黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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逸見カリエの戦車道 02

 当然とも言うべきか、その日の戦車道の授業をエリカは早退した。

 授業である以上、カリエ一人だけのために、全体休止をすることは出来なかったが、せめてもの処置としてエリカだけが早退届を提出して学校を飛び出していた。

 あとのことをみほと小梅に任せて、彼女は帰宅の道をただただ急ぎ続ける。 

 たまたま学内で出会った同級生から、カリエの目撃情報は得ていた。曰く、カリエはとっとと荷物を纏めて校門を出ていったらしい。

 エリカとカリエ、そしてみほの住むアパートに帰宅しているとは限らなかったが、一応の行き先としてエリカはそこを目指したのだ。

 電話連絡を繰り返してみても一切の応答がないのでエリカは端整な顔立ちに苛立ちを見せつつも、夏の帰り道をひた走った。

 ふと、歩行者信号に捕まったとき、自身の上がった息に混じって異音がしていることに気がついた。よく耳を澄ませて異音を辿ってみれば、それが携帯電話のバイブレーションの音だと思い至る。

 鞄を大慌てで漁ってみれば、小刻みな振動を繰り返す携帯電話がそこにはあった。

 一瞬、カリエからの連絡を期待して画面を確認するが、すぐに落胆の色に塗り替えられてしまう。

 何故なら液晶に刻まれた文字列は、仇敵にして天敵、そして怨敵である「ダージリン」の本名だったからだ。

 エリカは迷うことなくその着信を無視して、信号が変わった横断歩道を駆け抜けた。

 いつも朝方に寄り道するコンビニを素通りしながら、中にカリエがいないか目線で捜索を続ける。

 立ち読みの客が数人いるだけで、他には誰もいなかった。

 カリエがよくクレープを買い食いしている屋台にも、黒森峰の一般生徒が数人いるだけで、カリエの姿はなかった。

 地元の少年らと時たま野球に興じているグラウンドには人っ子一人いなかった。

 

 ならば自宅か。

 

 エリカは最後の交差点を走り過ぎ、アパートの階段を駆け上がった。

 汗の滴を振りまきながら、アパート二階の廊下をひた走る。

 彼女たちの住まいは階段から一番離れた角部屋だ。たった数メートルの距離すらまどろっこしいと言わんばかりに、エリカは最後の距離を跳んだ。

 ドアノブを引っつかむ。

 果たしてそれは回った。

 それはつまり、鍵が既に開けられていて中に誰かがいると言うこと。

 エリカは希望を胸にドアを開け放った。

 

「あら、随分とお早いご帰宅なのね。もう少し時間がかかると思っていたのだけれど」

 

 だが飛び込んできたのは絶望だった。

 否、今一番会いたくなかった世界で一番嫌いな人物がそこにいた。

 携帯電話を片手に、優雅に食卓に座すダージリンがそこにはいた。

 

「……住居不法侵入で警察に突き出す前に聞いてあげるわ。何故あんたがここにいるわけ?」

 

 開け放った扉を後ろ手で閉めながらエリカは静かに問うた。

 だがその表情は、カリエ捜索の空振り故か、ダージリンの落ち着き払った態度に相当きているのか、憤怒に彩られており爆発寸前の火山を思わせるようなものだった。

 ダージリンはそんなエリカの感情を真っ向から受け止めながら、泰然と答える。

 

「カリエさんに入れて貰ったのよ。あなたが帰宅するほんの三〇分前までここに二人でいたの」

 

 そう言って、ダージリンは食卓の上のティーカップを指差した。見ればカップはしっかりと二人分用意されており、まだ仄かに湯気が立ってすらいる。

 

「――話が見えないわ。説明しなさい」

 

 ダージリンがカリエのことについて言及したお陰か、やや調子を落ち着かせたエリカが対面に腰掛けた。

 そしてカリエが飲んでいたであろう紅茶の飲みさしをグッと傾ける。

 さも当然といった風にそう振る舞うエリカに対して、ダージリンは初めてその眉根を顰めて見せた。だがその生まれ持った律儀さ故かダージリンはエリカに対して口を開く。

 

「アパートの前であなたたちの帰宅を待っていたのよ。そしたら思いのほか早く帰ってきたカリエさんと鉢合わせしたの。たぶん一時間ほど前の事ね。で、あなたが大層心配しているだろうから私の方から連絡を入れさせて貰ったわ。結果は大いに空振りだけれど」

 

 じとっ、とこちらに向けられる視線を受けてエリカは思わずたじろいだ。ダージリンからの着信を無視したのは事実だったので、後ろめたさを全く感じないというわけにはいかなかったのだ。

 だがここで屈してしまうエリカではない。不倶戴天の敵と見定めたダージリンに対して弱みを見せるわけにはいかなかった。

 

「で、そのカリエは何処に出かけたのよ。見たところ靴もないし、外に出てるの?」

 

 ダージリンに対する苛立ちを何一つ隠そうとせずエリカは問い詰めた。結局の所、エリカの追い求めるものはカリエの所在ただ一つなのである。ダージリンもそれを理解しているのか、やれやれと嘆息を一つ吐いてぽつぽつと答えを紡いだ。

 

「カリエさんには大変申し訳ないけれど、もう一度学園に戻って貰ったわ。彼女には転校届を持ってきて貰う必要があったから」

 

 瞬間、エリカの手はダージリンの胸ぐらを掴んでいた。

 

 

01/

 

 

 そこでぶん殴ってしまわなかったのは、何だかんだ言ってエリカもダージリンの知能には一定の信頼を置いているからだった。

 何かしらの深謀を秘めた瞳を目にしたその時、エリカは握りしめたダージリンの胸ぐらを解放していた。

 

