カタクチイワシは虎と踊る   作:ターキーX

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第二十九話 紅茶に誇りを、虎に寝床を

 自分が危険と思わなかったのか。

 その時、逸見エリカは西住みほに対して強く問い詰めた。

 第62回高校戦車道全国大会。その決勝の後の戦車道連盟会館医務室での事だ。

 結果的に一人の死傷者も出なかったとはいえ、着衣のまま増水した川にに飛び込み、水没した戦車の搭乗員を救出しようとしたみほの行動は溺死してもおかしくないものだった。

 周囲にまほやしほが居るにも関わらず、エリカはそう言わずにいられなかった。

「えっと……救けなきゃって、思って」

 戸惑いつつも、みほはそう答えた。

 何故エリカが怒っているのか分からない。そんな表情だった。

 

 

 カタクチイワシは虎と踊る  第二十九話 紅茶に誇りを、虎に寝床を

 

 

 町を見下ろす山岳中腹部。激しい雨風が木々を揺らす。

「くっ……ティーガーは何処に……!?」

 クロムウェルの車内、車長のニルギリはみほのティーガーを探していた。

クルセイダー二両と連携して包囲しようとしたまでは彼女の目論見通りだったが、そこで豪雨が降り注ぎ、ティーガーは林の中に姿を隠した。

 このまま包囲を抜けてマチルダへの攻撃を続けてくるか? いや、この雨で敵も先程までの長距離からの狙撃は難しくなっている。下手すれば4対1になる状況には持ち込まないはず。

 だとすれば―――まだ近くにいる。こちらを迎撃するために。

『クロムウェル、こちらクルセイダー1号車。ティーガー発見しました!』

「了解、そちらに向かいます!」

 クルセイダーからの通信。位置を確認し、そちらの方向へ転進する。もう一両のクルセイダーも向かっている筈だ。

 雨と風は弱くなる気配を見せず、吹き散らされた木の葉が更に視界を妨げる。

 落ち着け。ニルギリは自身に言い聞かせた。相手は単騎。如何なティーガーとはいえクロムウェルとクルセイダーの三方からの攻撃には対応できないはず。有利なのはこちらだ。

 発見の報告があった林に入る。

「うわっ!?」

 覗き窓から吹き込んできた葉がニルギリの顔に貼りついた。引きはがしながら状況を探る。まだ視認はできない。一度車長席に座り、地図を広げる。この先は山頂へ勾配が強くなっている場所で、一部は小さな崖になっているようだ。

 ニルギリはハッチを押し開け、身を乗り出した。少し出ただけで強い雨が体を打つ。

「何て雨……!」

 その雨の中、林の左右を見回してティーガーを探る。

「……あれか!」

 その視界の先に僅かに見えた影。双眼鏡を装着して更に確認する。間違いない、ティーガーだ。

「敵ティーガー確認した。各機、現在位置を」

『こちらクルセイダー1号車、現在クロムウェルより10時方向からポイントに向けて前進中』

『同じくクルセイダー2号車、クロムウェルより2時方向より前進中』

「了解! このまま三方から包囲撃破します!」

 車中に戻り、ニルギリは頭を振って雨を振り払った。

「このまま前進、行進間射撃で相手の動きを押さえます!」

 クロムウェルは唸りを上げて進む。次第にティーガーは明確に見えてきた。崖を背にして動く気配は無い。そのまま迎撃するつもりか。

「……何?」

 

 激しい雨の中、ティーガーの砲塔から彼女は身を出したままだった。

 その表情までは分からないが、こちらを見ているのだけは分かった。

 

 更に接近。ニルギリはみほの様子にやや動揺しつつも砲撃の指示を行った。

「撃て!」

 クロムウェルの砲撃が放たれる。相手が止まっているとはいえ行進間射撃の命中率は低い。徹甲弾は狙いを逸れ、ティーガーの背後の崖に撃ち込まれた。

 ティーガーは反撃してこない。全く動かず、ただ砲身をクロムウェルに向けているだけだ。

「何、何のつもり?」

 その意図は不明。だが、ニルギリは攻撃を緩める事無く続けた。二発目も外れ、三発目は正面で弾かれた。やはりティーガーの正面100mm装甲は堅牢だ。

「一発で抜けるほど甘くないか……でも」

 ティーガーの周囲に更に別の弾着。クルセイダーも有効射程範囲に入ったのだ。

「このまま攻撃を続けます! 大変ですが、各機休まず攻撃!」

 ニルギリは僅かに躊躇したが、もう一度砲塔から身を出して周囲を見た。クルセイダーも肉眼で視認できる距離まで接近している。

「いける! このまま……!」

 ニルギリが押し勝てると思った時、ティーガーが初めて動いた。

 砲塔を回転させ、俯角を上げる。その先はクロムウェルでも、クルセイダーでもなかった。

 

