なんでしょう、連載の方は1000文字進むのにも時間がかなりかかるのに、こっちの方は5000字くらいすんなり書けてしまうんですよね。
とりあえず書けたので投稿します。期待されてた分反応がちょっと怖いですが。
今回はミノタウロス戦の焼き直しみたいなものです。
あと、グロ注意です。残酷な描写があります。
では、どうかお楽しみいただければ幸いです。
ミノタウロスと戦った日の翌日の夜。
僕は豊穣の女主人という酒場に来ていた。
ステイタスが大幅に上がったことで自分へのご褒美として、何か美味しいものを食べるためだ。このお店にした理由は、知り合いの女の子がここで働いているから。
「あ、ベルさんこっちですよー!」
店の中に入った瞬間、薄鈍色の髪を持ったウェイトレスの女の子に呼ばれる。彼女がこの酒場で働いている知り合いだ。名前はシル・フローヴァ。
彼女の呼ぶ声に従って、テーブルの一つに誘導される。椅子を引いてくれるシルさんに礼を言うと、そこに座る。
料理とお酒を注文して、待っている間シルさんと雑談に興じる。たまにここの女主人のミアさんに呼ばれて離れるけど、隙を見ては戻ってくる辺りちゃっかりしていると思う。
来た料理を口に運ぶ。ここの料理は少し高いがその分非常に美味しい。
そのままシルさんが酌してくれるお酒を飲みながら食べ進めて、半分くらい食べ終わったころ。
酒場の入り口が騒がしくなる。どうやら団体のお客が来たみたいで、そのせいかと思ったのだけど、それにしては酒場全体がざわざわしている。
入り口の方へと視線を送る。そのときたまたま視界の中央に映ったのは、金髪の綺麗な女性――ヴァレンシュタインさんだった。
「シルさん。ちょっとこっちに移動して」
咄嗟にシルさんに移動してもらって、彼女たちへの壁になってもらう。
どうやら彼女たちは遠征の打ち上げで酒場を訪れたらしい。彼女たちが入ってきたとき酒場全体が騒がしくなったのは、彼女たちロキファミリアがこの街の双璧と呼ばれるほど大きく有名だからだろう。
彼女たちは僕から少し離れたところに固まって座る。耳を澄ませば話が聞こえないこともない、くらいの距離だ。もっとも、僕には彼女たちの話に耳をそばだてる理由がないので、シルさんに壁になってもらっている間食事に集中する。
ただ、僕が食事に集中することは許されなかった。
ロキファミリアの人たちが宴会を開始してしばらくして、酒場全体に響くくらいの大きさの声である言葉が聞こえてきた。
たぶん、声の感じからして、アイズさんの後を追ってきた狼人だ。
「おい、アイズ、昨日のあの
「チキンなウサギ……?」
耳に入ってきた言葉がそのまま素通りしていく。料理が美味しくて、それ以外を気にするのが勿体無いのだ。たまに振られるシルさんからの話にだけ相槌を打っていく。
「遠征から帰る途中で、ミノタウロスが逃げ出しただろ。そん時にミノタウロスに襲われてたヤツがいたじゃねぇか!あの足を震わせてた餓鬼のことだよ!」
うん、牛肉が美味しい。――ん?ミノタウロスとロキファミリア?
「ミノタウロスって、群れで襲い掛かってきて、反撃したら散り散りに逃げ出して上層まで行った、あの?」
「そうそう!上層まで逃げて行きやがったから俺たちで急いで追撃した奴らだ」
「逃げたミノタウロスを上層でアイズが倒したんだが、そこで見た駆け出しっぽい冒険者がこれまた傑作だったんだよ!」
駆け出し。ミノタウロス。ロキファミリア。襲われていた。
もしかして、僕のことだろうか。
「あの兎っぽい見た目の餓鬼。ミノタウロスに襲われて、助かったあと足をガクガクさせててなぁ。ハッ、今思い出しても笑えてくる」
どうやら僕のことみたいだ。酒の肴に笑いものにされるのはちょっと不快だけど、安心して崩れ落ちそうだったのは事実だったし、彼らが原因とはいえ一応は助けて貰ったのだ。笑われるくらいは我慢しよう。
それに。あのミノタウロスとの戦いで、僕は成し遂げたかったことを確かに成し遂げたはずだ。それを外野にどうこう言われようが知ったことじゃない。やっぱり不快ではあるけれど。
適当に聞き流しながら、酒をちびちびと飲む。料理、追加しようかな。兎みたいな見た目という言葉に前にいるシルさんがこちらを見てくるが、答えず杯を傾ける。
「しかも、泣いてたのか目が赤くなって、頬に涙が光ってやんの!ホント、そんな怯えるくらいなら冒険者になるなよな!弱っちいなら、相応の仕事でもやればいいだろうに」
そういえば、ミノタウロスと戦っている間、訳が分からないくらい色んな感情がこみ上げてきて、涙が流れていた気がする。あれは本当に何だったんだろう。死ぬのが怖かったのも少しはあるけど、それだけじゃなかったし。
少々聞くに堪えない言葉を無視しながら考え込む。そもそも、僕はどうしてミノタウロスと戦ったのだろう。逃げても良かったはずなんだけど。
「あの子は、弱くなんかないよ」
答えの出ない疑問に悶々と悩んでいると、どうやら話が進んでいたようだ。ちなみに僕が考えている間に耳が拾っていた情報を思い出すに、狼人の冒険者がエルフの女性に窘められていたみたいだ。
「はぁ?どう考えてもただの雑魚な駆け出しだっただろ?あんなにビビッてたんだしよ」
ヴァレンシュタインさんの言葉に反論する狼人の冒険者。
「ベートさんの目は節穴ですよね」
「あぁ!?じゃあ、何なんだアイズ。あの餓鬼が強かったっつーのかよ」
ちょっと聞き流している間に話が変な方向へ進んでいた。正直僕はミノタウロスに終始圧倒されていたし、ギリギリの綱渡りのような戦いだった。今でも何で生き残れたのかわからない。そんな僕が強かったと言われても……である。
「あの子は――ミノタウロスの片目を潰して、右腕を半ばほどで切り落としていました」
その言葉が放たれた瞬間、一瞬ロキファミリアの周りの喧騒が収まる。ロキファミリアの方を見るに、彼らは驚いているらしい。聞き耳を立てていたらしい周りの冒険者も驚いていた。
