駆け戻ってきたローズヒップが花占いが成功したのどうのと一頻りの報告をし終えた辺りで、ダージリンは自らのコップの底で水たまりのようにうっすらと残っていた紅茶を飲み干した。
少量残してしばらく時間をおいてしまったからか、ぬるめを通り越して少々冷たくなっていたそれが喉を通り過ぎるのと同時に、コップで口元を隠しながらちらりと隣を一瞥する。
普段の一回りほど小さくなって俯いてしまっている、心なしか顔色もあまりよくない大事な後輩がそこに居た。
既に紅茶は空になっていて、きっと好物が乗っていたのであろう皿も綺麗に真っ白。
余った時間はきっと詩集と、彼との歓談に回そうと思っていたのかもしれない。
目の前で楽し気に明日のことを夢想するもう一人の後輩は、今日のところはやりたいことをし終えたようであるし、そう考えると彼女のやることは一つだった。
「そろそろ、行きましょうか。ローズヒップ」
「へ? 分かりましたでございますわ!」
鞄と上着を抱えて立ち上がると、一瞬面食らった様子のローズヒップも腰を浮かせた。
財布と伝票をローズヒップに手渡して会計をお願いすれば、彼女は妙に責任感を思わせる顔つきでそれらを受け取って出口近くの会計カウンターの方へと向かっていく。
そんな様子をほほえましく見守りながら、困惑したようにこちらを見上げるオレンジペコに視線を向けた。
「ダージリン様……?」
「あの子は今日したいことは十分できたと思うし、貴女のお邪魔をしちゃった部分もあるから、私たちは先に帰るわね」
「あ、いえ、そんな邪魔だなんて」
思ってない。
思ってないはず。
きっと思ってない。
だから首を振ってダージリンの言葉に答えるも、その動きは弱弱しい。
不意打ちがあまりにも多すぎたのだ。
ここを知るはずのないチームメイトがやってきたかと思えば、
"意中の相手"が自分と丸被りしていて、
そして自分よりも早く突然の"初デート"の約束を取り付けた。
自分が何も出来ないままに、嫌な方向へと次々転がっていく状況。
それがそのまま心労として折り重なって、いつの間にか身体から元気が消え失せていた。
ローズヒップはきっとオレンジペコの心境なんて知らないだろうし察することも出来ないだろう。無邪気の刃は何よりも心を深く抉って、精神的には瀕死状態だ。
「私が言えたことではないけれど、ゆっくりしていってね。そんな顔色で明日を迎えてはだめよ? "暗闇が訪れても、朝はやってくる。希望を捨てないで"」
「……ありがとうございます」
それじゃ、と立ち去っていくダージリンと、お先にですの~、と声を響かせてドアベルを鳴らすローズヒップ。
本当に、嵐のような出来事だった。
重々しい心の中の鉛を吐き出すように息をついてから、手元にあった詩集に目をやった。胸の中にあるのは、喪失感。なにを失ってしまったのだろうと一考して、すぐに答えは出た。
居場所と、平穏。
自分だけの場所ではなくなってしまった。ああした雰囲気だった以上、ローズヒップはここを頻繁に訪れるようになるだろう。そして、その度に否応なくオレンジペコは危機感を覚えるようになってしまう。それはもう条件反射のようなものだ。
ローズヒップは贔屓目無しに可愛らしい。
弾けるような笑顔というのはああいうのを言うのだろう。
そして積極的で元気もよく、自分にはないものを沢山持っている。
だから、沢山アプローチも出来るだろうし、いつ彼に告白しても不思議ではない。
あんな性格で居ながら、初デートの約束も取り付けていながら、告白には奥手などとは思えない。
考えれば考えるほど、思考が陰鬱な方向に進んでいく。
どうしてこうなってしまったのだろう。
もっと自分に彼女のような積極性があればよかったのだろうか。
客と店員の関係に甘んじていなければよかったのだろうか。
もっと距離を縮めることを、怖がらなければよかったのだろうか。
「私が悪かったのかな……」
誰にも聞かせられない独り言。
何か悪いことをしたつもりはない。けれど、いいことをしてもいない。
なら停滞が悪だったのか。そんなことを言われても、自分に出来ることはない。
楽しかった生活が唐突に終わりを告げそうで、心の中がかきむしられる。
なんでこうなってしまったんだろう。
もう、心の底から落ち着いてここで詩集を開くことが出来なくなるかもしれない。
そう思うと苦しくて、なんだか視界に靄がかかるようで。
「紅茶のお代わり、どう?」
「……へ?」
気づけば夕日を背に受けてポットを抱えた青年が、心配そうに自分を見下ろしていた。
「あ、いただけますか」
