エリカが日課にしていることがいくつかある。
まずはボクササイズ。自身の肉体の健康と体形の維持に欠かせない日課だ。意外と大食らいなところもある彼女はそれで理想の体形を維持し続けていた。
次に日誌。戦車道に関することを何でもメモする日誌だ。黒森峰に入学する前から続けており、日々の反省や明日への目標を綴っている。誰にも見せたことのない、いわゆるマル秘ノートだ。
そして最後に、
「カリエ、お握りできたわよ。明太子と昆布、鮭は塩多め。大きさはいつも通り。これでいい?」
「ありがとうエリカ。じゃあ今日はいつもより早いからいってくるね」
いつものタンカースジャケットではなく、黒を基調とした野球用ユニフォームに身を包んだカリエが台所に顔を覗かせる。
背中にはキャッチャープロテクターの入った大きなザック。
挨拶もそこそこに、草野球の練習に出かけたカリエを見送る。もともと中学生の時から顔を覗かせていたチームだったが、夏の戦車道が一段落してからはほぼ毎週、土日は練習に参加しているのだ。
「なんかスタメンになったからね」
と無表情でのたまうものだから、せめて昼食くらいとエリカがいつ頃からかおにぎりを持たせ始めた。つまりここ最近出来た新しい日課(週課)である。全部ペロリと食べて帰ってくることから、それなりには気に入ってくれてはいるのだろう。
「さて、私も小梅たちと出かけるか」
エリカもエリカでカリエの練習にあわせて予定を組んでいた。今日は小梅と学園艦内のショッピングモールを回る予定である。カリエの靴下の多くが穴あきになっているので、それを補充してやらなければならない。
「あ、エリカさーん」
待ち合わせ時刻丁度。小綺麗な身なりをした小梅が近づいて来たエリカに手を振る。エリカは小梅ほど身なりを整えているわけではなかったが、持ち前の器量の良さでパーカースタイルの野暮ったさをカバーしていた。
「私、新しいコスメみたいんですよね。エリカさんは?」
「靴下。あと戦車道関係の本」
「なんかいつも通りですねえ。靴下もどうせエリカさんのじゃなくてカリエさんのでしょう?」
苦笑しつつ足を進め始める小梅に並びながら、エリカはまあね、と気のない返答をしていた。
「野球の練習頑張りだしてから、消耗が激しいのよ。この前なんて泥だらけのまま床に転がっていたから、ひっぱたいてやったわ」
なんかその光景が目に浮かぶなあ、と小梅はクスクスと笑う。コスメティックを二人で眺めているときも、これカリエに買ってあげたけど三日で飽きて投げ出したやつだ、とエリカが言うものだから「筋金入りですね」と小梅に笑われた。
「——ねえ、エリカさん。もしこのあと時間があるならカリエさんの様子を見に行きませんか?」
小梅がそんなことを言ったのは、ショッピング終わりの昼食時だった。全国チェーンのファストフード店で期間限定のバーガーを食べていた二人だったが、徐に小梅が提案してきたのだった。
「どうしたの急に?」
まさかそんなことを言われると思っていなかったエリカがポテトを摘まみながら視線を向ける。小梅は「だって」と前置きしてから言葉を続けた。
「エリカさんと遊んでいたらカリエさんが普段何をしているのか気になってきたんです。それに私、カリエさんが野球をしているところ見たことないですし」
まあ確かに、とエリカは独りごちる。カリエが野球らしいことをしているのを見たのは、自分ですら昨年の夏、人吉のグラウンドでキャッチボールをしたとき以来だ。
「まあ私は別に構わないけれど、面白さの保証はできないわよ」
「友人の普段見られない姿を見るだけで十分面白いですよ」
というわけでそんなことになった。学園艦内で練習できるグラウンドなど一つしかないのなから、二人でバスに乗り込んでそこを目指す。時間にしておよそ十五分ほど。
自分たちにとって道だった世界は一コマの授業時間にも満たない時間で目の前にやってきていた。
「あ、あっちのグラウンドみたい。ここに練習チームの一覧が書いてある」
総合運動場の入り口近くの掲示板で確認し、練習球場へ足を運ぶ。思っていたよりも本格的な球場で、小さいながらも観客席がしっかりと備え付けられていた。