僕は困惑する。ミノタウロスの目を潰せたのも、右腕を切り落とせたのもほとんどマグレのようなものだ。一度も練習したことがないナイフ投げがたまたま眼球を貫いただけで、右腕だって奇跡に奇跡が重なってもなお完全には切り落とせなかった。
ミノタウロスから右腕がなくなっていたのは、あの怪物が自分の右腕を飛び道具として使ったからだ。おかげで僕は一転してピンチになった。
「レベル1の冒険者が、ミノタウロスに襲われて生き残るのだって難しいだろうに、一矢どころか二矢も報いた、と」
一瞬の沈黙のあと、小人族らしき男性が言う。更に続けて、
「しかも恐怖に足を震わせ、涙を流しながら、それでも圧倒的格上であるミノタウロスへと立ち向かい、目と腕を奪った」
「うーん、こうして並べてみると――」
「――どこかの英雄譚かな?」
――――――は、恥ずかしい。物凄く恥ずかしい。
何これ、褒め殺しじゃないか。しかも何か恐怖に立ち向かって打ち勝った冒険者みたいに勘違いされてるし。狼人に貶されても少々不快なだけだったのに、この褒め殺しには背中がすごく痒くなる。たぶん今の僕は耳が赤くなっているだろう。
大体、僕は褒められるようなことは何もやっていないのだ。幾度もの失敗の果てに、マイナスをゼロにしたに過ぎない。心の底でそんな思いが浮かんでは不思議に思う間もなく消える。
「ハッ、ただの餓鬼だろ。そもそも怯えてたのがまるで悪いことじゃないみたいなこと言ってんじゃねぇよ」
褒め殺しで全身が火照って痒くなっていたのが狼人の冒険者の言葉で少し収まる。ちょっとありがたい。
「いや、わからんぞ?それにかの
今度はエルフの女性がそう言う。よりにもよってあの大英雄と比較するとかやめてほしい。本当に。僕はただのレベル1の冒険者なのに。
「それだけじゃない。ミノタウロスから助けた時に少し話したけど、あの子――冒険者になってから二週間だって」
ヴァレンシュタインさんが付け加えた言葉に、話を聞いていた全員が絶句したようだ。
そういえば、地上に送ってくれるというのを断ったときに、そんなことを聞かれた気がする。
「ベートが駆け出しっぽいとは言っていたが、本当に駆け出しも駆け出しだったのか」
エルフの女性が少し呆けたように言う。そして、小人族の男性が真剣そうな顔でヴァレンシュタインさんに問いかけた。
「――その、冒険者の名は?」
ヴァレンシュタインさんが答える。
「ベル・クラネル」
シルさんが僕の方をじっと見てくる。それから目を逸らすと、周りの冒険者のうち何人かと目が合う。彼らもまたじっと僕を見ていた。何度かシルさんが僕の名前を呼んでいたので、それで気づいたのだろう。
僕はその視線から逃れるように身体を縮こまらせて、食事に集中した。
「ベル・クラネル、か。後でギルドの方で聞いてみようか。久しぶりに面白い話が聞けたよ」
それからしばらくあと。
酒場からロキファミリアの人たちが去ったのを見送って、僕はテーブルに突っ伏す。何とかやり過ごすことができた。せっかくの美味しい料理だったのに、仮に見つかったらと思うとあまり集中できなかった。あの褒め殺しのあとに捕まったら悶死する自信がある。
そこに壁になってくれていたシルさんが話しかけてくる。
「で、ベルさん。あの人たちが言ってたことってホントなんですか?」
「……英雄譚云々はともかく、僕が冒険者になって二週間くらいの冒険者で、ミノタウロスの片目と右腕を奪ったのは本当だよ」
そうシルさんの言葉に答える。
「へー、すごいですね、ベルさん」
「でも、それってそんなに凄いことなのかな……?」
レベルを上げるのには偉業を達する必要があるらしい。少なくとも上位の冒険者たちは偉業を幾度も成し遂げてきたはずだ。彼らからすればそれほど驚くこととは思えないけど。
「さぁ?私は冒険者ではないので。でも、一般的にレベルが上の相手には勝てないと言われているみたいですし、たぶん凄いんじゃないですか?」
二人で首を捻って考える。そこへ、元冒険者らしいこの酒場の店員のエルフ、リューさんが話しかけてきた。
「確かクラネルさん、でしたか。あなたは自分が異常なことがわかっていない」
リューさんは言う。それから続けて、
「いえ、異常という言葉ですら、足りません。規格外、シルが連れてきた方でなければ戯言と頭から信じませんでした」
「正直、今でも信じられない思いです。レベル差を覆したというだけでなく、その冒険者が戦いの道に入って二週間など」
「果たして、それを聞いて幾人の冒険者が首を括るか。他の冒険者からの嫉妬にはくれぐれも気をつけてください」
どうやら、忠告してくれたらしい。シルさんと一度顔を見合わせて、僕はリューさんをお礼を言うとともに、素直に頷いた。
――――――――――
それから数日後。オラリオで祭りがあるとのことで遊びに行こうと、祭りの場所に向かう。
途中この前の酒場の前を通った際に店員の人から、シルさんが財布を忘れてお祭りに行ったので、届けて欲しいと頼まれた。どうせ祭りに行くのは同じなので、ついでにと引き受けた。
やがて祭りがあっている区画にたどり着くと、屋台が立ち並ぶ通りを歩いてまわる。歩き回りながら、薄鈍色の髪の女の子がいないか探したが、見つからない。
ただし、代わりに別の探し人が見つかった。いや、神だから人じゃないけど。
「へい、ベル君!奇遇だね!」
ここ数日出かけたっきりホームに戻ってこなかったヘスティア様だ。しばらく帰ってこないかもしれないとは言われていたが心配だった分安心した。
神様に何処に行っていたのか聞いたが誤魔化された。それと、神様の勢いに押されてしまって一緒にお祭りを見て回ることになった。
一応神様も薄鈍色の髪の女の子を見つけたら教えてくれるらしい。それなら二手に分かれて探しましょうといっても全く聞き入れて貰えないままだったが。
神様と露店やら屋台を見て回る。いくつか食べ物なんかを買ったけれど神様はさきほど屋台で何か買ったせいで無一文らしく、僕がお金を払うことになった。