「……え?」

 

 ティーガーは砲身を崖に向け、その中腹に撃ち込んだ。

 一瞬の空白。その後、撃ち込まれた榴弾が炸裂する。

 上から降りかかる土砂。みほは身を出したままだ。

「な……!」

 強い雨が十分に浸透し、柔らかくなっていた崖にヒビめいた亀裂が炸裂跡を中心にして広がってゆく。

「ぜ、全車両退避……!」 

だが、ニルギリの出した指示に従うには三両の戦車はいずれも速度を出し過ぎていた。

 言葉が終わるのを待たず、崖の崩落が始まった。雨を吸った土砂がニルギリの周辺にも落下してくる。

 状況把握すらままならない中、ニルギリは砲撃音を聞いた。

「逃げて! このままじゃ埋まる!」

 必死に操縦手に指示を飛ばす。外から激突音。岩が当たったか。

 もう一度、更に砲撃音。

 この状況下でクルセイダーがまだ攻撃を仕掛けている? いや、そんな馬鹿な。では。

「しゃ、車長!」

 操縦手からの悲鳴にも似た声。ニルギリは我に返り、窓から正面を見た。

 

 ティーガーがそこにいた。88mm砲をこちらに向けて。

 降り注ぐ雨と土砂の中、その砲塔からみほは身を出したまま、こちらを見ていた。

 そこには決意も、緊張も、焦燥も、戦意すら無かった。

 ただ「如何に眼前の戦車を素早く撃破するか、その後どう動くか」という機械的な意思と判断しか浮かんではいなかった。

 ニルギリは知った。「学校の選択科目」程度ではなく「人生」にまで戦車道を染み込ませられた人間がどのような眼をするのかを。

 

「ヒッ……!」

 無意識に喉の奥から悲鳴が漏れた。

「車長、攻撃は!?」

 砲手が判断を求めてくる。ニルギリは叫んだ。

「こ、攻撃!」

 その時、濡れる地面でクロムウェルのバランスが僅かに狂った。

 砲撃がやや上向きに放たれる。それはみほの顔の横、数十㎝ほどのところを掠めた。

 みほは瞬きほどの反応すらせず、ニルギリの戦車を見ていた。 

「……何なの」

 ニルギリは体を支える事すら出来なくなり、力なく椅子に体を落とした。

 88mm砲の砲声、そして衝撃。

「何なのよ、貴女は!」

 ニルギリがそう叫んだ時、既にティーガーはその前から姿を消していた。

 

 

『聖グロリアーナ・クロムウェル、クルセイダー二両、走行不能!』

 

 

「……無茶をするわね」

 観客席で傘を広げつつ島田千代はそう呟いた。

 実際のところ無茶どころではない行動であった。

 戦車そのものはIS-2の122mm砲の至近弾すら防ぐ強化カーボンコーティングによって守られているが、流石に砲塔から身を出している搭乗員まで守る魔法めいた効果は持っていない。岩でも頭に当たれば、下手をすれば死傷すら有り得た行為である。

「……あれが西住みほです」

 その横で逸見エリカは言った。

「それが敵戦車を倒すために最も良い方法だと判断すれば、それが仮に自分にとって危険だろうと何だろうと迷わず実行する」

 そう、余りに彼女は自分自身の危険に無頓着過ぎる。

「なるほど……噂には聞いていたけど、それ以上ね」

 千代は一息つくと緊張した面持ちのエリカに言った。

「噂?」

「西住流の姉妹と言えば幼い頃から戦車道界隈では注目されていたのだけど、上のまほさんに比べると妹のみほさんは戦車道に積極的でなかったそうなの。だからこそ、当時師範代だった母親のしほさんは徹底的に西住流の在り方を、みほさんにより厳しく教えたそうよ」

