帰らなくちゃ。帰らないと。
私は、ここにいてはいけない。
シャルロット?違う、わたしはタバサ。シャルロットは、あの人の娘の名前。私の名前は、タバサ。人形に、大層な名前なんて必要ない。涙なんて必要ない。心なんて、もってのほかだ。
早く、あの人を連れて戻らないと。
でも、どうして。どうして行動に移すことができないの?いつもの私じゃない。いつもの私?私は、誰?
うん、私はタバサ。タバサだ。
タバサ タバサ タバサ タバサ タバサ タバサ タバサ
タバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサタバサ
タ
バ
サ
シャルロットさん?
どうしてあの人から、母様と同じ匂いがするのだろう。
アンリエッタは、シルフィードの近くでぼーっとしているシャルロットの元に来て話しかけた。シャルロットは、シルフィードと、ヴァリエール家から連れてきた小動物たちに食事を与えた後、ずっとそこにいるようだ。
「どうしたんですか?シャルロットさん?」
「……別に、何もしていない」
シャルロットはそう返事をした。アンリエッタとしてはそんなこと重々承知だ。そもそも何もしてないのであるからして声をかけたのだから。シャルロットは周りを見る。いつも彼女と一緒にいるアニエスの姿はない。今なら、彼女を連れて、ガリアに戻ることができる。そうしたら……。
何も変わらない。自分の生活は変わることはない。彼女を連れて帰ったとしても、待っているのは彼女の処刑、その後は何も変わらない汚れ仕事が待っているだけ。そう、いつもの生活に戻るだけ。友達も、仲間も、友情も必要ない。私には……。
私には何がある。こうして、命令に従ったまま過ごして、母様の心が戻ってくるのをただひたすら待つのか。けど、戻るとは限らない。戻らないまま、危険な任務の途中に死んでしまうかもしれない。そうなったら……あの人の中のシャルロットは、完全にあの人形となってしまう。そうなったら、私は何になる?タバサ。そう、人形のタバサ。笑いもせず、涙も見せず、言葉も発せず、感情の起伏なんて全くない。父も母もいない、ただの人形として、死んでいく。誰にも悲しまれず、ただただ喜びの中で死んでいく。違う、死ぬのではない。壊れてしまうのだ。壊れて、物のようにその辺の荒野へと野ざらしにされ、皮も、肉もそぎ落とされ、地面に吸収され、骨だけになって、もちろんそこに墓なんてあるわけない。太陽の日に照らされ、雨に濡れ、そして脆くなった骨はいつしか強い風に巻き上げられて、自然の中へと消えていくだろう。そうすれば、いつかは母様の許に、帰っていくことができるだろう。その時が、自分の安らぎの時となるのだろう。
やはり、夢物語なのだろうか。昔見たイーヴァルディの勇者の物語の中にある。『勇者に助けられる囚われのお姫様』のようになって見たい。そう夢を抱くのは、人形が夢見ることは、間違いだったのだろうか。
「シャルロットさん」
「……え?」
その時、アンリエッタがシャッルロットの杖を持っている方の手を握りしめた。その手を見ると、血がにじんでいる。どうやら無意識に強く握りしめたことにより、爪が食い込んでしまったようだ。
「……何を悩んでいるのか、私に話してもらえませんか?」
「……どうして?」
「今の私にできるのは、それぐらいですから……」
「……話しても無駄」
「無駄かどうかは、話してくれないと分かりません」
「……」
シャルロットは、彼女のその言葉に、胸が締め付けられるような気がした。思い返せば、ここまで自分と長く話してくれる人がいただろうか。いや、一人いた。キュルケだ。彼女はどれだけ自分が嫌がろうとも、無視しようとも一緒にいてくれた。学院にいたときも本ばかり読んで外に全く出なかった自分を無理やりにでも外に連れ出した。その優しさが、なんだかうれしかった。でも、彼女には結局自分の事は全く話していない。どうせ『話しても無駄』だから。
「シャルロットさん。私には、あなたがどんな過酷な人生を送ってきたのか、全く知りえません。それは、貴方と話す時間が短かったからです」
「……」
「でも、これだけは分かります。貴方には味方がいます」
「味方……?」
「えぇ、私や、キュルケさん、それにユウスケさん達……みんな、貴方の味方です」
「……」
味方、本当にそんなものがいるというのだろうか。少なくとも、アンリエッタはそう思っているのだろう。しかし、自分には味方という物がいるとは全く思えない。アンリエッタの言う味方、それは自分にとっては敵なのかもしれない。この世の中に信用に値する人物がいるというのだろうか。自分の事を理解してくれる人がいるというのだろうか。自分が何のために生まれ、何のために生き、どういう意味を持って死んでいくのか、それら全てを理解してくれる存在がいるのだろうか。いない。絶対にいない。自分は、自分という人間は、人形は、一人しかいないのだから。
「……」
「黙っているというのなら、いいです」
ほら、彼女ももう自分を見限った。どうせ自分の事を心配してくれる人間なんて……。その時、アンリエッタは、タバサの身体をその腕で包み込んだ。
「え?」
「貴方が心開いてしゃべってくれるまで、私はあなたの側にいます」
「……姫様」
何故だろう。どうして彼女に抱かれるとこんなにも心が安らぐのだろうか。それに、この心地いい気持ち、前にどこかで。そう、あれは幼少の頃、まだ母の心が壊れていなかった頃、よく母様に抱き着いていた。あの時と同じようだ。あぁ、そうか。どうして、彼女と母を重ねてしまったのか分かった。優しいからだ。その優しさに母性があるからだ。もしかしたら、彼女が……自分は、それが男でなければならないと完全に思っていた。でも、もしかしたら彼女は……。