神様が僕と祭りを回りたがったのは、実は僕にたかるためなんじゃないかと邪推してしまう。別にヘスティア様は僕の主神なんだから、言ってくれればお金くらいいくらでもあげるのに。もちろん手持ちの分が限界なんだけど。
祭りの喧騒の中を歩く。
幾ら探してもシルさんは見つからない。もしかしたら財布を持ってきていないのに気づいて一度帰ったんじゃないだろうか。そう思いながらも探すのはやめない。
歩き回っていると闘技場の近くまで来た。その入り口はたくさんの人の出入りで賑わっている。
今日あっている祭りは、そういえば怪物祭と言われる祭りだったと思い出す。怪物祭とはガネーシャファミリアが開く祭りであり、この祭りでは闘技場でモンスターを調教する姿が見れるのが特色である。
冒険者じゃない一般市民にも、手に汗握る見世物だとかで人気らしい。
もっとも闘技場に入るためにお金がかかるので、この中に財布を忘れたシルさんが入っていることはないだろう。
闘技場から離れる方向へ歩き出す。闘技場を挟んで反対方向はまだ見ていない。そっちにシルさんがいるかもしれない。そう思ってはしゃぐ神様を連れてそちらの通りへと進んだ。
お店を回って遊んだり食べたりしながら歩いていると、僕らが歩いている大通りの闘技場がある方向から悲鳴が聞こえた。
そして、僕は。
こちらに向かって凄い勢いで走り寄ってくる白い猿のモンスターを見た。
僕らの周りでも悲鳴が上がる。蜘蛛の子を散らすように、祭りを楽しんでいた人たちが僕らの周りから離れていく。
僕も神様を引っ張って、モンスターの進行方向から回避しようとした。
だが、どうやらモンスターの狙いは僕らだったらしい。すぐ近くにいる人なんて一切見向きもせず、方向を転換して愚直に僕らへと向かってくる野猿のモンスター――確かシルバーバックだったっけ――が視界の中央に映る。
その瞬間、僕は逃げるのを諦めて神様を背後に庇うと、シルバーバックを迎え撃つ。
そして、シルバーバックと交差する瞬間に、振るわれた太い腕を掻い潜って、刃をモンスターの首元に走らせた。
ごろり、と猿の首が地面に落ちて、残った身体が勢いのまま通りに並ぶ屋台に突っ込む。幸いなことにその進路上に人はいなかった。
僕らの周りでモンスターから逃げようとしていた人たちから、歓声があがる。"坊主、すげぇな!"、"ひょろっとしてるのにやるじゃないか!"なんて賞賛の声が耳に入った。
僕はその声に笑いながら一通り応対すると、神様の方を見て言った。
「危なそうだし、今日はもうホームに帰りましょうか」
僕がモンスターをすんなり倒したことに唖然としている神様は、呆けた様子で首を縦に振ったのだった。
――翌日、僕があの酒場の前を通った時、シルさんが行方不明になったことを聞いた。
昨日も通った道をもう一度通ってしばらく歩くと、眼下に迷宮のように入り組んだ町並みが広がる。
ダイダロス通り。区画整理の繰り返しで、迷路のように雑多になった区域だ。設計者の名前がついたこの通りは迷い込めば二度と出られないとすら言われている。
酒場で聞いたことによると、シルさんがモンスターに追われてこの通りに入っていくのを目撃した人がいたそうだ。そして、シルさんもモンスターもどちらも見つかっていない。
息を吸って、通りに足を踏み入れる。僕は彼女を探さなければならない。彼女を探し当てることが出来なかった僕は、過ちを正したかった。たとえ、そこにほとんど可能性がないとしても。
だって、僕に祭りでシルさんを探すように頼んだリューさんは、目を赤く泣き腫らしながらも僕を責めなかったんだから。彼女は酒場を休んでシルさんを探すらしく、僕にシルさんを探す必要はないと釘を刺すと、そのままどこかへと行ってしまった。
歩き回るうちに日が徐々に暮れていく。もうとっくの昔に帰り道なんて忘れてしまった。一応食料なんかは持ち込んでいるけど、それだって限界がある。このまま迷い続ければ僕は死ぬだろう。それが餓死か、ここの貧民に襲われてかはわからないが。
それでも、振り返ることもせずに歩き続ける。探さないと。見つけないといけないのだ。
やがて、完全に日が暮れて。僕はダイダロス通りの奥深くに入り込んだようだった。
そして、そこで通りの真ん中にトロールの死体が転がっているのを見つける。魔石を取られず放置されたその死体は酷い匂いを放っていて、ハエが集っていた。
トロールの死体を足で転がす。トロールは切られて死んだようで、腹が大きく切り裂かれていた。
そして、その裂かれた腹の中から、薄鈍色の髪と溶けかけた人間の眼球が覗いていた。
眼球と目が合う。
――どうしようもない絶望と吐き気が僕を襲って。
それからのことは良く覚えていない。
――時計の針がぐるりと廻る
シルバーバックの首がごろりと地面に転がる。周りの人々から歓声が上がった。
それが聞こえる中で、僕は突然、腹の奥底におぞましいくらい嫌なものを感じた。かつてミノタウロスの時にも感じた悪寒が背に走る。
僕は神様にホームに戻るように言うと、ダイダロス通りの方向へと走った。
それから走り回って、自分でも何を探してるかわからなくなり始めた頃。ダイダロス通りから少し離れたくらいのところの通りで、モンスターがのっそりと歩いているのが見えた。トロールだ。
トロールは周りから逃げ出していく人間に見向きもせずに、堂々と道の真ん中を歩いている
そして、何かを見つけたように首をぐるりと回すと、その方向へと猛然と突進する。
その先を辿ると、シルさんの背を向けて逃げる姿があった。
僕は全力で走って、シルさんを追いかける。トロールはシルさんよりは速いようだが図体が大きく、敏捷重視の冒険者である僕ほど速くは走れない。
すれ違い様にトロールの足を引っ掛けて、シルさんの横に並んだ。
「ベルさんっ!?」
安心したようにシルさんの怯えた顔が緩む。
「シルさん、早く逃げましょう。僕じゃトロールに勝てません」
トロールは20階層以下に存在するモンスターだ。15階層から出現するミノタウロスにすら奇跡がないと生き残れない僕ではどう足掻いても勝てない。
