東方迷狼記 ――亡霊に仕えし人狼――   作:silver time

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イベント期間中に何とか仕上げた一品。
ぜひご笑覧あれ。

あとこれから進学の準備で投稿遅くなるやもです。
まあ関係なく楽しんで嘲笑ってやってください。





※補足 このお話は前回の最後のシーンよりも少し前の話です。どういう経緯で心を開いたかが描かれておりますので、混乱した方はまず全話からお読みください。


迷い狼は慟哭す。

暗い。

 

 

 

 

 

どこまでも続く、暗い暗い闇の中。見渡す限り地平線の先すら見えない純黒の闇の中に、少年は立っていた。

今にも自分の存在がこの闇の中に溶けて消えてしまいそうな、そんな奇妙な感覚さえも感じさせる。

気味が悪い。率直に抱いた印象がそれだった。意識がハッキリとせずに、まるで体と心が少しづつズレていってるのではと錯覚させるほどに。

 

それは紛れもなく夢の世界であった。

自身の心が生み出した空虚な世界。眠っている自分が視ている記憶の残滓。

そんな何も見えない真っ黒な世界は、何の反応も返してはくれなかった。

 

それから少しの間、唯々その真っ暗な世界を揺蕩っていると、唐突に光が現れた。

 

「――――――」

 

それは、少年の前世の記録(・・)だった。真っ暗だった世界はいつの間にか光と色彩を取り戻し、見覚えのある景色へと変貌した。

 

多くの調度品と椅子と机が教室の三分の一程のスペースを占めた、中央に長机がポツンと一つあるだけの部屋。その場所に、三人の男女が存在していた。

 

見覚えのあるピンクの髪と黒のロングヘアー、そして──自分自身がそこに居た。

 

「────」

 

どんな話をしていたか、どんな事をしていたか。そんな細かな出来事が思い出せない。自分がここに居合わせ、何かを言い見聞きし、客観的に見てかなり特殊な、他愛のない会話を交わしていたはずなのだ。

 

それを、思い出せない。

 

「─────」

 

景色は再び切り替わった。

 

学校の屋上、その場所で少年は一人の女子に何かを言っていて―――

 

『────!』

 

それを傍観していた男が少年に何かを叫びながら掴みかかった。

 

 

 

思い出せない。

 

 

重要ななにかだったはずではある。

それでも、思い出せない。

自分が覚えている記憶が、無機質で傍観的な記録へと風化していく。

 

更に、景色は霧のようにぼやけ始め、夜闇の中の竹林を作り出した。

 

そこにはまたもや少年と、二人の男女がいて

 

『──────。』

 

少年が何かを喋っている。

その喋っている内容、自分が言ったことすら忘れ始めていた。まるで霞がかったように記憶がぼやけ、これから先の、自分が覚えていた何かを遠ざけるように───

 

 

 

やめろ、止めろ。

 

これ以上忘れたくない(・・・・・・)

 

これ以上思い出したくない(・・・・・・・・)

 

 

 

 

今ある景色に亀裂が走り、再び景色は切り替わってゆく───

 

 

 

 

 

 

『あ──のや─方、嫌──わ。』

 

 

 

 

 

 

『も──人の─持──えてよ。』

 

 

 

 

 

やめ、ろ。やめてくれ。

 

 

もう十二分に分かってる。

嫌っていうくらい理解してるんだ。

 

 

 

 

だから───

 

 

 

 

 

『あなたのやり方、嫌いだわ』

 

 

 

 

 

 

『もっと人の気持ち考えてよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オモイダサナケレバヨカッタノニ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────はっ!」

 

目が覚めた。

視界に映ったのは木張りの天井。今自分がいる場所は六畳はある和室造りの一室。

自分に与えられた部屋で、少年は布団から体を起こし、

 

 

「······またか。」

 

ぐるりと辺りを見回して、そう呟いた。

四方のは白い壁と襖と障子を以て一つの個の空間を生み出しており、さっきまで見ていた鉄の引き戸や窓ガラス、そしてコンクリートで構成された一室を欠片も連想させない造りだ。

 

この所、このような夢ばかりを見る気がする。

 

八幡が妖怪として生まれ変わり、成り行きで此処冥界白玉楼で働く事になった訳だが、彼の生前の理想に近い専業主夫、もとい主のお世話係を始めたあの日から。

 