「……わざわざグロリアーナの学園艦からこちらに飛んできてまであんたが何をしようとしているのか全部吐きなさい。それなりの理由がなければ承知しないわよ」

 

 ダージリンはエリカの非礼を特に咎める事もなく、襟をきちんと整えてから回答を並べていった。

 その声音はダージリン自身も、己の考えを自分に言い聞かせているかのような、至極丁寧なものだった。

 

「恐らく今日、カリエさんは黒森峰の理事から戦車道罷免の通達を受けたはず。これはあなたたちのOG会と交流のあるとある方から仕入れたお話だから確かなことだわ」

 

 エリカは肯定も否定もしなかった。

 ただ続きを促す為、じっとダージリンの言葉に耳を傾ける。ダージリンもエリカからのリアクションが何もなくとも、淀みなく言葉を繋ぎ続けた。

 

「……単刀直入に言ってしまうわ。カリエさんに対する嫌がらせや報復はこれだけでは終わらない。あなたたちのOG会には今回の罷免劇で満足かつ納得している一派もいればそうでない一派もいる。たとえカリエさんが戦車道から身を引こうとも害を及ぼそうとしてくる勢力は少なからず存在している。そのやり方は考え出せば切りが無いほど。学園の生徒を焚き付けて攻撃する者もいれば、カリエさんが転科した科そのものに圧力を掛けてくる者もいるでしょう。こればっかりは覆りようのない事実よ」

 

 まさか、と鼻で笑う事は出来なかった。

 事実、敗北からほんの三日も経たないうちに、カリエは戦車道履修を罷免されてしまっている。

 エリカはここにきて初めて、自分たちを陥れようとしている勢力の執念深さに身震いをした。

 

「……仮にそうだとしても、理解できないことだらけだわ。確かに誤解を恐れずに言えば、今回の敗因はカリエにあると思う。けれどそれ以上に、カリエの功績で勝つことが出来た試合はそれ以上であることは疑いようのない事実よ。何がそこまであいつらを駆り立てているのか、私には全く理解できない。だってそうでしょう? カリエが罷免されたことだって理に適ってなさすぎる。彼女の戦車道の実力は早々切り捨てて良いものじゃないのよ」

 

 ようやく絞り出したその言葉はエリカの苦悩そのものだった。

 相手の意図が分からない。どうしてそこまで、黒森峰の上層部が自分たちに攻撃的なのか推し量ることが出来ない。贔屓目に見ても、自分たちは十分黒森峰の栄光に貢献してきた自信があった。それなのにたった一度の敗北でここまで追いつめてくる相手の心胆が不明瞭すぎるのだ。

 ダージリンは直ぐには応えなかった。

 彼女自身も、何処か言葉を選ぶような、それでいてエリカを気遣うような、そんな視線を寄越してようやっと応えた。

 

「それが恐らく人の感情と言うものよ。およそ理性だけでは推し量れない理が人の奥底には流れている。向こうだって理解しているわ。カリエさんを罷免することが黒森峰の戦力にどのような影響を及ぼすのか。――それでもやめられないものなのよ。幼稚な八つ当たりというものは」

 

 幼稚な八つ当たり、と口にしたあたりでダージリンは瞳を伏せていた。それは呆れの発露にも見える仕草だったが、エリカは全く別のものを感じ取った。

 何故なら彼女の纏う雰囲気に何やら肌がひりつく感覚を覚えたからである。言うなれば殺気にも似た何か。

 

「本当に、殺してやりたいくらい幼稚だわ」

 

 前言撤回。それは紛れもない殺気だった。

 ここに来てからずっと飄々とした人物を演じ続けてきただけにそのインパクトは凄まじい。

 だが、エリカはダージリンが初めてみせる凄みに、生唾を飲み込むのと同時、何処か安堵にも似た感情を抱いた。

 それはダージリンの怒りが、カリエの為に振るわれているという現実に対する安堵だ。

 世界で一番愛する妹が、自分以外の誰かに愛されているという現実が、疲弊を見せるエリカの心を何とか支えてくれる。

 そしてダージリンのそんな側面を見たお陰か、エリカは極自然に口を開くことが出来た。普段は決して見せることのない、ダージリンの知性に対する信頼を口にしたのである。

 

「それだけお冠なあんたが、わざわざここに来たと言うことは、何かしらの謀を用意してきたのでしょう? 話くらいなら聞いて上げるからとっとと吐き出しなさい」

 

 随分と上からの言葉ではあったが、ダージリンからすれば些事も良いことだった。彼女は纏っていた殺気を霧散させると、何処から引っ張ってきたのか手頃なサイズの白紙とペンを用意した。

 白魚のような細い指先がペンをつまみ上げ、インクを白紙に走らせていく。

 

「大まかな黒森峰の現状を整理してみるわ。あなたたちは十一連覇を逃してしまった。しかも新設の無名校相手に。そしてそれは黒森峰の上層部にとっては耐え難き屈辱に他ならない」

 

 理事会・OG会・外部の者たち と、書き込みが加えられる。

 

「彼らはその屈辱をどうにかするために、誰かに責任を取らせようとしている。自分たちの気を紛らわせるための生け贄が必要なのよ。もしくは、そうでもしないと自分たちの面子が立たないと考えているのかもしれないわね。そして腹立たしいことにその意見に賛同する人間がそれなりに存在してもいる。……普通ならば隊長の西住みほさんが血祭りに上げられるのでしょうけれど、彼女は幸か不孝か西住というネームバリューの庇護下にある。だから生け贄の対象からは外されているわ」

 