シルさんの手を取って走り出す。幸い、トロールはさっき足を引っ掛けられて転んでいる。今のうちに距離を取ればダイダロス通りに入ることなく逃げ切れるだろう。
しかし、少し走ったところで背中に衝撃が走って僕は前の方へ吹っ飛ぶ。シルさんの手を離してしまった。
勢いがなくなって止まると、横に何か重そうなものが転がる。見れば大きな木の柱だった。トロールが屋台から毟り取って投げつけたのだろう。走っていた勢いもあってかなりの距離を吹き飛ばされてしまった。
そして、僕が吹っ飛んだことで、シルさんの走りが少しの間止まる。すぐに僕を追うように走ろうとするけど、もう遅かった。
「……ぁ」
シルさんの背後から伸びたトロールの腕が、シルさんの肩を掴む。そこで、僕はシルさんの背後でトロールが大口を開けたのが見えた。
――やめろ、やめてくれ。
僕の頭に過ぎった懇願をよそに――トロールはシルさんの頭へとかぶりついた。
ぐちゃり、ぐちゃぐちゃ。
咀嚼音。トロールの口の中から、赤い液体に混じって何か白いものが零れ落ちる。それは、歯だった。
品の無い、理性を蝕む音が少しの間周囲に響いて。ようやくトロールがシルさんから口を離すと、シルさんの頭は下顎から上がなくなって、口の中が外気に晒されていた。
「――ぁぁぁああああああ!!!」
頭に火花が散る。痛みで強張って上手く動かない身体を何とか操ると、トロールに短剣を構えて突っ込んだ。
全力の突進の先で、短剣を思いっきり突き出す。トロールの身体の中心を狙ったその刺突は、トロールの鳩尾へと迫り――
――僅かな引っかき傷のみをつけて弾かれた。
その後、トロールは僕の頭をアイアンクローのように掴んで、そのまま握り潰した。
――時計の針が再び反転する。
シルさんの手を引きながら、背後から迫る風切り音を知覚する。ギリギリで回避が間に合った。僕らの前方を木の柱が物凄い勢いで転がっていく。
そのまま走り抜けて、僕らは何とかトロールを撒くことに成功した。
一息ついて、安堵した僕とシルさんの身体から力が完全に抜けて地面にへたり込む。
「えへへ、ありがとうございます、ベルさん」
息を整えたシルさんが僕に向けてお礼を言う。
「きっと私一人じゃあのモンスターからは逃げ切れませんでした」
「だから、ベルさんは私の命の恩人です」
そう言って微笑むシルさん。
僕もそれに対して、"どういたしまして。お礼は酒場で酌してくれればいいよ"と笑って返す。
「ふふ、それはいつもやってるからお礼になりませんよ。そうですね、何がいいかな……」
一瞬、何か思いついたように、顔が輝く。
そしてシルさんは、僕の方に身体を寄せて――
僕の頬に柔らかい感触が走る。頬にキスされたんだと自覚するとともに、顔に熱が集まる。僕の頬から顔を離して、シルさんが悪戯っぽく笑った。
「ねぇ、ベルさん、私は――」
そう何かを告げようとするシルさんの足元。
そこに亀裂が走ったのに僕は気づいて、シルさんの腕を引こうと彼女の腕を掴む。
しかし、その亀裂からシルさんの身体を遠ざける前に。
地面が割れて、巨大な緑色の柱が空へ昇った。
――え?
僕の前には巨大な緑の柱。僕の両腕でも半分くらいしか手が回らないような植物っぽい質感の何かだった。
さっきまで目の前にいたはずのシルさんは見当たらない。僕の手の中にシルさんの腕だけが残されていた。
上を見る。空を貫くように見えた緑の柱は、実際はそこまで大きくはなかった。家を二つ重ねたくらいの長さだろうか。
その柱の先には花びらが見える。どうやらこの柱は巨大の植物の茎らしい。
どこか上の方で、ごくんという音が聞こえたような気がして、空を仰ぐ。僕は、見上げたその茎の上の方に、こぶのように膨らんでいる部分を見つけた。
ちょうどそれは、この茎に人一人分の太さを足したくらいの太さだろう。少しずつそのこぶが下へと下がっていく。
何かでこういう光景を見たような気がする。そう、ちょうど蛇が卵を丸呑みにしたようなのを、巨大な蛇と人間でやればこうなるんじゃないだろうか。
その瞬間、頭に理解のひらめきが走って、頭が真っ白になった。
それを言語化するのを僕の脳みそが拒絶する。
やがて、呆然としている僕を、周囲の地面から生えてきた触手たちが貫いた。
――針が廻る。
ごとり、シルバーバックの頭が転がるのが見える
そのまま僕は神様にホームに戻るように告げると、周囲の歓声の一切を無視して、全力で走り出した。
迷うことも止まることもなく通りを駆け抜ける。場所は何となく分かっている。急いでアレを見つければ、アレが彼女を襲う前に何とかできるかもしれない。
そう思考が過ぎって、うるさく鳴り響く心臓からの抗議を無視して、アレがいるだろうと目星のつけた場所まで走り抜けた。
ダイダロス通りのかなり手前の方でアレ――トロールを見つける。のそりのそりと歩くそのモンスターは人が逃げ散りつつある無人の通りを堂々と歩いていた。
その背中に向けて、僕は短剣を携えて突貫する。背中の皮に突き立った刃は、薄皮一枚だけを切り裂いて滑っていった。
振り返るトロール。恐らく何の痛痒も感じていないだろうが、僕の存在に気づいて、攻撃されたことがわかったらしい。
無造作に振るわれるその腕から逃れて、僕はトロールが向かっていた方向とは逆の方へと走り出した。
追ってくるトロールから逃げながら距離を一定に維持し続ける。たまに飽きたのか速度を緩めて追うのをやめようとするのを、物を投げて気を引く。
ある程度走ってダイダロス通りから十分離れたと判断して、本格的にトロールを撒こうとする。
そうやって、通りの間にある裏路地に入ったとき。
僕は前方に10歳ちょっとくらいの少女がいるのを見て背筋を凍りつかせた。
一瞬緩みかけた足を即座に動かして、少女を抱えて攫う。
抱えられた少女が僕の腕の中でジタバタ暴れるのを押さえ込んで、勢いを落とすことなく走り続ける。
「何なんですか!人攫い!?誰か助けて!?」
「お、落ち着いて!後ろ見て、後ろ!」
