グレンダン王宮の空中庭園に、一人の少女が仏頂面で立っていた。
少女の名前はクラリーベル・ロンスマイア。グレンダン三王家の一つ、ロンスマイア家の血をひき、天剣授受者ティグリス・ノイエラン・ロンスマイアの孫でもある。
少年らしい服装を好み、今も剣帯を下げた短ズボンをはいている。しかし、顔と身体は誰が見ても女であり、顔に関しては美しいといっていいほど整った顔立ちをしていた。長くて癖のない黒髪をポニーテールのように後ろで結んでいる。少女の髪は奇妙なところがあり、黒髪の中の一部分だけ白い。何故かは分からないが、生まれた時からそうだった。
少女は剣帯から
少し前、とてつもなく巨大な剄がグレンダンを駆け抜けた。天剣授受者や女王と違う、感じたことのない剄の波動。
この剄の持ち主がルシフ・ディ・アシェナか、とクラリーベルは確信した。女王が要注意人物として警戒していると、祖父のティグリスから事前にルシフのことは聞かされていた。だから、すぐに結びついた。
しかし、その思考は次に感じた剄にたちまち吹き飛ばされた。クラリーベルがよく知る剄。レイフォン・アルセイフの剄。
レイフォンがあの都市にいるのか、とクラリーベルはその場で跳び跳ねたい気持ちになった。
クラリーベルはレイフォンを倒すことを一つの目標にしている。レイフォンだけが同年代で天剣に手が届いたからだ。つまり、レイフォンを倒せる実力があれば、天剣に相応しい実力がある、ということになる。本当はそれ以外にもレイフォンを意識しているところはあるが、その感情もレイフォンに自分の実力を見てもらいたいという感情に変化し、レイフォンと闘いたい欲求ばかりが高まっている。
しかし、彼女に下されている命は王宮警備。王宮から離れてレイフォンと闘いに行くことは命に外れる。
「暇です。暇すぎます。そもそも、グレンダンの王宮まで相手の武芸者が到達できるわけないじゃありませんか。ここに到達するまで何人の武芸者が配置されてると思ってるんですかね。いえ、陛下のことですから、何人配置されてるか気にもしていないかもしれません。絶対そうです。そうに決まってます。つまりわたしの配置は戦略的にも戦術的にも意味がなく、適当に配置されたことになります。そう考えれば、グレンダンのより確実な勝利のために、王宮警備を放棄し敵武芸者の殲滅に行くべきではないでしょうか。はい決まりました。今決まりました。わたしはグレンダンのために、己の身を
「おい止めろ。それっぽいこと言って自由行動しようとするんじゃない。後で面倒なことになっても知らんぞ」
黒髪を長く伸ばした端正な顔立ちをしている男が、移動しようと軽くかがんだクラリーベルに声をかけた。男は前からクラリーベルの近くにいた。
男の名はミンス・ユートノール。クラリーベルと同じ三王家の一人であり、過去にレイフォンから痛い目にあわされ、レイフォンの闇試合が発覚した時には民衆を煽動し、レイフォンの印象を悪くした犯人でもあった。
「グレンダンのために行動して何が悪いんです?」
「本当にグレンダンのためか?」
「はい。全ては
「……そう言えば何やっても許されると思うなよ」
「思ってませんよ。だから、罰を覚悟してるんじゃないですか」
デルボネから指示がきたのは、そんなやり取りをしている時だった。グレンダンに敵の武芸者が三人潜入し、王宮に近付いてきているらしい。指示の内容は『潜入した三人の武芸者を倒せ。生死は問わない』だった。
デルボネの念威端子が空中に敵の武芸者の座標を示したマップを投影。だいたい王宮まで後半分の距離といったところまで来ている。
「成る程。今までの相手よりは多少楽しめるようですね」
「おい。まさか王宮警備を放棄してそっちに行くんじゃないだろうな」
「陛下の指示です。陛下の意に従うのが武芸者の務めでしょう」
クラリーベルは地を蹴り、跳躍した。もう王宮ははるか後方にある。移動する瞬間ミンスの舌打ちの音が聞こえたが、別に何も思わなかった。
クラリーベルは建物の屋根を蹴り、どんどん加速していく。同じように移動している武芸者は多数いた。
