また、世界観がガンスリテイストですので流血シーンもありますのでご注意下さい。
情けないことにそこからしばらくの間、カリエはブリジットに横抱きにされたまま移動していた。久しぶりに腰が抜けたものだから足腰への活の入れ方を完全に忘れていたのだ。
まさかこの年になって女の子に運ばれるなんて、とカリエは頬を赤くする。
過保護なエリカがカリエを抱いて移動することは何度かあったものの、姉にされるのと見ず知らずの赤の他人にされるのは別だった。
そんな羞恥プレイが終わりを告げたのは、カリエが徐に自分の袖を見たときだった。
何かのぬめりを感じて、ふと見つめた服の袖だった。
休日によく着ている白いパーカー。
随分と着慣れて、見慣れたそれだったが、視界に映った景色の勝手は違っていた。
赤い。
それも鮮やかな赤ではなく、ちょっと黒ずんだ赤である。
人生、そこまでの大けがをしたことのないカリエでも直ぐに色の正体を察することが出来た。
そして赤い袖から視線が離せないまま顔を青くする。
「あ、あのこれ……」
上手く言語化できないまま、袖をブリジットに突きつける。
さすがに場慣れしているのか、彼女の反応はカリエよりも余程機敏だった。
「嘘! ごめんなさい! 直ぐに下ろします!」
もともと人目を忍んで移動していたお陰が、周囲には人影が一切見当たらなかった。見渡せば、石造りの建物に囲まれた裏路地に二人はいる。石壁に切り取られた空にはシーツやシャツなどの色とりどりの洗濯物が踊っていた。
「早く処置しないと——」
えっ、ちょっと待ってと言う間もなくブリジットの手がカリエのパーカーを引き剥がしていた。あっという間に下着姿に剥かれたカリエが眼を丸くする。
「何処を撃たれたんですか? 痛いところは?」
不自然なほどに白い指先でいろんな場所を触られた。それこそ姉のエリカすら触れたことが無いような場所まで。
まさかの初めての経験にカリエは目を回し、その様子を見たブリジットはようやくカリエには傷が付いていないことを知った。
そして——。
「ああ、もしかしてこれか」
無頓着にブリジットが右袖をまくり上げる。真っ白な腕の上に赤く痛々しい銃創が一つ刻まれていた。そこから流れ出した血は殆ど固まっており、人間のそれとは思えなかった。
「——血液凝固のカンフル剤のお陰です。さっき撃たれたときに効果が発揮されたのでしょう。私たちはいつでも全身の血液を入れ替えることができますから、こんな劇薬でも一日近くならドーピング剤として使用することができます」
何でも無いように告げるブリジットにカリエは恐怖を感じた。
自身が撃たれたことを嘆くよりも、血が固まって傷口が塞がっていることを喜んでいるのだ。
普通の人間の感覚ではなかった。
「見たところ弾は抜けていますし、筋組織も断裂していません。ホローポイント弾でなかったのが幸いしたようです。これなら公社に帰って腕を取り替えてもらえれば問題ないでしょう」
問題大ありだ、と思った。
そんな残酷なことをぬけぬけと宣うブリジットが怖かった。
「でもあなたに怪我がなくて本当に良かった。それだけで私のこの負傷は報われます。——さて、もう直ぐで私の担当官——上司のような人が待機しているポイントに到着します。そこまでいけば公社の防弾車両が回収してくれますから安全ですよ」
袖をそそくさと仕舞い込み、ブリジットが立ち上がる。
その背中には彼女の上着に包まれてカモフラージュされているがライフルが背負われており、ズボンの後ろ側にはハンドガンが差し込まれている。
何処までも普通なように見えて、何処までも異質な存在。
これが自身の夢が作り出した人間だと思うと、カリエの気は決して明るいものではなかった。
こんな残酷な存在を生み出したのが自分なのかと、暗鬱とした思いになる。