ジタバタと暴れる少女が大人しくなるように、背後のトロールに気づかせようとする。僕の言葉に従って、僕の後ろを見た少女が腕の中で固まった。
「……今日はなんて災難な日でしょう。日陰者のリリがお祭りなんて見に行ったのが間違いだったのでしょうか」
そう天を仰いで愚痴る少女。何というか子供らしくない。
ただ、この少女を抱えているせいで、トロールとの距離が徐々に縮まってきている。早く現実に戻って貰わないと。
「えーと、リリちゃん?」
「リリちゃんとは何ですか。私は子供じゃありません。小人族のリリルカ・アーデです」
僕が彼女の一人称から名前を推測して呼ぶと、こちらをキッと睨んで言う少女。小人族は年齢が分かりづらい。この子ももしかして僕より年上だったりするのかもしれない。
「じゃあ、リリルカさん。君は冒険者?」
「……リリでいいです。冒険者かはともかくとして、恩恵はもらっています」
そうぶすっとした口調で言うリリルカさん。いや、リリでいいのか。にしても、恩恵をもらってるのに冒険者じゃないとはどういうことだろうか。
「荷物もち(サポーター)というヤツですよ。あなたは駆け出しみたいなので、必要なかったと思いますけど」
僕の疑問を知ってか、トゲのある口調で答えが返ってきた。
にしても、僕はそんなに駆け出しに見えるのだろうか。実際駆け出しではあるけど。
「じゃあ、リリは敏捷に自信はある?」
「……正直ありません。ステイタスもそんなに高くないので、後ろのアレからは逃げ切れないかと」
諦めを滲ませて、そう言うリリ。まぁ、サポーターなんだから筋力はともかく敏捷はそこまで期待できないよね。
僕はリリの言葉を聞いて、覚悟を決めた。
「この先の大通りで下ろすから、そのまま走って逃げて。僕は後ろのトロールを足止めする」
「……正気ですか?トロールと言えば適正レベル3。レベル1のあなたじゃ、時間稼ぎもできませんよ」
僕の言葉に僅かに目を見開いて、そう言ってくるリリ。それに対して強がって笑う。
「大丈夫。僕はミノタウロスに襲われて生き残ったことがあるんだ。今回も何とかなるさ」
ちょうど言い終えたところで視界が一気に広がる。
中央通り(メインストリート)に出たのだ。ここなら十分な広さが確保できるから戦うことができる。何より、中央通りは騒ぎがあった時点で皆避難してるはずだから、誰かを巻き込む可能性がない。
「さぁ、リリ。走って!」
腕の中のリリを地面に下ろして、その背中を押す。
彼女は一度だけ僕の方を振り向いて、そのまま走っていった。
僕はそれを見送って、背後へと向き直る。トロールの巨体が近づくに連れてどんどん大きくなっていく。その迫力に負けないように、僕も立ち向かった。
突進をひらりと回避する。
回避されたトロールは突進の勢いのままに、建物に突っ込んでいった。
逃げ回りながら思ったことだけど、トロールの頭は悪い。少なくともミノタウロスほどの学習能力はない。
なにせ、何度も物を投げるだけでこちらに気を引かれて、追いかけてくるのだから、間違いないだろう。
力が強く、身体も大きくて刃が通らないとはいえ瞬発力はそれほどではない。見た目どおり鈍重なのだ。時間を稼ぐだけなら全ての能力がそれなりで纏まったミノタウロスと戦うよりは楽だろう。
リリがある程度距離を稼げるまで持たせればいいから、30秒、いや実際は1分はほしい。何とかなるだろうか。
トロールが体勢を立て直すのを見ながら、軽くステップを踏む。身体はいつも以上に軽い。さっき思いっきり走っていたとは思えないほどだ。
これならやれる。
そう思って、倒壊した建物から柱を棍棒代わりに握って出てきたトロールの攻撃を掻い潜るのだった。
目の前をトロールに振るわれた柱が物凄い勢いで通り過ぎていく。僕はそれに冷や汗をかきながら、それでもトロールへと踏み込んで近距離を維持する。
トロールは今武器を持っている。そしてその武器を筋力に任せて連続で振るってくるのが今のトロールだ。間合いに入ったままならすぐに回避できなくなっていつか直撃を受けてしまう。
ゆえに、僕はトロールと常に至近距離を維持して、その身体の回りをグルグルと回っていた。たまに蹴りつけてきたりして正直怖いけど、トロールに一度距離をあけるという発想はないらしく、何とか回避できている。
今何秒くらい経っただろうか。30秒経ったのは間違いないと思うけど、1分経っただろうか。一秒一秒がひどく長くて、どれくらいの時間が経ったのか分からない。
次に大振りの攻撃をトロールが放ったら、そのまま距離を取って逃げよう。そう、決めた。
走り回ってトロールの攻撃を回避するために全力で動かせていた足を止める。
トロールを誘って大振りの一撃を引き出すため、震えそうになる足を押し留めて、向きを変えたトロールの正面に留まった。すっと目を細めて、トロールの微細な動きも見逃さないように目を凝らす。
これまでに観察してきたトロールの動きから、次に来る攻撃の形を予測して、最小の動きで回避、可能な限り距離を稼ぐのだ。
やがてトロールの腕が持ち上がる。その速度、力の入り方。恐らく、大上段に振り上げてからの振り下ろし。
その腕が頂点まで上がり、次の瞬間振り下ろされるというところで、僕はトロールの横をすり抜けるように、最速の踏み込みと共に駆けた。
背後をぶわっと風が襲い、石畳に建物の柱が叩きつけられて轟音が鳴る。
トロールは大振りの一撃のせいで、すぐには行動できない。後は今のうちに距離を稼げば、僕より足が遅いトロールはどうやっても追いつけないだろう。僕の勝ちだ。
そう思って、走りながらも一瞬気を抜こうとして、――既知感と共に背中に悪寒が走り抜ける。
考える前に。
僕は身を翻して、その場から横に飛び退った。
僕がいた空間をトロールが武器にしていた建物の柱が風を切る音と共に通り過ぎる。あれを受けていれば死ななくても走れなくなって終わりだっただろう。自分の勘に感謝した。
