その日は午後から雨だった。
まだ小雨であれば鞄を頭の上に掲げて駆ける程度で雨露を凌ぐことが出来たかもしれないが、あいにくと今日のそれはぽつぽつとコンクリートの地面を雨模様で彩っていくような可愛いものではなかった。
まさしく篠を突くような激しい大雨は町全体を雨音で覆い隠していて、視界すらままならない中を一人彼女は走っていた。
一生の不覚ですわ!
歯を食いしばりながら、勢いよく水たまりを踏んづけて彼女は駆ける。
知らなかったのだ。今日がこんな大降りの悪天候だなどと。
そしてクラスメイトや戦車道のチームメイトが足早に傘を抱えて帰る中、つい大事な巡航戦車の整備に時間を費やしてしまったのが運の尽きだった。
ニュースキャスターは昨日、再三に渡って大雨警報についての注意喚起を述べていた。
今日は雨が凄いらしいから早く帰ろうと、クラスメイトたちは談笑の中にそんな話題を交えていた。
彼女はたまたま昨日テレビを点けず、たまたま今日の休み時間はやり残した宿題に追われていた。
ずぶぬれになっていく身体は徐々に冷えていって、もう冬は過ぎたというのに荒い呼吸に白色が混ざっている気がする。自覚したと同時に襲いくる寒さは無視できるほどぬるくなく、彼女は散々の雨のなか屋根のある場所へと飛び込んだ。
「……へくち」
口元を隠しなさい、ローズヒップ。
敬愛する先輩の言葉が聞こえたような、聞こえなかったような。
ずぶぬれの鞄を地面に転がし、寒さに耐えるように両腕を抱え込んでいた彼女には、とっさのくしゃみに備えるだけの余裕すらもなかったのだった。
「……ここ、どこですの」
ふと、気づく。
雨で視界が酷かったのもあろう。よく分からない道に踏み込んでしまっていたようだ。
とっさに屋根下に飛び込んだのはいい。
けれど振り返ればその店にはシャッターが下りていて、目の前の細い通りには人っこ一人歩いていない。
大雨であるから仕方ないだろうという思いはありつつも、どこか閑散とした雰囲気の漂う一本道だった。
きょろきょろと回りを見渡してみると、明かりのついている家屋はところどころにある。イギリスの商店街を彷彿とさせる、一階を店として二階以上を住居にするような形。
階層の少ない雑居ビルのようなイメージの赤煉瓦が、この細道を埋め尽くしていた。
「マチルダIIはおろか、クルセイダーでも通れそうにありませんわね」
だからだろう、この道を彼女が知らなかったのは。
しかし、
「いい場所ですわ。こんな雨にさえ見舞われなければ」
雨が降らなければ終ぞ知らずに終わったかもしれない場所。
そう分かってはいても、釈然としない思いがあった。
燦々と降り注ぐ日光の下であれば、こんな通りを買い物でもして歩くのは休日の過ごし方として非常に素晴らしいものだろう。
だからこそ惜しい。
いつ上がるか分からない土砂降りの雨、それを生み出す鈍色の黒雲を睨みつけながら、彼女は小さくため息を吐いた。
その息すら白く染まっていることに気が付くと、また連鎖的に寒さを思い出してしまう。
雨雲が消え去る予兆はなく、むしろついにこの細道を川に変えてしまうほどの勢いだ。
先ほどまで目下にあった水たまりは消え去り、代わりにごく浅い水の流れが出来上がってしまっている。
ぐっしょりと水のしみこんだローファーが気持ち悪い。
冷え込んだ肩が寒い。
庇はこの店以外になく、どこへ行くにもまたぬれねずみになる必要がある。
今日は最悪の日だ。
何度目になるか分からない嘆息を漏らそうとした、その時だった。
ざーざーと打ち付けるテレビの砂嵐のような雨音に混じって、ばっしゃばっしゃと豪快な足音が聞こえてきたのは。
思わず、顔を上げてそちらに目をやった。
雨でべったり張り付いた赤い前髪を避けながら、自らがやってきた方とは反対側に目を凝らす。よくよく見れば、向こうから傘をさしてやってくる人影が見えていた。
