それは言うなれば
全ての色を塗りつぶしてしまう『黒の理』を彩った絵の具。
それがこの闇の正体だった。
恐らく自らの『理』を持たない存在ならば問答無用でこの『黒の理』に塗りつぶされる。
故にここで活動できるのは『異能者』かもしくは……。
「どういう場所なのよ、ここ」
呟きながら慎重に歩みを進める。
傍らにボールから出したクロを控えさせ、常に警戒を怠らない。
黒だ。
黒一色。
僅かの光すらも見えない。
この中にあって『視界』というものはまず意味を為さない。
故に必要なのはそれ以外の感覚。
とは言えシキの他に聞こえるのはクロが僅かに漏らす唸り声、そして足音だけ。
踏みしめた床から返ってきたのは柔らかい……砂のような感触。
踏みしめるたびにサク、サク、と音を鳴らすがけれど黒一色に染まったそれに手を伸ばして触れてみる気にはなれない。
最も重要なのは第六感、とでもいうべきものか。
元々異能者というのは通常の人間とは違う感覚を持っている。
通常人類が知覚することのできない物を知覚し、触れられないはずの物に触れることができる。
ならそれが通常人類より優れている証か、と言われるとシキ個人からすればそうでもない、としか言えない。
シキの出身であるカロスというのは地方間の文明格差が大きい。
他地方へと繋がる空港のあるミアレシティなどホウエンのどの街々よりも大きく、発達してしているが、反対に人の出入りの少ない田舎町のほうだとホウエンのどの町よりも小さく、そして閉鎖的だ。
ハルトが以前にムロタウンをさして孤島だの限界集落だの揶揄っていたが、本土から隔絶した離島であるにも関わらず連絡船で行き来のあるムロと違い、カロス地方の田舎町、村は『陸続き』であるにも関わらず孤立している。
余所者を受け入れない田舎特有の閉塞した空気が非常に強く、そのせいか『異能者』という存在に対してアレルギー反応か何かのように毛嫌いする傾向にある。
見えなくても良い物が見える、聞こえなくても良い物が聞こえる、知らなくていいことも知ってしまうし、生きることになんら必要のない情報まで知覚してしまう『異能』というものは普通の人間が考えるほど便利なだけの代物ではない。
故にシキにとっては『あったらあったで便利だが無くても困らない』という程度の価値しか持っていない。
例えその才がこの世界においてトップクラスの物だろうと、否、そこまで突き抜けてしまっているからこそ余計に、か。
基本的に異能というのは『干渉』能力が最も重要になる。
異能者同士で最も重要な
異能の性質自体は千差万別であり、『本質』さえ理解していれば発現させる効果はある程度異能者本人が操ることができるため能力の使い勝手などは後からいくらでも改良できる。
だが同種の異能効果をぶつけあった時にどちらが優先されるか、その一点を決める『干渉』能力こそが異能の『強度』を決定づけると言っても過言ではない。
例えどれだけ強力な効果を持つ異能だろうと『干渉』能力が低ければ異能者相手には一切通じない、なんてこともある。
だが『干渉』能力は強ければ強いだけその分『物理法則』から逸脱する傾向にある。
物理とはつまりこの世界本来のルール。アルセウスが定めた世界の法、理だ。
だが異能者とはその中で生きている存在でありながら、自らの『理』を持つ。
その強度が高ければ高いほど、本来のルールから逸脱してしまうのは当然の話である。
物理とはつまり世界に設定された『あるべき姿』だ。
そこから逸脱するとは『人間』という種のあるべき姿から逸脱していくことである。
人間には見えないはずの物が見え、聞こえないはずの物が聞こえ、感じられないはずの物が感じられる。
そこにはメリットデメリットが混在する。良いことばかりではない。
さらに言うならば『人間にはできないことができる』ということは『人間ならできることができない』ということでもある。
枠から逸脱した分だけ枠の中から中身が失われる、当然の話だ。
往々にして『得た物』と『代償にした物』は等しい。
例えば遠くを見通せる『千里眼』や未来を見る『未来視』、例え『ゆうれい』だろうとその姿、本質を捉える『絶対視』の能力を持った異能者ならば『目が見えない』ことが多い。
『視る』という行為を異能の感覚によって行う代わりに、目で見るという機能が喪失してしまうのだ。
とは言え異能者の異能というのは基本的に生来の能力なので、生まれた時から目が見えない人間が目が見えないことを不自由に思うか、と言われればまた別の話だが。
故にシキ個人の感覚で言うならばあれば便利、なくても良い程度であっても、一部の人間からすれば喉から手が出るほど欲しい物らしい。
「こんなものが、ねえ」
カロスに居た時も稀にそういう人間がいる。
異能者は人類よりも優れた力を持つ進化した人類である、故に異能者は通常人類より上位の存在だ。
などとうそぶく異能者たちも存在した。
風の噂では、同じ思想の異能者たちを集めて何やらやっているらしいが……。
まあ、シキには関係の無い話ではある。
「ホント、良し悪しよね」
闇をかき分けるように進んでいく。
否、果たして本当に『進んでいる』のだろうか。
前も後ろも分からない、端も手前も奥も分からない。
今自分は本当に『進んでいる』のだろうか。
どこに向かって『進んでいる』のだろうか。
分からない、分からない、分からない。
「感覚が狂うわね、ホント」
視界を覆う黒一色に、うんざり、と言わんばかりに嘆息する。
隣を飛ぶクロが同意するように唸りを上げて。
そうして。
―――ドォォォォォォォォォォォォン!