そうして悔しげに咆哮を上げるトロールが追ってくるのを感じながら、僕はトロールを撒くために全力で走った。
「フッー、フッー、ハァ」
何とかトロールを撒いたのを確認して、呼吸を整える。トロールは無駄にしぶとかった。あと5分追いかけられていたら僕の体力は尽きて、そのまま捕まって殺されていただろう。
とはいえ。
僕は生き残った。適正レベルが二つも上の相手から。
その達成感と安堵感で地面にへたり込む。少しだけ心地よい疲労感が身を包み、襲ってくる安心感と徐々に抜けていく疲労が身体をリラックスさせる。
10分ほどそうしていただろうか。僕は神様の待つホームに戻ろうと、重い腰を上げて立ち上がる。
しかし、その瞬間。
少し離れたところで巨大な光の柱が立ち上がった。
「なっ……!?」
その撒き散らされる莫大な力に思わず、声を上げる。
一度も見たことは無いが、わかる。これは神が地上を去り、天界へと送り返されるときに起きるものだ。今も地上で感じるはずのないその神力が教えてくれる。
やがて、光の柱はその身を細くし、僅かな残滓を残してすうっと消えていった。
激しい胸騒ぎを感じて。
僕はその光の根元へと疾走した。
そうして、たどり着いたその場所には、僕が逃がした小人族の少女が血だまりの中に倒れていた。
駆け寄って抱き起こす。妙に軽い。
傷を治すためにポーションを取り出そうとして、言葉を失った。
――抱き上げたリリからは下半身が失われていた。
あまりにも慌てていたせいで、気づかなかったが、少し離れたところにその下半身が転がっている。
胸に痛みが走る。ほんの少しとはいえ言葉を交わした少女がこんな姿になっているのが、酷く悲しかった。
「リリ……」
彼女の身体を地面に下ろそうとして、微かにその瞼が開かれる。
そしてそこから覗く瞳と目が合った。
「……冒険者、様?」
リリは、こんな姿になってもまだ生きていた。
「はぁ、ドジっちゃった、みたいですね」
リリが掠れた声で言う。
「逃げる途中に、眷属とはぐれた女神様がいて、その捜索に協力したんです、けど。またトロールに、見つかっちゃって。女神様を、庇って」
「あはは……リリも、焼きが回りました、かね。冒険者様が、あまりにも、真っ直ぐだったので、それに、影響されてしまった、みたいです」
リリが言った言葉が僕の胸に刺さる。この子が死んだのは僕のせい、なのだろうか。
「それも、無駄でしたけど。でもあのまま、堕ちる所まで、堕ちて死ぬ、よりは、」
「こうして、死ねた方が、良かったのかも、しれませんね」
けれど、リリは僕を責めなかった。いや、そもそも僕に責任があるとも言わなかった。ただ、そこに静かな諦観が滲んでいただけだ。
「あぁ、しあわせに、なりたかった、な」
そうして、リリの瞼はゆっくりと閉じて。
その身体から、一番大事なものが抜け落ちた。
今度こそリリの身体を地面に横たえる。視線を上げた先。通りの先にトロールが悠然と歩いているのが見えた。恐らくリリが死んだと思って、ここを離れたのだろう。僕にはまだ気づいていない。
頭の中を、幾重にも幾重にも火花が散る。心がもう浮かんで来れないくらい深いところまで沈んでしまって、どこか夢でも見ているように現実感が失われていた。
リリの近くに落ちていた短剣を拾い上げる。その鞘には【Hφαιστος】の文字が刻まれていた。それはヘファイストスファミリアが造った、一級の武器であることの証。
リリの持ち物なのか、或いは天界へと帰った神が持っていたものだったのか。どちらかわからないけれど、心の中で"お借りします"と呟く。
鞘からナイフを抜いて。
僕は前方に見えるトロールの背へと、雄叫びを上げて挑みかかった。
――時計の針が回り、同じ時間が繰り返される。
シルバーバックを倒してすぐ裏路地に入って、ふと、足を止める。
先ほどまで確かに迷いがなかったはずの心が今、激しく揺れ動いて僕の走りを止めていた。
足が震えて、どうすればいいのかわからなくなる。
どうするのが正解なのか。何を選んでも間違っている気がして、何かを選択するのが怖かった。
行かないといけないのに。取り返しがつかなくなるのに。
それでも僕の足は動かない。実は正解の答えなんてないんじゃないか。そう、誰かが頭のどこかで囁くのが聞こえた。
深く、深く、息を吸って、その空気が全て肺から出て行くまで吐き出す。それでも、まだ心は折れていない。ならば戦わないと。どうしたって勝てなくても、僕はまだ納得していない。
揺れる心と頭を占める迷いをそのままに、走り出そうとする。こんな精神状態じゃ無理だと自分でも思うけど、到底諦め切れなかった。
知らないはずの女の子が、"幸せになりたかった"と言う。知っている女の子が、悪戯っぽい笑みのまま僕の目の前からいなくなる。
諦めるなんて、できるはずがない。
歩くような速さから、徐々に疾走へと切り替わる。
「ベル君!」
そこで僕の足は、背後から呼ばれる自分の名前を聞いて、再び止まった。
「はぁ、はぁ、ベル君!」
僕を追いかけてきたらしい神様が、息を整えようともせずもう一度僕の名前を呼んだ。
「ベル君、君は、ホームには、戻らないのかい?」
息を切らせながらそう問いかける神様。僕はその問いに沈黙で返した。止められるかもしれないと思ったのだ。
けれど、沈黙を返す僕を見つめて、呼吸を整えた神様は静かに微笑んだ。
「君はたまに不思議なところがあるね」
神様はどこまでも穏やかな口調で言う。そこには、僕への慈しみだけが込められていた。
「今もそうだ。あのモンスターを倒した途端、すぐに焦ったように走りだした」
「ちょっと、その君を見送ってると心配になって、ここまで追いかけてきたんだけど」
「どうやら、正解だったみたいだね」
僕はやっぱり沈黙を返すしかなかった。僕自身も自分がどうしてここまで走ってきたのかわからない。ただ、そうしなければいけない気がしただけだ。
二度目の沈黙にも神様は微笑んだままだった。
「他のモンスターも倒しに行くんだろう?」