かの亡霊少女が八幡を拾ったその日、彼が妖の者へと転生したその日から、この夢をよく見るようになった。

 

何度も何度も、自分の行いが夢の中で再演され、それを見る度に自分が愚かしく感じた。まるで後悔という名の鎖が、自分の体を、心を縛り、少しずつ蝕んでいくかのように。

 

それと同時に、少しづつ自分の記憶が薄れつつあった。

 

一言一句として忘れられない自分の発した言の葉という名の剣。

それらは確かに自分の体を貫き、一生消えることのない跡を刻んでいた。

それらがまるで風化し、時間が経って少しづつ傷が塞がっていくように。

 

何をしたのかははっきりと覚えている。

どんな結末に至ったのかも覚えている。

それでも、自分が言葉にした内容も、脳裏に焼き付いて離れない彼女達の顔も、何もかもが霞がかり、鮮明には思い出せなくなっていく。

 

八幡は恐ろしく感じた。

少しづつ、確実に、自分の記憶がすり減っていくその感覚を。

自分が体験した記憶が、無機質で無感情で、ただそんな事があったと大雑把にしかわからない、第三者の視点から眺めるような、記録と化していく感覚を。

 

「····情けねえな、ホントに。」

 

八幡は思考を無理矢理に遮って、心を強制的に鎮火させる。

近くに畳まれている紺色の着物を手に取り、その着物へと着替え始めた。

最初は着方が分からず四苦八苦したものだが、今では手馴れたように着物に袖を通す。

 

「······今日も一日頑張るぞい、かね。」

 

気だるげに欠伸をして、眠たげな(まなこ)を何とか開いて部屋を出る。

さあ新しい日課の始まりだ。

眠たげなオーラは隠さずに不精力的に仕事をこなそう。

 

彼の朝は、めいっぱいの朝食を作ることから始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近よく夢を見ることが多くなった気がする。白玉楼の主、西行寺幽々子はそう思っていた。

 

夢の内容をハッキリと覚えている訳では無いが、どうにも夢というには明らかに現実的で、少なくとも見ていて気持ちの良い夢ではなかった。

 

見たことのない部屋で談笑する三人の男女。天井のない開けた場所、どこかの屋上で一人の少年がついこの間拾った少年とどことなく似ているもう一人の少年に掴みかかっていた場面。

そして―――

 

「いったい何かしら······」

 

観ていて気分の良いものでは無かった。

まるで、あの子の頑張りとその全てが否定されたかのような。

そして、あの子が抱える歪みを垣間見た気がした。

 

幽々子は取り敢えず目先の朝食を残さず平らげることにした。

何をするにしても、まずは目先の事を一つずつこなしていくに限ると、幽々子はそう思う事にした。

 

朝食が終われば洗い物をこなし、洗濯をこなし、掃除をこなす。家事が一段落すると今度は最近になって始まった妖忌との剣の修練に励む。

 

ここ最近のあの子、八幡の生活サイクルはこれの繰り返しだ。

寧ろこれ以外にやる事が無い、と言った方が正しい。

娯楽の類が無いのだから仕方の無い事だが、やる事が無くなると前と同じように縁側でただじっとしているだけなのだ。

何かを頭の中で議論しているのか、はたまた何も考えずにいるのか、その真実は彼しか知らない。

 

「······やっぱり、私からも何かしなきゃ。」

 

あまり長くは無かった思考の果てに、幽々子はとにかくあの子に、八幡に何らかのアプローチを試みる事を決めた。

思えば、八幡と幽々子が面と向かってお互いに言葉を交わした事はあまり無い。

最初に八幡と出会った、あの日以来まともに会話すら出来ていないのだ。

 

だから、少しづつでいいから、心を開いてくれるように、あの子と話してみよう。

幽々子がやるべき事は決まった。

 

その原動力となっている動機は、たった一つのシンプルな答え。

 

 

ただ、あの子の笑顔を見てみたいから。

 

 

 

故に、白玉楼の主はその腰を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

剣の修練を終えて、八幡は白玉楼の庭を一望できる縁側に腰掛けて茶を啜っていた。

 

苦味が強く、大人でも慣れない者には苦手意識が残るという玉露を、敢えて高温の湯で苦味が抽出される方を味わうという今の子供の容姿の姿だと割と苦行な楽しみ方をしている。

 

「······にが。」

 

訂正、やっぱり無理だったようだ。

 

