わけがわからなかった。
それは、とある休日のことだった。
リビングで読書に耽るなか、帯電する音に視線を上げれば、真っ黒な穴が天井に空いていた。
そこから目と鼻の先へ、浅黒い異形が滑り落ちる。
モールモッド。そんな名も知るはずのない怪物に、テーブルと対面のソファが押し潰された。
視界の隅に赤がハジける。
そこで 一瞬前まで、妹がテレビを眺めていたはずだった。
呆然としていれば、ドタドタと二階から駆け下る足音が2つ。
地響きに何事かと両親の声がした。
……いけない。
此処に来てはいけない。
そのたった一言が口に出せなかった。
扉を開く音に異形が振り向き、現実離れした光景に父と母は立ち尽くす。
ゆっくりと、背に畳まれたブレードが展開され、瞬きの間に風を切る。
再び赤が散り、水気のある落下音が4つ鳴った。
畳み掛ける惨状に恐怖が爆発した。
全身で突っ込み窓を破り、切り傷も気にせずに無我夢中で街を走る。
行き過ぎるそこは、すでに地獄絵図だった。
巨大な怪物の群れが家屋をハリボテの様に薙ぎ倒し、いくつもの悲鳴や怒号が飛び交う。
見知った姿を置き去りにして、聞き慣れた声を振り切って、只々ひたすら走り続けて……。
いつの間にか気を失い、目が覚めれば病室のベットの上だった。
君だけがあの地区で生き残った。
命の恩人から、後に師となるその人から、そう聞かされたとき浮かんだ感情は、怒りでも悲しみでもなく、ましてや恐怖でさえなかった。
*
重い瞼が持ち上がり、灰色の瞳が、ロフトゆえの近い天井をぼんやりと眺める。額に手を当てればジットリと汗が滲んでいた。
「…………少々寝すぎましたか」
カーテンから陽の光が漏れる。あの日の夢の余韻にため息を吐きつつ、独り言ちた来宮静間は、ノロノロと起き上がりロフトを降りた。
顔を洗い、黒いハイネックのセーターと紺のスキニーに着替え、無い食欲を考慮してトーストを焼き、オニオンスープを手早く温め朝食を済ませる。
壁に掛けたモッズコートをいつもの様に羽織り、ブーツを履いて爪先を鳴らせば、待ち合わせの場所へと足を向けた。
*
白く染まる自らの吐息。それ越しに何気なく町並みを眺めながら、コートを揺らして歩みを進める。
肌寒さを感じる空気はけれども澄んでいて、今朝の目覚めの悪さとのギャップも手伝い、なんとも言えない心地よさに満たされる。
「おはよ〜、キノさん」
そのまま淡々と歩くこと数分、望ヶ丘公園。
よく趣味に使うその場所に踏み入れば、耳に馴染んだ緩やかな声がかけられる。
目を向けた先には、ダッフルコートを着込んだ国近がすでに待っていた。
「おはようございます、ユウさん」
目元を緩め、右手を軽く上げて来宮が挨拶を返す。
「いや〜、今日も冷えますな〜」
「すみません、待たせてしまったようで」
両の袖からちょこんと指先が覗く。それを白い吐息で暖める国近の様子に、来宮はすまなそうに眉を下げる。
「いいよいいよ〜、わたしが早く来ちゃっただけなんだし」
たいしたことないと振る舞う彼女に苦笑いを浮かべ、左のポケットからカフェオレを差し出した。
「いいの?」
「待たせたお詫びです、受け取ってもらえればありがたいのですが?」
小首を傾げる国近に、待ち時間にこっそり飲むはずだったそれを悪戯っぽく勧める。
「ん、ありがとね」
ニヘラと笑みを浮かべて彼女はカフェオレを受け取り、袖越しにポカポカと伝わる熱にホッと息を吐く。
「では、行きましょうか」
「りょーかーい」
そんな様子を横目に見て来宮が歩を進めれば、国近もそれに倣い、後に続いた。
「それにしても珍しいですよね?」
歩調を合わせ、隣に並んだ来宮が疑問を浮かべる。
「うん?何が?」
「玉狛へついてくることなんて、今までありましたか?」
その問いに、ああ、と、国近が頷く
「年中ゴロゴロしてないで、たまには身体を動かしなさい、って」
「……その言い方、今さんですね」
どこぞの母親のような口調。失礼とは思いつつ、面倒見の良い彼女のクラスメイトの顔が浮かんだ。
「で、たまには出かけようかな〜、と思ったところにキノさんの用事を聞きつけたわけだよぉ」
「ほとんど模擬戦と考察になるかと思いますが?」
暗に退屈になるのではと問えば、彼女はユルユルとかぶりを振る。
「そこそこ以上の模擬戦なら、下手なアクションモノより見応えあるし、試合の考察はゲームの攻略みたいで面白いからね〜」
「……言われてみればそうですかね」
思い出し、納得して一つ頷く。
来宮自身、入隊間もない頃は上級者達のログに心を躍らせていた記憶がある。後者にしてもゲーマー気質の彼女だ。退屈するしないは杞憂なのだろう。
「ごちそうさま〜」
歩きながらカフェオレを飲み終え国近が告げる。
「それ、もらいますね」
空き缶をスッとその手から抜き取る。