「……初めて聞きました」

「まあ噂程度だし、あまり大っぴらに言いまわる事でも無いものね」

 

 西住流の在り方。それは一言で表現するならば勝利至上主義だ。高い練度で、多少の犠牲を躊躇わず、容赦なく撃滅する。そこにチームワークという要素は薄い。部隊とは自身を含めて勝利への駒であり、助け合う行為は邪道とされる。

 

 それを幼少の頃から仕込まれるとはどういう事か。

 エリカは想像し、僅かに身を震わせた。

 

 

「……パーシング部隊、西住みほ迎撃部隊、全滅です」

 山岳中腹から町を見下ろす位置に陣取るチャーチル歩兵戦車内。砲手のアッサムはそう言って顔を下げた。

「………」

 その後方、車長席に座るダージリンは無言で紅茶を飲んだ。

「西住姉妹は共に健在。現時点での、我々の勝率は……勝率は……」

 アッサムはそこまで言って言葉を濁した。その表情は重い。

「ダージリン様……」

 装填手席のオレンジペコが心配そうにダージリンを見た。

「………」

 ダージリンは口元に笑みを浮かべたまま、音も立てずマイクを取ると各車両に通信を開いた。

「『金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。しかし、勇気を失うことは全てを失う』……この言葉を忘れた者は、今すぐ自分の戦車に白旗をお立てなさい」

 ダージリンは静かに、しかし力を込めて言った。

 ペコもアッサムもその言葉を知っていた。自分たちの乗る戦車の名の元となった人物、チャーチルの言葉だ。

「ローズヒップもニルギリも必死に西住姉妹を足止めしてくれた。結果、私たちは黒森峰の車両を6両撃破する大戦果を挙げられた。ここで二人の頑張りを無駄にするのは、英国淑女ではなくってよ」

 そこまで言うとダージリンは再び紅茶を飲み、言葉を続けた。

「私たちにはまだチャーチルと5両のマチルダがある……勝ちに行きましょう」

 微笑みを浮かべたまま、通信を終える。

 数秒の後、

「マチルダ1号車、行けます!」

「2号車、やれます!」

「3号車、準備よし!」

「4号車、総員意気軒高!」

「5号車、問題ありません!」

 各車両から引き締まった声が返ってくる。ダージリンは微笑んだ。

「……全車、前進」

 

 

 そこからの聖グロリアーナは、少なくとも彼女らの残った戦力で行える最善の戦をしたと言えるだろう。

 1両のマチルダがみほのティーガーの足止めとして残り、残りのうち4両のマチルダ全てを陽動として登って来た黒森峰本隊を迎撃、チャーチルが単騎で黒森峰フラッグ車撃破を狙うという戦法。

 本来の戦力差であれば困難なこの作戦を、この状況をしてなお戦意衰えぬ聖グロ戦車道メンバーは驚異的な粘りで耐え、実際チャーチルをまほのティーガー至近まで送り込む事に成功した。

 チャーチルから放たれる渾身の砲弾。しかしそれは無情にも弾かれた。

 そして、勝敗は決した。

 

 

『聖グロリアーナ女学院・フラッグ車走行不能! よって、黒森峰女学園の勝利!』

 

 

「……ふぅ」

 試合終了の放送が流れ、エリカは大きく息をついた。まるで自分が試合に出ていたかのような疲労感だ。

 気付けはいつの間にか雨は止んでいた。強い風は雲を海の方に流していったようだ。

「これで決勝は黒森峰と大洗……頑張ってね」

 千代は傘を閉じると立ち上がり、エリカに向かって言葉をかけた。

「あ、ありがとうございます……」

 結局彼女が何故ここにいたのか分からないまま、エリカは礼を返す。

「それじゃあ、また。近いうちに」

「(……近いうちに?)」

 その言葉に引っかかるものをエリカは感じたが、顔を上げた時には既に千代は身を翻し、観客席から立ち去るところだった。流石に追って聞くのは気が引けた。

 モニター上では聖グロの選手と黒森峰の選手が並び、一礼をするところだった。向こうもすぐに撤収作業に入る。黒森峰の生徒に気付かれる前に退出しようとエリカが立ち上がった時、携帯にメールの着信が入った。