空のティーカップを回収した彼はトレイの上にあった新しいカップに紅茶を注いでいく。かぐわしい香りが湯気と一緒に踊るように周囲を舞う。
すん、と鼻に触れたのは大好きな紅茶の種類の一つ。なんだか落ち着けるその香りと、目の前で給仕する彼の姿。
ぼうっと見つめる光景は普段と何も変わらない。
けれど昨日までの穏やかな心の水面には、今は間違いなくさざ波が立ってしまっている。
もし。
もし、今日彼女たちさえ来なければ――
「甘いものを食べた後だし、せっかくだからとっておきのアフタヌーンティーを淹れてみたんだ。感想を聞かせてくれると嬉しいな」
こと、と白磁の陶器が手元に置かれたことで我に返る。
ぱちくりとその大きな瞳を瞬かせて、オレンジペコは薄目の色をした紅茶に手をつけた。
「もちろんです。……その、私で良ければ、ですけれど」
「むしろキミだからお願いしたいんだ。常連さんに良い店を目指しております、M&Mです」
一瞬とはいえ、自分のことを棚に上げて他人に矛先を向けるようなとんでもない思考に身をやつしていたことを思い出して背筋を冷や汗が伝った。
違う、だれも悪い人はいない。結果として自分にとってはよくないことになってしまったけれど、それを他人のせいにしていたらチームスポーツなどやっていられない。
水面に映る自分の表情はひどいものだった。唇は変に引き締まって震えていて、目元も悲し気に垂れ下がっている。悲壮感漂う、とはこのことを言うのかもしれない。
どうしてこんなことを考えてしまったのか。
その答えは一瞬で出るけれど、そんな感情が自分の中にあることに嫌悪が隠しきれない。
「美味しいです。とっても。ジャスミンと、柑橘ですか?」
「蜜柑だよ。フレーバーティーとしての試作品。なんだか顔色悪かったのもちょっと心配で」
「……あ、はは。色々あって」
色々。
それが何であるかは分からずとも、来店した時には朗らかだった彼女がこうなった切欠に心当たりがない訳ではない。
青年は窓の外を眺めながら、言いにくそうに口を開いた。
「話したくなければ、いいんだけど。なんかその、友達とこじれでもあった?」
後から二人で入ってきた少女たちが、オレンジペコと話してから先に二人だけで帰った。おまけに残った彼女は悲壮感漂う沈鬱な雰囲気を醸し出しているとなれば、青年でなくともいやな予感はする。
だからこその問いかけに、しかしオレンジペコが素直に答えられるはずもない。
貴方のことが好きだと言われてしまったので、貴方が取られてしまいそうで怖いです。
正直な気持ちは胸の内だけで、しかし沈黙する理由もなくて。
「あの、少しお話の相手になってくれますか」
このまま一人で詩集を読める気分でもない。
帰るのもよくない。せっかくダージリンが残してくれた言葉だ。きちんと折り合いをつけておきたい。枕を濡らすのは嫌だ。
だから、とオレンジペコは、今の表情を見られるのも構わずに顔を上げる。
息を呑んだのは青年だ。涙を含んだ瞳で見上げられては、すわ何事かと動揺してもおかしくはない。
こういう時に一番大切なのは雰囲気だ。
青年は大げさに笑みを作って、彼女に答えた。
「――いくらでも、俺に出来ることなら喜んで。お姫様」
「そういうのをやめてくださいって言ってるんです!」
「あ、はいごめんなさい」
泣き笑いのような表情で怒るオレンジペコに、青年はバツが悪そうに謝った。
そういえば女子高生にキモがられると言われていたのを思い出して。
珍しいことというのは集中して起きるものなのだなと、青年は一人妙な達観を胸に抱きながら自分の紅茶を淹れていた。
というのもオレンジペコが二人で話すのに自分だけ座って何かを飲んでいるのは落ち着かないから、と主張したからだ。
客も他に居ないこの現状。そして常連と二人きりの時などはたまに彼も同席することがあり、これといって遠慮する理由はない。
むしろ、彼女が話したいと言ったのは初めてで、加えて少々不穏な空気があることもあり、腰を据えて話せるというのならもはや乗る理由しかなかった。
「お待たせ」
「いえ、全然待ってないです。……あ」
「ん?」
「な、何でもないですから気にしないでください」
少し動揺したようにわたわたと手を振るオレンジペコ。
気付けば頬には少し色が戻ったようで、青年は悟られぬようにほっと一息。
彼女の対面に設置された白いアンティークの椅子に腰かけて、青年は自分のティーカップをテーブルにそっと置く。
視界の真正面、よりは少し下方にある小さな顔は改めて見るとやはり可愛らしい。
何度も常連たちに紹介しろと叫ばれた理由も分かるというものだ。
