ところでさ、とカオリが言葉を漏らしたのは熊本空港から市街地に向かう車の中だった。大手のレンタカー会社から国産セダンを調達し、カオリが運転する形で高速道路を進み続けていたときのことだ。
助手席でこの後に控える会談の資料を纏めていた辻はおそるおそる「何でしょう」と尋ねていた。
カオリはぼんやりとハンドルを握りながら、ぽつぽつと口を開いた。
「いや、勢いで君をここまで引っ張ってきてしまったけれど、よくよく考えたら大洗女子学園に廃校を伝達する人員として残しておくべきだったなー、と反省し始めているわけ。今日東京に帰ってから連絡してもまだ間に合うには間に合うけれど」
ああ、そのことか、と辻は安堵の息を吐いた。
あのカオリが少しばかり真面目に言葉を継げていくものだから、すわ何事かと肝を冷やしたのだ。
辻は決して空調が悪くて掻いたわけではない汗をハンカチで拭き取りながら「段取りはつけてきました」と報告を返す。
「信頼できる部下から書面で既に通達するよう手配しています。もし直談判等、直接顔を合わせたいのならば明日以降にスケジュールを確認すると付け加えて。ですから今頃はあちらもおよその事情について察し始めているかと」
そっか、それならいいんだとカオリは再び運転に集中力を傾けていった。
小規模とはいえ伝統ある一つの学校が廃校の危機に陥れたという現状に、彼女は一切の憂いも後ろめたさも感じていないようだった。
つくづく恐ろしい女だ、と辻は視線を外に移す。
空港から市街地に接続されている高速道路はそろそろ終点を迎えつつあった。
ここからは市内の幹線道路を通して、郊外にある西住邸を目指していくのだろう。
まだまだ熱を帯びた夏のとある日。
事態は確実に動き始めていた。
01
は? と声を上げたのは誰だったか。
しかしながら少なくとも、現状について理解が及んでいたのは角谷杏ただ一人だけだった。
普段ならば大洗女子学園の生徒たちが集うであろう体育館。
そこに設置されている黒板にはある書面が貼り付けてある。その隣に立つ杏はすっと息を吸い込み、全体に届き渡るような声量で口を開いた。
「……大洗女子学園の統廃合の撤回。その条件が変わった。これから開催される高校選抜と大学選抜の試合を勝ち抜くこと、それが新しい廃校撤回の条件らしい」
誰も咄嗟に言葉を紡ぐことが出来ていなかった。
その場にいたほぼ全員が困惑を抱えたままただ立ち尽くしている。それは、ここまで大洗女子を引っ張り続けてきた秋山優花里も同じだった。
だが現実はいつも非情で、そのことを痛感している杏は周囲の反応に答えることなく、書面の補足を加えていった。
「大洗を存続させるための特別予算が否決されてしまったのがそもそもの原因らしい。何でも、統廃合を計画していた文部科学省が統廃合の撤回を宣言しても、予算を管理する財務省が『一度決まったことだから』と拒否したそうだ。だから文部科学省のある一派が財務省に対して交渉を試みてくれた。それがさっき言った、選抜対選抜の試合での勝利だ」
まだ事態を飲み込めている者はいない。柚子と桃ですら口を半開きにしたままそのばに固まっていた。
杏はただ一人、淡々と言葉を重ねていく。
「世間に対するさらなるインパクトと、関係省庁を完璧に沈黙させる功績が大洗女子学園に必要らしい。私たちが戦う大学選抜チームは、来年日本で開催される世界大会への出場を控えている。そんなチームの技量を向上させることが出来るくらいの――それこそ戦って勝利するくらいの成果が私たちには求められているというわけ。まあ、ごちゃごちゃ説明はしているけれども、私たちが乗り越えなくてはならない壁はたった一つでシンプル。お国が用意してくる全日本選抜相手に勝て、というただそれだけだ」
しん、と体育館から一切の音が失われる。
大洗女子学園が直面している苦難を知らない、戦車道履修者以外の生徒達が発する無邪気な話し声が校舎の方角から聞こえてくるくらいだった。
沈黙はそれから十秒ほど続いた。
やはりこれくらいの反応はあり得るか、と杏が眉を潜めたその時、口を開いたのは一年生である澤梓だった。