 言って、西住みほと書かれた文字列が赤い斜線を上書きされた。

 

「なら次に標的になるのは誰か。最早説明するまでもないわね。世間的に戦犯とされ、実際あなたたちの直接の敗因となってしまった、フラッグ車を担当していたカリエさんよ。ここまではあなたでも把握していることじゃないかしら」

 

 ダージリンのやや挑発的な視線をエリカは無視した。ただ、じっと続きを促すように視線を送る。ダージリンはダージリンで「それでこそあなたね」と何処か感心した風に言葉を続ける。

 

「――そしてとても嘆かわしいことに、生け贄の選定はなされ、その処断も済んでしまった。今からカリエさんの処遇を覆すことは到底不可能だし、反対運動を起こすのも不毛ですらある。何故ならカリエさん本人が、あなたたちの理事長に処分に関する一切を承諾してしまったそうだから」

 

 カリエが処分を受け入れた。

 その文言を受けてもエリカは驚くほど冷静だった。むしろ、あの馬鹿妹はそうするでしょうね、とため息を吐く余裕すらある。

 だが、それだけだ。

 たとえ余裕を抱いていたとしても、にじみ出る怒りばかりはどうしようもない。先ほどのダージリンにも勝るとも劣らない怒りを隠すこともなく、エリカはただそこに座していた。

 ダージリンは「その感情、好ましいわ」と小さく笑みを零していた。

 

「あの人らしいと言えばらしいのかしら。一身に全ての憎悪を引き受けて身を引くつもりみたい。そういう潔いところはとても愛おしいのだけれど、私としてはもっと別の結末を望むわ。これって私だけの身勝手な願いかしら」

 

 お前はどうなんだ、と問うてくるダージリンの視線をエリカは真っ向から受け止めた。

 

「まさか。例えカリエが現状に納得していたとしても、私は絶対にそれを受け入れないわ。いえ、受け入れてたまるものですか。首根っこをひっ捕まえてでも引きずり戻してみせる」

 

 エリカの答えはダージリンが予想した通りのものだった。彼女は笑みを少しばかり深める。

 

「私も同感よ。カリエさんは必ず返り咲かなければならない。あの人がこんな幕引きを受け入れて良いはずがないわ。でも、そのためには幾つかの舞台を整えなければならないの」

 

 そう言って、ダージリンはさらにペンを走らせて見せた。

 紙面に刻まれたのは「逸見カリエ」という流麗な文字列。

 

「……カリエさんは今、あらゆるヘイトを集めてしまっている。戦犯という汚名と一緒にね。だからそれをまずは払拭したいわ」

 

 周囲から向けられる悪意を示しているのだろう。青い矢印がカリエに集中するように追加された。

 

「そのためには何かしらの英雄的功績を立てる必要がある。黒森峰の上層部すら黙らせることが出来るような功績が。――そうね、世間から戦車道の英雄と認められればそれで十分でしょう」

 

「けど、その功績はもう黒森峰では打ち立てられないじゃない」

 

 エリカの言葉は苦渋と屈辱に満ちていた。カリエが黒森峰の戦車道から身を引くことを了承してしまっている以上、さらなる功績を打ち立てることは限りなく不可能なのだ。

 ダージリンも「そのことは重々承知よ」とエリカのフォローに回った。

 

「だから転校するのよ。カリエさんの力を今一番必要としている勢力にね。そこで華々しい功績を打ち立てて貰って、黒森峰に復帰する足がかりとするのよ。それこそ、全てのヘイトを押しのけるような強大な功績を」

  

 

 ようやく話が見えてきた、とエリカはダージリンの謀略の尻尾を掴んだ。けれどもまだまだ足りないピースが多いと苦言を漏らす。

 

「でもその華々しい功績やらは来年の全国大会まで存在し得ないわ。全国クラスの大会でなければ意味がない。地方の大会で無双したところで、うちのバカどもは見向きもしないでしょう」

 

 エリカの言葉にダージリンは頷きを返す。だが、その瞳は何処までも挑戦的で、自身の策の肝をようやく披露できる喜びに満ちていた。

 

「だからつくるのよ。その舞台を。功績を獲得できる大舞台を。ねえ、エリカさん。こんなシナリオは如何かしら」

 

 ダージリンはペンを置いた。そして真っ直ぐにエリカの翡翠色の瞳をのぞき込んだ。

 ダージリンの桜色の唇が、そっと言葉を紡ぐ。

 

「自分たちを打ち負かした優勝校を廃校の危機から救う。――これ以上の世間好みの英雄譚的なシナリオ、他にあって?」

 

 

02/

 

 

 さてどうしたものか、とカリエはアパートの前で立ち尽くしていた。西日で赤く猛っていた空は、いつの間にか藍色を通り越して黒く染まり、あれほど感じていた夏の熱気が涼やかな夜の風に入れ替わっている。

 ダージリンから言われるままに、黒森峰女学園の事務課に蜻蛉返りして一時間ほど。目的の書類は無事に手に入れていたが、その成果物をいざ自宅に持ち込まんとする寸前で立ち往生しているのだ。

 理由は言わずもがな。

 話し込んでいる姉とダージリンだ。

 

「――――」

 

「――――」

 

 随分と長いこと、二人は会話を続けている。心配していた怒鳴り声等はなく、それなりに理性的に議論は続けられているのだろう。

 十分ほど前にアパートにたどり着いていたカリエは、直ぐにエリカが帰ってきていることに気がついた。姿形を直接確認することがなくても、何となく気配で察することが出来るのは双子故になせる技なのだろうか。ただ、ダージリンと何かしらの応酬を繰り広げているエリカは、そっちに気を取られてカリエの接近に全く気がついていないようだが。