「あそこにたってるのがカリエね。なんか大人の選手に囲まれるとちっこいわね、あいつ」
自分だって同じ背丈のくせに、と小梅は突っ込みかけたが、わざわざ虎の尾を踏む必要はあるまいと口を紡ぐ。
でもエリカの言うとおり、頭一つ小さいカリエはチームの中でも目立っていた。ちなみに紅一点である。
「あいつスタメンに選ばれたとか言っていたけれど本当なのかしら」
カリエはエリカ達に気が付いていない。午後の練習が丁度始まったのか、各々自由にストレッチを繰り返していた。やがてチームの中でノックが始まったが、カリエはキャッチャー故か全く守備をする様子が見られない。グラウンド外で、早急の逸れたボールを黙々と拾い続けている。
「悪いわね。小梅、付き合わせちゃって」
「いえ、誘ったのは私ですよ」
これは別に面白くないのかもしれない、とベンチに腰掛けながらエリカが謝罪を口にする。
やっぱり帰ろうか。
そんな言葉が漏れかけたとき、急にカリエがホームベース後ろにしゃがみ込んだ。
誰かが「牽制と盗塁!」とダミ声で叫んでいる。
ぱーんっ、と投手の投げたボールがカリエのミットを打った。聞いたことのない音にエリカ達が目を剥く。続いて受けたボールを直ぐさまカリエが二塁に向かって投げる。
どこにそんな力が込められているのか、矢のような送球が二塁上の選手のグラブに収まった。
「二塁、カバー遅い! つぎもっと低く投げますから早くベースカバー!」
続いて戦車道でも数えるほどしか聞いたことのないカリエの怒声。いや、怒っているわけではない。ただプレーの事実と改善点を伝えているだけだった。
「うっす! 次お願いします!」
再び投手がカリエに剛速球を叩き込む。それを難なくキャッチしたカリエは先ほどよりもさらに最小限の動きで二塁に送球を放った。素人目に見ても、遙かに低弾道のそれは地面すれすれで二塁上の選手のグラブに叩き込まれる。
「おーけー! 次ファースト!」
送球を送る相手が変われども、カリエの動きは変わらない。必要最小限の動きで、1秒でも早くという意識を持ってボールを送り続けている。エリカと小梅は言葉を失っていた。
飄々暢気に振る舞い続けている妹が、親友が自分たちに見せたことのない姿に呑まれていた。
「ねえ、エリカさん」
「なに、小梅」
「格好いいですね」
「ええ」
やっと絞り出した言葉も極シンプルなもの。およそ普段の饒舌さを失った乏しい語彙のやり取りだけだった。
「——カリエさんに見つかる前に帰りますか?」
「そうね、そうしましょう」
再びカリエが休憩のために引っ込んだところで二人は観客席を立った。ついぞ最後までカリエがこちらに気が付くことはなかった。それもなんだか不思議な感じがして、帰りのバスで二人はほぼ無言だった。
「ねえ、エリカさん」
「なに、小梅」
「カリエさんに試合の観戦を誘われたら、私にも声かけて下さいね」
「ええ」
最後の会話はそれだった。時刻は夕方の六時。秋も深まってきた今では日が早くも沈みかけている。
赤い世界を一人であるくエリカは「帰ったらご飯つくらなきゃ」と誰に告げるでもない独り言を零していた。
「——ただいまー」
エリカ特製のハンバーグが焼き上がってきた頃、カリエが帰ってきた。泥だらけで蹴飛ばされた反省からか、球場の更衣室シャワーで汗を流すようになっていた彼女は、石けんの匂いを引き連れていつものドアを潜る。
「おかえりなさい。ご飯、もうできているわよ」
カリエが下ろしていく荷物をエリカが受け取っていく。その中には朝渡したおにぎりが詰め込まれた弁当箱があった。
朝よりも遙かに軽くなったそれが、ぼんやりしていたエリカの思考を現実に引き戻す。
「ねえ、カリエ」
「なにー?」
手洗いを台所で済ませているものぐさな妹に声を掛ける。エリカは数瞬、生唾を飲み込んだあと、こう言った。
「こんど、あんたの試合を見せてよ」
01/
その日の夜、エリカは布団の中で自分と妹の関係について考えていた。