「えと、高校選抜の一員としての私たちなんですよね? それってつまり、他校の皆さんの助力も得られると言うことですか? もしそうだとしたら、黒森峰相手に戦いを挑んだ決勝戦よりもまだ希望があるんじゃ……」
梓の言葉に同調を示したのはその場にいたほぼ全員だった。表情を変えることなかったのは、生徒会の面々と優花里だけだ。しかしながら、それくらい彼女の告げた言葉には説得力があった。
何せ自分たちが散々苦労してなんとか勝つことの出来た学校達が今度は味方になってくれるのである。
これほど心強いことなど中々ないだろう。
たとえ相手が全日本選抜だとしても、そこに希望を見いだすのは仕方のないことだった。
そんな、若干の弛緩した空気が流れる中、黒板の目の前に立つ杏がちらりと優花里を見た。彼女の視線は何か問いを投げかけるような、いや、何かしらの意思疎通を通わせようとするようなものだった。優花里はその視線をじっと見定め、やがて首を横に振った。
今は何も言わなくても大丈夫です。
声にこそ出さなかったが、優花里が杏に伝えたのはそのようなことだった。果たして彼女の真意は杏にきちんと伝わったらしく、杏が体育館に満ちた雰囲気に異を唱えることはなかった。
ただ、「もうひと頑張りする必要が出てきたから、みんなで一緒に頑張ろう!」と努めて明るく音頭を取ったくらいである。
それから先、柚子と桃から簡単な今後の予定が告げられて、大洗戦車道チームの面々は解散した。
学校統廃合の条件が変わってしまったことに関しては腑に落ちないものがもちろんあったが、自分たちならもう一戦くらい勝ち抜くことが出来るという自信もあった。何より、戦車に乗ることが出来なくても、その類い希なる戦術眼を有するカリエがこちらにいるのである。
自分たちが敬愛する秋山優花里と逸見カリエ。
二人の奇才と天才がいれば全日本選抜相手でもなんとかなるだろう。
この場にいた大多数の人間がそう考えていた。
02
「え? 全日本選抜と試合をするんですか?」
エキシビションを終えた翌日。
場所は大洗女子学園内に設けられた、戦車道履修者が使用することの出来る専用の会議室。
その会議室に備え付けられたテーブルの一つに座す人物がいる。まだまだ大洗女子学園の制服姿に違和感を隠し切れていない逸見カリエだった。
彼女は大会運営の報告書を黒森峰から持参したノートパソコンで作成していた。国内大手のハードウェアメーカーを隠すように、黒森峰の校章シールが貼られた立派な備品である。つまるところ、カリエは黒森峰からいろいろと勝手に持ち出していた。
そのうちの一つが戦車道履修時に与えられた公務用パソコンなのである。
何となくそんな事情を察した優花里は「ええと」と言葉を濁したが、同行していた杏は特に気にしたそぶりもなく「うん、そうなんだよ。参っちゃうよね〜」と笑っていた。
するすると相手の心の内側に入っていくことの出来る、杏なりの処世術である。
「しかもさ、逸見さんはもう知っているかもしれないけれど、前の全国大会、私たちってこの学校の廃校を賭けて戦っていたんだよ。で、その廃校撤回の条件が全日本選抜との試合で勝利することに変わっちゃったんだ」
事も無げに言葉を継げる杏だったが、優花里とカリエ、二人の人物はその動きを完全に止めていた。
特にカリエは目を見開いて、瞬きすら忘れてしまっている。
「え、なにそれ。どういうこと」
残念ながら杏の処世術は失敗した。いや、そもそも処世術の成功など最初から望んでいなかったのかもしれない。
もしかしたら心の何処かで、自分の代わりに事態に取り乱してくれる人物を探していたのかもしれなかった。
彼女だって、飄々とおちゃらけなければ心の均衡が保てなかっただろうから。
何より、これからのカリエのことを思えばその心の内側に入り込む勇気など持てなかったから。
しかしながら時間は確実に前に進んでいく。
カリエに大洗の現状を伝えなければと、優花里はいち早く硬直から抜け出して口を開いていた。まさか杏がこうも簡単にカリエに廃校の危機を伝えるとは思ってもいなかったので、どうしても上ずった声色になってはいたが。
