「彼女の後始末、ブリジットがしたそうだな。君が命令したのか」
「いや、彼女から志願してきたよ。夢を見せたのなら、終わらせる責任を負います、と」
「そうか。それは辛いことをさせたな」
「――こうなることは解っていたはずだ。なのに何故、公社は彼女を保護した。お前ならば課長から何かを聞かされているだろう、ヒルシャー」
アルファルドに問い詰められたヒルシャーは少しばかり迷いの表情を見せたが、直ぐにぽつりぽつりと言葉を口にした。
それは、ある一人の少女を巡るつまらない陰謀の全容だった。
01/
ドイツからある少女が亡命をしようとしている。これを速やかに確保し、公社に連行せよ。
これが第一報だった。丁度二週間前のことだ。
我々はこれ以上もこれ以下も知らされなかった。
だが詳細を知らされないブラックオプスなんて日常茶飯事だ。わざわざ気に留めることなどありはしない。まさにいつものこと、ってやつだったわけさ。
ところが事態が急変した。作戦決行の三日前だ。
少女の正体がある人物からリークされたのさ。
恐らく政府は最初から知っていたんだろうが、わざと黙っていた。たぶん、我々が余計な動きを取ることを警戒していたのだろう。
君ももう知っているかもしれないが、あのカリエとかいう人間は普通の少女では決してあり得ない。
普通のティーンの女の子がチェンタウロを扱うことができるか?
車長として的確な指示を飛ばすことができるか?
プロの兵士が搭乗した車両を二両も撃破することができるか?
答えなど語るまでもない。あの子は普通ではなかった。
あの子はトリエラやブリジット達と同類だよ。
ドイツがこっそりと作り上げていた義体のプロトタイプなんだ。
イタリアから流出した技術を転用して作られた、言わば彼女たちの姉妹だよ。
まあ、こちらよりもより強固な条件付けがなされていて、自身が何者かは最後まで知らなかったようだけれども。
もう政府や公社が血眼になって彼女を保護しようとした理由がわかるだろう?
あの子が公に晒された瞬間、破滅を迎えるのは政府や私たちだ。イタリアでなされた非人道的な所行が国境を渡ってドイツで実を結んでいるんだ。
こんなスキャンダル、向こう五十年は生まれないだろうな。
だから政府と公社は彼女を確保しようとした。それと同時に、現政府の対抗勢力も同じように彼女を確保しようとした。もっとも彼らにとっては彼女の生き死にはどうでもよかったみたいだが。
死体でも政府を引き摺り下ろすのに事足りたんだろうね。
まあしかし、幾ら争奪戦といっても無制限にやり合えばあっという間に内戦に発展だ。それを恐れた政府と対抗勢力はある密約を交わしていた。それが交戦地域の設定だ。
馬鹿みたいな話だが、私たちは最初からルールを決めて殺し合いをすることになっていた。何故そんな密約が通じたのかは今となってはわからない。
もっと高度な政治的取引があったのだろうけれど、そればっかりは我々の与り知らぬ所だ。
ん? カリエの存在をこちらにリークしたのは誰かって?
ああ、そうか。君は知らされていないのか。
多分、ブリジットにそれが伝わることを公社は恐れているんだろうな。
でももういいだろう。
彼女たちが無事、この悪夢から醒めた今となっては時効だと僕は思うよ。
カリエの存在を僕たちに伝えてきた人物。
それはね——。
実の双子の姉だよ。名はエーリカ。ドイツ人の、カリエの担当官になるはずだった女性だ。
02/
「……それでそのエーリカという人物はどうなったんだ?」
ローマ市内の幹線道路。そこを走り抜ける黒のBMWに二人の男が乗っていた。一人はアルファルド、もう一人はジャンの弟であるジョゼだ。
「――カリエを国境越えさせる直前に、ドイツで自殺していた。頭を自分で撃ち抜いたそうだ。ドイツ当局が彼女のオフィスに踏み込んだその瞬間の出来事だったと。きっと彼らの目を引きつけようとしたんだな。事実、ドイツ政府は完全に一杯食わされていたよ」
アルファルドは先日ヒルシャーから伝えられていた言葉をそのままジョゼに伝えていた。何とも後味の悪いエピソードを包み隠さずそのままに。
ジョゼは苦虫を噛みつぶしたように、表情を顰めたまま口を開いた。
「何よりも強きは姉の愛、か。苦手だな、そういった無償の愛って奴は」
ジョゼの言葉にアルファルドは何も返さなかったが否定もしなかった。声には出さないものの。考えていることは同じだった。
