意味のある涙が、血だらけの女性の頬へとこぼれ落ちていく。雨のように、数百年前からなだれ落ちる滝のように、もちろんそれは終わることのない物。親友を失った悲しみは、ドラマのように劇的なものではなく、あっさりと訪れてしまった。今なぎさにできる事は、ただただそれを認識し、ほのかを抱きしめてあげることぐらい。周りの人間にできる事は何もない。仲間を失った悲しみ、それもまた十分に悲しいこと。例え、大人になったとしてもその感情だけは忘れていなかった。
「ほのかさん……私たちがもっと早く来ていれば……ッ」
もっと早く救援に来ていれば、助けられたかもしれない。
「あなたたちのせいじゃない……私が、彼女を止めなかったから……」
あの時、何が何でも止めていれば助かったかもしれない。
「……俺が、この世界に来たからかもな……」
自分が、この世界にこの世界に来なかったら助かったかもしれない。
誰もが、ほのかが助かったはずの過去を探っていた。だがそんなもの、所詮虚無に落ちて行った小石を拾おうとするような物、何の意味もない。ただただ、彼、彼女たちの中に後悔が増えるだけである。
「やめてよ」
「え?」
その中で、なぎさは言った。無論とどまることのない悲しみを背負った状態、喉が焼け焦げるほどの苦しみを背負いながらも、しかしこれだけは伝えなければならない。そう感じて、彼女は声を振り絞って言った。
「私には……記憶がなくて……なんで、こんな事になったのか……全然分かんない」
記憶がない。つい先ほどまで、自分がほのかを痛めつけていたという記憶がないということを、彼女達は知り、そして絶対にそのことは伝えない方がよいと悟った。
「でもね、きっと……ほのかは頑張ったんだよ……頑張って生きぬいたんだよ……だから……」
自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。果たして自分は何をしたいのだろうか。悲しまないでくれと言いたいのだろうか。それとも、頑張り続けたほのかを褒めたいのだろうか。分からない。大切な、人生の半分を失ってしまったようなこの感覚、言い表せないこの気持ち、思い、涙が全てを物語っていた。なぎさは、ほのかの髪を撫でながら言う。
「ごめんね、ほのか……私結局ほのかとは喧嘩したまま仲直りできなかった……きっと、ほのかは仲直りしたかったはずなのに私が意地っ張りで、強情だから……そのチャンスもなくなっちゃった……」
こんなことになるなら、さっさと仲直りしておけばよかった。いや、これはもはや公開となってしまうからもう言わないでおこう。でも、けど、だけど、彼女がそれをとどめようとしても、強制的に絞られているかのように喉の奥から言葉が飛び出してしまう。なぎさは、ほのかの首に手を回し、そして自分の顔をほのかの顔に近づけると言った。
「ゴメン……ゴメンほのか……私が弱かったから……昔のように強かったら、こんな……こんな事言わなかったのに……」
親友の亡骸を抱いて、自分はいったいどれほど懺悔すればいいのだろうか。一体、どれだけ謝罪すれば彼女は許してくれるだろうか。だが、もうほのかに許しを乞う機会は永遠に訪れないのだ。何故ならば、ほのかは過去の人間となってしまったから、ほのかはその時間を永遠に止め、二十五年という短い生涯を閉じて、人生の時計を止めてしまったのだから。もう、彼女と自分が同じ時を歩くことはないのだ。
もう、弱い自分に謝罪させるのはよそう。前を見なければ、未来を見なければいけない。もう、可能性の残されていない空虚な未来を歩くしかないのだ。子供の頃であれば、たくさんの可能性を見ることができた。パン屋、ケーキ屋、キャビンアテンダント、警察官、色々な夢を持つことができた。しかし、大人になった自分はもうそんなもの見ることができなくなってしまった。年齢を重ねるごとに可能性の扉は閉ざされていき、残ったのは会社員、OLとして人生を歩いていくという平凡すぎる道のみ。よく言うだろう、未来は子供たちのためにあるのだと。つまり、大人である自分達には未来を歩く権利などないのだ。もう、彼女は歩き続けるしかない。自分が弱かったばかりに選ぶしかなかったその過酷でつまらない人生を、そしてそのせいで失ってしまった大切な人の人生の分まで。