 

「……コンビニでもいこっかな」

 

 頭の上がらない二人のやりとりに割ってはいる気概が湧くはずもなく、カリエは立ち尽くしていた身体に回れ左を命じた。

 自宅近くのコンビニに向かって、軽食を買い、立ち読みをして時間を潰そうと考えたのだ。今は何も考えずに、ふらふらと動き回りたいという心情もあった。

 突然の引退勧告を受けたことも相まって、今のカリエは何処までも無気力に動き続けている。

 黒森峰に一度戻ったことだって、ダージリンに言われるままにしたことであり、そこまで何かを期待してのことでもなかった。

 ただ何となく、これ以上黒森峰にいられないことくらいはわかっていたので、ダージリンの申し出は少しばかり、「渡りに船だな」と考えていた。

 姉やみほ、そして小梅と離れるのは心残りではあるが、彼女たちの進退が人質に取られる可能性がある以上、既に諦めもついている。

 そういった負の思い切りの良さは、もしかしたら前世という重石を抱えたカリエならではの性質だったのかもしれなかった。

 だとしたら、そんな妹の首根っこをひっ掴んで、何処までも引っ張り回す気質をエリカが醸成したのは必然のことだったのかもしれない。

 

「……どこいくのよ」

 

 びくん、とカリエの肩が跳ねた。理由は言わずもがな。地獄の底から響いてくるかのような、エリカのドスの利いた声が彼女を呼び止めたからだ。

 アパートの扉から半身を乗り出したエリカがカリエをじっと見据えている。

 

「いや、その、アイスでも買いに行こうかな、と」

 

 突然のエリカの出現に、カリエの口をついたのは半分出任せの言い訳だった。コンビニに向かおうとしたことは事実だが、そこまで確固たる目的があった訳ではない。

 エリカの翡翠色の瞳が、カリエを捕まえ続ける。

 いい加減居心地の悪さを感じ始めたカリエの頬を、夏の暑さからくるものとは違った汗が流れた。

 

「――いいわ。ちょっとそこで待っていなさい。財布、取ってくるから」

 

 エリカは一度扉の内側に引っ込んで、中にいるのであろうダージリンに何か二、三言言葉を投げかける。そんな姉の行動に呆気にとられたカリエは、言葉を失ったまま、ただ姉を待った。

 

「さて、ちょっと散歩するわよ。つき合いなさい」

 

 小脇に愛用の財布を抱え込み、Tシャツにショートパンツの出で立ちに着替えた姉が部屋から出てきたのは、ちょうど三分後のことだった。

 

 

/03

 

 

「……あんた、黒森峰の戦車道から除名処分を受けてたわよ」

 

 白いLED照明の下、駐車場に面したガラス壁の前で、逸見姉妹は肩を並べて雑誌をめくっていた。エリカは主婦向けのレシピ雑誌を、カリエはプロ野球関連の雑誌だ。

 

「うん、知ってる。大会の負けた責任を取らされたみたい」

 

「理事長から直接言われたの?」

 

「そうだよ。でも、あの人も誰かから言わされている感じだった。うちの学校、ドラマやアニメに出てくるような影の組織みたいなのがあるのかな?」

 

 二人同時に雑誌のページをめくった。エリカはオムライスの作り方のページを、カリエはドラフト候補生の特集を見ている。

 

「そんな格好いいものじゃないわよ。うちが勝たないと損するような大人たちが、ただあんたに八つ当たりしているだけだわ」

 

 ぺらり、ぺらり、とページをめくる音だけが二人の周囲を満たす。天井の小さなスピーカーからは、この夏話題の新しいフレーバーのフライドチキンのコマーシャルと、今流行のアーティストのシングルCD発売の報が垂れ流しにされていた。

 夜中のワンオペレーションなのか、さっきまで商品の検品作業をしていた店員は退屈そうに一人でレジカウンターに立っている。

 

「そっか。ならしょうがないかな」

 

 目当ての記事を読み切ってしまったのか、カリエが雑誌を棚に戻した。そして一人、アイスケースの近くに足を向ける。すると、雑誌を手にしたままエリカがその後を追った。

 

「……まだ読んでていいよ」

 

「いえ、これ以上の立ち読みも意地汚いし買うわ」

 

 それから二人で無言のままアイスケースを物色した。エリカはバニラアイスを、カリエはショコラアイスを手にする。ダージリンにはエリカが紅茶フレーバーのアイスを選んだ。カリエが少しばかり微妙な顔をしたが、「あいつはこれでいいのよ」と言い切るエリカを見て、「ま、いっか」と深くは反対しなかった。

 

 ありがとうございましたー、と間延びする声を背中に受けながら、コンビニを後にする。二人が住んでいるのは、黒森峰学園艦の中でも随分と静かな地域で、日が落ちてしまえば人影は殆ど見あたらない。街灯と、月明かりで彩られた影を引き連れながら、二人はただ歩みを進める。

 

「ねえ」

 

 コンビニ袋が擦れる音だけだった世界を終わらせたのはエリカだった。

 カリエは何も言葉を返さなかったが、エリカは雰囲気で妹がこちらに耳を傾けていることを察した。だからそのまま言葉を続ける。

 

「あんた、何処かに転校しろって私たちから言われたらどうす――」

 

「いいよ」

 

 即答だった。自身の台詞を最後まで告げることが出来なかったエリカだったが、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。思わず足を止めてしまった姉に対して、カリエが怪訝そうに振り返る。

 

「? どうしたの? 別に転校くらいいいよ」

 

 何を当たり前のことを聞いてくるのだ? と言わんばかりの態度のカリエを見て、エリカは思わずその肩をひっ掴んでいた。

 