大人しい小動物のような雰囲気に、優し気に沿った秋波眉と丸い瞳。
柔らかそうな肌なのに、顎もとはきちんと角度がついていて整った顔立ち。
少しだけ上気した頬は童顔の中にあって小さな色っぽさを出していて。
「……あの、そんなに見られてしまうと、その」
「ああ、ごめん。こうして向き合ったのは初めてだったからちょっとね」
「いえ、大丈夫です」
紅茶を一口飲んでから、それで? と言葉を促した。
オレンジペコは頷いてから、小さくこぼすように口を開く。
「二人のこと、どう思いました?」
「ダージリンさんとはあんまり会話をしなかったから分からなかったかな。映像で見るよりも綺麗な人だなとは思ったけれど、それだけ。有名人をお見掛けしました、って感想が一番近いかも」
「そう、ですか」
おっしゃる通りだと思います、と頷く彼女の表情は、青年の言葉に同意をしているというよりも早く続きを聞きたいという風だった。
それで、とも、もう一人は、とも聞かない辺り、何かを怖がっているようにも見えて。
聞きたいのはローズヒップの方なのかと青年は当たりをつけた。
「ローズヒップさんは、この前会った時も思ったけど元気な人だなと。お嬢様言葉を使う人とは久々に話したから、新鮮というか懐かしいというか、そんな感じだったかな」
「……それだけ、ですか?」
「というと?」
「あ、いえ、可愛くって、いいなあとか……?」
眉をハの字にして、困ったような不安なような顔色のままオレンジペコは問いかける。
どうして疑問形なんだろうと思いつつ、青年は確かに、と頷いた。
「可愛らしい人だったね。なんか、会話してる俺も元気になってくるような活力ある人だったかな。テンションも高くて話しやすいし、あれは多分コミュニケーション力が物凄く高い人種だ。多少相手を振り回しても、みんな笑って許せるというか」
促されるままに、ローズヒップのことについて思い出したり思いついた点を並べていく。この前の雨の日にあったことや、今日カウンターで会話したこと。それらを一つ一つかいつまんで、印象に残ったことを指折り数えて。
「……ありがとう、ございます」
か細く、というのはこういうのを言うのだろう。
半ば青年の説明と被るようなタイミングで、オレンジペコは礼を述べた。
もういいのかと彼女に目をやれば、酷く落ち込んだ様子だ。
ふむ、と青年は顎に手をやる。
オレンジペコという少女とは、長くないにしろそこそこ会話をする仲だ。
今まで抱いていた印象としては、他人の悪口を聞いて喜ぶような陰湿なタイプではない。ローズヒップの悪印象を言っていれば彼女の機嫌がよくなったかといえば、きっとそんなことはないだろう。
ということは、もしかしたら。
ローズヒップと自分を比較して何か傷つくことでもあったのか。
しょんぼり、という言葉が似合う彼女の俯いた表情。
青年は紅茶を一口飲んで乾かないよう口内を湿らせ、同時に言葉の順序を脳内で組み立てる。せっかく自分に話を持ち掛けてきたのだから、少しでも元気にさせてあげたい。
そんな善意から、青年は諭すように言葉を紡ぐ。
「ローズヒップさんも可愛らしいし素敵な人だけど、俺はペコちゃんの魅力の方がいっぱい知ってるよ」
「へ……?」
「彼女とは二回しか会ったことはないけれど、キミとはもう何度も顔を合わせた仲だからさ。そりゃもう、いっぱい」
あの、と小さく声を漏らすオレンジペコの表情は、先ほどまでの落ち込んでいたそれとあまり変わらない。確かに、力無い励ましのように聞こえてしまっているかもしれないから、仕方のないことではある。
けれど勿論ここで止めるつもりはないし、彼女も催促することはないにしろ具体的な言葉を待っているはずだ。
「静かな陽の当たる場所で詩集を広げているところがとても似合う、めちゃめちゃいい子だと思う。何だろう、見ているだけで心が癒されるような魅力はキミだけのものだ。……困っちゃうかなと思って言わなかったけど、キミを紹介してくれって言う常連もとても多いんだよ。キミはこのティーサロンのアイドルなんだ」
「……やめてくださいってそういうの」
「真っ赤になって言うことじゃないな、照れてるじゃないか」
「照れてないです。引いてるんです」
「うぐっ。いや俺のボキャブラリーが貧困なだけでだな」
テーブルの下にしまい込まれた両腕がピンと張っていた。
スカートを握りしめた手を見つめながら、オレンジペコは一つ深呼吸。
先ほどまでの重々しいため息ではなく、身体の暑さを少しでも放出しようとする熱のこもったそれ。