「さて、この通りを抜けた先に迎えのフォルクスワーゲンがいる筈なんですけれど……」
足取りが重くなったカリエの前をブリジットが進む。彼女は無意識なのか、無事な左腕をズボンの後ろに回していた。それがいつでもハンドガンを手にすることが出来る動作であることを、カリエは嫌と言うほど理解している。
ふと、ブリジットが通りの終点に辿り着く。
カリエは丁度一メートルほど離れた後ろにいた。
視線はややうつむき気味で、ブリジットの左腕の先を見ていた。つまりはハンドガンを何となく視界に収めていたのだが、ちりちりとひりつくような感覚を首筋に覚えていた。
それは黒森峰の一車長として培われてきた天性の勘なのか。
神算鬼謀の策士として磨き抜いてきた観察眼がなせる技だったのか。
気がつけば、その腕を引いていた。
突然のカリエの動きにブリジットが驚いたように振り返る。
だが彼女のその行動は結果的には正解だった。
——何故なら。
「えっ?」
振り返った頭部にやや遅れて翻った黒髪の中を、何かが通過していく。
銃声は少し遅れてやってきた。
カリエは自身が招いた思わぬ結果に目を見開いて尻餅をついていた。
ただブリジットが瞬時に状況を理解して、カリエを抱きしめたまま再び通りに飛び込む。
「狙撃か!?」
胸元のポケットから手のひらサイズのコンパクトを取り出す。女性がよく化粧に使っている鏡だ。開閉ボタンが操作されれば、中からファンデーションとブラシが顔を覗かせていた。しかしながらそれらは無造作に石畳の上に打ち捨てられ、鏡だけが手の中に残されている。
そっと、通りの陰からコンパクトを差し出す。
カリエはまたもやその行動の意味を知っていた。
自分も過去に鏡を使って敵の死角から偵察を行った経験があるからだ。
「……200メートル先のアパートメント。三階、左から4つ目の窓。観測手いち。狙撃手いち。あれはワルサーか?」
言葉と同時、ブリジットがコンパクトを素早く引っ込めた。
すると先ほどまで手のひらが存在していた空間を弾丸が通過していき、石畳に風穴を開けて火花を散らした。
間違いなく彼女の小さな手を狙った一撃である。
「しかも手練れ。素人じゃない。マフィア崩れがまさかこんな腕の良い奴を揃えているのか?」
腑に落ちない、といった言葉を吐きながらもブリジットは動きを止めなかった。
背中に回されていたライフルの封印が解かれる。上着を除去されたそれは相変わらず黒く光り、いつでも人を殺すことができる獲物だった。
「アルファルドさん、こちらブリジットです。狙撃手を確認しました。合流ポイントのすぐ近くです。トリエラ辺りで排除することは可能ですか?」
通話状態のまま保たれていた携帯電話にブリジットが話しかける。
「? アルファルドさん?」
応答がない。そこで初めてブリジットは表情を強ばらせて見せた。本来ならば直ぐ近くにいるはずの協力者との通信が途絶えているのだ。
恐らく内心は穏やかなものではない。
「なんで、どうして?」
何度も携帯電話を操作するが状況は改善しない。
ブリジットに押さえ込まれながら、通りに突っ伏していたカリエは静かにその様子を見上げていた。彼女もまた言いようのない不安に駆られてはいるが、ここでパニックに陥ることが最悪手であることくらい判断することができた。
そして、そのある意味で剛胆ともとれる冷静さが功を奏する。
「あれ? ねえ、ブリジットさん、おと、聞こえない?」
初めてまともに名前を呼んだな、と今更ながらに思う。けれども今重要なことはそれではない。カリエは自身の五感が感じたものを正確に口にした。
「何か重たいものが近づいています。エリカのティーガーⅡが忍び足で近づいている感じに似ている。石畳が、地面がさっきから揺れているんです」
