ダンガンロンパ ~超高校級の凡人とコロシアイ強化合宿~   作:相川葵

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(非)日常編③ 限りなく日常に近い非日常

 【7日目】

 

 《化学室》

 

 カチャカチャと音を立てながら、()()はガラス製の実験器具を机の上に並べていった。

 

「ひ、ひとまずこれくらいあればいいかな……」

 

 食事スペースでのいつもの朝食会を終えた後、ぼくはすぐにこの化学室にやってきた。理由はもちろん、実験をするためだ。

 この化学室には実験設備も薬品もたくさんそろっている。ぼくが扱ったことのない高級なものや希少なものも多く、本当は昨日の時点ですぐにでも実験を始めたかった。でも、実験器具や化学室には少し埃が被っていて、掃除をする必要があった。その時一緒にいた露草にも手伝ってもらいながら実験器具の整備や化学室の掃除をしていると、それだけで一日が終わってしまった。

 ぼくはそのまま夜更かしして実験を始めようと思ったけど、露草にこんな環境で夜更かしして体調を崩したらどうするんだと止められて、半ば強引に宿泊棟に連れ戻されてしまった。黒峰にも夜中に一人でいて襲われたらどうするんだと言われたけど、もちろんそのリスクは承知の上で実験がしたいんだと思った。

 そのあと、露草たちは抜け出したらダメだよとクギを刺して、ぼくを個室に押し込んだ。20分待ってから個室の扉を開けると、廊下に立っていた露草と目が合い「やっぱり抜け出す気だったんだ」と言われてしまったので、流石に観念して昨日は実験を諦めることにした。

 そんなわけで、今からようやく実験ができる。

 

「ふ、ふふ……な、何から調べようかな……」

 

 やっぱり一番に思いつくのは、あのモノクマ特製の二種類の薬品だ。特製というだけあって、訳の分からない効果を持っている。何をどう調合すればそんな効果になるんだろう。それを考えるだけでわくわくする。

 けど、まずはこの薬品類の純度の確認を先にした方がいいかもしれない。ここまで設備が揃っていて、今更それらが欠陥品ということは無いと思うけど、実験をするためには完璧な道具が必要だ。もし薬品に不純物が入っていれば、実験の結果がまるで意味をなさないから。

 そう思って、まずは薬品の確認をすることにした。昨日この部屋を掃除したときに器具の確認はできたけど、薬品の中身まで調べるには実験をする必要があるからだ。

 そうと決まればすぐに実験だと立ち上がり、薬品棚へと体を向けたその時、ガラリという音が聞こえた。

 

「ん……?」

 

 化学室のドアが開いた音だ。首をひねって音のした方を見れば、そこには大きな箱を抱えた火ノ宮が立っていた。

 

「おォ、やっぱてめーがいたか。邪魔すんぞ」

 

 そう言うが早いか、火ノ宮はずかずかと部屋の中へと入ってくる。

 

「べ、別にいいけど……な、何の用……?」

「あァ? てめーに用はねェよ。それともてめーに用がねェと部屋に入っちゃいけねェってのかァ!?」

「お、大声出すなよ……そ、そんなこと言ってないだろ…」

 

 ……やっぱり、火ノ宮は苦手だ。

 ここ数日を共に過ごしあの学級裁判という恐ろしい空間を経て、火ノ宮が根の真面目な人間だというのはなんとなくわかってきた。リーダーシップを取るわけではないけど何かあれば真っ先に発言するし、学級裁判の時はモノクマが犯人だと最後まで信じていたくらいには良いヤツなんだとは思う。

 けど、しゃべり方はいつもぶっきらぼうだし、今みたいにいきなり叫んだりするから近くにいるととても心臓に悪い。できる限り距離を置いておきたい相手だ。なんのために化学室に来たのかはわからないけど、早く用を済ませて出て行ってほしい。

 と、考えていると、火ノ宮はぼくのそばをすり抜けてあろうことか薬品棚へと向かっていった。何をする気だろう、と思う間もなく火ノ宮はひょいひょいと薬品類を持ってきた箱の中へと入れていく。危険性の低いものから、素人には扱えない劇薬、そしてモノクマ特製薬も例外なく箱の中へと詰めていった。

 

「お、おい、な、なにしてるんだよ……!」

 

 そこでようやく、ぼくは声を出すことができた。まさか、薬品類を全部持ち出そうとしているのか。

 

「あァ? 何って、危険物の回収に決まってんだろォが。本当は昨日のうちにやっておくべきだったんだろうがな。図書館の整理に気を取られてすっかり忘れちまった」

 

 思った通りだった。この前だって倉庫の刃物類とかを自分の部屋に持ち帰っていたし、また部屋で管理するつもりなんだろう。

 

「や、やめろよ……」

「あァん?」

 

 とにかく、これを見過ごすわけにはいかない。

 

「そ、それを全部ここに置いて行けって、い、言ってるんだよ……!」

「なんだと? てめー、これで何する気だァ!」

「な、何って、じ、実験に決まってるだろ……! そ、その薬品は全部、ぼ、ぼくが実験に使うんだ……!」

「実験? 実験なんかする必要ねェだろ!」

「は、はあ……!?」

 

 実験なんかする必要ないだって?

 火ノ宮は、抱えていた箱を床に下ろして言葉を続ける。

 

「こんな危険な薬品、誰もが手が届く場所に置いておくのはリスク管理の点で問題がある。昨日の報告会の時にてめーはこの薬品を『素人には扱えない薬品』とか何とか云ってたけどよォ、だったら、誰にも手の届かないオレの個室においておけばいい。そうすれば、何も起こることはねェからな」

「……しょ、正気で言ってるのか……?」

「あァ!?」

「た、確かにその薬品類は危険なものばかりで、し、素人が簡単に手を出せるもんじゃない……け、けど、ぼ、ぼくなら扱い方を心得てる……!」

「そりゃァてめーは【超高校級の化学者】だからなァ。実験なんてお手の物だろうけどよ。この二つはちげェだろ!」

 

 そう言いながら火ノ宮は棚に残っている薬品を指さす。例の、モノクマ特製薬だ。

 

「オレにだって、この薬品が普通のモンじゃねェってのは分かる。睡眠薬にしろ殺害薬にしろ、中に何が入ってるか分かったもんじゃねェ」

「そ、そこまでわかってるなら、ど、どうしてぼくの実験の邪魔をするんだ……!」

「邪魔するに決まってんだろ!」

 

 バン、と火ノ宮が机を叩き、実験器具が揺れる。

 

「てめーがここで実験がしたいってんなら、最終的にはこのモノクマ特製薬を使って実験したいんだろ?」

「……う、うん」

「やっぱりな。けどよォ、てめーが実験のスペシャリストだとしても、このモノクマ特製薬で実験をすれば何が起こるかわからねェ。どんなリスクが潜んでるかが判然としない以上、これに手を出すのはキケンだ。だから、こんな場所で実験なんかハナっからやるべきじゃねェんだよ」

「…………」

「あァ? 言いたいことがあんならとっとと言えよ!」

「あ、い、いや……」

 

 ただ単に危険物だからって理由で火ノ宮は薬品を持ち出そうとしたんだと思っていたけど、今の話を聞くと、もしかしたら火ノ宮はぼくの安全のことも考えていたように思える。確かに、火ノ宮の言うことは一理ある。睡眠薬や毒薬になりうる物質、成分は多岐にわたるわけで、現時点だとモノクマ特製薬の中身は候補が多すぎて見当がつけられない。もしかしたらぼくの想像している仮説の中に答えがないかもしれないわけで、そうなると予期せぬ事故が起きてしまう可能性は確かにある。

 けど、そんなのは余計なお世話だ。

 

「お、おまえの言いたいことはわかった……け、けど、や、やっぱりぼくは実験をしたい……だ、だから、そ、その薬品を持ち出されると困る……」

「チッ、てめー、オレの話を聞いてなかったのか?」

「き、聞いてたよ……き、聞いてたけど、お、おまえが言ってるのは結局、き、危険なものにふたをして目をそらしてるだけじゃないか……」

「あァん?」

「い、いいか火ノ宮……き、危険なものってのは、ほ、ほとんどの場合『わからない』から危険なんだ……。か、化学の世界じゃ今も分からないことだらけだ……ち、知識がない、ま、まだ解明されていないからこそ、が、ガスの充満した洞窟で窒息したり、じ、実験中に放射線に被曝したりするんだ……。け、けど、そ、それを解き明かして、あ、安全を手に入れてきたのが化学の、か、科学の実験なんだ……」

