Re:ゼロから始める運命石の扉 作:ウロボロス
翌日、屋敷に使者が帰って来た。ナツキ・スバルとの面会を申し込んだのだが、どうやらロズワール卿は渋ったらしい。ラインハルトの説得により受け入れられる事となったが、出発は三日目の朝となってしまった。これに岡部は何か引っ掛かる物があった。
最初のループの時、ロズワールは何故か面会を先送りにした。そのせいで岡部はスバルと会う事なくループしてしまったのだが、果たしてこれは偶然なのだろうか?いずれにせよ、警戒しなければならないと岡部は眉を顰めた。
「じゃぁ、行って来る」
「ああ。本当は僕も付いて行きたいんだけどね……僕はしなきゃいけない事があるから」
「フフ、この鳳凰院凶真に護衛など不要さ。心配するな、ワルプルギスの騎士よ」
門の前で竜車に乗り込みながら岡部はラインハルトに別れの言葉を送った。これが最期となる訳では無いが、今まで世話になった分、お礼を込めて言いたかったのだ。
ふと気がつくと屋敷の窓からフェルトが顔を覗かせていた。心配や、悲しみといった感情の表情は無く、ツーンとした目つきで岡部の事を見ている。岡部は苦笑しながら彼女にも手を振った。
竜車が出発し、岡部は初めての異世界の乗り物に緊張しながら風景を眺めていた。
幾つもの建物が横切って行き、時折同じ様な竜車も通り過ぎて行く。結構なスピードが出ているにも関わらず、不思議と車内に揺れは無かった。意外な心地よさに驚きを覚えつつ、これも何らかの魔法かと岡部は推測していた。
到着は夜頃になる、との使者からの言葉に岡部はそうか、とだけ答えて小さくため息を吐いた。
自分から願っての事ではあるが、流石にこの竜車の中で夜までずっと揺らされているというのは疲れを感じるものがある。こんな事なら話し相手でも乗っていてくれれば、と岡部は後悔した。
「仕方ないから考え事でもするか……」
眉間に寄った皺を指でほぐしながら岡部は思考の海の中に浸かる事にした。
得意の思索。自身が持つ知恵と特有の考え方をフルに活かし、岡部はこれからロズワール邸で行われるであろう出来事を予測する事にした。
まず一番に考えられる事は盗賊などの襲撃。異世界で言えばこれが定番だ。岡部が知る限りでは漫画やアニメでもそういったシチュエーションは多々ある。この世界がそれに適応されるのかどうかは分からないが、ひとまずはそう考える事とする。
だが盗賊の仕業と仮定しても納得がいかない点がある。
岡部はロズワール邸の事をラインハルトから聞く際、ロズワール卿の事も聞いていた。その話し振りではロズワールはかなりの凄腕の魔術師らしく、変人ではあるが実力は確からしい。
あのラインハルトがそう言うならば事実であろう。では、そんなラインハルトも一目置く存在であるロズワールが盗賊に遅れを取る事があるだろうか?
もちろん可能性は幾らだって考えられる。寝込みを襲われた。人質を取られた。盗賊がロズワール以上の実力を持っていた。それらの可能性があれば、不可能では無いだろう。
もしかしたらナツキ・スバルが先に殺されたせいで強制ループが行われたのかも知れない。その場合はスバルが完全にお荷物という事になるが。岡部はどうしたものかと表情を歪めながら額に手を置いた。
「やはりもっと情報が要るな……未来を予知する能力でもあれば良いんだが」
自分の瞳を隠すように手を動かし、妙なポーズを取りながら岡部はそう呟く。
既に時間跳躍を認識する能力を得ていながらも岡部はついそんな事を言ってしまった。それだけ切羽詰まっている状況であり、無い物ねだりをしてしまう訳だ。
「うぉぉぉぉ、目覚めよ俺の隠された能力〜……!」
突然自分の腕を抑えながら岡部は唸り始めた。
車内で突然暴れだした岡部に使者も驚いた表情をし、見なかったように視線を逸らした。
「……無駄か」
やはり、とでも言いたげに岡部は冷めた瞳になり、行動を止めた。
ふざけた訳では無いが、どん詰まりにこの状況をどうにかしたく、ついこんな事を口走ってしまったのだ。自分が苛ついている事に気がつき、岡部は誤摩化すように髪を掻いた。
冷静になった頭で岡部は再び思考する。
何故ナツキ・スバルが死ぬような事があったのか。要点をこの一つに絞る事にする。まずは死因を考える事にした。まだ成長期な彼が病で死ぬのは考えられない、此処が異世界と考えるならば呪いとかもあるのかも知れないが、それは知識が無いので考えないでおこう、と岡部は更に条件を絞った。
もしかしたら……ひょっとしたら外部の者では無くて内部の者の仕業だったとしたら?