携帯電話の操作を諦めたブリジットがカリエを見下ろした。2,3秒の間彼女は無言を貫いていたが、直ぐにカリエの横に倒れ込み、耳を地面へと近づけた。
常人よりも遙かに鋭敏な聴覚がそれを確実に捉える。
「装甲車だ! 不味い、カリエさん、こちらへ!」
先に起き上がったブリジットに、カリエは腕を引かれる。
彼女は今来た通りを全力で遡っていた。
ただカリエも、ブリジットが考えていることが痛いくらいに共感しているだけに、必死にそれについていく。
それはそんな二人の逃避行が開始されてから僅か数十秒後に顔を覗かせた。
装甲車を思わせる、巨大な車輪が支える箱形の車体。
戦車を思わせる、回転式の禍々しい砲塔。
戦車道の世界を生きているカリエは一目見ただけでそれの正体を察する。
そして通りを走り抜けようとするブリジットの腰元に飛びついた。
今度はカリエが横っ飛びにブリジットを救う番だった。
通りの途中にあった裏路地へ転がり込む。
「か、カリエさん?」
「馬鹿! 耳を塞いで口を開け!」
直後、爆音が背後の空気を抉り取っていた。
続いて、本日二度目となる爆炎が世界を覆い尽くす。
「せ、戦車!?」
余りの音量に感覚器官を乱されたブリジットの声量は箍が外れていた。それはカリエも同じ事で、負けず劣らずの声量で言葉を返す。
「違う! チェンタウロだ! 世界大会の時、イタリア代表と試合したあとに特別に乗せて貰った! 105ミリ砲を搭載した装甲偵察車! ああ、でもあれはある意味で戦車かも!」
とにかく急げと、カリエはブリジットの手を引く。
普段、90ミリにも満たない口径で殴り合っているカリエからしてみれば、100ミリ越えはまさに異次元の威力を誇る主砲だった。それが生身の自分たちを狙っているなどまさしく悪夢である。
そんなカリエの焦りは正しくブリジットに伝わっていた。
彼女もまた、そんなMBTばりの高威力に敏感な人種である。むしろ命のやり取りを常にしている以上、カリエ以上に切羽詰まった様子で次の行動に移る。
「駄目だ! あの威力なら次は建物の壁ごとぶち抜いてくる! 砲弾の装填までまだ時間はある! こっちへ!」
逆にカリエを体の方へと引き寄せて、ブリジットは走った。
彼女が目指したのは路地裏にひっそりと設置されたマンホール。
「急げ急げ急げ急げ!」
呪詛のように言葉を紡ぎながらマンホールの取っ手を引っ掴む。成人男性一人では到底持ち上がりそうにない鋼鉄の蓋が鈍い音を立てて動く。
やがて人一人分の隙間が空いたその時、カリエを抱きかかえながら彼女はその中へ飛び込んだ。
何も見えない奈落の底ではあったが、躊躇するという選択肢は無かった。
二人の姿が通りから消えたまさにその瞬間、赤く輝く炎が通りを舐めていく。
マンホールに飛び込まなければ黒焦げの死体が二つ生まれていた程の熱量。
特大の殺意が成せる煉獄に、世界はまさしく焼かれていた。
01/
夢の中で眠れば、目が覚めると思っていた。
だがそれがまやかしであったことをカリエは直ぐに知ることになる。
「あ、気がつかれましたか」
心地よい揺れにカリエはいつの間にか眠っていたようだった。こうして誰かに背負われたのは、戦車の上で昼寝していた彼女をエリカが連れ帰ったとき以来だ。
世界大会決勝が終わったその直後、自身の車両の真上で昼寝をかました馬鹿がいたのだ。
ただ、いまこの状況はそんな脳天気なものではなかった。
何せ、周囲は薄暗いコンクリートの壁に覆われており、唯一の光源はブリジットが脇に挟み込んだペンライトが一つだけ。
足下の直ぐ脇には水が流れており、ここが下水道の類いであることを教えてくれた。
「えっと、お互い生きてます?」
カリエの言葉に彼女を背負っていたブリジットが応える。