なぎさは顔を上げると、ほのかの顔を真上から見る。口内から流出する血は、どうやらすでに終わりが見えたようでもうあふれ出るということはない。その血を除けば、なんとも綺麗な顔をしているように感じられる。少しやせているように見える。それに、体重も少し軽いような。きっと、ほのかにも色々とあったのだろう。辛く、悲しいことが、土石流のように押し寄せ、ほのかを苦しめていたのだろう。だが、もう何の苦しみも与えられることはない。死を安らぎととらえるというのなら、それはきっと幸せなこと。だから、なぎさはもう謝るのを止め、最期に言っておかなければならない事を絞り出す。それは、心から嗚咽や燃えるような痛みを消し去ってくれるほどの、この世で最も尊い言葉。それは……。
「十一年間、親友でいてくれて……ありがとうほのか……あいしてる」
なぎさは、とびっきりの笑顔でほのかの魂を送り出した。
その時、一粒の涙がこぼれ落ち、ほのかの口の中へと入って行った。その瞬間であった。
「え?」
「ほのかさんの身体が……」
「光っているミポ……」
ほのかの身体は、淡い虹色に近い光を放ちだす。それは彼女の身体全体を覆い、まるで繭に包まれるかのようにほのかの身体を、そしてなぎさの身体を巻き込んでいった。なぎさの目は眩み、思わず手で光をさえぎった。光は強くなり、周囲は真っ白となって何も見えなくなってしまった。
「ここは……」
なぎさは、立ち上がって周りをよく見渡してみる。だが、やはりそこは白い空間とした形容できず、先ほどまでいたはずの仲間たちの姿も見えなくなっていた。そして、もちろんほのかの身体すらも。
「どうして……え?」
その時、なぎさは自分の身体に起きている異変に気がついた。背が縮んでいるのだ。それに、服装も先ほどまではYシャツにリクルートスーツのズボンを履いていたはずだったのに、今はオレンジ色のブレザーに、チェック柄のスカート。いや待て、これは見覚えのある服装じゃないか。そうだ、胸元にある蒼のストライプの入った蝶ネクタイもある、左胸には校章だってある。これは、紛れもなくあのベローネ学院の制服、十年前まで通っていたあの学校の制服ではないか。そう考えると、背も確かにあの当時の身長である気がしてきた。一体、自分はどうなってしまったのだろう。
「なん……で?」
『なぎさ……』
「え?」
体中を寒気が覆った。声だ。声が聞こえる。懐かしい、いや懐かしくない声だ。聞き間違えるはずなんてない。思い違いのはずはない。その声色で、自分の事をなぎさと呼んでくれるのは、彼女以外にいるはずもない。そう思い、なぎさは振り向いた。そこにいたのは、彼女の思い描いた通りの人間だった。
「ほのか……」
そこにいたほのかの顔と姿を見てなぎさの顔は緩み、うっすらと笑顔が溢れてくる。彼女もまた、自分と同じようにあの頃の、ベローネに通っていた時の恰好と、そしてあの頃の背丈をしていた。泣き、笑い、どっちつかずの混沌とした感情が、なぎさの心を襲っていた。
『久しぶり……なぎさ』
「ありえない……だって、ほのか……あんな……」
ほのかは、間違いなく自分の目の前で死んだはずだ。六花も確認したし、自分もまた嫌というほど目の当たりにしたのだから、間違いない。だが、彼女は確かにそこにいる。なぎさの言葉に、ほのかは苦笑しながら答える。
『えぇ、確かに死んだわ……その時の痛みも覚えているし、神様みたいなのにもあってきちゃった』
「え……そ、そうなんだ……」
そんな、さも当たり前なように笑って言われるとなぎさは何も言えなくなってしまう。とはいえ、二度と話すことができないと思っていた親友ともう一度話ができるのだから、願ったりかなったりの状況なのは間違いない。
「でも、ここっていったいどこ?」
