「あっ、しまった」
レアと一緒に屋敷へ歩いていた俺だったが、もう屋敷は目の前というところで、ギルドへ短剣を置いたままにして来てしまったのに気が付いた。
「悪い、レア。ギルドに忘れ物して来たみたいだ。先に屋敷戻っててくれるか?」
「分かりました。あまり遅くならないで下さいね」
「分かってるって、じゃあちょっと行ってくる」
既に夕日も沈み、辺りが暗くなり始めている。俺は早足でギルドへ向かった。
ギルドにはまだ多くの人が居た。俺は自分が座っていた席まで行き、机の上や周りを探すが短剣らしきものは見当たらない。
「あの~、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい?」
結局、自分では見つけることが出来ずに受付に行く。
「このくらいのさ、黒い短剣をここに置いて行っちゃったんだけど届いてない?」
「あぁ、それでしたら」
受付嬢が後ろを振り向き、何やらごそごそと箱を漁る。
「これのことですか?」
「そう、それそれ!よかった~、盗まれたんじゃないかと思ったよ」
手渡された短剣を受け取り、腰に下げる。
「盗むわけがないではないですか」
「へ?なんでだ?」
「その短剣はギルドでも有名ですよ。あまり縁起の良い物ではないと」
言われてみれば当たり前だ。武器屋の店主がわざわざ客にこの短剣の不吉なエピソードを話しているのだから。
「うーん、俺は結構気に入ってるんだけどな。全然、悪いことなんて起こってないし」
「貴方がそう言うのなら良いですが、忘れ物には気をつけて下さいね」
「はーい」
ギルドを出た俺は既に夜道と言っても差し支えない街道を歩く、ふと見上げた空には月が出ていた。「綺麗だな」なんて思いながら歩いていると、通りかかった路地から動物の鳴き声が聞こえた。それは苦痛を伴った悲鳴のような声だった。
気になり路地を覗くとそこには、ひと目で酩酊していると分かる男が小さな犬と一緒にいるのが見えた。仲良くしようという風ではなく、憂さ晴らしに暴力を振るっていると言った方が正しい。
「おい、何やってんだよ」
理不尽な暴力を振るう様子を見て、思わず声をかけた。俺の声に男が手を止め、俺は子犬の前に立つ。
「あ?なんだお前、関係ねーだろ。どうせそんな奴、死んだって誰も気にしねーよ!」
男が手を振り上げる。まともな話し合いになるとは思ってはいなかったが、やっぱりか…。
「やめろ」
男が振り下ろしていた手をピタリと止めた。
…?語気を強めて言ったがまさかそれだけで手を止めるとは思わなかった。いや、よく見ると止めたというより止められたという表現がしっくりくる。
「お前、何だよ…。俺に何をしたんだよ!」
身動き一つせずに腕を中途半端に振り下ろしたままの男。
「おい、何言って…」
俺が一歩前に出ると男の顔は血の気が引き真っ青に染まった。
「うわあああ!助けてくれ!」
「お、おい!」
急に金縛りが解けたかのように動き出した男は一目散に去っていった。
「何なんだよもう…、人のこと見て逃げるなんて失礼な奴だな。お前もそう思うだろ?」
俺の後ろに居た子犬の方を振り向く。が、子犬はあからさまに警戒している。
「大丈夫だって、俺は虐めたりしないよ」
子犬の前にしゃがみ、笑顔で手を伸ばした俺だったが何も変わらない。ここまで拒絶されるとちょっとショックだ…。けど何だ?いくらなんでもここまで敵意を剥き出しにするか?