「……会長?」

 嫌な予感を覚えつつメールを開く。

 

『件名:お土産

 お疲れー。

 試合終わったらお土産よろしく。

 以下は大洗戦車道メンバーからのお土産希望リストである。

 重要な任務のため、逸見エリカ殿の成功を祈る―――』

 

 そこから十数行、長々とお土産の品名が並んでいた。

「……ハァ」

 エリカは更に深いため息をついた。

 

 

 ティーガーを搭載した運搬用トレーラーが、黒森峰の校章が描かれたバスの横を過ぎる。

 連絡船乗り場へ向かうバスの中で、最前列に座る西住まほはそれを眺めつつバスマイクを手にした。

「……皆、よく頑張ってくれた」

 まほの落ち着いた声がバス内に響く。

「今回の試合は反省点も多かったが、様々な不慮の事態に皆よく対応してくれたと思う。試合の総括と反省については明日行うので、各車長はそれまでに要点を纏めて……」

「……あ、あれ? あれ??」

 横からの戸惑う声。まほは言葉を止めて横の座席を見た。みほが慌てた表情で鞄の中を探っている。

「どうした、みほ?」

「おかしいな……ひょっとして、ロッカールームに……」

 まほの言葉が聞こえていないかのようにみほは呟き、そこで初めてまほに気付いた。

「あ! ご、ごめん、お姉ちゃん! えっと、会場に忘れ物しちゃったみたい……」

「忘れ物?」

「あの、ボ、ボコの……」

 戦車に乗っている時とは別人のように、焦りを隠さずみほは言った。

「会場スタッフに電話するか?」

「小さいから見つけられないかも……ごめんお姉ちゃん。次の連絡船で行くから、戻って取ってきていいかな?」

「……分かった。気を付けて」

 まほは少しだけ考え、頷いた。こうなった時のみほは退かないと知っているのだ。

 やがてバスは連絡船乗り場に停まり、みほは大急ぎで降りると会場への戻りのバスへ駆けていった。

 

 

「……お疲れ様でした」

 撤収がほぼ終わった会場の一角で、千代はダージリンにそう言って微笑んだ。

「良い勝負でした。惜しかったわね」

「勝負は時の運……とはいえ、申し訳ないとしか言いようのない試合でしたわ」

 その言葉に申し訳なさそうにダージリンは返す。

「これで私たち聖グロリアーナは用済みでしょうか?」

「……いいえ」

 試すように逆に尋ねてくるダージリン。それに対し千代は優雅に首を横に振った。

「折角できた高校戦車道とのご縁ですもの。今後とも良くやってゆきたいわね」

「……光栄ですわ」

 千代の意図を察し、ダージリンは頭を下げた。

 

 今回は失敗したが、島田流は今後も高校戦車道へのパイプを残したいのだ。それが名門校の聖グロリアーナであれば確かに関係を継続したいだろう。

 そしてそれは、ダージリンとしても後継のために残しておきたい関係であった。

 

「それに、今回の試合を見て確信しました……ダージリンさん、貴女もお気づきなのではなくて?」

「来年の話……ですわね?」

「ええ。来年の西住みほ指揮下の黒森峰は、確実に崩壊します」

 そう語る千代の言葉には、不穏なまでの確信があった。

 

 

「納豆、ペナント、ホーリーホックのレプリカユニ、ピーナッツ……誰か千葉と勘違いしてるわね」

 幾つもの紙袋に入れられたお土産を律儀に確認しつつ、エリカは連絡船待合で船を待っていた。小さい学園艦である大洗への連絡便はさほど多くない。危うく乗り逃せば今日は帰れないところだった。

「……遅いわね」

 しかし、その連絡船の乗船案内の放送がなかなか来ない。時刻表に書かれた時間は既に10分過ぎている。他の連絡船待ちの客も同様のようで、周囲でもざわめきが広がっている。