「——会長が仰っている通りそのままです。わたくしたち大洗戦車道チームを中心に、各高校から選手を選抜して高校選抜チームを編成。そして全日本選抜チームと対戦し、勝利しなければこの学校は廃校になり消滅してしまいます」
優花里の補足に対してカリエは完全に言葉を失った。優花里と杏はそれが「折角転校してきた学校が再び廃校の危機になる」という事実に驚愕しているのだと思い込んでいるが、実情は全く違う。
カリエは一つ心当たりがあった。
こんな事になる予兆は以前から確かにあった。
「——そっか。あの人は知っていたんだ。ここがもう一度廃校にさせられることも、その撤回の条件も。だから私はここにきた……」
思わず口走られた言葉に優花里と杏は戸惑いを覚える。廃校の危機に驚かれ、嘆かれる事を予想していただけに、何かに合点がいったような、それでいてさらに深い絶望を覚えたようなカリエの反応は予想外も予想外だったのだ。
「なんて、こと。だめだ。もうダージリンさんの期待に応えられない。あの人は折角道を示してくれていたのに。私が黒森峰に戻る道も、大洗の人たちを救う道も示してくれていたのに。私はその道を進めない!」
ガン! と椅子が床に打ち付けられた。
激しく立ち上がったカリエは会議室内をうろうろと彷徨う。
「なんで、なんで、どうして乗れないんだ! こんな大事なときに! 全部解決できる道がそこにあるのに! みんながここまで私を引っ張ってきてくれたのに!」
落ち着いて! とまず杏がカリエに飛びついた。だが体格差が大きすぎて全く抑止力にならない。
杏とカリエの取っ組み合いを目の当たりにして、ようやく我に返った優花里が次に動いた。
正面から抱きすくめて、いや殆ど拘束するように抱き込めて、カリエは何とかその足を止めた。
ぐっと、後ろから杏が両腕を押さえなければそのまま自傷に走りそうな様相だったものだから優花里は気が気でなかった。
「逸見さん、ひょっとしてダージリンはあなたを黒森峰に復帰させるため、そして私たちの廃校問題を解決させるため、あなたをここに転校させたんだね」
背後から杏が問う。カリエはただ首を縦に振るだけ。
「そっか。合点がいったよ。確かに全日本選抜を相手取るには、秋山ちゃんだけだと大洗のブレーンが足りなさすぎる。そこでそんな弱点を埋めるためにダージリンは逸見さんを送り込んできたんだ。そして逸見さんからしてみれば黒森峰に復帰するいい足がかりになる。言わば一挙両得。一石で二羽を得る一手だ」
杏の理解が優花里にも伝播した。まさかそんなことが、と腕の中のカリエを見やる。
優花里の視線を受けたカリエは、もう一度首を縦に振った。
そして、「けれども」と前置きをしてこう告げた。
「今の私にはとても戦車を指揮することなんてできません。もしこうなることを知っていたらもっとしがみついてでも戦車に齧り付いていたのに。一度戦車を否定してしまったから触れることすら出来なくなってしまった」
彼女が零したのは己の心の弱さだった。
無理矢理にでも、自身の畏れを飲み込んでさえいれば戦車に乗ることが出来たのかもしれない、という後悔。
ここでなら、大洗ならば、自分が戦車を拒否しても生きていくことが出来ると考えていた身勝手な卑怯さ。
事態が進めば進むほど自己の醜さが浮き彫りになってきて、カリエは嫌気を覚え始めていた。
今まで誰もからも愛されていたからこそ、此度の排除劇に打ちのめされた。
黒森峰という、強大なバックボーンがあったからこそ、廃校という危機を直視できない。
姉という、エリカという守護者がいたからこそ、今の八方ふさがりに絶望する。
なんで、どうして、と声にならない声を漏らした。
うめき声のような苦悩はそれから数秒ほど続く。
そして一切合切言葉を発しなくなってからたっぷり二分ほど。
最後にぽつりと零したのは、間違いなくカリエの今の本心。
「どうして、私ばかりこんな目にあうんだ」
03/
会議だけでも参加させて欲しい、と懇願したのはなんとか落ち着きを取り戻したカリエだった。
