俺が、俺じゃない俺のことを最初に見たのは、あの生暖かくて背筋に入ると気持ちの悪い雨が降り始めた時のことだった。
傘もささずに電気屋の前に佇んでいた幼い少年。本当なら声をかけても良さそうなものを周りの人間はその子に声をかけようともしなかった。
だが、それも当然だ。見窄らしい格好で、ぼうっと何時間にもわたってTVを眺めている少年に声をかける物好きなんているはずがない。
海外の検証でもそれは実証されている。ボロボロの服に、顔が汚れた子供が道端で座っている時と、見るからに高価なものを着込んでいる子供が道端で座っている時、街を歩く人はどのような反応をするのか。結果は、誰もが予想する通りであろう。
話はそれたが、ともかく彼は電気屋さんのテレビに映っているある物を見ていた。それは、IS日本代表であり、モンド・グロッソ二連覇を達成した公式戦無敗のブリュンヒルデ、織斑千冬の引退会見であった。
誰もが驚愕して迎えた最強の引退。その理由はただ一つ、この国でISに乗る理由がなくなったから。モンド・グロッソ決勝戦において発生した弟の誘拐事件の情報を自らに与えず、放置したこのような国で戦うために自分はIS乗りになったわけではないと、弟を犠牲にしてまで戦いたくないと、織斑千冬は暴露したのだ。
この発表に会見場にはどよめきが起こっている。それもそのはずであろう。何故ならば織斑千冬の弟の誘拐事件が発生したという情報も驚きに値する。だがそれ以上に日本という国が自分たちの国の利益のために一人の少年を見殺しにしようとしたという事実は、まさしく青天の霹靂。
恐らく、明日の一面はどの新聞紙も凛とした表情を見せているが、しかしその中にどこか怒りを感じている織斑千冬の顔写真で彩られ、政治家へのバッシングの嵐となることだろう。
彼は、その会見を見ていてなんだか嬉しくなった。よかった、自分は見捨てられていなかったんだと。
最初は、姉が自分の名誉のために弟を犠牲にしたという事実に対して、驚きと戸惑いを隠すことが出来なかった。当然だ。何故なら、彼は知っていたからだ。彼女は自分の利益を一番にする人間ではないということを。
彼女はいつも弟第一だった。熱が出た日はいつもより早く家に帰ってきてくれて、泣いている日は自分が泣き止むまでそばにいてくれて、いつも自分のことを守ってくれて。そんな理想な姉、世界中のどこを探してもいないという確信もあった程。
だから嬉しかったのだ。千冬の本心を聞けて、そして千冬の自分に対する愛情も聞けて、とても嬉しかった。
例え、その愛情の方向が本当の自分ではなかったとしても。
「いっくん、風邪ひくよ」
「……束さん」
雨が止んだ。いや、正確に言えば誰かが自分に傘を差しだしてくれたのだろう。そんな物好き、考えられるだけで一人しか存在しない。
篠ノ之束、幼馴染である篠ノ之箒の姉であり、自分の命の恩人である女性だ。もしも彼女が異世界で砂漠の中を当てもなく歩いていた自分を見つけていなかったら、今頃骨となって砂の中に埋もれていたであろう。
「あそこに、いっくんがいるね……」
「はい……」
会見場を映しているカメラは、その場にいた一人の少年の姿も映していた。恐らく、千冬にとって予想外の事だったのだろうう。すぐ裏に下がるように言っている。
織斑一夏。今この場で彼のことを見ている物と同じ名前であり、同じ顔を持つ人物だ。
だが、彼は知っている。今会見場にいる彼は本物の自分ではないということを。本物の自分がここにいるのだから、当然のことだ。
彼は、いわゆる偽物。自分の顔と名前をそっくりそのままコピーしたワームという怪物であるそうだ。恐らく、自分が拉致された現場に現れたあの緑色の怪物がそうなのであろう。
姉は、偽物の自分が本物であることを信じている。いや、違う。疑ってもいないのだ。だが、それも当たり前のことだ。そもそも彼女はワームという怪物を知らない、例え、本物の織斑一夏を知っていたとしても、ワームという偽物になれる怪物のことを知っていなければ、偽物が自分の目の前にいるという考えなんて思い浮かぶはずがないのだから。
もしそんなことを思い浮かべるような人間がいるとしたら、それは狂人が夢物語が好きな理想家くらいだ。