「ええ、何とか。でも助かりました。普通の装甲車じゃないと直ぐに見抜いてくれたから、こうして直ぐに逃げ出して、二人とも生きています。さすがの私も、あの火砲にやられたら即死ですから」
笑えない賞賛だ、とカリエは苦笑を漏らす。
まさか戦車道の知識がこんな形で役に立つとは思いもよらなかった。
「ところで、悪い報せと良い報せがあるんですけれどどっちから聞きたいですか?」
何かの映画みたいな問いかけだった。
カリエは素直に「悪い報せから」と言葉を返していた。
ブリジットは歩みを進めながら口を開く。
「どうやらあなたを狙っていたのはマフィアなんていう可愛いものじゃないみたいです。何故だかはわかりませんが、軍の一師団があなたを狙っています。今この街はそいつらに封鎖されました。この下水もそう長くは潜伏できません」
どれだけ自分は夢の中で自身を追い詰めているのだ、とカリエは溜息を吐いた。さすがにスケールが大きすぎて困惑以上の感情が湧いてこなかった。
カリエの反応をどう受け取ったのか、ブリジットは少しばかり慌てながら「でも」と付け加える。
「もちろん良い報せもあるんですよ? 私の世界で一番頼れる相棒が、街に潜入することに成功しました。この街でのあなたの回収はほぼ不可能になりましたが、彼女がいれば脱出の可能性がぐっとあがります」
つまりはあれか、協力者が増えたということなのか。
だとしたらこんな下らない夢に付き合わせてしまう人間が一人増えることになる。今、自分を守り続けているブリジットという名の少女もまた、カリエの脳が生み出した空想の産物なのだから。
どれだけ鬱屈とした思いを心底に溜めていたのか、とカリエはもう一度溜息を吐きだしていた。
「——よし、ここからなら上に行けそうですね。一人で登れますか?」
丁重に背中から下ろされたカリエは黙って頷いていた。ブリジットはハンドガンに何処から取り出したのかストラップを素早く取り付けると、それを口に咥えて地上へと続く梯子に手を掛けていた。
そして持ち前の身軽さを活かしてするすると登っていき、マンホールの蓋を怪力でこじ開ける。次にハンドガンを手にすると、周囲を警戒しながら陽光の下へと姿をさらした。
カリエもその後に続く。
ブリジットに手を引かれて下水から這い上がってみれば、久しぶりの青空が視界一面に広がっていた。
「ああ、早くおうちに帰りたい。帰ってエリカのハンバーグを食べて、優花里さんと戦車ゲームで遊んで、ナナとキャッチボールをして、ダージリンさんが淹れてくれた紅茶をがぶ飲みして、ふかふかの布団で眠りたい」
ふと漏れ出していたのは早く日常に戻りたいという思いだった。
いくら夢とはいえ、もうそろそろ覚めていつもの毎日に戻りたかった。
相変わらず先を行こうとしていたブリジットが振り返り、大丈夫ですと笑う。
「必ずあなたは帰ることができます。絶対に守り抜きますから。私たちはそのためにここにきました」
随分と聞き慣れ始めた慰めの言葉だったが、カリエは何か引っかかるものをそこに感じた。
もともと頭の回転が姉のエリカばりに良い彼女である。
そろそろ自身が抱き続けてきた疑問が言葉として口をついてくる頃合いだった。
「……さっきから私のことを守る、守るって言ってますけれど、そこにあなたたちは何かメリットがあるんですか? 確か公社とか言いましたっけ?」
たとえこれが夢の世界であったとしても、カリエは今現在の状況を鵜呑みにはしていない。何かしらの組織犯罪に対する重要参考人として保護するとブリジットは説明していたが、それを全て信じるほどカリエは耄碌していない。
カリエの鋭い視線がブリジットを射貫く。
ブリジットは首だけ振り返らせたまま、「はあっ」と溜息を吐いた。
「うーん、やっぱり無茶がありますよね。その設定。普通、重要参考人一人に装甲車まで出てくる謂われはありませんし、何よりあなたはここに至るまでの記憶が不明瞭だったりしませんか?」