「…………」

「き、危険なものを、な、中身が分からないまま封じ込めておくなんて、そ、それこそ危険だ……! き、危険だからこそ、わ、分からないからこそ、じ、実験や調査を重ねてその性質を究明しないといけないんだよ……! も、モノクマ特製薬を調べてその成分が分かれば、あ、安全な処分方法とか、げ、解毒薬の作り方とか……そ、そういうのも分かるかもしれない……! ま、まあ、そ、それが実践できる原料が揃ってるかはわからないけど……」

 

 危険だから、触らないでおく。一見安全のように見えるけど、それはいつか自分の首を絞めることになる。危険だったら、尚更それを調べてその対処法を知らなくちゃいけない。

 

「そ、それに……ぼ、ぼくは、わ、分からないことを分からないままになんてしておきたくないんだ……こ、この世界の中で、こ、答えが存在しないものなんてない……だ、だから、ぼ、ぼくは知りたいんだ……た、たとえ命の危険があったとしても……」

「…………チッ」

 

 ぼくが話し終えると、火ノ宮は一つ舌打ちをした。どういう意味の舌打ちかはわからないけれど、火ノ宮は箱に入れていた薬品類を一つずつ棚へと戻し始めた。

 

「ひ、火ノ宮……」

「……てめーの話にも一理ある。実験の邪魔はもうしねェ。悪かったなァ」

 

 そう話しているうちに、火ノ宮の持つ箱の中身は空っぽになった。

 

「ただし、実験が終わって引き上げる時になったら薬品類も回収するぞ。化学室やこの棚にはカギがかからねェからな」

「……う、うん」

「それと、実験の時はオレも近くにいることにする」

「え?」

「化学実験の知識はてめーに敵わねェが、万一の時のために人がそばにいた方がいいはずだ。それに、実験をするなら人手はあるに越したことねェだろ?」

「……そ、そうだね……」

 

 火ノ宮は知識はあると言っていたし、器具の準備や洗浄を手伝ってくれれば実験がはかどることは間違いない。

 けど、火ノ宮からしたら、せっかくこんな設備の充実したエリアが解放されたんだし、他にやりたいことがあってもおかしくない。それなのにぼくの実験を手伝ってくれるのは、一刻も早くモノクマ特製薬という危険物を何とかしたいからだろう。つくづく、根はいい奴なんだと思わされる。

 

「よし、じゃァ決まりだ。何から手伝えばいいんだ?」

「え、ええと……ま、まずは白衣を着てもらおうかな」

「白衣ィ?」

「う、うん……や、薬品が服に着いちゃうと困るだろうし、そ、それこそ危ないし……ぼ、ぼくの個室に替えの白衣が何着もあったから、い、一着取ってくるよ……」

「あァ。すまねェ。頼んだ」

 

 そんな火ノ宮の声を背中に受けながら、ぼくは化学室を後にした。思わぬ邪魔は入ったけど、ようやく実験を始めることができるのがうれしくて、ぼくは少し早足になって宿泊棟を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《図書館》

 

 バサバサと、()は本のページを次々とめくっていく。目当ての情報を得られないまま奥付のページにたどり着いた。

 

「これもハズレかあ……」

 

 はあ、とため息をついて本を閉じる。本棚には本がギュウギュウに詰まっていて戻しづらかったけど、無理やり押し込んだ。朝食会の後からこんなことを繰り返して2時間ぐらい経っているけど、いまだに収穫は無い。

 とはいえ、まだまだ目を通していない本は文字通り山のようにある。諦めるのにはまだ早い。

 そう思って、次の本を本棚から取り出したところで、

 

「おや、大天君じゃないか」

 

 と、声を掛けられた。声の主は、この図書館に常駐する明日川さんだった。手にした本を後ろ手に隠す。

 

「明日川さん、どうしたの?」

「なに、ボクはただ次の小説を取りに来ただけさ。ついさっき(数ページ前)までは初めての本を読んでいた(未知の物語の中にいた)んだが、息抜きにお気に入りの物語に浸ろうと思ってね」

 

 そう言いながら、明日川さんは私のすぐ近くまでやってきて、棚から一冊のハードカバーを手に取った。記憶を頼りにここまでやってきたみたいだ。

 

「ところで大天君。その本にはおそらくキミの求める情報は無いと思うよ」

「え?」

 

 脈絡もなく、明日川さんはそう言った。

 私の求める情報って……。

 

「……なんで私が探しものをしてるって分かったの?」

「ここの本棚だけれどね、本が詰まっているおかげで、一度抜いた本を元に戻そうとしても、完璧には戻らないんだ。それを踏まえてこのあたりの本棚を見ると、今朝と比べて手前にはみ出ている本がいくつも存在する。『サイコパス事件集』『世界の未解決事件』『絶望の歴史』……まあ、その類のドキュメンタリーやゴシップ本ばかりだ。その冊数の多さからすると、読み込んでいるわけではなく手当たり次第にページをめくっているんだろう。つまり、大天君は過去の何らかの事件に関する何らかのキーワードをカギにして情報を探しているんだ」

 

 ……完全に明日川さんの言う通りだ。

 

「すごいね、明日川さん」

「そうでもないさ。ただ、この図書館に関しては誰よりも詳しいからね。それで、君の手にしている『世界の凶悪事件コレクション』という本だが」

 

 そう言って、明日川さんは私の持っている一つの本を指さした。見られないように本は隠したつもりだったけど、ばっちり見られちゃってたみたいだ。瞬間記憶能力を持つ明日川さんなら、一瞬でも視界に入ればタイトルくらい読めちゃうのか。

 

「そこのはみ出している、つまり、君がすでにもう読んだ『本当にあった! サイコキラーが起こした殺人』という本と、中身はほとんど変わらないんだ。出版社が中身をそのままにタイトルだけを変えたようでね。だから、キミが何を探しているにせよ、そっちの本に目を通しているキミはその本を見ても収穫は得られないはずなんだ」

「……そっか」

 

 なら、素直に明日川さんのアドバイスを受け取っておこう。そう思って、『世界の凶悪事件コレクション』を棚へと押し込んだ。

 

「ところで、もしよければキミが何の情報を探しているか教えてくれないか?」

「え?」

「この図書館にはボクが読んだことのある本が多いからね。もしかしたらキミの力になれるかもしれない」

 

 確かに、【超高校級の図書委員】である明日川さんなら、私がむやみに探すよりも効率はきっといいはずだ。それに、下手に断ったら無駄に怪しまれてしまうかもしれない。

 ……どうしようかな。

 

「もちろん、キミが話したくないというのであれば無理強いはしないけれどね」

「……いや、話すよ」

 

 すこし考えてから、私はそう答えた。

 

「でも、多分明日川さんでもわからないかも。もし分かってたら皆に知らせてると思うし」

「うん?」

「私が調べてたのは、このコロシアイの事なんだ」

 

 不思議そうな声を出す明日川さんに対して、話を続ける。

 

「ほら、明日川さんがさ、このコロシアイ生活について昔本で読んだことがあるって言ってたじゃん」

「ああ。この物語が始まった時のことだね。その直後にモノクマによって記憶(ページ)を破り取られてしまったわけだけど」

「それで、その時に少し言ったけど、私はそのコロシアイについての噂を聞いたことあるんだ」

「ああ、そういえばキミはそんなことを言っていたね」

 

 

──《「で、でも、私も聞いたことあるよ、その話……あくまでも噂だけど」》

 

 

「うん。どこで聞いたのかまでは忘れたけど、確かに聞いたことがあるんだ」

 

 江ノ島盾子が猛威を振るっていた時代──【絶望全盛期】は、希望ヶ空学園の母体組織である『未来機関』が江ノ島盾子を殺したことで終わりを告げた、というのが私たちが学校で習った常識だ。けれど、運び屋の仕事で全国を回っている時にそれが嘘であるという噂を各地で聞いた。いくら情報統制をしても、人の絶望の思い出までは消し去ることはできないんだと思う。

 

「明日川さんみたいに学級裁判のことまでは知らなかったけど、【絶望全盛期】を終わらせたのは希望同士のコロシアイだったって噂を何度も聞いた。その時は詳しいことはわからなかったけど、多分、今私たちの身に起きてることが50年前にも起こったんだと思う」

「ああ、きっとそうだ。希望ヶ峰学園の生徒(キャラクター)たちがコロシアイに巻き込まれたんだろう」

「でも、結局、どうしてそのコロシアイが【絶望全盛期】の終わり、つまり、江ノ島盾子の死につながったのか……それがまだわからないんだ」

「……確かに。そもそもボクが記憶(ページ)を失ったせいで、50年前のコロシアイのその結末さえ分かっていない」

「そうなんだよね。コロシアイはどんな終わりを迎えたのか、どうしてコロシアイの果てに江ノ島盾子は死んだのか。ここに、私たちがコロシアイを終わらせるヒントがあると思ったんだ。だからこそモノクマは明日川さんの記憶を消したんだろうし」