どん詰まりだった岡部の頭に一周回って一つの答えが出来上がった。
ナツキ・スバルという異世界から来たイレギュラー的な存在。この世界の人間からすれば黒髪黒目と珍しい容姿と、奇妙な服を着た少年。喋る内容も異世界とのギャップがあり、不審に思われてしまったとしたら?彼を良からぬ存在と勘違いする事があれば?
自分とナツキ・スバルを会わせたく無かったから……だからロズワールは日にちを先延ばしにしたのだろうか?ナツキ・スバルを完璧に殺害する為に。
「いや……考え過ぎだな」
そこまで考えた所で岡部は目を瞑ってその仮説を振り払った。
いくら変人と呼ばれるロズワールでもそのような事をする訳が無い。ましてやナツキ・スバルはエミリアという少女の命を救った恩人。そのような恩を仇で返すような行いはしないはず。
考え方が物騒になっているな、と岡部は反省ながら頭を振るった。
異世界に来た事によって思考回路が少しズレてしまったのだ。ラインハルトという超人的な力を持つ人間の姿を目の当たりにし、殺人鬼という異質な存在を見てしまったせいで、考え方が突飛し過ぎるようになってしまったのだ。岡部はゆっくりと深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。――その時。
「ーーーッ!!?」
ガクン、と竜車が揺れた。今まで激しい揺れなど一つも起こさなかった竜車の突然の揺れ。
普通なら小石にぶつかったが、その程度の事だと考えるだろう。だがその次に聞こえて来た地竜の咆哮によって岡部のその安易な考えは振り払われた。
何が起こったのかを確認する為、扉を開けて外の様子を伺う。
「おい、何かあったのか!?」
扉を開けて岡部は再び驚愕する。先程まで居たはずの使者が居なくなっているのだ。手綱はそのままに、まるで姿だけ眩ましてしまったかのように消えている。地竜の綱は切られており、既に竜は遠くへと逃げ出していた。
何者かが綱を切り、使者の姿まで消してしまったのだ。すなわち敵襲。岡部は急に恐怖を感じると同時に、上空から凄まじい気配を感じた。
その直後に上空から突風が押し寄せて来た。竜車がガクンと揺れ、まるで潰されてしまうかのような力が加えられる。そしてその突風が向きを返ると、竜車をひっくり返して崖の方へと吹き飛ばした。
岡部が抵抗する暇も無く、竜車は地から離れて落下していく。そしてどんどん遠ざかって行く崖の上空で、岡部は一つの人影を見た。
「わーるいんだけど。“貴方”を彼に会わせる訳には行かなーいんだよね」
遠くで男の声が聞こえた気がした。しかし岡部はその言葉の真意を確かめる暇も無く、強烈な痛みと衝撃で意識を失った。
暗く、暗く、光りの無い色で世界が覆われている。岡部の意識はゆっくりと覚醒していき、真っ暗だった視界はゆっくりと光りを戻して行った。白黒だった世界に色が宿り、自分が森の中で倒れている事に岡部は気がついた。
