藤の花の盛りを迎える   作:ruuca

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本因坊

 藤の香りがする。近くに出来た自然公園のものだろうか。今はちょうど藤の花の盛りが訪れる季節で、開け放たれた窓から風に乗って匂いが運ばれてきていた。

 進藤は、窓際のベッドで簡易碁盤を広げている老人を見て、苦笑した。

 

「桑原のじーちゃん。窓なんか開けてたら風邪ひくんじゃねえの?」

 

 進藤が親しげな様子で声をかけると、碁盤に注がれていた目線をあげ、進藤の方を向いた。

 

「フォッフォッ。小僧か。久しぶりじゃな。本因坊戦以来か?」

「引退の時の挨拶以来かな。元気そうじゃん」

 

 進藤は桑原に促され、近くの丸椅子に腰掛けた。そして鞄をごそごそと探ると、中から一束の書類を取り出した。

 

「これ、この前の本因坊戦の棋譜。土産に何持ってきたらいいか分かんなくて、これなら興味あるかなって思ったんだけど」

「ほう・・・」

 

 桑原は関心したように息を吐くと、進藤から髪を受け取ってその棋譜を眺め始めた。老眼でも分かりやすいように、大きめの文字で印刷してある。見入ってる様子を見ると、どうやら気に入ってくれたようだった。

 桑原元本因坊。かつて長い間本因坊位にしがみつき続け、進藤が19歳の時に彼からそのタイトルを奪取している。今でもあの戦いは覚えている。お互いに本因坊に並々ならぬ執着を持つもの同士、その戦いは熾烈を極め、今でも棋界で話題に上がるほどの名局を作り上げた。

 その桑原は本因坊位を取られたことをきっかけとし、そして体調不良により予てから考えていた引退へと踏み切った。一部では、進藤が桑原を追い出した、引導を渡したと言われたが、桑原の引き際は非常にあっさりしていた。引退の挨拶の日に、「もう思い残すことはない。これからは完全にお前たちの時代じゃ」と進藤に言い残した。

 進藤は桑原の膝上に並べられた碁盤を見て、嬉しそうに言った。

 

「やっぱり、生涯碁打ちなんだな」

「当たり前じゃよ。碁は、わしの人生そのものじゃった」

 

 辞世の言葉のような桑原の発言を聞いて、進藤ははっとなる。彼には、間違いなく死の気配が近づいている。気まずい心持になっていると、桑原が笑いながら話をする。

 

「小僧・・・わしは、本因坊戦で小僧と戦ったとき、ワシが今まで本因坊であり続けた意味を、碁打ちであり続けた意味を知った。進藤、お前はどうして碁を打ち続ける?」

 

 進藤は桑原の言葉に、しばらく考え込んだ様子を見せるが、その末に出てきた言葉は極めて明瞭だった。

 

「遠い過去と、未来を繋ぐためだ」

 

 進藤のその言葉を聞いて、桑原は満足そうな笑みを浮かべた。

 きっと桑原の答えも同じなのだろう。進藤は彼の表情を見てそう思った。

 

「お前の姿を初めて見たとき、ただならぬ気配を感じた」

 

 突然の桑原の話題転換に、進藤は呆気にとられた。しかし桑原はそんな進藤などお構いなしに話を続ける。

 

「覚えているぞ、お前がまだプロにもなっていない、ひよっこだった頃、棋院の中でたった一度すれ違っただけで、わしはお前が只者ではない・・・そう感じた。シックスセンスってやつじゃよ」

 

 進藤は、昔の記憶を思い出した。桑原の存在を初めて知った時、院生時代にエレベーター前ですれ違って、進藤と彼もその雰囲気に若干の戦慄を覚えたことを。

 彼の言うただならぬ気配、その正体には心当たりがある。なんとなく、桑原が耄碌して可笑しなことを言っているわけではないと感じた。

 進藤は、今まで隠し通してきた秘密を明かすつもりで答えた。

 

「そのシックスセンス、案外当たってると思う」

「ほう?心当たりが、あるんじゃな」

「ああ・・・・桑原のじーちゃんには、話してみてもいいかもしれない」

 

 藤の香りが一層強く漂ってくる。その香りは、いつの間にやら病室全体を満たし、まるで別の世界へ迷い込んだようだった。

 進藤は藤の花の香りに誘われるまま、桑原に自分の秘密を話した。話し終えると、桑原は笑みを浮かべて噛みしめるように言った。

 

「・・・やはり、わしはお前と戦うために本因坊であり続けたのじゃのう」

 

 進藤が桑原を訪ねてから僅か数日後、桑原が息を引き取ったという連絡を受けた。長い間棋界を支えたとも言える重鎮の弔いは、棋院を上げて執り行われた。

 葬式の帰り、進藤は桑原と最後に会った病院の直ぐ近く、藤の花が咲く自然公園へと足を運んだ。

 病院内で嗅いだ香りは仄かで心地よかったが、花の直前まで来ると強烈な匂いに襲われる。

 

「うわ、すっご。こんなに咲くものかよ。藤の花って・・・・」

 

 一面紫色の圧巻の景色に進藤は呑まれそうになる。モノトーンの景色を見慣れた彼には、藤の花の淡い色彩すら極彩色のようだった。

 藤棚の中を、進藤はひたすら歩いた。その手には、すっかり彼の手に馴染んだ扇子が握られている。

 

 昔の、かつて彼の心にぽっかりと穴を開けた喪失の経験を思い出していた。

 数日前、生前の桑原には全ての秘密を話していた。その内容は、普通の人から見たら荒唐無稽で、唯物論を信じる多くの人々からは失笑され、気狂いとでも言われてしまいそうなものだった。それでも話したのは、桑原の直感の鋭さを、決して目に見えるものだけには囚われず、本質を見透そうとする力を信じたからだった。進藤の思った通り、桑原は全てを聞いて納得してくれた。

 そのことが、嬉しかったのかもしれない。未だ怖くて塔矢アキラにも打ち明けられていない秘密を聞いて、受け入れてくれたことが。だから、唯一受け入れてくれた人が旅立って、少しの寂寥を感じている。

 また、秘密を受け入れてくれた人はいなくなった。

 

(俺は、また誰かにこの秘密を、打ち明けられるのか・・・?)

 

 扇子を開き、またパチンと音を立てて閉めた。進藤の脳裏には、生涯の好敵手であり、同時に、最も彼の秘密に近い人間である塔矢アキラの姿が映っていた。

 


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