「……その、アイドルっていうのは」
「かみ砕けと言われても、そこは本当にそういう意味で言ったわけだから代えの言葉は見当たらないというか」
「そうじゃなくて、えっと。貴方もそう思って……?」
くれてるんですか。とは聞けないけれど。
精一杯の疑問形は伝わったようで、青年は鼻の下をすりながら頷く。
「いや引かれるの前提で言うのは辛いんだけど、まあ、はい。俺がそう思ってます」
「……そですか」
目を合わせようとしないオレンジペコは、しかし暗い雰囲気を引きずってはいないようで。代償に自分がドン引きされるくらいなら甘んじて受け入れるかと、青年は開き直ることにした。
どうやら励ます方向としては正しかったようだし、きっとこれで彼女も元気で居られるだろうと。
青年としても、オレンジペコにはこれからもこの席で穏やかな笑みを浮かべながら詩集を捲っていて欲しいと思っていたから。
「……そういえば」
「ん?」
言いにくそうながらも、何かを思い出した様子でオレンジペコは問いかける。
「明日は、お出かけするとか」
「ああ、ローズヒップさんから聞いたのか。そうそう、買い物を手伝ってくれることになって。この前のお礼だって言うから、付き合って貰うことにしたんだ。わざわざ良いのにね」
「…………はぁ」
あまりに軽い返事を貰って、オレンジペコは安堵の息を吐き出した。
とはいえ、それが安堵のものなのかは当人にしか分からぬことで、青年は何か粗相をしたのかと困惑を隠せない。
「え、なにかまずかった?」
「あーいえ、別に貴方が悪いわけではないというか」
「ってことはローズヒップさん?」
「……そういえば、"ローズヒップさん"なんですね」
「いやペコちゃんと同い年だからってそんな親しげに呼ばないよ……」
オレンジペコは、そうですかと一つ頷いてから。
ローズヒップが悪いのかという問いに対して答えられない自分に気が付いた。
デート、などと言った彼女のせいで動揺したにしろ、男女で出かけるのがデートというのなら彼女は間違っていない。
結局は、自分の感情のせいなのだと分かってはいた。
いた、けれど。
「私は、ペコちゃん、ですもんね」
「オレンジペコちゃんっていうのもなんだし、"ペコちゃん"とかそんな感じで良いって言ったのもキミじゃないか」
「悪いなんて言ってませんけど」
「なんなの!?」
何のための確認だったかは分からないけれど、ただこの無駄な会話が楽しかった。
ようやく頬の筋肉が緩んできて、オレンジペコは小さく微笑む。
それが花のようだとティーサロンの常連から叫ばれている可愛らしい笑みであることを彼女は知らないが、青年は納得したように彼女の愛らしさに目を瞬かせる。
「なんでもないですよ。なんでも」
「オレンジペコさんとお呼びした方が?」
「代わりに王子様って呼んであげますね」
「ペコちゃんこれからもごひいきにな!」
「……ふふ」
ふとダージリンの今日の言葉を思い出して、思わず王子様と返してしまった。
彼はそんな柄ではなさそうだし、どちらかというと物語に出てくるなら靴職人辺りではないだろうか。
「あの」
「んー?」
紅茶を飲もうとした彼を、呼び止める。
せっかくなら、ローズヒップのような積極さで。
「良ければ今度、私ともお出かけしませんか?」
「社会人じゃないと手が届かない高いバッグでもあった?」
「怒っちゃいますよ?」
「ごめんなさい。……で、どこに?」
くだらない言葉の応酬にオレンジペコが少しむっとした表情を見せれば、彼はさらりと手のひらを返した。返したついでに落ちた余計なものに、オレンジペコはきょとんと彼の顔を見る。
「あっさりOKしてくれるんですね」
「あれ、ダメだった? もしかしてナンパ野郎を事前にチェックする診断的な」
「そんなんじゃないですけど。……ど、どこ行きましょう」
「えっ」
「いやあの、えっと。また連絡します……」
「お、おう」
どうしたんだろう、という彼の視線が痛い。
とはいえ、目的は達成された。お店のメールアドレスも電話番号も確保してあるオレンジペコに隙は無い。
明日はローズヒップに譲ってしまうけれど、でもきっとこれなら大丈夫。
精神的に落ち着いたオレンジペコは、青年の淹れたブレンドティーをゆっくりと飲み干した。
青年も同じように紅茶を飲み干す。
ずっと嫌な予感がしていたけれど、きっと彼に変な意図はないはずだ。
飲み干した紅茶が、ローズヒップであったとしても。
今日ちょっと書き過ぎて目標の投稿時間まであまり推敲時間がなかったので、この話は何かあったら公開後手直しなど加えるかもしれません。