闇の中で轟音が響き渡った。
「ちょっ、ま、待って今の!」
聞き間違いでないならば、そしてシキの思い違いでないならば。
「
「ぐるぁぁ!」
急げ、そう言わんばかりにクロが吼えた。
* * *
―――もどかしい。
明らかな異常事態にけれど船から一歩でも出れば『異能者』でも無いハルトにとってはただ
せめて外の様子が伺えればまだ何か考えることだって出来たのだろうが、闇に包まれた景色は一寸の光すら通さず、僅かの音すらも無い完全なる静寂からは耳を澄ませたところで何の情報も得られない。
「失敗した」
呟き、思わず顔を覆う。
ハルトだって以前のカントーへの旅で学習していたのだ。
ポケモンの一匹すら持たないままにシキと船旅というのは危機意識が無いと思いそれでも二匹ほどポケモンを連れてきていたのだ。
ただ一匹……サクラは自由に空を遊泳しながら周囲の観察を。
もう一匹……アクアはゆったりとした船を追うように海を泳ぎながら護衛をしていた。
船に何かあれば両者ともにすぐに駆け付けれるはずだったのだ。
だが実際にはここにあの二人は居ない。
それどころか。
サクラとアクアの二人だけではない、エアとの、シアとの、シャルとの、チークとの、イナズマとの、リップルとの、アースとの、ルージュとの、アルファとの、オメガとの絆、その全てが完全に『断絶』してしまっている。
普通なら絶対にあり得ないことだが、すでにあり得ないような状況に巻き込まれてしまっているが故にそれを『あり得ない』ということはできない。
異常だ。
明らかな異常事態だ。
だがどうしようも無い、どうにもできない。
シキのような異能も無く、戦友たるポケモンたちも居ない。
元チャンピオンなんて肩書が空寒くなるような役立たずぶりである。
元より自分などエアたちが居なければ凡人でしかないのは分かっていた事実ではある。
―――弁えろ。
取り残された時、シキに無意識にそう言われた気がしたのはきっとただの被害妄想なのだろう。
シキにそんな悪意があったとは思わないし、そういう性格でも無いのは知っている。
それでも、そんな声が聞こえた気がしたのは、結局この無力感に苛まれてしまっているからで。
歯噛みする。
歯ぎしりする。
それでもどうにもならない無力感に拳を握りしめて。
何か、手札が欲しい。
たった一枚でも良い、大それたことができる必要も無い。
たった一度、
「……なんて、言っても仕方ないか」
闇の広がる船の入口の先を見つめながら嘆息する。
まだ乗客たちの混乱が収まったわけでは無いし、船の中の様子だけでなく、船自体も何か異常がないか、など船員たちは忙しく動き回っている。
故に何かやろうと思えばやることなんていくらでもあるんだろうけれど。
「ダメだなあ……やっぱ」
こうしてここで根を張ったように動かないのは結局、シキが戻って来るのを真っ先に確認できるようにするためだった。
ほんの数十センチ。たったそれだけ手を伸ばすのが今のハルトに与えられた猶予。
それ以上を過ぎれば『黒』が指先から浸食しようとしてくる。
「はてさて……あとどれくらい持つのやら」
最初は一メートル以上あった距離が今や数十センチである。
乗客たちはまだ気づいていないのだろうが、ゆっくりと、けれど確実に、この闇は船を浸食している。
体感で一時間ほどだろうか。恐らくもう一時間もあれば今自分がいるところも闇に沈むのだろう。
この船全体が闇に飲み込まれるのは……自分たちの生存領域が消え去るまあといくばくかの猶予があるのだろう。
そんなことを考えながら何も見えない闇の向こうを見つめ。
―――ドォォォォォォォォォォォォン!