「What the fuck!! なんだこれ全く、大雨警報どころの騒ぎじゃないだろうが。でかい傘を持ち歩きましょうっつーから言う通りにしたのに、こいつらお構いなしに顔面殴ってくるじゃんか。ブーツの中にまで入ってくるし、ズボンの裾は悲惨だし、あっ、くつぴた、くつぴたつめたひ」
やけにやかましい独り言。
誰もいない小道、大雨でかき消される音、やるせない思いの三重奏が合わさってしまったが故の悪態だろうが、この道にもう一人立っている少女にとっては丸聞こえだ。
言葉の通り大きな傘に、小脇にバゲットの刺さった茶色い紙袋を抱えてやってくる。
この大雨の中、ようやく見つけた通行人。
彼女は、酷く冷え切ってダウンしてしまった頭で低速の思考に沈んでいく。
傘の中に入れて貰えないか頼んでみようか。
流石にそれは変な人だ。しかしだからといって傘を借りる訳にもいかない。
家に戻ったら傘を貸してください、という方向か。それも無駄に彼に労力を割いてもらうことになってしまう。
うーん、と悩むも、寒さでぼんやりした頭は上手く回ってくれない。
そんなことをしているうち、みるみる影は近くなってきて。
日本人らしい塩顔の青年だ、と分かったくらいのところで彼もこちらに気が付いたようだった。
面食らったように目を丸くして、ついで気まずそうに目を逸らして。
それからようやく庇のところにまでやってきて、傘をばっさばっさと開閉して水気を飛ばす。その間の無言は少々痛くもあったけれど、極限状態の彼女にとっては些細なことだった。
ふと、青年がこちらを見る。
彼も彼女ほどではないにしろずぶぬれで、傘が何の役にも立たなかったことが窺える。
これは確かに"What the fuck"と叫んだのも頷ける。まさしく"なんだよこれ!"と言った具合の大雨だ。
髪の水滴を飛ばしながら、その茶色の瞳で彼女を見据えて。
問いかけるようにバリトンの声を漏らす。
「……雨宿りには心もとないでしょう」
心配しているようでもあり、呆れているようでもあり、そしてどこか、バツの悪そうな風でもあり。なんとも言えない感情の刻まれたその言葉に、彼女はつい目線を逸らして言葉を返した。
「あ、あー。それでも、屋根があるだけ嬉しいですわ」
「確かに、この騒がしい雨の中だ。これ以上居たら風邪じゃすまないでしょうね」
言いながら彼はごそごそとポケットをまさぐっているようだった。
わざわざ屋根の中に入ってきた彼も、人恋しくなった同士だろうか。
確かにこの雨は、傘がある程度ではもう凌げない。ようやく見つけた庇を借りて雨宿りするのは、何も彼女だけの特権ではない。
思いを巡らせながら、シャッターにかけられた傘を一瞥する。
一緒に入ってもいいですか。あとで借りてもいいですか。
様々な疑問が口の中でぐるぐる回っては胃のずっと下の方に戻っていく。
と、彼はぼうっとしている彼女との無言を切り裂くように口を開いた。
「ここ、俺の店なんですよ」
ぱちくり。彼女は目を瞬かせる。
彼が取り出したのは、鍵が幾つもついた金属の輪。
おそらくはシャッターの鍵を探している彼に、何か返事をしようとして、ふと留まる。
はあ。
そうですの。
屋根お借りしてますわ。
脳内に選択肢はあれど、どれもいまいちパッとしない。
声が出ないまま、ついぽろっとこぼれた言の葉は、自分が全く考えもしなかったものだった。
「奇遇、とはこういうことを言うのかもしれませんわね」
「その言葉は、俺も嫌いじゃないですね」
「えっ」
その小さな、言葉ともいえない驚きの感嘆符は誰に向けて出たものだったろうか。
妙なことを口走った自分かもしれないし、一瞬で合わせてきた目の前の彼かもしれない。
何れにせよ、震える指先を気にしなくなるほどには衝撃的だった。
先輩の影響だろうか。つい、抽象的な表現で何かを彩ろうとしてしまったのは。
けれどそれは目の前の彼には酷く簡単に受け入れられたようで。
