「ヴォルゼーたちはもう行くわ。他のみんなにマイは無事だって知らせないとね。レオナルト、ニーナ、リーリン、行くわよ」
三人は頷き、ヴォルゼーが部屋を出たのに続いて部屋から出ていった。
自分なんかの心配をしてくれる人が、剣狼隊にもいるのか。そう思うと、どこか不思議な気持ちになった。剣狼隊の武芸者は全員嫌いだが、嫌な気分ではない。
ルシフと、二人きりになった。数日ぶりである。
ルシフは椅子に座ったまま、少しかがんだような姿勢になっている。
「本当に心配したぞ。アントークも言っていたが、包丁を握る時は気を抜くな」
「……はい。ごめんなさい」
「……ちゃんと分かっているのか? 顔がにやけてるぞ」
「え?」
マイは皿を机に置いて、自分の顔を触った。気持ちが表情に出ていたのか。
「もうこんな失敗はするなよ」
「はい」
それから会話は無かった。ルシフは積み上げてある本を黙々と読んでいた。おそらく自分が寝ている間に買ってきた本だろう。ルシフは面白そうな本を書店で大量に購入する時がたまにある。
そんなルシフを寝ながらずっと見ていた。幸せだった。会話は無くても、空気があたたかいのである。こんな何気ない時間が、自分の心に彩りと安らぎを与えるのだ。ここ数日の不満も全部吹っ飛んだ。
やがて日も暮れ、外も暗くなった。
ルシフは大量の本を化練剄で頭上に浮かし、立ち上がる。
「明日には退院できるだろう。それまで安静にしていろ」
「はい」
「退院したら付き合ってほしいところがある」
「どこです?」
「父の墓参りだ」
「分かりました」
「じゃあ、俺は帰る。明日、また来る」
「はい」
ルシフは部屋を去っていった。
マイは上半身を起こす。
「アハハ、アハハハハ」
声を出して笑った。
──なんだ。簡単なことだったんだ。
思い返せば、自分が死の危機に
最初から、答えは目の前にあったのである。自分が傷を負えば、ルシフは自分の心配をしてくれる。自分を見てくれる。
ルシフと二人きりの時間が欲しければ、血を流せば良かったのである。血なんてものは、致死量を失わなければいい。すぐにまた回復する。切る時の痛みも、ルシフに会えると思えば快感に変わるだろう。
まるで世界がこうなる前に存在していたとされる、黒魔術のようだ。血を捧げ、悪魔を召喚する。周囲から悪魔と呼ばれるルシフらしいといえば、ルシフらしい。
──なんだ。簡単なことだったんだ。
マイは笑い続けた。頬が濡れている。自分は今とても幸せで満たされているのに、涙が何故流れるのか。これが嬉し涙なんだ、とマイは自分に言い聞かせた。
これからは毎週土曜日(もしくは日曜日)投稿を目標に頑張って執筆したいと思います。