観念したのだろうか。ブリジットは気の抜けた表情で何度か黒髪の中を掻いた。取り敢えずは敵対心を持たれていないと、今度はカリエが安堵の息を吐き出す。
「確かにあなたは重要参考人でもなんでもありませんし、マフィアがあなたを追っているというのも正直言って嘘です。ですが、私たち公社があなたのことを全力で保護しようとしているのは事実です」
ならば、何故自分が正体不明の敵対組織に追われているのかは説明できないのか、とカリエは疑問を口にしていた。ブリジットは「困りましたね……」と眉尻を下げる。
「こればっかりは私には説明する権限がないんです。担当官から与えられた命令に、あなたへ開示しても良い情報が設定されています。つまり喋っても良いこと、駄目なことが明確に分けられているんですよね。で、あなたが追われている理由は私からは説明できません。本当に申し訳ないとは思うんですけれど——」
嘘を言っているようには見えなかった。
だからこそ、カリエは別の方面から質問を掘り下げていく。
「なら、ブリジットさんが度々口にしている公社や担当官ってなんですか? どんな組織でどんな人なんですか?」
回答を拒否されるのだろうか?
しばらくの間、ブリジットが口を噤んでいたものだからカリエはそう考えていた。
しかしながら、意外なことにブリジットは渋々ながらも口を開いた。ただ、言葉を選んでいるのか随分ゆっくりな、異常なまでに丁寧な鞭撻だった。
「公社は——正式名称を社会福祉公社といって、福祉機関を装った政府の秘密組織です。治安維持任務から諜報、暗殺などいわゆるブラックオプスを遂行する組織。そして私はそんな組織の備品かつ装備品なわけです」
サイバネティクスXA14-04――これば冗談でも何でもなく、本物の製造番号だと彼女は笑う。
「担当官はそんな装備品である私たちを監視し、運用するための人間です。私たちは担当官に愛情にも似た忠誠心を植え付けられている。ですから命令に逆らうことはあり得ませんし、担当官が殺せ、と言った人物を殺すようにつくられている」
ほら、とブリジットは自身の袖をまくった。そして白く輝く肌をカリエに見せつける。
「この中には炭素繊維で構成された人工骨と、最新のロボット及び生体工学によって開発された人工筋肉が詰まっています。こんな細い腕でも人の脊髄を砕き、殺す能力がある。だからリミッターたる担当官の存在が必要不可欠なわけです。私たちは担当官に嫌われたくないから、不必要に残酷にはならないし、殺さなくても良いときは殺さないように振る舞うことができるんです」
カリエは言葉が出なかった。あっけらかんと、自身のことを人殺しの道具だと言ってのけるブリジットに掛ける言葉が見つからなかった。
ブリジットもカリエの反応は予想通りだったのだろう。すぐに袖を戻すと、踵を返した。
「あなたは今、不安だと思います。どうして自分が追われているのか。どうして自分を保護しようとしているのか。その答えは私の担当官であるアルファルドさんが持っている。——私は彼のもとへ必ずあなたを五体無事で届けて見せます。信じられないかもしれないけれど、どうか信じて下さい」
逃避行が再び始まる。
結局の所、カリエの疑問は何も解らず仕舞いだった。ただ、ブリジットとの間に微妙な距離感が生じてしまっただけだ。
だがカリエは、今の言葉たちをブリジットの口から聞いたことは、決して間違いではないと自分に言い聞かせた。理由も動機も解らずとも、ブリジットは誠実に答えられることを答えてくれたのだ。
ならばカリエにできることは、そんなブリジットを信じて後ろをついて行くことだけだった。
非力で、足手纏いな彼女だったがしっかりとブリジットの後を追う。
ブリジットも気配を背中で感じ取っているのか、一々振り返ったりはしなかった。