「ぐっ……がっ……」
意識を取り戻したと同時に岡部は鋭い痛みに襲われた。起きあがろうとした途端に手足に激痛が走り、再び地に伏せる事となる。
まず岡部はゆっくりと自分の状況を確認した。今自分が寝ている場所は暗い森の中。恐らく崖から落ちてそのまま気絶していたのだろう。ゆっくりと顔だけ起こして空を見上げると、空は夕焼け色に染まっていた。
「落とされたのか……俺は……一体、誰に?」
そして岡部は自分が何者かに落とされた事を思い出し、グッと歯を食いしばった。
突然の突風。抗う事すら出来ずに崖に落とされた屈辱。そしてこの出来事に最も重要な点は、崖から落としたという所だ。敵の狙いが岡部だったのだとしたら、単純に突風で押しつぶしてしまえば良かった。だが敵はどういう訳か、わざわざ風の向きを変えて岡部を崖に突き飛ばしたのだ。つまり、崖から落とす事が狙いだったと見える。
「事故に見せかけたかったのか……?」
端から見ればこの惨状は事故に見える。ちょっとしたミスで地竜が離れてしまい、コントロールが聞かなくなった竜車がそのまま崖から落下してしまう。そう捉える事も出来る。
つまり敵は自身の襲撃を気づかれる事なく、事故にみせかけて岡部を始末したかったのだ。
そう考えると急に恐ろしくなり、岡部はまだ敵が近くに居ないかと確認した。だがそれらしき様子は無い。第一、もしも居たとするなら自分が気絶している間に始末してしまえば良いだけだ。敵の唯一の失点は、岡部が強運の持ち主だったのを見落としたという点だろう。
岡部は自分の生き残る事だけには運が良い事に感謝し、自分の体の状態を確認する事にした。
幸いな事にあれだけの高所から突き落とされたのにも関わらず。酷い怪我は見当たらなかった。骨が折れている様子も無い。ただ全身がハンマーで叩き付けられているような痛みに襲われているだけだった。恐らく竜車の中の椅子がクッションになってくれたのだろう、と岡部はもう一度自分の強運に感謝した。
「骨は、折れてないな……何とか、動けるか……」
痛む腕を抑えながら岡部はゆっくりと起きあがる。相変わらず全身に鋭い痛みが走るが、我慢が出来ない訳では無かった。痛みに耐えながら岡部はそっと歩き始める。こんな状況になりつつも、彼の目標は未だぶれずにいた。
「行かなければ……ナツキ・スバルの元へ」
此処まで来たのだ。今更引き返す事は出来ない。それに引き返せばまたループが行われてしまうかも知れない。まだこの世界では岡部は何の情報も掴めていないのだ。例えループするにしても、何の進展も無しにループする訳には行かない。ただでは死なない、という覚悟で岡部は歩みを進めた。
岡部は無我夢中で歩き続けた。道のりは大体分かっていた。竜車の車輪の後が残っている為、それを真っ直ぐ行けば良いだけだ。だが例え行けたとしても、竜車で一日掛かる距離を人間だったらどれだけ掛かるだろうか?