廃校の報を受けて随分と取り乱した彼女だが、さすがと言うべきか何とか表面状の均衡だけはその後に取り戻して見せた。
ただでさえ戦車に乗ることが出来ないのだからせめて情報提供だけでも、と考えたのかもしれない。
杏と柚子に桃、そして優花里にカリエの五人が囲むテーブルの上には、現時点で判明している全日本選抜の資料が羅列されている。
そこに全日本選抜について、少しばかりの知識を有しているカリエが細かな情報を付け加えていた。
「全日本選抜は大学生を主体としたチームです。全国から選りすぐりの精鋭を掻き集めています。仕様車両はレギュレーションギリギリの、大戦後期に設計された車両が大半で、あのセンチュリオンも導入されています」
せんちゅりおん? と生徒会の面々が首を傾げたのを見て、優花里は「これを見てください」と手にしていたタブレットPCを操作した。
そこには簡単な性能表と優花里による私見が表示されている。
「イギリスが対戦後期に開発した傑作戦車です。装甲、火力、機動力、全ての値が高水準で纏められている言わば怪物です」
だが優花里の説明が簡素すぎたこともあり、三人はまだまだピンと来ていない様子を見せている。
優花里は「ええと」とカリエの方を覗き見た。何故ならこれから先、三人にわかりやすいようにセンチュリオンの性能を伝えるにはカリエが搭乗していた車両たちで例えるのがてっとり早いと感じたからだ。しかしながらカリエの心情を思う気持ちが寸前のところで優花里を踏みとどまらせている。
カリエもそのことに気がついたのだろう。
心配はいらないよ、と自ら口を開いた。
「私の乗っていたパンター並の装甲を持ち、エリカ——姉が乗っていたティーガーⅡ並の攻撃力を有し、ダージリンさんが乗っているチャーチル並の機動力と踏破性を持っているということです。残念ながら高校戦車道会において、この戦車に匹敵するだけの性能を持つ車両は存在していません」
ここにきて、三人ともようやく事態の深刻さを噛みしめ始めた。
技量面では高校生であるこちらが不利に立たされているということは自覚していたが、黒森峰やプラウダ、そしてグロリアーナと連合を組んでもなお車両の性能で不利に立たされるとは考えていなかったからだ。
高校戦車道会のスリートップが束になってもセンチュリオンを超える性能の戦車は用意できないという事実は間違いなく凶報だった。
しかも大洗にとって逆境となる事実はまだあった。
そのことをここにいる五人の中で一番よく理解している優花里が「大変申し訳ないんですけれども」と前置きを一つ置いてこう続けた。
悲報はこのタイミングで伝えきらなくてはならないという使命感が彼女を突き動かしている。
「全日本選抜を率いる隊長――島田亜里寿殿はわたくしのもう一人の戦車道の師匠です。ていうか、大洗の戦車戦術に関しては彼女からの教授が殆どです。そんな亜里寿殿の実力についてはもはや語るまでもありません。日本のアマチュア界では西住みほ殿と並んで間違いなく頂点にいる方。現時点における日本最強の戦車乗りといっても過言ではないでしょう。例えこちらが高校選抜として各校のベストメンバーを招集することが出来たとしても、厳しい戦いになることは明らかです」
厳しい戦い。
精一杯現実を濁した優花里なりの表現だ。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、勝ち目など殆ど残されていない試合である。
車両の性能で圧倒され、技量ではトップ層こそなんとか食らいついているものの絶望的に人員が不足している事実。
これで勝てると楽観視するなどどだい不可能である。
先ほど優花里と杏が交わしたアイコンタクトはこのような惨状に薄々気がついていた二人なりの気遣いの表れだったのだ。
「……しかもこの書面を確認する限りルールはフラッグ戦ではなく殲滅戦。つまり互いの車両、どちらかが全滅するまで続けられる試合形式です。間違いなく車両の性能差があとあとに響いてくるでしょう」
優花里に加えてカリエも絶望を提示する。この五人の中で一番戦車道経験が豊富な人物の言葉だけに、その重みは計り知れないものがあった。