一人の人間が一人の人間に対して注いだ感情が、余りに大きく余りに深くて畏れすら覚えるほどだ。
「ところでアルファルド。君は今日のことをブリジットには伝えたのか?」
ジョゼの疑問にアルファルドは首を横に振る。
「いや、彼女の中にあるカリエの物語はあの夜で終わりを迎えたままだ。けれどもそれでいいのかもしれない。夢は夢のままで。たとえ醒めたとしても夢は夢だ」
「薄情だな。いや、それも情があるが故にか。だが彼女は一生背負い続けるぞ。ひとときの友人を自分が手に掛けたと思い込んでいる」
ジョゼの責めるような口調にアルファルドは「そうだな」と呟いた。
「けれどもその後の彼女の物語を知ることがブリジットの幸せだとは思えないんだ。ブリジットには此度の姉妹愛は余りに重すぎて大きすぎる」
それが二人の間で交わされた最後の言葉だった。
結局目的地に辿り着くまで、それ以上の会話はなかった。
黒のBMWはローマの市街地を抜けてある山間部に足を踏み入れていた。
穏やかな木漏れ日が差し込む林の道をどんどん登っていく。
やがて、少しばかり古ぼけた石造りの屋敷が見えてきて、その屋敷の敷地に車は停車した。
「……ここか」
「ああ、後にも先にも僕たちがここを訪れるのは今日が最初で最後だ」
感慨深げに屋敷を見上げるアルファルドを尻目に、ジョゼはどんどん敷地内へと足を進めていった。何か後ろめたさを感じているのか、アルファルドだけが足取り重くその後を追う。
「公社の者だ。彼女の様子を見に来た」
「――お待ちしていました。あの子は今、湖を見ていますよ。屋敷裏の小さな湖です」
彼らを玄関先で出迎えたのは白髪交じりの老婆だった。腰はとっくの昔に曲がってはいたが、その瞳の生気は失われておらず、むしろアルファルドなどよりも余程若々しく見えるほどだった。
老婆はこちらへ、と静かに二人を屋敷内に招き入れる。
「あなた方の雇い主からたくさんの子どもたちを預けられて来ましたが、あんな子は初めてです。神の御技か悪魔の所業か、一体何をしたのやら」
老婆に案内されている間、二人は言葉が出てこなかった。
ただ彼女の手厳しい言葉を受け止めるのみ。
しかしながらそんな息苦しい時間もそう長くは続かない。
「あそこですよ。声を掛けられるのも、遠目に眺めるのも自由になさってください」
それだけを言い残して老婆は立ち去った。アルファルドとジョゼの二人は屋敷の裏口から小さな湖畔の辺へと足を踏み入れていた。昼の光を受けて水面が星空のように輝いている。
「社会福祉公社の者だ。君に届け物を持ってきた」
その少女は湖を静かに眺めていた。白いワンピースに身を包み、ぼんやりと立ち尽くしたままただ眼前を眺め続けている。ジョゼは少女の下へ近づくと、公社の身分証を取り出していた。
「――こんな死に損ないに今更何用ですか? 私のデータは既に取り尽くしたでしょう? もう私には何の価値もありませんよ。ただこの屋敷で残り少ない時を生きるだけです」
少女は、カリエは一切ジョゼに視線を向けることなく口を開いた。視線は湖に固定されたまま。
「用はさっき言ったとおりだ。君に届け物だよ。これを渡したら直ぐに立ち去るさ」
言ってジョゼは小さな小包を取り出した。茶色い包装紙に包まれたそれをカリエは受け取る。
「君は公社による最後の尋問の時、夢から醒めたと言ったな。あれはどういう意味だったんだ?」
カリエが小包を封印する紐に手を掛けたその刹那、アルファルドが前に進み出ていた。ジョゼが驚いたように彼を見つめたがアルファルドはさらに言葉を重ねる。
「どんな、どんな夢だったんだ?」
初めてカリエの視線が湖から外された。彼女の碧色の瞳がアルファルドを見た。
「――荒唐無稽かもしれないですけれど私は私ではなかった。遠い異国から来た、ティーンエイジャーの少女。自分のことをただの一般人だと思い込んで、ブリジットの事を友人だと信じ続けていた夢見る少女。それがあの日見た夢でした。本当に楽しくて眩しくて、そして辛い記憶。だからあの夢を終わらせてくれたブリジットには感謝してます」
「彼女には実銃と異色ない麻酔銃をこっそりと渡していた。ブリジットは実銃と思って引き金を引いたが、その実君は昏睡状態に陥っただけだ。それが夢から醒める引き金だったのか?」