一旦湯呑みを脇へと置いておき、一息つく。

あれからというもの、こなすべき仕事がすべて終わった後にはこうして縁側で庭を眺めながら茶を啜るというジジ臭い事をするようになった。

その真相が何もやる事がないのでただボーッとしているだけなのだが。

 

「いつの間にか、受け入れてるのか···?」

 

人でなくなり、この白玉楼で過ごすようになってからというもの、すんなりと今の状況を受け入れることが出来た自分に軽く驚愕を覚えた。

そんな自己評価に意味は無いと、彼はすぐさまそんな考えを切り捨てたが。

 

思えば、今の自分が身を置いている環境はかなり良いものでは無いのだろうか。

そう八幡は考えた。

おっとりとしていて考えの読めない、そしてとても優しく接してくれる西行寺幽々子という女性。

最初は彼を警戒したが、今では剣を教えてくれる師であり祖父のような老人、魂魄妖忌。

 

彼らと過ごす日常が八幡はとても心地のいいものだと感じた。そして同時に、ここでならもう1度探せるのではないかと考えた。

 

彼が求める『本物』という何かを。

 

「······ある訳ねぇだろそんなもん。」

 

そんな考えに至った自分の思考をすぐさま切り捨て、否定した。

だから何なのだ。そうやって何度も希望して、同じ数だけ絶望してきたのかを忘れたのか。

 

自分は"誰か"にとっての都合のいい道具であり、詰まるところただのゴミ箱だ。

自分たちの負の感情を自分というゴミ箱に捨てる、そういった負を集積し切り捨てるただの都合のいい捌け口なのだ。

 

だから、期待するな。希望するな。

どうせいつも通りだ。ただの憐れみなのだ。同情なのだ。そして気まぐれなのだ。

 

感情(こころ)を閉ざせ。願望(こころ)を閉ざせ。

否定しろ(あきらめろ)廃棄しろ(あきらめろ)

 

何もありはしない。

理想は届かぬから理想なのだ。

幻想は有り得ぬから幻想なのだ。

だから、もう願うな。

 

意識が、感情が、黒い波に覆われていく。

いつ終わるかも分からぬ二回目の命。それを投げ出す術は、何か。

 

 

「──そうだ。」

 

 

あの人を、西行寺幽々子を殺せばいい。

 

殺さなくとも襲うふりさえすれば、魂魄妖忌の一刀によりすぐさまこの(ぜつぼう)を終わらせることが出来る。

 

1度終わった命だ。ようやく終わった人生

(あくむ)だ。それがまた繰り返される。

そんなのはゴメンだ。

また苦しむくらいなら、また同じ事を繰り返すくらいなら、自分から終幕を望もう。

 

そうして、思考も感情も深く潜っていたからだろうか。

背後から聞こえた声、その人物が自分の真後ろにいた事に気づかなかった。

 

 

 

「となり、いいかしら?」

 

 

 

彼が求める(おわり)の鍵、西行寺幽々子がそこに居た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「·········」

 

「それでね、紫はよくそうやって話をはぐらかしたりしてからかってくるのよ。だから私からもやり返しちゃうんだけど。」

 

「·········」

 

「それにね、普段は威厳のある妖怪の賢者様みたいに振る舞うんだけど、実際そうなのだけど、失敗するとあたふたして可愛くて。」

 

なんだこの状況は。

少年は心の中で困惑の声をあげた。

 

隣には自分の望みを叶えるための鍵が、その女性が惚気話というか、友人の話を微笑みながら語っていた。

別にこちらは望んでもいないのにだ。

話のタネにされたその友人には、申し訳程度の黙祷を捧げておこう。別に死んでいる訳では無いが。

 

(どうするか······)

 

一先ず、状況を整理しよう。

自分の望みはこの二度目の生を終えること。そのためには隣で談笑している女性を手にかける、若しくはこの首を落とす処刑人の前で襲う振りをすればいい。

それだけで、この二度目の悪夢は終わる。

 

(·········さっさと襲えばそれで終わりじゃねえか。)

 

今、隣で楽しそうに話す女性は明らかに無防備だ。タチの悪いチンピラが襲いかかろうものならたちまち組み伏せられそうな程にか弱い雰囲気を常時発しまくっている。

なら、さっさと襲い掛かって仕舞えばいい。それで終劇(エンディング)だ。

 

「でもやっぱりね、紫はとっても頼りなるの。妖怪の中でも強くて何でも知っていて、私の知らない事や心が踊るような話を聞かせてくれたり─」

 