「なるほどね。それで、過去のコロシアイのことが載っていそうな本を片っ端から調べていた、というわけか」

 

 どうやら、明日川さんは納得してくれたらしい。良かった。

 

「そういうことなら、確かにボクは力になれそうにない……というより、正直調査を打ち切ることをオススメする」

「え?」

「ボクの記憶の中で、過去のコロシアイのことに触れている本はこの中には一冊もないからだ。当然、ボクと言えどもすべての本に目を通したわけではないけれど、それでもこの図書館の蔵書のうち8割以上には目を通している。小説だけの数字じゃない、ノンフィクションやゴシップ本、オカルト本も含めての数字だ。その実績を持って、ボクはキミに調査をやめるべきだと進言する」

「…………」

「このまま調査を続けても、徒労に終わる可能性が非常に高い。そもそもそんな情報が載った本がモノクマの用意したこの図書館に存在するか自体が怪しいことも理由に挙げられる。今は動きのない(出番のない)モノクマだが、いつまた絶望の物語を再開させるかはわからない。であるなら、貴重なこの時間(シーン)を無駄に浪費するべきではないよ、大天君。もっと有意義に時間(ページ)を使うべきだ」

 

 徒労、か。実際この二時間で収穫はゼロだし、明日川さんが言うなら、その8割の本にコロシアイの情報は載っていないんだろう。それを踏まえると、このまま調査を続けても、私の知りたい情報が見つかる可能性はかなり低いかもしれない。

 けど、それは私が調査をやめる理由にはならない。今私が最優先すべきなのは、この図書館の本を調べ上げることだから。

 

「アドバイスありがとう、明日川さん。でも、もう少し調べてみる。モノクマが何もしてこない今だからこそ、調べておきたいから」

「そうか。大天君が決めたのなら、もうボクは何も言わないことにするよ」

 

 そう告げて、明日川さんは歩き始めた。ソファに戻って小説を読むんだろう。

 

「大天君。だったら、二階右奥の本棚を調べてみると良い。あの辺りにはボクがまだ読んだことのない本が固まっているから、もしもコロシアイの情報があるのならそこにある可能性が高い」

「分かった。ありがとう、明日川さん」

 

 明日川さんにお礼を言った後も、しばらくは近くの棚の本を調べていた。ここに目的の情報があるかもしれないし、ひとまずこの近辺を調べつくしておきたいと思ったから。

 そう思って調査を続けて1時間、結局収穫は無かった。

 

「……はあ」

 

 重いため息をつきながら本を棚へと戻す。とはいえ、ただ嘆いていても仕方ないから、今度は向こうの棚を調べようと思った、その時だった。

 

「大天さん」

 

 聞き覚えのある、今一番聞きたくない声が聞こえた。

 

「…………」

 

 恐る恐る振り向くと、私の想像通り、七原さんが立っていた。

 ダッと翻して、七原さんの前から逃げ出す。

 

「あ! 待って!」

 

 待てない。

 そう思いながら逃げたけど、私が逃げた先は積みあがった本で行き止まりになっていた。

 どうしよう、と思う間もなくすぐに七原さんに追いつかれてしまった。

 

「……うう」

 

 どうやら、そろそろ覚悟を決めないといけないらしい。

 

「大天さん、私はただお話がしたいだけなんだよ」

「…………」

 

 せっかくのチャンスと言わんばかりに、七原さんが話し始める。

 

「学級裁判が終わってからさ、まだ一度も話せてないよね。私が話そうとしても逃げ出しちゃうし……」

「……逃げ出すに決まってるよ」

「え?」

 

 小さくつぶやいた言葉は、七原さんには届かなかったらしい。

 なら、もう一度伝えるだけだ。

 

「逃げるに決まってるじゃん。今更、どんな顔して七原さんと話せばいいって言うの?」

「……どういうこと?」

 

 首をかしげる七原さん。どうやらぴんと来てないみたいだ。……どこから話せばいいだろうか。

 

「……私はさ、こんなところで死にたくなんか無いんだよ」

 

 少し悩んで、私はそう切り出した。

 

「死ぬ前に、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ。それを叶えるまでは何があっても死ねないし、こんな窮屈な場所で無駄にする時間もない」

「…………」

「あの夜、倉庫で血まみれになった新家君を見た時、死の恐怖を肌で感じた。死が、私にまとわりつくような気がして、少しでもそれから目をそらしていたかった」

 

 だから、あの時私は捜査をしなかった。もちろん学級裁判のことが頭をよぎったけど、それすらも見ないふりをした。

 

「怖いんだ、私は。だから、平並君の軟禁にも賛成した。今だって、できるなら全員を閉じ込めたい。そうすれば絶対に安全でしょ?」

「……でも、それは」

「分かってる。あまりに自分勝手すぎるし、そもそも無理な話だし。だから、とにかく今は誰も信用しないようにしてる」

「…………」

 

 皆が仲間じゃない、とは言わない。けど、誰しもが敵になりうると思ってはいる。誰が殺意を持つかわからないこの状況で、信用なんてできやしない。

 

「でも、七原さんは私とは違う」

「そんな……私だって、不安で」

「違う。だって、七原さんはいい人だから」

 

 否定する七原さんの言葉を遮って、言葉をぶつける。

 

「捜査の時に私の部屋の前にいてくれたこともそう。平並君のことを信用してることもそう。そして、多分七原さんは皆のことを信頼してる。そうだよね?」

「…………」

 

 七原さんは、無言でうなずく。

 

「でも、私はそんな風にはなれない。私が自分勝手なのは十分わかってる。皆被害者なんだから、七原さんみたいに皆をもっと信用した方がいいはずなんて、分かり切ってるんだよ」

 

 ……それが分かってるから、七原さんがまぶしいんだ。

 そこまでは口にできなかったけど、七原さんは私の言いたいことを十分に感じ取ったらしい。

 

「……大天さん」

「…………」

 

 何か言いたげな七原さんの脇を駆け抜けて、私は図書館を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《食事スペース》

 

「ねえ琥珀ちゃん」

『なんだ、翡翠?』

「パンはパンでも食べられないパンはな~んだ?」

『そりゃ、フライパンに決まってるだろ。何十年前からもあるなぞなぞだぜ?』

「残念、不正解だよ! 正解はね」

『かびたパンとか腐ったパンとかいうのも定番だな』

「…………ええっとね……正解は……あ!」

『短パンとかジーパンもあるか』

「あー、えっと、正解は……あ、そうだ!」

『シンプルに鉄板とかも──』

「もう! 琥珀ちゃん!」

『どうしたんだ翡翠! 大きな声を出すなよ、びっくりするだろ!』

「どうしたもこうしたもないよ! どうして私が考えた答えを先に言っちゃうの!」

『そんなの、オレは翡翠の操る人形なんだから翡翠の考えが分かって当然だろ』

「琥珀ちゃん、またそんなこと言ってるの? あのね、何回も言うけど琥珀ちゃんは人形なんかじゃないんだよ」

『いやいや、オレは人形だってそれこそ何回も言ってるだろ?』

「もう……かなたちゃんも何か言ってあげてよ!」

「えっ、わたしですか?」

 

 急に露草さんに話を振られたので、びっくりしてしまいました。

 今の時刻はちょうど午後三時。昼食の片付けはとっくに終わり、調理場の掃除も三度目を終えたところでした。皆さんとで決めたるーるのためにわたしはこの食事すぺーすから離れることはできません。それ自体は構わないのですが、やはりどうしても時間を持て余してしまうというものです。

 掃除は好きですが、同じところをずっと掃除していても仕方がありません。午前中はそれなりの方が食事すぺーすにいらっしゃいましたが、対して昼を過ぎてからは食事すぺーすにはわたしとすこっとさんの二人だけになってしまいました。でしたらまたすこっとさんと連珠をしようと思い立ちましたが、すこっとさんは何やら小さなぬいぐるみをせっせと作っていらしたので邪魔をしないように取りやめました。

 そんなゆったりとした時間が流れる中、食事すぺーすに現れて話し始めたのが露草さん達だったのです。……人形の方も黒峰さんとお呼びした方がよいのでしょうか。露草さんはどんな気持ちであの腹話術をしているのでしょう。

 

「そうだよ、かなたちゃんしかいないじゃない。スコットちゃんは忙しそうだしさ」

「まあ、確かにわたしはすることがありませんし別に構いませんが……急に話しかけてきたからすこし驚いてしまいまして」

『ああ、そりゃ悪かったな』

「いえ、だいじょうぶです」

 