「どうするの?」
「どうするって……何がです?」
「いっくんを本物だと認めさせる証拠なんていくらでもある。例えばDNA検査とか……」
今自分があの会見場に行って、本物は自分だと言う権利はある。証拠もある。束の言う、一発で自分と織斑千冬との血縁関係を暴くことのできるDNA検査などその最たる例だろう。
だが、言うのは簡単ではあるがそれを実行に移されるほどに彼の心は穏やかではない。
「無理だよ……束さん」
「……」
「だって、俺の身体は……」
そういう一夏の顔には、模様が浮かんでいた。自分が怪物であるという証である、その模様が。
「いっくん……ここじゃ人目が多すぎる」
「はい……」
束に腕を掴まれた一夏は、顔に浮かんでいた模様を鎮める。いけない、少し気を抜けばすぐに忌々しいこの模様が顔に浮かんでしまう。
そう、実は自分はすでに人間ではない。自分は、一度死んだのだ。だが、幽霊というわけじゃない。怪物だ。それも、ワームとはまた違う別の怪物。別の世界ではそれをオルフェノクというらしい。
一度死んだ人間が変化する怪物オルフェノク。自分はあのワームが来た時のどさくさで一度死んで、オルフェノクという怪物になった。
俺は本物であり、怪物。彼は、偽物であり怪物。彼は、生まれながらの怪物。俺は、元は人間だった怪物。似て非なる、しかし明らかに違う両者。そのどちらが姉のすぐそばにいても、同じことだろ。幸い彼は誘拐事件のショックで記憶をなくしているそうだ。恐らく、怪物としての自分のことも忘れているのだろう。なら、怪物であることをしっている自分がすぐそばにいるよりも姉の安全は保てるのではないだろうか。
だから、俺は姉のすぐそばには行けない。いつ自分が心を失って、オルフェノクとして姉の命を奪うか分からないから。だから、俺は姉のところにはいかない。
すべては姉の命を守るため。姉を思う少年は、姉から離れるしかなかったのだ。
束の差し出した傘を押しのけて見上げると、そこには雲の切れ間から月が見えていた。いつの間にか雨が上がっていたのだろう。
この空の向こうにはいったいどんな世界が待っているのだろうか。この空の下には、いったいどんな人間がいるのだろか。本来の自分が歩むはずだった人生、本来の自分が出会うはずだった人たち。
未練だな。彼は自嘲するようにそうつぶやいた。姉から離れる決心を付けた後に、未来の自分のことを思い浮かべるなんて、本当に自分は女々しくてしょうがない。
「なぁ、束さん」
「なに?」
「束さんは、平行世界って奴を行き来することが出来るんですよね……」
「ISの研究をしている時の偶然の産物だけどね」
そう彼女は謙遜しているが、しかし自分はその偶然の産物のおかげで助かることが出来たのだ。
正直、平行世界を行き来する装置の開発なんてただそれだけでもノーベル賞間違いなしの大発明だとは思うが、それを偶然の産物ということで作れ、しかもそれでもなお偉そうにしない束という女性は、抜け目なし、贔屓目なしに見ても天才であると言えるであろう。
「その装置を使って……行ってみたいところがあるんだ」
「行ってみたいところって?」
「……もしも、もしも俺があの時千冬姉に助けられていたら・・…そのあと歩くはずだった人生を……友達を見てみたいんだ……」
「分かったよ……いっくん、いっくんが望むのなら……」
この時、束は少し複雑な表情を見せた。もしかしたら知っていたのかもしれない。平行世界の自分たちがどんなことになっているのか、平行世界の織斑一夏がどんな悲劇的な人生を送っていたのかを。彼女はすでに知っていたのかもしれない。
人通りが増える中、二人の姿は一瞬のうちに消える。そして、その場には彼ら二人がいたという痕跡は何も残っていない。あるのは、何も変わらない日常を謳歌している有象無象の人々の群れのみ。
「そして、俺が見たのは……地獄だった……」
「地獄、それって……」
織斑一夏が語ったのは、あの地獄の世界の事。それは今朝この偽物の織斑一夏も見たあの地獄のような世界のことだ。
