ルプーの逢瀬の、その後日談です。
クストたちのナザリック傘下入りの御話になります。
久しぶり過ぎて前話までの内容を覚えてない方もいらっしゃるかもですが、
どうぞお楽しみください。
沈黙都市は、以前にも増して深い静寂に包まれていた。
しかし、完全な沈黙ではない。
むしろ音の総和としては、今の方がはるかに大きいかもしれない。
アンデッドたちの無作為な徘徊と足音は、今ではすべて規律正しい軍勢行動――軍靴の音色にとってかわり、ナザリックから派遣された
低位の
ただ。
沈黙都市は現状、あくまでビーストマンの国の統治下にある――国政からは半ば隔離、忘却された――土地なので、兵団は〈
この都市で猛威をふるっていた
都市中央に、朽ちながら今も
やはり、この都市を手中に収めたことは正しい判断だった。
これだけの兵力を、沈黙都市という要害を、これだけ早急かつ隠密裏に魔導国の影響下へ収めることができたのは、ひとえにナザリックが誇る
彼女の功績は、並々ならぬものであると言わざるを得ないだろう。
アインズはその思いを改めて強くしながら、旧議事堂で一人の人狼との会談を仕上げにかかった。
「君たちの協力のおかげで、沈黙都市のアンデッドを完全に掌握することができた。ありがとう、クスト・スゥ」
「感謝など無用です、アインズ様。いえ、魔導王陛下」
応接用のテーブルを挟み、カウチに腰掛ける二人の間には、明らかな上下関係が確立されているように見える。
アインズは僅かに苦笑を浮かべてしまう。
「頭を下げる必要はないとも。今のところ、我々は同盟者。対等な関係と言ってもよい」
「そういうわけには。
魔導王陛下は、私たちの命の恩人であり、この都市に100年も眠っていた世界の脅威を払ってくれた方。そんな人と対等だなんて、畏れ多い限りです」
彼は異形種であるが、信仰系魔法詠唱者として、この世界では類稀な位階を修めた傑物だ。
そんな彼だからこそ、自分を敗北させた
敵対は即ち「死」――以上に、深い畏敬の念を抱いているのは、きっと彼が人狼という異形だからなのだろう。アインズはそう納得する。
「まぁ、君がそう思うのも自由だ。私は、君の自由意思を尊重しよう」
「ありがとうございます、陛下……ところで」
クストは光を一切灯さない盲目の瞳を、まっすぐに魔導王の眼窩に差し向ける。
「ルプスレギナは……彼女は、どうしていますか?」
彼はこれまで、決して話題にはすることのなかったことを口にした。
「ルプスレギナなら、今はナザリックで静養……もとい休暇中だな」
アインズの言葉に含まれていたものに、クストは思わず腰を上げかけてしまう。
「どこか、体の具合でも?」
「ああ、いや。不安に思うほどのことではない。ただ、ルプスレギナは銀武器でのダメージを負ったのは初めてのことだったから、ここ一週間は、その経過観察というだけのことだ」
人狼にとって、純銀というのは致命的な弱点だ。
ルプスレギナはこの世界に来て初めて――というか、戦闘で傷らしい傷を負うこと自体もほぼ初だが――銀武器という特効兵器による損傷を
無論、傷自体は完治しているし、ペストーニャの治癒魔法も問題なく働いていることは知っているが、それでもルプスレギナはアインズにとって、大事な仲間たちが残してくれた大切な
「心配してくれてありがとう。彼女に代わって、礼を言っておく」
「こちらこそ。彼女のおかげで、僕は命を拾うことができたのですから」
実に
自分もまた命の危機に
アインズはクストの人物評価を、さらに上げていく。
だからこそ、魔導王は聞かねばならないことがある。
「これから、君はどうする? ビーストマンの国に戻るのかな?」
「それは……無理でしょうね。もともと僕はビーストマンの国の領地で生まれましたが、ビーストマンではないですし、もう誰にも覚えられてなどいませんし」
呟く声には、まったくもって暗さがない。
覚えているものも、見知ったものも、既にいない。
皆、亡くなっている。異形種の彼の寿命に、亜人でしかない者たちは追随できない。
そんな当たり前な事実を、彼は軽く笑みすら浮かべ白状していた。こんな忘れ去られた都市の管理を行い続け、一世紀もの間に渡り人生を捧げてきた男は、実に晴れ晴れとした表情で、これからの自分を思案する。
クストは思う。
きっと戻ってこれまいと考えた拠点の内装を見えない瞳で見やり、沈黙都市の孤狼は考える。
