むずっ
ごろんごろんごろんごろんゴンッ!
「いっっっったぁぁぁあぁあ!?」
あの日、……比企谷に再会した日以来の胸にくすぶり続けていたモヤモヤを『恋』と呼ぶことにした、それ以来。私はあいつの家に行ってない。
いや今までの自分見てみろよくそださいジャージでメイクもろくにせずにひたすらごろ寝して干物っぷり全力アピールとか、いや、ほんとに、
「…………泣けてくる……」
よじよじとスマホをたぐりよせ、いまだ返信出来ていない比企谷からのメールを見る。
『何かあったのか』
お前のせいだし!と言ってやりたいところだが、なんかこいつ心配してくれてんのかなんて考えちゃったら、どう返信していいのか頭が真っ白になった。人生最大級に脳みそ回転させちゃってる気がする。これで知恵熱でも出たら、……看病してくれちゃったりして?
「ぐふふ……はっ!?!?」
ホント自分ダメじゃんとさらに自己嫌悪に陥る。いつの間にか、私が自覚しないあいだに恋の病は重症化していたようで。こらえきれないニヤニヤを誤魔化すようにごろごろごろと転がっていたら、また私は足を打った。
「痛い…………」
足も、自分も、痛々しい。
あの合コンの日以来気が進まず行くことがまちまちになっていた大学に私はいる。
いちおう講義を聞くものの、何を言っているのかさっぱりだ。2週間弱のブランクは伊達ではない。全く自慢にならないけどね。ノートを見せてもらう友人もいないし、諦めるしかないようだ。
私が今日大学に来たのは、はなから興味の無い講義を聞くためではない。
ある人に会うためである。
比企谷の家に行く時はぺたんこの気の抜けたサンダルだったため、ひさしぶりのヒールがしっくりこない。大学ってこんなに気を張る場所だったのだと改めて思った。
まぁ気を張ってないひともいるんだけど。
ゴンゴンと雑にノックする。そうでもしないとこの部屋の主はノックを聞いてない恐れがあるから。
経済学の若き教授、今川絵麻。親しくしていると言えばなんだかやらしく聞こえるけど、この大学において唯一気を使わずに話せる相手だ。それが、たまたま教授だったというだけ。
経済学に魅了された人で、その道では有名らしいがこの大学においては生活力のなさで有名な人物である。教授室は専門の本やら雑誌で溢れかえっており、整頓という言葉を知らない。運が悪いとドアを開けた瞬間にこちら側に書籍による雪崩が起きる。
やはりといえばやはりか、容貌にも無頓着だ。それでも人気があるのは本人の人徳ゆえか。……駄目人間だけど。
「入っていいぞー」
慎重にドアを開ける。なるほど、今日は大丈夫な日であったようだ。
「先生、久しぶり」
本当は教授と呼ぶのが正しいのであろうけれど、私は呼びにくいから先生と呼んでいる。彼女もそれを特に気にしたそぶりもない。
「三浦か。本当に久しぶりだな、そんなに私の講義は面白くないか?」
「だってあーし、経済興味無いし。先生の講義は、ちょっとだけ面白いけど」
「それは光栄なことだ。で、今日は何の用かな?」
メガネの奥の吊目が私を捉える。
やっぱりお見通しなようだ。学生と教授という関係だが、それ以前にこの先生は一対一の人間として向かい合ってくれる。伊達に三年間向き合い続けたわけではない。
「先生、もうあーしが三年生っていうこともわかってる。本当今更で馬鹿なことしてるのはわかってる。それでも……今からでも、なれっかな?幼稚園の先生ってやつに……」
「……そこに掛けなさい」
締まらないことに先生はわしゃわしゃと荷物をかき分け、重ねていた本を下ろし、ようやく椅子に座ることが出来た。
「そういうコトか。うん、お前も女だったんだな」
「先生に言われたくないし」
「いいんだよ、経済学が私の恋人だ」
化粧っけのないが、年齢にしては若々しく見える。きっとそれなりの格好をすればあっという間に相手が見つかりそうだ。もう経済学というオトコに売約済みではあるのだけれど。
「私はお前の決断を肯定するよ」
「……意外。止められると思った」