(·········)

 

「それにね、紫には式神っていう······えっと、使い魔?みたいなものがいて、藍っていう狐の式神なんだけど、紫と同じくらいなんでも知ってるのよ。でも、紫よりも藍の方がお姉さんらしいかしら?」

 

(············襲えよ)

 

「偶に持って来てくれるお土産もすごく美味しくて、紫には悪いかもだけど、持って来てくれるお土産が一番の楽しみになっちゃって─」

 

(襲っちまえよ······それで全部終わりだろ。)

 

襲おうと爪を立てる。人間よりも鋭い犬歯を剥き出しにする。命を刈り取れる距離だ。半分狼の人狼の身体能力があればすぐ様殺れる位置だ。

 

(もう疲れたんだろ、もう嫌なんだろ、絶望したくないんだろ?だったら─)

 

それでも、八幡は動こうとしなかった。

何度も何度も思考は、脳は体に命令を下しているのに、動こうとはしなかった。

 

(襲っちまえよ······!)

 

されども、体はその場に縫い付けられたかのように、或いはその空間を固定したかのように動かない。

それはまるで、自分自身が拒んでいるかのようだった。思考ではなく、自分の中の奥深くにある感情が。

 

(何度同じ事を繰り返す!もう散々知ってきただろ!)

 

思考が、彼女にその牙を突き立てようと強く意識し、体に司令を送る。

それでも体が反応することは無かった。

 

(また同じだ、同じなんだ!受け入れられることなんて─)

 

「ねえ。」

 

「っ!?」

 

隣から声が掛けられた。

 

「な、なんすか?」

 

急に話し掛けられたからだろうか、狼狽えつつも八幡は言葉を何とか返した。

この時すぐさま反応できた自分をうんと褒めてやりたい気分だった。

だがそんなものも、すぐに意味をなくすのだった。

 

「八幡は、何か話したいことは無いの?」

 

 

 

 

「────別に、何も。」

 

虚を突かれたとは、こういう事だろうか。

一瞬で思考が真っ白になったがすぐさま再起動し、平静を装うとした。

 

「嘘でしょう?」

 

それすらも、一瞬で打ち砕かれた。

 

「───俺は何も、言いたい事なんて」

 

「そんな事ないわ。だって、何かに迷っているように見えるもの。」

 

そんな事は無い。そんなことは無いのだ。

無いはずだ。迷いなんてない。

 

「何かを諦めたような、そんな風に見えるもの。だって人は、()を見れば何を思っているかは分かるから。」

 

「迷って、悩んで、何かを選んで、そして諦めた。八幡を見てると、そんな感じがするの。」

 

否定の言葉を探す。

否定の言葉を捜す。

否定の言葉を、さがす。

 

「······何が、分かるっていうんだ。」

 

「何も分からない。そんな気がするだけ。だから、八幡の口から聞きたいのよ。」

 

「必要、無い。」

 

「それじゃあ、どうしてそんなに苦しい顔をするの?」

 

「意味は無い。」

 

「どうして辛そうな声を出すの?」

 

「うんざりしているだけだ。」

 

 

 

 

「どうして、泣いているの?」

 

「っ!!」

 

思わず、八幡は頬に手をやった。

しとり、と。僅かに指先が湿ったものに触れた。

 

「な、んで。」

 

泣いている。

涙を流している。

何で泣いているんだ?

 

「違う······」

 

違う。これはタダの、そう、タダの生理現象だ。

目にゴミが入ってそれを体が追い出そうとする排出装置だ。

だからこの涙も

 

「貴方は、怖がっているの?」

 

「─────」

 

核に、触れた。

何人たりとも立ち入らせなかった、自分自身すらも目を背けていたその原初(始まりの感情)に。彼女はたどり着いてしまった。

 

「·········」

 

「苦しいなら、全部吐き出して。何もかも。」

 

「俺は······」

 

 

 

「だから聞かせて?貴方の物語(じんせい)を。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぽつりぽつりと、八幡は少しづつにだが語った。

自分が人間だった頃の、一度目の生のお話を。

正直に言って、それは悲惨と呼べるものだった。

小さな時から周囲から除け者にされて、居ないものとして扱われ、幾多もの悪意と負の感情の捌け口にされてきた。

ヒトに裏切られ続けて、いつしか彼は誰かを信じることをやめた。やめてしまったのだ。

 

高校、という場所でもそれは変わらなかったというか、余りそういった目立つ行為はなかった。しかしそこならば、彼の言う『本物』というなにかを手にすることができたかもしれない。だがそれは叶わなかった。

 

「楽になったかしら?」

 

「·········えぇ」

 

「まだ、言いたい事は無い?」

 

「十分ですよ。ええ、もう十分です。」

 

心を開いてくれただろうか?