どこかで隠棲するにしても、この沈黙都市ほどの魔法設備がなければ自活は不可能だろう。浄水設備や簡易農地、永続光の供給も、この都市以上のものは大陸中央か南方の天空城ぐらいにしか聞いたことがない。無論、この都市のものを持ち出して、どこか人里離れた地に居を構えればいいのかもしれないが、そのための労力も馬鹿にはならない。転移魔法についてクストは素人も同然なのだ。さらに言うと、自分で農業を起こす技術もなければ、
そういう意味では何処かで治療師として働き、ポーションを作る生活を送るのもいいが、そういうのは神殿勢力に目の
いっそこのまま沈黙都市に留まっていてもいいのでは、とすら思考してしまう。
思い悩む人狼に、アインズはコホンと咳払いの真似をしながら語り掛けてみた。
「ならば、どうだろう。私の部下として、我が魔導国に来ないか?」
「それは――アインズ様の、ルプスレギナたちの国に、ですか?」
「まぁ……より正確には、我がナザリック地下大墳墓の傘下に、だがな」
ルプスレギナから聞いていたのだろうナザリックという単語に、しかし青年は疑問を深める。
聞いてみた限りでは魔導国の首都的な扱いなのだろうが、墳墓が首都というのが奇妙と言えば奇妙。アインズもそれぐらいのことは自覚しているが、約束事――契約というものは厳密に行っておく必要がある。かつては営業職のサラリーマンとして、そういった事柄を疎かにすることだけは忌避せねばならない価値観が根付いていた。職業病ともいえるだろう。
クストはややの思案を要したが、以前よりルプスレギナたちの居たる墳墓というのが、この都市以上の魔法設備が活きた拠点であることを聞かされていたので、移住する分には申し分ないと思われたのだろう。
彼は僅かに笑みを浮かべて、アインズの提案にとりあえず疑問を返した。
「ですが、そこで僕は何をすれば――部下として働くにしても、具体的にはどのように?」
これはいい流れだ。アインズは心の中で拳を握った。
泰然と指を組む外見上の姿は、支配者として堂に入った振る舞いのままだが。
「うむ。君に、我が魔導国における信仰系魔法詠唱者の、その教育機関と軍に、参加して貰いたい」
「……僕は
「それについては問題ない。いや、まったく違う教義だからこそ、価値があるとも言えるか」
アインズはこれまでの実験や検証から、信仰系魔法を修得し、それを行使することに、神への信仰というものが不要――あるいは別の神で置換可能――な事実を知悉していた。
こういった魔法修得のメカニズムの解明も、より多くのサンプリングが要求される。
四大神信仰。あるいは六大神信仰。それがナザリック周囲の地域に住まう人間たち――信仰系魔法詠唱者の根幹にある教義であるが、では他の国の、ビーストマンやミノタウロス、ゴブリンやオーガなどの亜人たちが扱う信仰系魔法の“教え”――信仰の対象というのは、当然ながら違ってくるはず。にも関わらず、亜人たちも同じように信仰の力を武器にして戦える者が存在する以上、そこには何かしらの意味や理由が存在しているはず。存在していなければならない。
クストやリンクたちが信じる“天狼”信仰は、失われかけた教義という意味では、希少性は断トツとも言えた。これを掌中に収めないでいるなど、実に勿体ない。おまけに彼は、ビーストマンの妹を“天狼”信仰に基づいた信仰系魔法詠唱者として成長させた優秀な教官。これだけの逸材を野に放つなど、愚か者の思考である。
そんなアインズの思惑に気付いているのかいないのか、クストはさらに疑問する。
「……僕の治癒の力については、どのように?」
「原則は私の決定に従ってもらうことになるだろうが、まぁ、基本は自由にしてくれて構わない」
「え……よろしいのですか?」
「別に構わないとも。行き倒れを治したり、病で死にそうな子を助けるくらい、あたりまえに行うべきだろう? どうにも神殿勢力というのはそういった融通が利かない存在だから、正直わずらわしいとも思っていた。我が国においては、神殿は適時解体していこうかとも思っている。治癒だけを行うのであれば、
アインズが知らず語っていた言葉は、思いの外クストの心を捉えた。
国の庇護下に下りながらも、自由に人助けができると約束されるというのは、彼にとっては信じられないほどの好待遇である。
「ですが、その……たとえば私が、貴国と交戦中の兵を癒したりすることになったら?」
