カラン、カラン・・・・・・。
下駄の歯が石路を鳴らす音が、はっきりと聞こえるくらいに響く。周りは五月蝿いほどに賑わっているのに不思議だ。
両脇には、様々な露店が並びそこに着物を着た人たちが並んでは物を買っていく。人々は大抵誰かと一緒だったが、一人でその場にいたのは彼一人だけだった。彼は自問する。なんで自分はこんなところにいるんだろう。誰かと一緒に来ていたか?だとしたら、誰と?
彼は急に一人でいる実感が湧いてきて、孤独感に慄いた。
___帰りたい。でも、どうしたらここから抜け出せる?
彼はあたりを見回した。誰か頼れそうな人を見つけたかったのかもしれない。だが、誰も彼を見ようとはしない。当然だ。彼は全くの他人で、人々の関心の外なのだから。
現状を打破したくて、彼は走り出す。カンカンカンッ、と下駄が激しく音を打ち鳴らす。目的地はない。ただ走り続けた。しかし、一向にこの場から抜け出すことは叶わなかった。露店に飾られたお面が、彼を嘲笑うかのように見つめてくる。
「怖い。誰かいないの?」
とうとう彼は言葉を発した。しかし、見るとあれだけいた人々はいなくなっており、かわりに空っぽの露店と灯りだけが残されていた。
「誰か・・・・・・私を見つけて・・・・・・」
ぽつりと、彼は閑散とした場所で呟いた。
「彩人!」
頭の中に強く響いた声に、はっと瞼を開け寝かせた身体を起こした。
じわじわと暑い空気の中、身体中に浮き上がった汗と視界に飛び込んできた師匠の顔で、漸く今の状況を思い出すことができた。
彩人は今、進藤邸で師匠に囲碁指南を受けていた。その途中、疲れて休憩中に微睡んでいたらそのまま眠ってしまったのだった。
目の前の進藤は、心配そうな表情を浮かべ彩人の顔を覗き込んでいた。
「お前、魘されてたぞ。暑さで悪い夢でも見てるんじゃないかと心配したんだからな」
「ご、ごめんなさい」
「謝るなよ。ほら、お茶飲めお茶。水分補給!」
「あ、どうもです」
進藤に差し出されたグラスを手にとって、そのままゴクゴクと喉を鳴らしながら一気に飲み干した。寝ている間に多少なりとも脱水していたらしい。
進藤が彩人の様子を見ながら「クーラーにしとくんだったぜ」とひとりごちていた。
魘されていたと、進藤は言った。確かに悪い夢と言える内容だったと彩人は感じた。とてつもない孤独に苛まれる夢だった。声をあげても誰も彩人を見てくれない。確か辺りは夏祭りのような状況だった。
どうしてあんな怖い夢を見たのだろう。進藤の言う通り、暑さの所為だろうか。
借りた濡れタオルで汗を拭き取ると、いくらかすっきりとした心地になった。怖い夢のことも、さっさと忘れたいと思い彩人は期待を込めた眼差しで進藤の方を見た。
「なんだ?もう休憩は止めにするのか?」
「はい。もう十分休息はとったので!」
「休息、と言えるかあ?」
進藤は悩ましげに腕を組み、なにやら思案をし始めた。
進藤としては、体力気力共に大きく削る対局は、もう少し時間を空けた方がいいと思った。先ほども彩人は暑さでやられていたのだし、あまり身体が頑丈な方には見えなかった。やがて、ローコストな学習をした方がいいと進藤は判断した。
「よし、じゃあ次はプロの対局の映像を見るぞ。解説してやるから、これも勉強になる」
「プロの!?それは楽しみです!」
「進藤本因坊の解説、よおく聞いとけよ。囲碁番組での解説より分かりやすさ当社比5倍だ」
「ヒカルさんもあの番組に出たことあるんですか!?」
「まあな。つっても、始めは緊張でガチガチになって大した解説できなかったし、その後も評判悪くて呼ばれなくなったんだよな」
「一体なにをやらかしたんです・・・?」
「ははっ。さあな」
まだ進藤が若手だった頃、テレビの囲碁番組の大盤解説に出演した際に、進藤は共演者もタジタジするような珍解説を披露し、一時期囲碁ファンの間で話題になった。言葉は飛ばして要点のみで分かりにくかったり、その場の空気の読めない語調で指摘したりと酷いの一言に尽きた。進藤の解説が数回行われた後、ファンの間では進藤は失言王だと認識されてしまったほどだ。それが彼の持ち味だと好意的に示すファンは多いが、テレビの関係者からは不況を買ってしまい、それ以来なかなか解説をする機会を得られないでいる。今はかなり分かりやすい解説をすることができるが、番組関係者との溝は未だに深い。進藤はそれを特に気にしてはいないのだが。
ちなみに進藤自身は、彼が失言王とファンに認識されているのは知らない。