岡部はそんな不安に襲われるが、痛みと敵に襲われた怒りから思考が鈍感になっていた。一つの目的に突き動かされる岡部はただひたすらに歩き続ける。
それから何時間歩き続けただろうか、真夜中になり、歩き疲れた岡部はある一本の樹木の前で崩れるように座り込んだ。元々体力に自身の無い彼では長時間の歩行には無理があったのだ。全身から汗を流しながら岡部は呼吸を荒くした。
そんな満身創痍の岡部の前に、一つの影が現れる。
「なんだ……お前は?」
それは犬であった。元の世界でもよく見た大型犬。だが奇妙なのはその犬の額部分に一本の角が生えている事だった。魔物、という物なのだろうか?それとも異世界での動物は全てこんななのだろうか?と岡部は疑問に思う。だがそんな事は最早どうでも良かった。問題は、目の前の犬が敵か味方であるかだった。
岡部が警戒している内に犬は数を増して行った。最初から群れで行動していたのか、二十匹近い角を生やした犬達が岡部を囲むようにして立っている。
不味い、と岡部の直感が囁いた。敵意があるのか、犬達は唸るようにして岡部の事を睨みつけていた。
「クク……絶体絶命、か」
こんな時でも笑えるんだな、と岡部は自分の図太い神経に感心した。何故か頭だけは冷静になっており、先程の怒りが抜けきったのかこんな状況でも慌てずに居た。
このまま食われてしまうのだろうか?そんな最悪の結末を想像しながら岡部が警戒していると、急に一匹の犬が頭を垂れるように身を伏せた。続けて他の魔物達も同じ様に伏せ始めた。
突然の犬達の行動に岡部は戸惑う。一体彼らが何をしているのか?何故自分に頭を伏せるような事をするのかが意味が分からない。そんな戸惑っている岡部に対して、犬達はなんの答えも示す事無く頭を上げるとそのまま岡部の前か一匹一匹と去って行った。
「……ッ、な、なんだったんだ?」
最初は敵意があるかと思いきや、急に犬達は態度を変えて自分に敬意を表すような動作をして来た。知能がありそうな生物には見えなかったが、アレは明らかに服従のポーズであろう。であるならば何故?岡部の頭の中に疑問が残る。だがその疑問も、強烈な眠気のせいですぐに吹き飛んでしまった。
気がついた時には岡部は眠りに付いていた。痛みと疲れで疲弊した肉体は睡眠を要求し、彼はそれに簡単に屈してしまった。
翌日、岡部は昼頃までまるで死体のように静かに眠っていた。目が冷めた時には肉体の疲労も消え、簡単に体を起こす事が出来た。全身に走っていたあの強烈な痛みも無くなっていた。
岡部は再び歩き続けた。昨夜の出来事がまだ引っ掛かっているが、それよりも今岡部がもっとも重要としているのはナツキ・スバルの事であった。少しでも早くロズワール邸に付かなければならない。既に今日は四日目。前回のループがあった以上、もういつループが起こってもおかしくは無かった。
そして岡部は必死に歩き続け、日が傾き始めた頃になってようやく村らしきものを発見した。村人達はボロボロの格好の奇妙な姿をした岡部に警戒していたが、岡部はそんな事は気にせず、ロズワール邸は何処かと問うた。そして目的地は坂を登った先にあると聞き、ようやく彼は希望を持つ事が出来た。
「おじさん、一体どうしたの?凄いボロボロだけど……」
「ロズワール卿の屋敷に行かないとならないんだ……黒髪の少年に、会う為に」
「それってもしかしてスバルの事?」
ふと金髪の少女が岡部に話し掛けて来た。村人の皆は余所者の岡部を警戒していたが、その少女は何の警戒心も持たずに岡部に近づいた。
岡部は素直に自身の目的を告げると、少女から聞き覚えのある名前が返って来た。
「知っているのか?」
「うん、最近ロズワール様の屋敷の使用人になった人だよ。お兄ちゃんは」
意外な情報が聞けた事に岡部は少女に感謝した。
どうやらナツキ・スバルは自分の生活を維持する為にロズワール邸の使用人となったらしい。上手い手である。恩人であるから屋敷で働かせてくれ、そう願ったのだろう。むしろ養ってくれ、と要求しても良いのではないかと岡部はどうでも良い事を考えてしまった。