『多分……奇跡が起きようとしているの』
「え?」
『自分の身体の事だから十分わかるわ。私の身体が、もう一度鼓動を始めようとしている……って』
「え……それ、本当?」
『えぇ』
つまり、それはほのかが生き返るかもしれないということだ。それはそれで喜ばしいことなのは間違いないのだが、だが正直本当にそんなご都合主義な展開が待っていていいのだろうかと思う。もしかして、これはあまりのショックで気絶した自分が見ている都合のいい夢なのではないだろうか。そう思い、なぎさは思いっきり頬を抓ってみる。が、結局は痛かったのだ。しかしおかげでこれが夢ではないということが判明した。
「ゆ、夢じゃないんだ……」
『そうみたい……ねぇ、なぎさ何かしたの?』
「え?いや特に何もしていないような……」
なぎさは、自分の意識が目覚めた後の事を逐一ほのかに説明していく。そして、最期にほのかの口の中に自分の涙が入って行ったということを伝えた瞬間、ほのかは全てを悟ったように笑って言った。
『きっとそれだわ……』
「え?」
『涙に含まれているPC細胞が、私の体内で活性化して……修復してくれているのよきっと……』
「PC細胞?」
『そっか、なぎさは知らなかったわよね……PC細胞っていうのは……』
ほのかは、現時点で分かっているPC細胞の秘密についてなぎさに話した。なぎさは、ほのかの言葉を聞いて、信じられないという表情を浮かべながら言った。
「ぶっちゃけありえない……って言っても、ほのかが言うんだから……本当なのかな……」
『ぶっちゃけありえない……か。懐かしいわね、そのフレーズ』
それは、なぎさがプリキュアをやっていた時の口癖に近い決め台詞、若者言葉であるからだろうが社会人になってからは一切使わなくなった言葉である。この空間にいると身体だけではない、心までもがまるで昔に戻ってしまったかのようだ。
『私が調べた時には、涙の中にはPC細胞は検出されなかった……。でもうかつだったわ、その可能性を考えていなかったなんて……』
「え?」
『一九八五年、アメリカのとある生化学者が、涙は感情的緊張によって生じた化学物質を体外へ除去する役割があるのだという仮説の元、いかにも涙を誘う映画を見せて集めた涙と、玉ねぎをむかせて集めた涙の成分の比較を行ったの。結果、感情による涙は、玉ねぎをむいた時のソレよりも高濃度のタンパク質を含んでいるということを示していたわ。もしも、それと同じことがPC細胞でも発生するのだとすれば……』
「でた、ほのかのウンチク……それ聞くの久しぶりだな」
ほのかは、かつてウンチク博士と呼ばれていたいわば雑学王だった。なんでもよく知っていて、よくもそこまで知っているなと言われるようなことまで深くまで知っていて、もしかしたらそれがあの当時ほのかが憧れの的だった原因なのかもしれない。
「でも、人を生き返らせるほどの力があるなんて……」
『プリキュアの涙には、魔力が込められている。忘れたの?ほら、ソルシエールさんの時にも……』
「あぁ、そんなこともあったっけ……」
それは、十年前のあるお花見の時、正確にはお花見の直前の事。トラウーマという怪人が魔法の秘薬を作るために『プリキュアの涙』を集めて、世界を無に帰そうとした。あの時は、多くの仲間たちと、そしてソルシエールという少女のおかげで事なきを得たが、プリキュアの涙を手に入れるためにトラウーマから拷問のようなものを受けたのは今でも記憶に新しい。お涙頂戴の人形劇を見せられたり、玉ねぎを目の前でみじん切りされたり、それからスカンクの放屁攻撃などというくだらなくもしかし効果的な攻撃を受け、危うく涙を取られるところだった。そうだ、プリキュアの涙は秘薬を作れるほどの材料である、それほどの魔力があるという証拠だった。それにあの時、ソルシエールはその秘薬によって、死者を一時的に蘇生させる力があるという嘘を言われて騙されていたらしい。もしもそれが本当の事だったのだとしたら、そうだったら……だったら?