安心しきってくれたのだろうか?

幽々子はまだ不安げにそう考えた。

 

さっきよりも顔色は優れている。憑き物が取れたかのように、その変化は明らかだった。

 

だがまだだ。完全に八幡の心の闇を払拭できた訳では無い。

元よりそんな事を簡単に出来はしない。

今までの負の感情と記憶と、それらが混ざりあって出来たものが心の闇なのだ。

それらを払拭する術を、彼女は持っていない。

 

まるで時間が経つと共に鉄が錆びてゆき、風化していくように。

心の闇という錆が彼の心を侵し、簡単には落ちることのない穢れを刻み込んだ。

 

こうして誰かの心を癒そうとした事が皆無だった幽々子では、彼の錆に侵し尽くされた心を元通りにする事は出来ない。

 

例えるなら、水で濡らしたタオルで錆を拭い取ろうと奮闘するも全く錆は落ちず、逆にタオルが錆の汚れで汚されていくように。

 

こういったものを元通りに戻す事は、まず不可能に近かった。

 

そして一方で、八幡は幽々子に襲いかかろうとした考えを撤回し、そんな結論に至った己の思考と倫理を恥じた。

これだけ親身になって語りかけてくれる人にそんなことが出来るかと、軽く自己嫌悪に陥った。

 

それでも、彼はまだ己の生の終わりを諦めてはいなかった。

 

方法が変わっただけで方針は変わらない。

人狼になった事で幾らか頑丈になってしまったが、所詮は人と同じだ。鋭利な刃物で己の腹をかっ捌くか。水の底へと沈み理想を抱いて溺死するか。

それだけだった。

 

親身になってくれた彼女には悪いが、もうこれは決めた事なのだ。彼の、最後の希望(ねがい)なのだ。

 

「·····ありがとうございます。お陰で、少し楽になれましたよ。」

 

最後の願いは己の死。

それが彼に残された希望だ。

それでも、この暫定主の少女に己の内を吐き出せたことは、彼にとっての唯一の救いだった。人にとって、救いとは千差万別。

今の彼にとっての救いは、もうこれ以上悪夢を見ることの無い、健やかな眠りだった。

 

八幡は立ち上がり縁側をあとにしようとし幽々子に背を向け──

 

「待って。」

 

──た、その瞬間に。背後から手が伸び八幡の体を抱きとめた。

 

「八幡、早まらないで。」

 

「っ···何がです─」

 

「死ぬ事が救いだなんて、そんな悲しい事を考えないで。」

 

また、思考が止まった。

 

辞めてくれ。止めて、くれ。

 

「八幡、もう一度だけ考えてみて。

 

貴方のいた世界に、あなたの求める本物は見つからなかった。そしてもう、誰かを信じるのが怖くて仕方ない。だから、死んで救われたい。もう悪夢を見たくない。そうよね?」

 

「·········だから、なんだって言うんだよ。」

 

「でも、ここは何もかもが貴方の居た世界と違う。」

 

「だから何なんだ。」

 

「······貴方がこうして、二回目の命を得たのは、どうしてかしらね?」

 

「だから、何なんだよ!」

 

幽々子の手を振り払って、八幡は力の限り叫んだ。

憤怒、とも違う。だがそれは、怒りを以て現出した感情だった。

 

「だったらどうした!考え直して、やり直せって?また苦しめって言いたいのか!?どうせ同じだ!勝手に期待して、失望して!同じ事ばっかりだ!ここなら違う?ああそうさ違うさ!何もかも違う!普通の人間どころか生者すら居ない!だけど、ここに俺の求めるものがあるのか!?二回目の命を得たのだって、神様の気まぐれとかだろ!?俺を憐れんだのか、はたまた弄んでるのかは知らねえけどな、所詮そんなもんだろ!意味なんてない!やり直した所で意味なんて無い!繰り返すだけだ!怖いんだよ!また裏切られるのが怖いんだ!自分だけが異質で、異物のように扱われるのが辛くて、悲しくて、そして、怖いんだよ!もう楽にさせてくれよ!だから、もう、好きにさせて······くれよ·····」