誰もが退屈していた。例えるなら、近場で盛大なお祭りをしているのに参加できない気持ちだろうか。近場だから、当然お祭りの楽しそうな気配が漂ってくる。しかし、その空気を感じることしか許されていない。そんな中、敵の潜入を察知したのだ。誰もが祭りのおこぼれにあずかろうとした。敵の武芸者に殺到したのは、グレンダンの武芸者の性質上、至極当然の結果だった。
クラリーベルは三人の武芸者の前に降り立った。クラリーベルは知る由もないが、エリゴ、フェイルス、レオナルトの三人である。
三人とも、グレンダンの戦闘衣を着ている。これでは、すぐに潜入に気付かなかったのも無理はない。彼らが敵だと分かる証拠は、彼らの後ろで倒れている武芸者くらいしかない。彼らの通った道を示すように、武芸者が道に何人も倒れている。
エリゴたちはクラリーベルが眼前に立っても慌てなかった。クラリーベルが到着した後、彼らを囲むようにグレンダンの武芸者が次々現れても、彼らの表情に怯えはない。静かに剣帯から錬金鋼を取り、復元。彼らの手に各々の武器が握られる。棍、刀、弓。隠密行動は止め、戦闘体勢になった。グレンダンの武芸者に囲まれようとも戦意を失わず、闘おうとしているのだ。
──そうこなくては。
面白くない。三人の武芸者を片付けたらレイフォンのところに行こうと思っているが、その前のいいウォーミングアップくらいにはなりそうだ。
クラリーベルは手の中にある錬金鋼を復元。柄の部分にある四つの輪に指が通され、柄の外側に棘が打たれ、柄の反対側に刺突用の小さな刃がある刀。その武器はどんな時も攻撃するというクラリーベルの意思が凝縮されている。クラリーベルはこの武器を
クラリーベルがグレンダンのどの武芸者よりも早く、動く。一瞬でエリゴに接近し、横凪ぎに刃を振るった。刃の軌道は正確に首を捉えていた。生死は問わないと言われている。最初から、クラリーベルに生かして捕らえる選択肢はない。クラリーベルが求めているのは
刃がエリゴの首にくいこみ、斬り落とした。歯ごたえのない。そう思った。クラリーベルの全身に悪寒が走る。刃を振るった勢いを殺さず回転し、右に刃を振るった。響き渡る金属音。エリゴが死角から刀を振るってきていた。
クラリーベルは視界の端で今首を斬り落としたエリゴを見る。エリゴの身体は斬り落とされた首ともども消えていた。
質量を持った残像か。サヴァリスの千人衝と同じく、剄で生み出した分身を自分は斬らされた。
クラリーベルは後方に跳躍。クラリーベルの身体があった場所を棍が突いた。いつの間にかエリゴと挟むようにレオナルトがいた。
あと一人。弓。クラリーベルの視線がせわしなく動く。右斜め上。宙にいるフェイルス。剄矢がクラリーベルの右斜め上から迫ってくる。胡蝶炎翅剣を振るい、剄矢を弾きながら着地。
フェイルスは三角跳びの要領で建物の壁を蹴り、エリゴとレオナルトの後方に着地。
一連のやり取りを見て驚いたのは、囲んでいるグレンダンの武芸者だった。
グレンダンの武芸者はクラリーベルの実力が飛び抜けているのを理解しており、三人がかりだとしてもクラリーベルと闘えているのは相応の実力があることになる。
グレンダンの武芸者の剄が研ぎ澄まされ、殺気と混じって空気を震わせる。緊張がエリゴたちを支配していく。
ボーナスゲームだと浮かれるグレンダンの武芸者はもういない。潜入してきた三人を実力のある武芸者として認めた。グレンダンの武芸者は全力で闘うだろう。
「いいです……いい感じです」
クラリーベルは構えながら、声をあげて笑っていた。無邪気といってもいい曇りのない笑みが三人の武芸者に向けられている。
正直、あまり期待はしていなかった。レイフォンを倒す前の遊び程度の価値しか、彼ら三人から見出だしていなかった。
だが、僅かな油断が、一瞬の判断ミスが敗北に繋がる。それだけの実力を三人の武芸者それぞれが持っていた。
身体が熱っぽくなっていく。血が全身を駆け巡り熱くなっていく。高揚感が剄を暴れさせる。これから、命をかけた勝負が始まるのだ。クラリーベルはそう思った。
故に、この後のエリゴたちの行動は、クラリーベルと囲んだ武芸者の意表をつく行動だった。彼らはあろうことかクラリーベルに背を向け、王宮と反対方向に逃げ出したのだ。
逃げ出した先には当然グレンダンの武芸者が人一人通る隙間もなく、包囲している。しかし、その包囲を瞬く間に突破して、クラリーベルの視界からどんどん遠ざかっていく。