僕は一瞬ためらう。倒せるわけがないのだ。どうしたって、レベルの差を埋めきれない。
でも、そういえば。
そもそも、ミノタウロスが死んだのも――
「ベル君。これを君に渡すよ。ホントはもっと雰囲気のあるときに渡したかったんだけど」
神様のその言葉に思考が途切れる。
神様の懐から取り出されて僕に渡されたのは、漆黒のナイフ。鞘に収まったそれは、鈍い光を放っていた。
「ヘファイストスに頼み込んで作ってもらった武器だ。その武器はベル君とともに成長する」
「ベル君が最強になったとき、そのナイフもまた最強の武器になるのさ」
神様の言葉が僕の耳に入ってそのまま素通りしていく。
その鞘に刻まれた【Hφαιστος】の文字を見た瞬間、僕の身体は固まってしまっていた。
理解の閃きが脳裏を貫いていく。
あぁ、あの巨大な光の柱はそういうことだったのか。
そうか、僕は勝てないという程度の思いで、自分の家族を守れなかったのか。
理解の色が走ると同時に、暴風雨のような感情が突如湧き出して僕を襲う。
ふざけるな、ベル・クラネル。たかだか、勝てない程度の敵に当たったくらいで、何を臆してるんだ。お前が逃げれば、お前が負ければ、僕の家族はいなくなるんだぞ。守れないくらいなら――死んでしまえ。
それは、怒りだ。不甲斐ない自分へのあまりにも大きな憤りだ。
静かに、鞘からナイフを引き抜く。刀身に描かれた神聖文字が、微かに紫紺の光を放った気がした。
一度だけその刀身を撫でるように触って、僕は再びナイフを鞘に収めた。そして、腰のベルトに鞘を引っ掛ける。
「ありがとうございます、神様」
ナイフのことだけではない。今、この瞬間に立ち上がるべき理由を与えてくれた。その神様に深い感謝の念を抱く。
「お、おぉ。泣くほど嬉しかったのかい?照れるぜ」
いつの間にか僕の頬には涙が伝っていたようだ。最も、その理由は感動ではなく自分の不甲斐なさへの怒りだが。
神様へと深く頭を下げて。
僕は、元々向かっていた方向へと向き直る。そして、神様へと、短く別れを告げようと口を開いたところで。
「行ってらっしゃい、ベル君」
神様の言葉に、思わず口を閉じてしまう。あぁ、どうしてこの神は、こんなにも僕の心を暖かくしてくれるんだろう。
僕の主神が、ヘスティア様で良かった。そう心の底から思った。
「――っ。行ってきます、神様!」
その言葉を最後に、僕は神様から離れて走り出す。神様は僕の背中を押してくれた。今度は僕が神様を守る番だ。
ただ、無心に倒すべき敵のもとへと向かった。
やがて、トロールの背中が見えてくる。
その見上げるような巨体が僕の瞳に映った瞬間、ミノタウロスと戦った時のように、溢れ出した激しい情動が僕の心へと激震をもたらした
死の恐怖。心が麻痺するような悲しみ。心を通わせた瞬間に別れる切なさ。何より、吐き気を催すほどの絶望。
灼きつくような強さの様々な感情が、どこからともなく無限に思うほど湧いてくる。でも、神様からもらった心の暖かさがその感情の奔流を受け止めて包み込む。
この暖かさに名前をつけるなら、きっとそれを――勇気、と呼ぶのだろう。
全力の突進の勢いを利用してトロールの背に神様のナイフを突き出した。
ざくりと、確かな感触と共に。
僕の手の中の短剣は、トロールの背中へと半ばまで沈み込んでいた。
痛みによる咆哮と共に、トロールが僕のいる背後へと腕を振る。それを回避して、僕はトロールを正面から真っ直ぐに見据えて――
「もう、お前に勝手はさせない。誰を害することもなく、ただ静かに――死んで逝け!」
その言葉を発するのと同時に。
僕はトロールの攻撃を迎え撃つように走り出した。
振るわれる腕を回避する。回避されたその腕は、近くの屋台へと直撃し、屋台をばらばらにした。
あまりの威力に背筋が凍る。食らえば痛いでは済まされない。一撃でも十分致命傷どころか即死だ。なるほど、上半身と下半身が分かれるわけだ。そんな思考が浮かんで消える。
けれど、僕は。
その威力に臆することなく、敢えて踏み込んだ。
「っ!」
思いっきりの気迫を込めて、短剣を滑らせる。しかし、紛れもなく全力の力を込めたその斬撃は、浅く筋肉の表面を刃先で引っ掛けただけだった。
微かな痛みに反応してトロールが暴れだす。
敢えて踏み込んでその巨体に纏わりつくように攻撃を回避していた僕は、その急激な動きに反応できず、吹っ飛ばされた挙句踏みつけられて身体を四散させた。
――時計の針が巻き戻る
刃をトロールの身体に滑らせたあと、即座に少しだけトロールとの間に距離を開ける。
暴れだしたトロールが、不規則な動きで辺りを破壊する。腕を叩きつけ、足で地面を踏み鳴らす度に周囲のものがボロボロになっていく。
再び僕に向き直ったトロールの目には怒りの炎が宿っていた。
そうだ、僕を見ろ。せいぜい冷静さを失って、ただがむしゃらに暴れ続けるがいい。
それだけ動きが単調になれば、回避もそれほど難しくなくなる。
怒りの咆哮を上げるトロールの攻撃から逃げ回りながら、僕は回転し続ける頭でたった一つの勝機への道を探していた。
――頭が潰れる。上半身と下半身が泣き別れる。捕まって頭から貪られる。
――その度に繰り返す。幾度となく生き残る可能性を探索し続ける。
頭上をトロールの攻撃が通り抜けていくのを感じながら、ゴロゴロと転がってトロールから距離を取る。
それはたぶん傍から見ればひどく不恰好だろう。英雄なんて言葉からは程遠い生き汚さのはずだ。
でも、それでいい。
無様だって構わない。格好良くなんてなくていい。
たとえ足が震えていようが、怖くて泣きそうだろうが、少しも構わない。英雄である必要も全く無い。
――ただ、為すべきことを為せれば、それでいい!
生き残れ。少しでも長く、こいつをこの場に引き止めろ。
その分だけ僕と関わりのある人たちが生き残る可能性が上がる。
シルさんが、あの少女が、ヘスティア様が、生きていてくれるなら、僕のプライドだろうが何だろうがくれてやる。
泥まみれになろうが、ボロボロになろうが、生き残れ。――生き残れ!