轟音が響き渡った。
同時に衝撃に船を大きく揺れ、ぱりん、と何枚か窓が割れる。
思わず尻もちを突きながら、揺れが収まるのを待って立ち上がるが。
「火が点きそう」
未だ混乱の収まっていなかった乗客たちが今の衝撃に再び慌て始める気配があった。
とは言えハルトが何か言っても仕方ないだろう。
元よりチャンピオンハルトはダイゴと比べてもメディアへの露出が少ない。
出身であるミシロが少し有名になったくらいで、今でも街中を歩いていてもチャンピオンとして認識されることは稀である。
さすがにジムなどに行けばチャンピオンであると認識されたりもするが、プロを目指しているわけでもない野良トレーナーや一般人からすればメディアに露出しないチャンピオンなど顔どころか名前すら認識しているか怪しいものだった。
つまり今のハルトにはこの混乱を収めるだけの力が無い。
ハルトがいくら大丈夫と言ってもそこに説得力が付かないのだ。
これがダイゴならば持ち前のカリスマ性であっという間に混乱を収拾してしまえるのだろうが、残念ながらハルトはポケモンには懐かれても人間相手のカリスマ性というものは持ち合わせていなかった。
「何が起こった?」
今ハルトに出来ることを考えれば、即座に原因を追究することだと結論づけた。
即座に歩き出す。先ほどの衝撃を考えれば船に直撃、ないしかなり近くで起こったのだろう、船首のほうへと赴く。
道中で忙しなく廊下を走る船員の一人を捕まえて簡単に話を聞けば、やはり船に何かが直撃したらしい。
恐らく倉庫の辺り、との情報を得たのでそこら中に張られた案内図に従って倉庫へと向かう。
「ここだな」
倉庫の扉を開けば確かに天井に大穴が開いていた。
そのせいで照明の類が全て破損、無いし落下、或いは通電しておらず室内は真っ暗で何も見えない。
「いる、な」
ただ扉を開けた瞬間吹き荒れるような『力』を感じた。
通路の明りで照らされた範囲では何も見えないが、けれど確かにそこに『何か』いるのは事実だった。
咄嗟に腰に手をやり……ボールが無いことを思い出して舌打ちする。
そうして……まあ偶然なのだろうが、まるでその舌打ちが切欠になったかのように、部屋の奥の闇の中でずず、ずずず、と何かを引きずるような音がして。
ぬう、とソレが照明の範囲へと出てきた。
「…………」
ぎょろり、と蛇のように動く目がハルトを捉える。
目と鼻の先に現れた自分など丸のみにできそうなほどに巨大な頭を認め、絶句する。
―――ォォォォォ
それが唸るようにして、ハルトを見つめ。
「れ……くう、ざ?」
呆然としたハルトが、巨大なソレの名を呟くと同時に。
「っ?!」
目を見開き、咄嗟に身構える。
だがそんなハルトを嘲笑うかのようにレックウザは動きを見せること無く、その全身を包む光が徐々に小さくなっていく。
そうして。
そうして。
そうして。
「お前は……見たことがあるな」
金色の瞳でハルトを見つめながら、だぼついた着物の袖を口元に当て、少し小首を傾げながらそう呟く、緑色の髪をした
シキの異能は『反転』だ。
さかさ、サカサマ、ひっくり返す、言い方は何だって良い。
生まれつきそういう異能を持っていた。
当然ながら『得た物』があれば『失った物』もある。
シキの感覚、感性、行動は時にシキの意思、理解に『反する』。
無意識が有意識に反抗するため、自分でも気づかない内に自分でも思ってもみないようなことをしていることがある。
シキが方向音痴である最大の理由でもある。
何せ『真っすぐ』進んでいると自分では思っていても、現実には『真逆』に進んでいたりするのだ。
右にと思っていた道を気づかぬうちに左に進む。そこにシキの意思は介在していない。
故に『気づいたら』知らない場所にいる、ということが度々起こる。
なんて裏設定があったらまだ情状酌量の余地もあったんだろうけど、シキちゃんの奇跡的かつ異能的な方向音痴はただの『素』です。