「うん? 負傷兵は敵味方を問わず治療すべきではないのか?」
アインズは思わず首を傾げる。
人狼は完全に不意を突かれたように短く声をあげた。
「それは……いったい?」
「ふむ? 私が知っている話……と言っても友人の軍師から聞いたのだが、負傷し継戦能力を失ったものを殺戮することは、原則禁じられるべき行為だ。むしろ負傷者は敵味方の区別なく治療し救命するのが常識だと聞いたのだが……なんだ、王国や帝国だけでなく、ビーストマンの国でもそんな悪法がはびこっていたのか? 負傷した敵兵は捕虜にするでもなく殺せと?」
「いや、ですが。それが普通なのでは? 敵の兵力を削ぐ上では、必要なことだと思われますが?」
それこそ、捕虜への治療や食事の世話、監視のための人員配置などの手間を考えると、捕虜にするのは敵指導者や貴族王族に連なる、国の枢要人物に限定される。そいつらを捕虜にすることで見込める政治的・金銭的な価値が釣り合わねば、戦場で虜兵を抱え込むのはデメリット以外の何物でもない。むしろ、憎悪対象として殺戮を
しかし、クストはアインズがそういう価値判断から遠い人物であることを知らしめられる。
「なるほどな。だが、負傷兵というのは力の観点から見ると、その時点ではなんの力もない存在。言うなれば一般人と同等か、それ以下の存在だ。そんなものを放置して殺す、あるいはとどめを刺すなんて非効率的なことをする理由が、私には判らん。負傷兵よりも健常兵の排除こそを優先するだろうな。まぁ、私の兵力がほぼアンデッドだからこその考えなのかもしれないが」
だが、これはアインズの知識ではなく、かつての仲間から聞いた話だ。
戦場では死者を出すよりも負傷兵を出した方がより効率よく相手の戦力を削ぎ落とすことが可能だと。死体は味方であろうと戦場にいくらか放置しても(無論、現実では衛生面や精神面、軍の士気維持などの観点から後々回収した方がいいのだが)大した問題にならないが、それに対して味方の負傷兵は放置しておくことは不可能。負傷兵を安全地まで迅速に運び出し、治療を行うには、当然のことながら無傷の兵たちが動員されるので、その兵の数だけ前線に穴が生じるという寸法……だったか?
実際、ユグドラシル時代においても、チーム戦において仲間の回復のための要員を確保しておくことは必須だったし、仮に自分が回復役になったとしてもいいように
無論、大規模な攻撃手段――アインズが扱う魔法の力の前では、そんなもの微々たる違いに過ぎないだろうし、鈴木悟がいた現実世界においても空爆やミサイル攻撃などがメインになっている以上、ただの白兵戦力の摩耗が積もり積もっても、何の意味もなさない。魔導国において主たる兵力はアインズの指揮するアンデッドたちが導入される以上、戦場で魔導国の人死になど発生しない道理でもある。
「……わざわざ負傷兵を助けることも、十分非効率的なのではないでしょうか?」
人道上の観点から見れば、命の救出に効率もくそもないが、アインズはアンデッドとしての精神観念に基づいて反論してみる。
「そうかな? 生きている以上は何かに使えるだろうし、新たな発見をしてくれるだろう。だが、一度死んでしまえば、そういったことに使うことはできなくなることを考えれば、まだ安上がりだと思うが?
蘇生させるにしてもただで行えるわけでもないし、メリットやデメリットを十分に吟味するなら、
王国の兵を仔山羊たちで攻撃した際は、帝国皇帝からの要請であった上、大規模攻撃である超位魔法の威力確認や発動実験、プレイヤーなどの強敵を誘うための餌という意味では、意義深い結果をもたらしてくれると分かっていたし、アインズの力を大々的にアピールするデモンストレーションとしても有用であった。
「戦場で
ああ、すまない。話を戻そう。
死んだものを蘇生、生き返らせる労力に比べれば、治癒で済むなら安いものだろう?
私の国では死者も生者も、人間も亜人も異形も、すべてを平等に扱う。まぁ、その上に我がナザリックが君臨するわけだが……改めて言わせてもらおう。クスト・スゥ。君には、我がナザリックの信仰系魔法軍の教官、そして指揮官としての要職を、約束させてもらう」
アインズの提示した条件は破格と言っても良い。
クストの特性や人格を配慮した、適正な役職と人材配置。
さらには、アンデッドでありながらも――否、だからこそなのかもしれないが――人間や亜人たちと比べるべくもないほどに、命を尊ぶ高潔さが垣間見えた。無論、アインズにその自覚などないことは言うに及ばず。