「いやいやいやいやいや……それはないでしょ。子どもの頃言われませんでした? 火をつけたら消えるまで責任持てって」
クラリーベルは下唇をなめた。
「わたしの心に火をつけたんですから、ちゃんと消えるまで付き合ってくださいよ!」
クラリーベルは楽しそうにエリゴたちを追いかけた。グレンダンの武芸者もクラリーベルに続いて一斉に移動した。
◆ ◆ ◆
クラリーベルが王宮から離れるところを隠れて見ていた者がいた。アストリットだ。
息を殺し、建物の陰からじっと王宮に目を向け、王宮から続々と武芸者が飛び出していくのを最後まで見届ける。
グレンダンの王宮警備の命を受けた武芸者は、クラリーベルを責任者としてみていた。クラリーベルが王宮警備の武芸者の中で誰よりも強く、家柄も三王家と申し分ないものだからだ。故に、クラリーベルに付いてゆくように王宮警備を放棄して、彼らも潜入した武芸者のところに移動を開始した。
王宮から武芸者が出ていく気配を感じなくなったら、アストリットは王宮に向けて動いた。当然、殺剄は使用している。
王宮警備をしている武芸者が誰一人いないわけではなかった。少数だが、ちらほらといる。しかし、アストリットにとってその人数は警備などしていないのと同じだった。
視線を掻い潜るように身を低くして王宮の壁に張り付き、開いている窓から王宮内部に侵入。
殺剄をしたまま広い廊下を駆ける。初めて来た場所なのに、アストリットの移動に戸惑いは一切ない。アストリットはルシフが描いた見取り図を完璧な形で頭に入れていた。当然目的地が分かっているうえで移動している。
途中にいる武芸者は素早く倒して意識を奪いながら、移動を続ける。アストリットはいくつも階段を下りた。都市旗のある王宮の頂上を目指さず、地下を目指して駆けた。
目的の部屋を見つけたアストリットは勢いよく扉を開ける。室内は病室のようだった。白く統一された壁やベッド。そして、アストリットの目的の人物がベッドで寝ていた。
アストリットが大きく目を見開く。彼女はベッドの人物を見て、衝撃を受けた。
ベッドに寝ているのは老婆だ。公園のベンチでのほほんと笑って座っているような、穏やかな雰囲気さえ纏っている。
アストリットは情報として、念威操者であり天剣授受者であるデルボネが、高齢でベッドに寝たきりだと知っていた。しかし彼女は、たとえベッドで寝たきりだったとしても、天剣授受者と呼ばれるに相応しい風格を持っているものだと思っていた。
『デルボネッ!』
デルボネのすぐ傍を飛んでいる蝶型の念威端子から、女の怒鳴り声が聞こえた。
「これは……わたしも老いましたかね。接近してくる武芸者に気付けなかったなんて……」
デルボネは顔をゆっくりとこちらに向けた。その表情に怯えや怒りはない。覚悟を決めた表情をしている。
アストリットの身体は震えていた。デルボネの覚悟に呑まれたわけではない。アストリットは弱者に攻撃するのが死ぬほど嫌だった。
「貴方は天剣授受者……貴方は天剣授受者……」
自身を洗脳するように、アストリットは何度も繰り返し呟いた。弱々しい老婆の姿をしているが強者なのだと、自身の意識に刷り込もうとした。
「……あら?」
デルボネはアストリットが震えているのに気付いた。
「あなたのような方にわたしを殺すよう指示を出すなんて、ルシフは陛下の言う通り、ひどい男のようですね。仕方ありません。あなたの背中を押してあげましょう」
アストリットは怪訝そうな表情になる。
アストリットの表情の変化を気にせず、デルボネは手にもつ杖を握りしめた。
「陛下。ごめんなさいね。わたしはここまでのようです。最期に、わたしを攻めてきた武芸者は一人──」
デルボネの念威端子への言葉は途中で止まった。
アストリットが叫びながら、デルボネの首を絞めて気を失わせたからだ。
ルシフからはデルボネが情報を口にする前に意識を奪えと言われていた。
アストリットは荒く息をつく。涙目になっていた。
「ごめんなさい、ルシフ様。敵に情報を与えてしまいました」