友が、先生が、姉が蹂躙され、織斑一夏が迫害される。そんな世界。それがいくつも、数を数えるのも諦めるほどにあった。
全員が全員支配下に置かれた世界もあれば、極数名が支配下に置かれる世界もあったそうだが、しかし一貫して言えることが、支配下に置かれた女性たちはみな、人間らしい生活を奪われていた。女性としての尊厳を奪われていた。しかし、そんなことを全く気にしない、気に留めることは無い。それほどまでに心を壊されていた。
本物の織斑一夏は、そんな彼女たちをみて怒りが沸いた。どうして、平行世界の自分はこの惨状を見て何もしなかった。何故彼女たちを守らなかったんだと。だが、答えは残酷なまでに簡単なことだった。
「弱かったんだよ! 俺は!!」
「ッ!?」
「織斑一夏が弱かったから! 誰も守ることが出来ない、奪われてばかり! 友も! 肉親も! 尊敬する人も! ISも奪われた!! そうだ! 全部、全部! 俺が弱かったんだ! 弱かったから! 殺されたんだ!! みんなの人生を!!」
各世界の織斑一夏は悲惨な物だった。
ある者は、白式を奪われ。
ある者は、IS学園を追い出され。
ある者は、その惨状を見たくないと国外に逃げ。
ある者は、人権を失った少女たちとの情交を強制的に見せられ。
そして、ある者は自らの命を―――。
だが、自分の事なんてどうだっていい。一番大事だったのは仲間たちの人生だ。
どの世界の自分も、仲間の人生を救うことが出来なかった。幸せにしてやれなかった。すべては、人間織斑一夏があまりにも弱かったから。
弱い人間が、守るなんて言葉を使って自分をごまかしていたから。
弱い人間が、織斑千冬の弟になんてなったから。
弱い人間が、誰かを頼り切っていたから。
弱い人間が、周りの気持ちに気が付いていなかったから。
自分が弱いから、自分が人間だから。ただの、人間だったから。
そうだ。人間じゃない織斑一夏がいるじゃないか。
「けどこの世界は違う! 人間じゃない、怪物の織斑一夏がいる! お前だったら皆を救うことが出来る! 守ることが出来る! その力で! その白式で!!」
「一夏、お前ッ!」
思えば、彼の行動には矛盾している物があった。
例えば昨日、復讐すると言っておきながら一度織斑千冬の殺害に失敗しただけで興が冷めたと言って立ち去ったこと、昨晩精神状態が最悪だった自分や仲間たちを闇討ちしなかったこと、もしも彼が本当に復讐に身を焦がしていたとしたら決して見逃すことのできない大チャンスが紛れ込んでいたというのに彼は全く少女たちに手を出していない。
それにそうだ。あの時、彼は飛び立つ直前に自分たちに顔を見せないように背中を見せていた。もしかして、あの時彼は笑っていたのではないか。自分が身を挺して織斑千冬を助けた事に、喜んでいたのではないだろうか。
そうだ。確かに彼は箒たちに罵声を浴びせた。でも、それは信じていたからじゃないのか。彼女たちがそれを乗り越えてくれることを。乗り越えた彼女たちがさらに強くなるということを望んでいたのではないだろうか。
「ッ!」
「あっ……」
その時、二人のISが同時にその機能を停止した。ついにバッテリーが切れたらしい。二人が、巻貝のような建造物の坂道になっている場所に降り立つと同時に、役目を果たしたISは青白い光と共にそれぞれのアクセサリーとなって消え去る。
これで終わりか。いや、違う。ここからが本番なのだ。
「ここからは生身……ここからは、人間織斑一夏と! 怪物織斑一夏! どっちが勝つかの勝負だ!!」
「ッ!!」
本物の織斑一夏はオルフェノクへと変身し、偽物の織斑一夏はワームへと変身した。
いや、もう本物と偽物という区別はない。何故なら、本来本物と呼称されるべき織斑一夏は本物の称号をすでに捨てていたのだから。ここからは中に浮いた本物の織斑一夏という称号、その奪い合い。
だが、それは出来レースだ。何故なら、一方の織斑一夏には、勝つ気はないのだから。
「うあぁぁぁぁ!!!」
「ッ」
オルフェノクは殴る。殴る。殴る。そして、影となった織斑一夏は叫ぶ。悲しみのこもった声で。嘆き苦しむ。
そして、殴る。
「ッ! がはッ……」
♪すれ違いのせつなさ 涙で胸が痛い♪