フラッグ戦ならば奇襲と奇策を駆使すれば一抹の可能性くらいあっただろう。
そのわずかばかりの、存在するか存在しないのかあやふやな希望さえ粉砕されてしまった四人の心情は果てしなく重たいものとなっている。
「――はっきり言って勝ち目はゼロです。私から姉やみほ、そして小梅に助力を願い出てもこの戦力差は覆せません。ダージリンさんに頭を下げてグロリアーナの全面協力を取り付けても同じ。プラウダに願い請うてカチューシャ達の戦車群を揃えてもかわらない。……これが今の私から言える全てです」
カリエのその言葉を持って、即席の会議は終了した。
次の日程も、今後の調整も何も話し合われなかった。
時間が逼迫していたとか、他に議題があったわけではない。
ただこれ以上五人で顔を合わせ続けても先はないと薄々感づいていたからだ。
04/
正直言って、心身ともにボロボロだった。
黒森峰を追い出され、転校した先では戦車に乗ることが出来ず、さらにその学校が廃校の憂き目にあっている。
全てが全て悪い方向に向かっていると言って良い。
あらゆる人の悪意と、身近な人々の善意が重くのしかかってくる。
常時感じるプレッシャーの所為で吐き気は常在化しているし、負にまみれた感情はとことんこちらを追い詰めてくる。
もう全てを投げ出してただの女子高生としてふらふらと生きていくのもいいんじゃないか、とさえ思えてくる。
けれど。
けれども。
気がつけば優花里たちが整理してくれた本棚をひっくり返していた。
これまで集めてきたあらゆる教本と資料を引っ張り出し、自身の覚え書きすら床に並べていく。
そしてそれら全てを一度は開き、優花里たちに伝えなければならないと感じた項目は全て新品のノートに書き写していった。
ほんの些細な注意事項から、戦術の根幹に関わる大局的な視点まで、カリエがこれまでに培ってきた技術という技術を刻み込んでいく。
もう戦車には乗れないかもしれない。
もうこの道で戦えないかもしれない。
でも、とカリエは拳を握り込む。
ここから先の道が見えずとも、自らが歩いてきた道というものを否定する必要はないのではないか。
この先に足が進まなくとも、進もうとしている人間に自分が歩いてきた道を伝えることは出来るのではないか。
その思いだけでただひたすらにペンを走らせていく。
何かしらの大会で得た教訓を描き込めば、その瞬間、一刹那まで脳裏に鮮明に場面が蘇った。
姉やみほ、そして小梅から学んだことを記せば三人との思い出が思い出された。
ダージリンとの決闘での心境を振り返れば、今この瞬間でも乗り切れそうな気がしてきていた。
これまでの戦車道に携わってきた人生の全てが、一晩のうちにカリエの中を駆け巡っていく。
カリカリと、ペンだけが奏でる音が部屋に響く。
アクセントとなるのはページをめくる音と、一息ついた呼吸音のみ。
日付が変わって、月が沈んで、新聞配達のバイクが走り回って、朝日が再び上り詰めたその時。
カリエはようやく手を止めてふと横になってみせた。
使い切ってしまったボールペンたちと莫大な量の資料に囲まれながら天井を見上げる。
あれだけ心身がボロボロだったのに。
久しぶりの徹夜で体力なんて残っていないはずなのに。
何故だが久しぶりに、自然と笑みがこぼれていた。
05/
名家にもなると、来客用の茶ですらこんなにも旨いのだな、とカオリはくだらない感想を抱いていた。
彼女は今、古き良き日本屋敷の一室にいる。付き人として連れてきた辻はいつものように隣で脂汗をかいている。
和室でもしっかりと空調が効いているだけに、彼が流す汗の性質を思えば愉快さすら滲み出てきていた。
まあ、気持ちはわからないでもないけれど。
とん、と一口だけ口にした湯飲みを手放し、小さく息を吐く。
そして、対面に座す人物をちらりと見る。
島田流家元の島田千代が流麗な貴婦人だとしたら、こちらは堅牢な武人だった。
西住しほ。
つい最近、西住流の家元を襲名した西日本戦車道会の長。