実際のところ、情報を与えたことでアルシェイラは余計に混乱したのだから、結果オーライである。ルシフが情報を与える前に意識を奪えと言ったのも、アストリットの性格を考慮していたが故の指示だった。デルボネが情報を話さない筈がない。絶対に襲撃者の情報を伝える。ルシフにはその確信があり、弱者を傷付けられないアストリットの一線を越えさせるのに利用した。ルシフからすれば、デルボネが情報を与えようが与えまいがどちらでもよかった。
──私のルシフ様への想いはまだまだ足りません。
そんなルシフの思惑も分からず、アストリットは自分を責めた。
アストリットはデルボネの手から杖を取る。意識を奪われているのに、なかなか手から離れなかった。天剣授受者としての矜持を感じた。
アストリットは左手に杖を持ちながら、病室を出る。
「貴様、デルボネ殿に何をした!」
病室の廊下に黒髪を伸ばした男が立っていた。ミンスである。
アストリットは問いに答えず、ミンスの背後に一瞬でまわる。
ミンスは錬金鋼を復元する間もなく、アストリットに杖で首を殴られた。ミンスは前のめりに倒れる。
アストリットは素早く錬金鋼を剣帯から抜き、復元。右手に拳銃が握られ、火を吹く。ミンスの右手に持っていた錬金鋼が剄弾ではじき飛ばされた。
ミンスが目を見開きアストリットを睨んだ。怯えの色が表情にある。
アストリットの持つ杖に蝶型の念威端子がどこからともなく集まり、杖から錬金鋼の形になった。
アストリットはミンスから目を離さず、剣帯に天剣を吊るす。
「天剣ヴォルフシュテインはどこにありますの? 教えてもらえます?」
「誰が貴様のようなヤツに──ああああああッ!」
ミンスの言葉は途中で叫び声に変わった。アストリットがミンスの右足を拳銃で撃ち抜いていた。ミンスの右足から血が流れた。
「もう一度訊きます。ヴォルフシュテインはどこ?」
「う……ううっ……あああああッ!」
今度はミンスの左足を撃ち抜いた。左足からも血が流れ、廊下を真紅に染め上げていく。
アストリットはミンスの右腕に拳銃を突きつける。
「ヴォ・ル・フ・シュ・テ・イ・ン・は?」
アストリットの表情は恍惚としていた。
アストリットの悪癖というべきか、アストリットは弱者を痛めつけるのは死ぬほど嫌だが、強者を痛めつけるのは快感を覚えるくらい大好きだった。ここでいう強者とはアストリットから見てではなく、一般的に見た強者である。つまり、武芸者や悪人を痛めつけるのが好きで好きでたまらなかった。武芸者や悪人を痛めつけられる自分は強い武芸者であり、都市の守護者としてより相応しいと確かめられるからだ。
「……謁見の間……謁見の間にッ!」
そんな感情をミンスは敏感に察知したのだろう。ミンスの表情の恐怖の色が濃くなり、ついに折れてヴォルフシュテインの保管場所を言ってしまった。ここで嘘を言えばよかったのだが、恐怖に支配されたミンスにそこまで頭は回らなかった。
アストリットの表情に残念そうな色が加わる。
「ご丁寧にありがとうございます」
ミンスの頭を拳銃のグリップで殴る。ミンスは意識を失い、真紅に染まった廊下に崩れ落ちた。
アストリットは拳銃を錬金鋼に戻して剣帯に吊るし、殺剄を使用して駆ける。謁見の間の場所は頭に入っていた。
アストリットの胸ポケットから六角形の念威端子が浮かび上がり、一度デルボネの病室の方に戻ってから、王宮の外を目指して飛んでいく。端子は病室に入っていった時と何も変わっていなかった。
おそらくグレンダン中で六角形の念威端子が浮かび上がっているだろう。王宮までの移動中に端子を何枚も町に置いてきた。潜入した他の人間もそうしている筈だ。
──念威と容姿しか取り柄のない女。ルシフ様もあんな女のどこがいいんですの。
何故マイが病室に端子を戻したか、アストリットはその理由に察しがついていた。
──ほんと、最低な女ですわ。
アストリットは不愉快そうに遠ざかっていく端子を一睨したが、すぐに移動を再開した。
◆ ◆ ◆
真っ暗な空間の中で、マイは目を閉じていた。杖を右手に持っているが、暗いせいで見えない。
剣狼隊専用の放浪バスの中である。赤い車体は布で隠されているため、中に人がいるなど思いもしないだろう。真っ暗なのも布で隠されている影響だった。