 露草さんは、いつも急に話し始めて、時折周りを巻き込んでいきます。まるで嵐のような人だと思いますが、こんな状況でそういった方を見ると、自然とげんきが湧いてくるというものです。

 あの学級裁判というながいながい苦しい時間を終えてからというもの、みなさん元気を失っていました。とうぜんの事なのですが、今もなおその空気感は残っています。朝食会には平並さんをのぞいて皆さんそろいますが、昼食、夕食には顔を出さない人は少なくありません。……まあ、根岸さんなどはげんきがないのではなく化学室などにこもりっきりになってるそうなので、それはそれで健康面でしんぱいなのですが。

 ともかく、そんな状況で明るくふるまえる露草さんのそんざいはとてもおおきいと思います。【体験えりあ】がかいほうされた時も、露草さんのおかげで皆さんに穏やかな空気が戻った気もしますから。

 

「それで、かなたちゃんは琥珀ちゃんの事どう思う? 人形なんかじゃないよね?」

「えっと……」

『いやいや、どう見たって人形だろ! こんな見た目の人間がいるのか?』

「琥珀ちゃん! 人は見た目じゃないよ!」

 

 そういう話ではないと思います。

 

「まあ、やはり黒峰さんは人形、ですよね」

「えーっ! そんな!」

『ほら見たことか!』

「ですが、ただの人形とも思えません。こういう言い方がただしいかどうかわからないですが、露草さんとおはなしをする黒峰さんは……なんというか、いのちがあるように見えるのです」

 

 きっと、それが露草さんの【超高校級の腹話術師】としてのちからなのでしょう。見た目にはもちろん黒峰さんは人形にしかおもえません。それも、精巧なつくりをしているわけではなく、むしろ簡素な人形です。最低限のぱーつしかついていないようなものなのですが、それでもそれを露草さんが動かすと、不思議とまるで生きているかのように見えてしまいます。

 

「命ある人形……かなたちゃん、面白い表現だね!」

『確かに面白い表現だな! まあオレには命はないんだが』

「琥珀ちゃん、せっかくかなたちゃんがこう言ってくれてるのに! そんなにこだわらなくてもいいじゃない」

『こだわってるのはどっちかって言うと翡翠の方だと思うけどな。あ、そうだ、かなた。お前に聞きたいことがあったんだ』

「あ! 琥珀ちゃん、話そらした!」

 

 そんな露草さんの声から逃げるように顔をそむけた黒峰さん。もちろん正確にはそう見えるように露草さんが手を動かしてるだけなのですが、そこにつっこむのはあまりにやぼというものでしょう。

 

「なんでしょう、黒峰さん」

『どうしてそんなに色々家事ができるようになったんだ?』

「家事、ですか?」

『ああ。翡翠は家事スキルが壊滅的でな。少しは翡翠にも見習わせたいと思ったんだ』

「琥珀ちゃん、余計なお世話だよ」

 

 むっとする露草さん。そうは言いつつあまり言い返さないのは、その自覚があるからでしょうか。そういえば、かれー作りの時にそばから見ていた限りだと、露草さんはあまり料理の経験はなかったようにおもいます。他の家事に関してもそうなのかもしれません。

 それはともかく、まずは黒峰さんの質問に答えなくてはなりませんね。

 

「わたしの家事スキルは、お屋敷の前めいど長がてっていてきに指導してくださったおかげで身についたものなのです」

「前のメイド長さんに?」

「はい。実は、わたしが十神財閥でまずはめいど見習いとしてはたらくことになったとき、わたしは家事をなんにもできませんでした。そんなめいど見習いのわたしを指導してくださったのが前めいど長だったのです」

『へえ、どんな風に指導してもらったんだ?』

「そうですね。前めいど長は、とにかく細かな気配りができる方で……とても厳しい方でした。ですから、指導の際もとても些細なことに対して指摘が入ります。掃除のときにちりひとつでも残せば掃除をはじめからやり直すことを命じられますし、料理のあじがいまひとつであればそれが誰かのもとにだされることはありません。洗濯も、しわを残さないことはもちろん服の繊維を傷めないやり方を厳しく教わりました」

「うわ、大変そうだね」

「ええ、正直なところを言えばとても大変でした。前めいど長にたっぷりと叱られたときは、わたしと一緒にめいど見習いとして仕える親友となぐさめあったりもしました」

 

 そう露草さんたちに話して、ふとその親友のことを思い浮かべました。

 彼女は、わたしとほぼおなじ時期にめいど見習いとしてお屋敷にやってきました。へやも同じだった彼女とはまさしく寝食をともにしたなかで、彼女の性格も相まってわたしたちは切磋琢磨しながらめいどとしての技術をみがいていきました。そんな彼女は、わたしがめいど長になってからも、めいどとしてわたしをささえてくださいました。

 ものくまによってその顔は思い出せなくなってしまいましたが、彼女は間違いなくわたしの親友です。彼女もわたしとおなじく高校生ですから、今頃はお屋敷近くのがっこうに通いながら、わたくしがいない穴を埋めるべくめいどとして励んでいるはずです。

 

「なんでそんなに厳しかったの? ちり一つくらい残っててもいいと思うけどな」

「それは【完璧】であることが十神のめいどとしての……いえ、十神にかかわる人間としての絶対条件であるからです」

『完璧?』

「はい。というのも、常に完璧であるというのが十神財閥当主、十神百夜様のぽりしーなのです。『十神財閥は世界のとっぷに君臨する存在であり、世界を導く責任がある。そのためには欠点のない完璧な存在でなければならない』、と常々おっしゃっていました。そしてそれは、十神財閥の一員になった時からわたしの胸に強く刻んでおります」

 

 『完璧である』と口にすることは簡単ですが、それを実践することは生半可ではありません。完璧であり続けることは、たった一つのしっぱいも許されないということです。ですが、それこそが十神財閥の一員としての責任であると思います。まだ未熟なわたしですが、十神財閥に属する以上、それをめざさなくてはなりません。

 

『それなのに、どうしてメイドをやめなかったんだ? 大変じゃないか』

「確かに、めいどの鍛錬は苦しいものでした。実のところ、初めの方はご主人様にめいどとして雇ってもらった恩がある以上、そもそもめいどをやめるという選択肢がありませんでした。しかし、次第にめいどとしての楽しさ、よろこびを感じるようになっていったのです」

「喜び?」

「はい。先ほど、前めいど長はとても厳しい方と申しましたが、その反面とてもきれいな笑顔を見せる方でもありました。掃除を完璧にこなしたとき、最高の料理を作れたとき、そういった時に前めいど長がそのきれいな笑顔を見せてくださるのです。それを目にした時、苦労が報われたと思いました」

「ふむふむ」

「その後、めいど見習いを卒業すると、正式なめいどとして仕事が始まりました。もちろん、十神家の方々に仕えることになるのですが、実際の生活では部屋が綺麗というだけで笑顔になることはありません。しかし、わたしが完璧に仕事をこなすことで、ご主人様たちが気持ちよく仕事や生活をなさっているのが手に取るようにわかるのです。それこそが、わたしのめいどとしての楽しさであり、よろこびなのです」

 

 そして、それはこのどーむでの生活でも同じです。皆さんが気持ちよく生活できるようにすることがわたしの使命と言えるのかもしれません。

 

『なるほど。そうだったんだな』

「ですから、露草さんも教わればきっと上達すると思います。もしよろしければ、わたしがお教えしましょうか? もちろん、前めいど長のように厳しくなんて致しませんしから」

「本当? でも、どうしようかなー。大変かもしれないし」

『そうは言うけどな、翡翠。【超高校級のメイド】から直々に教わるなんてなかなかできることじゃないぜ?』

「うーん……」

「あの、別に強制はしませんので……」

「ほら、かなたちゃんもこう言ってるし」

『翡翠、苦手な家事を克服するチャンスだ! こんなチャンス、なかなかねえと思うぞ』

 

 そんな黒峰さんの言葉を聞いた露草さんは、

 

「……うん。せっかくだから少しやってみようかな」

 

 とおっしゃいました。

 露草さんは、不安になりながらも苦手を克服しようと一歩踏み出したのです。これは、わたしも頑張らなければなりませんね。

 

「わかりました。今すぐ始めますか?」

「んー、翡翠は今すぐ始めてもいいんだけど、そろそろ完成するみたいだからね」

「完成?」

 

 と、わたしが露草さんの言葉を聞き返すと、

 

「よし、できた」

 

 そんな声がわたしの耳に届きました。

 すこっとさんの声でした。

 露草さんがすこっとさんの方に歩いていきます。

 

