今頃、オレンジペコは元気を取り戻せているのだろうか。
ローズヒップと別れたダージリンは、寮の自室でハーブティーを傾けながらぼんやりと窓の外の景色を見つめていた。
悪い言い方をすれば変わり映えのしない光景。
良い言い方をすればいつでも迎えてくれる日常。
そのどちらとも、少なからず感じながら。
ダージリンは夕日が沈んだ静かな迎夜の空気に瞳を向ける。
ローズヒップは上機嫌で帰っていった。
忙しなくデートに着ていく服やらなにやらあれこれ困っているようだったが、思えば以前に比べて随分気品が出てきたように思う。
テーブルマナーの欠片も知らず、ケーキなどあんぐりと口を開けて二回フォークを刺せば食べ終わってしまっていた彼女。
相変わらず場所を構わず駆けまわる癖は治っていないが、それでも紅茶を一気飲みしたり、食事中に大きな声で"美味いですわ!"なんて匙を振り回すようなこともなくなった。
そしてとうとう、初恋だ。
詳しく話を聞いた時は、様々なマナーを一生懸命教え続けてきて良かったと胸をなでおろしたものだ。"M&M"という店は確かにそこまで名を馳せているわけではないが、その提携している紅茶専門店となると話は別だ。
二百年以上続く交易企業の老舗にして、紅茶をはじめとした嗜好品を数多く扱っている由緒ある商会。その敷地内で、以前のようなローズヒップの身の振り方をしていればたたき出されてしまってもおかしくはないだろう。
なにより、初恋の相手にも一瞬で幻滅されていた可能性が高い。
初めてだというのなら敗れても仕方がないにせよ、一瞬で弾き飛ばされてしまうのはいくらなんでも可哀想だ。
それでも心配で根掘り葉掘り彼女の当時の行動を聞き出して、これといった粗相がないようでほっと一息吐いて。
ローズヒップから、普段からは考えられないような必死さで"もう一度しっかりとマナーを教えてください"と懇願されたのが数日前。
ダージリンとて、たいそう可愛がっている後輩の頼みだ。
無下にする理由もなく、戦車道の時と同様かそれ以上に厳しく教え込んだ。
如何なる時も優雅。それを体現する者として、徹底的に。
戦車道ならいざ知らず、マナーに関してローズヒップには素養がない。
だからこそ普段の数割増しにキツく言葉を浴びせる結果となってしまったが、それでもローズヒップは一生懸命だった。
その必死さにダージリンも何度も"もういいんじゃないか。今からだって、ご褒美と称して山積みのケーキを食べさせてあげてもいいんじゃないか"と思ったが、それでも耐えた。
だって、あんなに頑張っているのだから。
先輩として、隊長として、ローズヒップの為に出来ることを全てやって。
彼女はそれでも少し心細いからと、ダージリンを連れ立ってM&Mへやってきた。
そこで思わぬアクシデントが発生した時は、ダージリンも肝を冷やす思いだった。
オレンジペコが"日課"と称してやってきていた、彼女の居場所。
それがここであったことと、ローズヒップに訪れた初恋の相手がオレンジペコの想い人とブッキングしていたこと。
こんな偶然があるのかと額に手を当てて天井を仰ぎたい気分だったが、そこは"ダージリン"。聖グロリアーナ女学院戦車道の隊長として、そんな不安を後輩に気取られる訳にはいかない。
あれだけ一生懸命だったローズヒップにも頑張って欲しいという思いと、ずっと前から心を育んできたオレンジペコの邪魔をしたくないという思いがぶつかりあって、今日の心労は結構なものだった。
心が休まる時と言ったら、珍しい紅茶を飲めたあの一瞬くらいのものだろう。
オートクチュールなど、聖グロリアーナ女学院であってもそうポンポンと出てくるものではない。
しかし、不思議なこともあるものだ。
一口ハーブティーを飲んで、ほっと息を吐く。
ゆったりと腰かけた安楽椅子に背を預けて、あの紅茶の味を思い出す。
「"出会い"、ね。それはオレンジペコの知らなかった一面との出会いを示すものなのか、それとも他の意味があったのか。……それにしても、ちょっと疲れちゃったわ」
ダージリン・オートクチュール。意味は、一期一会。
人生に一度は飲みたい紅茶という意味でつけられたその紅茶は、やはり側面として花言葉のように意味合いを持っている。
あの青年がどんなこだわりで紅茶を出しているのかも知らない以上、掘り下げようとするのは無意味だ。もしかしたらオレンジペコから自分のことを聞いていて、下手な紅茶は出せないとただ良いものを出してきただけなのかもしれないのだし。
実際、オレンジペコはあの場所で普段どんな会話をしているのだろうか。
学校の日常が話題となるならば、勿論自分のことも話しているはずだ。
そうでなくともこの学園艦で少なからず名を馳せる身、話題の種には十分だろう。
オレンジペコは良い先輩だと言ってくれているだろうか。