「あんた、そんな簡単に決めて本当にいいの? だってこの学園艦を出て行くことになるのよ? そんな大事なこと……」

 

 言葉は最後まで続けられなかった。何故ならエリカは見てしまった。「いいよ」と軽く答えて見せた妹の相貌が、濡れて光っているのを見たから。

 

 嗚呼。

 

 エリカは声にならない声を漏らす。状況に逼迫して、どうにかしなければとあがいて焦って、その理不尽に怒りを燃やし、この現状に悲しみを覚えていたのが自分だけではなかったことにようやく思い至る。

 双子だから。

 双子だからこそ。

 エリカとカリエ、その心中は実のところ同じものだったのだ。飄々と振る舞えているのは表面だけ。

 内実は何処までも荒れ狂う嵐のように混沌としている。

 

「……エリカ、ちょっとバイク出して」

 

 みほが引っ越してきてから、めっきり出番の減った大型バイクのことにカリエが言及した。去年まではそのバイクに二人乗りをして、学園艦を走り回っていたことを、エリカは思い出した。

 

「何処に行くの?」

 

 妹に問う。今度は即答ではなかった。

 たっぷり十数秒ほどおいて、カリエは口を開く。

 

「学校にいこう」

 

 

/04

 

 

 黒森峰戦車道の幹部クラスにだけ配られている、学校の裏門の鍵をカリエは使った。エリカは「理事長に返せと言われなかったの?」と呆れ顔で問いつめたが、カリエはけろっと「ガメた」と返す。彼女もそれ以上詮索するつもりはないのか、「餞別代わりに丁度いいかもね」とため息を吐くだけだった。

 

「こっち」

 

 珍しくカリエがエリカを先導する形だった。カリエは守衛所や防犯カメラを上手に避けながらとある場所を目指している。そういった機器の位置に詳しい妹の事を不審に思うエリカだったが、農産科が生産しているノンアルコール飲料やソーセージを持ち出しまくっているカリエの事を考えれば、妙に納得できる感じがして、怒る気力すら失せていた。

 

「よし、門が閉まってるから分かってはいたけれど、居残り組はいないみたい」

 

 二人がたどり着いたのは黒森峰戦車道のガレージだった。学園でも結構な敷地を占めているそこは、大会前になると平気で日をまたぐ頃合いまで誰かが居残り練習なり整備になりに精を出している。

 ガレージの勝手口にとりついて、カリエが鍵を操作する。一定以上の役職についている履修生ならば誰しもがもっている鍵だった。もう数え切れない程操作してきたお陰か、月明かりだけの暗闇でも、淀みなく鍵は開いた。

 

「ありゃりゃ、まだ直ってないのか」

 

 扉を開け放ち、ガレージの水銀灯を点灯させたカリエが見つけたのは手負いのパンターだった。修理が後回しにされているのか、最低限の煤落としなどの清掃だけされており、肝心な撃破痕はそのまま残されている。

 車体後部に回り込んだカリエは、黒ずんだ穴が穿たれた車体後部をそっと撫でていた。自分の運命を決定づけた、綺麗な傷だった。

 

「で、こんなところ連れてきてどういうつもりよ」

 

 ふと、声が上から降ってきた。見上げてみれば、パンターに並んで駐車されていたティーガーⅡの天蓋からエリカがこちらを見下ろしていた。カリエもいそいそと手負いのパンターによじ登る。

 姉妹、それぞれの愛車に乗っかって顔を見合わせた。 

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

 口を開いたのはまずはカリエから。彼女はパンターの天蓋に足を組んで腰掛け、エリカの方を真っ直ぐ見つめている。

 

「私、まだ戦車道に未練たらたらなのかもしれない」

 

 意外だ、とはエリカは思わなかった。何故ならエリカは知っているから。普段は泰然と、飄々としている妹がどれだけの気持ちを戦車道に込めているのか知っていたから。

 だからただ頷くだけで言葉は挟まなかった。

 ただ、妹の胸の内を静かに受け止め続ける。

 

「頭では何となくわかってるんだ。黒森峰の逸見カリエとしての自分はもう終わりだって。すっかり忘れていたけれど、ここはそんな環境だ。勝ち続けなければならなかった王者の世界だったんだよ」

 

 カリエの告げた通り、黒森峰女学園は文字通り常勝不敗の学校だ。常勝無敗ではない。不敗なのだ。

 負けが無いでは認識がまだまだ甘かった。

 負けてはいけない。不敗。負けないことに全力を注ぎ続ける学校だった。

 

「そりゃあ十一年も積み上げてきたものを、私の向こう見ずな采配でお釈迦にしたんだ。ある意味で上様の怒りはもっともだよ。今だって、どうしてあそこまで一騎打ちにこだわってしまったのか考えることもある」

 

 向こう見ずな采配、という言葉をエリカは敢えて否定しない。だがそれを咎めることもない。

 

「……でもあれはあれで良かったんだ。あれが今の私の全力だから。私の全てがあの一瞬に注がれていたから」

 

 ガレージにきて初めてカリエが瞳を伏せた。思わず腰を浮かしそうになるエリカだったが、拳をぐっと握って耐えた。まだ、妹の覚悟を、心を受け止め切れていないと踏みとどまる。

 

「でもさ、だからこそなのかな。悔しくて悔しくて仕方ないんだ。この責任追求の形が、あの一瞬に掛けた私を馬鹿にされている気がしてとても腹が立つ。そして――、とても悲しい」

 

 ぽたり、とパンターの天蓋が濡れた。

 