『おっ、スコット、完成したか』

「ああ。スピードを重視したせいで雑になったのが腹立たしいが、やむを得ない」

「翡翠から見たら雑に見えないけど」

「オレがそう思うんだ」

 

 そんな会話をしています。そういえば、すこっとさんは何を作っていたんでしょうか。

 

「というわけだ、シロサキ。やるぞ」

「やるって、何をですか?」

「何って、チェスだ」

 

 すこっとさんは格子模様の書かれた布を机にばっと広げ、そこにものくろの小さな物体を次々とおいていきました。それはまさしく、ちぇすの駒に違いありませんでした。布を縫い合わせて綿を詰めて、この場でちぇすの駒を作り上げたのです。

 

『おっ、これってちゃんと立つようになってんだな』

「ああ。底にはビーズを詰めてある。そうじゃないとゲームにならないだろ」

『ま、確かにそうだな』

 

 そう言いながら、すこっとさんはそのお手製のちぇすの駒を並べていきます。

 

「ほら、シロサキ、オマエ前にチェスもできるって言っただろ?」

「ああ、はい。そうですね」

 

 あれは確か、この生活が始まってすぐの、すこっとさんと連珠をした時でしょうか。暇つぶしに何かで遊ぼうという話になって、お互いにちぇすができるとわかりました。ただ、残念ながら道具がなかったために紙とぺんでできる連珠を始めたのです。

 

「連珠では大敗を喫したが、チェスなら得意だからシロサキに勝てると思ってな」

『大敗って、何勝何敗だったんだ?』

「………………0勝43敗だ」

「えっ、スコットちゃん全敗したの?」

「違う。まだ勝ってないだけだ」

 

 ちょっと苦しい言い分な気がします。確かに、わたしが負けそうになった試合もあったので、わたしの全勝は運がよかった結果とも言えますが。

 

「ま、それはそれとしてだ。シロサキ、チェスやるだろ?」

「ええ、ぜひやりたいと思います」

「チェスクロックが無いから時間は無制限でやるぞ。あまり遅い場合は催促アリだけどな」

「わかりました。ああ、それと……」

「ん、なんだ?」

 

 すこっとさんは、ちぇすならわたしに勝てるとおもっているそうなので、これは言っておかなければなりませんね。

 

「連珠にはおとりますが、わたしはちぇすも得意です。連珠と同じく、ご主人様とはちぇすも嗜んでおりましたから。それでも構いませんか?」

「望むところだ、シロサキ」

 

 そして、わたしとすこっとさんのちぇす勝負が始まりました。

 初めの方こそ一進一退の攻防を繰り広げていましたが、じわりじわりと盤面はわたしに不利なように変化していきました。わたしもできる限りすこっとさんの手を読みながら攻撃を仕掛けますが、時折すこっとさんはわたしの想定外の手で攻撃をかわします。そのまま手薄になったわたしのきんぐを狙いに反撃を仕掛けてくることもあります。

 ちなみに露草さんは5分くらいで観戦を切り上げて自然えりあの方へ歩いていきました。きっと、話し相手を探しに行ったのだと思います。

 勝負が始まってからおおよそ40分が経過したころ、いよいよ局面は最終盤を迎えました。

 

「すこっとさん、ちぇっくです」

「まあ、そうして来るだろうな。ほら」

「そっちの逃げ道が……なら、こうします。どうぞ」

 

 逃げられたすこっとさんのきんぐを追いかけるように、わたしはるーくを動かしました。

 するとすこっとさんは、

 

「読み通りだ」

 

 と言いながら、ないとを進めました。

 あ、この配置は……。

 

「シロサキ、チェックメイトだ」

 

 ちぇっくめいと。詰みを表す言葉であるそれをすこっとさんが宣言したということは、わたしのまけが決まったということです。

 

「異論はないよな?」

「……そうですね」

 

 確かに、わたしのきんぐはすこっとさんのくいーん、ないと、るーくによって動けなくなっていました。わたしの他の駒はその状況を変えることもできず、完全に詰んでいました。

 

「よし! 勝った! 勝ったぞ! 見たかシロサキ!」

 

 連珠で一勝もできなかったのがよほど悔しかったのか、飛び上がるほどにすこっとさんは喜んでいました。

 

「……まあ、正直なところちぇすは連珠ほどは得意ではありませんからね」

「ま、なんだっていい。どのみちこれで連珠のリベンジができたとは思ってないからな。じゃあ、この勢いのまま今度はこの白黒のビーズを使って連珠を──」

 

 意気揚々とそんなことを話しながら、ちぇすのこまを片付け始めるすこっとさん。

 

「……もういちど」

「ん? どうした、シロサキ」

 

 十神に仕える人間が、このまま勝ち逃げさせていいはずがありません。もしここを脱出できても、きっとご主人様に叱られてしまうことでしょう。どんな時でも、完璧でなくてはなりませんから。

 

「もういちど、ちぇすをやりましょう。幸い時間はあります。十神財閥のめいど長として、負けっぱなしで終わるわけにはいきませんから」

「いいぞ、何回だってやってやる。連珠の時に食らった屈辱をオマエにも味わわせてやろう」

「いえ、今度は負けません。もうすこっとさんの勝利はありませんよ」

「その強気がいつまでもつか見物だな」

 

 そんな言葉を交わしながら、わたしたちはこまを盤面の上に並べていきました。

 今度こそ、すこっとさんにちぇっくめいとを突き付けてみせます。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なあシロサキ、そろそろチェスは切り上げて夕飯にしないか?」

「なにをおっしゃるんですか。まだわたしが勝っていないのにやめるわけにはいきません」

「だが、もう7時だぞ」

「他の皆さんのぶんは食事すぺーすにお見えになるたびに提供させてもらってますから問題はありませんよ」

「いや、そうじゃなくてオレが……」

「それに、連珠の時はすこっとさんがなかなかやめさせてくださらなかったじゃないですか」

「……確かにそうなんだが」

「さあ、5戦目を始めましょう」

「……ああ、腹が空いた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《個室(アラヤ)》

 

 静かだ。

 個室は完全防音だという看板に偽りは無いようで、本来なら聞こえてくるはずの外のざわめきは聞こえてこない。俺は新家の個室の中で、静かな一日を過ごしていた。

 

 何人もの俺を訪ねてくれた昨日とは違い、今日の俺のもとへは朝に蒼神が生存確認にやってきただけだった。皆と話がしたいとは思っていたが、こっちから呼びに行けるわけでもない以上、誰かが訪ねてこないと話はできない。

 というわけで、今日の俺はひたすら一人で時間をつぶしていたのだった。とはいえ、前のように自縄自縛の堂々巡りをしていたわけではなく、新家のことを知ろうと部屋を眺めていたり、モノクマの正体に近づけるようこれまでのことを思い返したりして過ごしていた。結果としてコロシアイを終わらせる何かにたどり着くことは無かったが。

 もう時計の針は8時を差している。遅くまで起きていてもどうしようもない。もうシャワーを浴びて眠りに着こうか。

 そう思ってベッドから腰を上げた時だった。

 

 

 ──ピンポーン

 

 

 今朝以来のドアチャイムの音が個室に響き渡った。誰かが訪ねてきてくれたのだろうか。

 ガチャ、とカギが開く音がする。そのまま個室の扉が開いた。

 

「平並さん、今よろしいでしょうか?」

 

 そんな声を発するのは、この部屋のカギを持つ蒼神だ。

 

「ああ、大丈夫だ」

「すまないであるな。もう時間も遅いというのに」

 

 俺の声にそう返したのは、蒼神の後ろに立っていた遠城だった。遠城は、右手に大きめの紙袋を携えていた。

 

「いや、別に構わないが……蒼神、もしかして」

「ええ、遠城さんがあなたとお話がしたいそうですわ」

「うむ」

 

 俺の予想は当たったようで、蒼神の言葉とともに遠城がうなずいていた。

 

「構わないであるか?」

「ああ」

 

 拒否する気なんて更々ない。むしろ俺の方が待ち望んでいたくらいだ。

 

「では、終わったら教えてください」

 

 そう言って、蒼神は廊下に残って扉を閉めた。

 そんな蒼神を見送って、遠城は早々に話し始めた。

 

「さて。平並よ。話というのは他でもない。ちょっと意見をもらいたいと思ったのである」

「意見?」

 

 そう聞き返すと、遠城は何も告げずに紙袋の中に手を伸ばした。そこから現れたのは、つぎはぎの補修がなされた提灯だった。

 

「実はな、新たな雑貨を思いついたので、それについての意見を聞いて回っているのである」

「新たな雑貨……」

「うむ。ああ、つぎはぎは気にしないでほしいのである。ちょうどいいのがこれしかなかったのであるからな」

 

 そう言いながら、遠城は提灯に手を伸ばしスイッチを入れる。すると、

 

「おお……」

 

 提灯の中に光が灯る。それとともに、提灯の表面にはある影が浮かび上がる。その影は、現在の時刻を示していた。

 

「時計とライトスタンドを組み合わせた雑貨である。結構オシャレだとは思わぬか?」

「……確かに」

 

 光源のせいかフォントのせいか、それともその提灯のおかげか。その光には暖かみを感じる。部屋の隅に飾っておきたい、と少し思わされる。

 

「第一印象はすごくいい。見た目のインパクトもあるし、店頭でこれが並んでたら『おっ』って思うだろうな」

「ふむ」

「ただ、実際に買うかどうかは……時刻が大きく表示してあるのはいいけど、提灯が丸いからちょっと見づらい感じがするな」

「やはりそうであるか」

「けど、この提灯は代用品だし別の形のアイデアもあるんだろ?」

「うむ。これは試作品第一号であるしな」

 

 あ、時刻が切り替わった。これ、どういう仕組みなんだ……?