これはガレージ、これは車だろ。これ玩具のカギだ。ええっと。
ポケットから出した金属の輪をかちゃかちゃやりながら、青年は目当てのものを見つけたようで、このどんよりした雨の中気持ち良い笑顔を見せた。
「誰の一生にも、偶然ってことがある。俺がこの雨の中買い出しに出かけて、この時間に戻ってきたこと。その間にやってきた初対面の貴女と、こうしてのんびり話せていること。両方の偶然が重なりあった奇遇。俺は、好きですよ」
だから、これも奇遇。鍵の中から目的のものを見つけた時の純粋な笑顔が、彼女の振った話題に対して答えている時に浮き出てきたことも。
不覚にも一瞬、呼吸が止まる。
思わず目線を逸らし顔を背け、ちらりと窺うように彼を盗み見れば。
軽い金属の重なる音を響かせながら、シャッター下の錠前に鍵を差し込んでいた。
「この土砂降りはまだまだ続きそうですし、いかがでしょうか。店内は温かいですし、紅茶で良ければお出ししますよ。それから、申し訳程度ですがバスタオルなども。本日はお休みをいただいていますので」
「さ、流石にそこまでされてしまうのは申し訳ありませんわ」
「そう言わずに。これでも店を背負っている身ですから、滅多なことはしませんし。……それに」
青年はしゃがみ込んだうえで、持っていた鍵を回して勢いよくシャッターを上げる。
"紅茶専門店 M&M"
木彫りの看板が堂々と現れ、木製の扉を彼は開く。
「俺の店の前で雨宿りをしていた人との"奇遇"ですから」
「あ、いえ、その」
こんな時、何と言っていいのか分からないけれど。
親切に簡単に乗るのも申し訳ない気がして口ごもる。
それを察してか彼は少々悪戯めいた笑みを浮かべてつづけた。
「ああそうそう。その代わりにといっては何ですが。先ほどの独り言は、誰にも言わないでおいてくださるとうれしいです」
「……ふふ」
土砂降りの雨の中、過剰なもてなしの雨宿り。その代償が一つの秘密。
ついおかしくなってしまって、彼女は笑った。
「分かりましたわ。貴方があんなスリーワードのスラングを叫んでいたことは、内緒にしておいてあげますわ」
「ありがとうございます。では、どうぞ」
笑顔で通された、静かで穏やかな店内。雨の騒音から隔絶されたここは、まるで別世界のようだった。
店の三方は、まるで客を囲むように多くの紅茶缶が棚に入って陳列されている。
銘柄を眺めている限り、相応以上の品を取り扱っているのが窺える。
こんな場所を知らなかったなんて、という思いと、この雨があったからこその奇遇だったのだという素敵な空想が合わさって、少々気分が高揚する。
「ひとまず、これがバスタオルです。身体が冷え切っていないと良いのですが」
「大丈夫でございますわ! 私、これでも体調管理は万全ですの!」
「それなら、良かった。二階のティーサロンで一杯振る舞いますよ」
「あ、ありがとうございます……ですわ」
青年に案内された、マホガニー製の階段を上った先。
そこは、テーブル席が六つほどの小さなサロンだった。
「ここは……」
「俺の店です。あまり繁盛しても仕方がないので、このくらいの席数で。味は保証しますよ」
穏やかに、しかし自信ありげに笑う彼。
バスタオルで濡れた髪を拭いながら、彼女は強気な微笑みを返した。
「私、お紅茶には少々うるさいんですのよ?」
聖グロリアーナ女学院戦車道受講者にとって、紅茶とはシンボルである。
であればこそ、当然熟達した味覚を持っていた。
一瞬目を丸くした彼は、彼女の服装を見て何かを察したように頷く。
おそらくは制服。タンクジャケットでないにしろ、聖グロリアーナの生徒というだけで想うところがあったのだろう。
しかしそれでも、彼は先ほどの笑みを崩さない。
「では、お好みをどうぞ。今日はケーキはありませんが」
その問いかけを聞いて、ふと彼女は指を唇に当てた。
そして。
「ハーブティーを、おすすめで」
「かしこまりました」
そう、大ざっぱな注文をした。