 

そう言い切った時だった。自分の視界が突如として真っ暗になり、柔らかい何かに包まれる感覚に陥った。

それが、幽々子によって抱き締められたという事に気付くのは少ししてからだった。

 

「苦しいのね。悲しいのね。辛いのね。

そして、怖いのね。」

 

抱き締める力は強く、そもそも抵抗しようとしない体は自然と幽々子の抱擁を受け入れていた。

人狼ではあるものの、今の八幡にこれを押し退ける力も意思も、残ってはいなかった。

 

「それは誰もが同じ、苦しくて、悲しくて、辛くて、そして怖い。貴方程裏切られてきたのならそれは尚更。」

 

「でも、死んで楽になりたい、なんて悲しい事は言わないで。」

 

視界の端、桃色に煌めく何かが、視界の端でひらひらと舞う様に漂っていた。

それは蝶だ。細かい種類などは分からないどころか、あんなに桃色の光を放つ蝶なんて見たことがない。

とにかく、あれは蝶だった。

それが八幡を、いや、幽々子の周りをひらひらと舞い踊るように飛んでいた。

 

「私には、全ての生きとし生けるものの命を奪ってしまう力があるの。」

 

「私は、この力が好きじゃないわ。ただ奪うことしか出来ないなんて、悲しいでしょう?」

 

「八幡、貴方が本当に望むなら、この力で八幡を楽にしてあげる。でも、私はそうして欲しくない。そんなの悲しすぎるんだもの。」

 

「だから、もう一度だけ聞かせて?八幡の本当の願いを。」

 

「っ、俺の······願い。」

 

優しく語りかけ、そう促してくる。

素直な、自分の願い。

 

「俺は·········『本物』が欲しい···!」

 

「それはどんなもの?」

 

「分からない······分からない、けど。俺はそれが欲しい!揺らぐことのない、偽物の何かじゃない。そんな、なにかが欲しい!」

 

聞くべきことはすべて聞いた。

幽々子はただ抱き締める力をうんと強めて、語りかけた。

 

「それでいいのよ。自分か何が欲しいか、自分が何をしたいか、それを求めるの。」

 

「許されるのか·····?俺なんかが、それを求めても。」

 

「俺なんか、じゃないわ。貴方も、私も、妖忌も、みんなが何かを求める『権利』を持っている。それは他人が決める事じゃないの。」

 

 

「だから、貴方の好きなように生きなさい。」

 

 

 

生まれて初めて、少年は大きな声を上げて泣き叫んだ。今まで心の奥へと押し込めていたありとあらゆる悲哀の感情が、ダムが決壊したかのように流れ出た。

恥も外聞もなく、誰かの胸に顔を埋めて泣いた。こんな事など小学校の頃以来だろうかと、後に彼は思ったらしいが。

 

そんな彼を、幽々子は強く抱き締め、鈍い銀色にも見えるくすんだ灰色の髪を優しく梳くように撫でていた。

まるで親が子供をあやすかのように。

 

そんな彼の、天にまで響く程の咆哮、いや、その慟哭は冥界の寒空に響いていった。

 

その音は、まるで狼が月へと向けてあげた雄叫びのように儚いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幽々子様、妖忌、夕食出来ましたよ。」

 

「待ってたわ〜八幡。妖忌、一先ずご飯にしましょう。」

 

「全く、本当にわかっているやら。」

 

「?なんかあったんすか?」

 

「いつもの事だ、また置いておいた菓子を、な。」

 

「あーなるほど。またですか。」

 

「まただ。」

 

「もー。八幡まで私をいじめる〜!」

 

「少しは自重なさって下さい。それとつまみ食いもよしてくださいよ。」

 

「それもばれてたの!?」

 

「カマかけただけだったんすけど······幽々子様、明日の夕食は覚悟してくださいね?」

 

「あ〜!ごめんなさい!ごめんなさい!だからそれだけは〜!」

 

「決定事項です異論は認めません。」

 

「これではどちらが主で従者かまるで分からぬな······」

 

 

 

 

 

冥界の木々に春の季節が訪れる頃。

桜の花びらはひらひらと舞い踊り、四季の始まりを告げる風が頬を撫でる。

 

新たな門出を祝うように。

それは、冥界で新たな生を得た彼にも言えることだった。


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