「……リンクや、カロルたちは?」
「無論、彼女たちも招くとも。君と同等に、君の家族もすべて、魔導国の、ナザリックの庇護下に加え、安寧を得ることを約束するとも」
他にも至極当たり前な確認作業をすべて終えると、アインズは骨の掌を都市の旧管理者に差し出した。
クストは差し出された掌の意味を常識的に判断して、両方の手でしっかり握りしめる。
契約は今、ここに成立した。
クストたちのナザリック傘下入りが確定した瞬間であった。
「ああ、そうだ。ルプスレギナの様子が気になるのであれば――」
アインズは盲目の人狼に、道を指し示すような口調で、ひとつ提案してみる。
ナザリック地下大墳墓、第九階層の使用人室エリアの一角にある、ルプスレギナの私室で、赤毛の少女はベッドの上で五体を投げ出していた。傍らには、ポテトを満載していた包みが転がっているが、すでに食べ尽くされてクシャクシャになっている。
形の良い豊満な天突く双丘が揺れ動き、その重みを左右に広げる。
「退屈っす」
ルプスレギナは至高の御身より与えられた休暇の真っ最中であるが、その表情はけっして
休暇中ではあるが、彼女は常日頃から身に着けるメイド服のままである。主人から何時でも呼び出しを受けてもいいように、休息や休暇中でも、メイドたちはほとんど自分に与えられたメイド服を着たまま過ごすことが多い。無論、メイド服は予備として数着ほど着まわせる量がクローゼットに収納されており、中には私服や
落ち着くはずなのだが、どうにも普段通りに過ごせない自分を自覚せざるを得ない。
どちらかと言えば、ルプスレギナは休暇を満喫する志向の持ち主だ。完璧に仕事をこなしたら、あとはダラダラして過ごすのが理想的……なのだが。
「退屈……」
今、人狼のメイドは部屋の中で一人きりだ。
それでも、さすがに七日間も暇を出されては、ナザリックに仕える存在として、至高の御身に忠勤を尽くすシモベとして、いくら何でも休みすぎだと思考してしまう。
「う~、退屈ぅぅぅぅぅ!」
子犬がじゃれる声、というよりも、狼が唸るのにも似た声をあげながら、少女はベッドの上で手足をばたつかせるのを止められない。スリットから覗く太腿の肌面積が広がってしまうが構うことはない。
ナザリックに仕える戦闘メイドとして、本当に何もしないでいる時間というのは心苦しいものなのだ。
しかし、だからといって、休暇を勝手に返上して仕事に励むことをアインズは許可しない。
それもこれも、あの時、あの
攻撃をはじき防ぐのであれば聖杖でも事は足りたはずだ。だが聖杖は、その巨大さゆえに取り回しにはやや時間がかかる。その“やや”の時間が命取りとなり得る。あの瞬間、聖杖を握る手を緩めていたルプスレギナがクストたちを護る上では、ああするより他に処方がなかった。人狼のルプスレギナは金属への強い耐性を備えていたので、反射的に生身で投擲された武器を防げる自負が、あのように行動させたのだ。だが、投擲されたものはよりにもよって、人狼の最大最悪の弱点であったのが致命的であったわけで。
「はぁぁ……」
ルプスレギナは自分の左肩を撫でた。
この世界で――というか、創造されてから初めて味わった、それは激痛。
あれだけのダメージを、人狼の青年やビーストマンの少女が被っていたら、まず命の保証はできなかっただろう。
アインズであれば彼らを蘇生させることも容易なはずだが、果たして実際にそういった事態に直面して、青年や少女を蘇生させてもらえたかは疑問が残る。至高の御身にして智謀に優れる主人は、無闇に魔法の恩恵を他者へ、ナザリック外の存在へ施すことはありえない。エンリへの角笛の下賜や、
だから、……だから。
「何なのよ、これ?」
胸の奥が、もやもやする。
左の胸と肩の中間あたりに爪を立て、乱暴に掴む。
まるで今でもそこに短剣が突き刺さっているかのような、得体のしれない違和感がわだかまっていた。
だというのに、あの時、命を懸けて銀武器を抜いてくれた人狼のことを思うと、そこまで悪い気はしなくなる。
こんな思いを抱くのは初めてだ。
御方を侮辱した者たちへの怒りや、御方に失望された時に抱いた絶望感とは、違う。姉やメイドたちをからかう時に懐く爽快感とは、違う。本当に奇怪な思考であり、奇妙な思案をしていると自覚できる。自覚できるからこそ、その正体がつかめないことにもどかしさを感じているようだった。