念威端子に念威は最低限しか使っていない。念威端子による念威妨害はルシフにやるなと言われていたので、念威を最低限にすることで端子の存在を隠した。念威を多く端子に注ぎ込めば、それだけ多くの情報を得ることができるが、敵に端子の位置をバレやすくなる。故に、今までルシフや潜入組が持っていた端子は通信機程度の性能しかない。しかし、デルボネの念威は端子越しにずっと感じていた。
──念威の拡がり方がすごい。
マイは戦慄していた。初めて、念威操者として一生勝てないと思った。ルシフが念威妨害をやるなと言ったのも、デルボネ相手に念威妨害をやったところで簡単に見破られ、逆にこちらの位置や考えを読まれる危険があったからだろう。
デルボネの念威がさっきまでとは明らかに形が変わり、端子を介して両都市を包み込むように拡がっていく。おそらくルシフがグレンダンに何か策を仕掛けたと考え、潜入者を見つけ出すよう指示をされたのだろう。
念威の量が圧倒的なのもそうだが、念威の制御も寸分の狂いなくできている。もしエリゴたちがデルボネの目を引き付けるよう、倒したグレンダンの武芸者を何人も道に転がしていなかったら、他の潜入者たちもすぐに見つかっていただろう。
マイは目を閉じ、端子に意識を集中させる。
デルボネの念威を端子越しに感じなくなった。デルボネから天剣を奪う役目はアストリットが与えられていた。
──あの性悪媚売り女も、たまには役に立ちます。
マイはアストリットが大嫌いだが、心の中で褒めた。
マイは念威を最大限開放させ、杖に念威を叩き込む。念威の青い光がマイの身体を包み込み、真っ暗な空間の中でマイの姿を浮かび上がらせた。美少女が青い光にライトアップされている光景は幻想的であり、神秘的ですらあった。
ツェルニに隠してあった端子にまず念威が通り、その端子を起点に次々に念威をツェルニに拡げていく。瞬く間に念威はグレンダンに隠していた端子まで到達し、グレンダン内の端子を念威で繋ぎ続ける。そして、グレンダンの王宮までマイの念威が食い込んだ。
アストリットの胸ポケットにあった端子を操り、浮かび上がらせる。予定ではすぐに王宮の外に端子を移動させ、グレンダンの念威操者の端子を奪っていくように決められていた。
しかし、マイは端子をデルボネの病室に移動させた。ベッドで気を失っている老婆が見える。老婆の首筋に端子をもっていく。
──殺さなきゃ。この人が心変わりしてルシフ様の力になったら、私はルシフ様の傍にいられなくなっちゃう。
一生勝てないと思った念威操者は、デルボネただ一人だけである。フェリは才能があれど努力が足りず、フェルマウスは才能も経験もあるが、追いつけないとは思わなかった。
全
世界最強の念威操者になれば、ルシフにもっと必要としてもらえる。褒めてもらえる。マイにとってルシフ以外の命など塵芥も同じであり、迷う必要などない。それに、デルボネを殺したら、その罪をアストリットになすりつけようとすら思っていた。
アストリットの証言とマイの証言。ルシフはどちらを信じ、どちらを庇い、どちらを切り捨てるか。
マイは自分を選んでくれると確信していた。約十年前から一緒に暮らし、更に優秀な念威操者なのだ。念威操者は特殊であり、武芸者と比べて圧倒的に数が少なかった。アストリットなどいくらでも代わりがいるが、自分の代わりなどいない。もし代わりがいたなら、どんな手を使っても排除する。
しかし、殺した後のことをそこまで考えていても、マイはデルボネを殺せなかった。
この闘いで一人も殺すな、とルシフから言われていたことが一番の理由だが、もう一つの理由として、そんな自分が嫌で嫌で仕方なかったというのもある。
マイは自分が大嫌いだ。醜く、きたなく、自分さえよければ他人なんてどうでもいい。そんな自分を変えたい。ルシフに相応しい女として、ほんの少しでもルシフに近付きたい。ここでデルボネを殺したら、ルシフが表面上は許しても、内心で醜い女だと軽蔑するんじゃないか。
そう考えたマイはデルボネを殺すのを断念し、予定通り端子を王宮の外に移動させた。
グレンダンの念威操者たちの端子が都市全体に散らばっている。
マイは端子をグレンダンの念威操者たちの端子に近付け、念威を相手の端子に同調させた。
どうすれば他人の念威端子を奪えるのか。マイは以前フェルマウスに端子を奪われた際、そのやり方を体験している。
──私より弱い念威操者は、全員私にひれ伏しなさい!