「だってあんなにも頑張ったんだよ? あんなにもみんなが頑張ってくれたんだ。それなのに、それなのに、どうしてこんな形で責められるの? まだ戦車道を続けたいのに、みんなと、――お姉ちゃんと続けたいのに」

 

 決勝戦後の号泣とは違っていた。声を荒げる訳でもなく、静寂に、淡々と、カリエは涙を流していた。

 渦巻く激情も、後悔も、怒りも悲しみも全てのキャパシティが決壊しているからこそ、ここで露わにしていい感情を完全に見失っていた。

 

「――ダージリンさんと話したんだ。これからどうするのか。もう、私は黒森峰にはいられない。黒森峰では戦車に乗れない。でもね、お姉ちゃんとはまだまだ戦車道をしたいんだ。だから出て行こうと決めた。黒森峰を出て、何処かでもう一度最初からやり直して、お姉ちゃんとまた肩を並べられるように頑張るよ」

 

 最後は泣き笑いだった。

 ぐちゃぐちゃと混ざり合う感情に戸惑うカリエの泣き笑いだった。ここにきて、ようやくエリカは腰を上げた。

 とん、とパンターの車体に飛び移ると、ぐすぐすと鼻を啜る妹を正面から抱きしめる。

 そして何か口を開こうとして、やめた。

 それは今の妹にはどんな言葉を送っても陳腐にしか聞こえないという懸念からくるものであり、一時間ほど前にダージリンと交わした約束の履行でもある。

 だからエリカはカリエを抱きしめながら、ガレージの天井を仰ぎ見た。そして小さく、本当に小さく呟く。

 

 恨むわよ、と。

 

 

 /05

 

 

 ダージリンがエリカに説明したのは、如何なる道筋でカリエを英雄として仕立て上げるかのストーリーだった。

 

「大洗女子学園。あなたたちを敗北へ導いた件の学校は、もうすぐ廃校になるわ」

 

 寝耳に水。

 しかしながらそれに驚いている時間も余裕もない。

 エリカはただ耳を傾ける。

 

「……あら、余り驚かないのね? ああ、今はカリエさんのことで頭が一杯だから、こんな話題は些事も些事なのかしら」

 

 無視。

 

「本当、カリエさんがいなければ私たち、とことん相容れないのかもしれないわね。まあ、いいわ。話を戻しましょう。もともとあの学校はね、此度の全国大会を制覇しなければ廃校になる予定だったの。でも神の気まぐれか、それとも悪魔の悪戯故か、その予定調和は反故にされてしまった」

 

 どういうことだ、と疑問が深まった。

 エリカの訝しげな表情を読みとったのだろう。ダージリンは首を横に振った。

 

「さあ? 詳しい理由まではわからないわ。でも問題なのはね、その廃校への既定路線が、まだ大洗女子学園には伝えられていないということよ。かの学校の誰もこのことはまだ知らされていない」

 

 何故そのことをダージリンが知っているのか、とエリカは疑問に思わない。彼女のそういった情報網の広さは信頼しているから。

 

「で、ここからが本題よ。戦車道と学園艦に関する一切を取り仕切っている文部科学省はね、どうやら迷っているみたいなの。廃校が既定路線とはいえ、仮にも優勝校。しかも王者黒森峰を打ち破って見せた期待のホープよ。そんな学校を廃校なんかにしてみれば、世間の支持は得られない。でも、廃校そのものを今更覆すことも出来ない。なんたって予算は有限。最初から存在しないものを今更用意するなんて余程の事がない限り不可能だわ」

 

 おそらく優勝すれば廃校撤回というのは、何かしらの口約束だったのだろうと、エリカは推測する。

 

「そんなわけで彼らは今、二つの派閥に分かれているわ。規定どおり廃校を押し進めて学園艦の統廃合事業を達成したいグループと、高校戦車道期待の新鋭である大洗女子学園を大々的に宣伝して、戦車道という競技の白熱と活性化を達成したいグループにね。で、後者のグループはまだ確定事項ではないけれど、一計を案じているの。ただ、この一計について説明する前に、一つだけあなたに話しておきたいことがある」

 

 ダージリンが紅茶のカップを傾ける。つられて、エリカも同じように喉を潤した。

 

「島田愛里寿という少女をご存じかしら? え、知らない? なら簡単に紹介するわ。彼女は西住流と並び立つ島田流唯一の後継者の娘よ。年齢的にはまだ中学生だけれども、特例措置で大学生の身分を持ち大学戦車道の選抜チームを率いている猛者ね。この選抜チームは現時点での実質日本代表チームであり、これから開催されるであろう世界大会に出場することも決まっている。ただ一つだけ問題があって、まだまだ競技人口的には発展途上である戦車道の選抜チームに並び立つチームなんてそうそう作れるものではないの。つまり、彼女たちは切磋琢磨するべきライバルチームを欠いていて、技能的な停滞に頭を悩ましている。……簡単に言ってしまえば試合する相手が少なくて実戦経験が積み上げられなくなっているのよ」

 

 だからどうした? とエリカは続きを促す。

 

「もう、せっかちね。ここからが私の考えの肝なんだから。いい? ここまでの戦車道を取り巻く状況をふまえた上で説明するわ。文部科学省が管轄する大学日本代表は対戦相手を欲しているの。そこで彼らは考えた。大学戦車道チームの対戦相手が不足しているなら、出来る限りその実力に近づいたチームを作ればいいと。で、白羽の矢が立ったのは私たちよ。黒森峰を中心に、高校生のドリームチームを作ることにしたの」

 

 でも、とエリカが口を挟む。その黒森峰を下したチームが出てきた今ではそのプランは難しくないか、と。世間が大洗女子学園の健闘に酔いしれている今、人々に支持され、熱狂を生み出すドリームチームにかの学園は必要だろうと。