馬鹿な自分の頭では言葉にできない感覚に懊悩しながら、人狼の少女はシーツの上で唸りながらゴロゴロ転がって違和感と格闘してみるが、
「……わからない」
その一言だけしか紡げない。
懊悩はさらにルプスレギナの気力を損なっていく。
これが牙の立つ敵であれば、殺して滅ぼして目の前から消し去ることも容易なのだが、誠に遺憾なことに、この不快感は自分の内側よりまろびでるもの。
どうしようもない。
だから、いきなり自分の部屋の扉をコンコンコンと叩く音にも乱暴に応えてしまった。
「なんすかー? 今は自分、休暇中っすよー?」
ナザリックの存在は、同じナザリックに属するシモベなどの気配を容易に察知可能だ。
至高の御方であるアインズは勿論、守護者や高レベルの存在は、そのレベルに応じた強い気配を漂わせ、逆に1レベルしかない一般メイドや低レベルの雑魚モンスターから感じ取れる気配は弱く、かなり朧げだ。
だからきっと、一般メイドの誰かだろう。
ルプスレギナは、そう思った。
「ルプー?」
もはや聞き慣れてしまっていた男の声に、思わず心臓が
我知らずルプスレギナは飛び起き、ベッドから駆け出し、勢いよく扉を開け放つ。
「クスト!?」
開け放った勢いをそのままに、戦闘メイドははしたなくも、そこに佇んでいた白い杖を突く青年に抱きついてしまっていた。
森の香りのように健やかな狼の匂い。
そこに存在する痩せぎすに見える男の、しかし意外に厚い胸板に顔を埋める。
強壮な人狼である彼であれば、常人では体が千切れるだろう体当たりを受け止めるのは容易い。衝突の反動を相殺するためにくるくる回りながら、人狼のメイドは朗らかに笑う。
「はは! やっぱり会えた!」
ルプスレギナは、かつて自分が沈黙都市から去る間際に抱いた予感の的中に心躍っていた。
クストの方は、相変わらず柔らかな笑みをもって、人狼のメイドに語りかける。
「うん。久しぶり、ルプー。体の具合は?」
「もう全快しているから、心配なんて無用よ?」
彼の鼻先を指で軽く突いてみせる。
生真面目なクストは、どうやらルプスレギナの見舞いに来てくれたようだ。
頭一つ分だけ見下ろしてくる青年は、やはり光を宿さない瞳の奥で、ルプスレギナの声と鼓動を確かに感じ取り、その変わらない調子に笑みを深めた。
そんな彼の黒髪をわしゃわしゃと掴み梳きながら、赤毛の少女はそこにある彼が本物であることを確かめずにはいられない。絹糸のように艶のある、無造作に伸びた人狼の髪は、紛れもない本物の感触。
「ふふ、ほんと久しぶりね、クスト。でも、……どうしてナザリックに?」
侵入してきたなんて言い出したら、たとえ彼であろうとも即座に
「なるほどね。今、アインズ様はどちらに?」
「沈黙都市周辺の森を、守護者という
アインズへの感謝を伝えるのは、御身が帰還された時で十分だとルプスレギナは一人ごちる。
「ここへ来たのは、アインズ様の御命令?」
ナザリックの傘下に下ったということは、彼もまたルプスレギナの仲間、至高の御身に忠勤を尽くすシモベ、セバスが保護しメイドとしての教練を施したツアレと同格の存在だと、見做されるだろう。至高の御身が、ルプスレギナが静養という処遇を持て余して退屈しているのを予期し、彼を遣わした可能性は十分にありえるが。
「いや。どちらかというと、僕の希望だよ」
まっすぐな言葉に虚を突かれる。
ルプスレギナは真顔を熱くさせられた。
ほんの少し、彼の顔を、見ていられなくなる。
「……ま、立ち話もなんだし、入って入って♪」
咄嗟に笑顔の仮面を装備して、自分の感情を覆い隠す。
彼を自分の私室に招き入れるのにも、極力、
クストは外の存在だが、ナザリックの傘下として共に働く存在を無下に扱うわけにもいかないのだ。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
人狼の手を引いて室内に戻ろうとしたメイドの耳に、これまた聞き慣れた少女の声が。
振り返ると、
「あれ? え、リンクちゃん――いつからそこに?」
「最初から!
地団太を踏みながら抗議する様は、成人年齢に達しながらも子供っぽさが残っていて愛嬌がある。
いつかの別れの時と同じようにそっぽを向く様も、既視感がたっぷり込められていて、ルプスレギナは仮面の笑顔を崩してしまった。もちろん、いい意味で。
「そうなの?