その名声も実力も計り知れないまさに伝説的人物である。聞けば黒森峰の馬鹿げた連覇劇も、この人物が一端の指導者として学園に関わったことから始まったのだとか。
逸見カリエを取り巻くゴタゴタを紐解いて行くには、この人物への接触は必要不可欠。
しかしながら、さすがのカオリも「これは一筋縄ではいかない」と思考を高速に張り巡らせていた。
こちらが一物抱えているような印象を抱かせてしまえば、そこでこれから先の門戸は閉ざされてしまう為である。
島田千代のようにこちらの挑発に少しでも乗ってくれればやりようはあるのだが、西住しほという人間について考えたときそれは余りにも望み薄な目論見だった。
何せ、誰よりも「己」というものを見つめ続け、誰よりも「己」に克つことを至上としてきている人物なのだから。
カオリからの外的刺激など、まさに何処吹く風であることなど最初からわかりきっていることだった。
つまるところ、逸見カオリが相性的にもっとも苦手とする性格や資質を有しているのが西住しほという人物なのである。
あのカオリですら慎重に事を進めていかなければならないと警戒心を抱いているのだ。
だがその分見返りは大きいはずだとカオリはぐっ、と息を呑んだ。
「——家元も襲名されて大変お忙しい中、私どものような者の為にお時間を御都合して頂き本当に有り難うございます。此度は黒森峰女学園でのある動きについてご意見を承りたく参上いたしました。平にご容赦を」
カオリが深々と頭を下げたのと同時、辻も全く同じ動きをしていた。
ここまでは想定の範囲内だと、カオリは現状を分析する。そしてこのタイミングで会談が始まるのだ、と予想を立てた。
果たしてその読みは正しいものだった。
こちらに視線を寄越すしほが、眉一つ動かすことなくようやく口を開いたのである。
「話はみほ——いえ、娘から伺っています。どうやら戦車道履修者の一人が今回の準優勝の責を問われ罷免されたのだとか。その事に関して、黒森峰に在籍する複数の生徒の署名が書きつられた嘆願状が娘から届けられてもいます」
言って、どこからともなく封筒に収められた書状が取り出された。
決して薄くないそれは集まった署名の数を物語っている。
「……では西住家元は何かしらの抗議などのアクションを学園に起こされるのですか? それとも此度の決定は既に定まったものだと静観されるのでしょうか?」
カオリの疑問にしほは即答しなかった。
ただ机の上に置かれた封筒をそっと一撫でして、数秒ほど経過してから言葉を口にした。
「私は西住流の長である前に、様々な側面を抱えた人間であることを自覚しています。それは二人の娘の母親であったり、もしくは黒森峰という学び舎を後にした学徒の一人だったり。西住の長としては学園の決定に異論を挟むつもりはありません。これ以後の学園が勝利を積み上げていく度に件の一生徒が不要ならば排除すべきでしょう。何せ、勝たなくては意味がないのですから」
やはりこの人は武人だ、とカオリは直感した。
たとえ我が娘が糾弾の対象になったとしても、顔色一つ変えずにその運命を受け入れるだけの覚悟と芯を抱いているのである。
現代日本にこれほどの人物がまだ残されているとは、と驚きを感じずにはいられなかった。
何処までも公人として振る舞うことの出来る鉄の人が、西住しほという人間なのである。
けれどもカオリはそこで早合点をすることはない。
究極の公人として振る舞うことが出来たとしても、その心の奥底にある感情はそうとは限らないからだ。
しほの言葉に込められた別の意味を見逃さずに正確に汲み取っているカオリは、彼女の本当の考えを読み解いていく。
彼女は敢えて「様々な側面」を抱えていると前提を示した。
そして娘から手渡されたという嘆願状をこの会談の場に持ち込んでいる。
それが意味するところをここで問うべきかどうか迷いを感じたが「無粋だ」と囁く己の本心に従って、そこから先、何も疑問を投げかけることはなかった。
あとは事務的に、高校選抜と全日本選抜の試合が行われることを告げ、幾つか意見を請うたくらいである。
辻が何かを言いたそうにずっとカオリを横目で盗み見ていたが、カオリは敢えて無視を貫き淡々と会談の内容を前に進めていった。