「空っぽなんかどうするの?」
「こうします」
言うが早いか、歩く速さはそのままに道の反対側へと缶を投げる。
放物線を描いた缶は、自販機横のゴミ箱に、小気味良い音を鳴らして収まった。
「お〜、ナイスシュー」
「まだ俺の間合いですからね」
「いやキノさん、君は何と戦ってるのかね?」
「自分です」
「……まさかのノータイムで断言だよ」
くだらないやり取りに来宮がクスリと笑い、つられるように国近もプッとふきだす。
肩肘張らぬ緩い雰囲気。彼女のそんなところに安らぎを覚え、やはり惹かれたのだろう。
互いに笑みはそのままに、来宮と国近は雑談を交わしていく。
玉狛支部へと続く道中、2人はゆったりと会話を楽しんだ。
*
「いらっしゃい。来宮さん、国近先輩」
お邪魔しますと玉狛支部の扉を開けば、宇佐美が2人を出迎えた。
「やあやあ、久しぶりだね〜宇佐美ちゃん」
「どもども、国近先輩。ほんと久しぶりだね〜」
国近と宇佐美の緩いやり取り。2人が挨拶を交わすのに続き、来宮も会釈する。
「今日はお世話になります」
彼の言葉に、宇佐美はとんでもないと両手を振った。
「いやいや来宮さん、むしろこっちがお世話になる側な感じだし。そんなに改まって言われると、逆に困っちゃうよ」
「それはすみません。俺の提案から、場所をお借りするのは確かなわけですし、つい…………」
「お?……おはよう、シズマさん」
恐縮する相手に苦笑いを浮かべれば、不意に別の声がかかる。
目を向ければ、奥の扉を開き、空閑が白い頭を覗かせていた。
「これで今日のメンバーはそろったね。せっかくだしまずお茶にする?それとももう始めちゃう?」
約束の面子がそろい、宇佐美がどっちにしようかと意見を求める。
「おれはどっちでもいいよ?」
「わたしはクガくんの戦闘みてみたいかな〜。噂によればすごいって聞いたし」
空閑と国近に来宮が頷く。
「では、さっそく始めてしまいましょうかね」
「リョーカイ。ちゃっちゃと訓練室の準備しちゃうね」
キラリと眼鏡を光らせて、宇佐美は準備に取り掛かった。
*
「トリガーオン」
トレーニングルームに落ち着きはらった声が一つ。
黒いスパークと共に来宮の姿がダークブルーのロングコートに置き換わる。
「トリガーオン」
相対する空閑もトリガーを起動、黒を基調とした隊服に姿を変えた。
「今日はよろしく、シズマさん」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします、遊真さん」
緩い表情の空閑に、穏やかな表情で来宮が返す。
「むう、遊真でいいよ?」
「こんな性分なもので」
不満を漏らす少年に、苦笑いして頬をかいた。
『001号室、仮想戦闘モードOKだよ』
「っと、しおりちゃん、了解だよ」
「了解、俺も万全です」
宇佐美からのアナウンスに互いに表情を引き締める。
ピンと空気が張り詰め、研ぎ澄まされる集中力に思考が凍てつく。
『戦闘開始!』
コールの瞬間、2人が交差した。
アステロイドの掌底が空閑の右肩を掠め、スコーピオンの一閃が来宮の髪を数本散らす。
小柄な身体がクルリと空中で回転、軽やかに着地した反動をバネに、未だ背を向ける来宮へと襲いかかる。
地を這うような低い突進。足を刈り取る斬撃は跳躍一つで回避されコートが靡く。
宙に浮いた来宮は、逆に背を向ける形となった空閑へ右手を向けてキューブを形成、撃ち降ろされる散弾を空閑はスライディングで掻い潜り、ちょうど着地し片膝を着く来宮の背後へ回り込む。
死角から斬りかからんと振り向き、足に力を込める。逆手に刃を構え追撃に移るその瞬間だった。
「アステロイド」
来宮の背面に、3の3乗に分割された、光のキューブが出現する。
ゾクリと警鐘を鳴らした勘に従い、空閑が身を投げ出すようにその場から跳んだ。直後に散弾が放射状に放たれる。
弾丸の数割が床を穿つ最中、受け身を取り、立ち上がろうとする彼に影が差す。
回避に気を取られ過ぎた。
空閑は自らのミスに舌打ちし、咄嗟にバックステップを踏む。一瞬遅れてそこにトリオンを迸らせた掌底が刺り、辺りを爆煙が包み込む。
揺らぐ白煙目掛け、2本に枝分れさせたブレードを切り離し投擲、極端な前傾姿勢でそれを掻い潜り煙から飛び出す相手へ、
再びの交差。来宮の首筋に亀裂が走る。
「…………浅いか」
零れる空閑の冷淡な呟き。
首は落ちず、伝達系にも届かない。敢えて隠した最速の一閃。それでこれでは……
「埒があきませんか?」
向き直り発せられるのは、相変わらずの落ち着いた声。思考の先を言い当てられ、空閑が目を見開く。
徐に来宮が手をかざした。射撃に備え身構える。
ドォン
重い破裂音が轟く。
晴れかけた爆煙を突き破り、1つ置かれていた大弾が、空閑を背中から撃ち抜いた。