おどけたように微笑み主張するメイドであったが、実のところ本気で気づけなかった自分に、ルプスレギナ本人が驚いている。
完全にクストのことしか頭になかったメイドは、改めて、二人を室内に招き入れた。
ルプスレギナは、左胸にわだかまっていた不快感が、跡形もなく霧消していたことに気づいていない。
私室内に備えられたキッチンスペースでお茶の用意を整えたルプスレギナは、来客用のテーブルを囲う二人に茶とお菓子を振る舞った。
「それじゃあ、おもたせですが」
「おかまいなく」
「……おかまいなく」
これらは、料理人スキルのないルプスレギナが用意したものではない。
リンクがわざわざ用意して、携行していたバスケットの中にあったものを、部屋に備え付けのティーセットに移し替えただけの簡単なものだ。魔法の
――実は、これらは沈黙都市で業務移行作業に赴いていたアインズを歓待するために用意しておいたものなのだが、やはりアンデッドであるアインズには無用な代物であった。とりあえず客人を、上位者をもてなす礼儀として振る舞った後に回収したものであるため、とある観点から見ると、アインズの食べかけや残り物をルプスレギナは供与されている形になっている。これはアインズがクストたちの善意を無下にするのを憚って、ルプスレギナに下賜してもいいと言った結果である。
供与される本人は、そんな事実など知りようもなかったが。
「う~ん。リンクちゃんのお菓子は出来立てサクサクで美味しいっす!」
〈
ナザリックの料理長と比較するとどうしても劣った印象しか抱けないが、料理人というのはナザリックにとって必須な人員だ。至高の御方に仕える、飲食が必要なシモベたちの胃袋を支える人材を傘下に加えるアインズの計略を、ルプスレギナは否応なく確信せざるを得ない。
リンクは未だ成長の余地を残していると聞く。
料理長に教われば、あるいはさらなる料理人の道が開かれるのかもわからない。
「静養中って聞いたのに、完全に元気じゃないのよ」
自分の焼いた菓子の甘味に舌鼓を打ちながら、リンクは非難がましげに呟いていた。
「アインズ様は優しく、慈悲深い御方だから」
ルプスレギナのようなただのシモベが、傷を負った事実を憂慮して養生することを命じてくれた事実を、戦闘メイドは過たずに理解し尽くしている。退屈をもてあそんでいたのは、ひとえにルプスレギナ自身の不徳のいたすところなのである。
「まぁ、それは否定しないわ」
リンクもここ数日で、あの死の顕現――アインズと初めて対面を果たした時から、幾度か言葉を交わす機会を得ていた。
ルプスレギナというただのメイドでしかないはずの少女を第一に思う気持ちが、その言動の端々から漏れ聞こえていたし、兄や自分に対する言葉も紳士かつ真摯だった。はじめて理知的かつ交渉の余地を持つアンデッドと対したリンクは、その強大な力の持ち主がみせた、
そんな
「二人とも、ナザリックの傘下に下ったという話っすけど。具体的にはどのような使命、役割を与えられるんすか?」
「アインズ様、魔導王陛下が
「信仰系魔法……とすると、不遜な神殿勢力は壊滅っすかね?」
「それは、どうだろう。聞いた限り、陛下は人間も亜人も異形も、ナザリックの
「……あら、意外。
「そうかな? 国を統べ治めるというのは難しいことだからね。僕の養父も言っていたよ。『無血で治まる
「前も言っていたわね、クストの養い親……どんな人なの? 確か十三英雄とも繋がりがあるんだったわよね?」
「ああ。一言でいうと、猫かな?」
「……ネコ?」
「ビーストマンの覚醒古種というので、ほとんど猫だったんだよ。二足歩行可能な、小さな猫」
仮初の口調と本気の口調が入り混じるルプスレギナは、何やらファンシーな――ナザリックの清掃を担う
当時のビーストマンたちの信仰の象徴とも言われた人物で、ほとんど国の頂点に近い役割を果たしていたとか。クストを保護した段階でかなりの老齢であったらしいが、かなり
「おまけに養父――
「……ふぅん?」
聞いた内容は、大してメイドの心には響かなかった。
そういった頭を使う話は、御身や他の人に任せた方が得策だと判断し、後で報告しておこうと心のメモ帳に記し残すだけに留める。ルプスレギナは銀色の少女に話を振り直す。
「リンクちゃんは、どんな役割を?」
「私は、とりあえず何も聞いてない。カロルやイグニスたちも、何も聞かされてない」
だが、アインズであれば既に彼女たちの適正な役職や配置を思考しているはず。
リンクやあの狼たちも、等しく同胞の列に並ぶ日は近いだろう。
「二人とも――このナザリック地下大墳墓を、どう思う?」
ルプスレギナは自分に与えられた私室を見渡してみせた。
メイドという使用人程度にはもったいないくらいの広大かつ麗雅にすぎるスイートルーム。天蓋付きのベッド。内装にあしらわれた貴金属の煌き。沈黙都市での彼らの拠点の物とは比べるべくもないほど巨大かつ精緻な――これでもナザリック内では控えめな――シャンデリアの輝き。