アルファルドのさらなる疑問にカリエはいいや、と否定した。
「あの子が星座を、双子座を見せてくれたときに全部思い出していました。馬鹿な私が、決して忘れてはいけない存在を思い出したその瞬間です」
「君はお姉さんのことをどれくらい覚えているんだ?」
カリエは直ぐには答えなかった。
迷っているわけでも、恐れているわけでもない。
ただ幾ばくかの時間を要して、言葉を紡いだ。
「ぜんぶ。エリカが私をどれくらい愛してくれていたのかすべて」
03/
「なんてことない交通事故だったそうだ。夏の休暇を一家はイタリアで取ろうとした。ただ姉だけは仕事の都合というやつで遅れて合流する手筈だったみたいだ。――結果的に両親は死に、妹だけが生き残った。けれども妹は手足が失われ――肢体不自由になった双子の妹を姉は何とか助けようとした。そんな弱みにつけ込んだのか、それとも別の方法で騙したのか、少なくとも姉の願い通りには事は進まなかった」
アルファルドの言葉をジョゼは黙って受け入れる。
「あの小包はお姉さんの遺品が詰まっている。カリエが義体になってから、そんな彼女を姉がイタリアに逃がそうとするまでの思いが綴られた日記だ」
車は来た道を引き返していた。
ただ車内の空気だけが行きのそれとは比べものにならないくらい重たいものなだけで。
「――今でも夢のままでよかったんじゃないかと思うことがある。なあジョゼ、お前はどう思う?」
ハンドルを握るジョゼは端的に答えた。
「それを決めるのは僕たちじゃない。多分彼女達だよ」
04/
それがどこにあるのか、カリエは知っていた。
屋敷を管理する老婆の書斎。
そこの暖炉の上に置かれている黒壇の木箱。
鍵は掛かっていない。
足下には姉が遺した日記たち。
一通り目を通したそれは目の前に横たわる残酷な現実。
いつか夢の中で握りしめたときのように、木箱の中身は冷たくて重い。
操作方法は知っている。
もう三回目だから。
友達だった人が教えてくれたから。
夢から醒ましてくれた恩人が教えてくれたから。
淀みない動作で薬室に弾を送り込み、引き金を握る。
あの時は止めてくれた人間がいたけれども、今は独りぼっち。
でも今となってはそれが好都合。
いつも夢の終わりは脳天にこれが叩き込まれた時だった。
多分今回も同じなのだろう。
こめかみに銃口を押しつけ、天を仰ぎ見る。
次は、もう少し良い夢が見られますように。
05/
多分、間一髪だったのだと思う。
カリエが妙な頼み事をしなければこんな奇跡は起こりえなかった。
いつからか毎日見るようになった悪夢。
何度も何度もカリエが殺され、それを助けようとした自分も力及ばず自殺する夢。
妹ももしかしたら似たような夢を見ているのでは、と仮説を立ててからは早かった。
少しでも夢をコントロールできるように、足掻き、もがき、暴れた結果、気がつけば見たことのない場面にエリカはいた。
似合わない白いドレスを着たカリエが、銃口を自身のこめかみに突きつけているその瞬間だ。
夢の途中経過がどうなっているのかはわからない。
何がどうなってこんな場面を夢見ているのかはわからない。
それでも。
たとえ夢でもエリカのやることは変わらない。
妹が泣いている。
妹が涙ながらに死のうとしている。
ならばやることはたった一つ。
ぶん殴ってでも止めようと考えた。
ぐーは可哀想だから取り敢えずぱーで。
思いっきり平手打ちをかまして銃を吹き飛ばす。
頬に赤い紅葉をこさえたカリエは涙目ながらに呟いた。
「お姉ちゃん?」
続いて思いっきり自分の方へと妹を引き寄せる。
手をあげた分、全身で愛情を伝える。
いつだって守り続けてきた妹の体を強く強く抱きしめる。
「大丈夫、あんたには私がついているわ。だってお姉ちゃんだから」
ふと意識が遠のく。
どうやら今回はここまでのようだ。
それでもエリカは満足だった。
だって、こうして妹の温もりを抱きながら夢から醒めることなど初めての出来事だったから。
06/
いつの間にか銃を取り落としていた。
頬には確かに痛みを感じる。
足下には相変わらず日記が落ちていた。
周囲を見渡しても人影は一切存在していない。
ただ湖畔から届く光が窓から差し込んでいた。
朧気ながら全身を温かさが包んでいる。
「――もう少しだけ、もう少しだけ頑張ればいいのかな?」
ふらりとその場にへたり込んだ。いつの間にか頬の痛みは綺麗さっぱりと消えている。