太陽が天頂を過ぎ、時計の針が少しずつ進んでいる。
二人の歩む道が佳境にさしかかろうとしていた。
02/
トリエラは路地を一つ歩むにも、細心の注意を払って進んでいた。
日中なのに異様に人通りが少ないのは、軍が発表した戒厳令のせいなのだろうか。囁き声一つすら失われた街を孤独に歩んでいく。今は背中に吊した短剣と両腕に抱きかかえたウインチェスターだけが頼りだった。
「……GPSトレーサーが正しければ、この辺りの筈なんだけれど」
ウレタンのゴツゴツとしたバンパーで保護された情報端末を操作しながら、建物の角から通りを伺う。目的の人物がこの周辺まで辿り着いていることは確かではあったが、大声を上げて探すことが出来ない以上、黙して探し回ることしか出来ないのだ。
何せ、この街には優秀でどう猛な怪物が数頭ウロウロしているのだから。
「ん、ここだ。地図はここを指している。ヒルシャーさんやアルファルドさん曰く、十メートルは誤差がでる可能性があるから、この周辺の建物に潜んでいるのかな」
目標を指し示すGPSの青い点滅上に自身が立っていることを確認して、トリエラは周囲を見渡した。
上手いこと気配を隠しているのか、人影らしきものは見当たらない。ただ、こと猟犬としての性能に長けている彼女は、微妙な風の変化を見逃さなかった。
「うん? ここだけ風の流れが変だ。人の体温で暖められているのかな?」
数メートル先の石造りの建物の裏側から微弱な気配を読み取る。彼女はウィンチェスターの安全装置をそっと解除し、音を立てぬよう足を動かした。
そして、そんな彼女の読みは正しかったのか、微かに砂利のようなものを踏みしめる音を確かに聞き取った。
「ビンゴ」
ほぼほぼ保護対象がそこにいるのだろうが、万が一のことも考えてウィンチェスターを構えた。そして、一目散に駆け出し建物の裏に回り込む。ずい、と銃口を突き出せば腰を抜かした銀髪の少女が怯えた目でこちらを見ていた。
「ありゃ、ごめんね。驚かしちゃったか——」
殆どわざと威嚇したようなものだが、トリエラは形だけでも、と謝罪の言葉を口にしようとした。しかしながら言葉を吐ききるよりも先に、少女の目線が変化していることに気がつく。
いつのまにか怯えの色が、罠に掛かった獲物をみた狩人のそれに変化していたのだ。卑しくも自信に塗れた視線がトリエラを射貫いている。
「今だブリジット!」
口から出たのは「へっ?」という間抜けな声だった。ふと、視界の上端から紐が降ってくる。それがパラシュートを構成する頑丈極まりないパラコードのそれであることに気がつき、なおかつ首の目の前で皮膚に張り付いたのを見て、即座に思考を放棄していた。
すなわち、本能でコードに指を通し、直後に襲ってきた窒息に立ち向かったのである。
「わわわわっ、ストップ、ストップ! 私だブリジット!」
ぎり、と首を締め上げられ——丁度背負い投げのようにブリジットの背中に乗せられていたトリエラが悲鳴を上げた。自身より体格で勝る人間を絞め殺す技を教本通りに実行しようとしていたブリジットは、「あら」と悪びれもせずにパラコードから手を離した。
背中から滑り落ちて、尻餅をついたトリエラは涙目でブリジットを睨めつけた。
「殺す気!?」
「もちろん殺すつもりでした。待ち伏せによる襲撃を二回ほど食らったものだからこっちだって疑心暗鬼になってます。いらない悪ふざけをしたあなたが悪い。——カリエさん、大丈夫ですか?」
さらっと言ってのけるブリジットに、トリエラは毒気を抜かれたようにやれやれと溜息を吐いた。確かに二人の置かれた状況を考慮しなかった自分の落ち度だと、今度こそ謝罪を口にする。
「ごめんてば。でもこっちだってギリギリを攻めてきたんだから少しは労ってよ。見てこれ。銃弾が掠めてえぐれちゃった」