やがて小一時間ほど経過したとき、西住しほのスケジュール的に時間切れとなり両者の意見交換はお開きとなったのである。
島田千代の時よりもさらに短い間隔で、二人は西住邸を後にすることになった。
まだ日も高い帰り道を、行きの時とは違い、辻の運転で辿っていく。
西住しほとの会談を終えて「疲れた」とカオリが嘯いたので運転を交代することになったのだ。
ドア部分に頬杖をつきながらカオリは背後に流れていく熊本市の市街地をぼんやりと眺めている。
「……勝利のためには致し方なし。だが一人の親として、一人の元学徒として面白くはないわけ、か」
ぽつりと零された呟きに辻は反応した。
「だからわざわざ嘆願状のことを私どもに見せつけられたわけですか。でも、——だとしたらわからないことが一つあります。西住しほという人物は黒森峰OGとしては最上級の格を有している方。どうして今回の責任追及劇に対してあそこまで超然とされているのでしょう? 勝利のためなら致し方なし、という言葉にはそれ以外は許されないという意味が込められている筈です。客観的に見て、今回の責任追及劇は全く理に叶っていない。後先の考えられない駄々っ子のような思惑が透けて見える。ならばそれは西住氏にとってもっとも唾棄すべき事態なのでは?」
辻の言葉にカオリは頷いた。頷いて、行きとは真逆の景色を見やりながらこう返した。
「——ならば、黒森峰のOGですら逆らえないような何かしらの権力の介入があって、西住家元とはいえ口出しが出来ない、ってところかな。つまりOGたちは積極的にカリエちゃんを追い出したかったのではなく、何か追い出さなければならない事情があったということになる。そしてそのことを知っている西住家元は苛立ちを覚えつつも現時点では静観を決め込んでいるわけだ」
ありえない、と辻は首を横に振った。
「だとしたら全く意味がわかりません。誤解を恐れずに言ってしまえば、あなたの姪さんにそこまで執着する価値などない筈です。だってたかだか高校生の、一選手に過ぎないはずだ。OG会ですら従わせることが出来るような権力がそんなミクロの視点で動くなど滑稽にも程があります」
だよねー、とカオリは気のない声を返した。
しかしながらその推論がもっとも現状を説明することが出来るとカオリは付け加える。
「本当、今回の事件は何から何まで不可解で意味不明だ。だからこそ我々はこんな回りくどい、搦め手のような手法で一つ一つ外堀を埋めて行くハメになっている。——もう今だからゲロっちゃうけれど、今回の選抜戦、私の発案であって私の発案じゃないから」
は? と間抜けな声が車内に響いた。
カオリは「だよね」と珍しく苦笑を漏らしながら続ける。
「カリエちゃんが決勝戦に敗れたその日には私の元に選抜戦開催の計画書が届けられていたんだよ。差出人は文部科学省のとあるお偉いさん。けれどもそのお偉いさんは判子を押して認可しただけで発案者ではなかった。発案者自体は「全日本戦車道発展運営委員会」とかいう怪しい委員会。実態について調べたけれど、所属の人間等々殆ど不明瞭。この世界では珍しくもなんともないペーパー委員会って奴だ。天下りや利権獲得のための書類だけの会だよ。けれどもそんな名前だけの委員会が実際に私の上司に働きかけて計画書を認可させている。不思議だよね」
意味がわからない、と辻は珍しく素の声色で漏らしていた。カオリも同じ心境なのかそれを咎めることなく「その通りだ」と相づちを打つ。
「もっと正確に言えば選抜戦を行う、という計画案だけ提示されていたんだ。もう君なら薄々わかっているかもしれないけれど、私がその計画案を乗っ取った形だ。まあ、でもその乗っ取りすら最初から織り込み済みだろうけどね。私がカリエちゃんをフォローするために計画を利用することが読まれていたわけだ」
ならあなたは素直にそれに従ったんですか、と辻が問う。
カオリは数拍ほど置いてからこう言葉を返した。
「……あの子のためなら誰かに引かれたレールを進むことくらい何てことないよ。例えそれが私を嵌める為の深淵の入り口であってもね」