逃げ回って逃れる。転がってかわす。身を投げて攻撃を回避する。時にはトロールの身体にしがみついて振り回されながら、それでも生き汚く足掻く。
――自覚のないまま、何度も何度も時計の針が廻る。
ついに、体力が尽きる。
トロールの身体は全身が傷だらけだが、どの傷も浅く筋肉の表面までしか切れていない。あくまでも怒らせて、注意を引き付けるために切りつけたのだからそれも当然だ。
そもそも、僕ではこのトロールを倒す術はなかった。どう足掻いたって致命傷なんて与えられない。魔石にだって届かない。それが、レベル3とレベル1の差だ。二つのレベル差はひどく理不尽な格差を生み出す。
トロールの攻撃をかわしきれずに少しだけトロールの腕が僕の胴体を掠った。
それだけで、僕の身体は吹っ飛ぶ。尻餅をついて、立とうとしても立ち上がれない。体力が底をついたせいで足が震えて力が入らないのだ。
もう僕にはトロールを引き付けておく手段がない。
それでも、僕は笑った。
死を受け入れて諦めたわけじゃない。かといって、突然このトロールを倒す手段が見つかったわけでもない。
トロールが近くの壊れかけの屋台を持ち上げる。僕に振り下ろすつもりなのだろう。
僕にそれを回避することはできない。このままなら、僕は間違いなくその大質量に押しつぶされて死ぬ。
けれど、僕の顔から笑みは消えなかった。
一発逆転の手段は僕にはないけれど。でも、何も試練を乗り越えるのに僕だけの力にしか頼っていけないわけではない。それをミノタウロスとの戦いで僕は知ったはずだ。
だからこそ、今この瞬間に。僕の勝利が確定した。
――トロールの身体に銀閃が走る。
その一撃はトロールの魔石を貫き、その身体を大量の灰へと変えた。
「けほっ、ごほっ」
思いっきり灰をかぶって咳き込む。だが、すぐに全ての灰が地面へと落ちて、視界が晴れた。
そうして。
「……大丈夫?」
彼女――アイズ・ヴァレンシュタインが、僕の傍にしゃがみこんで、顔を覗き込んでいた。
それが、僕と彼女の二度目の邂逅であり、後に大きく僕の運命を変える出来事だった。
僕は被った灰をはたき落としたあと、ヴァレンシュタインさんと通りを歩いていた。前回は僕を地上に送ろうとしてくれたが、今回は僕をホームまで送ってくれるらしい。
正直戸惑ったし、たぶん要らないと思う。だけど、疲れきっていた僕は彼女に反論して提案を断る気力もなく、彼女の気遣いを素直に受けることにした。
ヴァレンシュタインさんと少しずつ話をしながら帰り道を歩く。そういえばいつかもこんなことがあったような気がする。彼女と出会ったのは迷宮での一度だけなのに、おかしなことだ。
会話の中で一つ気になったことがある。アイズさん――会話の途中、名前で呼ぶように言われた――が僕とトロールの戦いに駆けつけたのは、ある小人族の少女が僕が戦っているのを教えてくれたかららしい。
小人族の少女。何故か見覚えのある知らない顔が思い浮かぶ。でも、僕に小人族の知り合いはいないからたぶん気のせいだろう。いつか、その子に会ったらお礼を言いたいものだけど。
ちょっとした他愛もない会話をアイズさんとやり取りしながら、頭の片隅でそう思った。
やがて、あと少しでホームに着くというところで、アイズさんがふと僕に問いを投げた。
「君は……どうして、そんなに強いの?」
その問いを聞いて思わず首を傾げる。その強いというのは、アイズさんのような人こそ言われるべきものだろう。前回も今回も、颯爽と現れて僕を助けてくれたアイズさんにこそ。
それに対して僕は、今、こんなにも泥まみれの灰かぶりだ。はたき落としたといっても水で洗ったわけではないから、まだ結構灰がこびりついている。自分でもちょっと汚いと思うし、不恰好だ。
そんな僕が強い?
「僕は自分が強いとは思いませんけど」
故にそう返した。けれど、その答えにアイズさんは首を横に振って、
「ううん、強いよ」
そう言い切った。
「君は、遥か格上の敵に立ち向かった。あのミノタウロスにも、今回のトロールにも」
「本当に凄いと思う」
「だから、どうして君が強敵と戦えたのか、気になったの」
それを聞いて、僕は少しだけアイズさんの強いといった言葉を理解した。確かに傍から見れば僕を強いと思うのも仕方ないのかもしれない。
何となく、少しだけ悩んで。やがて、自然と僕の口は言葉を紡ぎだしていた。
「――成し遂げたいことがあったんです」
「?」
不思議そうな眼差しでこちらを見るアイズさん。理解してもらおうとは思わない。
「たとえ死んだとしても、やらなければいけないことがあったんです。それが何だったのか今はよく分かりませんけど」
自分の胸、心臓の上に手を当てる。恐怖、後悔、悲哀、絶望。湧き上がった感情が何を訴えていたのかは忘れてしまった。
でも、それが僕を戦いへと駆り立てたのは確かだ。そして、絶対に成し遂げたいという思いが、この胸の奥で咆哮を上げたのも、僕は覚えている。
「だから、戦ったんですよ、きっと」
ゆえに。ただ静かに、アイズさんにこの胸の思いを伝えた。
「よく、分からないけれど……」
「……君が強い、ということは、分かるよ」
少しの間のあと、アイズさんは僕の言葉にそう返した。やっぱり、分かってないと思う。
でも、それを説明する前に僕らはヘスティアファミリアのホームの前へとたどり着いた。
僕はアイズさんに送って貰った礼を告げる。彼女は少し微笑んで"どういたしまして"と言った。
そして、
「ねぇ、もし良かったら。ベル君、君に――」
――稽古を、付けてあげようか?
僕が別れを告げようとする直前。
彼女は僕にそう言った。
結構原作とずれてきましたね。
ループしてるせいでベル君は少しメンタルが強くなってるのでこんな感じです。
個人的に読者への謎かけとか、DDDみたいなのを憧れるんですけど、絶対無理ですね。ホントにあれは好きです。特にSvsSの話。見開きの直前くらいで本気で泣きました。三巻出ないかなぁ。
あと、シル=フレイヤ説がありますが、本編ではその辺りの話は考慮していません。
その辺を気にすると書くのが難しすぎるので。それに、この小説は真相がわかるところにたどりつく前に終わるでしょうし。