 

「ちなみに、これのアイデアのもとはこの『システム』である」

 

 遠城は、そう言って『システム』を起動させる。

 

「こんな風に空中に時刻を表示するような時計はどうであろうか? と思ったのがきっかけであるな。

 ただ、画面を表示する技術はすでにあるが、やはりどうしても高価になってしまうであるからな。もしかすると2年の間に技術革新があった可能性もあるのであるが、どちらにしても今の吾輩では実現不可能であったから別のアプローチをしたのである」

「それが、この提灯形式ってことか」

「うむ。改良は必要であるが、アイデアとしては十分アリのようであるな」

 

 遠城は、満足げにうなずきながら提灯時計を紙袋の中へと戻した。

 

「ところで、どうして俺にこれを?」

「うむ。他にも何人か聞いてきたのではあるが、せっかくなら一番適任であろう平並に聞いておかねばと思ってな」

「一番適任って、俺が?」

「その通りである」

 

 俺なんかが一番の適任って、どういうことだ。

 

「吾輩のアイデアは、基本的には将来我が『ティアラ』の商品として売り出すことも視野に入れているのである。であるならば、自身を【普通代表】と称するお主に話を聞きたいと思うのは当然であろう?」

「なるほど……」

 

 確かに、俺の好みはおおよそ世間一般の流行と似通っている。『ティアラ』、というのは遠城が社長を務める雑貨メーカーだったはずだが、そうなると俺の意見というのは気になるところではあるかもしれない。

 

「しかし、一応言っておくが、俺の意見は絶対じゃないぞ。俺は凡人中の凡人だと思ってはいるが、【超高校級のカリスマ】なんかじゃないから、俺の気に入ったものが絶対に流行るなんてことは無いわけだし」

 

 どちらかというと、流行しているものを後から好きになるという形の方が多い。好きだったお菓子がいつの間にか生産停止になっているなんてありきたりなことも経験してないわけじゃないし。

 

「ああ、分かっているのである。一つの意見として取り入れたいと思ったまでであるから安心するのである」

「それならいいが」

 

 遠城は立派な一企業の社長だ。そのあたりのやり方は心得ているだろう。むしろ、自分の意見は絶対じゃないなんてわざわざ忠告してしまった自分が恥ずかしくなってくる。俺の方にそんな自意識過剰のような意図は無いのに。

 

「なあ、遠城。雑貨の新作の開発って、こんな風に意見を聞いて回ってるのか?」

「うむ。顧客の生の声は貴重であるからな。できる限り試作品のマーケティングは欠かさないのである。まあ、初期段階では社内でのことになるが」

「へえ」

 

 実際に仕事としてそれをこなしている遠城から聞くと、余計に言葉の重みを感じる。

 

「それと……開発の時に気を配ることとしては、とにかくやってみる、というものが挙げられるであるな」

「とにかくやってみる?」

 

 うむ、とうなずく遠城。

 

「開発の時には吾輩だけではなく社の者がどんどんアイデアを出していくのであるが、基本的にその時点でそのアイデアを否定することはまずないのである」

「ああ、ブレーンストーミングってやつだっけ」

「うむ。どんなアイデアでも、まずはそれを検討し、実際に形にしてみるのである。机上の空論を何時間も続けるより、一度目にして手に取る方がずっと効率も良いし新たな発見もあるであるからな」

「けど、明らかに変なアイデアとか、どうしようもないものもあるだろ?」

「まあ確かに、現実的に不可能であったり以前全く同じものがでたアイデアなどは切り捨てるであるが……どんなにしょうもない、くだらないと思えるアイデアでも、時間と予算というコストの許す限りで実体化しその意見を募るのである。その凡庸なアイデアから発想が飛躍して新たなアイデアが生まれることもあるであるからな」

「なるほど……」

「吾輩たちの仕事はアイデア勝負である。もちろんそのアイデアを商品として世に出すための苦労も多いであるが、やはりその根幹にあるのはズバ抜けた至高のアイデアに違いないのである」

 

 至高のアイデア……遠城たちは、それをつかみ取るために日夜頭をひねっているのだろう。その先頭を走るのが遠城だ。

 実際、『ティアラ』の雑貨はどれも一ひねり加えられた商品ばかりだ。そのわずかな仕掛けのおかげで使いやすさ等が段違いになっている。それこそが遠城の言う至高のアイデアのなすところなのだろう。

 

「改めて思うが……すごいな、お前」

 

 ため息を漏らすように、そんな言葉がポロリとこぼれる。アイデア勝負と明言して、実際にそのアイデアを沢山生み出している遠城は、まさに才能に愛されていると言えると思った。

 そんな、羨望のような嫉妬のような気持ちの混じった言葉を受けて、遠城は口を開いた。

 

「なに、たいしたことではないのである。元々好きでやっていることであるからな」

 

 好きで、ねえ……。才能なんて、それがあるだけで羨ましく素晴らしいことだ。好きこそものの上手なれ、なんて言葉もあるが、好きなものにその才能がついてくることほど幸せなことは無いだろう。

 …………。

 

「なあ、遠城」

「む?」

 

 ふと思うところがあり、気まぐれにそれを遠城に問いかけてみようと思った。

 

 

 ──ガチャッ

 

 

 乱入者が現れたのは、そんな時だった。

 

「平並、邪魔するわね」

 

 突如としてドアが開き、東雲が部屋の中に入ってきたのだ。

 

「東雲さん!」

 

 背後から聞こえてくる蒼神の声も意に介さず、東雲はドアを閉めてしまう。

 

「……人が話してるのに、どうして部屋の中に入ってくるのであるか?」

「そんなの、アタシも話があったからに決まってるじゃない。わざわざ蒼神に頼むのは面倒だったからちょうどよかったわ」

 

 そう言いながら、東雲は俺達に歩み寄ってくる。

 

「吾輩が言いたいのはそういうことではなく……」

「あーはいはい、あとで聞くから」

 

 遠城を適当にあしらう東雲。

 

「それで平並──」

「いい加減にするのである!」

 

 そんな風に強引に俺に話しかけた東雲の言葉を、遠城が叫び声で遮った。

 

「お主には協調性というものが無いのであるか!?」

「協調性? それくらいあるわよ。誰かと海に潜るときに協調性が無かったら事故も起きやすいしね」

「だったらどうして……!」

「アタシ、協調性って言葉が大っ嫌いなのよ」

 

 直前の言葉と矛盾するようなことを、東雲はぴしゃりと言い放った。

 

「人生ってのはね、自分のためにあるものなのよ。協調性? 他人のために自分を抑えるなんて、そんなの本末転倒じゃない。自分以外の誰かのために生きて、なんになるって言うのよ」

「それは……」

 

 東雲の言葉を否定しようとして言葉が飛び出した俺の口は、その先を紡ぐことは無かった。

 

 

 

 誰かのために生きることが間違ってるなんてことは無い。それは断言できる。けれど、人生が自分のためにある、というのも間違ってはいないと思ったからだ。

 

「それなのにある程度は協力していかないと生きていけないってのが、この世界の一番の問題点だと思うわ」

「それが分かっているなら、どうして協調性を持とうとしないのであるか?」

「協力するのなんて、必要な時だけでいいじゃない。それこそ、学級裁判とかね?」

 

 学級裁判。アレは確かに、全員の協力なくしては生き抜くことはできなかっただろう。

 

「少なくとも、こんなどうでもいいところで協調性とか持ってらんないわよ」

「どうでもよくなどないのである! モノクマに対抗するために一致団結せねばならぬ状況であるぞ! 大体、お主には倫理観というものが欠けているのである!」

「そこらへんは個人の感性に依るところかしらね。人それぞれってやつよ」

 