「だったら……ほのかは、生き返ることができるってことだよね」
『可能性はあるわ……でも、何でかしらね』
「え?」
『動こうとしても、足が全く動かないの……なぎさの所に行こうと思っても、できない……ねぇ、迎えに来てくれないなぎさ……手を伸ばしてくれるだけでいいから』
「……」
『なぎさ?』
なぎさは、一瞬手を伸ばそうとする、だがその手はほのかに伸びることなく垂れ、そして彼女は下を向いて立ちすくみ、そして言った。
「ねぇ、ほのか……ここに、ずっといるってことできないかな?」
『え?』
「だってさ、ここにいれば私の身体も、心も一番強かったときのままでいてられるかもしれない。ここでなら、誰にも邪魔されないでほのかに私の想いを言えるかもしれない……」
『なぎさ……』
「ほのか、私ね……大人になりたくないって思っていた。ずっと、ベローネを卒業してからずっとだよ……自分のやりたいことが見つけられなくて、OLになって……今でも思う、もうこれ以上大人になりたくないって……未来が無くなっていくのも、過去が思い出になるのも怖いって……」
『……』
「ねぇ、ほのか……私達大人って生きていちゃいけないのかな?」
『え?』
「だって、未来は子供たちのためにあるってよく言うじゃん……だったら、大人になった私達は、一体何のためにこの世界にいるの?子供たちの捨て石になるため?それとも、無意味な人生を罰として生きるため?」
『……』
「馬鹿みたいだよね……私たちがプリキュアとして戦っていたときは、すっごくキラキラしていた未来が……たどり着いてみたら色あせて、何をしても辛くて……生きているだけでも苦しくて……心も汚い大人たちに囲まれたらすぐに染まっちゃって……。全然、答えが見つからない」
『……』
「だったら、このままここにずっといるのもいいかなって……」
『ねぇ、なぎさの所にありすからパーティーの招待状きた?』
「え?……どうだったかな……この頃郵便箱みる気力もなかったから届いてても気がつかなかったかも……」
『そう……じつは、今夜四葉財閥の本社でクリスマスパーティーがあるの……プリキュアの仲間達も、家族もみんな招待されているわ。世界的に活躍している音楽家の人や、ブルースカイ王国の宮廷料理人の人たちも呼んでるんだって……』
「何それ、すごく楽しそう……」
『えぇ、だったら目の前のそのためだけに歩いてみない?昔みたいに』
「え?」
『月曜日があって、火曜日があって、水曜日があって、木曜日があって、金曜日があって、土曜日があって、日曜日があって……毎日が楽しくて、休日で学校が休みになることが楽しみで仕方がなかったあの時……最終決戦だっていうのに卒業文集の話とか、あさりのお味噌汁の話をしていたあの時……覚えてる?』
「うん……覚えてる……忘れるわけない」
『だったらこれは?……私達にはまだ明日がある……だから』
「諦めるわけには……いかないの……覚えてる。みんな、大切な思い出……」
『明日なんて訪れないかもしれない、未来がどうなるかなんて分からない……それでも、私たちは戦った……』
「うん、私たちの日常を過ごすために……そっか、何を高望みしていたんだろう……」
『うん』
「私たちが欲しかったのは輝いている未来だけじゃない……ただただ平凡な日常だった……だからどんな絶望にも負ける気がしないって、そう思ってた」
『うん』
「辛くても、苦しくても、それが私たちの人生……誰かの明日の予定のために戦うのだって、それが私の人生……決してなくしたくない極普通の日常……」
『うん……』
「ただ、生きたい……そう願ったのは自分だから……ドラマチックな人生じゃなくても、あたしが歩くあたしだけの道……どれだけ迷っても、優柔不断だったとしても、自分が見つけた自分の道ッ……」
『なぎさ……』
「……ゴメンほのか、居酒屋の事……けどあたしはもう迷わない……未来に不安を抱き続けてきた弱い自分とは決別する」
『別にそこまでしなくていいわ……人は誰もが弱いもの……だから、支えてくれる人が必要なの……』
「そして、支えてくれる人がいない人のために……私たちが希望を届け続ける……大人として、プリキュアとして……!」
『うん!』
「行こうほのか、私たちは……ずっと」
『えぇ、ずっと……』
「『親友よ!!』だから!!」
手は、誰かを殴るためにある。
「あっ……」
手は、誰かを傷つけるためにある。
「嘘……」
それは、争いを呼んで、悲劇を呼んで、そしてかかわった全ての人間の心に消えることのない深い傷跡を残すことになる。
「ほのかさんが……」
だが、それと同時に、手にはもう一つの役割がある。それは、体の中で唯一手だけが持っている役割。
「信じられない……メポ」
一つ一つでは届かなくても、重なり合うことでより強くたくましくなる絆。
「ほのかが……目を、覚ましたミポ……」
バラバラだからこそ必要な時は手を取り合って前に進むことのできる友情。それを認識させられるのはただ一つ、手だけ。たとえ見えなくても、人と人を繋ぐ大切な物を繋ぎ合わせる最善の一手。どんなに時代が変わろうとも変わりはしない、その手の中に無限大の可能性がある。だから、彼女たちは手をつなぐのだ。それが、大切なことなのだと伝えるために。
「……おかえり、ほのか……」
「……ありがとう、なぎさ……あいしてる」
二度目のキス、それは……嬉恥ずかしい、レモンパイ、それとちょっぴり隠し味の血の味でした。
こんなことになっちゃいました。