既に夜であったが、岡部は村人達の静止を振り切ってロズワール邸へと尋ねた。
だが案の定声を掛けても屋敷から返答は無い。もしかしたら本当に気づいていないだけか、もしくは無視を決め込んでいるのだろう。だが今の岡部はなりふり構っていられなかった。敷地内へ容赦なく足を踏み入れ、扉に手を掛ける。すると意外な事に、扉は簡単に開いて岡部を迎え入れた。
「鍵が……掛かっていない?」
まるで岡部が来る事が分かっていたかのように、扉に鍵が掛かっている事は無く、岡部は簡単に屋敷の中へと侵入する事が出来た。
それに訝しさを覚えるが、岡部には戻るという選択肢は遺されていなかった。深呼吸してから屋敷の中に入り、静かに相手の出方を伺う。だがやはり反応は無い。そもそも今の時刻は真夜中。皆寝ている時刻であろう。むしろこんな時間に屋敷に入るのは泥棒がする事である。
「ナツキ・スバルは何処だ?……ループが起こっていないという事は、まだ死んでないはずだが」
岡部は辺りの気配を探りながら屋敷の中を探索し始めた。
いつ住人と遭遇するか分からない。もしも遭遇したらその時はきっと自分は泥棒扱いされ、門前払いされるであろう。だが岡部はナツキ・スバルに会うという一つの目的の為だけに、どんな犠牲も払おうと覚悟していた。故に彼が止まる事は無い。
そして階段を登った時、岡部はそこで悪魔と遭遇した。
否、それは悪魔と比喩すべきでは無い。鬼と評すべき存在と対峙した。
肩まで伸ばした青髪と、整った表情をした美しい少女。メイド服を着たその少女は、その細い腕で二つの鉄球を手にしていた。
「警告します。これ以上先に足を踏み入れば貴方を骨も残らないミンチにします」
「……初対面で随分と物騒な事を言う子だな」
そのメイド服の少女はチャラチャラと鎖を揺らしながら岡部にそう宣言した。
普通ならこのような台詞は冗談で済むだろう。だが岡部は目の前の少女が本気で言っていると確信した。光りの無い殺意の籠った瞳。容易く鉄球を持ち上げる筋力。彼女には、殺る覚悟と実力がある。岡部はそれを悟り、一歩足を引いた。
「突然屋敷に入って悪かったが……話を聞いてくれ。俺は鳳凰院凶真と言ってナツキ・スバルに会いに来たんだ。ちゃんと使者は送ったはずだ……手違いで遅れてしまったが、俺は敵じゃない。それだけは信じてくれ」
両手を上げて脅威は無い事を説明しながら岡部は自分が何故此処に来たのか、自分が何者であるかを説明した。元々竜車が落下してしまったせいで岡部は遅れる形でロズワール邸にやって来る事となってしまったのだ。だが遅れはしたが辿り着けた。今岡部が此処に居る事には何ら問題は無いのである。
「なるほど……貴方はあの男の仲間ですね?」
「……は?」
突然少女は目を瞑りながら意味不明な言葉を言って来た。
あの男の仲間?その男とは一体誰を意味するのであろうか?考えられるとすればナツキ・スバルであろう。確かに岡部とナツキ・スバルは同じ世界から来たという共通点を見れば仲間と捉える事が出来るだろう。だがそれになんの意味がある?そもそも何故少女がそんな事を知っている?
何かがおかしい、岡部はそう直感した。
「あの魔女臭い……異質な男の仲間ですね?言動もおかしく、意味不明な言葉ばかり吐く下劣な男。貴方達はいつもそう、そうやってレムの大切な物を奪って行く……いつもいつもいつも……」
少女はブツブツと訳の分からぬ言葉を呟く。
岡部は全く理解が出来なかったが、目の前の少女の殺意がどんどん膨れ上がって行くのだけは感じ取れた。このままでは不味いと思い、岡部は少女に近づいて手を差し伸べようとした。
「お、おい……落ち着け」
「言ったはずです。これ以上先に足を踏み入ればミンチにすると」
だが、その手が少女の肩に触れる事は無かった。突然飛んで来た鉄球によって岡部の右腕は潰され、岡部は地面に膝を付く形となった。強烈な痛みが右腕から走り、やがて全身に駆け巡る。
「うぉあぁああああああああああッ!!??」