相手の念威に同調し、念威を通して自らの意思を相手に叩きつける。デルボネという精神的主柱を失い、命令系統をズタズタにされて茫然自失となっていたグレンダンの念威操者に、マイの意思をはね飛ばせる程の強い抵抗力を持てる筈もなく、グレンダンの念威端子は次々にマイに屈服した。最終的にはグレンダンにある全ての念威端子がマイの制御下におかれた。
これにより、グレンダンの武芸者は情報と通信を遮断され、逆にルシフ側はどんな情報も手に入り、通信もできる状況になっている。
ツェルニの念威操者はといえば、悲惨な現状になっていた。マイの念威端子が一枚そばを舞い、自分の邪魔かグレンダンの味方をすれば痛い目に遭わすと脅されていたからだ。フェリに至ってはマイの端子六枚に囲まれ、少しでも妙な動きをしたら半殺しにするとマイに言われていた。マイの後ろにはルシフがいるので、ツェルニの武芸者も助けられない。
故に、この闘いでツェルニの念威操者は傍観することしかできなくなっていた。
◆ ◆ ◆
念威端子が自分から離れた時、行動を開始した。
ポーチの中から容器を取り出し、容器の蓋を開ける。容器の中には液体が入っていた。酒である。しかし、ただの酒ではない。高アルコール度数の酒だ。
民家の中で、ディンは容器の液体を見つめていた。容器を持っている手は震えている。それは当然の反応といえた。これから恨みも無ければ関わりもない人間の家を焼くのだ。何も感じずにこれを実行できる方がおかしい。
しかし、ルシフなら平然と焼くだろう。教員五人もそれぞれ何かを思いつつ、実行するだろう。
『世界中を敵に回す覚悟、地獄に身を置く覚悟ができないなら、お前は必要ない』
ルシフの力になると決断した時、ルシフに言われた言葉が脳裏をかすめた。
あの言葉を、自分は受け入れた。ならば、やらなければならない。口先だけの覚悟ではなく、本当の意味で覚悟を決めなくてはならない。
容器に入っている酒を床に撒き散らした。マッチに火をつける。マッチの火がディンの顔を赤く照らしていた。
ダルシェナはまだ火をつけていないだろう。自分がやらなければ、ダルシェナも腹を括れない。
マッチを落とす。ディンはマッチが酒に火をつけるのも見ずに、玄関から外に飛び出した。
ディンは後方を振り返る。酒が燃えていた。火は家に燃え移り、どんどん火が大きくなっていく。間違いなく全て燃える。何もかも灰燼に帰す。
ディンは下唇をかんだ。ディンの持っている念威端子から空中に映像が展開される。グレンダンの全図であり、どこにグレンダンの武芸者がいるのか光点で表されていた。そして、逃走ルートらしき光の線がディンを起点に引かれている。ディンはただ光の線に従って移動すればいい。
──すまない。
ディンは光の線を横目で見ながら駆け出す。後方の家からは火と煙が出ていた。
念威端子が一枚離れた瞬間に、ダルシェナは外に飛び出していた。ディンがいるであろう方向から目を逸らさない。ダルシェナの手は震えていた。
煙が見える。ディンが火をつけた。
ダルシェナは慌ててポーチから容器を取り出すと、玄関に容器の中身をぶちまけ、マッチに火をつけた。マッチを持つ手は震えている。
しかし、ディンは決断し、ルシフとともにこの先を行くことを選んだ。ルシフは信用ならない。自分がディンに付いてルシフの毒牙から守る。ディンがルシフの性情に染まらないようにする。そのためには、自分もディン同様
マッチを手から放す直前、家族写真が頭によぎった。両親の間に娘が立っている写真。三人とも満面の笑みで幸せそうな写真。その空間を自分は今から破壊するのだ。