この雨の中、寒さもあったが心労も相当なものだった。
であればこそ、ハーブティーを。寒さを取るならジンジャーティーも悪くはないが、今はもっと違うものを欲していた。
もし、奇遇というものが重なるのなら。
その楽しみを、もう少し味わってみたかった。
通された近くのテーブルで待つこと数分。
ほんのりと漂ってきた香りに、彼女は目を丸くする。
これは、ひょっとして。
やってきた彼はトレイにカップとポットを載せて。
「大雨の中ですから、リラックスできて、やはり見た目にも温かいものがいいかと思いまして。それになんだか、せっかくお任せされたのですから貴女に合いそうなものを」
そっと目の前に添えられたカップに、紅がきらきらと注がれていく。
ぼんやり見つめる彼女の傍ら、サーバーとして品を説明しようと彼は口を開く。
しかし、もうなんだか我慢しきれなくなって、彼女は。
「ハイビスカスと――」
「ローズヒップのハーブティー、ですわね」
「おっとと。流石は紅茶の聖グロリアーナ。見た目と香りが主張すれば一瞬ですね」
「当然ですわ。……それに」
奇遇、というのは、大変悪くない。
彼は好きだと言っていた。自分も、好きになれそうだ。
「……聖グロリアーナ女学院戦車道では、認められた隊員に紅茶の名前がつけられるのですわ」
「ああ、そういえば。……ん、それを今言うというのは」
「ふふふっ」
あまりにも、楽しくて。
彼女は抑えきれない笑いと一緒に、カップに一口。
美味しかった。温かくて、ブレンドの配合も絶妙で。
ローズヒップを単体で飲むのも好きではあるが、この"二種類が混ざり合った調和"が今は大変に心地いい。
呆気に取られている彼も、おそらく見当がついているのだろう。
そして、それが正解。
胸に手を当てて、彼女は言う。
「せっかくですわ。自己紹介を。私、ローズヒップ、と呼ばれていますの」
「……ははっ。奇遇というのは、素晴らしいね」
凄いこともあるものだと。彼が笑うのに合わせて
どうしようもなく楽しくて、嬉しくて。こんなことは初めてだったから。
翌日、ローズヒップは当然のように風邪を引いた。
しかしその熱は、冷えた反動なのかそれとも……そのほかの理由によるものなのかは分からない。
数日を隔てた、M&Mのティーサロン。
彼の居ない場所で、その出来事を朗々と語るローズヒップの姿があった。
「素敵なお話ね。"人生は、出会いで決まる"。その在り方を実感したわ、ローズヒップ」
「当然でございますわ! おほほほほ!」
ハーブティーを片手に、心の底から楽しそうに笑うローズヒップ。
それに応えるのは、先輩であり戦車道の隊長でもあるダージリンだ。
こんな素敵なティーサロンで、美しい出会いがあったこと。それを思うと、ダージリンも自然と微笑みがこぼれる。
今のところただの吊橋効果のようなものではないかと思いはすれど、それを指摘するほど野暮ではないし、何より出会いの形としては憧れもある。
その先が恋人でも友人でも。
自分が頼んだ紅茶も、相応の品だ。まさかオートクチュールのダージリンティーがおいてあるとは。腕も一流とくれば、申し分ない。
そっとカップに口をつけ、先ほどから無言のもう一人の後輩に目を向ける。
普段であれば、『マルティン・ブーバーですね』と格言の元を付け加える彼女が、どこか落ち込んだように肩を落としている。
珍しいこともあったものだ。
また明日にでも詳しく話を聞いてみようと思いつつ、今は幸せそうなローズヒップの言葉に耳を傾けていた。
「どんな"奇遇"だって、言うんですか……」
傾けていたからこそ、隣の少女――オレンジペコの言葉が聞き取れなかった。
しかし、その落ち込みようからして。
なんだか妙に、ダージリンも嫌な予感が拭えない。
――まさか、ね。
もう一口紅茶を飲んで、心を落ち着ける。
これから自分も、どんな奇遇に巻き込まれていくのか知らずに。