進藤の宣言通り、映像を流しながら彼は分かりやすい解説をしてみせた。彩人がいつも見ている番組の解説者にも勝らぬとも劣らぬというものだった。
彩人も夢中になって見て聞いて、自分の糧としていた。
時々進藤に合いの手を入れたり、質問を挟んだりしてただの解説に収まらない、コミュニケーションをとりつつの勉強となっていた。
一局が終わると、進藤は検討を始めようとした。しかし、突如彼の傍に置いてあった携帯電話が着信を告げた。進藤は彩人に一言断ると、電話を取りかけてきた相手と話し始めた。
進藤が話している間、彩人は碁盤に先ほどの対局を並べた。
「はい、もしもし?」
『もしもし、進藤か?和谷だけど、今そこで伊角さんと本田に会ってさ。飯食いに行かないかって話してたところなんだけど、進藤も来ないか?』
「そうか、もうそんな時間か。悪いけど、今彩人が来てるんだ。泊まり込み修行中」
『あー・・・そうか。ん?ああ、進藤の弟子が来てるんだってよ。おう。あ、じゃあさコンビニで食い物買ってくるから、進藤ん家に行ってもいいか?』
「おお、いいぜ!あ、彩人、和谷たちがこれからうちに来るらしいから、打ってもらえよ。全員プロだぜ」
「わあっ、本当ですか?嬉しいです!」
『おいおい何勝手に決めてるんだよ。まあいいけどさ。本田も彩人君が見たいって』
「はは、じゃあ待ってるよ。あ、くれぐれも酒は買ってくるなよ!今日は酒はなし!間違って彩人が飲んだら大変だ」
『ははは、進藤もすっかり親バカになっちゃってまあ・・・じゃあ、多分30分後に行くからな。彩人君によろしく』
「おう。じゃあまたな」
進藤が再び彩人の方へと顔を向けると、先ほどの映像の対局を並べては思案していた。彼一人では、検討は物足りないだろう。進藤は彩人が悩んでいるところを聞いてから、説明を開始した。
検討が終わる頃にちょうど、和谷たちが進藤邸に到着したようだ。
インターホンが鳴り響くと、進藤と彩人は二人して玄関へと向かい、彼らを出迎えた。
「お久しぶりです、和谷先生、伊角先生。そして初めまして、本田先生。私は進藤先生の門下生の藤原彩人と申します」
「これはどうもご丁寧に・・・」
行儀よくお辞儀した彩人に、本田がかしこまった様子で釣られたようにぺこりと頭を下げた。本田も、進藤の弟子というからどんな子かと思ってみたら、随分と上品な少年が現れて少し驚いている様子だった。
「躾がちゃんとしているんだな」
「彩人の親がきちんとしているんだ。俺は碁くらいしか教えてない」
感心したように言う本田に、進藤がそう返す。
和谷がそれに対し、若干にやにやしながら会話に入り込んできた。
「師匠とは違って、礼儀のしっかりしたいい子だよなあ〜」
「なんだよー!俺もそれなりに礼儀正しくなっただろ?」
「メディアの前では、確かにそうだな」
伊角が苦笑しながら言った。
進藤は三人を家の中に上げ、長机のある居間へと案内した。進藤が促すと、皆思い思いに座布団の上に腰掛け、買って来たものを机の上に並べ始めた。
彩人もそれに続き、ちょこんと遠慮がちに正座する。
「お前ら何持ってきてくれたの?」
「まあ、主に弁当。後はお茶とかジュースとか?彩人くんはどれ飲む?」
「あっ、ではウーロン茶で・・・」
「お、コーラあんじゃん!俺これ貰ってもいい?」
「いいぞ。あ、ラーメンあるぞ。温めたら食えるタイプの」
「お、わかってるね伊角さん」
「寿司もあるぞー!彩人くんがいるから少し豪勢にしてみたんだ!」
「え?あ、ありがとうございます」
トントントン、と次々にテーブルの上に食べ物を並べていく。進藤は台所から食器を持ってきて適当に並べた。
それから、三人はそれぞれ自分の食べたいものを食べ始めた。
進藤はラーメンに舌鼓を打ったり、伊角は自分で買って来た冷やし中華、和谷は寿司のほとんどのネタを食べ、本田も寿司やら海苔巻きなど、手広く手につけた。
彩人はというと、進藤と同じくラーメンを選択し、何やら心を躍らせた様子ですすっていた。どうやら、彼はあまりラーメンを食べたことがないらしく、新鮮な感情を抱きながらゆっくり豚骨ラーメンを最後まで飲み干した。和谷が買って来た寿司には、卵焼き以外は手をつけなかったので、和谷がなんとなく理由を聞くと、山葵がちょっと苦手とのことだった。
進藤は、ラーメンを美味しそうにすする彩人を珍しげに見ていた。内心で、即席麺でこれなら、本格的なラーメンにはどんな反応を示すかに興味をそそられていた。
(そういえば、塔矢もあまりラーメン食ったことなかったっけ。お坊ちゃんってみんなそうなのか?)