「人生これからがまだ長い。やり直しは効くものさ。しかし、わかってはいるだろうが……」
先生は言葉をつまらせる。
大学に入った当初から教育学部であった人間と、私は競争していかなくてはならない。周回遅れも甚だしい。どれだけ足が速くとも、どれだけ体力があろうとも、……どれだけ熱意があろうとも、ひっくり返せないモノが、そこにはある。
「……私もな、今の三浦と一緒だったよ」
なんとも意外な言葉がとびでる。ばっと先生を見上げると、困ったような顔をして笑っていた。
「どういうこと?」
「私の場合、結局経済学の道から外れることは無かったんだがな。一度だけ、違う道に進んでみたいと思ったことがある。結果は見ての通りだがね」
「そうなん……」
なるほど、先生みたいな人でもそういうことはあるらしい。
「きっとこのままでも、お前はうまく人生をやっていけるぞ?断言はできないが、私は少なくとも、今の自分に満足しているから」
けどな、と先生はそのまま続けた。
「私は勇気のない人間だ。きっと今の三浦と同じように夢を抱き、そして現実を目の前にして夢を捨てた。だから、お前のことを肯定するしか出来ないんだよ。お前を後押しするような言葉を、かけることは出来ない」
肩をすくめ、そのまま黙り込む先生。
あー、なんだ?この違和感。このひねくれた言葉を並べ立て、自分の真意を隠すような物言い。
「あ、そういうことか」
「なんだ?」
「先生、あーしの好きな人に似てるんだ」
納得納得とうむうむ頷いていると、先生はなんとも微妙な顔をしている。
あいつだったらきっと「は?訳分からん」とかなんとか言うんだろう。
「あーし、なんかね。やっとやっと、ぼやけてても未来の自分を思い描けた気がするんだ」
そうだ、けーちゃんと触れ合ったあの短い時間。あれだけで?って人には言われるかもしれない。けど、人間なんてそんなもんだ。食パンくわえて曲がり角でぶつかって、それが人生を左右する出会いかも知れない。私にとって、あの子との時間はつまりそういうものだった。
「やっと、変わっていけそうって思った。これ逃したら、あーし多分後悔する」
「後悔か。きっと、どちらの道を選んでも後悔はするぞ?あとくされのない選択なんてない」
「屁理屈いうなし。あーしはきっと大丈夫だから、……先生に、応援して欲しいよ」
私がそう言うと、先生はひどく驚いた顔だ。ぎゅうっと渋い顔をし、多分難しい理屈を並べているんだと思う。
「どちらも選ばないなんて、それは一番無責任なことだし。先生は勇気はなかったかもしんないけど、責任のある選択をした。そんで、あーしは今先生に出会えたから、それでいいっしょ?」
ふんっと言い切ってやる。
不意に隼人の言葉が思い浮かんだ。あぁ、でも、あれは彼なりの選択の仕方ではあったのだろうか。私はすっっっっっっっごく傷ついたけど。
けど、思い出すのが辛いことではなくなった。……かもしれない。
「どっちが先生かわからんな」
「やっぱあーし、向いてんじゃね?」
ひひひ、とわるーい顔で、きっと比企谷のがうつったんだ、そんな顔で笑う。先生も私につられたのか、くくくとなんだか男前に笑っていた。
「そうだな、経済学に取り憑かれた身からすると非常に辛いのだが、……がんばりなさい。また顔を見せに来るといいさ」
「単位はとらないと。卒業はするつもりだから。妙な経歴になるけどね」
「それもそうだな」
「んじゃあ、ありがとうね。先生」
「こちらこそ、と言うべきか。これから勉強漬けの毎日だな」
んぐうっ、とつつかれたくない真実に蛙みたいな声が出た。
けどまぁ、目標のある勉強とはよいものだ。今までそんなこと、したことがなかったから。
ばいばい、と手を振り、教授室を後にする。
バタン。
「ふぅ……」
「なんか色々言っちゃったけど」
まぁ、応援してもらいたい人に背中を押されたのだから。やるしかないのだ。
「あーしは、歩き出せるっぽいし」
とりあえずは、比企谷の家に行こう。
なんだか無性に会いたくなって、……うん、やっぱり、足が痛い。