室内に備え付けのティーセットは、それだけでも宝石のような価値があると判るほどに芸術的な意匠を凝らして、白磁の陶器の表面を
だから、告げる言葉は真実に他ならない。
「すごいね」
「すごいとしか言えない。何なのよ、この宮殿」
見えてないながらも感じることは可能なクストは率直に、見渡すリンクは呆れるようなポーズをとりながら、ナザリック地下大墳墓という聖域の偉大さに感服していた。
ルプスレギナは、思わず笑みを深めてしまう。
仮面のそれとは程遠い、それは女神のような微笑だった。
安らかで穏やかなティータイムをひとしきり楽しんだルプスレギナたちは、第九階層の私室から場所を移し、とある階層にたどり着いていた。
ルプスレギナは、勝手にこの階層に来たわけではない。
〈
「宮殿もすごかったけど……これが、本当に地下なの?」
青い空を見上げたリンクの呟く声に、ルプスレギナは笑みを浮かべて頷いてみせる。
メイドは一応の説明として、ナザリックに新たに加わった同胞らに対し、この階層のことを教授してみせた。
「周囲、数km。空を再現した天上までの高さは、200m以上。第六階層守護者の片割れであるマーレ様の魔法によって、外とまったく変わらない天候や気象、肥沃な大地を維持されている。至高の御方々の御力により、どういう仕組みかはよくわからないけど、昼と夜も、この階層では再現されているわ」
闘技場の転移門から、観客席の最上層へと昇りきった三人は、そこから広がる世界の様を眼下に見据える。
吹き込む風は心地よく、沈黙都市の周囲と似たような森が大地に根を張る様が見て取れる。
第六階層・ジャングル。
ここを任されている階層守護者、
ナザリックのシモベたちはこの異世界に転移してから、アインズの勅命によってそれまでの定められた配置から逸脱した階層や領域への侵入や警護――例を挙げれば、神域である第九・第十階層へのシモベたちの流入がそれだ――を認められており、最近では休暇休息中での移動も概ね容認されているのだ。
ルプスレギナたちは誰に憚ることなく、この大自然の広大な空間を散策することができるのである。
この第六階層に、クストとリンクたちの住居がおかれる予定なのだと、アインズは話していた。
「それは、つまり、世界を創った?」
メイドから説明されたことを飲み込むリンクの声に、メイドはまたも愉快気に首肯した。
ルプスレギナたちにとっての神々――否、神すらも超越した、偉大なる四十一人。
この地に最後まで残られた至高の御方々のまとめ役にして、ルプスレギナを沈黙都市に遣わし、こうしてクストたちと引き合わせてくれた智謀の王への尊崇の念を篤くする人狼のメイドは、黙りっぱなしの青年の顔を覗き込んだ。
「どう、クスト?」
杖を突く青年はそれに応えない。
応えられないというべきだろう。
ルプスレギナがその横顔にしばし見入るほどの時間を費やして、彼は世界に耳を傾き続けていた。
「すごい……本当に地下世界のようだね。空全体からの反響なんて、はじめての経験だよ」
やや興奮気味に、されど彼らしい冷静な物言いで、クストは答えた。
「それに生き物もすごい数がいるね。外にはいないようなものが多いようだけど、ドライアドやトレントの声や鼓動も聞こえる……他にもたくさん。これじゃ数えきれないな」
「驚くのはまだ早いわ」
ルプスレギナはご満悦という様子で頬を緩ませる。まるで自分が褒められているような錯覚を覚えながら、二人の手を引いて闘技場の最上段の観客席から外へ飛び出した。
「ちょ、待っ!」
〈
三人そろって大地に降り立つ。
その感触も、外の世界のそれとまったく遜色のない硬い実感を、クストとリンクの二人に与えた。
「さぁ、行きましょう」
先導するメイドに連れられ、クストはリンクに手を引かれる形をとって(未知の土地に妹が怯えているのを宥める意味も含めて)、森を進む。
道なき道を走破しつつ、二人はこの地に住まう魔獣――主にアウラのペットである高レベルモンスターなど――と面識を得ていく。
そのどれもが、外の世界の獣や存在とは一線を画すレベルの持ち主たち。下手をすると、ルプスレギナやクストよりも強壮かつ強靭なものが大半を占めているのだ。リンクなどは、借りてきた猫よろしく縮み上がりそうになるが、
「ふわぁ……」
肝が冷えっぱなしの狩人にしてビーストマンの少女は、開けた視界に目を奪われる。
そこは湖。
沈黙都市近郊の、原生林内にあった泉よりも広く透き通った水面は、オーロラのような幻想的なものに抱く感動を、初見の二人に等しく味合わせた。
思わず兄を振り返る妹は、微笑む彼の手を解放して、湖面に顔を覗かせた。
磨かれた金属のように映る銀色の耳と髪。獣の白い虹彩が、己をまっすぐ見つめていた。透明度で言えば、沈黙都市近郊の泉よりも透き通っているように見える。
「あそこに見えるのは、外から連れてきた
ルプスレギナが指し示した方角には、クストたちよりも早い段階でナザリックに受け入れられた蜥蜴人らが築いた木造拠点が僅かに見て取れた。湖岸に張った網を
「すごい……すごいなぁ……本当に、すごい」