崖から落下した時以上の比べ物にならないダイレクトな痛み。右腕を負傷したのでは無く、完全に失ってしまった。潰れて折り紙のようになった右腕を抑えながら、岡部は絶叫した。
冷や汗を流し、すぐにその場から逃げ去ろうとする。だがそんな岡部の体に再び鉄球が襲い掛かった。
「ぐはッ……!」
「何を喚いているんですか?この程度では終わりませんよ。貴方みたいな人達はゆっくりゆっくり痛みを与えながら、泣き喚きながら死んで行くんです」
鉄球の勢いで壁に突き飛ばされ、岡部はゴロゴロと転がりながら痛みに叫び声を上げる。
治療したばかりの傷が再び開き、岡部のシャツが赤く染まった。このままでは少女に殺されると悟った岡部は一旦距離を取る事にする。ろくに回ってくれない頭を必死にフル回転させ、なんとかこの場から生き残るための策を考える。だが、圧倒的な力の前ではどんな策も功を成す事は無かった。
「はぁ……はぁ……」
再度岡部の腹に鉄球が突き刺さった。グチャリと岡部の腹の中身が潰れる音が聞こえ、岡部は一瞬意識が飛んだ。だがあまりの痛みに再び意識を取り戻し、あまりの激痛に叫び声を上げる。
少女は何の躊躇も無く岡部を殺すつもりだった。岡部の言い分など聞きもせず、彼が何者であるのかも確認せず、ただ侵入者という存在を抹消する為だけに機械のように淡々と殺しに掛かる。
岡部は壁にもたれ掛かりながらズルズルとだらし無く少女から距離を取る。流された大量の血が床を汚し、壁には岡部が移動した分だけ血の跡が残った。
このままでは出血多量で死ぬな、と岡部はどこか傍観した様子でそんな事を思った。すると。
「……レム?」
少女の後ろで、一人の少年が立っていた。
苦しそうな表情をし、まるで今にも死んでしまいそうな程弱り切った男、ナツキ・スバルだ。何故か顔色が悪いが、岡部はそれがナツキ・スバルだとすぐに気がついた。
そんな彼が現れたのに対して、レムと呼ばれた少女は一瞬の躊躇も見せず、ナツキ・スバルの体に鉄球を投げ飛ばした。何の構えも取らず、ましてや弱っていたナツキ・スバルは何の反応も出来ずに鉄球を喰らい、岡部同様に右肩を失う。彼もまた叫び声を上げながらその場に崩れ落ち、しばらくの間藻掻いていた。だがやがて死にかけの虫のように抗っていた彼の抵抗も収まり、ぴくりとも動かなくなってしまった。
「お前は……一体、何なんだ?」
「……レムはレムですけど?」
思わず岡部が投げ掛けた質問に、レムは何の疑問も持たずに首を傾げながら答えた。
岡部の質問の意図が分からず、本当に何故そんな質問をしてくるのかと不思議そうな顔をしている。その反応を見て、ようやく岡部はナツキ・スバルが置かれた状況を理解した。
なるほど、ナツキ・スバルはこんな屋敷の中心に立たされていた訳で。変人と呼ばれるロズワールの屋敷、その使用人もおかしな連中だったとしても何ら不思議では無い。これではまるで、一種の牢獄だ。
岡部の前にレムが立った。レムはただ淡々と腕を振り下ろし、鉄球を岡部にぶつけようとした。だがその鉄球は岡部に到達する事無く、突如としてその動きを止めた。
始まったのだ。世界の崩壊と再構築が。
動きを止めた全ての物が崩壊し始め、形を失って行く。返り血で血まみれになっていたレムの姿も消え、屋敷の床も、階段も無くなって行く。全てが無となった世界。そこではナツキ・スバルと岡部、そしてスバルの横で佇んでいる黒い影しか居なかった。
影はまたスバルの事を愛おしそうに見つめている。実に不思議な光景であった。そして気がついた時には、岡部はベッドの上で眠っていた。視界の端で、ひょこっと顔を覗かせた人物が居る。
「よう、おじちゃん。目が覚めたか?」
フェルトであった。尖った歯を見せながらフェルトは何処か心配そうな表情をして岡部の事を見下ろしている。そんなフェルトを見て、岡部はループしたのだな、と実感し、ほっと安堵の息を吐くと同時に勢い良く体を起こした。
ナツキ・スバルの身に起こっている事は理解した。まずどうにかしなければならないのは、あの屋敷の方のようだ。岡部は存在している右腕をぎゅっと握り絞め、ベッドから起きあがった。
三回目のループへの突入である。