「姫様……」
「はい」
「もう少し……このままでいい?」
「はい」
自分を助けてくれる勇者なのかもしれない。
「アニエス、アンリエッタ姫から離れて本当によかったの?」
「あぁ、あの家の中には士をはじめ、お前の仲間達がいる。いざとなったら彼らが止めてくれる」
ユウスケ、アニエスの二人はある事情により光写真館から少しだけ離れた場所に来ていた。
「それに、今の私は丸腰だからな。陛下を守ろうにも、銃だけでは……な」
「そっか……」
彼女の言う通り、現在アニエスの手持ちの武器は銃のみである。剣は、ヴァリエール家でのワームとの戦いにおいて刀身が折れてしまった。この世界の銃は性能が悪く、空高く飛ばれてしまえば届くはずがない。ならば、自分にできる事はこの身を犠牲にしてでもアンリエッタを守るということ。とはいえ、現在あの光写真館の中には自分が屋敷で見た限りかなりの力を持っていた士、不思議な魔法を使う鳴滝姉妹等いざとなったらシャルロットを止めてくれる人間がいる。だから、少しぐらい離れててもいいだろうと、思ったのだ。
「ならば、今私ができうることをするのみ……早くシエスタを見つけなければ……」
「うん、そうだね……」
そう、二人は現在シエスタを探しているのだ。あの一連の騒動があった後、一度は写真館の中に入ったシエスタであったが、少しして外に飛び出してしまったのだ。それに対して、アンリエッタがシエスタを追おうとしたが、アニエスがそれを止め、彼女と話すのなら、同じ立場である自分が行った方がいいということでアニエスと、そして付き添いでユウスケが行くことになったのだ。果たして、シエスタの姿はあっさりと見つかった。
「アニエス……」
「あぁ……」
綺麗で、大きな湖のほとり、そこに遠くを虚ろな目で見つめているシエスタの姿があった。アニエスは話しかける。
「シエスタ」
「……」
何も語らない。続けてアニエスが言う。
「何も語らなくてもいい……ただ……」
「ありがとうございました」
「なに?」
シエスタからの突然の礼に対し、アニエスは少し狼狽えてしまう。
「私を止めてくれて……私、アンリエッタ様の顔を見た瞬間、頭が真っ白になってしまったんです……この人のせいで、父や母、村の皆が死んじゃったんだって……そう思ったら、私、手に持っていた包丁をあの人に向けていました……」
「……私にも分かる。あいつがいなかったら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろう。こいつがいたから、私はすべてを失った……私も奴の姿を見たときそう思って、怒りに我を忘れてしまった」
「……」
「復讐をするな……そんな綺麗事、私が言うべき言葉ではないだろうに……」
「そんなことないよ」
アニエスの言葉を否定したのは、ユウスケだった。
「ユウスケ……」
「俺は思うんだ……綺麗事が、世界で一番素敵な言葉なんだって……。けど、それはほとんどが夢物語で、誰もがそれを追おうとして、諦めて、一番現実にしたいことのはずの事なのに、その言葉を放つ人間が笑いものにされてまるで悪人のように扱われてしまう……。けど、それでも無理やりにでも理想を追求しようとして、いつかそれが暴力に変換されてしまう。そして、現実へと埋もれてしまって、綺麗事を言えない世の中になってしまう。でも、だからこそ、現実にしたいんだ。話し合おうともせず、憎しみと悲しみだけで自己完結してしまうなんて……悲しすぎるから」
「……」
「矛先を見うしなったのなら、それを暴力なんかじゃなく、別のことに変えればいいんだ」
「別のこと、とは?」
「生きることへの熱意……とかさ」
ユウスケが言ったのはあまりにも極端かつ、大雑把な例である。だが、復讐心という物はどうあっても消すことのできない炎だ。だから、シエスタの中の復讐心を消すことはどうあっても不可能であり、その心に安らぎをもたらすことは、他人には不可能だ。だから、折り合いを付けなければならない。自分の中に住まう悪魔と、どう絶望と希望を分け合うのかの、そんな折り合いを、つけなければならない。
「それが、いいのかもしれませんね。私、明日から頑張ってみます……まずは、仕事から見つけないと……」
「え?仕事って……」
シエスタのその言葉に、ユウスケは疑問に思った。彼女は、ルイズの専属のメイドという仕事があったはず。それなのに……もしかして。
「言っておきますけど、ルイズ様が私に払う給料がないからという理由ではありませんよ」
「えっ……?」
「……」
そう言うと、シエスタは自分の近くに置いてあった小さな石を一つ持つと、湖の水面に向けて投げる。すると、ポチャ、という音を立てて一度水しぶきが立ち、その場所を中心として波紋が広がっていく。広がって、いつしか波もたたなくなっていく。
「考えてみてください。私は、ルイズ様のご友人であるアンリエッタ姫に、刃を向けたのですよ。……そんな私を、許すと思いますか?」
「……」
「私は、あの方の近くにいる資格なんてないんです。だから……ルイズ様が目を覚まさないうちに、あの人から離れないと……」
「許さないわよ!!」
「ッ!」
その時、シエスタの後ろの森から、一人の少女が現れた。ルイズだ。大きく肩を上下させて息を整えているのを見ると、どうやら光写真館からここまで走ってきた様子だ。そして、彼女は言った……。
そんな彼女たちの様子を、緑色の蛹態のワームが見ているとは知らずに。蛹態のワームは、ルイズの姿を見ると、森の緑に姿を隠しながらその場から消えてしまった。