 やがて、プレートタイプの時刻表示はパタパタと動き「大洗学園艦←→茨城港」の表示から「欠航」に変わった。

「え? ちょ、ちょっと!」

 動揺するエリカ。拡声器を持った担当官が待合室に声を流す。

『えー、大変申し訳ありません! 強風による高波の影響で、本日の学園艦連絡船便は全て欠航とさせていただきます! 払い戻しは……』

 たちまち待合室は大騒ぎとなった。担当官に問い詰める者、仕事先に慌てて電話する者、途方にくれる者、様々だ。

「ちょっと、勘弁してよ!」

 エリカは次便の目途を問い詰めようと立ち上がった。

「ええっ!? ど、どうしよう……!?」

 その時、背後で聞き覚えのある声が聞こえた。

「………」

 動きを止め、考える。

 大丈夫だ、黒森峰は全体行動で動く。彼女ひとりだけ残っている筈がない。

 改めて声の方向を向く。

「……って、何でアンタがいるのよ!?」

「い、逸見さん!? 良かったぁ……」

 顔見知りが居て安心したのだろう。エリカの背後の席に座っていたみほは嬉しそうに言った。

「良かったじゃなくて、何で一人なのよ? 隊長、えっと、お姉さんは!?」

「前の便で、みんなは先に……私だけ、忘れ物しちゃって……」

 しょぼんとするみほにエリカは額に手を当てた。こういう娘なのだ。戦車道から離れると、この超人じみた少女はまるで普通か、普通以下になってしまう。

「おまけにアンタ、パンツァージャケットのままじゃない!」

「えっと、着替える暇も無かったから……」

「………」

 

 エリカは咄嗟に周囲を見回した。まだ気づかれていないが、多くは戦車道目当てで学園艦から来た客だ。このままみほを置いておけば彼女は囲まれて目を回すだろう。

 確かに彼女は自分が黒森峰を辞めた原因ではあるが、流石にそれを見捨てる程までの憎しみがある訳でもなかった。

 

「……行くわよ」

「え? え?」

「ここに居ても仕方ないでしょ」

 みほの手を取り、待合室から連れ出す。

 待合室外の掲示板に目をやる。本日の便の再開の目途なし。

「……ハァ」

 本日何度目かのため息をつき、エリカは携帯を取り出した。履歴から大洗学園生徒会長室を探し、ダイヤルする。

 数度の発信音の後、直接出た相手は杏だった。

『おー、エリカお疲れ。お土産買えた?』

「買えたわよ。それより面倒になったわ。今日の学園艦連絡船が欠航になった」

『うん、こっちにも連絡があったよ。相当港回りが荒れてるみたいだねー』

 呑気な杏の声。

「そんな訳だから、ちょっと帰るのは明日になるわ」

『今晩はどうするの?』

「まあカラオケボックスなり、ネットカフェなりで適当にするつもり」

『……それは不味いかなあ』

 杏の返事は、以外にも渋かった。エリカは訝しんで尋ねた。

「何でよ?」

『ほら、一応私たちって決勝を控えた女子学生じゃない。変に深夜外出扱いされて補導とかされるとさ。分かるでしょ?』

「……変なところだけ会長顔するわね。それじゃ、どうしろって言うの?」

『んー、そこってまだ茨城港の近く? ちょっと待ってて。かーしまー! 学園艦関連企業リスト持ってきてー!』

 バタバタと桃の走る音と、ガサガサと書類を探る音が暫くの間流れる。

『……あー、あったあった。その近くに、学園艦に宿泊施設を出してるところの関連の旅館があるから、そこに部屋を用意してもらうよ。そこ泊まって』

「旅館? えっと、どこの? メモ取るから……うん、そこで、和室か洋室か? どっちでもいいわよ」

 電話で場所を聞きつつ、エリカは横目で傍らのみほを見た。

 大体の事情をエリカの言葉で察したのだろう。手を振りつつ、遠慮がちに口を動かす。

”私は、大丈夫だから”

「………」

 大丈夫なはずは無いのだ。熊本を拠点とする黒森峰では大洗のような企業繋がりは期待できないし、強風となれば学園艦の飛行船やヘリで迎えに来るのも難しいだろう。

「………ハァ」

 その日一番深いため息をつくと、エリカは電話先の杏に言った。

 

「会長。悪いけど、二人部屋って用意できる?」

 

 

カタクチイワシは虎と踊る 第二十九話 終わり

次回「二匹の虎と布団と紅茶」に続く


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