でもそれと同じくして、長い長い眠りから覚めたような爽やかな心地だけが体を支配していた。
07/EPILOGUE
目が覚めた。
懐かしい匂いに包まれて目が覚めた。
ふと横を見れば自分と同じ顔が寝ていた。
それがエリカの顔だと認識するまで数秒。
結局横浜に帰ることが出来ず、熊本の実家に泊まったのだと現状を理解するまで十秒ほどかかった。
何故同じベッドに狭苦しく寝ているのかはわからなかったが、エリカがこちらに潜り込んできていることにやがて気がつく。
何故ならここはカリエの部屋。横浜に引っ越してもなお、両親が実家に残し続けてくれているカリエの部屋だからだ。
つまり自室で寝ているカリエのベッドに、あとからエリカがやってきたのだった。
理由は全くわからない。
でも何故だかひどく安心する自分に気がついて、カリエはそのまま横になった。
ふと枕元に散乱したコピー用紙を見つける。
窓から差し込む光に照らしてみればチェンタウロに関する諸資料だった。
何故こんなものがここにあるのかわからない。
あとからきたエリカが散らかしたのだろうか。
「そういえば何か夢を見ていたような……。何だっけ?」
滅多に夢を見ないことを自負するカリエである。
たまに見た夢も内容が全く出てこなかった。
何か夢を見ていたことは確かだったが、内容は綺麗さっぱり忘れている。
「ま、いっか」
布団をかぶりなおして瞳を閉じる。
むにゃむにゃと寝ぼけたエリカが抱きついてきたが好きにさせた。
見かけによらず寂しがり屋の姉の抱き枕になってやることくらいお安いご用だった。
それに——。
今だけは何故かこうしていたい気分だった。
世界でたった一人の分身と、今だけは同じ眠りにつきたかったのだ。
08/
「ほらカリエ、とっととコロッセオを見に行くわよ!」
がらがらと馬鹿でかいスーツケースを引き摺りながらカリエは石畳の道をひいひいと歩く。
日本代表として海外遠征を繰り返すのは正直楽しいのだが、綿密な観光スケジュールを遂行しようとするエリカに合わせようとするのは正直疲れる。
カリエはのんびりと、自分のペースで観光地を巡りたいのだ。
「たくっ昨日夜遅くまでイタリア代表とチェンタウロで遊んでいるからそうなるのよ。まあいいわ。私は今からコロッセオの見学チケットを買ってくるからここで待っていなさい」
黒いセーターにニット帽を被ったエリカが人混みの中にずんずんと一人歩いて行った。
慣れない異国だというのに、どこからそんなバイタリティが湧いてくるのかカリエには全く理解できなかった。疲労の色を顔に宿したカリエはぱたぱたと白いセーターの裾で自身を仰ぎながら、スーツケースを椅子代わりにその場に座り込む。
だが注意力散漫。
バランスを崩して思わずよろけたカリエは背後の人影とぶつかってしまっていた。
ええと、イタリア語でごめんなさいはなんだっけ? と思考を巡らしたその刹那、カリエと接触した人物がこちらを見ていた。
鳶色の瞳に黒い髪が美しい少女だった。
「『あらごめんなさい。でも私、先を急いでいるんです。ローマ観光を楽しんで下さいね』」
少女が口を開き、その桜色の唇から言葉が紡がれたが、カリエは全く理解が出来なかった。
いくら遠征を繰り返していても現地での会話はエリカに任せっきりのため、イタリア語なんてさっぱりなのである。
「『ではさようなら」」
見れば少女は大きめのバイオリンケースを肩に掛けて歩みを再開していた。彼女の行く末をぼんやりと見つめていれば、そう遠く離れていない場所で三十代後半の男と合流を果たしていた。
会話が少しばかり耳に届くが、あいかわらず意味がわからない。
ただ男の事を少女は「アルファルド」と呼んでいることだけがわかった。
そして男が少女の名前を呼ぶ。
何故かそれだけがカリエの耳にハッキリと届いていた。
「ブリジット」
異国で聞いた、初めてだけれども初めてでない少女の名前だった。
彼女はカリエを取り残して男と去って行く。
カリエもカリエでチケットを手にしたエリカに連れられて反対方向に歩みを再開した。
ふと背後に振り返る。
もう人々の雑踏に紛れて少女の姿は見えない。
けれどもカリエは、
ブリジットと言う名の少女のことを一生忘れないんだろうな、と小さな予感を抱いていた。
不思議と懐かしさすら覚える、イタリアの道を姉と二人で進みながら。