「ハァ、ハァ、どうした、来いよ……織斑一夏ッ!!」
♪明日になれば消えるの…?♪
「こうするしか、方法はなかったのか?」
♪次のステージのために♪
「……」
♪強い自分をつくろう♪
「自分の人生を捨てて、それでいいのかよ!!」
♪失うものもある♪
「ッ!」
♪それでもいい♪
二人は殴り合う。もう、二人とも分からないのだ。何故自分たちが争わなければならないのか。何故自分たちが殴り合わなければならないのか。何故自分たちが織斑一夏であるのか。
自分自身が何者なのか。全く分からない。それでも、二人は殴り合わなければならない。
生きるために。
死ぬために。
殴り合う。
「いいパンチじゃないか織斑一夏!」
♪うつむいてばかりじゃ♪
「ちがう、俺は……」
♪つかめないよ♪
「違わねぇ、お前は織斑一夏! 俺は……ただの怪物だぁ!!」
♪一度しかないチャンス 見逃さないで♪
「ッ!」
「俺だって色々考えたんだよ……俺に、何ができるかって!」
♪まっすぐな瞳で 世界を照らしていこう♪
「けど、何もできない! 気づいちまったんだ、ひとりじゃ……なにもできないって!」
♪初めて知った ひとりでは何もできないね♪
「けど! お前ならできるんだ! 人間じゃない、怪物の織斑一夏なら!」
♪月に語り掛けた夢の先へずっと♪
「なんで! そう断言できるんだよ!」
♪終わらないの…♪
「当たり前だろ!」
♪祈り、♪
「お前は……」
♪届いて♪
「織斑一夏であり、織斑一夏じゃないんだからさ……」
「ッ!?」
♪あの雲を突き抜けて♪
二人は、まるで示し合わせたかのように同時に距離を取る。二人とも分かっているのだ。
次が、最後の一撃になりえるということを。
「ちょっとあれ!」
「ッ!」
その二人の姿はIS学園全体に映し出されているモニターで見ることが出来る。当然、戦闘中の少女たちにも。双方ともにボロボロで、もう立っているのもようやくと言わんばかりの姿。そして、連合軍もまた、モニターに注目し始めていた。この戦闘が始まって、初めて静けさが訪れる。まるで、審判の時を待っている罪人のような二人の姿を、その場にいた全員が固唾をのんで見守る。
戦闘中の彼女たちは、先ほどまでの一夏たちの会話は断片的でしか入ってきていない。だが、これだけは分かる。本物だった織斑一夏は、ここに死にに来たのだと。死ぬために、帰ってきたのだということだけは、分かる。
だから、この戦いは出来レースだと言ったのだ。本物の織斑一夏が、いかに格好良く死ぬことができるかの、勝敗がすでに決してしまっている試合だったのだ。
その刹那、二人の一夏が動いた。
「一夏さん!」
♪そう Don't be afraid♪
セシリアの
「一夏!」
♪迷わず、♪
鈴音の
「一夏!」
♪思い切り♪
シャルロットの
「一夏!」
♪飛べばいい♪
ラウラの
「一夏!!」
♪だいじょうぶ☆♪
簪の
「一夏くんッ!」
♪Please tell me♪
楯無の
「織斑君!」
♪いつでも♪
山田の
「一夏君……」
「「「一夏さん……」」」
♪もっと話をして♪
麻帆良ガールズの
「一夏君!」
♪I believe you 孤独な♪
夏海の
「一夏君!!」
♪孤独な♪
ユウスケの
「織斑一夏君……」
♪夜もこえて♪
栄次郎の
『織斑君!』
『一夏君!』
♪いける♪
IS学園全生徒の
「一夏……」
「……」
♪となりに♪
千冬の
「やっちまえ、一夏」
♪君がいて♪
士の
「ッ! 一夏ぁぁぁぁ!!」
♪くれる♪
そして、箒の
二人を呼ぶ声が届いた瞬間。
「「うぉぉぉぉぉぉぉ!!!」」
♪それだけで…♪
一つの拳が彼の顔面を砕いた。
「ッ! お前……」
「それでいいんだ。その強さがあれば……皆を、千冬姉を守ってやれる……」
「一夏!!」
「その名前で呼ぶな……その名前は、お前にくれてやったんだからな……」
「あっ……」
「おれは、ただの怪物だ。だから、怪物として、死ぬ……」
「ッ!!」
足を踏み外したか、あるいは故意であったのか。彼の足は、自動的にという言葉が当てはまるほどに宙に向かう。
そして―――。
「皆を……頼んだ……守ってくれよ……」
「さようなら、織斑一夏」