リンクは僅かに疑っていた。墳墓という場所に暮らすものがいるという事実を。
しかしながら、こうして目の前で事実を見せつけられては、ぐうの音も出ない。
湖を一巡りするついでに、蜥蜴人の戦士や漁(という名の水棲モンスター相手の訓練)に出ていたものら、そして、ピニスンなどのドライアドたちとの顔合わせを終え、三人はさらに森の奥へ。
一行を先導していたルプスレギナは、そろそろいいかなと二人に振り返った。
「それじゃあ、リンクちゃん」
「なに?」
「ちょっとだけ走ってみる?」
「はし……え、走る?」
ルプスレギナは、沈黙都市の地下で教練に励む少女の姿を思い出していた。
「リンクちゃん、最近あんまり思い切り森を駆けまわったことがないんでしょ? でも、ここでなら、モンスターが怯えて騒いだり、不幸な遭遇なんてことにはならないし」
ここに存在するものは、ほとんどがリンクよりも格上な魔獣ばかり。外の脆弱なモンスターとは違い、彼らはリンクが駆けまわったところで、大した反応を示すことはないわけだ。兎のような小動物が跳ねてまわっているとしか思わないのである。
リンクたちがナザリックの傘下に入ったことは、彼ら二人が首から下げたメダル――アインズ・ウール・ゴウンのギルドサインが刻まれたそれ――を見れば明らかだ。魔獣たちはアウラのペットである以上に、この地を創られたアインズ・ウール・ゴウンの所有物。その
提案された少女は、ルプスレギナの意外に過ぎる物言いを受け、兄を振り返ってしまう。
クストは黙って頷くだけ。
「でも、もし万が一、襲われたり、とか」
「私がついていく限り、それはありえないから」
気安く請け負うメイドの微苦笑に後押しされてしまい、リンクは好奇心を抑えきれなくなったように瞳を輝かせ始める。
「……ついてこられる?」
「お? 言うっすね~♪」
入念な準備体操を終えた少女は、四足獣のように手足を大地に這わせ、クラウチングスタートのような恰好で、全身の
それは、彼女の保有する武技のひとつ“疾風走破”に必要な予備動作。
対して、彼女を見つめる二人の人狼は、とくに何の準備もしていない。
そんな二人に構うことなく、少女は一瞬で音を置き去りにしながら駆けていく。
豪快な風切り音を残して、少女のしなやかな肢体は、森の奥へと消えていった。
「――ありがとう、ルプー」
「別にいいわ、これくらい」
「うん。でも、ありがとう」
二人は短く微笑み合うと、銀色の風と化した少女のあとを追った。
リンクは森を眺めていた時から、胸の奥の鼓動を、頭の中に湧く好奇心を抑えるのに苦労していた。
故郷とも言うべき沈黙都市周辺の原生林以上の
だが、未知とは即ち危険をも意味する。
このジャングルに漂い巡るモンスターの気配は、外のものとはまるで規模も規格も異にしていた。異質というよりも異常だった。自分が知り得る強者であったクストよりも精強そうなモンスターが、一個の主のもとに統率され、群れるように存在しているなど。
しかし、あのルプスレギナと、彼女を派遣した主人の力を考えれば納得もいく。
そして、リンクは溢れる衝動に蓋をするのをやめ、思うままに、前へ――前へ。
爆発的なスピードで二人を置き去りにしたはずのビーストマンのユキヒョウである少女は、わずか数秒で自分に追随してくる存在を感じ取る。
振り返るまでもなく、それが誰なのか判断できた。
自分の世界が始まった時――集落から放逐され、死にかけたあの日――にも聞いていた、軽やかな四本脚の音色。
それが、二頭分――否、二人分か。
自分に出せる全速力をもって、少女は森の木々を跳梁し、大地の起伏を走破しながら、心地よい風の感触を我が物とする。
それでも、二人は――
どころか、すでに真横に並び立つ位置にまで接近されていた。
リンクは迷うまでもなく、さらに、前へ。
二人は、競い合うかのように、寄り添うかのように、自分たちという存在を確かめ合うかのように、互いの息遣いが聞こえるほどの位置に並びながら、森の中を溶けるかのごとく走り抜けていく。
どちらともなく、いつの間にか二人とも四本脚の獣――赤い狼と黒い狼に姿を変え、前方を行く少女の背中に追いついた。リンクの真横と言える位置へと至る。
チラリと横目に並び走る相手を伺うと、相手もまた自分を見つめていた。
おかしくなってルプスレギナは微笑みを強くする。
彼も応えるように笑ってくれる。
そして、リンクも。
赤と黒の狼が駆けていく。
銀色の少女を伴いながら、
人狼は世界を駆けていく。
ここまで読んでくれたあなたに、感謝の極み。
ルプーの逢瀬の続編です。
さっぱりしたルプーと、あまい感じのルプー。
相反するような二つの属性を醸し出す人狼メイドの描写に四苦八苦しております。
短編とは思えない文量になりつつありますが、まだまだ、ルプーたちの逢瀬は続く……のかな?
オリキャラとの絡みというチャレンジ作品ではございますが、どうかこれからも御贔屓に。
次は誰の逢瀬と出逢えるでしょうか?
それでは、また次回。 by空想病