言って、トリエラは頬に貼り付けられていた白い絆創膏を指さした。血は止まっているのか色自体はそこまで汚れていない。
「血液凝固剤さまさまですね。まあ、取り敢えず、こんな戦場のど真ん中まで来てくれたことは感謝しています。あなたが来てくれたのなら文字通り百人力でしょう。ところでリコは? もう撤退したのですか?」
ブリジットの疑問にトリエラは「残念ながら」と答えた。
「あいつら——チェンタウロが出てきてから、固定の狙撃手は危険だって撤退命令がでたよ。その調子だと全体に流された無線連絡も伝わっていないんだね。この街一帯が、EMP妨害を受けてるから、シールドされた機器以外は全滅だよ。ほら、私もこれのGPSしか使えていない」
言って、先ほどまで操作していた情報端末を掲げてみせる。ブリジットも「やっぱり」と同じものを取り出して見せた。
「衛星電話も持たされたTNTを起爆するのに使ってから、全く使えなくなったんですよね。やっぱりそんなからくりが」
「それだけ向こうも本気って事だよ。この子を確保するのにさ」
ちらりとこちらを見下ろすトリエラの視線が哀れみや同情を含んだものであることにカリエは気がついた。もしかすると自分が追われている理由も、追ってきている者達の正体も知っているのだろうか、と淡い期待を抱いた。
だが所詮それは期待にしか過ぎず、しかも直後に打ち砕かれることになる。
いつのまにかトリエラとブリジットに呼ばれている少女も、ブリジットも動きを止めたまま、何処か遠くを凝視し始めたのだ。
「——不味いですね。チェンタウロが近づいてきています。早くここから逃げないと」
「狐狩りの要領だね。あいつら、少しずつこちらの捜索範囲を狭めてきているんだ。このままだと包囲される」
「ここから安全圏までどれくらいの距離が?」
ブリジットの言葉に、トリエラは即答した。
「2ブロック。あと2ブロック逃げ切ればこちらの勝ちだ」
ならば、とブリジットはそれまでずっと小脇に吊していたアサルトライフルを手に取った。駅から持ってきた真新しい弾倉を差し込んで、チャージングレバーを引く。
「もう一踏ん張りといったところでしょうか。さ、カリエさん。手を。あと少しだけこの逃避行に付き合って貰いますよ」
突き出された手をカリエは握り返す。不自然に白い手ではあったが、きちんと体温があって肉と血を感じることの出来る人間の手だった。
先ほど聞かされた、殺人サイボーグの手には思えなかった。
「ん? ちょっと待って。チェンタウロが止まってる……」
トリエラの言葉にブリジットの動きが一瞬だけ止まる。しかしながら直ぐに弾かれたように空を見上げた。
彼女の視力が、常人離れした視力がそれを見つける。
「——しまった。無人機だ。無人機がこちらを見ている」
トリエラの行動は早かった。ブリジットの側に立ち尽くしていたカリエをその場に思いっきり引き倒した。そして着ていたコートを広げながら盾になるように覆い被さった。
ブリジットは「やられた!」とそんなトリエラの上からさらにのし掛かる。
都合、二人分の肉の盾に守られたカリエが聞いたのは、世界がひっくり返るような轟音。
ブリジットかトリエラか、そのどちらかが「徹甲弾!」と叫んでいた。
そう、彼女たちは最初から狙われていたのだ。
無人機によって位置を捕捉され、遠距離からチェンタウロによって徹甲弾を撃ち込まれていたのだ。高速で飛来した砲弾は幾つかの建物を見事貫通し、彼女たちの頭上で炸裂していた。こうなれば、三人に為す術はない。
いつか感じた火炎の熱を頬に受けながら、カリエは周囲を見渡そうとする。
けれども体はちっとも言うことを利かず、気がつけばトリエラに首根っこを掴まれて引き摺られていた。
視界の端で誰かが倒れている。