俺が子犬の様子に違和感を覚えている間に、子犬は走り去ってしまった。路地に一人取り残された俺は溜息をついて立ち上がる。ふと、窓に映った自分の姿が目に入った。
「あれ?」
目が紅い。特に違和感も無かったので気が付かなかった。いつからだろう?ギルドの受付嬢には何も言われなかった。この路地に来てからか?でもあの男も最初は何も言わなかった、なら俺が意思を持って「やめろ」と言った時だろうか。それなら男の態度も子犬の様子も納得できる。
「ってこれいつ元に戻るんだよ…」
別に問題はないが今の俺の目を街の人に見られたくはない。まあ、下を向いて歩けば大丈夫か。俺は気楽に考えながら路地を後にした。どうか知り合いに会いませんように。
屋敷に着いた頃には瞳は元に戻っていた。良かった、間違いなくナタリアに指摘されるところだった。
「どうかされましたか?」
考え事をしていて無意識にナタリアを見つめてしまっていたようだ。俺は「何でもないよ」と伝えようと思ったが、路地で俺の目を見た時の男の様子を思い出し、ある考えが浮かんだ。
「なあ、ナタリア」
「…?はい」
「後で話があるんだ。レアに気付かれたくないから夜中になると思うんだけど時間は空いてるか?」
「特に予定はありませんが、レア様ではなく私で宜しいのでしょうか?」
笑顔で尋ねるナタリアだがどこか言葉の端に棘を感じるのは気のせいだろうか。
「ああ、頼むよ」
俺は手を合わせて頭を下げる。
「承知致しました。お待ちしております」
夜、皆が寝静まった頃に俺は体を起こす。レアは静かに寝息を立てている。寝ているレアを見ても口渇感を覚えることはない、女神の血による浄化が失敗しているというわけでは無さそうだ。やはり試すしか無い。俺は物音を立てず、静かに自分の部屋を後にした。
通り慣れているとはいえ暗い廊下は正直、不気味だ。俺は少し早足気味でナタリアの部屋へ歩いて行く。
俺が気になっているのは路地での男の様子だ。あれは俺の目を見たことによって強制的に動きを止められたんじゃないだろうか。確かめたいがレアが相手じゃ試せない、あいつ状態異常無効とかいうチート持ちだからな。結局、屋敷で頼めそうって言ったらナタリアしか居ないよな…
俺はナタリアの部屋の扉を軽く叩く。返事を受けて中へ入るとナタリアがベッドに腰掛けていた、メイド服で。
「…いつもメイド服で寝てるのか?」
聞かずにはいられなかった。
「違います!今夜は特別なだけです!」
「そ、そうか」
俺はナタリアの隣に腰掛ける。
「ですが、本当に宜しいのでしょうか…旦那様にはレア様が…」
「ナタリアじゃなきゃ駄目なんだよ」
俺は真っ直ぐにナタリアを見つめて答える。
「旦那様…分かりました。私に出来ることなら何でも致します」
「ありがとう、それじゃあ…」
俺はほんの少し目を細めて瞳に意識を集中する。そして、ナタリアと視線を結ぶ。
「あの…旦那様?あまり見られるとその…」
俺が黙ってナタリアを見つめていると、困ったように目を逸らす。
「俺をちゃんと見てくれ」
両肩に手を掛け、ナタリアの体ごとこちらに向ける。
「旦那様…」
再び視線を結ぶ。
「…?旦那様、その目は…」
ナタリアは違和感に気付いたようだ。恐らく俺の瞳は紅に染まっているはずだ。
「…っ!」
しばらく目を合わせていたナタリアが小さく体を震わせる。どうやら上手くいったようだ。
「体、動かせるか?」
「い、いえ、これは一体…?」
「たぶんだけどある人から貰った力だ、目を合わせた相手の体の自由を奪う」
あえて"ある人"と言ったのは吸血鬼と戦ったことをナタリアが知れば心配するからだ。
「これが旦那様の新しいお力…なんて…」
やばい、急に体を動けなくするなんて流石にまずかったか?一言断ってからにするべきだっただろうか。
「なんて素晴らしいお力なんでしょう!」
「え?」
「このような遠回しな方法を取らずとも私は旦那様に全てを捧げる次第ですのに、あえて自由を奪ってからとは…一切抵抗できない私はこれから旦那様にどのように恥辱の限りを尽くされてしまうのでしょうか…?」
やはり説明してからにするべきだった。というか普通に話してるけどほんとに動けないんだろうなこのメイド。
「……じゃあ俺は部屋に戻るよ、あ、しばらくすれば動けるようになると思うから、それじゃあな」
「えっ、あの、旦那様!?」
俺は恍惚の表情をしているナタリアをスルーすると、深夜ということもあり誤解を解くのも面倒だったので明日にでも説明しようと決め、ベッドから立ち上がり、部屋の扉に手を掛けた。
ナタリアは困惑し、俺を呼び止めようとするが体は固まったままだ。うん、いい能力だ。クローリアに感謝しないとな。
「私はこのまま放置なのですか!?旦那様ー!」
俺はそっと扉を閉めた。
廊下の窓には暗い夜空に月が映えていた。今夜は月が綺麗だな…。
「さて、部屋戻って寝るか」
俺は大きな欠伸をすると、自分の部屋に向かって静かに歩き出した。