産まれた時から常に一緒で、性格こそほぼ真反対だが根っこのところで繋がっている自負がある。けれども今日見た姿は、野球に打ち込み練習している姿は、どこか他人のようでいて、自分の知らない妹がそこにいた。
「——あいつ、あんな声出すんだ。野球だとああなんだ」
どうして妹が野球に惹かれたのかはわからない。
いや、正確には気が付いたときにはどっぷりだった気がする。試合を生で見たわけではないのに、プレーしたことがあるわけではないのに、戦車道に対してはあんなに警戒心を剥き出しにしていたのに、野球だけはいつのまにか昔からそうだったように、自然と楽しむ姿勢を見せていた。まるでそれが楽しいことを嫌というほど知っていたみたいに。
「中身も男の子なんだっけ。本当は。だからなのかな。でも、男の子だってみんながみんな野球が好きなわけじゃない」
両親からカリエは男の子の心を持っていることは聞かされている。一応カリエは性自認を女性としているが、根本の部分では男性の性別を抱えていることは家族ならばみんな気が付いていた。
「カリエってなんなんだろう。あの子は一体どこから来たんだろう」
考え出すと色々と止まらなくなる。何でも知っていると思っていた妹のことを、本当は何も知らないと知ってしまったから思考を止めることができなくなっていた。
「私、お姉ちゃんなのに」
きゅっと身を丸め、枕を抱きしめたエリカはついぞ満足に眠りにつけないまま、次の日の朝を迎えていた。
02/
次の日、眼が醒めたらカリエが消えていた。
否、書き置きはあった。どうやら熊本市内の運動公園へ、自主練のため向かったらしい。
いつもなら起きてくる時間帯になっても気配が感じられず、いてもたってもいられなくなったエリカはカリエの部屋を蹴破っていた。大学選抜チームとの試合のあと、いろいろと吹っ切れたカリエの部屋は男性のそれらしく様変わりしている。
戦車道の書籍が並んでいた本棚の隣には、予備のキャッチャーミットが並べられ、部屋のカレンダーは戦車道協会配布のものから、自分で購入した東京ラビッツの選手達のものへと様変わりしていた。
また自分の知らない妹を見付けてしまって、エリカは表情を歪めた。
「何を馬鹿なこと考えてるのエリカ。あの子はあの子でしょう。自惚れるな」
部屋をそっと閉め、エリカは家事を再開した。タンカースジャケットの代わりに洗濯するのは野球のユニフォーム。掃除機をかけたときに床から拾ったのは戦車同様の革鞄ではなくエナメル製のスポーツバッグ。
「————なんでよ」
エリカはリビングに飾られているある一枚の写真を見た。深紅の優勝旗を二人で持つ、昨年の全国大会のものだ。
写真の中の二人はこの瞬間が永遠に続くと思っているかのように、屈託のない笑みを浮かべている。
「本当、ありえない」
身支度は最小限だった。動きやすい普段着に着替えると、現金の入った財布、愛用の鞄だけもって家を飛び出していた。学園艦を退艦し、運動公園への道筋を調べ、一秒でも早くたどり着けるように道を走る。
昼過ぎ、ようやく公園に辿り着いたエリカは園内マップで素早く野球ができそうなところを確認。
向かい先を一つのグラウンドに定めた。
「馬鹿みたい馬鹿みたい、本当馬鹿みたいありえない」
自分の抱いている感情が理不尽なものであることは理解している。妹には妹の世界があることも理解している。それを否定する権利もコントロールする欲望ももつべきでないことは理解している。
「——でも、お姉ちゃんなんだもん」
人混みがあった。何故こんなグラウンドに人混みが、と少し離れた場所から様子を伺う。すると人混みの間に探し続けていた影を見付けた。間違えようのない自分と同じ顔。でも今は世界で一番よくわからない双子の妹の姿。
「あいつ……」
妹はキャッチャープロテクターを身につけていた。
あの子はタンカースジャケットが似合うのに。
妹は見知らぬ男とあり得ない近距離で会話を続けていた。
あの子に気安く触れて良いのは私だけなのに。
妹はあり得ない剛速球を放つ男の硬球を一心不乱に受け止めていた。
あの子を傷物にしたら殺してやるから。
時間にして10分もなかったように思う。けれども人生で一番長い10分間だった。