肉の盾として、一番外側にいたブリジットだった。
彼女は身動き一つ取らないまま、地面に突っ伏している。
「トリエラさん! ブリジットが!」
「もう駄目だ! 右側が見当たらない! 即死だ!」
そんな馬鹿な! ともがこうにも、カリエ自身も深手を負っているのか多量の血を流していることに気がついた。トリエラに引き摺られた跡が、血の道となって石畳を汚していた。
「くそっ!」
息も絶え絶えにトリエラが建物の一つにカリエを引き摺り込む。彼女も負傷しているのか、ぽたぽたと地面に血だまりを作っていた。だがそんな己の状態を顧みないままに、カリエの体に取り付く。そして何とか彼女を治療しようと、着ていた焼け焦げたコートを引き裂いていった。
上半身を脱がされたカリエは夢を見ているみたいだ、と小さく笑う。
「はは、こんなに血が出てるのに全然痛くないんですね」
「喋らなくてもいい。大丈夫、必ず助けるから」
言葉では勇ましいことを告げていたが、トリエラの手は震えていた。処置を進めれば進めるほど、カリエの容体が絶望的であることを理解していく。
カリエもそんなトリエラの心境を見抜いているのか、「もういいですよ」と微笑んだ。
「まあ、今回の夢は割と頑張った方じゃないでしょうか。いっつも駅で開幕早々殺されていましたから」
「訳のわからないことを言う元気があるなら呼吸を整えて! 諦めるな!」
床に広がる血の面積が広がり続けている。カリエは焼け付くような喉で言葉を紡いだ。
「——本当に、あなたたちに出会えて良かった。あなたたちがこの夢にも先があることを教えてくれた。ただのつまらない繰り返す悪夢が、ちょっとばかり面白い冒険譚になっていた」
ふと、カリエの指先に何か硬い物が触れた。焼けるように全身が熱いのに、そこだけが嫌に冷たく感じた。視線だけを動かしてみれば、銀色の小さな拳銃が転がっていた。トリエラがコートを脱ぎ捨てたときに、どこからか零れ出たのだろう。
そういえば、とカリエは思い出す。
「——いつも脳天を吹き飛ばされて、朝を迎えていたんです。だから今回も」
手が銃を握り込んだ。使い方はブリジットから聞かされていた。スライドを引き、安全装置を外す。
トリエラは言い様もない悪寒を感じ、銃を慌てて取り上げようとした。だが、カリエの方が僅かばかり早かった。
「必ず次はみんなで助かって見せます。エリカに頼んで、チェンタウロの資料も取り寄せて貰います。だから、また明日、よろしくお願いします」
こめかみに銃口が触れる。
引き金が絞られる。
銃声と同時、カリエの意識はブラックアウトした。
03/
「あら、カリエさん。今日はお早いのね」
寝室から顔を覗かせていたのは、ルームメイトのダージリンだった。彼女が告げた通り、時計の針はまだ朝の5時を指している。
「——ええ。ちょっと調べ物がしたくて。エリカの所にいってきます」
外行きの服装に着替え、少し大きめのリュックサックを背負ったカリエは、靴紐を結び直しながら言葉を返した。
「まさか今から熊本に帰るの? 随分と性急ね。いくら横浜駅から新幹線に乗れば良いと言っても、それなりの道のりよ。大丈夫かしら?」
とんとん、とつま先で玄関先の床を叩きながらカリエは微笑む。
「まあ、新しい友達も出来たのでちょっと人助けのつもりで頑張ってみます。夜には帰ってきますから、あとはよろしくお願いします」
扉が開かれる。
まだ昇り切っていない早朝の太陽から漏れ出た赤紫の光が、カリエの顔を照らしていた。
ダージリンは「わかったわ」とカリエの下に歩み寄った。
「——今日のカリエさんは昨日までのあなたに比べて随分と顔色がよくて結構よ。夢見でも良かったのかしら?」
ダージリンの言葉にカリエはこう返した。
「いいえ、最悪でした。だからこそ、今日はもう少しマシな夢を見てみますよ」