彩人の新鮮な反応を見て、進藤は自分のライバルと食事に行った時のことを一瞬思い出した。
実質的な夕飯を食べ終えると、碁打ちたちは早速碁盤を広げ、棋譜を広げ、碁打ちに専念し始めた。彩人も待ち望んだ時間である。
彩人は特に和谷ら三人に構われた。幼い棋士の卵を自分の言葉で導いていくのに楽しさを見出していた。大人たちに囲まれ、最初は戸惑っていた彩人だったが、碁を通じて徐々に固さは取れていった。
そして打つ度に彩人の輝ける才能の片鱗を感じ取り、誰もが彼の今後の躍進への期待を寄せた。
夜十時頃、小学生はもう寝るべき時間が迫ったあたりで和谷たち三人は進藤邸を後にした。皆、有意義な時間を過ごし、そして和谷たちは折角だから居酒屋に行こうなどと言いながら夜道を帰っていった。
「ふう〜なんだか凄く濃い時間でした・・・」
「なんせ俺に加え、プロが三人も相手してくれたんだ。疲れたけど、勉強になったろ?」
「はい、とっても!」
彩人は満ち足りた気分だった。
今まで相手がなかなか見つからず、ひっそりと碁を打っていたのが、今じゃプロと打つ機会が何度もある。何より、彩人が知る中で最強の、本因坊が全力で相手をしてくれたのだ。彩人はこの幸運に、自分の人生に大いに感謝したくなるほどだった。
彩人は正直まだ起きていられたのだが、進藤が頑なに寝ろと言って彩人を客間の布団へと押し込んだ。
進藤は隣の部屋でもう数時間だけ起きているという。もし何かあったらその時は来てもいいと言いながら、進藤はパッと蛍光灯を消した。
「あー」
「しっかり寝て、また明日も修行だ。目が冴えててもとにかく寝ろよ」
「うー・・・はい」
強制的に暗くされると、もう寝るしかやることはなくなる。彩人が布団の中に潜り込んで目を瞑ると、進藤は「よし、じゃあおやすみ」と告げて部屋から出て行った。
あんなに目が冴えていたのに、いざ目を瞑るとスムーズに彩人は眠りに入ることができた。
意識が安らかな闇の底へと沈んでいき、やがて浮遊感にも似た感覚が全身を包み込む。
それから、少し経った頃だろうか。
彩人は気がつくと、また、夏祭りの会場のようなところに立っていた。
下駄を履き、紫色の浴衣を着て、往来に呆然と佇んでいる。
ざわざわと騒がしい辺りに比べて、またもや彩人はぽつんと一人ただそこにいた。
再び、昼間のような孤独感が襲ってきた。
辺りをキョロキョロと見回す。しかし知っている人は誰もいない。カンカンと硬質な足音を立てながら、また石路を駆け抜けた。
「また、一人・・・!一人にしないで、誰か私を見つけて・・・・・・!」
スルスルと、人混みは彩人を通り抜けていく。
やがて夏祭り会場を抜けた。もうそこまで行くと、人影は存在しなかった。
道を失い、いつの間にか入り込んだ林の中を歩いて行くと、ふと、金色が目に入った。
夜の闇の中でも、目に付く金色。彩人が顔を上げると、それはふわりと揺れ、優しい色を帯びていた。
「彩人!探したぞ」
彩人よりも大きい体格、黄金色の浴衣を着た男性は彩人に駆け寄ると、その腕を取った。
彩人は思わず目を丸くした。この世界で、自分を見つけることができる人がいるとは思っていなかったからだ。彩人の驚きはお構いなしに、その人は続けた。
「また、迷子になっていたのか?全く・・・ほら、いくぞ。皆、お前を待っていたんだ」
「私を・・・・・・?」
「ああ、皆会いたがってる。顔を見せてやれ」
彩人は嬉しい気持ちになった。
自分を求めてくれる、自分を認めてくれる誰かがいる。それがなぜこんなにも嬉しいのかはわからなかった。
彩人は目の前の金色の前髪が揺れるさまを見ながら、彼に手を引かれて、林の中から抜け出した。