見たこともない妹の姿を見せつけられる10分間。いつのまにかエリカは涙ぐみ、その場で立ち尽くしている。
ぱーんっ。
最後の球を受け止めたミットがあり得ない音を発していた。チームメイトに様々な指示を出し、あらゆる機器を操作する手からして良い音ではなかった。
男のもとに妹が歩いて行く。
いかないで、と声を漏らしても妹の歩みは止まらない。
二人は余りにも近い距離で笑い合っていた。男が何か言う。何故かことの時だけは、こんなにも距離が離れているのに男がいった言葉がわかってしまった。
あっ。
その殺し文句は駄目だ。とエリカは絶望する。それは、その言葉は妹の世界を全て塗り替えかねない呪いの言葉。たかだか血の繋がりなんてなかったことにしてしまう呪詛だった。
妹が泣き笑う。妹が答えた。男の言葉はわかったのに、妹がなんと返したのかわからない。
でもエリカはもうその場に立っていることができなくなって、逃げるように自宅への道のりを戻っていった。
多分妹より先に帰宅できたのは、姉としての最後の意地だった。
03/
帰ってきた妹の手はパンパンに腫れていた。
どうしてそうなったのか問い詰める。嫌な女の自覚がある。馬鹿なことをしている嫌悪感がある。
「お別れを言ってきたんだよ」
言葉はそれだけ。でもその言葉を口にした瞬間、妹は「あーん、あーん」と泣き崩れた。声をあげ、情けなくしゃくり上げ、膝から崩れ落ちて泣き続けた。
エリカは妹を、カリエを静かに抱きしめた。
「——頑張ったね」
カリエは何も答えない。ただただ生まれたての赤子のように喚き続ける。
終わりの見えない慟哭にエリカはただただ寄り添った。
「大丈夫、大丈夫よ。私がお姉ちゃんだから、カリエは大丈夫。私がいつまでもいつまでも護ってあげる」
答えは見つからない。何を言ったらいいのかわからない。
何をしたら大丈夫なのか、もうわからない。
「大丈夫、大丈夫だから」
エリカもまた泣いた。カリエに負けないくらいの声量で「あーん、あーん」と泣き続けた。
04/
「じゃあエリカ、今日も練習行ってくる。午後からの戦車道の練習はちゃんと出るから」
多分あれは夢だったのだろう。握り立てのお握りを手渡しながら、エリカはそう思う。
カリエはあんな風に泣かないし、あんな風に自分に縋り付いたりはしない。
自分もあんな風に泣かないし、あんな風にカリエに縋り付いたりはしない。
だからあれは夢なのだ。誰がなんと言おうと夢であって現実ではないのだ。
「——帰ってくるときは連絡をいれなさい。心配になるから」
玄関から出て行く直前、エリカから発した言葉はありきたりなもの。
振り返ったカリエはいつも通りのはっきりとしない表情でこう答える。
「いってきます。お姉ちゃん」
こうして、またいつも通りの日常が始まる。
黒森峰の逸見姉妹の毎日が続いていく。
05/
結局の所、カリエが何なのかはわからない。
妹であることは間違いないが、何故野球が好きなのかはわからないし、何故男性なのかもわからない。
何より。
カリエがどんな世界を生きているのか、生きてきたのかはわからない。
でも、とエリカは空っぽの弁当箱を開ける。
水にさらし、それを洗う日課の中でカリエの存在を強く感じる。
「別に何だって良いわ。私はお姉ちゃんなんだから」
それは決して間違えようのないこと。
これから二人が生きていく限り続いていく、誰にも犯すことの出来ない不文律。
洗い物が終わる。明日のお握りのお米のセットが終わる。
振り返る。カリエがいる。
小さな寝息を立てて、胸が上下している。自分と同じ顔をして、声をして、自分と違う人生を歩んでいる。
「馬鹿ね、お風呂ぐらい入りなさいよ」
今日もまた、着替えもせずにソファーで惰眠を貪る阿呆に、優しい蹴りを叩き込む。
その日、二人は共に風呂に入り、同じ布団で寝た。
寝ぼけたカリエがダージリンの名前を呼んだものだから、日課のボクササイズで鍛えた拳を、一発脇腹に叩き込んでおいた。
随分とすっきりした、秋の夜長だった。
もう、夏の影は何一つ見えない。
次は島田愛里寿