 ダージリンはその通り、と頷いた。

 

「ここで話が全て繋がるのよ。さっきも話したけれど、文部科学省は二つのグループに分かれている。そのうちの一つである大洗女子学園の躍進を出しに、戦車道の興隆を目指す勢力が賭けに出たの。それはつまり、ドリームチームの核に大洗女子学園を据えて、大学選抜チームを打ち破る青写真。もし高校チームが大学チームを打ち破れば、世間はとんでもない盛り上がりを見せるわ。戦車道界の下克上として、語り継がれるでしょうね。もし高校チームが負けても、大学選抜チームの技量の向上が見込めるだろうから、それはそれで問題ないのね。

 ただ、この提案にもう一つのグループ、学園艦の統廃合を押し進めたいグループが乗っからなければ意味がないことくらいエリカさんなら理解できているでしょう? そのグループが統廃合を押し進めてしまえば、話の中心の大洗女子学園は物理的に消滅してしまうわ」

 

 エリカが話に割って入る。ようやくダージリンの策謀の全容が見えてきたと彼女の聡明な頭脳が結論を出していた。

 

「――ちらつかせるのね。大学選抜チームに高校選抜チームが万が一にも勝利することが出来るのなら、こんどこそ統廃合を見直すと。統廃合を押し進めるグループも、一度口約束をした手前、統廃合を強行することは難しい。だからもう一度、大洗女子学園に統廃合撤回の条件をちらつかせることで、仕切り直しをしようとしているんだわ」

 

「その通り。上手く考えられているわね。どちらのグループにも一定の利益が有るわけだから。

 ――統廃合グループは自分たちの失態を取り返す良い機会だし、戦車道興隆グループは世間にさらなる起爆剤を投入できるまたとないチャンスだもの」

 

 まったく、と困ったようにダージリンはため息を吐いた。だがその瞳は、口元は笑みを隠し切れていない。

 エリカはそんなダージリンの様子を頼もしく思う自分と、生理的嫌悪感を抱く自分に板挟みになりつつも、話を進めていく。 

 

「……あんた、この政治劇を利用するつもりね。カリエを大洗女子学園に送り込んで、大洗女子学園の逸見カリエとして大学選抜チームと戦わせる。そして勝利さえすれば世間はカリエを敗軍の将から、好敵手を救った英雄へと見方を変えるでしょうから」

 

「お見事。全く以てその通りだわ。最早カリエさんの黒森峰における責任追及は逃れられない。だからと言って座して待つわけにはいかないのだけれども、かの勢力と真っ向から争っても、カリエさん含めあなたたちが疲弊するだけよ。それは私としては出来れば避けたいことなの。だから搦め手でいくわ。向こうがカリエさんを追い出したいのなら、こっちから出て行けばいいのよ。そして外で手柄を立てて、それを手みやげに堂々と凱旋してやればいいわ」

 

 なるほどな、とエリカは天井を仰ぎ見た。

 確かに勝手に話を進めているダージリンに思うところはある。正直なところ、彼女の手を借りるなどまっぴらだし今もふつふつと反抗心だけは消し切れていない。

 だがエリカは思う。

 おそらくこれがカリエにとって最善なのだと。

 ダージリンのことは信用ならないが、カリエのことを第一に考えるダージリンの姿勢は信頼できるのだ。

 しかもあの策謀に長けたダージリンが考えに考え抜いて、使うことの出来る人脈をとことん使い倒したプランだ。これが駄目なら最早何も打つ手がないといっても良い。

 結局のところ、カリエの幸せを考えれば乗っかるしかないのだ。随分とスケールの大きい、カリエの復帰への道筋に。

 だが、一つだけ確認しなければならないことがある。

 

「――この話はどこまでカリエに伝えているの? 転校届けを取りに行かせたくらいだから、それなりにはちゃんと伝えているんでしょうね」

 

 エリカの懸念にダージリンは涼しい顔をして答えた。

 

「何も伝えていないわ。私はただカリエさんに「転校届けを取ってきてくださらない?」と言っただけよ」

 

 だめだ。

 やっぱりぶん殴ろう。

 エリカは席を立った。

 しかしながらダージリンは至極落ち着いた調子でエリカに言葉を投げかけた。

 

「あなたも詳しい話はカリエさんにしては駄目よ。言わばこの作戦は大洗女子学園を利用するものだから、カリエさんは必ず引け目を感じてしまうわ。そうなったら、あの人は転校そのものを拒否してしまうかもしれないから」

 

 ダージリンの言葉は正論だ。だがエリカは正論では動かない。ことカリエに関しては、理屈を優先しない。

 

「だからといって『はいそうですか』と言えると思ってんの? 人の妹を何だと思ってるの? 何も知らないあいつをあんたは自身の策謀の為に利用しようとしているの?」

 

 いよいよエリカはダージリンに詰め寄った。だがダージリンは一つもうろたえない。むしろ、ここにきて一番の凄みを込めた視線をエリカに送ったのだった。

 彼女もまた、カリエに対して並々ならぬ思いを抱いているのだから。

 

「カリエさんはカリエさんよ。確かに見方によればこれはカリエさんを嵌めたシナリオよ。あの人はそんな打算込みで大洗を助けたいとは考えない。自身の進退なんてどうでもいいから純粋に手助けするでしょうね。でも、そんな重みを背負い込めるほど余裕なんてないのよ。あなたはあの人が帰ってきて直ぐに涙を見せたことを知っているの?」

 

 ぐっと言葉に詰まったエリカに畳みかけるように、ダージリンは続けた。

 