 激情を飛ばす遠城に対し、あくまでマイペースに返事をする東雲。遠城の熱い正義感も含めて、とことん対照的な二人だ。

 

「遠城、あんまり熱くなってもしょうがないぞ」

「そうかもしれんが……」

「そうよ。頭に血が上ってもいいことなんかないんだから」

「お主のせいであるぞ!」

「わざわざ煽るようなことを言うな、東雲」

 

 お前、ちょっと楽しんでるだろ。

 

「……平並、お主が何か話そうとしていたところで申し訳ないが、吾輩はもう帰らせてもらうのである」

「ああ、分かった。どうせたいした話じゃないから気にしないでくれ」

 

 これは本当だ。どうしてもしたかった話ではない。

 

「すまないな。意見が聞けて有意義だったのである。それではな」

 

 そう言い残して、紙袋をつかんだ遠城は個室を後にした。出ていく直前、東雲を睨みつけていたのは気のせいではないだろう。

 

「短気な人は困るわね、まったく」

「……お前の自由っぷりの方がよっぽど困るぞ」

 

 ちなみに、俺としては東雲のマイペースさについてはもう慣れた。諦めていると言った方が正しいかもしれない。その思想に関して思うところはあるが。

 

「ま、いいわ。それで、アンタに聞きたいことがあるのよ」

 

 ドアから目を離して俺に向き直る東雲。怒り散らした遠城のことは取るに足らないことらしい。

 

「なんだ?」

「あの夜のことを聞いておきたいのよ」

 

 あの夜。

 言うまでもなく、事件の起きた夜のことを差しているはずだ。

 

「アンタが殺人を決意したのは、まあどうでもいいわ。『家族』とかなんとか言ってたし、そこらへんはモノクマの用意した動機に突き動かされたんでしょうね」

「…………」

「で、アタシが聞きたいのはその後なのよ。なんで七原の説得に素直に応じたの?」

「え?」

「だって、そうじゃない。アンタは、根岸を殺すつもりで包丁を持って倉庫に向かったんでしょ? その途中で七原に説得された、みたいなこと言ってたけど、だったらそこで七原を殺せばよかったじゃない」

 

 そのまま七原を殺してたらどうせ返り血とかですぐにクロだとばれてたでしょうけど、と東雲は付け加える。

 

「……殺せるわけないだろ」

 

 そんな意見を何のためらいもなく告げられてひるみながらも、俺は何とか言葉を返した。

 

「そりゃあ、七原には呼び出し状を出したわけでもないから殺すチャンスだったかもしれない。というか、実際殺そうとした」

「へえ?」

「隠してた包丁をあいつに向けたんだ。それなのに、七原は逃げようともせず、俺を説得してきた」

「具体的になんて言われたのよ?」

「具体的に……家族のことが大切かもしれないけど、ここでの生活も大切な日常なんじゃないかって。出会って数日かもしれないけど、本当に【仲間】を殺してもいいのかって。そんな風に七原に言われたんだ」

「ふうん……」

 

 そんな俺の言葉を聞いて東雲から出てきたのは。

 

「ありきたりね。普通だわ」

 

 という冷めた言葉だった。

 

「普通って……お前、何を期待してたんだ」

「生死のかかった瀬戸際の説得だから、もうちょっと過激な感じかと思ったのよ。ふたを開けてみればこんなものなのね」

「……そんなもんだろ」

 

 東雲の琴線には触れなかったようだが、他人から見ればそんなものなのかもしれない。それに、俺越しの言葉なわけだし。

 けれども、俺はあの時の七原の言葉に救われたのだ。それは間違いないと断言できる。

 

「がっかりよ。聞きたいことはこれだけだから、アタシはもう個室に戻って寝るわ」

「ちょっと待ってくれ、東雲」

 

 残念そうな表情でドアへと向かう東雲を、俺は呼び止めた。

 

「何?」

「俺からも、聞きたいことがある」

「手短に頼むわ」

 

 東雲は軽いあくびを一つ。そんな彼女に、俺が一番聞きたいことを問いかける。

 

「お前、どうしてこんなコロシアイ生活を楽しめるんだよ」

 

 その声には、少しだけ、怒りに似た感情が乗っていたかもしれない。

 

「学級裁判を楽しもうとか言ったり、それどころか、あの古池の処刑を見て面白いなんてつぶやいたり……お前は、人が死ぬことについて誰よりも詳しかったはずだ」

「あら? 古池は?」

「古池は……あいつは、また違うだろ」

 

 古池の場合は、人が死ぬことに詳しいというより、死に呪われているとでも言った方が良い。

 

「とにかく、海の中は孤独で死と隣り合わせって、そう言ってたじゃないか」

 

 

──《「ほら、アタシって【超高校級のダイバー】でしょ? 海の中って、孤独で……死と隣り合わせなのよ」》

 

 

 いつだったか、東雲はそんなことを言っていた。人が死ぬ危険性、その喪失感を知っているような口ぶりだったのに。

 

「それなのに、どうしてこんな、おぞましい空間を楽しめるんだ。それともお前は……死にたいのか?」

 

 言葉を紡ぐにつれて声はどんどん弱々しくなっていった。けれども、俺の言葉は何とか最後まで東雲に伝わったらしい。

 

「平並、分かってないわね。【逆】なのよ」

「逆……?」

「生きたいから、楽しいのよ」

 

 何を言っているんだ、という困惑は、口にせずとも東雲に伝わったようで東雲は言葉を続けた。

 

「元々アタシは楽しいことが好きだったのよ。楽しいことだけして生きていければ、そんな楽しいことは無いじゃない?」

「まあ、な」

 

 目的と手段がこんがらがったようなその台詞だが、言いたいことはなんとなく分かる。

 

「で、アタシが一番楽しいと思ったのがダイビング……というか海で潜ることそのものなわけ。海水に体をゆだねる感覚、少し籠った独特な音、陸上とは全く姿を変える光、海の中にしかない景色……そのどれを取ってもダイビングでしか味わえない楽しみなのよ」

 

 これも分かる。泳ぎは得意じゃないしダイビングもやったことは無いが、それがダイビングの醍醐味であることには想像が及ぶ。それが楽しいであろうことも。

 けれど。

 

「で、ここからが本題ね」

 

 この先が問題だ。

 

「ねえ、何よりも楽しいことって、なんだと思う?」

「え? ……それは」

「それはね、『生』を感じることよ」

 

 俺が答えを出すより先に、東雲は答えた。

 

「『生きてる』ことが一番楽しいのよ。だから、この生活は楽しいんじゃない」

 

 分からない。ここが分からない。

 

「生きてることが楽しいんだったら、こんな生活、楽しいわけがないだろ」

 

 こんな、死が常に隣に立っているような、地獄のような生活は。

 

「それは違うわね。『生』を強く感じる時っていうのは、『死』を強く感じた瞬間とイコールで結びつけることができる。塩のかかったスイカが甘く感じるようにね」

「…………」

「否定できないでしょ? 特にアンタはね」

 

 その通りだった。

 

「殺人を決意して、それを七原に説得されて取りやめて、それなのに新家の死体を目の当たりにして、そして古池の処刑を見て。あの夜、誰よりも生死の狭間を目撃したアンタは、誰よりも『生』を実感してるはずだもの」

 

 ……否定は、しなかった。

 

「アタシはね、小さいころに初めて海に行ったとき、足が攣って溺れかけたのよ」

「溺れかけた? 【超高校級のダイバー】のお前が?」

「ええ。まあ、準備運動もせずに入ったから今考えれば当然だけど。で、結局攣ってない方の足で無理やり泳いで足がつくところまで戻ってきたわ」

 

 溺れかけた、という言葉には耳を疑ったが、話を最後まで聞いてみると、まさに【超高校級のダイバー】に違いなかった。足が攣った状態で泳ぐなんて、どんな運動神経をしてるんだ。

 

「足が攣った時、アタシは本気で死を覚悟したわ。足は動かないし、水面は遠のいていくし、息はどんどんなくなっていくし。けどね、だからこそ、水面から顔を出した時、空気を吸い込んだ時、最高に気持ちがよかったわ!」

 

 恍惚を体現したような表情で、東雲はそう語る。

 

「それ以来かしらね、一歩間違えれば死んでしまうような、そんな状況に楽しみを見出すようになったのは」

「……だが、このコロシアイはそういう死のリスクとは少し話が違うだろ」

「そうかしらね? ピクリとも動かない新家の死体を見た時、アタシはゾクゾクしたもの。『ああ、アタシは生きている』ってね。あの快感は、何事にも替えがたい幸福だったわ」