マッチが落ちる。ダルシェナは振り向き、玄関から飛び出した。ダルシェナの両目から涙が散っている。
後はディンと同じように端子の視覚的情報を頼りに走った。振り返る。煙がダルシェナを追いかけるように動いていた。まるで、自分を捕らえて犯した罪を裁こうとしているように見える。
ダルシェナは走る速度を上げた。涙が道しるべのように地面に吸い込まれていく。後方の火は家を覆って燃え盛っていた。
◆ ◆ ◆
アストリットは旗竿の隣に立っている。王宮の頂上部だが、内側に螺旋階段があり、旗竿のところまで苦もなく来れた。
天剣ヴォルフシュテインはすでに確保し、剣帯に吊るしてある。天剣は謁見の間に隠されていたわけではなく、透明な箱のようなものに入れて飾られていた。そのため、労せずして天剣を手に入れられた。
アストリットは旗竿を両手で掴み、台から抜く。
不安はある。自分は情報を伝える前にデルボネの意識を奪えなかった。ルシフの命令を忠実にこなせなかったのだ。旗をとっても、ルシフから怒られるかもしれない。旗を振っても、ルシフは見向きもしないかもしれない。
アストリットは視線を彷徨わせてルシフを探した。アストリットに限らず狙撃に長じた者は、内力系活剄で視力を強化するのに長けている。米粒程度の大きさであっても、一挙一動を見れた。
アストリットの視線が定まる。いた。無表情でツェルニの建物の屋上にいる。
「ルシフ様! 旗、取りました! 私、やりましたわ!」
声を出して不安を吹き飛ばし、アストリットは旗をルシフに向けて振った。
それを見たルシフの反応は、アストリットの予想外の反応だった。悪い意味で、ではない。良い意味で、である。
ルシフがアストリットに向けて右手の親指を立てたのだ。よくやったという声無き言葉が、アストリットに伝わった。
──ルシフ様が私を褒めてくださっていますわ! 無様な失敗をした私をお許しになられたうえに、私の働きを認めてくださっています! あの親指は私だけに向けられたサイン! 私だけに! 私だけに!! 私だけに!!!
アストリットは人に向けて親指を立てる行為が嫌いだった。品がないように感じるからだ。しかし、ルシフがやれば嫌いな行為ですらとてつもなく魅力的に見え、満足感と高揚感が全身を支配した。
アストリットはバサバサと勢いよく旗を振る。否! 旗を振っているのではない! これは旗を使った喜びの舞いだ!
感情のままに旗を振り続けていたアストリットはふと我にかえり、顔をほのかに赤くした。ルシフからは三十回旗を振ればいいと言われていたのに、五十回も振ってしまった。
幸いにして、グレンダンの武芸者から攻撃されなかった。それだけ旗を取られた衝撃が大きく、また攻撃した際に旗を壊してしまうのを怖れたからだろう。
アストリットは旗竿を台に再び立てた。
予定通り、剣帯から錬金鋼を抜いて復元。狙撃銃を構えた。右目でスコープを覗く。アストリットの右目とその周辺が剄の光を放ち始めた。
内力系活剄の変化、照星眼。
遠くの相手を鮮明に捉え、相手の弱点を確実に見抜く剄技。遠距離射撃をする武芸者は絶対に覚えなければならないとさえ言われる基本の剄技。
アストリットは照星眼でアルシェイラを見て、何も見えてこないことに内心驚愕していた。どこに撃てば確実に当たるか。そんなことすら見えない。
それでも、アストリットはアルシェイラの心臓に狙いを定めた。
たとえ命中率がゼロでも、ルシフからやれと言われたらやる。ルシフは無意味なことをやらせない。絶対何か意味がある。
そう信じて、アストリットは狙撃銃の引き金をひいた。