「ここに来てすぐ、あの人は泣いたのよ。「まだ戦車道がしたい。エリカと戦いたい。みほと戦いたい。小梅と戦いたい」って。私はそんな彼女を見て、このシナリオを完遂することを決意したわ。多くの人を利用して、踏み台にしていくこのシナリオをね。でも、それくらいの覚悟がないと、もう前に進めないのよ。私も、あなたも、カリエさんも」

 

 ああ、そうか。とエリカは一人納得した。

 最初から残されている道は殆ど無かったことにようやく気がついていたのだ。

 いつの間にか埋められてしまった外堀を打破する手段なんて、手元には残されていない。

 唯一の光明はダージリンが用意した、大洗女子学園を踏み台に英雄に返り咲くシナリオだけだった。

 エリカはいよいよ覚悟を決める。

 カリエを栄光に帰り咲かせる為に、全てを利用することを。そのためにはカリエすら欺いてみせることを。

 恨まれても良い。あとから嫌われても良い。

 ただ、カリエがもう一度道を進めるのならそれで良い、と。

 

 だから絞り出すように、苦渋の決断を口にした。

 

「いいわ。あんたの考えに乗っかって上げる。そのかわり約束して。必ずカリエを幸せにすると。そのためには私をいくら使い潰してもいいわ。あの子がもう一度笑うことができるのなら、私はあの子を欺くし、あんたの真意も黙っているから」

 

「……ありがとう。あなたが協力してくれるなら百人力よ。必ず成功させてみせるわ。

 ――取り敢えずはカリエさんの転校手続きを迅速に進めましょう。大学選抜戦は早ければ八月の末日に執り行われるの。つまりはあと二週間。あちらの責任者には早急にこちらの事情を伝えるわ。おそらくノーとは言わないはず。なんたってカリエさんほどの助っ人はこの世界何処を探しても見つからないでしょうから」

 

「ん? ちょっとまって。そんなにも大学選抜戦まで時間がないの? だとしたらいくらカリエでも、自分が選抜戦のために大洗に送り込まれたことに気がつくわよ。そして、自身の復帰のシナリオの存在にも。そこんところはどう考えているのよ?」

 

 エリカの疑問に、ダージリンは初めて躊躇いの表情を見せた。それかカリエがいずれ目の当たりにするであろう苦悩を理解している故に。

 

「そう。それがこのシナリオの最大の欠点よ。正直、私たちの思惑を最後までカリエさんに隠し通すことは不可能だわ。聡明で利発な彼女のことだから、直ぐに自分が手柄を立てるために大洗に送り込まれたことを理解するでしょうね。でもそれはもう私たちにはどうしようもないことだわ。結局は彼女が自らの意志で前に進まなければ道は切り開けないから。例えそれが友人を利用するような道であっても」

 

 すぐにリアクションは返せなかった。激情に任せて突っかかることも、文句を言うことも出来なかった。

 ダージリンが零したように、最後はカリエが自分の足で進まなければならないことをエリカもわかっているからだ。

 

「……つまり私たちはカリエを谷に突き落とすわけね。どうあがいても後戻りの出来ない、受難と苦悩の谷に」

 

「遺憾ながらそういうことになるわ。例え選抜戦に勝利することが出来て、大洗女子学園を救い、黒森峰に凱旋したとしても、大洗女子学園を利用したという事実は消えないから。でも私は信じているの。あくまで凱旋は結果論であって、あの人ならそんなご褒美が無くともきっと大洗女子学園に手を貸す筈よ」

 

 ねえ、とダージリンは続けた。

 

「あなたも薄々考えているのでしょう? カリエさんがそのまま大洗女子学園に、どこか別のところで骨を埋めてしまっても良いって。あの人が戦車道を続けられるのなら、場所なんてどこでも良いって。私も同感なの。一応、黒森峰に復帰する道筋は用意しているけれども、あの人がそれを拒否しても私は失望しないわ。

 ――正直、今回のシナリオもいろいろと理屈を吐いてはいるけれど、あの人にもう一度チャンスを与えたいだけなの。全力で、全霊でもう一度戦車道に打ち込むチャンスを。だって、ここで戦車道をやめたらきっと後悔しか残らないだろうから」

 

 あくまで全ては結果論。

 あとはカリエの選択次第だとダージリンは語った。

 深い深い愛情に裏付けされた、彼女なりのカリエに対する献身がそこにはあった。

 

「本当に、あんたって馬鹿ね。たかだか一人の後悔のために、ここまで人間を使い潰すって異常そのものだわ」

 

「何とでもおっしゃい。それだけ愛しているのよ」

 

 はあ、とエリカは息を吐いた。そしてダージリンに詰め寄りかけていた足を動かし、彼女の眼前に立つ。何事か? と首を傾げるダージリンに対して、ぶっきらぼうに手を差し出した。

 

「でも本当の馬鹿者は私みたい。あんたのその無駄にスケールの大きい企みに賭けてみたい自分がいる。あの子が、カリエがもう一度やり直せるのなら、文字通り悪魔にだって魂を売ったげる」

 

 手をダージリンは握り返した。

 

「なら話は決まりね。やらなければならないことはまだまだたくさんあるわ。取り敢えずはあなたの方から、みほさんやその他の幹部の方々に根回しをして頂戴。私は来るその日に向けて、道筋を整えていくから」

 

「あんた、もしかしたら全てが終わったとき、カリエに恨まれるかもしれないわよ。私と一緒に」

 

 エリカの何気ない一言に、ダージリンは笑った。

 

「結構。それが内助の功というものよ。いくら恨み言を吐かれようとも、カリエさんが前に進めるのならそれでいいわ」

 

 

  


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