優しいあの子のことだから、まさかアッサムに統計で殴られた話とかはしていないはずだ。
どんな話をしているのか、今度聞いてみるのも面白そうだ。
「……いえ、辞めておきましょう」
そこまで考えてかぶりを振る。
聞くとすれば、青年にだ。オレンジペコを随伴させられない以上、それは彼女を裏切ることにもなりかねない。ローズヒップに頼まれて付き合う時にでも、それとなく。
と、そこで聞こえるノックの音。
「ダージリン、いらっしゃいますか?」
「どうぞ」
あの独特のアルトボイスはアッサムのものだ。
紅茶をソーサーに戻して、客人が扉を開くのを待つ。
ほどなくしてやってきたアッサムは制服姿で、普段と大して変わらない佇まい。
しかしながら明確に違う点が一つだけあった。
「……どうしたの、そんな怖い顔をして」
「いえ、改めてローズヒップから色々な話を聞いていたのですが、少々……かなり気になる点がありまして。相談、というのでしょうか。話したいことがあってきました」
「……穏やかじゃないわね。座って。紅茶は――」
「――アッサムティーを」
「でしょうね」
彼女が自分の一番好きな紅茶を名前にしているのは知っている。
ローテーブルを挟んだ向かいのソファを勧めると、ダージリンは立ち上がって紅茶を準備に入る。慣れた所作は手間を感じさせず、給湯器の電子音が鳴った三分後にはアッサムの前にティーカップが置かれていた。
ゆっくりと紅茶を嚥下したアッサムは、一息ついてダージリンに目をやった。
その瞳は、入ってきて間もなくよりも随分と穏やかなものになっている。
「相変わらず、お上手ですね。オレンジペコもかなり上達しましたが、やはり」
「あの場に居て私が淹れる訳にもいかないでしょう?」
三年生同士、気心知れた仲だからか。
どこかお道化て遠慮がなく、少ない言葉でも意思疎通が図れる会話のキャッチボール。
しかしそれはただ口を滑らかにさせるための予定調和でしかなく、ダージリンは目を眇めてアッサムに問いかけた。
「ローズヒップに、なにか?」
「いえ、あの子に何かがあったわけではありません。むしろ……」
「むしろ?」
そこで言葉を切ったアッサム。ダージリンは目を閉じて殊更リラックスしたように柔らかな雰囲気を纏いながら、静かに彼女に言葉の続きを促した。
そんなダージリンを、アッサムはしばしぼんやりと見つめていて。
自分が言葉を切ったことも忘れたのかと、ダージリンが首を傾げてみせると。
「すみません。……時々、ダージリンが重なって見えるもので」
「ああ、そういえば言っていたわね」
言っていたし、聖グロリアーナ女学院にある資料を見れば一目瞭然だ。
なぜか皆本名を書かないプロフィール欄。そこには座右の銘や趣味、好きな食べ物や家族構成諸々、様々な個人情報が書かれている。
そして、アッサムの家族構成は父と母と、それから。
「そんなに似ているのかしら」
「見た目などは全く。ただ、なんというか、会話の間の取り方だったり言葉の促し方だったり……すみません。そして、話というのもそのことなんです」
「……あまり見えない話だけれど、私が今考えていることが当たっているとしたらとんでもない偶然よ?」
「……ええ、とんでもない偶然です」
思わず目を瞬かせる。
アッサムの顔に冗談の色はない。そもそも冗談なんてどうしようもない駄洒落くらいしか言わないアッサムのことだ。今日、ローズヒップの誘いを断って一人どこかに行ってしまっていたのは、もしかして何かを調べるためだったのかもしれない。
「イギリスの詩人の言葉は、いつだって私たちを驚かせるわね」
「……ドン・ジュアンですか」
「"事実は小説よりも奇なり"。まさしく、今実感しているわ。廃校を優勝で救ったみほさんたち以来の衝撃ね。それで、本当なの?」
「データによりますと、間違いなく。今はどこかの学園艦で小さなティーサロンを経営している、とだけ」
「そう……」
ぬるくなったハーブティーを一口。数奇な運命というのはあるものだ。
しかし、それにしても。今日出会ったばかりのあの青年は、普段のアッサムが言うような人物には到底見えなかったのだが。
「あまり悪い人には見えなかったわ」
「……分かっています。あのひとは、きっと善意で私のことを見捨てたのでしょうから。けれど、半端なやさしさほど残酷なものはありません。ローズヒップを明日出かけさせることも、正直反対したいのですが……」
「それはローズヒップが可哀想よ。それに、もう三年以上が経つのなら、きっと人は変わっているわ」
「……」
整理しきれない感情があるのだろう。
一年生の頃から口数の多くなかった彼女が抱えていた、家庭の問題。
まさかその中心人物が今になって、しかも全く別の形で現れるとはダージリンも予期していなかった。
これは少し面倒なことになりそうね。
この先のことを考えながら、ダージリンは残ったハーブティーを飲み干していた。