「…………」

「アタシは、あの感覚をもう一度……いや、何度でも味わいたいと思っているの。だから、このコロシアイ生活が楽しいのよ」

 

 分からない。

 ただ、シンプルに。そう強く感じた。

 

「あ、別に死体に興奮する死体愛好家(ネクロフィリア)じゃないから勘違いしないでね。死体そのものじゃなくて、死がすぐそばに転がってる状況でアタシが生きてるってことが大事なんだから」

 

 なんて補足を東雲は付け足したが、正直そんな些細なことはどうでもよかった。

 

「質問はもう終わり?」

「あ、ああ……」

「なら、アタシはもう帰るわね」

 

 呆気にとられる俺を意に介すこともなく、東雲はそう言い残して個室を出ていった。

 

「…………」

 

 東雲は、生きることが楽しいと言っていた。なら、自分以外の人間の生死はどうだっていいのだろうか。

 ……いや、答えは出てるか。

 

 

──《「ピクリとも動かない新家の死体を見た時、アタシはゾクゾクしたもの。『ああ、アタシは生きている』ってね」》

 

 

 東雲は、どこまでも自分本位なヤツなのだ。

 そんな結論を出したところで、ドアがゆっくりと開く。

 

「平並君」

 

 その声の主は、蒼神だ。

 

「申し訳ありませんでした。わたくしが東雲さんを引き留めていれば遠城君との会話を邪魔することはありませんでしたのに……」

「いや、蒼神が謝ることじゃない」

 

 謝るのは東雲ただ一人のはずだからな。

 まあ、そんなことよりせっかくだからやっておきたいことがある。

 

「ところで蒼神、この後時間あるか?」

「ええ、特に予定はありませんが」

「それなら、蒼神、お前の話も聞かせてくれないか?」

「わたくしの……ですか?」

「ああ。昨日今日と色んな人と話したが、まだお前とはちゃんと話したことがなかったからな。構わないか?」

「はい。構いませんわ」

 

 よかった。やっておきたいこと、というのはこれだ。蒼神にはお世話になりっぱなしだが、その反面蒼神のことはあまり詳しくない。色んな人と話した勢いで、少しでも蒼神のことも知っておきたいと思ったのだ。

 

「お邪魔します」

 

 そう言って蒼神は個室に踏み入れる。そのまま椅子に腰かけた蒼神の姿勢は、背筋がピシリと伸びている。

 そんな背筋を、

 

「平並君、本当に申し訳ありませんでした」

 

 蒼神はそんな言葉とともに深く折り曲げた。

 

「あ、蒼神?」

「謝ればいい、というものでもありませんが、謝罪をさせてください」

「ちょ、ちょっと待て、顔を上げてくれ」

 

 急に始まった蒼神の謝罪を、そんな風に制する。

 

「蒼神、その謝罪はなんだ?」

 

 そんな俺の声を聞いた蒼神は、申し訳なさそうに頭を上げた。

 

「あなたが殺人を決意するほどに追い詰められていたと、わたくしは気づくことができませんでした。本来であれば、【超高校級の生徒会長】であるわたくしが気づくべきだったのです。あなたと、古池君の殺意に」

 

 神妙な表情で、蒼神はそう告げる。

 

「あなたを説得する役割は、七原さんでなくわたくしが担うべきだったのです。それなのに、わたくしは古池君を止めることも、新家君を守ることもできませんでした」

「…………」

「城咲さん、東雲さんと夜を明かそうとしていたのも、一人でいるのが怖かったからですわ。自分の責務も忘れ、ただ自身の安全しか考えられていませんでした」

 

 自分の責務だなんて蒼神は重い言葉を使う。

 

「その結果、事件を引き起こしてしまいました。平並君にも苦しい思いをさせました。わたくしの、【超高校級の生徒会長】にあるまじき失態ですわ」

「……そんなことないだろ」

 

 一つ一つ現れる蒼神の言葉を、俺は少し考えてから否定した。

 

「俺が殺意を抱いて根岸を殺そうとしたのは、俺が絶望に呑まれたから……俺が、弱かったからだ。古池だって、アレはアイツ自身の問題だ。蒼神は、何も悪くない」

「それこそ違いますわね」

 

 俺の言葉に間違いはないはずなのに、蒼神は反論する。

 

「明確に定めたわけではありませんが、わたくしはあなたたちの、皆さんのリーダーです。リーダーは、皆さんを安全で正しい道へと率いる責任があるのです。……ですが。わたくしはそれができなかった」

 

 蒼神はそこで沈黙し、うつむいた。何かが心の中で渦巻いているように見える。

 すこしして、蒼神はぽつりとつぶやいた。

 

「わたくしはリーダー失格です」

 

 珍しく、蒼神は弱々しい眼をしていた。そんな蒼神に、俺は思いの丈をぶつける。

 

「……蒼神は立派なリーダーだよ。不安でいっぱいだった俺達をまとめ上げてくれたし、学級裁判の時も蒼神がいてくれたから捜査に移れたし、裁判を進めることができた。裁判場から戻ってきた時だって、的確な指示を出してくれたじゃないか」

「…………」

「さっき、事件の夜はただ自身の安全しか考えていなかった、みたいなことを言ってたが、あの女子会は確実に城咲の不安を打ち消していただろ」

 

 東雲はわからない。東雲の場合は、単純に女子会が楽しそうとでも思ったから参加しただけかもしれない。

 

「それに、人を殺そうとした俺に、軟禁という的確な罰を与えてくれただろ。あれが無かったら俺はもっと孤立していただろうし、もっと苦しんでいた。ありがとう、蒼神」

 

 俺は、この点にこそ感謝したい。自分を責める俺自身に罰を与えてくれたからだ。蒼神がいなければ、もっとひどい現状になっていた可能性がある。

 

「……ありがとうございます。ですが、それがすべてではないのです。及第点は、満点しかありえません。それが人を率いる者の責任ですから」

 

 俺の言葉を聞いてなお、自分を責める蒼神。

 そのリーダーとしての姿勢に、『一人で抱え込まないでくれ』、『周りを頼ってくれ』という言葉を出しかけた。けれど、絶望に負けてしまった俺がその言葉を言うことはできなかった。

 

「「…………」」

 

 沈黙が重なる。今の俺では、蒼神の苦しみを癒せなかった。

 

「平並君。悩んでいることがあれば、わたくしに相談してください。今度こそ、あなたを救ってみせますわ」

「…………ああ。分かったよ」

 

 もし、これから先何かが待っているとして、蒼神に頼るべきか、頼らざるべきか。その二択から一つを選び取ることは、できそうにない。

 

「…………」

 

 空気が重い。

 蒼神の話が聞きたいとは思ったが、こんな空気にしたいとは思っていなかった。

 

「蒼神。どうしてそんなにリーダーにこだわるんだ」

「……どういう意味でしょうか?」

「お前、確か言ってたよな。『自分が生徒会長になったのは、自分の名を全国に轟かせたかったから』って。だったら、そんなに自分を責めてまでリーダーでいる必要はないんじゃないのか?」

「ああ、そういうことですか。それなら、答えは簡単ですわ」

 

 蒼神は、柔らかな笑みをたたえながら俺の疑問に答えてくれた。

 

「わたくしが、リーダーに向いているからです。これは驕りでも慢心でもありません」

「ああ、そうだな」

 

 混沌とした状況下でも冷静でいられ、皆を率いて適切に指示を出す。そんなリーダー適性の話をするなら、間違いなく蒼神が一番高い。

 

「誰かがやらねばならぬことに、わたくしが一番向いている。だから、わたくしはリーダーをするのです」

「……そうか」

 

 きっと、蒼神を突き動かすのはその責任感なのだろう。けれど、その責任感こそが、蒼神を支える軸である反面、蒼神を苦しめる枷にもなっているのだ。

 その枷の外し方を、俺は知らなかった。

 

「……蒼神。色々話してくれてありがとな」

「構いませんわ。わたくしといたしましても、ひとつ胸のつかえがとれたような気分ですもの」

 

 きっと、俺への負い目がずっとあったのだろう。それをなかなか吐き出せずにいたのだ。

 

「明日もよろしくな」

「ええ。こちらこそ」

 

 そんな言葉で、俺達は会話を切り上げた。

 

「では、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 

 そんな会話を経て、蒼神は廊下から個室にカギを掛けた。またこの個室の中には俺一人という状況になる。

 ドアから離れ、ふと窓からドームの天井を覗き込む。そこには、満天の星々が映し出されていた。

 

 

 

 俺達の想いも、苦しみも、悩みも、喜びも。

 星空はすべてを覆いつくして、俺達の頭上に存在していた。

 

 

 




今回は日常回でした。
少し人数の減った、仮初めの日常です。

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